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厚木空

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(画像はwikipediaより転載)

 

酒井等飛曹長の略歴

 

 1941年10月、甲種予科練9期生として採用、1943年1月には飛練30期に進み、大分空で戦闘機の延長教育を受けた。同年11月から2ヶ月間、厚木空で零戦の搭乗訓練を受けた後、ラバウルに展開する253空に派遣された。その後204空に異動した後、内地に帰還、352空に配属された。

 

知られざる撃墜13機のエース

 

 酒井飛曹長は甲種予科練9期の出身である。甲種予科練とは搭乗員の不足が問題視されたために1937年5月に新設された制度でそれまでの予科練の応募資格が高等小学校卒または中学2年を修了した15歳から17歳までの男子であったのに対して、甲種は16歳から19歳までの中学校3年半以上修了であった。この制度の成立によってそれまでの予科練は乙種と呼ばれることとなった。

 甲種は、中学校で1年以上余計に勉強しているため予科練の訓練課程が乙種よりも短く、乙種が2年半であった教育期間は甲種では1年半であり、昇進も乙種に比べて早かった。しかし乙種の合格者の多くは中学校2年以上を修了しており、実質的な学力は同等であったことや「乙」という名称を与えられたこと、戦後の学歴認定でも不利があったこと等から甲乙間の対立の原因ともなった。

 この甲種はのちに大量の特攻要員を送り出すことになるのだが、酒井飛曹長が採用された甲種9期はのちの13期等に比べればまだまだ「少数精鋭」の時代であった。戦闘機専修の同期は81名(酒井飛曹長の記憶では60名)で半数が母艦航空隊、半数が基地航空隊に振り分けられたという。半数が母艦というのはかなり特異に感じられるが、1943年秋という時期は、い号作戦、ろ号作戦で多くの母艦搭乗員を失っており、母艦戦力の拡充が重要視されたのであろう。

 酒井飛曹長は基地組の組長として同期を統率、大分空で九六艦戦での延長教育を修了後、零戦搭乗の訓練を受けるために厚木空に配属された。この厚木空とはのちの302空とは異なる練習航空隊で1943年4月に編成、のちに203空となった部隊である。ここで2ヶ月間零戦の搭乗訓練を受けた酒井飛曹長は何とそのまま激戦地ラバウルに送られることとなった。

 酒井飛曹長が配属された部隊は253空で1942年9月以来ラバウルに展開するベテラン部隊である。酒井飛曹長が配属された1943年暮れという時期はラバウル航空戦も末期となり、海軍航空隊はほぼ防戦一方になっていた時期で、岩本徹三中尉、小町定飛曹長等が活躍していた時期でもある。

 このような激戦地に訓練を終えたばかりの酒井飛曹長以下10数名が着任するが、253空がラバウルからトラック島に後退、連日の空戦を続ける中で生き残った同期は酒井飛曹長含め、わずか4名となってしまった。しかしこの4名の内2名もその後の戦闘で戦死しており終戦を迎えることが出来たのは2名のみであった。この激戦地から生き残ることができた酒井飛曹長は253空と同じくトラック島に後退した204空に異動、さらに佐世保の352空付として内地に帰還した。

 352空とは1944年8月に編成された防空を主任務とする部隊で主に佐世保等の防空を管轄していた部隊であった。352空に配属された酒井飛曹長は本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。総撃墜数13機といわれている。

 

酒井等飛曹長の関係書籍

 

ああ”予科練”―甲種飛行予科練習生の記録

福本 和也 著
講談社 (1967/1/1)

 甲種予科練の記録で三部から成り、第一部が予科練の歴史、第二部が予科練の生活、第三部が甲種予科練出身者の手記である。この手記には甲飛2期から14期までの多彩な元搭乗員が寄稿している。ほとんど世間では知られていない撃墜王である酒井等氏が寄稿しているのも魅力。

 

まとめ

 

 甲飛9期の戦闘機専修者は81名(酒井等氏の記憶では60名)で終戦まで生き残った隊員はわずか21名であった(『海軍戦闘機隊史』より)。訓練終了時には戦局はすでに劣勢になっており、そのまま最前線に送られた隊員も多い。そのため1944年の一年間で戦死者60名中44名の隊員が戦死している。生き残った隊員の中には紫電改で編成された防空戦闘機隊343空に配属された隊員も多い。命がけで得た技術や経験が本土防空戦に必要とされたのだろう。

 

 

 


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(画像はwikipediaより転載)

 

高橋健一飛曹長の略歴

 

 1924年5月5日長野県に生まれる。1940年乙13期予科練入隊。1943年3月飛練26期を修了。名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属。9月末204空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月末204空がトラック島へ後退したため253空へ異動、引き続きラバウル航空戦に活躍した。2月中旬253空とともにトラックへ後退。1944年6月、潜水艦で本土へ帰還。7月には戦闘308飛行隊に配属。221空に編入され、10月には捷号作戦に参加。比島で連日の空戦に活躍した。1945年1月内地に帰還、筑波空の教員として終戦を迎えた。

 

地獄のラバウルから生還

 

 高橋健一は乙飛13期出身で同期の戦闘機専修者は49名で同期には柴山積善飛曹長がいる。終戦までに38名が戦死、11名が終戦を迎えることができた。死亡率71%である。高橋飛曹長は1940年6月に予科練に入隊、1942年4月に修了している。予科練は当初は3年間であったが、戦局の悪化から短縮され、高橋飛曹長の期では2年に短縮されていた。

 4月に予科練を修了、5月からは飛練26期に進んだ。このクラスは丙飛10期と合同で行われており、「トッカン兵曹」として有名な小高登貫上飛曹も共に訓練を受けていた。ここで基礎的な操縦を学んだ高橋飛曹長は、名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属、さらに数ヶ月後にはラバウルに展開する204空へと配属された。厚木空は1943年4月に開隊した艦隊搭乗員の錬成部隊なので当初は艦隊搭乗員として採用されていた可能性もある(前述の小高上飛曹も艦隊搭乗員として訓練を受けた後、202空に配属されている)。

 1943年9月末、「搭乗員の墓場」ラバウルに送り込まれ、連日の航空戦に活躍する。この時期のラバウル航空戦では日本軍はすでに守勢にまわっており少数の兵力で米軍の大兵力を相手にしていた。訓練を終えて間もない高橋二飛曹を含む乙飛13期の隊員たちはわずか3ヶ月で6名が戦死している。この中で高橋二飛曹は連日の航空戦に活躍した。12月17日には荻谷信男上飛曹の3番機として出撃、P39エアコブラ1機撃墜を報告したが、この日撃墜されたP39はない。

 1944年1月末には204空がトラック島に後退したため、高橋飛曹長は同じくラバウルに展開する253空に転入、2月中旬まで連日の空戦に参加したが、253空もトラック島に後退に伴い、高橋一飛曹もトラック島に後退した。6月19日の米機動部隊のサイパン攻撃に対抗するため253空も零戦隊をサイパンに向かわせた。この時、高橋一飛曹は指揮官岡本晴年少佐の2番機として参加するが、グアム島着陸寸前に敵機の攻撃を受けた。辛うじて着陸、生還した。

 生還した高橋一飛曹は陸攻でトラックに戻り、そこから潜水艦で内地に帰還した。7月、221空戦闘308飛行隊に配属、10月には捷号作戦参加のために比島に進出、連日の空戦に参加、1945年1月には内地に帰還して筑波空教員として終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれている。

 

高橋健一飛曹長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記2: 昭和18年8月-11月、ブイン防空戦と、前期ラバウル防空戦

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中2巻では1943年8月から11月までのラバウル航空戦を描く。

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 高橋飛曹長と同じ時期に同じ部隊で戦った小町定飛曹長へのインタビュー本で、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。小町氏はラバウル航空戦当時、若手搭乗員に分類される方であったが、部下からの人気は高く、列機の位置を巡って部下同士が喧嘩になったこともあったという人望のある人物で、この小町氏の経験と魅力を著者の川崎氏は上手に引き出すことに成功している。

 戦後のパイロットの自著や手記によって撃墜50機、60機撃墜等、多くの撃墜数を自称しているパイロットに関してほとんどは部隊の戦果を自分の戦果と混同してしまっているという指摘などは実際に戦った元搭乗員の指摘としては非常に説得的である。

 

まとめ

 

 高橋飛曹長は1924年生まれ、激戦のラバウルに派遣された時はまだ19歳であった。この時期にはすでに搭乗員が不足しており、高橋飛曹長ら訓練が終わったばかりの若年搭乗員すらも最前線のラバウルに投入される状態であった。このため乙13期の隊員はわずか半年の間に13名がラバウルで戦死している。その後も中部太平洋、ボルネオ島、比島と激戦地で戦い続け、1944年1年間の間にさらに20名の同期が戦死している。さらに沖縄航空戦、本土防空戦でも3名が戦死。その他戦死、事故死を含め、結局、終戦を迎えられたのは49名中11名のみであった。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 長野喜一は戦闘機搭乗員の操練最後の期である56期出身で総撃墜数は20機以上ともいわれる搭乗員である。開戦時にはまだ10代という非常に若いパイロットであったが、激烈なラバウル航空戦に参加、幾度も死線をくぐり抜けていった。戦争後期には台湾沖航空戦、比島航空戦に参加するが比島において空戦中に戦死する。

 

長野喜一の経歴

 

概要

 1922年静岡県生まれ。1939年6月海軍に入団。1941年7月56期操練を卒業。10月千歳空に配属され、開戦を迎えた。1942年6月2空に異動。内地帰還。8月ラバウルに進出。1943年7月厚木空、ついで203空戦闘304飛行隊に異動。1944年4月北千島に進出、防空任務に就く。捷号作戦、台湾沖航空戦、比島航空戦に活躍したが、11月6日バンバン上空で戦死。

 

操縦練習生とは

 長野が修了した操練56期とは冒頭にも書いたが戦闘機搭乗員最後の操練であり、以降の戦闘機搭乗員養成は予科練に統合される。ここで予科練について説明しておこう。予科練とは海軍飛行予科練習生の略称で1930年に成立した搭乗員養成課程であった。応募資格は高等小学校卒業程度の学力を有する14歳〜20歳までのむろん男性だ。

 当時の学制が分らないと予科練の制度は理解できない。当時は義務教育として尋常小学校があった。これは現在と同じで6歳から12歳まで教育を受ける。その後、進学する者は2年間の高等小学校、若しくは5年間の中等学校に通う。予科練は高等小学校卒業程度の学力が必要であった。 1937年に新たに旧制中学校4年生以上の者を対象に甲種予科練制度が発足する。これによりそれまでの予科練は乙種予科練となる。さらに1940年、海軍の部内選抜である操縦練習生も予科練に統合されて丙種予科練となる。因みにこの甲乙丙というのは学歴基準の序列であり乙、丙種予科練出身者にわだかまりを残すこととなった。

 

操練同期とラバウルの死闘

 長野喜一に戻ろう。長野は最後の操練56期を修了した。同期には台南空の撃墜王吉村啓作(12機撃墜)、河西春男(11機撃墜)、さらに水上機から陸上機に転科したエース、ジェロニモこと甲木清実(16機撃墜)、艦隊戦闘機隊のエース白浜芳次郎(11機撃墜)がいる。

 長野は操練終了後、千歳空に配属される。千歳空は内南洋防衛の陸攻、艦戦の混成部隊である。この方面ではほとんど戦闘は無く、哨戒と訓練に日々勤しんでいた。しかし、1942年1月にラバウル占領と共に千歳空派遣隊として一部がラバウル進出。さらに5月にも一部部隊がラバウルに派遣されている。

 長野はこれら2度にわたるラバウル派遣隊に参加することはなく、6月には、同年兵の山本留蔵とともに艦戦、艦爆の混成部隊である2空(のちの582空)隊員として内地に帰還する。しかしこの2空も2ヶ月後の8月にはラバウルに進出する。長野も2空搭乗員としてラバウル進出する。この2空の戦闘については同時期に2空に在籍した角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。1年に及ぶ激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。この間の撃墜数は582空一だったという。

 

厚木航空隊(203空)配属以降

1943年7月、1年振りに内地に帰還、厚木航空隊に配属される。厚木航空隊は、のちに首都防空のエース部隊として活躍するが、この時点では艦隊搭乗員の錬成部隊であったので、恐らく教員配置であろう。厚木航空隊は1944年2月20日に203空と改称される。203空は本隊と木更津の派遣隊に別れるが、長野は本隊に所属した。因みに木更津派遣隊は3月14日、302空に編入される。長野は203空隊員として北千島に進出。北方の防空任務に就いた。この時期、203空には、開戦以来、共に転勤をしてきた山本留蔵、さらには、当初、長野と同じ千歳空に所属していた西澤廣義飛曹長もいた。この時期、203空は戦闘303、304飛行隊の2個飛行隊に別れるが、長野が所属した戦闘304飛行隊の隊長はのちに343空で活躍する鴛渕孝大尉であった。

 長野はその後、203空と共に九州に移動するが、6月には北千島で開戦以来、同じ部隊で過ごしてきた同年兵の山本留蔵上飛曹が戦死している。九州に移動した長野は、10月には台湾沖航空戦に参加する。長野も戦闘304飛行隊隊員として九州出水基地から沖縄に進出。敵機動部隊攻撃に加わった。台湾沖航空戦ののち203空は、比島に展開。米機動部隊と熾烈な航空戦を展開する。長野も多くの空戦に参加するが、1944年11月6日バンバン上空で戦死する。

 

まとめ

 

 長野喜一は太平洋戦争の開戦をマーシャル諸島で迎える。それまでに実戦経験はない太平洋戦争で初めて実戦を経験した搭乗員である。開戦後、しらばくしてラバウルに送られ多くの激戦を生き抜いた。「死ななきゃ内地に帰れない」と言われれたラバウル航空戦を1年近くも戦い抜き生還したのだが、その長野も激戦のフィリピンで戦死する。当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員の最期であった。

 

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