
(画像はwikipediaより転載)
尾関行治少尉の略歴
1918年2月2日愛知県に生まれる。1935年呉海兵団入団。1936年1月32期操練に採用。7月大村空に配属。1937年12月12空に配属、中支戦線に出動する。1938年10月内地に帰還、佐伯空、大村空、元山空を経て、1941年9月3空に配属、太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加した後、1942年4月、内地に帰還、6空に配属された。6月には6空隊員としてダッチハーバー攻撃に参加、同年末204空隊員としてブイン基地に進出、ソロモン航空戦に活躍する。1943年5月内地に帰還して厚木空に配属、1944年2月203空戦闘304飛行隊に異動、10月捷号作戦の発動によりフィリピンに進出、10月24日(15日)米機動部隊攻撃で未帰還となり戦死と認定された。
海軍の至宝と呼ばれた男
尾関行治少尉は操練32期出身で同期の戦闘機専修者は9名と少数精鋭の時代である。同期には「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義少尉、末田利行飛曹長等がいる。この32期は太平洋戦争終戦までに全員が戦死しており、生存率0%である。尾関少尉は操練修了後大村空、さらには1937年12月、中国戦線にある12空に配属、そこから1年余りを戦地で過ごした。1938年10月には内地に帰還。教員配置に就いたのち、1941年9月には新編の3空に配属、太平洋戦争の開戦を迎えた。
開戦後は比島蘭印航空撃滅戦に参加、多くの空戦に参加した後、1942年4月内地に帰還、新たに編成された6空に配属された。6月には空母隼鷹に便乗、ミッドウェー作戦の一環であるダッチハーバー攻撃に参加したが、ミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅したため本土に帰還した。同年末、204空と改称された6空は南東方面に進出、ブーゲンビル島ブイン基地に展開して連日の空戦を戦った。
1943年3月にはい号作戦のためラバウルに進出してきた同年兵の母艦戦闘機隊員岩井勉飛曹長と再会、「今まで一人として内地へ帰された者はいない」と壮絶な現実を告げている。このソロモン方面は航空隊員にとって「搭乗員の墓場」と呼ばれた場所で連日の戦闘の緊張感のためか温和であった尾関上飛曹は部下に鉄拳制裁を行ったりもしている。これに対して鉄拳制裁を受けた島川正明飛曹長は、のちに下士官となって受けた鉄拳制裁に対して不快感を語っている。
1943年5月には尾関飛曹長は幸運にも内地に帰還、厚木空に配属された。この厚木空は後の302空と異なる錬成部隊で1944年2月には203空と改称されている。203空所属となった尾関上飛曹は名指揮官岡嶋清熊少佐率いる戦闘304飛行隊に配属、3月末には千歳基地、4月には北千島に進出して防空任務についた。
10月になると捷号作戦の発動により、尾関飛曹長は戦闘304飛行隊の一員として南九州から台湾と進出。フィリピン島バンバン基地に進出した。この移動の最中、南九州で同年兵の乙飛5期の角田飛曹長に会いに行っている。この時には海軍航空隊の多くが比島に移動していたため、他にも西澤廣義飛曹長、岩本徹三飛曹長、母艦戦闘機隊の斎藤三郎飛曹長、長田延義飛曹長等の名うての搭乗員が角田飛曹長のところに集まった。
その後、台湾、フィリピンと進出した尾関飛曹長は1944年10月米機動部隊攻撃に出撃未帰還となった。戦死日は15日とも24日とも言われている。総撃墜数は14機以上と言われており、6空時代に部下であった杉野計雄飛曹長は温和な人柄であったと後に語っている。さらに上官であった志賀淑雄少佐は尾関飛曹長について「上海事変、支那事変、大東亜戦争において比島上空で未帰還となるまで、烈々たる闘志と非常なる技量を持って、撃墜に撃墜を重ねた男。典型的な戦闘機乗りなりき」と評価していた。
尾関行治少尉の関係書籍
零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像
神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。
空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)
乙飛6期出身の母艦戦闘機隊で活躍した搭乗員岩井勉中尉の海軍生活10年の記録。岩井中尉は零戦の初空戦に参加した搭乗員で戦後も生き残った数少ない搭乗員。日中戦争、太平洋戦争と戦ったがその間に一度も被弾しなかったという腕と運を持ち合わせている。
まとめ
尾関行治少尉は同期である武藤金義少尉と共に海軍の至宝と呼ばれたほどの名うての搭乗員であった。碁の名人であり、後々まで杉野計雄飛曹長は碁を見るたびに尾関少尉を思い出すという。この操練32期は多くの名人級の搭乗員を排出したが、1944年末までに武藤少尉以外は全て戦死している。その武藤少尉も終戦直前の7月24日、豊後水道での空戦で帰らぬ人となった。
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