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三菱重工

01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 


ミリタリーランキング

01_零式観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式観測機とは艦砲の弾着観測専用に開発された航空機で全金属製の最後の複葉機である。太平洋戦争は主力艦同士の砲撃戦から航空機を中心とした戦術に移行していたため本来の弾着観測に用いられることはなかったが、高い格闘戦能力から船団護衛や対潜哨戒などに活躍した。複葉機でありながらしばしば戦闘機を撃墜した。戦闘機だけでなく単機でB-17撃墜記録すらある特異な航空機である。

 

零式観測機〜概要〜

 

 

性能

全長9.5m
全幅11m
全高4m
全備重量2.550kg
最高速度370km/h
航続距離1070km
武装7.7mm固定機銃2門、7.7mm旋回銃1門

 

開発

 零式観測機は、戦艦同士の砲撃戦の際に着弾観測をする専用の機体として1934年、愛知、川西、三菱の3社に十試観測機の名で試作が内示されたことに始まる。さらに1935年3月計画要求書が愛知、三菱に手交された。観測機はその性格上、着弾観測のみならず、敵艦隊付近を飛行して弾着観測をするため敵戦闘機の妨害を排除する必要があったため、この零式観測機には複座機でありながら格闘戦性能も要求するという厳しいものであった。この要求に対して三菱は佐野栄太郎技師を主務者として開発を開始する。本機の特徴の一つとして興味深いのは設計主務者の佐野栄太郎技師が「義務教育を受けただけ」と言われており、大学等で専門教育を受けた技師ではなかったことであろう。

 零戦を設計した堀越二郎技師や一式陸攻の本庄季郎技師、紫電改や二式大艇の菊原静男技師や飛燕の土井武夫技師等、当時の航空機エンジニアの多くは東京帝国大学工学部航空学科という定員が数名の超難関を突破した秀才中の秀才達であった。これに対して義務教育が小学校まで出会った当時、佐野栄太郎技師の義務教育を受けただけというのは本当であれば異色中の異色である。

 それはともかく、当時は単翼機に時代が移りつつあったものの、敢えて複葉機として設計した。これは複座でありながら戦闘機並みの格闘戦性能を要求されたためで、速度を犠牲にしても格闘戦能力を得るという苦肉の策であった。試作機は、1936年6月9日1号機が完成、6月22日には初飛行に成功した。飛行試験で方向安定が極端に不足していることが判明した上、水上曳航中に転覆など問題が多発。数次にわたり改修を行った結果、1937年3月、海軍に領収された。

 

エンジンの変更

 しかし、軍のテストで垂直旋回中と宙返り中に自転が発生するという問題が判明する。これに対して佐野技師は、垂直尾翼と方向舵の面積を増大させることで解決した。十試観測機は、エンジンに光1型を装備していたが、ちょうどこの頃、三菱で800馬力エンジン瑞星が実用化されたため、2号機のエンジンを瑞星に換装。この結果、最大速度は37km/h、5000mまでの上昇時間は約2分短縮されたため以降は瑞星を装備した。瑞星換装の十試観測機は当時の現用戦闘機である九六艦戦との比較テストで総合的には互角と判定されたほどで、水上機としては異例の高性能であった。

 

制式採用

 1940年12月12日、零式1号観測機1型として制式採用された。生産は三菱で1940〜43年の間に524機生産された他、佐世保の第21海軍航空廠で594機、合計1118機生産された。さらに試作機が4機製造されているので総生産数は1122機である。バリエーションはほとんどなく、零式観測機11型と練習機の仮称零式練習用観測機の2種類だけである。但し、生産時期によって若干仕様が変更されている。初期の生産分はプロペラが二翅でスピナ無し、後期はプロペラが三翅でスピナが装着されている。因みに零式観測機の操縦席の風防は解放式であるが、試作機のみは操縦席が密閉式風防になっている。武装は機首に7.7mm固定銃2挺、装弾数各400発。偵察席に92式7.7mm旋回機銃1挺、装弾数582発。爆弾は30kgまたは60kg爆弾2発を翼下に搭載できる。観測機という性格上、91式観測鏡という弾着観測専用の観測装置を持っていた。

 

生産数

 試作機が4機、量産機が1118機の合計1122機が生産された。

 

零式観測機の模型

 

戦歴

 1941年4月、連合艦隊に第11航空戦隊、第三艦隊に第12航空戦隊が編成されると零観は初めて実戦部隊に配備されることとなり、最初に第11航空戦隊の水上機母艦千歳と同瑞穂に配備、9月になると第12航空戦隊所属の特設水上機母艦神川丸、山陽丸、相良丸、そして根拠地隊である17空(トラック島)、18空(サイパン)、19空(クェゼリン)と各部隊に順次配備されていった。

 1941年12月、太平洋戦争が開戦すると、第11航空戦隊は比島部隊として比島攻略戦、第12航空戦隊はマレー半島攻略の支援に参加したのち、両戦隊ともに南方攻略作戦に活躍した。1942年8月になると米軍がガダルカナル島に上陸、戦闘の激化に伴い水上機母艦もブーゲンビル島南方のショートランド泊地に集結、8月29日には集結した千歳、山陽丸、讃岐丸の艦載水上機でR方面部隊を編成、9月には神川丸、聖川丸、14空、国川丸の水上機隊もR方面部隊に編入された。

 1942年10月8日には、ブーゲンビル島に陸上機基地であるブイン基地が完成するが、引き続きショートランド島のR方面部隊は対潜対空哨戒、偵察、爆撃、防空等に活躍、1943年1月頃になる零観は防空任務を二式水戦に譲り内南洋や内地へと撤退していき、偵察や対潜哨戒に活躍することとなったものの、1944年春頃になると水上機の活躍の機会はほぼ無くなったため、多くの熟練搭乗員は陸上機へと機種転換していった。

 太平洋戦争末期には多くの機種が特攻機として使用されたものの、零観はフロートがあるため特攻機として使用されることはなかったが、1945年になるとフロートにレールを装着することにより250kg爆弾の搭載が可能となり特攻隊にも編入されるようになっていった。

 

零式観測機の書籍

 

海軍零式観測機 (世界の傑作機 NO. 136)

 定番の『世界の傑作機』シリーズの零観号。砲弾観測用に開発された零観であったが類稀な運動性能により連合国軍の戦闘機と互角に渡り合うことすらあったという。日本海軍最後の高性能複葉機。

 

水偵隊の戦い 武井慶有『零式水偵空戦記』

武井慶有 著
潮書房光人新社; 新装版 (2015/11/1)

 貴重な水偵隊搭乗員の記録。予科練のベテラン搭乗員がソロモンに太平洋に活躍する。戦争後期に著者は台湾沖で筆で「大」と書いたような浮遊物を見つける。それは撃沈された輸送船に乗っていた陸軍兵士達であったようだ。恐らく本書はゴーストライターを使わずに著者が自分自身の筆で書いたものだろう。迫力がある。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。  全般において水偵隊であるR方面部隊を始めとする水偵隊の活躍が多く描かれている。彼我の戦闘行動調書、手記やあらゆる記録を調査して描き出す「実際の戦果」は圧巻。

 

まとめ

 

 零式観測機は低速ではあったが運動性に優れていたため、実戦では多くの戦果を挙げたが同時に損害も大きかった。特にR方面部隊での活躍は特筆に値するもので、この活躍の蔭には多くの搭乗員、整備員の努力があったことは言うまでもない。零観は、世界に名だたる水上機王国であった日本が生んだ最後の複葉機であり、世界最後の複葉、単フロートの実戦機であった。

 

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01_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争の戦訓により大型機迎撃用の戦闘機である局地戦闘機が必要とされた。その要求に応えるべく開発されたのが局地戦闘機雷電である。雷電は大型の火星エンジンを装備したため前方視認性が悪く「殺人機」とまで呼ばれたパイロットには不評であったが、米軍の公式評価をして「大型爆撃機に対してすべての日本軍戦闘機の中で最強」と言わしめた戦闘機でもあった。

 

局地戦闘機雷電 〜概要〜

 

 

性能

全幅10.8m
全長9.695m
全備重量 3507kg
最高速度 596.3km/h
航続距離 1898km
武装 20mm機銃4挺 30kgまたは60kg爆弾2発

 

開発

02_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機の開発計画は太平洋戦争前から始まった。1939年9月、海軍は、十四試局地戦闘機の計画要求書を内示。内示は三菱と中島飛行に対して行われたが、中島飛行機は、のちの月光や深山開発で忙殺されていたため辞退。三菱が受けることとなった。

 海軍からの内示を受けた三菱重工は堀越二郎を設計主務者として開発を開始、海軍の要求が高速戦闘機であったことから当時、日本では最強の航空機用エンジンであった火星エンジンを使用することが決定する。しかし、大型の火星13型エンジンを採用したため胴体は紡錘形になり、抵抗を減らすため風防も胴体上面にそのままつながる形式のものが採用された。

 そして胴体を紡錘形にしたためエンジンとプロペラの距離を離した延長軸を採用する。これがのちの振動問題につながっていく。雷電では新しい試みとして、生産性の向上を考慮して分割構造を採用。溶接部品を減らし工作の簡易化と部品点数の減少を図ったりもしている。

 

延長に次ぐ延長

 1940年12月第一次実大模型審査が行われ、さらに1941年1月第二次実大模型審査が行われた。順調に行けば、試作1号機の完成は1940年末の予定であったが、その後、何度か予定が延長され、結局、試作機が完成したのは、1942年2月であった。

 1942年3月21日、十四試局戦初飛行。1942年6月〜7月にかけて官試乗。周防元成大尉が担当している。周防大尉は海兵62期出身で15機を撃墜した実戦派である。試乗の結果、安定性、操縦性には全く問題はなかったが、視界不良や上昇力の不足、さらに予定していた速度が時速594kmであったのに対し、574kmしか出なかったりと海軍側の期待に応えるものではなかった。

 

十四試局戦改計画へ移行

 その結果を受けて、十四試局戦開発計画は、十四試局戦改計画に移行された。この十四試局戦改計画とは、十四試局戦のエンジンを水メタノール噴射式の火星23甲型に換装するというもので、十四試局戦の性能向上型として昭和16年7月に開発が決定していた計画であった。

 水メタノール噴射式とは、高オクタン価のガソリン入手が難しい日本の国情に合わせたもので、エンジンに水とメタノールの混合液を噴射することによってエンジンの出力を20〜30%増大させることを狙ったものであった。

 

試製雷電完成

 十四試局戦改は、1942年10月に完成。試製雷電と呼ばれた。そして1942年10月13日初飛行したが、激しく黒煙が吹き上がることや振動が激しいなどの不調を修正するのに時間がかかってしまい、雷電11型として生産が開始されたのは1943年9月であった。

 雷電11型は、155機生産されたが生産開始後翼内タンクに自動消火装置が設置された他、中期後期型からは翼内銃の角度を3.5〜4.5度上向きに取り付けられた。生産開始後約1年の1944年10月に制式採用される。試作機は8機製作されている。

 

雷電21型

 総生産数は500機前後であるが、雷電には多くのバリエーションが存在する。まず、雷電21型であるが、1942年10月十四試局戦改一、または試製雷電改として開発が開始され、1943年10月12日1号機初飛行。胴体の7.7mm機銃を廃し翼内銃をベルト給弾式九九式1号4型(装弾数190発)2挺と九九式2号4型2挺(装弾数210発)に強化。胴体内タンクをゴム被覆防弾タンクに改良。風防前面に厚さ50mmの防弾ガラスが追加された。

 最大速度594km、上昇力は6000mまで5分50秒から6分14秒。三菱で280機、厚木の高座海軍工廠で数十機製作された。この21型の機銃を4挺ともに九九式2号4型に変更、爆弾4発搭載可能としたのが、21甲型である。

 

雷電23型

 23型は21型の発動機を火星26型に換装したもの。武装は21型と同じ。この23型の武装を21甲型と同じにしたものが23甲型で、21型の風防の高さを50cm、幅を80cm増やし風防前方の胴体上面の両側が削られた視界改善対策実施型が31型である。武装は21型と同じ。最大速度590kmで数十機が生産された。31型の武装を21甲型と同じくしたのが31甲型。

 

雷電32型

 32型は排気タービン過給機を装備したものでカウリング前面の開口部が広げられている。武装は翼内銃2挺として風防後方に20mm斜め銃2挺が追加された。1944年1月に開発が指示され三菱と空技廠で2機ずつ、第21空技廠でも製作された。

 三菱製のものは1944年8月4日に完成、9月24日初飛行。最高速度が583kmと期待したほどではなかったため製作は打ち切られ三菱と空技廠の計4機は厚木の302空に引き渡された。この他、1944年末から20年初めにかけて第21空技廠で十数機の雷電が排気タービン過給機装着型として352空に供給されたが実用には至らなかったという。

 

雷電33型

 33型はエンジンを火星26型、または26甲型に変更したもの。31型同様の視界向上策を施した。先行試作機は11型の2機をベースに製作され1944年5月20日に初飛行した。最大速度が614kmと海軍戦闘機の最高性能を記録、武装は21型と同じ。21甲型と同じ武装にした33甲型も製造された。生産数は30数機。その他試験的に2式30mm機銃を2挺搭載したものや部隊で改造された斜め銃が装備されたものなどがある。どちらも302空で使用された。

 

雷電バリエーションまとめ

 雷電はあまりにもバリエーションが多く、複雑であるが、簡単に分類すると試作機が2種類、十四試局戦、十四試局戦改があり、量産機としては、11型、21型、23型、31型、32型、33型の6種類があり、さらに量産機では、32型以外の5機種には武装強化型の甲型が存在する。

 

生産数

 最終生産数は三菱が470機で他にも高座工廠や日本建鉄でも少数が製造された。ほとんどが21型である。

 

戦歴

03_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機雷電を運用する部隊として1943年10月1日、381空が編成された。同月中には新鋭機雷電が装備されたもののその配備数は月末に至っても5〜6機という有様であった。1944年1月、381空はボルネオ島バリクパパンに進出するが、同月、雷電が空中分解事故を起こしたため零戦隊のみが進出、雷電隊の進出は見送られた。

 この381空は4月には、零戦隊を戦闘311飛行隊、雷電隊が戦闘602飛行隊、月光隊が戦闘902飛行隊の3個飛行隊編成に変更、雷電装備の戦闘602飛行隊の外地への初進出は1944年9月頃で、セレベス島ケンダリー基地に9機の雷電が配備、実戦にも参加している。

 1943年11月5日には、横須賀で301空が編成、12月中には雷電が配備されたが機数はわずか4機で内、3機が十四試局戦改であった。1944年3月4日には301空も零戦隊は戦闘306飛行隊、雷電隊が線t脳601飛行隊に変更されている。この301空は編成完了後、最前線ラバウルに進出することが予定されていたが結局間に合わず、戦闘601飛行隊も機種を零戦に変更したため301空は実戦で雷電を使用することはなかった。

 

本土空襲と雷電

 戦略爆撃機の本土空襲の可能性が現実味を帯びるようになった1944年3月1日、首都防空を主任務とした302空が木更津で開隊、8月1日には岩国で呉防空を目的とした332空が開隊した。8月10日には佐世保、大村、長崎地区の防空を担当する352空が開隊、この部隊での雷電の実戦参加は、10月25日の大村地区空襲での迎撃戦で8機の雷電が出撃している。

 一方、本拠地を厚木に移動した302空は3分隊で編成、1、2分隊が雷電装備、3分隊が零戦という構成であった。配備されていた雷電は合計40機にも達したが11月に至っても可動機はわずか10機に過ぎなかった。この時期には米空軍第21コマンドによる東京空襲も開始、302空雷電隊も12月3日には迎撃戦に参加、初戦果を記録している。

 当初はB29単独での空襲であったが、1945年2月以降は戦闘機が随伴、さらには米海軍第58任務部隊による本土空襲作戦であるジャンボリー作戦の開始と合わせて雷電による小型機の迎撃戦も行われることとなった。4月には沖縄航空戦の拠点となっている九州地区への空襲が激化、これに対応するため302空、332空、352空の雷電隊が同方面に集結、「竜巻部隊」を自称するこれら雷電隊が防空任務に当たっている。

 その他、輸送部隊である1001空、210空、上海方面では256空(後に951空に吸収)でも少数の雷電が配備されている。

 

まとめ

 

 日中戦争の戦訓により開発された局地戦闘機雷電は、振動問題の解決等に時間がかかり活躍するのは太平洋戦争後半になってしまった。実戦配備後も視界の悪さや離着陸の難しさから殺人機という不名誉なあだ名を付けられるにいたった。しかし高速、重武装の雷電は連合国軍からは恐れられた。米軍の公式評価では雷電は大型機に対した全ての日本軍機の中で最強であったとされている。

 

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01_キ83
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ83とは大戦末期に試作機が完成した双発複座戦闘機であった。構造は極めてユニークで一見双発単座戦闘機のように見えるが、後席が胴体内にある機体であった。高空性能、速度ともにずば抜けており、特に速度は762km/hと日本機の最速記録であった。試作機4機が完成したが3機は事故と空襲で消失、終戦時には1機のみが残存した。

 

試作遠距離戦闘機 キ-83 〜概要〜

 

性能

全幅 15.50m
全長 12.50m
全高 4.60m
全備重量 9,430kg
上昇力 10000mまで10分30秒
上昇限度 12,660m
最大速度 686km/h(高度8000m)
エンジン出力 1930馬力×2基
航続距離 3,500km(増槽装備時)
武装 30mm機関砲(ホ5)2門
   20mm機関砲(ホ203)2門
   50kg爆弾2発または250kg爆弾2発 設計開発 三菱

 

背景から開発まで

 日中戦争において戦闘機による掩護を受けられなかった日本軍の爆撃機はしばしば甚大な損害を受けた。これを受けて爆撃機に随伴できる長距離戦闘機の開発が指向されたのと同時に当時活躍していた戦略偵察機である百式司令部偵察機の後継機の必要性もあり、陸軍は百式司偵を開発した三菱1社に対して特命で試作命令が発せられた。

 

開発

 1941年5月23日、三菱に対して爆撃機掩護用の長距離戦闘機の開発が指示された。この指示の設計基礎要求は、行動半径1500kmプラス2時間の余裕、最高速度は680km/h以上、将来の目標として720km/h以上という苛烈さで、さらには燃料タンクの防弾、搭乗員保護用の防弾版の設置等、非常に厳しい要求であった。これに対して三菱は設計主務者を久保富夫技師として作業を進め1942年4月に実物大模型を完成させたが、現場サイドから戦闘機は小型であるべきであるという強硬な意見が出されたため作業は混乱した。

 以降、陸軍と三菱の間で仕様の決定に手間取り、最終的に仕様が決定したのは1943年7月であった。決定した仕様は、双発複座戦闘機であること、最大速度800km/h以上(高度10000m)、実用上昇限度13000m、武装は前方に30mm機関砲3門、20mm機関砲2または4門、そしてエンジンはハ211を使用するというもので、行動半径こそ1046kmプラス2時間と緩和されたが、それ以外の要求はさらに過酷になっていた。

 これを受けて三菱側は設計を進め、1944年10月には試作1号機が完成した。発動機は海軍の試作艦上戦闘機”烈風”にも搭載された三菱製ハ211ル(海軍名)である。これは同社製14気筒金星エンジンを18気筒化した上に排気タービン過給器を装着したものであった。これにより高度9500mでも1720馬力を発揮することが可能であった。

 機体は百式司偵を彷彿とさせる流線形の非常に美しいフォルムで、風防は操縦席のみ涙滴型風防を装備、後席は胴体内に収められている。後席の視界は上面、左右面に窓により確保されている。操縦席と後席の間には巨大な燃料タンクがあり、連絡は通話装置を使用して行われる予定であった。防弾装置としては操縦席後方には厚さ12mmの防弾鋼板を装備、往路で使用する翼内燃料タンクには防弾装置は設けられなかったものの、胴体内燃料タンクは16〜30mmの防弾ゴムで覆われていた。

 武装は30mm機関砲(ホ155)が機首上段に2門(弾数各80または100発)、20mm機関砲(ホ5)が機首下段に2門(弾数各160または200発)が装備された。全体的にコンパクトに収められた機体であったが、自重は重く、翼面荷重は262.5km/屬醗貅粟鐺機の2.6倍にも達していた。

 1944年11月より飛行試験に入ったが、性能は全体的に良好であり、速度は高度8000mで686.2km/hを発揮した。この結果を受けて翌年1月に試作2号機、3月に3号機、4月に4号機が完成した。1、2号機には排気タービンと中間冷却器が装備されたが3、4号機はタービン関係以外の試験を促進するため単排気管となった。

 しかし同年3月、2号機のテスト飛行中に風防が飛散、これが操縦者に当たり搭乗員は殉職、機体は墜落大破した。さらに3、4号機は6月25日の各務原への空襲で大破消失、1号機のみ当時大本営が建造中であった長野県松本市へ移動し、引き続き試験が行われていたが終戦となった。戦後は米軍の手により試験が行われた際には762km/h(高度7000m)を発揮、日本機としては最速記録であった。

 

司偵型(計画のみ)

 当初はキ83乙、その後キ95と称された機体で司令部偵察機用に武装を撤去し機首に偵察席を設置する予定であったが、後に計画が変更され20mm機関砲を装備することとなった。これとは別に襲撃機型のキ103も計画されていた。

 

生産数

 合計で4機の試作機が完成した。2号機は試験飛行中の事故で墜落、3、4号機は空襲で大破。終戦時には1号機のみが残存していた。この一号機は戦後、再整備の後に米軍の手に引き渡され、米軍のテストパイロットヘンリー中尉の手でテストが行われた。この際に高度7,000mで最高速度762km/hと日本戦闘機最速を記録している。

 

まとめ

 

 キ83は最高速度762km/hという高速に加え、排気タービンによる高い高空性能と長大な航続距離を持った戦闘機で仮に量産されていたとすれば百式司偵に続く司令部偵察機や本土防空戦においてB-29迎撃機として活躍したことが想像される。大戦末期に三菱が作り出した究極の戦闘機であった。

 

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堀越二郎 著
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/12/25)

 

 映画『風立ちぬ』で有名な零戦設計者堀越二郎の著書『零戦〜その誕生と栄光の記録〜』を読んだ。堀越二郎といえば零戦、九六式艦戦、雷電、烈風の設計者として有名であるが、実は著書を読んだことはなかった。ということで今回購入して読んでみたのだ。

 

堀越 二郎 堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年6月22日 - 1982年1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。零戦の設計者として有名。

(wikipediaより転載)

 

 本書はタイトル通り、零戦に関することのみの内容となっている。本書はまず零戦の「無理な」性能要求が海軍側から出たことから始まる。それに対して堀越氏が苦心の末、海軍の性能要求を上回る高性能機を開発したというのが大まかな内容だ。零戦は伝説的な名機であることは論を待たない。当時の日本の国力から考えればこれ以上の機体を作ることは不可能であっただろう。堀越氏の才能もかなりのものだったと思う。

 

 

 私が面白かったのは零戦でよく指摘される、軽量化に重点が置かれ過ぎ生産性が悪かったというものがあるが、本書を読むと堀越氏はそれを承知の上で設計したようだ。何故なら当時の日本というのは資源がなく、技術力も欧米に比べて劣っていた。

 その中で人的資源だけはあるという状況だったのだ。なので人手はかかったとしても資源を節約することにしたのだ。結果、生産性は犠牲になった。さらに防弾性に関しては当時は戦闘機の防弾というのは概念自体が存在していなかった。当然、零戦にも装備されなかったということだ。

 因みに『零戦神話の虚像と真実 零戦は本当に無敵だったのか』の共著者で元航空自衛隊のパイロットでもある渡辺氏も指摘するように戦闘機の防弾版というのはパイロットにとってあまり必要ではないようだ。本書は当然戦後に書かれたものなので当時本当にそう考えていたのかは何とも言えないが、零戦で指摘されている欠点は堀越氏も承知の上だったという。

 他の航空機に関してもそうなのだが、海軍の性能要求というのは無茶なものが多かったというのは航空機ファンの間では結構知られている。零戦も速度、格闘戦性能共にトップクラスという無茶な要求であった。本書の構成をざっくり書くと、まず海軍が無茶な性能要求をしたというところから始まり、結局達成したという大きな物語となっている。無茶な性能要求を達成したという堀越氏の自負心が伝わってくる。

 無茶な要求によって結局成功してしまったことにより、海軍は無茶な要求をし続けることになってしまうのだが、これは堀越氏の責任ではない。何とも複雑な気分だ。月光とかは要求てんこ盛り過ぎて結局、何だか分からない戦闘機になってしまったしね。因みに月光については堀越氏も海軍の性能要求に関して批判的であった。

 堀越氏も本書で言及しているが、アメリカという巨大な工業力を持っている国でさえ、戦時には航空機の生産を少数機種に絞って生産していた。これに対し、日本の航空機の生産は多機種を少数作るという、かなり非効率なことをしていた。

 少ない国力な上にソフト面での失策が重なったという日本人としては結構悲しい話だ。でもこれって、現在も同じじゃね?と思ってしまった。戦車に関しても74式、90式、10式という三種類の戦車が存在する自衛隊に対して70年代に設計されたM1戦車をバージョンアップして使い続けている米軍。

 

 なんかあまり変わってねーなーというのが結論。文章がまとまってなくて

 

申し訳ない!

 

・・・でも書き直さない!(;´・ω・)

 

 

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 今日はちょっと珍しい本を紹介したいと思う。著者は軍人ではなくエンジニア。それも戦後、戦車や装甲車等の軍用車両を開発していたという珍しい経歴の持ち主だ。まだ戦後と言われていた時代、著者は東大工学部を卒業後、三菱重工に就職する。そこで図らずも戦車の開発に携わることになる。戦車を操縦していたや戦車の乗員だったという人はそれなりにいるが、戦車を設計していたという人はまずいない。そう考えると本書はかなり貴重なものだ。

 内容は設計者だけあって専門分野の詳しい話は素人には難易度が高い。私も具体的な計算を示されても全く分からなかった。しかし戦車の設計という特殊性やその時代、社会、試行錯誤の経過等は読んでいて面白い。M4戦車の燃費は1リットルあたり100Mというような豆知識も所々にある。 戦前戦中の多くの技術者が指摘するように、戦車の設計の世界でもやはり日本は、基礎部品や補機等の底辺技術は欧米諸国に大きく水をあけられていたということだ。

 戦後日本は国産戦車を造り始める。私も含め多くの人は戦前の技術が継承されていると考えるが、実は工業技術の継承というのは実物か図面が残っていないと中々難しいようだ。戦後日本の造兵廠や軍事メーカーは図面の多くを焼却してしまった。その結果、戦前の技術の継承は難しく、戦後の戦車は多くをアメリカの戦車から学んだという。これは意外であった。

 さらに戦車はそれぞれの国のニーズによってコンセプトが決められる。M1戦車は生存性、レオパルド戦車は信頼性という具合である。日本でも61式戦車の場合、当時の世界のトレンドが105mm砲に移行していたにも関わらず90mm砲を採用したのも欧米と異なり国土が狭い日本では90mm砲で対応可能であり、さらに限られた予算と時間の中でまとめなければならないという判断もあったようだ。最後に著者は戦車開発に関して警鐘を鳴らす。

 

戦車技術の後進性はまだ完全に拭えていない。これは決して能力の問題ではなく、無意識のうちに受け継いでしまった過去の誤った既成概念や因習によるものである。例えば兵器であるから機密保持が絶対であるとか兵器は純国産でなければならないとか、あるいは日本の兵器は外国に劣るはずがない等々である。
(林磐男『戦後日本の戦車開発史』より引用)

 

 本書は戦車開発者という珍しい人の著書である。興味のある人は読んでみるといいだろう。

 

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01_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式襲撃機・軍偵察機とは、1939年に初飛行した日本陸軍の襲撃機・偵察機であった。機体は堅実な設計で固定脚を採用、安定したエンジンを装備していたため本来の用途以外にも練習機や連絡機として終戦まで活躍した隠れた傑作機である。

 

九九式襲撃機・軍偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.10m
全長 9.21m
全高  - m
自重 1,873kg
最大速度 424km/h(高度3,000m)
上昇力 5,000mまで8分47秒
上昇限度 8,270m
エンジン出力 940馬力(ハ26供
航続距離 1,060km
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 50kg爆弾4発または
   15kg爆弾12発
設計・開発 大木喬之助 / 三菱重工

 

軍偵と襲撃機

 襲撃機とは1938年の『航空器材研究方針』に初めて登場した区分で、敵飛行場にある飛行機や地上部隊の襲撃を主任務とする機種で、軽快で超低空飛行、急降下爆撃が可能であることが要求されていた。武装は、50kg以下の爆弾を200kg搭載できること、固定機関銃、旋回機関銃各1挺、特別装備としてガス雨下装置を搭載でき、その装置量は爆弾量の1/2以上とすることが要求されていた。ガス雨下装置とは毒ガスを空中から散布する装置のことである。

 その後、1940年の『研究方針』改定時には、襲撃機の性能の中に高速であることと単座であること、さらに特別装備であったガス雨下装置が爆弾との交換装備となった。1943年の改定ではこの項目は省略されている。因みに毒ガスは1925年のジュネーブ議定書において使用が禁止されている。この条約は1928年に発効している。日本はこの条約に署名、1970年に批准している。

 この1938年の『研究方針』以降は、軍偵察機は襲撃機と同一機種とすることが決められていた。軍偵察機とは陸軍の偵察機の区分の一つで他には直協偵察機、司令部偵察機がある。直協偵察機とは地上部隊との連携の下に偵察活動をする機種で、司令部偵察機とは戦略偵察を行う機種である。つまり「直協=近距離」「軍偵=中距離」「司偵=遠距離」と考えて良い。そして同一機種を襲撃機型と偵察機型に分ける方針が決定した。

 

開発

02_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は三菱重工に対して襲撃機の開発を内示した。1938年2月、正式に開発が指示される。これに対して三菱は大木喬之助技師を設計主務者として開発を開始した。同年12月、軍偵察機型の開発が指示されるが、これは襲撃機型に航空写真機を装備しただけのものにする計画であった。

 1939年6月には試作1号機が完成した。初飛行の結果、特に問題点は指摘されず、最高速度424km/hを記録、操縦性は良好と高評価であった。7月からは基本審査が開始、同時に増加試作機11機の製作が発注された。10月からは実用審査が開始、12月に九九式襲撃機として制式採用された(1940年5月説もあり)。

 エンジンはハ26供940馬力。海軍名「瑞星」)を採用、プロペラは2.9m3翅定速ハミルトンプロペラであった。主翼は低翼で、エンジンが小型であったため胴体はコンパクトにまとめられた。性能要求では引込脚、胴体内爆弾倉を要求していたが、1,000馬力級エンジンを採用している関係上、重量増加、機体大型化になるためこれらの要求は退けられた。武装は翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺が装備された。爆弾は50kg爆弾4発、15kg爆弾12発であった。

 軍偵型は写真機が垂直撮影用に1基、斜め撮影用に1基が装備され、偵察用窓も追加された。襲撃機型にあった防弾装置は廃止された。爆弾も軍偵は特別装備となりその量も半減されている。1943年11月以降は、火力不足から一部の機の翼内銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、さらに一部の機は旋回機銃も12.7mm機関砲に換装された。

 

生産数

 試作機2機、増加試作機11機が製作された。量産機は1940年初頭から1943年末まで生産が行われ、1944年以降は立川陸軍航空工廠で生産が行われた。三菱では試作機も含め1,472機、立川陸軍航空工廠でも1,000機近くが生産された。襲撃機型、軍偵型併せ総生産数は2,385機である。

 

まとめ

 

 九九式襲撃機は大戦後半になると爆弾搭載量の少なさや速度の遅さから旧式化が否めなかったが、不整地でも離着陸できる固定脚に堅実な設計と操縦性能、運動性能の良さから汎用性が高く、終戦まで練習機や連絡機、要人輸送機としても使用された。

 

 

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