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佐野栄太郎

01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

 

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01_雷電
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

  閃電は単発双胴推進式という珍しい形の局地戦闘機として計画された。計算上の最高速度は759km/hとされており、仮に完成していたとすれば日本ではトップクラスの高速機であっただろう。設計は三菱によって行われていたが、戦局の悪化に伴って計画は中止された。

 

局地戦闘機 閃電 〜概要〜

 

<性能(計算値)>

全幅 12.5m
全長 12.5m
重量 正規状態4886kg、過荷重5255kg
最高速度 759km/h
上昇時間 8000mまで10分
実用上昇限度 12000m
航続距離 -
武装 30mm機関砲1挺、20mm機関砲2挺

 

概要

 閃電は1942年度の試作局地戦闘機として計画されたもので、その計画は1939年に開発が計画された十四試局地戦闘機、後の雷電の後継機としてであった。海軍の性能要求は最大速度が高度8000mで703km/h、巡航速度高度3000mで463km/h、着陸速度148km/h、上昇力高度8000mまで15分、実用上昇限度11000m、航続力2時間プラス全力30分、武装は30mm機関砲1門、20mm機関砲2門というものであった。

 機体は特殊な単発双胴推進式という形式のもので、米国陸軍の戦闘機P38の形状に酷似しているものの推進器はコックピット後方に推進式(後ろにプロペラが付いている形状)となっているためエンジン、プロペラは1基のみである。この形式の機体のメリットとしては機首にプロペラを設置する必要がないため搭乗員の視界を広く確保できること、機種に機銃の集中装備が可能であること等が挙げられる。反面、空冷式発動機の場合、エンジンの冷却に問題が生じること、機体の強度や振動に配慮が必要なこと等が問題として挙げられる。

 三菱はこの計画に大変な熱意を示し、零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師を設計主務者として開発を開始したものの、計画されていたスケジュールとしては1942年末に発注、1943年末に1号機完成、1944年秋に審査完了というものであった。このように全体的な計画自体が無謀であったことや、単発双胴推進式という前例のない形式であったため開発は難航、当初心配されていた空冷エンジンの冷却問題こそ起こらなかったが、プロペラ後流による振動問題やその他の問題が多発、戦局の急速な悪化に伴って実用化の可能性の低い本機は1944年10月に開発の中止が決定した。

 

性能

 エンジンは当時、三菱が開発し、烈風にも搭載されたハ-43エンジン(2200馬力)を搭載する計画で、三菱が試算した計算値では、最高速度759.3km/h、巡航速度500km/h、上昇時間は高度8000mまで10分、実用上昇限度12000mとなっていた。

 

生産数

 0機

 

まとめ

 

 レシプロ機の速度は800km/h前後が限界と言われている。高速になればなるほど空気の流入が少なくなりエンジンの性能低下を起こすのが理由で、その限界値が800km/h前後であるという。閃電は完成こそしなかったものの、航空技術に関して欧米に後れを取っていた日本航空界の挑戦であった。

 機体も古い形に拘らず、三菱技術陣は、日本全体の基礎技術力の低さや戦争の悪化による物資不足、軍部の無理な要求等、不利な条件が重なる中、与えられた環境で最大限の努力をしたといえる。これら当時の航空機業界の挑戦には目をみはるものがある。

 

 

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01_零式観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式観測機とは艦砲の弾着観測専用に開発された航空機で全金属製の最後の複葉機である。太平洋戦争は主力艦同士の砲撃戦から航空機を中心とした戦術に移行していたため本来の弾着観測に用いられることはなかったが、高い格闘戦能力から船団護衛や対潜哨戒などに活躍した。複葉機でありながらしばしば戦闘機を撃墜した。戦闘機だけでなく単機でB-17撃墜記録すらある特異な航空機である。

 

零式観測機〜概要〜

 

 

性能

全長9.5m
全幅11m
全高4m
全備重量2.550kg
最高速度370km/h
航続距離1070km
武装7.7mm固定機銃2門、7.7mm旋回銃1門

 

開発

 零式観測機は、戦艦同士の砲撃戦の際に着弾観測をする専用の機体として1934年、愛知、川西、三菱の3社に十試観測機の名で試作が内示されたことに始まる。さらに1935年3月計画要求書が愛知、三菱に手交された。観測機はその性格上、着弾観測のみならず、敵艦隊付近を飛行して弾着観測をするため敵戦闘機の妨害を排除する必要があったため、この零式観測機には複座機でありながら格闘戦性能も要求するという厳しいものであった。この要求に対して三菱は佐野栄太郎技師を主務者として開発を開始する。本機の特徴の一つとして興味深いのは設計主務者の佐野栄太郎技師が「義務教育を受けただけ」と言われており、大学等で専門教育を受けた技師ではなかったことであろう。

 零戦を設計した堀越二郎技師や一式陸攻の本庄季郎技師、紫電改や二式大艇の菊原静男技師や飛燕の土井武夫技師等、当時の航空機エンジニアの多くは東京帝国大学工学部航空学科という定員が数名の超難関を突破した秀才中の秀才達であった。これに対して義務教育が小学校まで出会った当時、佐野栄太郎技師の義務教育を受けただけというのは本当であれば異色中の異色である。

 それはともかく、当時は単翼機に時代が移りつつあったものの、敢えて複葉機として設計した。これは複座でありながら戦闘機並みの格闘戦性能を要求されたためで、速度を犠牲にしても格闘戦能力を得るという苦肉の策であった。試作機は、1936年6月9日1号機が完成、6月22日には初飛行に成功した。飛行試験で方向安定が極端に不足していることが判明した上、水上曳航中に転覆など問題が多発。数次にわたり改修を行った結果、1937年3月、海軍に領収された。

 

エンジンの変更

 しかし、軍のテストで垂直旋回中と宙返り中に自転が発生するという問題が判明する。これに対して佐野技師は、垂直尾翼と方向舵の面積を増大させることで解決した。十試観測機は、エンジンに光1型を装備していたが、ちょうどこの頃、三菱で800馬力エンジン瑞星が実用化されたため、2号機のエンジンを瑞星に換装。この結果、最大速度は37km/h、5000mまでの上昇時間は約2分短縮されたため以降は瑞星を装備した。瑞星換装の十試観測機は当時の現用戦闘機である九六艦戦との比較テストで総合的には互角と判定されたほどで、水上機としては異例の高性能であった。

 

制式採用

 1940年12月12日、零式1号観測機1型として制式採用された。生産は三菱で1940〜43年の間に524機生産された他、佐世保の第21海軍航空廠で594機、合計1118機生産された。さらに試作機が4機製造されているので総生産数は1122機である。バリエーションはほとんどなく、零式観測機11型と練習機の仮称零式練習用観測機の2種類だけである。但し、生産時期によって若干仕様が変更されている。初期の生産分はプロペラが二翅でスピナ無し、後期はプロペラが三翅でスピナが装着されている。因みに零式観測機の操縦席の風防は解放式であるが、試作機のみは操縦席が密閉式風防になっている。武装は機首に7.7mm固定銃2挺、装弾数各400発。偵察席に92式7.7mm旋回機銃1挺、装弾数582発。爆弾は30kgまたは60kg爆弾2発を翼下に搭載できる。観測機という性格上、91式観測鏡という弾着観測専用の観測装置を持っていた。

 

生産数

 試作機が4機、量産機が1118機の合計1122機が生産された。

 

零式観測機の模型

 

戦歴

 1941年4月、連合艦隊に第11航空戦隊、第三艦隊に第12航空戦隊が編成されると零観は初めて実戦部隊に配備されることとなり、最初に第11航空戦隊の水上機母艦千歳と同瑞穂に配備、9月になると第12航空戦隊所属の特設水上機母艦神川丸、山陽丸、相良丸、そして根拠地隊である17空(トラック島)、18空(サイパン)、19空(クェゼリン)と各部隊に順次配備されていった。

 1941年12月、太平洋戦争が開戦すると、第11航空戦隊は比島部隊として比島攻略戦、第12航空戦隊はマレー半島攻略の支援に参加したのち、両戦隊ともに南方攻略作戦に活躍した。1942年8月になると米軍がガダルカナル島に上陸、戦闘の激化に伴い水上機母艦もブーゲンビル島南方のショートランド泊地に集結、8月29日には集結した千歳、山陽丸、讃岐丸の艦載水上機でR方面部隊を編成、9月には神川丸、聖川丸、14空、国川丸の水上機隊もR方面部隊に編入された。

 1942年10月8日には、ブーゲンビル島に陸上機基地であるブイン基地が完成するが、引き続きショートランド島のR方面部隊は対潜対空哨戒、偵察、爆撃、防空等に活躍、1943年1月頃になる零観は防空任務を二式水戦に譲り内南洋や内地へと撤退していき、偵察や対潜哨戒に活躍することとなったものの、1944年春頃になると水上機の活躍の機会はほぼ無くなったため、多くの熟練搭乗員は陸上機へと機種転換していった。

 太平洋戦争末期には多くの機種が特攻機として使用されたものの、零観はフロートがあるため特攻機として使用されることはなかったが、1945年になるとフロートにレールを装着することにより250kg爆弾の搭載が可能となり特攻隊にも編入されるようになっていった。

 

零式観測機の書籍

 

海軍零式観測機 (世界の傑作機 NO. 136)

 定番の『世界の傑作機』シリーズの零観号。砲弾観測用に開発された零観であったが類稀な運動性能により連合国軍の戦闘機と互角に渡り合うことすらあったという。日本海軍最後の高性能複葉機。

 

水偵隊の戦い 武井慶有『零式水偵空戦記』

武井慶有 著
潮書房光人新社; 新装版 (2015/11/1)

 貴重な水偵隊搭乗員の記録。予科練のベテラン搭乗員がソロモンに太平洋に活躍する。戦争後期に著者は台湾沖で筆で「大」と書いたような浮遊物を見つける。それは撃沈された輸送船に乗っていた陸軍兵士達であったようだ。恐らく本書はゴーストライターを使わずに著者が自分自身の筆で書いたものだろう。迫力がある。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。  全般において水偵隊であるR方面部隊を始めとする水偵隊の活躍が多く描かれている。彼我の戦闘行動調書、手記やあらゆる記録を調査して描き出す「実際の戦果」は圧巻。

 

まとめ

 

 零式観測機は低速ではあったが運動性に優れていたため、実戦では多くの戦果を挙げたが同時に損害も大きかった。特にR方面部隊での活躍は特筆に値するもので、この活躍の蔭には多くの搭乗員、整備員の努力があったことは言うまでもない。零観は、世界に名だたる水上機王国であった日本が生んだ最後の複葉機であり、世界最後の複葉、単フロートの実戦機であった。

 

 

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