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千歳空

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(画像はwikipediaより転載)

 

吉野俐少尉の略歴

 

 1918年2月21日千葉県に生まれる。1934年6月乙飛5期として採用される。1937年8月卒業後、1938年3月霞空での練習機課程(飛練)終了後、佐伯空で戦闘機専修教育を受ける。同年9月16日実戦部隊である大村空に配属、12空、蒼龍乗組となる。1940年10月千歳空配属で太平洋戦争開戦を迎えた。1942年2月4空に異動、ラバウル基地に進出、3月ラエ基地に進出した。4月台南空に異動。6月9日空戦中行方不明となり戦死と認定された。

 

初期のニューギニア航空戦に参加した吉野少尉

 

 吉野少尉は乙飛5期で同期の戦闘機専修者は17名で角田和男少尉、杉尾茂雄少尉、中瀬正幸少尉等著名な搭乗員が多い。太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を積み太平洋戦争開戦を迎えた最も脂の乗り切ったクラスである。同時に戦死も多く、太平洋戦争開戦1年で17名中9名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか4名という生存率23%のクラスであった。

 予科練を修了した吉野少尉は霞空で練習機課程を修了、その後佐伯空で戦闘機搭乗員としての専門教育を受ける。さらに実戦部隊でもある大村空において当時の新鋭機九六艦戦の訓練を受けた。2ヶ月程の訓練ののち、吉野少尉は同期の中瀬少尉と共に12空に配属(資料によって異なる。)、さらには母艦戦闘機隊員として蒼龍戦闘機隊を経て、1940年10月、新設された千歳空に配属。ここで太平洋戦争開戦を迎える。

 開戦数ヶ月は平穏な内南洋防空任務についていたが、1942年2月4空付きとなり、のちに「搭乗員の墓場」といわれる南東方面(ソロモン、ラバウル)に派遣された。3月にはラエ基地に進出、4月には台南空に編入された。台南空隊員としての初出撃は4月2日で6日には同方面で初撃墜を記録する。この空戦では吉野上飛曹は小隊長として参加、撃墜2機、2番機の丹二飛曹が撃墜1機を報告しているが、この空戦で実際に撃墜された機体は2機のみである。どちらが撃墜したのかは不明であるが、海軍航空隊の空戦方法から小隊長に戦果が集中するのが通常であるため2機は吉野飛曹長の戦果である可能性は高い。

 さらに4月11日にはガス・キッチンズ少尉の操縦するA-24を単独撃墜、その後もしばしば戦果を挙げるものの6月9日、クーラン・J・ジョーンズ少尉操縦のP-39によって撃墜された。総撃墜数は15機といわれている。戦後、連合軍の戦果報告書での損害を突き合わせた結果では、吉野少尉の台南空時代の戦果は3.4機となっている。このクーラン・J・ジョーンズ少尉はのちにエースとなり、戦後、台南空時代の吉野少尉の同僚である坂井三郎氏と会っている。

 

吉野俐少尉の関係書籍

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。吉野俐少尉と同期の角田氏による著作。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。吉野俐少尉の台南空時代の空戦の模様や最後の空戦についても言及されている。

 

まとめ

 

 吉野俐少尉は日中戦争で実戦経験を積んだ後、太平洋戦争に中堅搭乗員として参加。初期のニューギニア航空戦に参加した。若い搭乗員であったが、腕は非常に良く連合軍の戦闘行動報告書から調べられた撃墜戦果でも台南空屈指の戦果を挙げている。しかし6月9日、連合軍機の待ち伏せに散っていった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

志賀正美少尉の経歴

 

  1919年茨城県出身。1937年海軍に入隊後、整備兵となった。1940年6月50期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。1941年9月千歳空に配属。内南洋タロア島で開戦を迎える。その後マーシャル群島に移動。1943年7月201空隊員としてソロモン群島ブイン基地に進出した。1944年2月横空に異動。1944年6月には八幡空襲部隊として硫黄島に派遣される。1945年2月203空に異動、終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊、定年で退職した。

 

長期間にわたり南方で戦った男

 

 志賀少尉は操練50期、太平洋戦争開戦直前に訓練を修了したクラスでこの前後のクラスが開戦後、もっとも消耗したクラスといって良い。事実、操練50期は11名が戦闘機専修として卒業しているが、終戦まで生き残ったのは志賀少尉只一人である。同期にはラバウルの活躍で有名な石井静夫飛曹長、母艦戦闘機隊で活躍した山本一郎少尉がいる。

 志賀少尉は開戦時は千歳空所属として内南洋で防空任務に就いていた。この当時の千歳空には後に太平洋戦争のトップエースとなる西澤廣義一飛曹、予科練同期の福本繁夫一飛曹等、のちに活躍する搭乗員が多く在籍していた。こららの搭乗員が次々と南方に引き抜かれていく中で志賀少尉は千歳空、201空(1942年12月改称)隊員として防空任務に就いていたが、1943年2月内地に帰還する。7月には201空の南東方面進出が下令されたため志賀少尉を含め搭乗員52名は、7月15日にラバウルに進出する。

 さらに志賀少尉は最前線のブイン基地に進出する。ブイン基地とはラバウルとガダルカナル島の中間地点にある日本軍の最前線基地で同年4月にはブイン基地に現地視察に向かった山本五十六連合艦隊司令長官が戦死している。それまでは比較的平穏な内南洋で腕を撫していた志賀少尉は、この最前線基地で過酷なソロモン航空戦に活躍することとなる。

 1943年10月下旬には戦局の悪化のため201空はラバウルに後退、翌年2月まで連日の航空戦に活躍することとなる。1944年1月には201空はサイパン後退が命ぜられ、2月にはサイパンに進出するが、志賀少尉は海軍航空の殿堂と呼ばれる横須賀航空隊に異動する。横空は内地の部隊であったが、戦局の悪化はそれを許さず、6月には八幡空襲部隊を編成して硫黄島に進出する。

 この硫黄島進出に志賀少尉は坂井三郎少尉の2番機として参加、米機動部隊相手に劣勢ながら健闘している。特に7月4日の米機動部隊特攻攻撃では空戦中にカウリングが吹き飛んでしまうほどの過過酷な空戦をくぐり抜けて生還している。1945年2月には203空に異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 203空時代に同じ部隊に所属した阿部三郎中尉は落下傘を付けずに出撃する志賀少尉に驚愕している。それを志賀少尉に訊いたところ「撃墜されるようなへまをやるくらいなら、自爆しますよ。」とさりげなく答える姿に自信と決意を感じたという。現に八幡空襲部隊で米機動部隊に特攻攻撃を命ぜられた際、志賀少尉は顔色一つ変えなかったという。戦後は航空自衛官として定年まで活躍した。

 

志賀正美少尉関係書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。志賀少尉は坂井三郎中尉が硫黄島進出した際に列機として登場する。

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

 書名に著名な搭乗員、藤田怡与蔵少佐の名前があるが、中身は阿部氏自身についての記載が多い。阿部氏は戦争末期に戦闘303飛行隊にいたこともあり、トップエース岩本徹三についての記述がある。どうも岩本徹三に気に入られていたようで、いろいろ教えてもらったようだ。著者の経験も興味深いが岩本徹三の別の顔も見られて面白い。志賀少尉は「エース岩本少尉という男」の段に登場、上記のエピソードが掲載されている。

 

まとめ

 

 志賀少尉は操練50期中ただ一人の生き残りであった。経歴は非常に特徴的で太平洋戦争前半は内南洋でほとんど空戦をすることなく過ごしたが、中盤以降は突然、最前線のブイン基地に配属、半年以上熾烈なソロモン、ラバウル航空戦に活躍することとなる。その後も内地に帰還したものの八幡空襲部隊として少数機で米機動部隊と戦い、本土に帰っても最前線の九州で戦闘に参加し続けた。その実戦に裏打ちされた自信は落下傘を装着せずに出撃する姿に良く表れている。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

中谷芳市飛曹長の経歴

 

 1921年長崎県出身。海兵団に入団後、整備兵から航空兵となる。1940年11月丙飛2期として採用、1941年11月飛練12期を卒業後千歳空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。1942年8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に参加。12月201空に復帰してマーシャル群島防空任務に就く。1943年春に内地へ帰還の後、7月再びブインに進出、ソロモン航空戦に参加した。12月331空に転じてサバンに転進し、1944年3月202空、ついで221空に異動、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。

 

中谷飛曹長と丙飛2期

 

 中谷芳市飛曹長は丙飛2期出身で「搭乗員の墓場」と言われたソロモン航空戦に二度にわたり派遣されている。この丙飛2期というクラスは、開戦直前に訓練を終えたクラスで比較的余裕のあった日中戦争の空戦を経ることなしにいきなり精強な連合軍と戦うことになったクラスである。特にソロモン・ラバウル方面に派遣された隊員の戦死が非常に多く、開戦1年目の1942年には丙飛2期65名中17名の隊員が戦死しており、そのほとんどが同方面であった(ポートダーウィンで1名戦死、不明が3名以外14名は全て同方面)。

 開戦1年目というと戦争全般としてみれば米軍は守勢にまわって日本側が攻勢をかけることも多かったという戦争中期以降に比べると比較的余裕のあった時期であった。それもで26%の同期が戦死してしまったことからも新人搭乗員を取り巻く環境がどれだけ厳しかったのかが分かるだろう。さらにより戦闘が熾烈になる1943年に入るとさらに丙飛2期の戦死は多くなり、この一年間で23名の同期が戦死している。割合にすると35%で、この2年間で同期の内62%が戦死している。

 この熾烈な状況の中で2度にわたるラバウル派遣を生き残った中谷飛曹長は、1943年12月スマトラ島サバン基地に展開している331空に配属された。この部隊は開戦当初台南空で有名を馳せた新郷英城少佐が飛行隊長を務める部隊で他にも奇行で有名なベテラン赤松貞明少尉、操練出身の谷口正夫、岡野博等がいた。331空に配属された中谷飛曹長はビルマに進出、陸軍航空隊と共同でカルカッタ攻撃に参加した。

 1944年3月には331空は、戦闘603飛行隊に改編されたのち202空に編入され、手薄になった内南洋防衛のためにメレヨン島に進出した。その後221空に配属となり内地に帰還した。以降筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。総撃墜数は16機ともいわれるが実数は不明である。

 

まとめ

 

 中谷飛曹長は太平洋戦争を生き残った。同じく生き残った丙飛2期の同期は65名中わずか15名となっていた。この中にはソロモン航空戦で重傷を負った渡辺秀夫飛曹長、23機撃墜を表彰された伊藤清飛曹長、宮崎勇少尉等がいる。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

丹 幸久二飛曹の経歴

 

 出身年不明、1939年4月に甲飛4期に採用、1940年8月修了、同年9月より飛練9期、1941年9月に飛練修了して戦闘機搭乗員となる。その後の経歴は不明であるが、1942年2月に4空隊員としてラバウル方面に派遣され、同年4月1日、台南空に配属された。6日に吉野俐飛曹長の列機として2機を協同撃墜している。翌7日の空戦でエドワード・チュドバ操縦のA24バンシー爆撃機(SBDドーントレスの陸軍仕様)に撃墜された。陸攻隊に在籍していた小西良吉少尉の手記には20機程度の撃墜記録に達していたとある。

 

台南空の撃墜記録

 

 丹二飛曹の4空以前の所属部隊は不明であるが、この時期に4空から台南空に異動した搭乗員の経歴と同じだとすると、開戦時は千歳空に在籍していたことになる。千歳空は南洋のルオット島にあり、4空に一部の搭乗員が異動、それがラバウル方面に派遣されている。丹二飛曹がラバウル方面に派遣されたのは1942年2月なので活動期間は2ヶ月程度であるため「20機撃墜」の可能性は低い。

 判明している撃墜は2回で、併せて協同撃墜2機、連合軍側の撃墜認定の方法によれば1機撃墜ということになるが、当時の海軍戦闘機隊は小隊長機が第一撃をかけ、列機はそれを援護するというものであった。この2回の空戦時の小隊長は吉野俐飛曹長であった。吉野飛曹長は乙飛5期で日中戦争で実戦を経験した後、太平洋戦争で活躍した搭乗員である。これに対して丹二飛曹はほとんど実戦を経験していない状態であったであろう。このため丹二飛曹が撃墜した可能性もあるが、2機の撃墜も吉野俐飛曹長のものである可能性が高い。

 

丹 幸久二飛曹関係書籍

 

海軍陸上攻撃機隊―海軍中攻隊死闘の記録

高橋勝作他 著
今日の話題社 (1985/10/1)

 海軍陸上攻撃機搭乗員の手記を集めたもの。陸攻は機体の防弾装備が貧弱であったため戦闘機隊等に比べると搭乗員の生存率が非常に低かった。その中を生き残った搭乗員達の貴重な記録である。丹二飛曹のことは小西良吉少尉の手記に登場する。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 連合軍も日本軍も撃墜戦果が過大であったことが分かり、丹二飛曹の最後の空戦の状況も克明に描いている。

 

まとめ

 

 丹二飛曹は一部資料では撃墜20機とされている。しかしラバウル方面に派遣される以前に実戦を経験していないとすると(可能性は高い)、4月2日の空戦が初空戦となる。そうすると実戦に参加した期間は恐らく6日間で空戦回数は確認できる限りで3回なので20機撃墜は難しい。どのみち日本も連合軍も撃墜数は過大になりがちであるためあまり意味はない。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 撃墜19機のエースで活躍したのは半年足らずであった。乙飛9期出身であり、日中戦争は経験していない。太平洋戦争開戦時には弱冠20歳であった。

 

羽藤一志の経歴

 

1922年愛媛県に生まれる。1941年10月乙9期飛練を卒業して、1942年2月に南洋ルオット島の千歳空に配属される。同月4空に配属、ラバウルに進出後、4月には台南空に配属される。そこから数ヶ月間、連日の戦闘に参加するも1942年9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明となった。非常に温和な性格であった。

 

激闘ラバウル戦線

 羽藤は当初は千歳航空隊、第四航空隊、その後台南航空隊に配属された。予科練出身、終了後、千歳空、第四航空隊、台南航空隊という道は、奇しくも日本一の撃墜王といわれる西沢広義と同じコースである。初戦果は台南空で挙げた。台南空に配属された1942年4月には未だ台南空は笹井醇一、坂井三郎が健在であり、予科練の先輩西沢、太田敏夫等、名だたる搭乗員達が在籍していた。

 羽藤三飛曹は4月11日に米川正吉三飛曹と共同でドン・ブラウン軍曹操縦のP40キティホークを共同撃墜し初戦果を記録する。以降、多くの空戦で戦果を重ね、8月7日に米軍ガダルカナル島上陸、同日の空戦で坂井一飛曹が負傷して本土に送還、同月26日には笹井醇一中尉が戦死したのちも戦い続けるが、9月13日、ガダルカナル島強行偵察の二式陸偵の護衛零戦9機の内の1機として出撃、F4F28機と空戦状態になり撃墜された。

 日本側記録では9月に戦死するまで19機を撃墜したとされている。もちろん撃墜戦果は過大に報告される傾向があるため実際の撃墜数は不明であるが、戦史研究家の調査によると判明しているだけで羽藤三飛曹の撃墜数は協同撃墜合計2.81機であるという。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 岡野博は1921年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。

 

岡野博の経歴

 

概要

 1921年茨城県生まれる。1938年6月横須賀海兵団に入団。1941年5月54期操練卒業。横空配属。9月千歳空に配属で太平洋戦争開戦を迎える。1942年4月1空に転属。5月下旬、一時的にラバウルに展開中の台南空に派遣される。11月1空復帰。1942年12月201空に転属。マーシャル防空。1943年3月本土に帰還。松島基地で練成したのち、7月201空ブイン基地に前進、11月331空に転属。1944年3月、331空から202空戦闘603飛行隊に異動。ビアク作戦に参加。9月大村空。343空戦闘701飛行隊に配属されて終戦を迎えた。

 

横須賀航空隊

 岡野は1921年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、4か月ほどではあるが、横須賀航空隊に配属されたことだ。横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義、福本繁夫等が所属していた千歳空に所属していた。

 

ラバウル航空戦に参加

 西澤等千歳空の一部部隊は1月にラバウルに進出するが、岡野等千歳空主力は引き続きルオット島で哨戒、訓練の日々を過ごした。1942年4月、戦闘機隊が再設置された1空に異動となる。5月には1空増援部隊としてラバウルに展開する台南空に派遣される。台南空には1月に千歳空から派遣された西澤廣義等が所属しており、再び同じ部隊として行動をするようになった。11月、戦力を消耗しつくした台南空が本土に帰還するのと同時に岡野は752空と改称された1空に復帰するが、12月には201空と改称された千歳空に再び異動してマーシャル諸島防衛に当たる。1943年3月、201空は本土に帰還する。

 

二度目のラバウル航空戦

 岡野も201空隊員として約1年半振りに内地に帰還した。数ヶ月の錬成を終えた後、7月には201空は南東方面のブイン基地に進出することとなる。ブイン基地とはラバウル基地よりもさらに最前線に位置する基地である。岡野としては二度目のラバウル航空戦であったが、戦争初期のラバウルよりも遥かに激烈な戦闘が繰り広げられていた。5ヶ月間に及ぶラバウル航空戦に生き残った岡野は、11月、南西方面に展開する331空に配属されたのち、1944年3月には同じ南西方面に展開する、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。

 

内地帰還。紫電改部隊、そして終戦

 1944年9月内地帰還。大村空での教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。

 

まとめ

 

 横須賀航空隊とは海軍航空の殿堂と呼ばれた部隊で終戦まで高い練度を維持した部隊だ。その部隊に新隊員で派遣されたのだから相当期待されていたのだろう。その後、搭乗員の墓場と呼ばれるラバウルに派遣され生還するが、岡野は再度派遣される。その「地獄の航空戦」も生き抜き有名な「剣部隊」343空で終戦を迎える。著名な部隊を転々とした華々しい経歴であるが、多くの死線をくぐり抜けてきた実力派である。

 

 

荻谷信男
(画像はwikipediaより転載)

 

 荻谷信男は48期操縦練習生出身で生涯に撃墜した敵機は24機と言われている。当時、海軍航空隊内部でも坂井三郎や岩本徹三という名は知れ渡っていたという。しかし、逆に荻谷は当時ほとんど部内でも知られることがなかった搭乗員であったようだ。それは初空戦が1943年暮れというかなり遅い時期だったことも理由であろう。初空戦後は、円熟の技量で戦果を挙げたが、残念ながら昭和19年2月には未帰還となってしまった。

 

萩谷信男の経歴

 

 1918年茨城県生まれ。1938年海軍に入隊。1940年1月48期操練を卒業。千歳空に配属されルオット島で開戦を迎えた。その後281空に異動。北千島に進出する。1943年11月281空派遣隊としてラバウルに進出、204空所属となる。1944年1月末253空に異動。2月13日未帰還となる。

 荻谷は1918年生まれ、操練48期を修了した後、千歳航空隊に配属される。荻谷が配属された千歳航空隊には後にトップエースとなる西沢広義、ラバウルの撃墜王福本繁夫等が配属されていたが千歳航空隊はこんなもんじゃない。さらに輪島由雄(11機撃墜)、阿武富太(10機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、山本留蔵(11機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、渡辺秀夫(16機撃墜)、志賀正美(15機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、長野喜一(18機撃墜)等が配属されているという何だかんだで凄い部隊なのである。

 千歳航空隊はマーシャル諸島の防空任務ののち一部の隊員は、トラック島、ラバウルに展開し、後に搭乗員は台南空に編入され熾烈なラバウル航空戦に加わることになる。のち201空と呼称される千歳空本隊も1943年7月にはラバウル方面へ進出する。荻谷は違う。北千島に展開する281空に配属される。この281空、何故か岩本徹三がいるのだ。

 北千島で岩本達と鮭の捕獲をしたりして盛り上がっていたが、281空にも、とうとうラバウル進出の命が下る。1943年11月、春田虎二郎中尉以下、岩本徹三、萩谷信男等16機がラバウルに進出。荻谷達281空搭乗員は204空、253空と異動し連日の航空戦を戦い抜いた。その間、13日間に18機撃墜という海軍最高密度の撃墜記録を挙げる。

 日本海軍では採用されていないが、欧米では5機以上撃墜したパイロットはエースと呼ばれる。たった5機である。逆に言えば5機を撃墜することが非常に難しいということである。ほとんどのパイロットは5機も撃墜できない。それを荻谷は2週間弱で18機撃墜したのである。これがどれだけすごいことなのかは分かって頂けると思う。

 萩谷は海軍に入るのが遅く、開戦後も平穏な地域に配属されることが多く、初空戦が25歳という珍しい搭乗員である。しかしそれまでの訓練は伊達ではなかった。突然熾烈なラバウル航空戦に参加し、わずか3ヶ月の間に24機を撃墜するという記録を残した名パイロットであった。

 

萩谷信男関連書籍

 

岩本徹三『零戦撃墜王』

岩本徹三 著
光人社NF文庫 2004/8/1
 

 戦記に詳しい人には有名な海軍のトップエース岩本徹三少尉の本。岩本徹三氏は日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ第一線で戦い続けた稀有なパイロット。総撃墜数は216機で内、ラバウル航空戦で142機を撃墜したと自称していた 岩本徹三氏は戦後10年を待たずして敗血症により他界してしまう。岩本氏は戦中から日記を付けており、その日記を基に戦後執筆したのが本書だ。萩谷信男と同部隊に所属した熟練パイロット。本書中に萩谷の顔写真が出ている。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 長野喜一は戦闘機搭乗員の操練最後の期である56期出身で総撃墜数は20機以上ともいわれる搭乗員である。開戦時にはまだ10代という非常に若いパイロットであったが、激烈なラバウル航空戦に参加、幾度も死線をくぐり抜けていった。戦争後期には台湾沖航空戦、比島航空戦に参加するが比島において空戦中に戦死する。

 

長野喜一の経歴

 

概要

 1922年静岡県生まれ。1939年6月海軍に入団。1941年7月56期操練を卒業。10月千歳空に配属され、開戦を迎えた。1942年6月2空に異動。内地帰還。8月ラバウルに進出。1943年7月厚木空、ついで203空戦闘304飛行隊に異動。1944年4月北千島に進出、防空任務に就く。捷号作戦、台湾沖航空戦、比島航空戦に活躍したが、11月6日バンバン上空で戦死。

 

操縦練習生とは

 長野が修了した操練56期とは冒頭にも書いたが戦闘機搭乗員最後の操練であり、以降の戦闘機搭乗員養成は予科練に統合される。ここで予科練について説明しておこう。予科練とは海軍飛行予科練習生の略称で1930年に成立した搭乗員養成課程であった。応募資格は高等小学校卒業程度の学力を有する14歳〜20歳までのむろん男性だ。

 当時の学制が分らないと予科練の制度は理解できない。当時は義務教育として尋常小学校があった。これは現在と同じで6歳から12歳まで教育を受ける。その後、進学する者は2年間の高等小学校、若しくは5年間の中等学校に通う。予科練は高等小学校卒業程度の学力が必要であった。 1937年に新たに旧制中学校4年生以上の者を対象に甲種予科練制度が発足する。これによりそれまでの予科練は乙種予科練となる。さらに1940年、海軍の部内選抜である操縦練習生も予科練に統合されて丙種予科練となる。因みにこの甲乙丙というのは学歴基準の序列であり乙、丙種予科練出身者にわだかまりを残すこととなった。

 

操練同期とラバウルの死闘

 長野喜一に戻ろう。長野は最後の操練56期を修了した。同期には台南空の撃墜王吉村啓作(12機撃墜)、河西春男(11機撃墜)、さらに水上機から陸上機に転科したエース、ジェロニモこと甲木清実(16機撃墜)、艦隊戦闘機隊のエース白浜芳次郎(11機撃墜)がいる。

 長野は操練終了後、千歳空に配属される。千歳空は内南洋防衛の陸攻、艦戦の混成部隊である。この方面ではほとんど戦闘は無く、哨戒と訓練に日々勤しんでいた。しかし、1942年1月にラバウル占領と共に千歳空派遣隊として一部がラバウル進出。さらに5月にも一部部隊がラバウルに派遣されている。

 長野はこれら2度にわたるラバウル派遣隊に参加することはなく、6月には、同年兵の山本留蔵とともに艦戦、艦爆の混成部隊である2空(のちの582空)隊員として内地に帰還する。しかしこの2空も2ヶ月後の8月にはラバウルに進出する。長野も2空搭乗員としてラバウル進出する。この2空の戦闘については同時期に2空に在籍した角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。1年に及ぶ激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。この間の撃墜数は582空一だったという。

 

厚木航空隊(203空)配属以降

1943年7月、1年振りに内地に帰還、厚木航空隊に配属される。厚木航空隊は、のちに首都防空のエース部隊として活躍するが、この時点では艦隊搭乗員の錬成部隊であったので、恐らく教員配置であろう。厚木航空隊は1944年2月20日に203空と改称される。203空は本隊と木更津の派遣隊に別れるが、長野は本隊に所属した。因みに木更津派遣隊は3月14日、302空に編入される。長野は203空隊員として北千島に進出。北方の防空任務に就いた。この時期、203空には、開戦以来、共に転勤をしてきた山本留蔵、さらには、当初、長野と同じ千歳空に所属していた西澤廣義飛曹長もいた。この時期、203空は戦闘303、304飛行隊の2個飛行隊に別れるが、長野が所属した戦闘304飛行隊の隊長はのちに343空で活躍する鴛渕孝大尉であった。

 長野はその後、203空と共に九州に移動するが、6月には北千島で開戦以来、同じ部隊で過ごしてきた同年兵の山本留蔵上飛曹が戦死している。九州に移動した長野は、10月には台湾沖航空戦に参加する。長野も戦闘304飛行隊隊員として九州出水基地から沖縄に進出。敵機動部隊攻撃に加わった。台湾沖航空戦ののち203空は、比島に展開。米機動部隊と熾烈な航空戦を展開する。長野も多くの空戦に参加するが、1944年11月6日バンバン上空で戦死する。

 

まとめ

 

 長野喜一は太平洋戦争の開戦をマーシャル諸島で迎える。それまでに実戦経験はない太平洋戦争で初めて実戦を経験した搭乗員である。開戦後、しらばくしてラバウルに送られ多くの激戦を生き抜いた。「死ななきゃ内地に帰れない」と言われれたラバウル航空戦を1年近くも戦い抜き生還したのだが、その長野も激戦のフィリピンで戦死する。当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員の最期であった。

 

01_零戦22型

 

 渡辺秀夫飛曹長は太平洋戦争開戦直前に訓練が終了。太平洋戦争で実戦に参加した戦中派パイロットである。弱冠23歳の下士官でありながら部隊を指揮したこともある実力派であった。総撃墜数はエース列伝によると16機、本人によると共同撃墜含め48機だそうだ(『零戦最後の証言 2』)。

 

渡辺秀夫飛曹長の経歴

 

略歴

 大正9年福島県出身。昭和12年海兵団入団。昭和15年11月予科練丙飛2期に採用される。その後第12期飛練に進み、開戦直前の昭和16年11月飛練を修了。延長教育の後、昭和17年3月マーシャル諸島に展開する千歳空に配属された。昭和18年3月204空に異動、ラバウル、ブインに進出する。8月26日空戦中に重傷を負った後本土に送還される。昭和20年6月輸送部隊である1081空配属で終戦を迎える。戦後は村役場、市役所で定年まで勤めた。2002年6月3日死去。

 

ラバウルでの活躍

 渡辺飛曹長は丙種予科練2期。多くの撃墜王が排出したのと同時に多くが戦場で散って行ったクラスである。同期には宮崎勇飛曹長、伊藤清飛曹長等がいる。渡辺飛曹長は多くの撃墜王がそうであるようにラバウルに派遣された。そこで連日の空戦に参加することとなる。8月26日の空戦では負傷し、意識を失いながらも不屈の闘志をもって基地上空まで帰投した。

 この壮烈な戦闘と不屈の闘志に対し南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は”武功抜群”と墨書した軍刀一振を授与し、その栄誉をたたえられた。ここら辺の経過は「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉に詳しい。負傷後はさすがに戦闘機での出撃はなかったようだ。空輸部隊に配属されるがそこでも操縦桿を握ることはなく終戦を迎えた。戦後は村役場、市役所で定年まで勤め上げた。

 

海軍時代をどう捉えるのか

 『零戦最後の証言 2』のインタビューにおいて戦争中のことをこのように語っている。

 

「海軍は自分が好きで行ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。昔の上官の恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人間にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。」

(『零戦最後の証言 2』より一部転載)

 

 と語っている。この「ああいう人間」とは誰を指しているのか大体推測できる。この記事を読んだ読者の多くは恐らくこの渡辺氏の意見を支持し「ああいう人間」に対しては批判的になると思う。しかし悪口を言わない人、恨みを持たない人は見ていて気持ちがいいが同時に本来修正されなければならない問題点を見えなくしてしまうことがある。

 渡辺氏のような見方をする人が素晴らしいのと同時に「ああいう人間」のように当時の軍隊内部の問題点を指摘するというのも素晴らしいことだ。因みに渡辺氏に関しては『日本陸海軍航空英雄列伝』にも記事があるので詳しく知りたい方はこちらを見てみるのもいいと思う。

 

渡辺秀夫飛曹長関係書籍

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 渡辺秀夫氏へのインタビューが掲載されている。上記武功でもらった「武功抜群」の刀を携えての写真もある。読んでいると渡辺氏の前向きな性格が良く分かる。

 

伝承 零戦空戦記〈2〉ソロモンから天王山の闘いまで (光人社NF文庫)

 渡辺氏はラバウル時代のことを書いた「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」という手記を寄稿している。

 

零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)

神立尚紀・大島隆之 著
講談社 (2015/7/15)

 中盤に渡辺氏の証言が出て来る。ラバウル時代について語ったもの。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。渡辺氏も同飛行隊に所属していたため本書中に頻出する。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、水上機のエース河村一郎、甲木清美など独自に調査している。渡辺氏についても項目を立てて詳述している。

 

まとめ

 

 渡辺秀夫飛曹長の経歴は千歳空と204空、負傷後に配属された輸送部隊1081空と少ないが、数ヶ月に及ぶラバウル航空戦を生き抜いた勇者だった。負傷によって片目の視力を失うがそれにも負けない前向きさを持った人物であった。

 

西澤廣義01
(画像はwikipediaより転載)

 

西澤廣義の経歴

 

 西澤は、大正9年長野県に生まれる。昭和9年3月、高等小学校を卒業すると製糸工場に勤める。昭和11年6月、第7期予科練習生として海軍に入隊。昭和13年8月、霞ヶ浦空で飛行練習生、昭和14年3月〜6月まで大分航空隊で延長教育を受ける。昭和14年6月大村空配属。昭和15年12月鈴鹿航空隊に異動。そして昭和16年10月1日千歳空に配属、内南洋ルオット島で太平洋戦争開戦を迎える。

 その後、西澤は千歳空隊員としてラバウルに進出、昭和17年2月10日、第4航空隊に編入される。さらに昭和17年4月1日付の改編で台南空に編入される。ここで笹井醇一、坂井三郎、太田敏夫などと連日の航空戦に参加する。昭和17年11月、台南空の内地帰還命令で他の残存搭乗員と共に内地に帰還。昭和18年5月、再建が完了した251空(台南空が改称)と共に、再びラバウルに進出。9月1日、トベラ基地の253空に異動。

 同月草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後、11月1日付で大分空に異動、教官配置となる。同月飛曹長に進級。昭和19年3月1日、203空戦闘303飛行隊に異動、部隊と共に厚木、千歳、美幌、幌筵、茂原、鹿児島と移動する。昭和19年10月12日、戦闘303飛行隊がT部隊に編入される。鹿児島から台湾、10月24日には、比島・マバラカットに移動する。

 10月25日、神風特攻隊の直掩隊長として出動。10月26日、乗機を置いて輸送機で帰還する途上ミンドロ島カラ晩上空でF6F2機に襲撃され戦死する。公式資料に残る撃墜数は36機だが、147機、150機、120機、102機、87機とも言われる多撃墜パイロットであった。

 岩本徹三、坂井三郎、武藤金義等、のちに撃墜王と呼ばれたパイロットは大正5年生まれが結構多いが、西沢は大正9年と若干若い。予科練に入ったのは16歳であった。因みに予科練は1930年に始まった航空士官を養成するための制度である。高等小学校卒業以上が応募資格で競争率が高くかなりの難関であった。

 後に中学校4年生以上を対象として甲種予科練という制度が始まったことにより旧来の予科練は乙種予科練と呼ばれた。さらに1940年に従来の操縦練習生課程も予科練に統合され丙種となるのであるが複雑になるのでここでは割愛する。甲種予科練制度が始まったのは1937年なので西沢が採用された1936年は厳密にはまだ乙種予科練ではない。それはそうとこの倍率何百倍という超難関を突破した西沢は日中戦争を体験することなく太平洋戦争開戦を迎えた。

 当初は千歳航空隊に所属し、その後あの台南航空隊に配属された。西沢は台南航空隊での勤務が一番長かったようである。他の搭乗員は航空隊を転々としたのに対して西沢は移動は少なかったようだ。それでも千歳航空隊、台南航空隊、253空、203空と転属した。ここで面白いのは、西沢が253空に転属したのは18年9月で、10月には本土に帰還している。これと入れ替わるように岩本徹三が11月にラバウルに着任している。

 さらに西沢はその後203空戦闘303飛行隊に転属してるが西沢フィリピンで戦死後、岩本徹三もまた戦闘303飛行隊に着任している。 西沢と岩本はお互いにライバル視していたようで、普段は寡黙で自分の手柄話をしたことがないという西沢であるが(吉田一『サムライ零戦記者』)、フィリピンで岩本と会い空戦談義となった際は饒舌だったという(角田和男『零戦特攻』)。この二人と同じ航空隊に所属し戦争を生き抜いた安倍正治氏は自身の体験の中で西沢と岩本について触れている(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』、同「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三」》『丸12月別冊 撃墜王と空戦』)。

 

西澤廣義関連書籍

武田信行『最強撃墜王』

 本書は西沢氏のかなり綿密な取材のを基に執筆されている。西澤氏の親族への聞き取りや西沢氏自身が書いたノートなどを参考に書いているため信ぴょう性は高いと感じる。西澤廣義の記録としてはこれ以上はない秀作。

 

吉田一『サムライ零戦記者』

 戦場カメラマンとしてラバウルに進出した吉田一氏の著作。太平洋戦争初期の比較的日本軍が優勢だった時期のラバウルだが当初から激しい戦闘が繰り広げられていたのが分かる。吉田氏自身、かなり腹の座った男だったようで、陸攻に同乗したりもしている。興味深いのは、のちに撃墜王を綺羅星の如く排出するようになる台南空の記録だ。

 のちにエース列伝を賑わせることになる、西澤廣義、坂井三郎、太田敏夫等の台南空のエースパイロット達の素顔がみえる。吉田氏は人懐っこい性格だったようで、彼らも本心をさらけ出している。「俺は何機落としたら表彰されるのかな」と不満げな顔の西澤廣義などの描写が面白い。西澤廣義やその他のパイロットについても描写があるので零戦パイロット好きには外せない。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 私が好きな海軍戦闘機パイロットの一人角田和男氏。エースリストでは撃墜数9機となっていたはずだ。実際に何機だったのかは分からないが、映画やアニメと違って実際には、ほとんどのパイロットは1機も撃墜しない。その中で敵機を1機でも撃墜したというのはすごいことだ。著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。本書の比島の部分に西澤廣義と岩本徹三という二大エースが議論になる部分がある。巴戦(ドッグファイト)に参加しない岩本徹三に対して西澤は、

 

「岩本さん、それはずるいよ」

「でも俺が落とさなきゃ奴ら基地まで帰っちゃうだろ」

 

 それぞれの戦い方が分かるやりとりが面白い。

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。それ以外にも唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。

 

野村了介ほか『空戦に青春を賭けた男たち』

本書は月刊『丸』に掲載された戦闘機パイロットたちの手記を集めたもの。野村了介や柴田武雄という高級士官の手記もある。特にパイロットということで戦闘303飛行隊長であった岡本晴年少佐、母艦戦闘機隊のエース斎藤三朗少尉、その他あまり記録を残していない柴山積善氏等も執筆している。安倍正治氏の手記に西澤廣義とのやりとりについて詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 以上、最強撃墜王西澤廣義についての概略と参考書籍について書いてみた。ネットで調べてもそれなりの情報は出て来るが、さらに詳しく知りたい方は本を読むことをおすすめする。

 

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