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丙飛12期

01_零戦22型

 

 川戸正治郎上飛曹は1926年生まれ。太平洋戦争中盤から実戦に参加した戦中派パイロットである。配属された時点では飛行時間は300時間程度であったが、持ち前の敢闘精神を発揮して最終的には19機もの敵機を撃墜した名パイロットである。

 

川戸正治郎上飛曹の経歴

 

略歴

 1926年京都府生まれ。1942年5月舞鶴海兵団入団。丙12期予科練に採用される。1943年7月28期飛練修了。10月10日ラバウルに展開する253空に着任した。1944年2月20日にはラバウルに展開する戦闘機隊はトラック島に撤退するが、川戸上飛兵はラバウルに残留。「ラバウル製零戦」で戦闘を続ける。1944年7月、253空解隊により105空付。1945年3月9日、連合国軍駆逐艦の対空砲火によって被撃墜。ジャングルで生活中に捕虜となり、1945年12月帰還した。

 

わずか18歳でラバウル航空戦の洗礼を受ける

 川戸一飛兵がラバウルに着任した時は飛行時間300時間のわずか18歳の若者であった。普通、当時の戦闘機搭乗員は1000時間前後の飛行時間で一人前と言われていたようなので300時間というのは余りにも少ない。そして派遣された先は最大の激戦地ラバウルであった。

 しかし川戸一飛兵は相当負けず嫌いだったようで、果敢な戦闘により戦果を挙げていく。正に戦闘機向きの性格であったようで体当たり攻撃も数回に及んだ。味方艦艇に救助された際、「大丈夫か?」との問いに対して「慣れてますから」とあくまでも負けず嫌いの性格であった。

 

本隊撤退後もラバウル残留

 1944年2月20日には岩本徹三、小町定等の歴戦の搭乗員達はトラック島に後退するが、川戸上飛兵はラバウルに残留した。これは負傷していたのが原因かもしれない。残留者には予科練7期のベテラン福本繁夫飛曹長もいる。  ラバウルに残留した川戸上飛兵はゲリラ的な戦闘を継続するが、1945年3月9日、敵駆逐艦を発見、攻撃中に対空砲火により被弾し撃墜され、しばらくジャングルで生活していたが豪州軍の捕虜となり戦後内地に帰還した。

 

2月6日の体当たり

 上記の体当たりの内、1944年2月6日のB-24への体当たりに関しては、岩本徹三の記録に「何中隊の何番機か、味方の一機は、あまり急角度で攻撃をかけたので、そのまま敵機の主翼にぶつかり、瞬時に空中分解してジャングルの中に散っていった。」(岩本徹三『零戦撃墜王』)との記載があり、日付が異なっているが梅本氏はこの「味方の一機」を川戸機と推測している(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。それはそれとして、今回は何と、川戸上飛曹のインタビューがyoutubeに上がっている。

 

 

戦後の川戸氏

 川戸氏は戦後、航空自衛隊で再びパイロットとなるが、1976年小型セスナで太平洋を横断、35時間かけてアメリカに到着する。その後アメリカに定住したようだ。2001年11月17日大腸がんにより死去。享年76歳であった。

 

川戸問題

 概略は上記の通りである。川戸上飛曹はいわゆる「川戸問題」で戦史ファンには有名だ。この「川戸問題」とは何かというと、アメリカ海兵隊の撃墜28機のエース、ボイントンを撃墜したのは川戸上飛曹か否かということで日米双方の関係者、研究者の間で大騒ぎとなった論争であった。  細かいことは秦郁彦『第二次大戦航空史話』〈下〉に詳しいがここでは触れない。

 この川戸上飛曹、秦氏の本によるとアメリカではかなりネガティブな印象を持たれているようだ。これらの原因の一つは、どうも予科練の後輩の一人がネガティブな情報を広めたもののようだ。秦氏の本にある元零戦搭乗員が川戸上飛曹の悪口(?)を言っていたというのもその後輩の一人の仕業だという。この川戸上飛曹、誤解を受けやすい性格であるが、元ベテランパイロット曰く、腕は良く、男の中の男だそうだ。

 余談になるが、この川戸上飛曹が撃墜したとされるボイントンも『海兵隊コルセア空戦記』という自伝を上梓している。零戦隊と戦った側の記録として価値がある。ボイントン大佐は撃墜され日本軍の捕虜となるが、その時の日本人を「戦場から遠くなるほど攻撃的」というように観察している。

 

川戸正治郎上飛曹関係書籍

 

川戸正治郎 体当たり空戦記―ラバウルの空に18歳の青春を賭けた痛快空戦記

 川戸正治郎氏の自著。今では若干入手困難となっているが、海軍入隊から戦時中のことが詳しく書いてある貴重な本。

 

太平洋戦争ドキュメンタリー〈第3巻〉炎の翼 (1968年)

関根精次ほか 著
今日の話題社 (1968)

 戦後しばらくして出された川戸氏の手記『零戦ラバウルに在り』

 

伝承 零戦空戦記〈2〉ソロモンから天王山の闘いまで (光人社NF文庫)

 本書中に川戸氏の手記「私が経験した”真昼の決闘”」が収録されている。その他の手記も零戦のパイロット達の記録なのでおすすめ。

 

まとめ

 

 川戸正治郎上飛曹は太平洋戦争のさなか、満足な訓練も受けずにラバウルに派遣された。しかし持前の敢闘精神で戦果を重ね、最終的には19機を撃墜した。その19機の中には米海兵隊の撃墜王ボイントンも含まれていると言われているが真相は誰にも分からない。しかし戦後も安定した公務員の地位に満足せずセスナで太平洋を横断したあくまでもアクティブな男であった。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

柴垣博飛長の略歴

 

 1924年12月9日新潟県に生まれる。1942年5月海兵団に入団。8月丙飛12期生として岩国空に入り、飛練28期を経て1943年7月卒業、同年秋201空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月204空に異動、1月22日に戦死する。

 

十分な訓練を受けられずに戦線に投入される搭乗員

 

 柴垣博飛長は、丙飛12期で同期には川戸正治郎上飛曹、市岡又男上飛曹等がいる。太平洋戦争開戦後に採用されたクラスで本当の「戦中派搭乗員」といえる。搭乗員育成はすでに大量育成となっており、戦前のように一人の教員が少数の訓練生を教える方式ではなくなっている。このため十分な訓練を受けられずに戦地に送られることとなり、多くの戦死者を出すこととなる。

 丙飛12期が訓練を修了した1943年秋の航空戦の主戦場はラバウルであったが、すでに日本軍は迎撃戦が主体となっており、勝敗ははっきりしていた。海軍の搭乗員から「搭乗員の墓場」といわれたソロモン・ラバウル航空戦の中でも特に激しい空戦が行われたのがこの時期のラバウル航空戦であった。柴垣飛長を含む丙飛12期の新人搭乗員はこの後期のラバウル航空戦に十分な訓練を受けることなく投入されたのであった。

 このような状況の中でも丙飛12期の若年搭乗員達は奮闘、市岡又男上飛曹や川戸正治郎上飛曹等は二桁に及ぶ撃墜戦果を報告するものもあった。むろん撃墜戦果はほとんどが誤認であり、実際の数は不明であるが、周りを納得させるだけの技量は身に付けていたのであろう。柴垣飛長も11月7日の空戦で初戦果を報告、1944年1月22日の空戦で戦死してしまうが、それまでに13機の撃墜を報告している。

 

柴垣博飛長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

まとめ

 

 後期のラバウル航空戦は特に凄惨であった。休暇は十分に与えられず搭乗員が一人また一人と戦死していく地獄の戦場であった。丙飛12期の隊員達はこのような中でも技量を磨いていった。しかし戦死した者も多く、海軍航空隊の主要部隊がラバウルを後退するまでの数ヶ月間に20名以上の隊員が戦死している。さらに丙飛12期の隊員達の試練は続き、むしろ主戦場がラバウルから中部太平洋に移ったのちに丙飛12期の隊員のほとんどは戦死していく。

 

 

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ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

 末期のラバウル航空戦を戦った搭乗員である。あまり知られていないが、ラバウル航空戦においてトップエース岩本徹三、小町定等と共に連日の戦闘をこなした。この市岡二飛曹、実はすごい記録を持っていることが近年の調査により判明した。もちろん私が調査した訳ではない。今日はこの市岡又男二飛曹についてみてみよう。

 

市岡又男二飛曹の経歴

 

略歴

大正14年岐阜県生まれ。昭和17年8月、丙12期予科練に採用。昭和18年7月28期飛練課程を修了。昭和18年9月末ラバウルに展開する204空に配属された。1月26日204空本隊のトラック転進により、トベラ基地の253空に転属、4月19日戦死した。

 

予科練と飛練

 市岡二飛曹は昭和17年8月、丙種予科練12期に採用される。丙種予科練とは下士官兵から選抜するパイロットのコースで以前は操縦練習生と呼ばれていたが航空兵育成は予科練に一本化されたため丙種と呼ばれることとなった。

 同期には19機撃墜の川戸正治郎がいる。飛練とは飛行練習生の略で航空機の初級教育をする課程だ。飛練28期は昭和17年9月に始まり昭和18年7月に終了した。予科練の他のコースと共同で訓練が行われる。この飛練28期だと甲種予科練8期が該当する。甲飛8期は75名が採用されたが、終戦時の生存者は14名、戦死率81%というクラスである。当時のパイロットの戦死率がどれだけ高かったのかが分かるだろう。市岡二飛曹は教育修了後、即座にラバウルに派遣されたようである。

 

撃墜21機で部隊トップ

 さて、前述のすごい記録とは、実はこの市岡一飛曹、戦闘行動報告書によると撃墜21機、岩本徹三の撃墜20機を抜いて253空のトップエースなのだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。無論実際に撃墜していたかは誰にも分らないが戦闘行動報告書に記載される戦果であるので空戦技術に関しては部隊内で一定の評価があったと思っていい。

 

市岡又男二飛曹関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日本、連合国軍双方の資料から空戦の実態を可能な限り正確に描き出した労作。実は公文書から確認できる撃墜数では市岡二飛曹がトップであるという。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。後半のエース列伝に市岡二飛曹についても記載がある。

 

まとめ

 

 その後253空本隊はトラック島に撤退するが、市岡一飛曹はラバウルに残ったようだ。昭和19年4月19日不帰の人となる。エース列伝によると撃墜11機、梅本弘氏の調査によると撃墜21機とある。どちらが本当なのかは分からないが才能のあるパイロットだったのだろう。

 

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