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二式大艇

01_呉第三特別陸戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

フロリダ諸島の戦いとは、

 

 1942年8月7日、米軍第一海兵師団は日本軍が攻略したソロモン諸島フロリダ諸島にあるツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸、同地を守る日本軍部隊と戦闘状態に突入した。この戦闘で日本軍守備隊は全滅。米軍は同日行われたガダルカナル島上陸と並んでソロモン諸島に米軍の橋頭保を築くことに成功した。米軍のガダルカナル島上陸はあまりにも有名な話であるが、同時に行われたフロリダ諸島の戦いはあまり注目されていないために知名度は低い。

 まず、この戦いに至るまでの経緯を簡単に説明してみたい。そもそも何でこんなところに日本軍がいるのよ?という話である。太平洋戦争開戦以来、破竹の進撃を続ける日本軍。1942年1月23日には、ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエンを占領した。さらにそこからニューギニア東部のラエも占領。ラエの南側にある連合軍拠点のポートモレスビーをも攻略しようとする。しかしラエとポートモレスビーの間にはオーエンスタンレー山脈という富士山並に標高の高い山脈が連なっており、陸路からはなかなか難しい。そこで海路から侵攻するMO作戦が決定された。

 このMO作戦に先立ち、水上機が輸送船団の周辺を哨戒するために前進基地が必要となり、適地を探したところ、フロリダ諸島のフロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島が水上機の基地として適していると判断され、5月3日に呉第三特別陸戦隊を主力とした部隊で上陸占領された。これら占領した島には、ツラギ島に第84警備隊約400名、ガブツ島には横浜空の病院班、舟艇班、工作半100名、タナンボゴ島には九七式大艇10機と横浜空大艇隊等350名、フロリダ島には二式水戦隊60名が進出した。その後、MO作戦は失敗したもののフロリダ諸島の日本軍は駐留を続けた。

 

その頃米軍は。。。

02_ツラギに上陸する米軍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年3月14日、米軍統合参謀本部は、太平洋。大西洋方面での基本方針を策定。ウォッチタワー作戦と命名された。これは太平洋方面で押され気味の米軍の反抗作戦で、米本土の安全の確保、米豪交通路の確保等が盛り込まれていた。この作戦は同年6月25日に発令、第一段作戦は、総指揮官はニミッツ大将で、サンタクルーズ諸島、ツラギ周辺の攻略を目標としていた。保有戦力は空母サラトガ、エンタープライズ、ワスプの3隻と新型戦艦ノースカロライナ合わせて26隻、リッチモンド・ターナー少将率いる輸送船23隻、巡洋艦8隻、駆逐艦15隻、掃海部隊1個群の水陸両用部隊、アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将麾下の第1海兵師団約19,000人であった。参加する航空機は合計541機にも上る。

 作戦発動は8月1日であったが、日本軍がガダルカナル島に飛行場を設営していることを発見したため急遽、ガダルカナル島を目標に追加、サンタクルーズ諸島は中止された。このため作戦発動日は遅れて、8月7日となった。

 

そもそもおかしいのだ

03_米軍上陸ルート
(画像はwikipediaより転載)

 

 そして運命の8月7日、米軍は大挙してフロリダ諸島に上陸してきた。この作戦に動員された米軍の戦力は第1海兵師団およそ8,000名で航空隊や後方支援部隊が中心の日本軍1,100名を圧倒していた。日本軍は事前に米軍の侵攻を察知することが出来ず、米軍は完全な奇襲に成功したといっていい。このため、日本軍守備隊はほぼ全滅。伝統の横浜空は壊滅した。対して米軍の戦死者は122名で米軍圧勝の戦いであった。同日に行われたガダルカナル島上陸と併せて太平洋戦争の転換点となった戦いである。

 米軍の周到な作戦に対して、日本側は善戦はしたものの戦略的には相当な問題のある戦いであったといえるだろう。当初、米軍が上陸してきた際に日本側は本格的な反撃とは認識していなかったようである。上陸当日に急遽、ラバウルの航空隊をガダルカナル島に急行させたことはさせたが、そんな少数の航空機ではどうなる問題ではない。この後、ガダルカナル島へは戦力の逐次投入が繰り返され、総数30,000名の陸海軍兵力が投入されたが、生還したのはわずか10,000名程度であった。

 ガダルカナル島の問題はともかく、フロリダ諸島の水上機基地には相当な問題がある。このフロリダ諸島フロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島はガダルカナル島の向かいに位置する島で日本軍の最前線に位置していた。この場所に非力な水上機群を展開させるというのは「攻撃してください」と言っているようなものである。確かにこの位置に飛行艇を配置すれば珊瑚海からラバウル方面まで広く海域をカバーすることはできる。しかしほぼ無防備な飛行艇基地を最前線に設置すれば攻撃されることは火を見るよりも明らかである。

 飛行艇というのは、長大な航続距離を生かして後方基地から出撃して偵察した後に後方基地に帰還する。そのための長大な航続距離のはずだ。このような飛行艇の運用法自体が貴重な大型飛行艇を失い、何よりも育成に10年はかかると言われているベテラン搭乗員、整備員等を多く失ってしまう結果となった。これは米軍の戦略、戦術が素晴らしかったというよりも日本軍のそれらが稚拙であったと言っても過言ではないだろう。

 

 

 


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01_二式大艇
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式大型飛行艇、通称二式大艇は太平洋戦争当時、世界最高性能の飛行艇であった。離水する時に発生するポーポイズ現象(水面をぴょんぴょん跳ねて水面に突っ込んでしまう現象)という問題はあったが、速度、航続距離などどれをとっても世界一の飛行艇であった。

 

二式大型飛行艇〜概要〜

 

 

<性能12型>

全長28.13m、全幅38m
全高9.15m
全備重量24500kg
最高速度11型433km/h、12型454km/h
航続距離 11型7153km、12型8223km
武装 11型20mm機銃3挺、7.7mm機銃3挺、12型20mm機銃5挺、7.7mm機銃1挺。

 

開発

 二式大型飛行艇は、十三試大型飛行艇として、1938年8月21日、海軍によって試作が発令される。川西飛行機は、菊原静男技師を設計主務者として設計を開始、1940年12月末1号機を完成。12月30日初飛行に成功する。離水時には若干の問題があったが、飛行性能は良好であり、年度末の1941年3月26日、軍に領収された。

 そして1942年2月5日、二式飛行艇11型として制式採用された。試作は、試作機1機、増加試作機4機が製造された。増加試作機の4機は量産型同様11型と呼ばれる。武装は機首部、中央上面、尾部、左右側方、下方の6ヶ所に設けられており、機首と中央上面、尾部は20mm機銃で動力式、中央上面銃座は一式大型動力銃架21型、尾部は一式動力銃架31型である。

 側方銃座は水滴形風防を取り外し7.7mm機銃1挺を出す。射界は広く確保できていた。下方銃座は7.7mm機銃1挺を装備しており、これらとは別に4ヶ所予備銃座があった。さらに4ヶ所に機銃取付設備がある。指揮官の指示によってこれらの銃座に7名の射手が配置についた。

 雷爆撃兵器は、魚雷であれば、800kg航空魚雷1本、爆弾であれば、最大搭載量1500kgで、800kg爆弾なら2発、250kg爆弾なら8発、60kg爆弾なら16発を搭載できる。

 

11型

 試作機を改良して2号機以降5号機まで増加試作機が製作された。これらは艇首が1.3m延長され、1530馬力火星12型エンジンに変更。同時に排気管が集合式から推力単排気管に変更。垂直尾翼が段違いになっていたものを普通の形に改めた。上部銃座の風防が水滴形から球形に変更された。6号機以降の量産型とともに11型と呼ばれる。最高速度433km/h。

 実施部隊に配属された後、離水滑走時、機体が縦揺れを起こす現象であるポーポイズ現象を起こしやすいことが判明したが、研究により、艇体を水面5度の角度に保つことによってポーポイズ現象を防げることが判明したため、ピトー管と風防前面にマークを入れこの二つのマークが重なるようにすれば5度の姿勢が保てるようにした。

 

12型

 1943年6月26日には、エンジンを1850馬力火星22型し、機体を若干修正した12型が制式採用された。この型の武装は機首20mm機銃が完全に電動式に改められ、側方の7.7mm機銃も20mm機銃に換装された。後期の12型は側方銃座の形も変更された。最高速度454km/h、12型は112機製作された。

 

22・23型

 この他、実験的に二式飛行艇22型、23型が製作された。 22型は12型の翼端フロートを外側へ引き上げられるようにした他、フラップをファウラー式に改め装甲も強化された。この22型は昭和17年に2機のみ製作された。のちにエンジンを火星25乙型に変更し23型となった。つまりは2機の22型が2機とも23型に改造されたので製作数は2機である。23型は801空へ配属された。

 

晴空32型

 輸送機型も計画され、1943年初め海軍より川西飛行機に指示された。二式大艇1号機を輸送機に改造41名分の座席が設置された。エンジンは火星11型のままであったが、排気管は推力式単排気管に変更、銃座は撤去された。この機体は1943年11月軍に納入、のち横須賀鎮守府に配属された。

 さらに1943年11月、12型の輸送機型である晴空32型が完成した。晴空32型は、中央上面銃座、側方銃座が撤去され、艇内には個人用ソファー29名分、またはベンチで64名分の乗客を乗せることが出来た。最高速度420km/h。総生産数は改造機を含めて36機。

 

戦歴

 1942年3月、制式採用されて間もない二式大艇は第二次ハワイ攻撃を敢行する。この作戦に参加した二式大艇は2機でどちらも実用実験も完了していない試作機であった。マーシャル諸島から発進した二式大艇はフレンチフリゲート環礁で潜水艦より燃料補給を受けた後、真珠湾上空で250kg爆弾を投弾、戦果は不明ながら無事に帰還しているが、翌日ミッドウェー島の偵察を命じられた1機は米戦闘機により撃墜されている。これが二式大艇最初の被撃墜であった。

 この頃飛行艇部隊である801空、802空、851空は相次いでソロモン方面に進出、新鋭機二式大艇もソロモン方面で偵察、爆撃任務に活躍した。インド洋では根拠地の東港に帰還した851空がスラバヤ島に進出、オーストラリア、インド南部のセイロン島、インド等の偵察に活躍した。戦局の逼迫した1944年になると二式大艇は離島やへき地に取り残された搭乗員の救出に活躍、3月には連合艦隊司令長官の輸送も行うが悪天候により失敗、乗員の一部はゲリラの捕虜となってしまう(海軍乙事件)。

 この間にも二式大艇は少しずつ消耗していったため802空、851空は解隊、801空のみとなってしまうが、1945年になっても二式大艇は哨戒に活躍、3月には梓特別攻撃隊の嚮導機の役目を果たしている。4月には801空は陸攻隊となったため残存二式大艇は詫間空に集結、終戦まで各種任務に活躍した。この他にも大日本航空で使用された晴空も戦時徴傭輸送隊として輸送任務に活躍している。

 

生産数

 二式大艇の生産は、1940年に1機、41年に3機、42年に13機、43年に80機、44年に33機、45年に1機で総計131機。型別では11型が16機、12型が112機、22・23型が2機製造された。晴空32型は、1943年に11機、44年24機、45年1機。改造型も含め合計36機である。

 

二式大型飛行艇の模型

 

ハセガワ 1/72 日本海軍 川西 H8K2 二式大型飛行艇 12型

 1/72スケールの二式大艇。制式採用早々、第二次真珠湾攻撃を行うという華々しいデビューを飾った二式大艇。太平洋を所せましと暴れまわり、終戦時にはたった3機となってしまった。まさに矢折れ力尽きるまで戦った名機中の名機。

 

ハセガワ 1/72 日本海軍 川西 H8K1 二式大型飛行艇 11型 第二次真珠湾攻撃

 二式大艇の初の実戦は真珠湾攻撃だった。戦果こそほとんど挙げることは出来なかったが、たった2機の二式大艇が太平洋を反時計回りに大きく迂回し、マーシャル島から真珠湾攻撃を行うというのは機動部隊の真珠湾攻撃に匹敵する快挙であった。このキットはその期待を再現したモデル。

 

ピットロード 1/700 スカイウェーブシリーズ 日本海軍機セット 2 九七式大艇&二式大艇

 艦艇模型の定番1/700スケールの二式大艇。九七式大艇もセット。二式大艇は大型機故に模型でも大きい。このサイズであれば5儖未覆里脳貊蠅呂箸蕕覆い世蹐Αパッケージは内地の詫間基地あたりだろうか。

 

ピットロード 1/700 スカイウェーブシリーズ 日本海軍 水上機母艦 秋津洲

 飛行艇の補給、メンテナンス専用艦艇。長大な航続距離を誇る二式大艇でも当然補給は必要。この艦の存在によって二式大艇は整備されていない基地や入り江でも運用することが可能となった。第二次真珠湾攻撃ではマーシャル島で二式大艇の最後の補給を行った。

 

二式大型飛行艇の書籍

 

川西二式飛行艇 (エアロ・ディテール)

野原 茂 (著), 飯沼 一雄 (著)
大日本絵画 (2003/3/1)

 二式大艇は終戦時に3機が残存していたが、内1機のみ現存している。本書はその1機の修復作業を掲載したもの。写真などの映像資料が多く模型製作には大いに役に立つ本だろう。

 

最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録

碇 義朗 著
光人社; 新装版 (2009/03)

 二式大艇の設計から実戦にいたるまでの記録。二式大艇を歴史的に見た本。世界最強の飛行艇が生まれて活躍する様子が良く分かる。連合国軍が最も恐れた飛行艇二式大艇の全貌が分かる。

 

長峯五郎『二式大艇空戦記』

 二式大艇下士官操縦員の手記。予科練乙飛12期という戦中派ながら熟練した技量のみならず、圧倒的な統率力で幾多の危機を乗り越える描写は圧巻。二式大艇の信頼性の高さと同時に操縦の難しさが良く分かる。

 

日辻常雄『最後の飛行艇』

日辻常雄 著
潮書房光人新社 (2013/10/31)

 海軍飛行艇部隊では著名な搭乗員の日辻氏の著書。日辻氏は海軍飛行艇隊士官として開戦当初から空戦に参加、飛行艇による魚雷攻撃も行った猛者だ。搭乗員の墓場と言われた南方にも進出し、B17と空中戦を行ったという稀有な経験を持っている。

 

まとめ

 

 終戦時、二式大艇5機、晴空6機が残存していたが、連合軍から機体の引き渡しが要求された時には3機に減少していた。現存しているのは米国に引き渡された1機のみ。1978年に船の科学館が引き取り、現在は海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に野外展示されている。

 

 


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木下悦朗「炎の翼「二式大艇」に生きる」

 木下少尉は野球部出身ということで体育会系のノリがあったのだろう。軍隊でうまくやれたようだ。さらに大学の恩師の著書を焼いてしまうという思いっきりの良さで、部下からの信頼も厚かったようだ。木下という名前から木下藤吉郎にあやかって瓢箪をマスコットにしたりとチームの団結が強いのが分かる。作戦は危険な作戦が多く、良く生き残れたなと思うほど危険をくぐり抜けている。『二式大艇空戦記』の著者、長峯五郎氏もそうだが、重防御で重武装の二式大艇といってもやはり危険なことには変わりないんだなぁと思う。

 著者が搭乗しているのが1機のみ造られた二式大艇の「K3」型で、離水すると翼端のフロートが跳ね上がる構造になっていたようだ。一般の二式大艇に比べて速度も5ノットほど速かったという。面白かったのは嚮導機として出撃した時に米軍のB-29を含む大型機と「すれ違った」ことだ。お互いに気付いていたが任務があるので何事もなく通り過ぎるという。これも戦争の「妙」なところだ。さらに特攻隊員の幽霊が出たりもしたという。

 戦場での霊に関しては横山保『あゝ零戦一代』に「ケンダリーの怪談」というのが登場する。同じように霊が現れるが、横山大尉がちゃんと足まで布団をかけて寝るようにと全隊に指示したところ霊が現れなくなったという。要は隊長の変化による幻だったようだ。本書の特攻隊員の霊もやはり夏の蒸し暑い時期に出てきているので同様の理由だろう。そういえば、「ケンダリーの怪談」は他の搭乗員の手記にも書いてあったと思うけど忘れてしまった(えへ!)。

 

日辻常雄「大いなる愛機「二式大艇」奇跡の飛行日誌」

 日辻氏は著名な飛行艇隊の隊長だ。初戦期から戦闘に参加し、南方での戦闘も経験している。この手記の中でも南方でのB-17との空中戦はすさまじい。しかし飛行艇隊は消耗が激しく、飛行艇の講習を修了した同期11名は1942年の末に日辻氏を残して全員戦死してしまう。日本海軍機で最初に電探(レーダー)を搭載したのが九七大艇であったことや飛行艇でパナマ運河を爆撃するという発想(有馬正文少将の考え)もあったことも知ることが出来る。

 本書で手記を書いている木下少尉や『二式大艇空戦記』の長峯五郎氏が参加した梓特別攻撃隊を隊長の視点から見ているのも興味深い。最後の二式大艇を操縦して米軍人を感嘆させる場面は見もの。詳しく知りたい人は日辻常雄『最後の飛行艇』を読んでみるといい。もっと詳しく書いてある。

 

山下幸晴「わが潜偵米機動部隊の直上にあり」

 これまた貴重な潜偵搭乗員の手記だ。潜偵とは潜水艦偵察機の略で潜水艦に搭載される零式小型水偵のことだ(因みに晴嵐は攻撃機)。潜偵は一度偵察に出ると生還することはかなり難しい。発艦は良くても着艦する時にまず潜水艦を見つけられない可能性がある。さらに見つけたとしても敵機に追跡されていれば母艦は潜行してしまう。そして敵機に追跡されていなかったとしても洋上の波が荒ければ着水できないこともある。

 故に潜偵乗りは非常に危険なのだ。そしてその潜偵乗りの手記はかなり貴重なものだ。山下氏の手記を読むと、潜水艦の中の生活が生々しく描写されている。入浴ができないので体中垢だらけだとか、爆雷攻撃を受けている時の恐怖心など、体験しているだけに凄まじい迫力だ。潜偵搭乗員は特攻隊員のような気持ちだそうだ。一度偵察任務が命じられたならば生還の可能性は低い。偵察時期が近づくと死の階段を一段一段登っていくような気持ちだという。

 その山下氏もメジュロ環礁の偵察が命じられる。薄暮に出撃して夜に帰還。潜偵は廃棄して搭乗員のみ収容という計画が立てられる。山下氏はメジュロの偵察を敢行し何とか無事にたどり着く。貴重な潜偵搭乗員の手記だ。他に潜偵搭乗員の手記は高橋一雄『神龍特別攻撃隊』と藤田信雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』所収くらいだろう。ただ、『トラ・トラ・トラ』はもう絶版なので入手は困難だろう(アマゾンには無かった(´;ω;`)ウッ…)。別に藤田氏が乗艦した伊25号の乗組員が書いた手記、槇幸『伊25号出撃す』等もある。

 

佐々木孝輔「翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」」

 著者は海軍兵学校67期の出身だ。飛行艇では、九七大艇、二式大艇を操縦している。九七大艇は水上滑走しながら雷撃ができることや1943年にイタリアが降伏した際、日本はイタリアを今後敵国として扱うこととなった。その時、昭南島(シンガポール)にあったイタリアの潜水艦隊が抑留され、ドイツ軍に引き渡されたが、潜水艦母艦「エレトリア」は監視の目をかいくぐって逐電してしまった等の話は興味深い。

 佐々木氏の手記の特長は特に操縦関係に関して詳しいことだ。対空砲火の中を銃爆撃している時は怖くないが帰還する時、急に怖くなる等、搭乗員でなければ分からない心理も書かれている。圧巻なのは、インド洋で潜水艦から燃料補給を受けて遠距離作戦を行ったことだ。残念ながら着水して潜水艦との合流は上手くいったものの離水に失敗して水没してしまったという。幸い、搭乗員は潜水艦に救助され無事に帰還した。

 

佐々木孝輔「南海の空に燃えつきるとも」

 これも佐々木氏の手記。初出は1984年9月で前出の手記の翌月に掲載されたものだ。前出の手記が著者の海軍生活の前半、この手記が終戦までの後半という形になっている。あの猛将角田覚治中将がテニアン島で戦死する前に著者に対してしっかり頼むと手を握りしめ、涙をポロポロ流しながら話したというエピソードや公刊戦史に記録されていない「あ」号作戦時の飛行艇隊の記録等は貴重だ。

 さらに幻の木製飛行艇「蒼空」の審査を担当していた。蒼空の記事はかなり貴重だと思う。蒼空は3階建てで人員102名を乗せる予定だった。中は畳敷きであったなど面白い。以上が本書の私が興味を持ったところだ。山下氏以外は全て飛行艇戦記である。その山下氏も潜偵戦記とかなり珍しい1冊になっている。二式大艇は海面をバウンドする「ポーポイズ」に悩まされたことは有名だ。荷物の積み方まで工夫する必要があったという。これに対して九七大艇は非常に安定した離水性能だったという。同じ飛行艇乗りのベテラン下士官北出氏は、選べる時は九七大艇に登場したという(北出大太『奇跡の飛行艇』)。

 

 

 飛行艇戦記では他に、日辻常雄『最後の飛行艇』や長峯五郎『二式大艇空戦記』等があるので興味のある方は読んでみるといいと思う。

 

 

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長峯五郎 著
光人社 (2006/12/1)

 

 私は第二次世界大戦の航空機の中で二式大艇が一番好きなので買ってしまった。二式大艇の詳しく知りたい方は下記参照。

 

 

 本書で私が一番驚いたのは長峯氏の性格である。以前、機種ごとの搭乗員の性格というのが確か坂井氏の著書か何かに書いてあったが、戦闘機と艦爆は勇猛、艦攻乗りは冷静沈着、そして水上機乗りはビックリする位温和な人が多いとかだったと思う。翻って行間から浮かび上がる長峯氏の性格は勇猛果敢でかなり戦闘向きの性格をしている。戦後は長峯水産という会社を横浜で起こしたらしいので相当な親分肌だったのだろう。

 長峯氏は乙種予科練12期というものなので実戦に参加したのは太平洋戦争中期以降である。日辻常雄氏のようにガダルカナルでの空戦を経験しているようなベテランではないが、操縦技術や統率に関する自信は並大抵ではない。すぐに実戦には参加せずに横須賀航空隊での勤務があったことが氏の練度向上に役立ったことは間違いない。当時としてはある意味幸運であったともいえる。

 長躯、トラック島に偵察機彩雲用の増槽を空輸して命からがら帰還したり、夜間着水に失敗して瀬戸内海を漂流したりとすごい経験をしている。しかしもっとも強烈なのは梓特別攻撃隊の嚮導機として特攻隊に編入されたことだろう。長峯氏は奇跡的にメレヨン島に不時着するが、司令官からの最大級の褒章が「サツマイモ5個」という飢餓の島だった。

 配給された米は量を増すために粥にしては絶対ならず(粥にして食べた人達は餓死した)、30回噛んで食べること等、貴重な経験が書かれている。長峯氏は貴重な熟練搭乗員ということで潜水艦により救出される。実は不時着が確認されて直後に潜水艦が救出に向かうが撃沈されてしまっているので二隻目の潜水艦だった。

 当時、熟練搭乗員というのがどれほど大切にされていたのかが分かる。日本海軍は戦争開始から搭乗員救出には米軍程熱心ではなかった。梅本弘『ガ島航空戦上』に詳しいが、日米航空戦で同数が撃墜されても搭乗員の死亡率は圧倒的に米軍が高い。戦争末期ほど搭乗員を大切にしていれば日本海軍航空隊ももっと戦えたと思うと残念。これは搭乗員に限らずにいえることだ。

 因みにメレヨン島に関しては戦後、海軍側責任者宮田嘉信は自決、メレヨン島最高司令官北村勝三は遺族への訪問を一年がかりで終えたのち1947年8月15日に自決している。それと本書には死んだ息子があいさつに来た等、常識では考えられないような不思議な話も載せられている。戦記物を読んでいるとたまにこういう話に出くわす。

 

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01_予科練の空
(画像はwikipediaより転載)

 

「石塚兵曹、敵が射線に入ったら知らせろ。機をすべらす、遅れるな」
「ハイッ!射線に入ったら知らせます」

 

こちらが海面を這うようにしているので、敵も効率のよい急角度では突っ込んでこれない。後上方の浅い角度に定針しようとしている。

後席の機銃がこれに連射をつづける。突っ込む敵機の機軸が、こっちに正向する。その直前、

 

「射点に入る、すべらせー!」

 

と叫ぶやいなや、途端に体がガクンと機体にぶっつけられる。旋回計の鉄球があらぬ方に飛んで、すごい力で体が機体に押しつけられ、肩と頭でようやく支える。

その一瞬、ダダダダと重機銃の斉射音とともに赤、青の曵痕跡が、右の機翼をかすめて流れた。危機一髪、まずは第一撃はかわし得た。

(本間猛『予科練の空』より引用)

 

 1944年10月フィリピン。著者、本間猛兵曹が偵察員を務める重巡利根所属の零式三座水偵はF6Fヘルキャットの追尾を受けていた。操練30期出身のベテラン操縦員松本良治少尉の操縦で零式水偵は山間部を低速、低空で飛行する。高速の新鋭戦闘機ヘルキャットでは速度が早すぎるため迂闊に突っ込むことができない。零式水偵の低速を活かした熟練の戦いであった。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 

予科練とは・・・

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

 当時、海軍の搭乗員になるには海軍兵学校から飛行学生へ行くコース、水兵から操縦練習生になるコース、そして15〜16歳の少年からパイロットを養成する予科練の3つのコースがあった。本間氏はその9期。同期には台南空の撃墜王として著名な羽藤一志がいる。

 予科練の訓練は時期により変わるが本間氏の時代では約4年。まず海軍軍人としての基礎や数学などの基礎科目を学び航空隊員として成長していく。当時の搭乗員には操縦する操縦員と航法、偵察を専門に行う偵察員に分けられる。当然、訓練生のほとんどは操縦員、特に華やかな戦闘機搭乗員を目指していた。

 

高度な専門性が必要な偵察員

 本間氏は飛行艇偵察員。著者はこの配置に対する感想を書いていない。しかし飛行艇偵察員とは操縦員に匹敵する非常に高度な知識を経験を必要とする職種である。当時の航空機は無論GPSなどなく、偵察員と呼ばれる航法専門の搭乗員が測量する。測量には天体航法、地文航法、推測航法の3種類の航法がある。

 天体航法とは星の位置から現在地を割り出す方法、地文航法とは地形の形から現在地を割り出す方法である。これらの中で最も難易度が高いのが推測航法であった。航法とは基本的には速度と距離、方角で現在地を割り出す。しかし航空機の場合、風に流されるのでその偏差を修正しなければならない。推測航法とは地形や天測を行わずこれらの数値だけで位置を測定する方法である。

 

実戦部隊配属、南方の最前線へ

02_九七式大艇
(画像は九七式大艇 wikipediaより転載)

 

 これら高度な技術を身に付けた本間氏が最初に配属されたのは飛行艇部隊のメッカ横浜航空隊である。当時の横浜航空隊は九七式大型飛行艇、通称九七大艇である。この九七大艇は全幅40mの巨人機であった。航続距離は6771kmという凄まじいものだった。しかし武装となると20mm機銃1挺に7.7mm機銃4挺と貧弱な上、装甲は無きに等しかった。

 飛行艇は通常、戦闘任務ではなく偵察、輸送、人命救助などの支援任務に就く。しかし当時の海軍航空隊は飛行艇での雷撃も行った程で横浜航空隊も後方とは程遠いマーシャル諸島に派遣され最前線での活動となった。このため「消耗品」と呼ばれた搭乗員の負担は激しく、精神的な疲労と共に戦友達の多くは冥界に旅立ってしまった。本間氏はソロモン方面含め数々の修羅場を体験していく。この間に乗機は「空中巡洋艦」と称された二式大艇に変更された。

 

 

 

重巡利根水偵隊へ転属

03_重巡利根
(画像は重巡洋艦利根 wikipediaより転載)

 

 1944年2月、本間氏に内地での教員配置が命ぜられる。平和な空気を満喫したのもつかの間、半年後には重巡洋艦利根搭載水上機の搭乗員を命ぜられる。乗機は三座水偵で、1940年に制式採用された愛知飛行機製水上偵察機である。最高速度367km/hと低速ではあるが、太平洋戦争初戦期には活躍した機体であった。

 当時の戦艦や巡洋艦に搭載されていた水上機の搭乗員は実戦に出る機会が少なく比較的練度の高い搭乗員が多く在籍していた。本間氏の操縦員松本良治少尉も下士官から士官に昇進した特務士官であり本間氏の上を行く熟練搭乗員であった。

 

高速偵察機「彩雲」搭乗員として

04_彩雲
(画像は偵察機彩雲 wikipediaより転載)

 

 このペア(同乗している搭乗員をそう呼ぶ)で本間氏はあのレイテ沖海戦に参加することになる。その結果は周知の通り惨敗。大型艦の出番が無くなったため艦載水偵隊は解散することとなる。解散した熟練者揃いの水偵隊の搭乗員は陸上機に転科することになるが、低速水偵で苦い思いをした水偵隊員達の一番人気は高速偵察機彩雲であった。

 水偵隊が陸上機に転科する時、ペアはそのまま維持される。本間氏のペアも彩雲を希望した結果、希望が通り水偵時代そのままのペアで偵察機彩雲で最後の戦場に出るのだった。

 

 

まとめ

 

 本間猛『予科練の空』は、あまり注目されない飛行艇偵察員の戦記である。熟練搭乗員であった本間氏は太平洋戦争初戦から終戦まで最前線で戦い続ける。登場した航空機も九七式大艇、二式大艇、零式水上機、彩雲と多彩である。搭乗員から見た航空機という視点は重要である。地獄の戦場を体験することは多くの人にとってはないだろう。本書はその経験を凄まじい臨場感を以って伝えてくれる。夢中になって読んでしまった。

 

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