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久保富夫

01_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機九七式司令部偵察機の後継機で三型で最高速度630km/h、四型では10,000mでも同速度を発揮した。これは日本陸海軍実用機中最高速度である。太平洋戦争開戦から終戦まであらゆる戦場に現れ情報収集に活躍した。

 

百式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.70m
全長 11.00m
全高 3.88m
自重 3,263kg
最大速度 604km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで20分15秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 1,050馬力×2基
航続距離 4,000km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

背景から開発まで

 九七式司令部偵察機の活躍は陸軍に戦略偵察機の重要性を認めさせるには十分であった。しかし九七式司令部偵察機は司令部偵察機としては暫定的なもので固定脚であること等、性能に不満な点も残るものであった。このため陸軍は本格的な司令部偵察機の開発を計画することになる。この時の性能要求は引込脚で最大速度が高度4,000mで600km/h以上、航続距離が巡航速度400km/hで6時間という厳しいものであった。特に写真撮影のために水平直線飛行性能が良好であることが強く求められた。

 

開発

02_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月27日、陸軍は三菱重工に次期司令部偵察機をキ46として試作を命じた。これに対して三菱重工は、設計主務者を九七式司令部偵察機と同じ久保富夫技師として設計にかかった。まずエンジンは、敵地深くに侵入した際にも安全性を確保できるようにハ26(850馬力)の双発とし、構造上、空気抵抗が大きくなってしまう空冷エンジンの不利を極小化するためにエンジンナセルを始め流線形のデザインを取り入れた。本機はその後、日本陸海軍を代表する傑作機と言われるが、本機の要求に関して陸軍は細部にまで注文を付けず、メーカーに自由に設計を行わせたことにあるとも言われている。

 1939年11月(8月とも)、試作1号機が完成、同月に初飛行に成功する。その後、基本審査、実用実験、寒冷地試験等の各種試験が行われ1940年8月(6月とも)10日試験が完了した。試験の結果、安定性、操縦性などに関しては非常に優秀であったものの、最高速度が540km/hと性能要求の600km/h以上に遥かに及ばなかったが、1940年9月下旬に百式司令部偵察機として制式採用された。この間に試作機、増加試作機含め7機が製造されている。

 

二型

 1941年3月、キ46のエンジンをハ102(1050馬力)に換装したキ46兇了邵遒行われた。このハ102に換装した況燭蝋眦5,800mで最高速度604km/hを記録、改良により自重は増加したが燃料搭載量も増大したため航続力も374km長くなった。但し、自重が増えたため着陸速度が増大し、着陸距離が儀燭606mから706mと100mほど長くなった。同時に翼面荷重も若干増大している。二型の試験は1年以上に及び、1942年5月に試験が完了、翌月に百式二型司令部偵察機として制式採用された。この二型は、初期こそ脚破損等の問題点が発生したが種々の対策により解消されている。

 この二型は大戦時に最も活躍した型であったためいくつかのバリエーションが存在する。B17迎撃用として37mm戦車砲を搭載した型がある。これは1942年12月末に設計開始、1943年1月に1号機が完成した。この機体は17機(15機とも)製造され、同年2月にラバウルの飛行第10戦隊に送られた。1944年11月には6機に斜め銃が取り付けられた。さらには現地部隊で翼端を25cm切断した機体もあったようだ。この機体は速度こそ10km/hほど向上したものの離着陸が非常に困難であったという。

 

三型甲

 二型が初飛行を行った1942年5月、三型の開発が命じられている。これはエンジンを水メタノール噴射式のハ112供1,500馬力)に変更したもので、エンジンが大型化したため新たに抵抗の少ないエンジンナセルを製作、同時に航続距離を延長するために燃料タンクを増設した。さらに後部の7.7mm機銃は効果が無いため撤去、胴体燃料タンクには防弾ゴム被覆が施された。

 1943年3月に試作1号機が完成、1944年3月に基本審査が完了したのち1944年8月に百式三型司令部偵察機として制式採用された。

 最高速度は高度6,000mで630km/hと日本陸海軍の実用機中最速を記録した。大きな欠点はなかったものの酸素装置の性能不良、自動操縦装置の不良、脚の強度不足等の問題が実戦部隊から指摘された。後期生産機からは推力式単排気管が採用されている。

 

三型乙(百式司令部偵察機三型防空戦闘機)

 1943年6月、審査中の二型の防空戦闘機型の開発を開始。1944年8月、試作1号機が完成した。これは機首に20mm機関砲2門搭載、それまで胴体と一体化して流線形を構成していた風防を段付きに変更、推力式単排気管を採用した。乙型は90機(75機とも)が改造され、内、15機が37mm上向砲1門を搭載した三型乙+丙であった。

 

四型

 三型に排気タービン過給器を装着した型で、1943年12月に試作1号機が完成、1944年1月12日初飛行をした。排気タービン過給器を装着したため細部に改造が行われた。このため自重は179kgしたものの高高度性能はずば抜けており、高度10,000mで630km/hを記録した(三型は580km/h)。基本審査は1945年8月に完了、同年9月より量産に入る予定であった。

 

生産数

03_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 儀燭試作機3機、増加試作機5機、生産機26機の合計34機が生産されている。二型は試作機4機、生産機1,093機の合計1097機、三型は試作機を含め611機が生産された(内4機が四型に改造されている)。合計の生産数は1,742機である。現在はイギリスに三型甲が1機が完全な姿で残されている(上掲画像)。

 

戦歴

 1940年11月に制式採用された百式司偵は、1941年8月に北支に展開していた独立飛行第16中隊に配備、これが初めての実戦部隊への配備であった。その後、この独飛16中隊は飛行第81戦隊に改変、11月には仏印サイゴンに進出、マレー方面の隠密偵察を行っている。太平洋戦争の開戦を迎えると81戦隊と同じく百式司偵を装備した第15独立飛行隊によってシンガポールの偵察が行われた。

 その他にも初戦期の蘭印航空戦、パレンバン空挺降下の事前偵察を行う一方、ビルマ方面でも81戦隊が百式司偵による偵察を実施、81戦隊は終戦まで同地で偵察活動に活躍している。南方では1942年7月に独飛70戦隊がニューギニアに進出、10月には独飛76中隊がラバウルに進出しており、それぞれニューギニア、オーストラリアやソロモン方面の偵察に活躍した。1943年6月には独飛74中隊、81中隊がニューギニアに進出、さらに1944年1月には満洲から進出した独飛82中隊も進出した。

 1944年5月には満洲から15戦隊がニューギニアに進出、海軍指揮下に入り洋上航法を習得したのちニューギニア北岸の偵察、さらには「あ」号作戦開始に伴いパラオ、ペリリュー島に進出して洋上での索敵を行ったのち、9月には比島に移動している。一方、同時期に満洲から比島に進出した2戦隊もダバオに進出、同じく海軍指揮下で洋上航法の訓練を受け6月にはパラオ島、ペリリュー島に進出、7月には同隊も比島に移動した。

 1944年10月には台湾沖航空戦が行われるが、この航空戦でも百式司偵を装備した10戦隊が米機動部隊索敵に出撃し、接触に成功、写真撮影を行い帰還している。この頃には百式司偵三型に改変した15戦隊、38戦隊が比島に進出、1945年2月には全ての戦隊が内地に帰還した。蘭印方面ではニューギニアで消耗した独飛74中隊が百式司偵三型に改変して同方面に進出、哨戒活動に従事している。1945年3月には台湾に展開していた第10戦隊が沖縄方面の偵察活動に参加、満洲では独飛81中隊と第42教育飛行隊が終戦まで活動している他、中国大陸では18中隊が同じく終戦まで活動している。

 そのほか、北東方面(現在の北方領土)でのアッツ島偵察やマリアナ強行偵察、本土防空戦での武装司偵によるB29迎撃等、百式司偵は多くの方面で活躍した。

 

まとめ

 

 百式司令部偵察機の成功は、陸軍が設計の細部に至るまで首を突っ込まなかったことになると言われている。その結果、実用機中最高速度を発揮、その高速は海軍にも注目される程であった。四型に至っては高度10,000mで630km/hを記録している。この高空性能に注目した陸軍は防空戦闘機型も開発したものの偵察機用に設計された機体は強度的に急機動には耐えられず目立った活躍はしなかった。

 

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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

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01_九七式司令部偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式司令部偵察機は三菱重工が開発した世界初の戦略偵察機で最高速度は陸軍の性能要求を上回る480km/hを発揮、当時最新鋭の陸軍の主力戦闘機九七式戦闘機の最高速度444km/hを40km/h近く上回っていた高速偵察機であった。この高性能は海軍にも注目され、九八式陸上偵察機として制式採用された。

 

九七式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.00m
全長 8.70m
全高3.34m
自重 1,592kg
最大速度 510km/h(高度4,330m)
上昇力 5,000mまで6分49秒
上昇限度 11,900m
エンジン出力 900馬力
航続距離 2,400km
武装 7.7mm旋回機関銃(テ4)
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

偵察機の違い

 日本陸軍には軍偵察機、直協偵察機、司令部偵察機という3種類の偵察機があった。当初は単に偵察機と称していたが、1935年末に初めて遠距離偵察をする航空機、部隊に直接協同する偵察機の2種類に分けられた。そして1937年になるとこれらに司令部偵察機が加わり、3種類の偵察機が存在するようになった。

 具体的には遠距離偵察・爆撃を専門とする偵察機は「軍偵察機(軍偵)」、地上部隊(特に砲兵)への協力・指揮連絡を行う偵察機を直協偵察機(直協)、そして航空情報の蒐集、戦略上の要地の偵察を行うのが司令部偵察機である。

 この司令部偵察機が要求されている性能とは、当時の最優秀戦闘機よりも高速であること、高高度で隠密偵察が出来ること、そして複座であることが求められている。最後の複座であることは、当時、電子機器が未発達のため偵察員の搭乗を意味する。これらを満たすことを条件として九七式司令部偵察機は計画されることとなった。

 

開発

 1935年7月23日(11日説もあり)、陸軍は三菱重工に対してキ15という名称で司令部偵察機の試作指示を出した。三菱では久保富夫技師を設計主務者として設計を開始、1936年5月には1号機を完成させた。発動機はハ8(750馬力)を採用、固定脚ではあったが、沈頭鋲を採用した全金属製の低翼単葉機でカウリング等も空気抵抗の少ない形状を採用していた。

 試作機は2機製作され、早速、審査が行われた。試作指示の段階で陸軍が要求していた性能要求は最高速度450km/h以上であったが、この試作機は最高速度480km/hを記録、性能要求よりも30km/hも高速を発揮した。前方の視界不良等のいくつかの点で問題はあったもののおおむね問題は無かったが、当時、未だ戦略偵察機の価値を理解しない一部の論者は採用に難色を示した。

 1937年2月になると前述の偵察機3種類の分類が決定、これを受け同年5月には増加試作機が完成、各部に微修正が施された後、1937年5月九七式司令部偵察機として制式採用された。この試作機の内、2号機は朝日新聞社に払い下げられ神風号と命名、1937年4月6日、立川飛行場を離陸、台湾、中東、イタリア、フランスを経由し、4月9日ロンドンへ着陸する。これは世界初の偉業であった。

 

2型

 エンジンを空冷14気筒ハ26機900馬力)に換装した型。1938年1月に先行試作機が完成、6月には試作が指示された。この2型は最高速度が30km/h向上、510km/hとなり、同時に上昇性能も向上した。1939年9月に制式採用され生産が開始された。

 

九八式陸上偵察機(海軍)

 当時、長距離偵察機の必要性を痛感していた海軍は、この九七式司令部偵察機2型の高性能に注目、陸軍の了承の下に発動機を瑞星12型に換装し各種艤装を海軍式に変更したものを九八式陸上偵察機11型として制式採用した。さらに1941年、エンジンを零戦と同じ栄12型(940馬力)エンジンにしたものを12型として制式採用した。

 

3型

 1939年発動機をハ102(1,080馬力)に換装した3型が試作された。これにより最高速度が530km/hに達したが、すでに後継機としてキ46(のちの百式司令部偵察機)がさらに高性能を記録していたため2機が試作されたのみで製作は中止された。

 

生産数

 合計で437機が製造された。九八式陸上偵察機は11型が20機、12型が30機である。

 

戦歴

 九七式司偵の活躍の場はすぐに訪れた。制式採用の2ヶ月後の1937年7月7日、盧溝橋事件が発生、同月26日には九七式司偵による偵察が行われている。その後1機が北支に進出、さらに2機が増強された。そして1938年3月14日には臨時独立飛行第1中隊が編成、1939年秋頃からは2型も配備されるようになり、仏印進駐、ノモンハン事件でも重要な役割を果たした。

 太平洋戦争が始まると九七式司偵は飛行第2戦隊、8戦隊、81戦隊、独飛50、51、63、70、76、81、101中隊に配備され各地の偵察に活躍、多くの犠牲を出しながらも任務を遂行していたものの、1941年8月頃から百式司偵の配備が進み九七式司偵は前線から徐々に消えていった。

 

まとめ

 

 九七式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機として日中戦争から太平洋戦争中期まで活躍、その座を百式司令部偵察機に譲った。特に試作2号機が東京からロンドンまで51時間で飛行、世界新記録を樹立したことが有名である。三菱が生んだ傑作機である。

 

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01_キ83
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ83とは大戦末期に試作機が完成した双発複座戦闘機であった。構造は極めてユニークで一見双発単座戦闘機のように見えるが、後席が胴体内にある機体であった。高空性能、速度ともにずば抜けており、特に速度は762km/hと日本機の最速記録であった。試作機4機が完成したが3機は事故と空襲で消失、終戦時には1機のみが残存した。

 

試作遠距離戦闘機 キ-83 〜概要〜

 

性能

全幅 15.50m
全長 12.50m
全高 4.60m
全備重量 9,430kg
上昇力 10000mまで10分30秒
上昇限度 12,660m
最大速度 686km/h(高度8000m)
エンジン出力 1930馬力×2基
航続距離 3,500km(増槽装備時)
武装 30mm機関砲(ホ5)2門
   20mm機関砲(ホ203)2門
   50kg爆弾2発または250kg爆弾2発 設計開発 三菱

 

背景から開発まで

 日中戦争において戦闘機による掩護を受けられなかった日本軍の爆撃機はしばしば甚大な損害を受けた。これを受けて爆撃機に随伴できる長距離戦闘機の開発が指向されたのと同時に当時活躍していた戦略偵察機である百式司令部偵察機の後継機の必要性もあり、陸軍は百式司偵を開発した三菱1社に対して特命で試作命令が発せられた。

 

開発

 1941年5月23日、三菱に対して爆撃機掩護用の長距離戦闘機の開発が指示された。この指示の設計基礎要求は、行動半径1500kmプラス2時間の余裕、最高速度は680km/h以上、将来の目標として720km/h以上という苛烈さで、さらには燃料タンクの防弾、搭乗員保護用の防弾版の設置等、非常に厳しい要求であった。これに対して三菱は設計主務者を久保富夫技師として作業を進め1942年4月に実物大模型を完成させたが、現場サイドから戦闘機は小型であるべきであるという強硬な意見が出されたため作業は混乱した。

 以降、陸軍と三菱の間で仕様の決定に手間取り、最終的に仕様が決定したのは1943年7月であった。決定した仕様は、双発複座戦闘機であること、最大速度800km/h以上(高度10000m)、実用上昇限度13000m、武装は前方に30mm機関砲3門、20mm機関砲2または4門、そしてエンジンはハ211を使用するというもので、行動半径こそ1046kmプラス2時間と緩和されたが、それ以外の要求はさらに過酷になっていた。

 これを受けて三菱側は設計を進め、1944年10月には試作1号機が完成した。発動機は海軍の試作艦上戦闘機”烈風”にも搭載された三菱製ハ211ル(海軍名)である。これは同社製14気筒金星エンジンを18気筒化した上に排気タービン過給器を装着したものであった。これにより高度9500mでも1720馬力を発揮することが可能であった。

 機体は百式司偵を彷彿とさせる流線形の非常に美しいフォルムで、風防は操縦席のみ涙滴型風防を装備、後席は胴体内に収められている。後席の視界は上面、左右面に窓により確保されている。操縦席と後席の間には巨大な燃料タンクがあり、連絡は通話装置を使用して行われる予定であった。防弾装置としては操縦席後方には厚さ12mmの防弾鋼板を装備、往路で使用する翼内燃料タンクには防弾装置は設けられなかったものの、胴体内燃料タンクは16〜30mmの防弾ゴムで覆われていた。

 武装は30mm機関砲(ホ155)が機首上段に2門(弾数各80または100発)、20mm機関砲(ホ5)が機首下段に2門(弾数各160または200発)が装備された。全体的にコンパクトに収められた機体であったが、自重は重く、翼面荷重は262.5km/屬醗貅粟鐺機の2.6倍にも達していた。

 1944年11月より飛行試験に入ったが、性能は全体的に良好であり、速度は高度8000mで686.2km/hを発揮した。この結果を受けて翌年1月に試作2号機、3月に3号機、4月に4号機が完成した。1、2号機には排気タービンと中間冷却器が装備されたが3、4号機はタービン関係以外の試験を促進するため単排気管となった。

 しかし同年3月、2号機のテスト飛行中に風防が飛散、これが操縦者に当たり搭乗員は殉職、機体は墜落大破した。さらに3、4号機は6月25日の各務原への空襲で大破消失、1号機のみ当時大本営が建造中であった長野県松本市へ移動し、引き続き試験が行われていたが終戦となった。戦後は米軍の手により試験が行われた際には762km/h(高度7000m)を発揮、日本機としては最速記録であった。

 

司偵型(計画のみ)

 当初はキ83乙、その後キ95と称された機体で司令部偵察機用に武装を撤去し機首に偵察席を設置する予定であったが、後に計画が変更され20mm機関砲を装備することとなった。これとは別に襲撃機型のキ103も計画されていた。

 

生産数

 合計で4機の試作機が完成した。2号機は試験飛行中の事故で墜落、3、4号機は空襲で大破。終戦時には1号機のみが残存していた。この一号機は戦後、再整備の後に米軍の手に引き渡され、米軍のテストパイロットヘンリー中尉の手でテストが行われた。この際に高度7,000mで最高速度762km/hと日本戦闘機最速を記録している。

 

まとめ

 

 キ83は最高速度762km/hという高速に加え、排気タービンによる高い高空性能と長大な航続距離を持った戦闘機で仮に量産されていたとすれば百式司偵に続く司令部偵察機や本土防空戦においてB-29迎撃機として活躍したことが想像される。大戦末期に三菱が作り出した究極の戦闘機であった。

 

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