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中島飛行機

01_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 艦上攻撃機 天山とは、太平洋戦争中に完成した日本海軍の攻撃機でその性能は防弾性能と機銃の能力以外は、同時代の米海軍雷撃機TBFアベンジャーの性能を遥かに凌いだものであった。1943年に前線に配備された後、終戦まで活躍した。

 

艦上攻撃機 天山 〜概要〜

 

 

性能(12型)

全幅 14.894m
全長 10.865m
全高 3.820m
自重 3,083kg
最大速度 481.5km/h(高度4,000m)
上昇力 5,000mまで10分24秒
上昇限度 9,040m
エンジン出力 1,850馬力
航続距離 1,746km(正規状態)
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃2挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

02_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年12月、海軍は、九七式艦攻に代わる次期艦上攻撃機の開発を計画、十四試艦上攻撃機という名称で中島飛行機に開発を指示した。これを受けて中島飛行機では、松村健一技師を設計主務者として開発を開始、1941年春には試作1号機が完成した。同年3月14日には初飛行した。

 十四試艦攻は、エンジンを当時、未だ開発中であった国産エンジンの中で最大のパワーを持つ護11型(1,870馬力)を採用、プロペラは3.5m4翅プロペラが装備された。機体は大型化し全長は空母のエレベーターに乗る11mギリギリになり、重量も九七式艦攻の2,200kgに対して3,800kgと1,5倍以上増加したが主翼は切り詰められた。このため翼面荷重は139.78kg/屬塙發た字となった。尾輪は引込式で、武装は左翼内に7.7mm機銃1挺、後上方、後下方に7.7mm旋回機銃各1挺が装備された。この新たに装備された後下方機銃は、防御用と共に魚雷投下後に艦上を掃討することを想定して装備された。

 

トラブルが多発

 初飛行には成功したものの、最新の護11型エンジンはトラブルが多く、機体自体にもトラブルが多発した。これらのため海軍に領収されたのは初飛行から4ヶ月後の7月19日になってからであった。海軍による性能試験の結果、最高速度は465km/hと性能要求を上回り、その他の項目もおおむね性能要求を上回っていたが問題が多く、改修、改造などが続けられた。

 1942年末には性能試験が完了し離着艦試験に入ったが、十四試艦攻はこれまでにない重量であったため着艦フックの破損や母艦の着艦ワイヤーの切断といった事故が多かった上、母艦からの離艦距離が長いことも問題となった。離艦距離の問題は胴体両側に離艦促進用ロケット(RATO)を装備することで解決、その他の問題も強度や形状を変更することで解決した。

 

制式採用

 1943年2月、戦局の悪化から審査完了を待たずに生産を開始、生産しつつ改良が加えられた。合計で133機生産されたが、7月には十四試艦攻の性能向上型の開発が始まったため生産が打ち切られた。8月には護12型エンジンの制式採用が決定、8月30日には護12型エンジンを搭載した十四試艦攻が制式採用された。制式採用の名称であるが、1943年7月27日付けで改定された『航空機名称付与様式』によってそれまでの年式から山名に命名規則が変更されたため十四試艦攻の制式名称は天山11型となった。

 11型の性能は、最高速度が464.9km/h(高度4,800m)、上昇力が高度5,000mまで11分、実用上昇限度が8,650m、航続距離が正規状態で1,463km、過過重で3,447kmであった。

 

12型

03_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に換装した型で1943年6月に生産開始、1944年3月17日に天山12型として制式採用された。エンジン換装と同時に排気管を推力式単排気管に変更された。尾輪は固定式となっている。性能は、最高速度が16km/h向上して481.5km/h、高度5,000mまでの上昇時間が36秒短縮され10分24秒、実用上昇限度も8,650mから9,040mに向上、航続距離も1,463kmから1,746kmに増加した。

 1944年11月には後上方機銃を13mm旋回機銃、後下方銃を7.9mm機銃に換装、さらに三式空6号無線電信機四型(レーダー)を搭載した12甲型が制式採用された。この12型の内2機は、エンジンを火星25型丙に換装、尾輪を引込式に戻し、カウリング、風防などを再設計した仮称天山13型が試作されている。

 

生産数

 11型が133機、12型、12甲型が1,133機、合計1,266機生産された。

 

戦歴

 

新鋭艦攻第一線へ

 天山を最初に受領した部隊は1943年7月1日に開隊した第531空である。制式採用前であったが18機を保有していた。次に配備されたのは1943年9月1日に開隊した第551空で当時スマトラ島に展開していた同部隊に24機の天山が空母千代田で輸送された。最初に天山を受領した第531空が南東方面カビエン(ラバウルの北にある島)に進出。当時同地域に展開していた第582空に編入された。初出撃は、12月3日の第六次ブーゲンビル沖航空戦で6機の天山が出撃、戦果を記録したものの米側には損害の記録はない。

 実戦部隊に配備された天山は時速250ノットに達すると尾部に振動が発生、そのまま操縦不能となり海中に突入するという事故が複数発生した。このため551空天山隊はシンガポールで尾部の補強工事を受けた後、1944年2月11日には内南洋トラック諸島に到着した。しかし2月17日にはトラック島大空襲に遭遇、所属機のほとんどを消失、残った天山も4月30日の敵機動部隊攻撃により全機を失った。その後6月3日には551空に天山11機が補充され「あ」号作戦に参加した。同時期、攻撃256飛行隊天山14機が八幡空襲部隊として硫黄島に進出、数回にわたって敵艦船に雷撃を行っている。

 

マリアナ沖海戦

 6月19日には日本海軍史上最大規模の機動部隊である第一機動部隊と米海軍機動部隊がマリアナ沖で激突した。第一機動部隊は空母大鳳、翔鶴、瑞鶴で編成された第一航空戦隊、隼鷹、飛鷹、龍鳳で編成された第二航空戦隊、千歳、千代田、瑞鳳で編成された第三航空戦隊の空母部隊を基幹としていた。この内、一航戦には天山が44機、二航戦には18機、三航戦には9機(旗艦千歳のみ。他は九七式艦攻)が配備されている。海戦の結果はVT信管とレーダーを駆使した米艦隊の一方的な勝利で海戦が終わった時、残存していた天山は一航戦が1機、三航戦が5機の僅か6機のみであった。

 

終戦まで

 1944年4月29日、天山13機装備の553空が千島列島最北端の占守島に進出。北海道から千島列島の哨戒任務についたが553空は天山1機と九七艦攻4機を残して比島に進出した。この1機の天山は1945年春に事故により失われている。

 1944年夏には新たにT攻撃部隊が発足。天山装備の攻撃262飛行隊が同部隊に編入された。同年10月には台湾沖航空戦が勃発、T攻撃部隊他、攻撃256飛行隊23機、攻撃252飛行隊24機、攻撃263飛行隊29機、634空10機の合計86機の天山が参加しているものの実際には目立った戦果はない。

 その他、エンガノ沖海戦を始め比島航空戦にもしばしば10機程度の少数機による索敵、攻撃が行われている。1945年になると特攻隊である第二御楯隊に天山が編入、いよいよ天山も特攻に使用されるようになってくる。この攻撃で雷装の天山艦攻が護衛空母ビスマルク・シーに止めを刺した可能性が高い。

 1945年3月になると沖縄戦の前哨戦である航空戦が展開されるがこの攻撃にも攻撃251飛行隊の天山22機が参加している。沖縄に集結している米軍に対して海軍も各航空隊を九州に集結、天山も攻撃251飛行隊に加え、254飛行隊、256飛行隊の計34機、210空13機、601空の合計103機の天山が動員、さらに台湾には攻撃252飛行隊の14機、253飛行隊の14機が終結、沖縄航空戦に参加している。これらの天山隊は一部特攻隊として編成されたものの多くは少数機による地味な攻撃を行った。

 これら以外には艦攻という機種が海上護衛に適していたため多数機が海上護衛部隊で使用されている。

 

艦上攻撃機 天山の関係書籍

 

肥田真幸『青春天山雷撃隊』

肥田真幸『青春天山雷撃隊』
肥田真幸 著
光人社 2011年

 海軍兵学校67期という戦前に飛行学生を終えた最後の期出身の著者。太平洋戦争中盤まで内地で教官任務に就いたのち、天山を2番目に配備された部隊の隊長として実戦に参加。多くの修羅場をくぐり抜け終戦まで戦い続けた。天山の後部機銃を20mm機銃に変更して実戦で使用する等、興味深い。

 

まとめ

 

 天山は試作機完成後に故障が相次ぎ、制式作用、前線に登場するのが遅れた攻撃機であったが、基本性能は非常に高く、防弾装備と機銃以外は同時期の連合軍雷撃機の性能を遥かに上回っていた。高性能であったが前線に登場するのがあまりにも遅かったため戦局に決定的な影響を与えることが出来なかった悲運の航空機である。

 

 

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01_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍は、戦闘機の援護を不要とすることを目的に設計された陸軍の重爆撃機である。このため設計者も一式戦闘機隼、二式単戦鐘馗を手掛けた小山悌技師を充て開発に乗り出した。結果、九七式重爆と大差ない重爆撃機となってしまったため歴史の中に埋もれてしまった。

 

百式重爆撃機 呑龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 20.42m
全長 16.81m
全高 4.25m
自重 6,540kg
最大速度 492km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで13分39秒
上昇限度 9,300m
エンジン出力 1,520馬力2基
航続距離 2,000km(正規)
武装 20mm機関砲1門、7.92mm機銃5挺
爆装 最大750kg
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は中島飛行機に対してキ49の名称で九七式重爆の後継爆撃機の開発を指示した。性能要求は最高速度が九七式重爆の400km/h以上であったのに対して、500km/h以上、航続距離も九七式重爆の1,500〜2,100km以上に対して3,000km以上、爆弾搭載量は九七式重爆の750kgに対して1,000kgと増加していた。これに対して中島飛行機は、これまで重爆を手掛けていた松村健一技師に代わり(海軍機部門に転属)隼や鐘馗を設計した小山悌技師を設計主務者として開発を開始した。

 この設計主務者に小山技師を据えた判断は陸軍の要求が最高速度500km以上を要求する高速重爆であったため、戦闘機の設計を主に行っていた小山技師に白羽の矢が立ったものであるのだろう。その結果完成した重爆は、太い胴体に平面形の主翼というまさに戦闘機の性格を持った重爆であったと言える。

 1939年8月中旬、試作1号機が完成、本来、エンジンはハ41(1,260馬力)が搭載される予定であったが、生産が間に合わずハ5改(1,080馬力)が搭載されたが、ハ41を搭載した2号機、3号機が完成すると1号機もハ41に換装された。

 上昇力は5,000mまで14分、上昇限度は9,000m、航続距離3,400kmでほぼ要求を満たしたものであったが、最高速度は490km/h、爆弾搭載量は750kgと要求を下回っていた。武装は後上方に20mm機関砲1門、その他前面、尾部、両側面に7.7mm機銃各1挺を装備、合計6挺もの機銃を装備していた。

 1939年9月から年末にかけて基本審査が行われ、1940年1月に実用実験開始、同年8月に制式採用となるはずであったが、この時期、同時進行で開発されていた九七式重爆2型と性能がほぼ拮抗してたため問題となったが、将来の拡張性を考慮した結果、1941年3月、キ49は百式重爆として制式採用された。愛称は中島飛行機太田工場のある太田市にある大光院新田寺の通称「呑龍様」から呑龍と命名された。

 

2型

03_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍の制式採用の条件が性能向上型の開発であったこともあり、1941年3月、制式採用と同時に2型の研究が開始された。2型はエンジンをハ41の発展型ハ109(1,500馬力)に換装、最高速度は492km/h、上昇力が高度5,000mまで13分39秒、実用上昇限度が9,300m、航続距離が2,000〜3,000kmと1型に比べて僅かに性能が向上していた。1943年8月、基本審査完了、1943年6月には百式重爆2型として制式採用された。

 2型甲は、武装が後上方20mm機関砲(ホ1)、前部、側面両側の機銃を7.92mm機銃に変更、さらに尾部機銃を7.92mm連装機銃とした型であった。2型乙は甲の尾部銃座を12.7mm機関砲(ホ103)に変更した型であった。この乙の一部には推力式単排気管が装備されていた。丙型は電波警戒器タキ1(レーダー)を搭載した哨戒機型で推力式単排気管を装備した型で2型の内35機が改造された。

 

3型

 エンジンをハ107(2,000馬力)またはハ107を2段2速過給器に変更したハ117(2,470馬力)に換装した型である。1941年12月に試作1号機が完成したが、エンジンの開発に手間取ったため、完成したのは1942年4月末であった。1、2号機はハ107仕様であったが、1942年8月上旬に完成した3号機はハ117仕様であった。1943年12月百式重爆3型として制式採用された。

 機体自体にも大幅な改良が加えられ、ナセル間隔の増加、脚の高さの延長、水平尾翼の面積が増加された。武装も尾部機銃が20mm機関砲に変更、後上方、後下方が12.7mm機関砲に変更、爆弾搭載量も当初の要求通りに1,000kgに増加した。同時に燃料タンクの容量も1,000L増加されている。

 性能はハ107装備機が最高速度569km/h(高度4,800m)、ハ117装備機が540km/h(高度5,500m)で、上昇力も5,000mまで10分30秒と向上したが、実用上昇限度は8,500mに低下した。この3型は制式採用は決定したもののキ67(四式重爆飛龍)の開発に重点を置くため6機が製作されたのいで終わった。

 

キ50・キ58・キ80

 キ50は空中給油機型で試作のみ行われた。キ58はキ49の機体をベースとした爆撃機直接掩護用の多座戦闘機である。胴体上面に20mm機関砲を追加、20mm機関砲5門、12.7mm機関砲3門を装備していた。3機が試作されたのみで終わった。キ80は同じくキ49の機体をベースとした空中式用の機体で2機が試作された。

 

生産数

 百式重爆は合計819機(または832機、796機)が生産された。

 

戦歴

 最初に百式重爆が実戦配備されたのは1942年7月から8月にかけてで、配備された部隊は満洲に展開する飛行第7戦隊と第61戦隊であった。両部隊ともに九七式重爆からの改変で、改変が完了した9月には南方進出が決定、10月には7戦隊がジャワ島、61戦隊がスマトラ島に到着、海上を哨戒しつつ洋上航法や艦船攻撃の訓練を行った。

 1943年3月になると7戦隊はビルマに帰還する12戦隊に代わりスラバヤに進出するが、4月には装備機を百式重爆2型に改変するために浜松に帰還、スラバヤにはジャワ島の61戦隊が進出した。6月になると61戦隊にポートダーウィン攻撃命令が下り、一式戦闘機隼を装備する59戦隊などと共にチモール島ラウンテン飛行場に進出、数度の攻撃に参加したのち61戦隊も百式重爆2型に改変するために内地に帰還している。1943年7月になると百式重爆に改変した7戦隊が再びジャワ島に進出、さらに同月ニューギニアのブーツ東飛行場に進出、8月には7戦隊同様百式重爆2型に改変した61戦隊もニューギニアに進出したものの11月までには両戦隊ともに戦力のほとんどを失ってしまったため、1944年2月には7戦隊は人員の一部を61戦隊に転属させ内地に帰還、その後61戦隊は少数機による作戦を実施している。

 その他百式重爆を装備した戦隊であるが、1943年5月になると満洲に展開する74戦隊、95戦隊にも百式重爆が配備、1944年1月には62戦隊にも1型が配備されている。1944年2月になると満洲に展開していた74、95戦隊は内地に展開して哨戒、訓練を行ったのち9月には比島に進出、62戦隊もマレー半島に進出したのち10月には比島に進出して多くの作戦に参加、1944年12月には62戦隊、1945年1月には74戦隊、95戦隊も内地に帰還した。

 

まとめ

 

 百式重爆呑龍は傑作爆撃機九七式重爆と四式重爆撃機の間に挟まれた目立たない爆撃機で、同時期に製作された九七式重爆2型と性能はほぼ拮抗していたが、将来性を見込んで採用した機体であった。3型まで改良された時点で性能は大幅に向上したが、四式重爆の開発が始まってしまったため開発は打ち切られてしまった悲運の爆撃機であった。

 

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01_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 連山は太平洋戦争中期に計画、末期に完成した大型陸上攻撃機である。目的は遠距離の米軍基地を破壊するためのものであったが、試作機が完成した時点ではもはや戦局はひっ迫しており、試作機のみで生産は打ち切られた。戦後、米国でテストされたがエンジン不調のためその飛行性能は分からず仕舞いである。

 

大型陸上攻撃機 連山 〜概要〜

 

 

性能(一部計画値)

全幅 32.54m
全長 22.93m
全高 7.20m
自重 17,400kg
最大速度 593km/h(高度8,000m)
上昇力  -
上昇限度 10,200m
エンジン出力 2,000馬力4基
航続距離 3,700〜7,470km
武装 20mm機銃6挺、13mm機銃4挺
爆装 2,000kg爆弾(または魚雷)2発または
   1,500kg爆弾2発または
   800kg爆弾3発または
   250kg爆弾8発または
   60kg爆弾18発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

 

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

完成まで

 太平洋戦争開戦後、遠距離にある敵基地を攻撃する必要性に迫られた日本海軍は、長距離爆撃機の開発を計画するようになった。このため海軍は4発エンジンの大型陸上攻撃機の開発を志向、1942年12月末、大型機深山開発に実績のある中島飛行機に計画番号N-40の試作計画を内示した。内示からおよそ半年後の1943年5月、この計画は陸海空共同試作機に指定される。

 この内示を受けた中島飛行機は、試製深山と同じ松村健一技師を設計主務者に計画に着手した。そして1943年9月14日、十八試陸上攻撃機試製連山(G8N1)の試作が中島飛行機に発注された。正式な発注に前後して、8〜9月には基礎設計が完了、12月には木型審査も完了した。そして1944年9月末、試作1号機が完成、10月23日初飛行に成功した。試作内示を受けてからわずか1年10ヶ月であった。

 1944年12月29日には試作2号機が完成、1号機とともに試験が行われた。この試製連山は日本では経験の少ない4発重爆である上、戦時下という悪条件の下であったが、作業は順調に進み、失敗が非常に少なかった。これには理由がある。設計主務者の松村健一技師は、作業に失敗を減らすために発動機、プロペラ等の選定には確実性のある資料に基づいて行うことや事前の研究、実験を綿密に行うこと、計画重量を超えない等以外にも以前の航空機設計の失敗からのフィードバックや目前の計画に集中し、それ以外の「欲をかかない」ことを求めた(例えば「将来の性能向上を見越す」等)。これらの対策が試製連山を成功に導いたといえる。

 

連山の特性

 エンジンは排気タービン付の誉24型ル(2,000馬力)でプロペラは6翅にすることも考えられたが結局無難な4翅とした。翼面荷重は速度を重視した高翼面荷重(239kg/屐砲箸掘△海里燭疥ッ緡ν僂某道劵侫薀奪廚噺討个譴襯侫薀奪廚硫縞にもう一枚フラップが付くフラップを採用した。胴体は厚い外板と少数の縦通材を使用する厚板構造の真円断面で、膠着装置は当時では珍しい前車輪式膠着装置(尾輪がなく前輪と主翼下部の車輪のみで機体を支える)が採用された。

 兵装は機首の前方に13mm連装機銃、胴体上方、下方、尾部に20mm連装機銃、側方左右に13mm機銃各1挺であり、側方機銃以外は全て動力式銃架であった。爆撃兵装は爆弾の搭載量は4tで、魚雷も搭載することが可能であったが、この時期にはもう大型機による魚雷攻撃というのは非現実的なものとなっていた。

 結局、連山は4機が完成したが、1945年6月には戦局の関係から開発中止が決定する。この4機の内、3号機は空襲で大破、4号機も破損したが、1、2号機の部品を使用して4号機は修復され戦後、米国に運ばれテストされた。1946年6月に飛行テストが行われたがエンジンの不調のためテストは2回で打ち切られた。連山が全力を発揮することはついになかった。

 

バリエーション

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 試作機4機のみの連山であったが、バリエーションは計画されていた。まず、特攻機桜花の母機として使用するために改修を加えたG8N1A、エンジンをハ43/11型ルに換装したG8N2、このG8N2を鋼製化したG8N3があった。

 

生産数

 連山は試作機6機、増加試作機10機、量産機32機が発注されていたが、1945年6月に連山の開発中止が決定してしまったため試作4号機が完成するにとどまった。連山の総生産数は試作機4機のみである。

 

まとめ

 

 連山は、深山とことなり大きな問題もなく完成した。大型陸上機の経験の少ない日本において非常に珍しいことであったが、そこには作業に関わった人々の知恵と努力があった。連山は、結局、実戦には参加せず、その能力を知られることもなく米国で廃棄されてしまったが、その技術は中島飛行機に継承されていった。

 

 

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01_深山
(画像はwikipediaより転載)

 

 深山は中島飛行機が開発した大型陸上攻撃機である。4発エンジンで全幅はB-29に匹敵する42mに達したが、性能が海軍の要求値に達せず試作機含め6機のみで生産が中止された。この6機の内4機は輸送機に改造されたが、予備部品の不足と油圧系統の不良に最後まで悩まされた。

 

大型陸上攻撃機 深山 〜概要〜

 

性能(試製深山)

全幅 42.14m
全長 31.02m
全高 6.13m
自重 20,100kg
最大速度 420km/h(高度3,000m)
上昇力 2,000mまで5分17秒
上昇限度 9,050m
エンジン出力 1,570馬力
航続距離 5,161km(偵察過荷重)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃4挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)4発または
   250kg爆弾12発または
   60kg爆弾24発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 

大型攻撃機(大攻)と中型攻撃機(中攻)の違い

 1938年、それまで陸上攻撃機としていたものを大型攻撃機(大攻)、中型攻撃機(中攻)という二種類に分類した。主要任務、特性は同じであるが、爆弾搭載量が大攻1,500kg、中攻が800kg、航続距離が大攻が3,000海里(5,556km)、中攻が2,000海里(3,704km)と異なる。その他、乗員数、搭載機銃数等も異なるが、大攻と中攻の大きな違いは爆弾搭載量と航続距離であるといえる。

 

ダグラス社よりDC-4Eを購入

02_DC-4E
(画像はDC-4E wikipediaより転載)

 

 1937年12月、日本の航空産業は四発重爆の開発経験のないため、海軍は米国ダグラス社からDC-4を製造権付きで購入することを決定する。このDC-4はのちに活躍するDC-4Aではなく、DC-4Eと呼ばれる別型である。しかし日本海軍が四発重爆の開発を計画していることは極秘であったため名目上は大日本航空株式会社が購入、中島飛行機が製造するという形式が採られた。

 大日本航空は当時、1938年11月に戦時体制の一環として数社の民間航空会社が合併して誕生した半民半官の会社で日本国内の航空輸送事業を独占していた。1938年、DC-4Eはこの大日本航空の旅客機という名目で95万ドル(当時の金額で190万円)で購入された。このDC-4E、実は失敗作であり、それを承知の上でダグラス社は大日本航空に売り渡したとも言われている。それはともかく、こうして購入されたDC-4Eは1939年10月日本に到着、早速組み立てられ11月13日に初飛行を行った後、密かに霞ヶ浦に運ばれ分解調査が実施された(※筆者注、このへんの時系列は今ひとつはっきりしない)。

 

開発

02_深山
(画像は右が深山、左は連山 wikipediaより転載)

 

 1938年、十三試大攻(G5N1)の計画要求が出された。この中での性能要求はDC-4Eをベースとする四発大型陸上攻撃機で、最大速度444.5km/h以上、航続力は爆装時4,482km以上、偵察時8,334km以上というもので中島飛行機に開発を命じた。中島飛行機は松村健一技師を中心に作業を開始、ベースが旅客機であるので主翼はそのままで胴体を再設計するという方針で開発が進められた。

 開発が開始されたもののベースとなるDC-4Eの製造図面の入手が必要であったため1938年2月、中島飛行機は技師数名をダグラス社に派遣する。製造図面は同年5月に引き渡しが完了する。中島飛行機では同月、全木製グライダーが製作され実験が行われている。1939年6月22日には実物の1/2サイズによる強度試験が実施。1941年2月末には試作1号機が完成する。

 当初は主翼の構造はそのまま生かす方針であったが、DC-4Eの低翼から十三試大攻では中翼に変更、胴体、尾翼は完全な新規設計であった。武装は、前方、胴体中央部上面、胴体下面、後方に1挺、胴体側面に各2挺の合計6挺であった。この内、上面には動力銃架に設置された20mm機銃、後方には20mm機銃が配置されている。

 エンジンは中島製護11型(1870馬力)が予定されていたが、開発が間に合わなかったため火星12型(1,530馬力)4基となった。1941年4月8日初飛行、ついで完成した2号機も海軍に領収された。海軍において試験が開始されたが、重量超過な上、エンジンの馬力が不足しており、最大速度は391.7km/hで要求値よりも約53km/h遅く、航続距離も要求値の50〜60%程度と期待外れのものであった。さらには油圧系統の不調が続出する。

 増加試作機4機は、護エンジンが完成したため、それまでの火星12型に代わり護11型が装備されたが、信頼性が低い上に振動が大きかったため開発は難航したが、1942年中頃には3号機、さらに4〜6号機が海軍に領収された。プロペラは1〜2号機の3翅から4翅に変更されている。これらは深山改(G5N2)と呼ばれている。最高速度は420.4km/hと約30km/h向上、航続距離も増大したが要求値には達しなかった上、相変わらず油圧系統のトラブルに悩まされていた。

 

輸送機型

 4機製造された深山改は性能が要求値に達しなかったため攻撃機としての使用は断念、輸送機に改造された(G5N2-L)。武装は撤去され、後下方銃座の位置には観音開きのハッチが設けられた。貨物搭載量は4tで油圧による操縦系統は人力に切り替えられたが、非常に重くなるため油圧で補助するという方式に変更された。

 

生産数

 試作機深山が2機、増加試作機の深山改が4機の合計6機である。火星エンジン装備の深山2機は空襲で破壊され、深山改の4機の内1号機はテニアン島で破壊され、2号機は事故で消失。終戦時は厚木基地に2機が残存していた。

 

戦歴

 輸送機に改造された深山は、1944年2月半ばに輸送部隊である1021空(通称「鳩部隊」)に配属された。配属された深山は2機で尾翼には当初は「鳩-1(2)」と記入されたがのちに鳩という呼称が廃止されたため尾翼には「21-1(2)」と記載されるようになった。3月にはさらに2機が配属、1021空は、1号機から5号機までの合計4機を保有するようになった(4号機は「死に番」であるため欠番)。これら4機の深山は、3月上旬より輸送飛行が開始されたものの故障が続出した上に部品が不足しており運用は難しかった。このような状況の中、4月19日には台湾から鹿屋に向かった深山2号機が墜落してしまった。

 6月には1号機がテニアンに進出したものの、その後、米軍がテニアン島に上陸したことにより1号機は失われている。1021空は残った2機(3号機、5号機)でマニラ方面への輸送任務を行っていたが1944年8月24日に輸送任務中止が命ぜられたため2機の深山は相模空に整備用の教材として引き渡され、そのまま終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 深山は十三試大艇(二式大艇)と同時に計画された4発大攻である。どちらも4発であったが、飛行艇に対して陸上機の設計実績がなかったため二式大艇のような成功はしなかった。しかしたとえ開発されていたとしても防弾性能の不備により目立った活躍は出来なかったであろう。因みに深山は、キ68またはキ85として陸軍での採用が計画され、1942年4月には実物大模型審査が行われたが深山の性能不足が明らかになったため1943年5月に計画が中止されている。

 

 

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01_月光
(画像はwikipediaより転載)

 

夜間戦闘機月光 〜概要〜

 

 当初は、長大な航続距離を誇る陸上攻撃機の援護のために生まれた長距離戦闘機が月光の母体であったが、性能が海軍の要求を満たさず不採用となったが、二式陸偵として生まれ変わり、さらには夜間戦闘機月光として再び生まれ変わったという数奇な運命を辿った航空機である。

 

<性能>

全幅 16.98m
全長 12.18m
重量 4.852トン
最高速度 504km/h
上昇時間 5000mまで9分35秒
実用上昇限度 9320m
航続距離 2542km 過重3745km
武装 斜め銃3〜4挺
   250kg爆弾2発

 

開発

 月光は、1938年6月、仮称十三試双発三座戦闘機兼爆撃機として腹案が三菱と中島に内示されたのが始まりであった。当時、三菱は零戦や九六戦の設計等に忙しく引き受けられず、昭和13年10月、中島飛行機に対して十三試双発三座戦闘機の開発を内示した。

 1939年3月、正式に試作を指示したが、要求内容は過大なもので、速度は、当時開発中の零戦以上、航続距離は運用中の九六陸攻並、その上旋回性能が良好なこととされた。海軍の要求は常に過大であったが、この月光は特に著しかった。

 1939年12月第一次実物大模型審査、1941年3月26日1号機完成。5月2日初飛行、8月16日海軍に領収された。この十三試双発三座戦闘機にはリモコン銃座、海軍初の空戦フラップ、双発エンジンのプロペラを左右反転させることでトルクの相殺を狙った左右逆転式を採用する等革新的な機能を満載した機体であった。

 

二式陸偵として採用

 しかし完成した十三試双発三座戦闘機は、航続距離以外では軍の要求をほぼ満たすことが出来ず、さらには故障が続出したため不採用となってしまった。不採用となった十三試双発三座戦闘機であったが、海軍は太平洋戦争開戦後、陸上偵察機の必要性を痛感しており、試作2機と増加試作機7機を陸上偵察機として採用することを決め、1942年7月二式陸上偵察機として制式採用した。二式陸偵となった十三試双発三座戦闘機は、エンジンの左右逆転式は廃止、リモコン銃座、20mm固定銃も撤去した上で機首には前下方を見るための窓が装備され、燃料タンクは防弾式となった。

 

斜め銃装備で復活

 この大幅に改良された二式陸偵は南方戦線に投入されるが、ここでB-17の来襲に手を焼いていた251空司令小園少佐は胴体中央部に斜め上を向けた20mm機銃を取り付け、これで大型機と並行して飛行したまま攻撃を行うのちの「斜め銃」を考案した。

 この改造案は採用され、改修された3機の内2機が1943年5月、激戦地ラバウルに投入された。この改造は大成功であり、ラバウルで運用された斜め銃装備の二式陸偵は大きな戦果を挙げた。この結果、1943年8月23日、二式陸偵の後席と旋回銃は廃止し、さらに前上方と前下方向きに九九式2号3型20mm機銃を合計4挺装備したものを夜間戦闘機月光11型として制式採用された。

 

月光11甲型

 1943年11月、前下方向きの斜め銃を廃止し、前上方向きの九九式2号3型20mm機銃2挺の後方に九九式2号4型20mm機銃を装備したもの。月光23型ともいう。

 

生産数

 十三試双発三座戦闘機、二式陸偵を含め477機が生産された。

 

戦歴

 1942年、台南空に二式陸偵が配備された。1943年5月に251空(台南空)再進出した際、二式陸偵に斜め銃を装備した機体が戦果を挙げた。このため夜間戦闘機月光として制式採用された本機は、9月1日、夜間戦闘機専門部隊となった251空で活躍していたが1944年2月には本隊がトラック島に撤収、4月には残留部隊もトラック島に撤収した。

 251空に次いで381空も月光を装備、中部太平洋に進出している。さらに1943年10月には海軍初の夜間戦闘機航空隊である321空(鵄部隊)が開隊、1944年2月から中部太平洋に展開したが、同年7月、伝統の251空、初の夜戦部隊321空は解隊することとなった。そして251空残存隊員は153空に転入、比島航空戦に活躍している他、141空も月光装備の部隊で比島で活躍している。一方、381空戦闘902飛行隊の月光隊は蘭印方面に展開、1945年4月には内地に帰還している。

 本土防空では203空が月光を装備、1944年4月には当時の日本最北端である占守島片岡基地へ進出しており、11月には北東空戦闘851飛行隊の月光4機が択捉島に進出している。さらに台湾には133空、台湾空が月光を装備している他、首都防空の302空、呉防空の332空、大村の352空がそれぞれ月光を装備している。

 

まとめ

 

 海軍の過大な要求により不採用となった十三試双発三座戦闘機は、二式陸偵、さらには夜間戦闘機月光として復活した。月光は対大型機邀撃戦に比類ない活躍をした。特に本土防空戦ではB-29迎撃用として活躍することとなる。東京大空襲では、倉本十三上飛曹が操縦する月光が一夜にしてB-29、5機を撃墜するという驚異的な戦果を挙げたこともあった。

 航空戦では誤認戦果が付き物であるが、この対大型機相手の空戦は、敵機に並行して攻撃するため戦果の確認の確実性が高かったことや地上からの確認が取れた場合が多かったので、誤認戦果は比較的少なかったと言われている。この月光の活躍が無ければ空襲の被害はさらに悲惨なものになっていただろう。

 

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01_キ87
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ87は中島飛行機が最後に製作した高高度迎撃用の重戦闘機である。成層圏での運用を想定した究極の戦闘機であった。1945年に試作機が1機完成し、5回飛行を行ったが不具合が続発した。計画通りであれば最高速度700km/h超、高度1万メートルでの空戦が可能なP47サンダーボルトに匹敵する航空機となる予定であった。

 

試作高高度戦闘機 キ87 〜概要〜

 

性能(推定値)

全幅 13.423m
全長 11.82m
全高 4.49m
自重 4,383kg
最大速度 689km/h
上昇力 -
上昇限度 12,855m
エンジン出力 2,450馬力
航続距離 1,600kmプラス空戦30分、余裕1時間
武装 20mm機関砲(ホ5)2門、30mm機関砲(ホ155)2門
設計開発 中島飛行機

 

開発

  

 1942年11月、陸軍は中島飛行機に高高度近距離戦闘機キ87の試作を指示した。陸軍の要望は、最高速度700km/h、上昇限度13,000m、高度10,000m以上での空戦を行うことを目的とした戦闘機で、米国製戦闘機P47サンダーボルトに対抗するための機体であった。

 この指示を受け、中島飛行機はこれまで一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風等を手掛けたベテラン設計者である小山悌技師を設計主務者として開発を開始したが、他の機体の設計が優先されたため作業が遅れ、設計が完了したのは1944年11月、3ヶ月後の1945年2月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行を行った。

 高高度で空戦を行うための発動機は2400馬力排気タービン過給器付き発動機ハ44-12ルに決定した。これは中島飛行機初の国産発動機寿エンジンを18気筒化したもので1942年7月に試作開始、終戦までに23台が製造された発動機であった。この強力な発動機に対応するためのプロペラはラチェ改と呼ばれる電気式定速四翅プロペラで直径は3.6mという巨大なものであった。

 本機の外観上の特徴ともいえる排気タービンは陸軍側は胴体下面に搭載することを要望していたが、中島飛行機側は被弾した時の燃料漏れによる火災を防ぐために胴体側面を主張した結果、胴体右側面に装備することとなったが、6号機以降は陸軍の要望通りに胴体下面に移される予定であった。

 武装は20mm砲(ホ5)2門と30mm砲(ホ155)2門が搭載された。高高度迎撃機ではあったが、250kg爆弾を1発搭載することが出来る。防弾装置は風防前面に70mmの防弾ガラス、座席背後の防弾鋼板は16mmであった。これら武装や燃料タンクで翼に余剰スペースが無くなってしまったため、脚は90度回転後方引込式を採用した。これは複雑な機構であったため不具合が多かった。

 上記の装備を搭載した本機の重量は自重が4,383kgと凄まじく、これは一式戦闘機隼3機分に相当する。このため翼面荷重も235kg/屬叛┐泙犬、海軍の局地戦闘機震電の210kg/屬気┐眈絏鵑辰討い拭1945年4月より5回試験飛行が行われたが、発動機不調、排気タービン過熱、脚収納装置の不具合等不具合が続いた。尚、この5回の飛行中は大事を取って脚を収納せずに行った。

 

バリエーション(計画のみ)

 キ87の低中高度戦闘機型で武装を20mm機関砲6門とし、排気タービンを廃止したキ87乙、発動機をハ47に換装したキ87兇計画されていた。

 

生産数

 当初は試作機3機、増加試作機7機の計10機が1945年4月には完成させる予定であったが、結局、試作機が1機造られたのみである。戦後、米軍に接収され1945年11月に米本土に送られたが、同地での飛行記録は残っていない。

 

まとめ

 

 キ87は中島飛行機が最後に製作した自重4,383kg、翼面荷重235kg/屬竜霏臉鐺機であった。成層圏での戦闘を想定した機体であったが、日本の基礎工業力が低かった上に物資不足や部品の品質劣化もあり設計通りの性能を発揮することはなかった。仮に完成していたとすればB-29にとって最大の脅威となったであろう。

 

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01_二式水戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式水上戦闘機は、開発中であった十五試水上戦闘機(のちの強風)の開発に時間がかかるため急遽、海軍の主力戦闘機零戦にフロートを付けた水上戦闘機で、極めてつなぎの色彩の濃い戦闘機であった。しかし最高速度こそ零戦には劣るものの運動性能は零戦に優ったとも言われている最も活躍した水上戦闘機である。

 

二式水上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.5m
全長 10.24m
全備重量 1922kg
最大速度 437km/h
航続距離 1150km
上昇限度 10500m
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 二式水上戦闘機、略して二式水戦は世界で最初に量産された水上戦闘機である。後継機として強風が量産されるがこの二機種のみが人類史上量産された水上戦闘機である。つまりは水上戦闘機を量産したのは世界で日本のみだ。この背景には計画当時、将来に南方侵攻作戦が予想されていたことがある。南方の飛行場の無い地域でも作戦可能なことから水上機が有用と考えられ、さらに日中戦争で水上機がしばしば敵戦闘機、攻撃機を撃墜している実績があったことから水上戦闘機の生産が決定された。

 この計画によって開発が決まったのが十五試水上戦闘機のちの強風である。しかし計画は始まったものの、この十五試水上戦闘機が近々開始が予想される南方侵攻作戦に間に合う可能性は皆無に近かった。そこで考え出されたのが新鋭戦闘機零戦を水上戦闘機化するという案であった。三菱製である零戦の水上機化ということであれば、本来なら三菱に設計を依頼するところであるが、三菱は零戦や一式陸攻の生産に忙殺されていた。そこで小型水上機開発の経験が豊富な中島飛行機に命じて零戦11型をベースに水上戦闘機化させたのが二式水上戦闘機である。

 

開発

 

 以上の経緯から1941年初頭に仮称一号水上戦闘機として中島飛行機に試作が命ぜられた。中島飛行機では三竹忍技師を設計主務者として作業を開始。1941年12月に試作1号機を完成させた。零戦からの主な改良点は主脚、尾輪、着艦フックとこれらに関係する装置の廃止、同時に各収納穴を廃止して平滑に整形した。さらに胴体下面に全金属製のフロートを取り付け、両翼端下面に補助フロートを取り付けた。フロートの影響により尾部を再設計し、垂直尾翼の大型化、方向舵下方に安定鰭を追加した。

 これにより全長が8.1cm増大し10.131mとなり、全高が4.305m(零戦は3.509m)となった。自重は226kg増大したが脚や着艦フック関係の装備を廃止したために増大量は比較的少なかった。初飛行は1941年12月8日、初飛行するが、すでに正式採用されている機体がベースとなっているためテストは順調に進められた。最高速度が零戦11型の533kmから435km、航続距離が2222kmから1782kmと大幅に低下したが、巡航速度、上昇力共に零戦と大きくは異ならなかった。

 1942年7月6日、二式水上戦闘機として正式採用され、1943年9月に生産が終了するまで327機が製作された。当初は重整備のために還納されてくる零戦を改造する方針であったが水上機として設計されていない零戦の機体は開口部が多く無理であることが判明したために新造することになったという。二式水戦の実用化のめどがついたことにより、1942年5月下旬、海軍初の飛行艇専門部隊横浜航空隊に水戦隊が編成された。さらに東港空の水戦隊が7月9日に編制され、8月には特設水上機母艦神川丸水戦隊、14空水戦隊が編成された。

 

実戦参加

 編成を終えた横浜空水戦隊12機は1942年5月26日、特設水上機母艦聖川丸で横須賀を出港、6月3日にラバウルに到着した。水戦隊の初の実戦は6月5日のラバウル上空哨戒である。初の戦闘は1942年6月10日、5機の二式水戦が5機の敵機と空戦になったが戦果は不明である。7月4日、佐藤理一郎大尉に率いられた先遣隊7機がツラギに進出、23日さらに4機が進出した。先遣隊7機は、7月10日に来襲したB-24を迎撃、1機を撃墜、水戦隊の初戦果を記録するが、最近の研究によると実際はこの地域にB-24は進出していなかったようだ。

 

生産数

 その後も二式水戦は北方、中部太平洋、本土防空に活躍し続ける。前述のように総生産数は327機であるが、終戦時に残存していた二式水戦は合計24機のみである。内訳は、河和に11機、天草に3機、香取に2機、ペナンに2機、鹿島、北浦、館山、大津、今宿、佐世保に各1機であった。現存する機体はない。

 

まとめ

 

 二式水上戦闘機は世界で初めて量産され実戦で使用された水上戦闘機である。速力こそ零戦に及ばなかったものの、低速になった分、空戦性能はオリジナルの零戦すら上回ったという。中には38機を撃墜したという河口猛飛曹長というエースパイロットもいたというが詳しくは分からない。水上戦闘機という特殊な機種は、島嶼の奪還戦となった太平洋戦争では日本軍の飛行場設営能力の不足と相まって重宝された。しかし新鋭の連合国軍戦闘機と互する性能はなかった。二式水戦は、零戦以上に日本の限界を可視化した機体であったのかもしれない。

 

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04_彩雲
(画像はwikipediaより転載)

 

艦上偵察機彩雲 〜概要〜

 

 彩雲は太平洋戦争開戦後に開発が始まった高速偵察機であった。試作機は最高速度653km/h、戦後アメリカで高オクタン価の燃料で試験した結果は694km/hと当時の航空機としては抜群の高速性能を発揮したが、主に活躍したのが戦争後半であったため本来の艦上偵察機としての能力は発揮されなかった。

 

性能

全幅 12.5m
全長 11.15m
全高 3.96m
自重 2908kg、全備重量(正規)4500kg、偵察過荷5274kg
最高速度 611km/h
航続距離 正規状態3079km、過荷重 5296.7km

 

開発

 日本海軍では当初、艦上偵察機は艦攻を流用するなど、あまり重要視されていなかったが、1941年頃から重要性が意識されるようになり、艦上偵察機(艦偵)の開発計画が検討されるようになった。さらに太平洋戦争開戦後になると優秀な偵察機が早急に必要になっていく。このような状況の中で、1942年1月30日、中島飛行機に十七試艦上偵察機として試作が内示された。

 海軍からの支持を受けた中島飛行機は福田安雄技師を設計主務者として開発を開始、当初は双発機で計画していたものの、中島飛行機において画期的な高性能エンジン「誉」が完成したこともあり、構造が単純な単発機として開発がスタートした。誉は2,000馬力級エンジンであるにも関わらず小型で画期的なエンジンであったが、高度6,000m以上では出力が低下、海軍の要求する数値には及ばなかった。そこで福田技師は機体を小型化、翼面積も小さくし胴体も空気抵抗を減らすために極力細く設計した。このため艦上機としての離着艦性能が低下するため親子式ファウラー・フラップと大直径プロペラで対応、さらに層流翼や厚板構造等の新機軸を導入してエンジン性能の不足を補った。

 苦心の末、1943年4月、試作1号機が完成、5月15日、初飛行の後、海軍に領収された。海軍において飛行審査が行われたが、この審査中に十七試艦上偵察機は最高速度653km/hという高速を記録した。海軍は当初の計画では試作機3機、増加試作機5機だったものを大幅に増やし、さらに増加試作機11機を追加した。

 

空前の高性能偵察機

 この十七試艦上偵察機に採用されたエンジンは誉22型エンジンで、さらに推力式単排気管を採用することにより、試作機では海軍の要求を上回る653.8km/hという高速を実現した。量産機では速度が低下してしまったが、それでも最高速度611km/hという高速を実現した。しかし前述のように離発艦能力が低下してしまうという問題が生じたため、中島飛行機技術陣は、親子式ファウラーフラップを装備した上に補助翼もフラップとして揚力を増大することで対応、さらにプロペラも大型のものが装備され、低速時でも推力を増大させ、発艦を容易にするという方法が採用された。

 その他、長距離飛行を実現するために翼内の80%まで燃料タンクとし、さらに大型落下式増槽を装着した燃料搭載量の合計は2082リットルという膨大なものだった。初期の零戦11型の落下式増槽も含めた燃料搭載量の合計が855リットルであることを考えるとその搭載量の多さがわかるだろう。高性能で有名な陸軍の百式司偵祁燭垢蕕眈絏鵑觜眄能を発揮した彩雲は1944年4月から量産が開始、同年7月23日に量産一号機が完成、そして9月艦上偵察機彩雲11型として制式採用された。

 

試製彩雲改(彩雲12型)

 1944年3月、誉24型ルを装備する彩雲の開発が計画された。7月には実物大模型審査、1945年2月には試作機が完成した。7月にはテストが開始されたが終戦となった。スペックは自重が3100kg、全備重量が4725kgに増大、最高速度は638.9km/h、上昇時間が6000mまで7分36秒、実用上昇限度が12500mに増大し、航続距離は1300kmに減少する予定であった。

 

彩雲夜戦型

 少数の彩雲は、夜戦型に改造された。これは偵察員席(3人乗りの中央席)に九九式1号20mm機銃2挺、または5式30mm機銃2挺を搭載したもので首都防空の302空などに配属された。

 

生産数

 彩雲は398機生産され、終戦時には173機が残存していた。残存機が多いのは彩雲は高性能であったため本土決戦用に優先的に温存されていたためであったようだ。

 

戦歴

 艦上偵察機として開発された彩雲であったが、量産一号機が完成したのがマリアナ沖海戦が終わった後の1944年7月と機動部隊がほぼ壊滅した後であったため艦上機としての活躍をすることはなかったが、陸上偵察機として終戦までその高性能を発揮することとなる。

 彩雲の初陣は1944年5月30日に実施されたマーシャル諸島偵察であった。この偵察任務を遂行するために121空に配備された彩雲試作機は5月30日にマーシャル諸島の挺身偵察を決行、無事に任務を果たして帰還、以降、ソロモン方面、中部太平洋方面の偵察に活躍した。

 1944年夏にT攻撃部隊が編成された際も彩雲は偵察11飛行隊として6機が参加、9月には丹作戦の事前偵察任務を遂行している。その後も台湾沖航空戦、比島航空戦に参加、第一御楯隊の誘導、ウルシー泊地偵察等に活躍している。1945年になると沖縄航空戦にも参加、以降も本土防空戦において 海軍の「目」として活躍、1945年8月15日の偵察11飛行隊による敵機動部隊索敵が彩雲最後の戦いとなった。

 

まとめ

 海軍での彩雲の評価は高かったため、他にも木製化計画、艦上攻撃機化計画などもあった。高速、高性能の彩雲であったが、実戦配備後は、他の航空機同様、発動機の性能低下に悩まされた。機体によっては、最高速度611km/hが555km/hまで落ち込んだものもあったという。逆に、戦後、アメリカでオクタン価130の燃料で試験したところ、日本の実用軍用機最高の694.5km/hという高速を出した。彩雲という傑出した航空機であっても、当時の日本の基礎技術力の低さは如何ともしがたかった。

 

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01_疾風
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式戦闘機は1944年(皇紀2604年)に採用された重戦闘機である。試作名称はキ-84で通称は「疾風」連合軍コードネームは「フランク」である。当時芸術品とまで言われたハ-45エンジンを搭載した陸軍唯一の航空機であり、大東亜決戦機と呼ばれ、陸軍の期待を一身に背負った傑作機である。

 

四式戦闘機 疾風 〜概要〜

 

 

性能(一型甲)

全幅 9.92m
全長 11.24m
全高 3.38m
全備重量 3890kg
上昇力 5000mまで5分弱
最大速度 655km/h
エンジン出力 2000馬力
航続距離 2500km(2920km)(増槽装備時)
武装 20mm機関砲2門(弾数各150発)、12.7mm機関砲(弾数350発)


開発 小山悌 / 中島飛行機

 

背景から開発まで(ハ-45エンジン)

02_ハ45
(画像はwikipediaより転載)

 

 ハ-45エンジン(海軍名「誉」)は、中島飛行機が開発した2000馬力級エンジンで、ハ-25(海軍名「栄」)を基に開発したエンジンであった。1940年9月に試作指示、1941年3月に試作品が完成、1942年9月に海軍に「誉」エンジンとして制式採用された。同年12月より大量生産が行われた。

 ベースとなった栄は最高出力1150馬力の14気筒エンジンであったが、これを18気筒に増やした上で過給機の強化、エンジン回転数の増大、高オクタン燃料の採用、水メタノール噴射等を行った。さらに軽量・コンパクト化のためクランクケースを特殊鋼鋳造品にする等した結果、外径1180mm、重量830kgという驚異的な小型エンジンが完成した。

 同時に誉エンジンはあまりにも技術的に先端を追求した結果、構造は複雑精密になり、戦争後期の熟練工不足や物資の欠乏によって本来の能力を発揮することが出来なかった。あまりの精密さ故に芸術品と呼ばれた「奇跡」のエンジンは、同時に「悲劇」のエンジンでもあった。

 

開発

 キ-84開発計画が内示されたのは1941年12月であったが、太平洋戦争開戦後ということもあって1年以内に試作機が完成することを要求するという無茶ぶりであった。さすがに試作機の完成は無理であったが、何と、これに対して中島飛行機は設計主務者小山悌技師を中心に陸軍機担当のスタッフを総動員して1942年11月には設計を完了させた。内示からわずか11ヶ月であった。

 試作機は4ヶ月後の1943年3月に完成、4月に初飛行した。6月には2号機も完成する。8月には第一次増加試作機の内、3機も完成した。試作されたキ-84は性能試験中、最高速度631km/hを記録している。当初の計画では試作機が3機、増加試作機が5機の予定であったが、実際に製作された試作遺は2機で、増加試作機は合計125機(第一次83機、第二次42機)という膨大な数であった。これは短期間の内に審査を完了し、円滑な実用化と部隊装備を可能にし、工場側の生産を早めるためである。1944年3月に第一次増加試作機83機が完成、第二次増加試作機も4月までに40機が完成、6月で全ての増加試作機の生産を完了した。

 

キ-84試作機・増加試作機

 2機の試作機と初期の増加試作機は、方向舵下部が後方に突出した形になっており、エンジンの排気管は推力式集合排気管を装備していた。これらは後期型以降は量産型と同形に改められ、排気管も推力式単排気管に変更されている。推力式単排気管とは日本の後期の戦闘機等によく見られるエンジンと機体のつなぎ目にある排気口が複数後方に向かっているタイプのもので、この形式にするだけで速度が10〜20km/h速くなる。これはロケット効果であると言われているが、排気流による機体上面の整流効果が速力増大につながったとも言われている。

 

キ-84甲・乙・丙・丁型

 初期の量産型で武装は胴体内に一式12.7mm固定機関砲(ホ103)2門を装備、翼内に20mm固定機関砲(ホ5)を2門装備した型。弾数はホ103が各350発、ホ5が各150発である。因みにホ103は航空機に左右並べて搭載するため弾薬を左側から装填する甲型、右側から装填する乙型があった。キ-84の場合は左が甲型、右が乙型である。

 乙型は胴体砲、翼内砲ともに20mm機関砲(ホ5)を装備した機体である。この乙型には甲部胴体、水平安定板、翼端等を木製化したキ-84供兵隻改)と呼ばれる機体もあった。

丙型は胴体内に20mm機関砲(ホ5)2門、翼内に30mm機関砲(ホ105)を搭載した型で1門搭載型と2門搭載型があったがどちらも試作のみで終わった。

 丁型は夜戦型で操縦席後方に45度の角度で20mm機関砲(ホ5)を装着したもので1944年9月にに完成したが、結局2機が改造されたのみであった。

 

キ-106

 キ-84の主要部分を木製化したもので、1943年9月22日、立川飛行機に試作が内示、12月には正式に試作指示が出た。主に品川信次郎技師が設計を担当した。1944年9月に試作機が完成した。材料の変更に伴い機体構造は大きく変わった他、垂直尾翼、脚カバー等の形状が変更された。自重はキ-84に比べて約477kg、全備重量は260kg増加した。

 1944年10月初飛行。最大速度はキ-84を下回る580km/h、5000mまでの上昇時間は7分30秒とキ-84量産型に比べ2分30秒以上遅くなった。武装は試作機が胴体内に12.7mm砲、翼内に20mm砲を搭載していた(量産型では逆)。試作機が4機、量産機が6機生産された。内4機は北海道の54戦隊で運用された。戦後2機が米国に運ばれている。

 

キ-116

 キ-116はエンジンを信頼性が高く余裕のある設計であったハ-112兇亡港したもので1945年3月満洲飛行機に試作指示が出された。同年7月に試作機が完成した。同エンジンはハ-45に比べ190kgも軽かったため、重心位置の変更を行いプロペラも3翅に変更した。自重でキ-84よりも500kgの軽量化に成功し、全備重量も3250kgで翼面荷重も155kg/屬板磴抑えられたバランスの良い機体であった。ソ連の進攻によって機体、設計図共に関係者の手により処分された。

 

その他実験機

 キ-84サ号機は、キ-84の高高度性能実験機でエンジンのシリンダー内に水メタノールの代わりに酸素を噴射するようにした実験機である。高度9000mで速度が約50km/h向上したが実用化前に終戦となった。

 

設計・計画のみ

 キ-84靴惑啜ぅ拭璽咼鷁甬覺鑄佞のハ-45ルを装備する予定であったが計画のみに終わった。キ-84Rは二段三速過給器付きハ-45・44エンジンを搭載した高高度性能の向上を狙った型でプロペラも直径3.5mのものに変更される予定であったがこちらも計画のみで終わった。キ-84Nは1945年6月に開発が決定した性能向上型でキ-84Pはエンジンを2500馬力ハ-44・13型に換装、高高度迎撃機とする予定であった。キ-117はエンジンをハ-44・13型に換装、主翼を1.5屬砲靴臣羚眦拈鐺機となる予定であった。

 

生産数

 各型含めおよそ3500機が製造された。

 

配属部隊

 疾風が最初に装備された部隊は飛行第22戦隊で、1944年3月に編成された。飛行隊長は歴戦の岩橋譲三少佐で搭乗員には熟練者が多く在籍している。8月には錬成が完了したため大陸打通作戦の一環である湘桂作戦に参加するため中国大陸に進出、連日の空戦に活躍した。同じく1944年3月上旬には一足遅れで第1戦隊、第11戦隊が疾風への改編、4月28日には第51戦隊、第52戦隊、5月には第71戦隊、第72戦隊、第73戦隊が新たに編成されたが、70番台の戦隊に疾風が供給されたのは7月であった。

 1944年7月に入ると中国大陸に展開している第85戦隊も二式単戦から疾風に改変、9月より供給されている。他にも新たに第101戦隊、第102戦隊、第103戦隊、第104戦隊、第200戦隊が編成を開始、これらの部隊は10月から年末にかけて疾風を受領している。これら疾風装備の部隊は9月には比島に進出、10月には少数(10機)ではあるが台湾沖航空戦に参加、海軍攻撃機の護衛を務めたが、最も疾風が投入されたのは比島戦である。

 比島には疾風装備の戦隊の内、9月に51戦隊と52戦隊が最初に進出、10月には11戦隊、1戦隊、22戦隊、200戦隊が進出した。11月になるとさらに第21飛行団の71戦隊、72戦隊、73戦隊が進出するなど85戦隊と100番台の戦隊以外の全ての戦隊が参加しているが、1945年初頭には多くの戦隊が消耗し逐次比島を去っていった。1945年3月になると米軍は沖縄に上陸、九州に展開していた疾風装備の第100飛行団所属101戦隊、102戦隊、103戦隊が沖縄航空戦に参加している。

 内地では47戦隊、112戦隊、246戦隊、第1錬成飛行隊、常陸教導飛行師団、陸軍審査部等が疾風を装備、他にも台湾では29戦隊と24戦隊が疾風を受領、ビルマ仏印方面では50戦隊、中国大陸では9戦隊、25戦隊、前述の85戦隊、満洲方面では104戦隊が疾風を受領している。

 

まとめ

 

 四式戦闘機疾風は陸軍唯一のハ-45エンジン搭載機である。海軍が早い段階からハ-45(海軍名「誉」)エンジンに目を付けたのに対して陸軍は四式戦闘機が唯一の採用というのが面白い。稼働率の低さという問題はあったものの、武装、速度、空戦性能、防弾性能共に平均以上の能力で、第二次世界大戦の万能戦闘機の一つに数えらえている。最高速度は660km/hであるが、戦後米軍の試験では最高速度は687km/hに達したという。著名な海軍のパイロット坂井三郎は著書において最高の戦闘機ベスト3中3位にこの四式戦闘機を挙げている(1位はP51マスタング、2位は零戦)。傑作機中の傑作機である。

 

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01_B36
(画像はコンベアB36 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 富嶽とは、太平洋戦争後期に中島飛行機創業者中島知久平の独創によって計画された超大型戦略爆撃機である。当時、大型機の開発経験の無い日本には実現困難な計画であった。特にエンジンには5,000馬力が必要であり、このようなエンジンは当時はどこも実用化していなかった。中島飛行機の社内計画として開始、一時は陸海軍の正式の計画にまでなるが、結局実現困難として開発中止となる。

 

超重爆撃機 富嶽 〜概要〜

 

 

性能(試製富嶽最終案)

全幅 63.00m
全長 42.00m
全高 8.80m
自重 338,000kg
最大速度 780km/h(高度15,000m)
上昇力  -
上昇限度 15,000m
エンジン出力 5,000馬力(ハ54)6基
航続距離 19,400km(爆弾5,000kg搭載時)
乗員 6名
武装 20mm機関砲4門
爆装 最大20,000kgまたは魚雷20本
設計・開発  - / 中島飛行機

 

開発

02_B29
(画像は戦略爆撃機B29 wikipediaより転載)

 

 1942年11月、中島飛行機「大社長」中島知久平は、群馬県太田市に中島飛行機首脳部と幹部技術者を集めて超大型戦略爆撃機を製作するという決意を表した。これに呼応した幹部、技術者は一式戦闘機隼や四式戦闘機疾風の設計で有名な小山悌技師をまとめ役として「必勝防空研究会」を設置、超重爆の研究を開始した。この計画は「Z計画」と名付けられ、1943年1月末には基本方針が出来上がった。この「Z計画」の「Z」とは海軍の「Z旗」が由来であり、そのZ旗とは「皇国の荒廃この一戦に在り」を意味する。

 Z飛行機の基本コンセプトは、米軍機に対して、々丗概離が優越していること、爆弾搭載量が優越していること、B度が優越していることであった。要するに「無敵爆撃機」を製作しようとした訳であるが、このコンセプトからして当時の日本の技術力を超越したものであるのは言うまでもない。このため軍部からは批判の声が強かった。こんなものにリソースを割くのであれば戦闘機を製作せよという訳である。

 しかし「変人」中島知久平はこんなことではめげない。めげるような男であるならばそもそも中島飛行機などという会社は存在しなかったであろう。中島は小山悌技師を同道、陸軍に対して米本土爆撃が可能であることを力説した。この結果、軍部に理解者が現れ始め、ついには「富嶽」という名称で軍の正式な計画となった。

 

Z飛行機計画

03_B29とB36
(画像は戦略爆撃機B29とB36 wikipediaより転載)

 

 以上のように中島飛行機が独自に研究した飛行機は「Z飛行機」と呼ばれ、軍部によって正式に認められた計画によって完成が企図された飛行機が「富嶽」と呼ばれている。つまりZ飛行機計画が正式に採用されて富嶽計画となった訳である。では、このZ飛行機とはどんな飛行機であったのだろうか。

 Z飛行機には複数の案があったが、最終案として残ったものは全幅65m、全長45m、全高12m、重量が自重67.3トン、最大爆弾搭載量50,000kg、最大速度は高度7,000mで680km/h、実用上昇限度12,480m、航続距離は16,000kmというとんでもない化け物飛行機であった。エンジンは6発で搭載が予定されていたのはハ44(2,450馬力)2基をタンデムに連結したハ54エンジン(5,000馬力)であった。

 このようにZ飛行機は空前の超大型機であったが、中島知久平が考案した使用法もまた壮大なものであった。まずZ飛行機には1,000kg爆弾20発を搭載するZ爆撃機、20mm機関砲96門を装備したZ掃討機、7.7mm機関銃400挺を装備したZ掃討機、1,000kg魚雷20本を装備するZ雷撃機、武装落下傘兵200名を搭乗させるZ輸送機があり、これらを駆使して戦っていく。

 第一段階は防衛線で、数百機の爆撃機型Z飛行機で日本本土空襲が可能な位置にある飛行場を爆砕、来襲する敵爆撃機は掃討機型が高度差を利用して上空から機関砲の雨を降らせて全て撃墜する。機動部隊に対してはまず掃討機型で対空砲火を沈黙させる。次いで爆撃機型で絨毯爆撃を行い、撃ち漏らした艦船を雷撃機型で撃沈する。この雷撃機型は1機で1隻が割り当てられており、1隻に対して搭載魚雷20本を撃ち込む。これらにより日本に来襲する敵航空機、艦隊を壊滅させる。

 第二段階では、ドイツ占領下のフランスに前進基地を設けて米本土を猛爆撃する。これでも降伏しなかった場合は、4,000機のZ爆撃機、2,000機のZ掃討機、2,000機のZ輸送機で米本土を占領するというものだ。第三段階はドイツ国内に拠点を設け、ソ連やイギリスを猛爆撃するという壮大な計画であった。もちろん実現する可能性は全くない。

 余談であるが、これを架空戦記としてシミュレーションしたのが、檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』シリーズで、元零戦搭乗員坂井三郎氏も舌を巻く程の専門知識を持つ著者が合理的に「仮に富嶽が量産された場合」をシミュレートする。

 

「試製富嶽」委員会の設置

04_B52
(画像は現代の戦略爆撃機B-52 wikipediaより転載)

 

 中島知久平の熱意により、1944年1月下旬に中島知久平を委員長として「試製富嶽委員会」が背設置されることが決定、陸軍航空技術研究所、海軍航空技術廠を始め、大学、民間企業の専門家をメンバーとした委員会は、1944年3月(4月とも)正式に発足した。

 ここで一番の問題となったのはやはりエンジンであった。Z飛行機で搭載予定であった5,000馬力級エンジンであるハ54は、その元となるハ44エンジンすら試作の段階であったため、開発は難航した。このため様々な代替案が用意されたがどれを採用しても能力が低下することは必須であった。エンジンの開発は難航していたものの、委員会員が協議の上完成させた試製富嶽最終案は以下の通りとなった。

 全幅63m、全長42m、自重338トン、最高速度15,000mで780km/h、航続距離が爆弾15,000kg搭載で16,500km、エンジンはハ54が6基、プロペラは6翅または8翅プロペラで20mm機関砲4門、与圧室装備で乗員6名であった。しかしこの遠大過ぎる計画は明らかに実現困難であったため、1944年4月には開発中止が決定、1945年4月に委員会は正式に解散した。

 

生産数

 計画のみ。

 

超重爆撃機 富嶽の関係書籍

 

檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』

 仮に富嶽が完成していたら。。。というシミュレーションである。著者は架空戦記物の草分け的な存在の檜山良昭氏。戦史や当時の技術に対する造詣の深さは元零戦搭乗員の坂井三郎氏を唸らせるほどであった。本書では、富嶽のエンジンが苦難の末に開発に成功、富嶽の量産が始まる。

 中島知久平の計画では富嶽は数百機を生産することになっているが、本書では月産10機程度しか生産できない。当時の日本の工業力を考えれば妥当な数である。日本軍は、この富嶽を以って陸海合同で戦略空軍を発足、米本土爆撃を始め、様々な作戦に活躍するが所詮20〜30機程度の富嶽では戦局を覆すことは出来ず、富嶽も1機、また1機と消耗していく。

 架空戦記というと当時の日本の技術力、工業力や時代背景を完全に無視した荒唐無稽な作品が多いが、本書は「ハ54エンジンの開発に成功した」という設定の下、日米の国力差、空襲の激化による生産数の減少等、可能な限りリアルに「富嶽」をシミュレートする。

 

まとめ

 

 富嶽は航空機好きなら誰でも知っている中島飛行機が計画した幻の超重爆撃機である。確かに中島知久平の計画通りにこの富嶽が生産されていれば戦局は大逆転したであろう。しかし、もしこの富嶽を日本が製造できる技術力と工業力があれば、日本の軍用機はもっと高性能であり戦場を席巻していたであろうから、そもそも大逆転させなければならない状況にはならなかった。

 技術的にも工業力的にも完全に不可能であった本計画であったが、陸海軍共にこの計画を取り上げて正式な委員会まで設置してしまったことに当時の日本の末期的状態が見て取れる。富嶽は富士であり、富士は日本の象徴であるが、この富嶽計画もまた当時の日本の状態を表す象徴的な計画であった。

 しかし、無理な計画、遠大な計画を目指してそれを実現させていくのが技術であり、この富嶽計画に関わった技術者達の挑戦は決して無駄ではなかった。戦後、中島飛行機はその技術力と会社規模を恐れたGHQの命令により解体されるが、数年後には分割された会社のほぼ全社が再集結して「富士重工業」を成立させる。無論、社名の「富士」は「富嶽」に由来している。富嶽は確かに当時の日本の国力を完全に無視した実現不可能な計画であった。しかし当時の中島飛行機の人々の心に夢として刻み込まれ、それは戦後も生き続けたのである。

 

 

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01_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特殊攻撃機橘花とは、太平洋戦争末期に日本海軍が計画、中島飛行機が開発したジェット攻撃機である。試作機1機が11分飛行したのが唯一の飛行記録である。2回目の飛行は失敗、そのまま終戦となった。海軍の期待は大きく戦闘機型等多くの派生型が計画されたが画餅となった。

 

特殊攻撃機 橘花 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.00m
全長 9.25m
全高 3.50m
自重 2,300kg
最大速度 679.7km/h(高度6,000m)(計算値)
上昇力 10,000mまで29分18秒(計算値)
上昇限度 10,600m(計算値)
エンジン出力 推力475kg(ネ20)2基
航続距離 680km(計算値)
乗員 1名
武装  -
爆装 500kg爆弾1発または
   800kg爆弾1発
設計・開発 松村健一 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

02_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

03_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 ジェットエンジン研究の先進国はドイツであったが、日本でも研究は進んでいた。1944年、無事に帰国した巌谷技術中佐がもたらした資料を参考に陸海軍官民合同研究会が開催され、ジェットエンジンは海軍、ロケットエンジンは陸軍の主導で行うことが決定された。因みに、この際に決定したジェットエンジンの陸海軍共通名称であるが、ジェットエンジンは「ネ●●●」とカタカナと三ケタの数字で呼ばれることが決定した。この「ネ」は「燃料ロケット」三ケタの数字の上一桁はメーカー番号、下二桁はエンジンの馬力相当出力である。これは1,000馬力級であれば「10」、2,000馬力級であれば「20」と表記される。あと空技廠が製作した場合にはメーカー番号は付与されない。例えば「ネ20」であれば、空技廠製の2,000馬力級ジェットエンジン、「ネ230」であれば中島製3,000馬力級ジェットエンジンという具合である。

 空技廠で開発されていた国産ジェットエンジン「ネ10」は1944年9月には全力運転に成功したが、性能は不安定であり未だ実用レベルには達しておらず、ネ10は、ネ10改、ネ12と改良されていったもののエンジンの耐久性は低いままであった。この頃から空技廠ではドイツ型ジェットエンジン「ネ20」の開発が開始されていたが、このネ20はネ10に比べて小型高性能であり、耐久性も及第点に達したため開発はネ20を中心に進められることとなりネ10の開発は打ち切られることとなった。

 

橘花開発開始

04_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年8月、中島飛行機に対してジェット機「皇国二号兵器」の開発を指示(当時は「橘花」という名称ではなかった)、中島飛行機側は設計主務者に艦上攻撃機天山や百式重爆呑龍の設計主務者である松村健一技師を充てて開発を開始した。機体はドイツ製Me262を模倣した無難な形状に決定、とにかく「飛ばす」ことを目的に開発が進められたのに合わせて海軍では生産計画が立案された。おれは10月には木型審査完了、12月には月産30機、翌1945年1月には月産60機、2月100機、3月150機という遠大な計画で、機体設計すら完了していない状態では無謀という他の無い計画であった。

 1944年12月末、正式に試製橘花計画要求書案が交付される。この要求書で双発単座の陸上攻撃機と明記された。名称に特攻機を示す「花」が使用されていることからも分かるように当初は特攻機として計画されたようであるが、計画が進むにつれて機体の安定性や操縦性等が求められるようになり、落下傘の装備も要求されていたことから、橘花は、特攻機から徐々に通常の攻撃機と性格を変化させていったものと考えられる。

 設計中、空襲の被害を避けるため設計室は栃木県佐野市に疎開、橘花の生産は何と群馬県世良田村の養蚕小屋で行われた。1945年6月25日、この養蚕小屋で試作1号機が完成した。機体は全幅10.00mと零戦よりも2mも小さいコンパクトな双発機で主翼はエンジンから先の外翼が上方に折り畳めるようになっていた。素材はジェラルミンであるが、胴体中央部の一部外板には鋼板、翼端には木を使用しており、主車輪は零戦、前輪は銀河の尾輪の流用であった。

 7月27日に地上滑走、8月7日に初飛行した。8月11日には第二回飛行が行われたが離陸に失敗、そのまま終戦となった。

 

生産数

 完成したのは試作機1機のみである。他に完成直前の2号機、ほぼ完成状態の24機があった。

 

まとめ

 

 海軍の期待が集まっていた橘花には多くの計画があった。しかし完成が1945年6月という終戦直前であったことからも分かるようにこれが当時の日本の航空技術の限界であった。ドイツではMe262が1941年に初飛行、1,430機が生産され実戦部隊も編成されていた。英国でも同時期にグロスターミーティアが実戦配備、米国も1942年にはP59が初飛行、1944年にはP80シューティングスターが初飛行している。太平洋戦争開戦前、九七式戦闘機や零戦、二式大艇等の世界水準の航空機を開発していた日本であったが、技術競争が激しくなる中で基礎技術力の低さが如実に現れた結果であったといえる。

 

 

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01_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ115剣とは、太平洋戦争末期に中島飛行機が開発した特攻専用のレシプロ機である。大量に余ったエンジンを有効活用するために木材や鋼鉄などの入手が容易な材料で簡単に製造できるように設計されていた。完成した試作機は長所が一つもないと言ってもいいくらい性能は劣悪であったため制式採用されることはなかった。

 

キ115剣 〜概要〜

 

性能

全幅 8.60m
全長 8.55m
全高 3.30m
自重 1,690kg
最大速度 550km/h(高度 - m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 1,150馬力(ハ115海軍名「栄21型」)1基
航続距離 1,200km(増槽装備時)
乗員 1名
爆装 800kg爆弾(または500kg)
設計・開発 青木邦弘 / 中島飛行機

 

開発

02_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島飛行機は工場に大量に残されたハ25(栄12型)やハ115(栄21型)エンジンの活用を考えた結果、簡易的な攻撃機を大量に生産することを思い付いた。これは500〜800kgの爆弾を搭載した600km/h程度の速度の突撃機で脚は離陸後投棄して着陸は胴体着陸とする。さらに機体の材料は木材や鉄板を活用するという「廃材利用機」ともいえるものであった。

 この計画は、暗に特攻を示唆するものであったため、当初は陸軍によって拒否されたが、戦局がひっ迫した1945年1月20日、中島飛行機に開発指示がでた。これに対して中島は青木邦弘技師を設計主務者として開発を開始、わずか1ヶ月半後の3月5日に試作1号機が完成した。

 機体は徹底的に簡素化され、入手しやすい材料によって簡単に大量生産ができるようになっていた。このため主脚にはショックアブソーバーもなく、風防は半解放式で前面はガラスだが、後方のガラスは一部のみであった。離陸には離陸促進用ロケットを使用、爆弾は胴体下面の切り欠きに半分胴体に内蔵した形で搭載するという設計であった。エンジンはハ115(1,130馬力)でプロペラは2.9mハミルトン定速3翅プロペラであった。翼面積が小さく機体重量はそれなりにあるため翼面荷重は212kg/屬販軅錣簇擦2倍という非常に高いものであった。

 審査は3月から開始されたが、視界不良、ショックアブソーバーが無いため離着陸が難しい上に50kg以上の爆弾を搭載するとバウンドして転覆する可能性が高かった。他にも安定性、操縦性、運動性全てが悪い上に強度不足で最高速度も計画値に達していなかった。ため、6月下旬に審査主任の高島亮一少佐は不採用と判定した。この際、キ115を使用した作戦での推定攻撃効果という数値が算出されているが、これによるとキ115の内、30%は離陸に失敗、離陸した70%の内50%は敵機に撃墜される。残りの20%の内対空砲火により15%は撃墜され、5%が命中もしくは命中に近いものとなるが、実際に効果があるのは3%で、さらにこの3%も大きい艦艇に対しては効果は薄いというものであった。つまりは100機出撃して、その内3機が小艦艇に損害を与えることが可能ということである。

 

生産数

03_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 終戦までに105機が生産されている。

 

まとめ

 

 キ115剣は特攻専用に開発されたレシプロ機であった。海軍の桜花と異なり完全な特攻機としてではなく帰還することも想定はされていたが、それは建て前上であり実際には完全な特攻機であったと考えてよいだろう。全ての性能は劣悪であり、爆弾を装備すると離陸時に転覆するという酷い機体であった。それでも実戦配備を要求し続けた上層部に対して審査主任の高島亮一少佐は要求を撥ね付け続けた結果、実戦に使用されることなく終戦を迎えた。

 

 

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01_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式戦闘機とは、日本陸軍が1937年に制式採用した主力戦闘機で分類としては軽戦闘機になる。この軽戦闘機としての本機の性能は世界最高で世界の軽戦闘機の頂点を極めたといっていい。最高速度でも前年に制式採用された海軍の九六式艦上戦闘機を上回る究極の戦闘機であった。

 

九七式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.31m
全長 7.53m
全高 3.28m
自重 1,110kg
最大速度 470km/h(高度3,500m)
上昇力 5,000mまで5分22秒
上昇限度 12,250m
エンジン出力 610馬力(ハ1乙)1基
航続距離 627km
乗員 1名
武装 7.7mm機銃2挺(八九式固定機関銃弾数各500発)
爆装 25kg爆弾4発
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_九七式戦闘機甲型
(画像はwikipediaより転載)

 

 1935年12月、陸軍は中島、川崎、三菱の3社に九五式戦闘機に次ぐ、次期主力戦闘機の設計研究を命じ、4月には正式に指示が出された。当時、格闘戦を重視した軽戦闘機至上主義であった陸軍の性能要求は、九五式戦闘機と同等の運動性能を持つ上、最高速度が50km/h上回る戦闘機という困難な要求であった。1936年10月、試作1号機が完成、同月15日には初飛行を行った。1937年3月には各社の試作機を破って中島製キ27の採用が内定、12月(9月とも)には九七式戦闘機として制式採用された。

 機体はセミモノコック構造で空気力学的に優れており、徹底した軽量化も行われた。このため脚も構造が複雑で重量がかさむ引込脚ではなく固定脚としている。燃料タンクは翼内のみで通常の航空機のように胴体内には装備されなかった。これは被弾した際に搭乗員を守るための配慮で燃料タンクは主翼内胴体付近に装備され、操縦席床板は厚くして火のまわりを遅くしていた。

 このため航続距離は357〜850kmと短いためこれを補うために増加燃料タンクが翼下に各1個装備することができた。尚、陸軍の強い要望により胴体内燃料タンクを装備した試作機(キ27改)も製作されたが安全性に問題があるため不採用となっている。風防は密閉式涙滴型風防で、エンジンはハ1乙(海軍名「寿」。610馬力)1基でプロペラは直径2.9m金属製2翅固定ピッチ、武装は八九式固定機銃二型2挺(弾数各500発)のみである。

 この九七式戦闘機の構造で革新的であったのは、主翼を一体で製作してその上に胴体を乗せるという方法に変更したことであった。それまでの航空機は、胴体と中翼を一体で製作し、そこに外翼を取り付けるという方法であったが、これだと構造上重量がかさんでしまうという問題があった。それを上記の方法に変更することにより、重量軽減にもなり、さらには機体の強度を上げることも出来るという一石二鳥であった。しかし輸送には不便であったため、胴体は操縦席後方で分割できるようにしていた。この方法はのちに中島製戦闘機、三菱の零戦等でも使用され、現代のジェット機では定番となっている。

 

生産数

03_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 生産は中島飛行機で1937年12月から1942年(1940年とも)12月まで2,007機、立川飛行機で1938年から1939年8月まで60機、満洲飛行機で1939年から1942年まで1,315機が生産された。総生産数は3,382機(3,386機)である。

 

まとめ

 

 九七式戦闘機は当時最高性能を誇った戦闘機であった。軽快な運動性能はノモンハンで遺憾なく発揮された。このため世界の戦闘機開発で主流となりつつあった重戦闘機への開発が遅れるという弊害も生みだしてしまった。次期主力戦闘機でも同じく運動性能を重視したため速度も運動性能も今ひとつな一式戦闘機を生み出してしまう。成功体験が次の失敗を生み出してしまうという良い例である。

 

 

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01_九五式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式水上偵察機とは、1935年に制式採用された二座水上偵察機で目新しいアイデア等は無かったが、安定性、操縦性に優れた傑作機であった。九六式艦戦並みと言われた運動性能によって戦闘機代わりに使用された他、爆撃や哨戒とあらゆる任務をこなした。太平洋戦争開戦後も使用され続けインド洋海戦では英空母ハーミスを発見する等殊勲を挙げた。零式水上観測機にその役割を譲った後も哨戒や練習機として終戦まで活躍した。

 

九五式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.98m
全長 8.81m
全高 3.84m
自重 1,370kg
最大速度 299km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで6分31秒
上昇限度 7,270m
エンジン出力 630馬力(寿2型改2)1基
航続距離 898km(増槽装備時)
乗員 2名
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 30kg爆弾2発
設計・開発 三竹忍 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

 1933年、現用機である九〇式二号水偵の後継機にあたる八試水上偵察機の開発が愛知時計電機、川西飛行機、中島飛行機の3社に指示された。これを受けて中島飛行機は三竹忍技師を設計主務者として開発を開始、1934年3月に試作1号機が完成した。これは同社製九〇式2号水偵をベースとして全体を再設計したもので全幅、全長もほとんど変わらないが空気力学的にはより洗練された機体となった。武装は機首に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺を装備、爆弾は30kg爆弾2発が装備可能であった。

 胴体は木金混製で前半部分が金属張り、後半部分が羽布張りで、エンジンは九〇式水偵と同じ寿2型改1(580馬力)を装備していたが、最高速度は九〇式水偵の最高速度232km/hを67km/hも上回っている他、上昇性能、操縦性、安定性とあらゆる面で性能が向上していた。八試水偵の比較審査では、愛知、川西製も性能では伯仲していたが、総合的に優れていた中島製が他2社を破り1935年9月17日、九五式水上偵察機として制式採用された。1938年10月には、エンジンが寿2型改2(630馬力)に変更されたため、改1の機体を九五式1号水偵、改2を九五式2号水偵と呼称された。

 実戦部隊でも九五式水偵の評価は高く、運動性能に関しては九六式艦戦にも匹敵するとまで言われた。このため戦闘機の代用として使用されたり、哨戒、爆撃とマルチに活躍した水上機であった。この九五式水偵の活躍が水上戦闘機開発のきっかけになったとも言われている。太平洋戦争開戦後も使用され続け、戦艦榛名搭載の九五式水偵は、インド洋海戦で空母ハーミスを発見するという殊勲も挙げている。1942年頃からは後継機にあたる零式水上観測機と交代して第一線からは姿を消したが、哨戒、連絡、訓練等で終戦まで活躍した。

 

生産数

 生産は1942年まで続けられ、中島飛行機で試作機2機、増加試作機7機、生産機700機の合計709機、川西航空機で48機の合計757機生産された。太平洋戦争終戦時には50機が残存していた。

 

まとめ

 

 九五式水偵は、戦艦や巡洋艦の艦載機、水上機母艦、基地航空隊に配備されたが、戦闘機との空中戦、爆撃等あらゆる任務に活躍した。操縦性、安定性も良いためドイツ海軍でも1機が使用された他、タイ王国海軍でも制式採用された。この成功体験が海軍に水上機に対する過剰な期待を持たせることとなり、太平洋戦争開戦後、水上機部隊は、低性能の水上機で米軍の新鋭機と空戦を行わなければならなくなってしまった。九五式水偵は傑作機であると同時に罪深い機体でもある。

 

 

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01_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九四式水上偵察機とは、複葉布張りの3人乗り水上偵察機であるがあまりの高性能にドイツからライセンス生産の要求があったと伝えらえているほどである。また海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどであった。1933年に初飛行した本機は換装して使用され続け太平洋戦争終戦まで実戦で活躍し続けた。

 

九四式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 10.50m
全高 4.73m
自重 2,000kg
最大速度 239km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで10分45秒
上昇限度 7,520m
エンジン出力 600馬力(九一式水冷)
航続距離 12時間
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 60kg爆弾2発または
   30kg爆弾4発
設計・開発 関口英二 / 川西航空機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

02_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1932年、海軍は七試水上偵察機の開発を指向する。これを受けた川西航空機では関口英二技師を設計主務者として開発を開始、1932年3月から設計開始、1933年2月には試作1号機が完成、2月6日からテストが行われた。機体は保守的な複葉布張りであったが、従来機に比べ木製部品の使用割合は大幅に下がり、胴体、主翼の桁はジェラルミン製、小骨は木製という一歩進んだ機体であった。

 エンジンは広島海軍工廠で開発された国産の水冷式九一式500馬力エンジン(後期型では九一式600馬力エンジンに換装)で、最高速度は237.1km/hで性能要求の240.8km/hには及ばなかったものの現用の九〇式3号水偵を上回っており、安定性、航続距離に関しては極めて優秀であった。この七試水偵の高性能は、海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどでドイツが本機のライセンス生産を要求したとも言われている。1934年5月26日、九四式水上偵察機として制式採用された。

 

12型

 九四式水偵のエンジンは、1937年からはより高性能で信頼性の高い瑞星11型(870馬力)エンジンに換装された。この換装は水冷エンジンから空冷への換装であったが、九四式水偵はそもそも余裕のある設計であったため換装は比較的容易であった。これにより最高速度は278km/hに増大、航続距離も2,463km、時間に換算すると11.36時間の長時間飛行が可能であった。この長時間飛行に対応するために本機では前後席どちらでも操縦することが可能となっている。この瑞星搭載型は1938年11月24日に九四式2号水偵(のち12型と改称)として制式採用、それまでの九四式水偵は1号水偵(のち11型と改称)となった。1941年まで生産された。

 

生産数

 生産は川西航空機で試作機2機、1号(11型)が183機、2号(12型)が288機の合計373機、日本飛行機で両型合計で57機製造されている。総生産数は530機。

 

まとめ

 

 九四式水偵は、1933年の初飛行から1945年の終戦まで12年間も使用され続けた名機である。この時期に初飛行した航空機で終戦まで使用されたものも無くはないが、ほとんどが練習機としてであった。これに対して九四式水偵は、偵察、哨戒、輸送等、終戦まで実戦で使用され続けたという稀有な航空機である。これは水上機という特性とともに本機の設計の優秀さ、信頼性の高さを物語っている。

 

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01_天雷
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機天雷とは、中島飛行機によって開発された試作局地戦闘機で合計6機が製作された。対大型機迎撃用の双発単座戦闘機で1944年に完成したものの誉エンジンの品質低下による性能低下のため想定したほどの性能が発揮できず制式採用はされなかった。

 

局地戦闘機 天雷 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.50m
全高 3.51m
自重 5,000kg
最大速度 596km/h(高度5,600m)
上昇力 6,000mまで8分
上昇限度 9,000m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型)2基
航続距離 2,740km(増槽装備時)
武装 30mm機銃2挺、20mm機関砲機銃2挺
爆装 60kg爆弾2発
設計・開発 大野和男 中村勝治 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 1942年、海軍は戦闘爆撃機という新しい機種が新設された。この戦闘爆撃機とは攻撃機隊に随伴しての援護や制空を主任務とし、さらに強行偵察や爆撃も行える複座の陸上機であった。このため性能要求は、敵戦闘機以上の速度で敵戦闘機を撃滅できること、夜間戦闘の能力が要求されていた。この戦闘兼爆撃機は同年末、十七試戦闘兼爆撃機として中島飛行機と愛知飛行機に発注されており、1944年初頭に試作機が完成する予定であった。

 当初は戦闘兼爆撃機という機種でスタートした計画であったが、1942年頃には前線ではB17爆撃機の撃墜に苦慮するようになっており、さらにはそれを上回る重爆撃機B29の開発の情報も入ってきた。このため計画は戦闘兼爆撃機から昼間迎撃用の重武装、重装甲の双発単座戦闘機の開発に変更されることとなった。そして翌年の1943年1月、十七試戦闘機兼爆撃機は十八試局地戦闘機試製天雷(J5N1)として再スタートした。

 

開発

 開発命令を受けた中島飛行機は、中村勝治技師を設計主務者として開発を開始、2〜3ヶ月後には大野和男技師に交代しながら開発を継続、1943年9月17日には第一次模型審査、1944年5月には強度試験用の零号機、6月20日には試作1号機が完成した。

 エンジンは中島製誉21型(1,990馬力。陸海軍統合名称「ハ45/21型」)2基、全金属製モノコック構造で翼面荷重は零戦、隼の2倍以上の229.5kg/屬任△辰拭K秒徳置は操縦席前面に厚さ20mmの防弾鋼板、前方風防には厚さ70mmの防弾ガラス、燃料タンクにも防弾処理がされていた。武装は九九式2号4型20mm機銃2挺(弾数各200発)、30mm固定機銃(五式30mm固定機銃1型。弾数各100発)2挺、爆弾は60kg爆弾2発搭載可能であった。

 初飛行は1944年7月8日であったが、大方の期待に反して性能は計画値を下回った。最大速度は計算値では663km/h(高度6,500m)であったのに対して実際は596km/h(高度5,600m)、上昇時間は計算値では6,000mまで6分、8,000mまで9分27秒であったが、実際は6,000mまで8分、8,000mまで11分であった。さらには振動、油漏れとあったエンジン関係のトラブルも相次いだ。フラップとナセルの形状に問題があったこともあったが、原因の多くは、大量生産され、粗悪品が目立ち始めた誉21型エンジンによるものであった。

 想定以下の性能と戦局の悪化に伴い、一旦は整理の対象となったが、B29来襲の可能性が増したため開発を継続、1945年2月には試作6号機まで完成した。しかしここで製作が中止されてしまう。完成した6機の内、5、6号機は前方銃の弾倉を撤去して計測員席を設け複座化、斜め銃も装備して3号機と共に実用実験も行われた。

 

生産数

 試作機6機のみ製作された。1号機、5号機は試験中に脚故障で胴体着陸、2号機は11月25日試験中に着陸大破、4号機は空襲で被爆破損、終戦時には3号機と6号機のみが残っていた。戦後、米軍に接収され現在でも機体の一部が残っている。

 

まとめ

 

 天雷は対大型機迎撃の期待を一身に背負って開発されたのであったが、誉エンジンの能力低下により期待したほどの性能は発揮できなかった。仮に開発が成功していればB29迎撃に威力を発揮したことであろう。しかし当時の日本の基礎工業力の低さでは設計者がどんな名機を設計したところでそれを精確に製作できる能力はなかった。急速に勃興してきた国の悲しさであろう。

 

 

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01_九七式艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式艦上攻撃機とは、中島飛行機と三菱重工が開発した全金属製単葉攻撃機である。中島製は1号、三菱製は2号と呼ばれる。どちらも高性能であったが、中島製は特に性能が高く、栄エンジンを搭載した3号は、太平洋戦争開戦後も海軍の主力攻撃機として活躍した。三菱製は固定脚で約150機ほど生産されている。

 

九七式艦上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(3号)

全幅 15.518m
全長 10.3m
全高 3.7m
自重 2,200kg
最大速度 377.8km/h(高度3,600m)
上昇力 3,000mまで7分40秒
上昇限度 7,640m
エンジン出力 970馬力
航続距離 1,021km(正規状態)
武装 7.7mm旋回機銃1挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 中村勝治 / 中島飛行機

 

開発

02_九七式2号艦攻
(画像は三菱製2号 wikipediaより転載)

 

 1935年秋、海軍は、中島飛行機、三菱重工の2社に対して十試艦上攻撃機の名称で新型艦上攻撃機の開発指示を出した。これを受けた中島飛行機では中村勝治技師を設計主務者として開発を開始した。全金属製単葉機で密閉式風防、折りたたみ翼にフラップ、可変ピッチプロペラやセミインテグラル・タンク、日本の実用機としては初である油圧機構の引込脚を装備した画期的な機体であった。

 可変ピッチプロペラとは速度によってプロペラの角度を変える機能のことで、高速になるにつれてプロペラの角度は水平に近くなっていきプロペラを効率的に回転させる機能で、日本海軍機としては初の採用であった。セミインテグラル・タンクはタンクの外壁の一部が機体の外装となっているタンクでこれにより燃料の容量を多く確保することが出来る。エンジンは最新の栄エンジンを搭載したかったが未だ開発中だったため光3型エンジン(710馬力)が採用された。のちに栄エンジンに変更される。

 1936年12月31日、試作1号機が完成、1937年1月18日初飛行に成功した。三菱製は1936年10月末に試作1号機が完成、11月21日に初飛行に成功した。両機とも海軍に領収され、性能試験が行われた。性能要求では最大速度は333km/h以上であったが、中島製は368km/h、三菱製は固定脚であったため若干遅かったがそれもで353km/hと両機とも基準を満たしていた。速度以外の性能も両機とも大幅に上回っており、1937年11月26日、中島製を九七式1号艦上攻撃機(後に11型と改称)、三菱製を九七式2号艦上攻撃機(後に61型と改称)としてどちらも制式採用された。

 1938年4月より量産が開始、秋には栄エンジン(1,000馬力)を搭載した試作機が完成、1939年12月、九七式3号艦上攻撃機(後に12型と改称)として制式採用された。

 

生産数

 1号艦攻、3号艦攻は中島で練習機30機を含む669機製造された他、愛知航空機、広工廠でも約580機製造された。中島製九七式艦攻の合計は約1,250機、三菱製2号艦攻は約150機で合計1,400機が生産された。

 

まとめ

 

 九七式艦上攻撃機は完成当時は速度、航続距離等、海軍の性能要求を上回っており、世界的に見ても最高水準の艦上攻撃機であった。技術的には全金属製単葉、引込脚、可変ピッチプロペラ等、かなり先進的なものであったが、太平洋戦争開戦後はその防弾性能の低さから多くの機体と搭乗員を失うこととなる。

 

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