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三菱

01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 


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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


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01_九七式軽爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式軽爆撃機とは、連合軍のコードネーム「アン」。三菱重工製の軽爆撃機であった。日本陸軍では数少ない単発軽爆撃機で1938年に制式採用され、日中戦争、太平洋戦争の初期まで使用された。固定脚で信頼性も高かったが、旧式化に伴い前線から消えていった。

 

九七式軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.55m
全長 10.34m
全高 3.66m
自重 2,230kg
最大速度 423km/h(高度4,000m)
上昇力 5,000mまで10分36秒
上昇限度 8,600m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,700km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆弾搭載量 300kg(正規)
      400kg(最大)
設計・開発 河野文彦 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 日本陸軍は、戦闘機、偵察機に比べて爆撃機に注目するのが遅かったと言われる。その陸軍爆撃隊には軽爆撃機という区分があった。軽爆撃機というのは陸軍を支援する小型爆撃機のことでそれ以外の爆撃機を重爆撃機、超重爆撃機といった。

 1932年頃、日本陸軍では、軽爆撃機は双発、単発のいずれが良いかという論争が行われていた。単発派は軽量であることを重視、さらには双発機は単発機の1.5倍のコストがかかることから数が維持できないという理由であった。これに対して双発派は、爆弾搭載量、視界や防御力の点から双発が適当としていた。結局、この論争は双単併用という日本的な解決方法で解決した。この結果、日本では単発の軽爆撃機と双発の軽爆撃機という2種類が存在することとなった。

 

開発

 1935年、陸軍は中島飛行機、三菱重工に新重爆の開発を内示、1936年2月に試作を指示した。同時に石川島、三菱、中島、川崎航空機の4社に当時制式採用されていた九三式単軽爆の後継機の開発が内示された。1936年5月5日、三菱キ30、川崎キ32として新軽爆の試作が指示された。

 三菱にはキ30という名称で試作が指示されたが、これに対して三菱は河野文彦技師を設計主務者として開発を開始、1937年2月には試作1号機が完成した。初飛行は2月28日で5月から審査が開始された。そして16機の増加試作機の製作が決定、1938年6月に九七式単軽爆撃機として制式採用された。

 生産は制式採用に先立つ1938年3月から開始されており、1940年まで生産が続けられた。エンジンはハ5(850馬力)で、プロペラは3,175m3翅プロペラが装着された。脚は固定式で、主翼は低翼に近い中翼式、胴体内に爆弾倉が設けられた。性能は最大速度423km/h(高度4,000m)、上昇時間は高度5,000mまで10分36秒、実用上昇限度は8,570m、航続距離1,700km、武装は、翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺、爆弾搭載量は正規で300kg、最大400kgであった。

 本機は、やや鈍重ではあったが、急降下爆撃も可能であったものの胴体内爆弾倉の影響で操縦員と後席乗員の連絡が難しいという欠点があった。

 

生産数

 三菱重工で636機、陸軍航空工廠で180機以上、合計816機(686機とも)が生産された。

 

戦歴

 1938年1月には、飛行第9大隊(のちの飛行第90戦隊)が九七式軽爆への改変を開始、改変は4月頃で終わる予定であったが実際には8月頃までかかったと言われている。4月の徐州会戦に参加したのが初の実戦投入であったと思われる。続いて5月には飛行第5大隊(のちの飛行第31戦隊)が改変を開始している。1939年5月に勃発したノモンハン事件では九七式軽爆を装備した飛行第10戦隊が参加、その後、飛行第16戦隊、飛行第31戦隊も参加している他、中国戦線では飛行第34戦隊が九七式軽爆を装備していた。

 1941年12月の太平洋戦争開戦時には16戦隊、31戦隊、第21独立飛行隊の独立飛行第82中隊が九七式軽爆を装備している。開戦後は16戦隊が比島攻略に参加、31戦隊はマレー作戦に参加している他、独立82中隊が中国戦線で活躍したものの、1942年春頃には第一線を退いた。

 

まとめ

 

 九七式軽爆はM103ナゴヤという名称でタイ空軍に24機が供与された機体ではあったが、太平洋戦争初期には旧式化に伴い傑作機九九式双軽にその地位を譲ることとなる。特徴が無いことが特徴ともいわれる目新しさの無い機体ではあったが、扱いやすく搭乗員には評判の良い機体であった。川崎航空機の九八式軽爆と並んで日本陸軍が採用した数少ない単軽爆の一つである。

 

 

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01_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式重爆飛龍は三菱重工が開発した航続重爆で、最高速度537km/h、航続距離3,800kmであった。軽量コンパクトにまとめられた機体は、のちに雷撃機にも改造され1944年の実戦配備以来、終戦まで戦い続けた。日本が生んだ最高傑作機の一つである。

 

四式重爆撃機 飛龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 22.5m
全長 18.7m
全高 5.6m
自重 8,649kg
最大速度 537km/h(高度6,090m)
上昇力 6,000mまで14分30秒
上昇限度 9,470m
エンジン出力 2,000馬力(2基)
航続距離 3,800km
武装 20mm機関砲1門、12.7mm機関砲4門
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾3発または
   50kg爆弾15発
設計・開発 小沢久之丞 / 三菱重工

 

開発

02_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ49(九七式重爆)の後継機の開発を指向する陸軍は、1939年12月、三菱重工に対してキ67の開発を内示した。これに対して三菱は小沢久之丞技師を設計主務者として研究を開始、1940年9月に試作が内示、1941年2月に正式に試作が指示された。

 試作を命じられた三菱側は、完成した航空機が得てして当初の指示にはない使い方をされることを念頭に性能要求では500kgとなっている爆弾搭載量も最大で800kg搭載できるようにする等、余裕を持った設計が行われた。さらには目玉としては急降下爆撃、超低空飛行が可能なことなどがあった。

 

試作機完成

 1942年12月に試作1号機が完成する。初飛行は12月27日で翌年には試作2号機、3号機も完成、初飛行を行った。完成したキ67は海軍の一式陸攻に比べると小型コンパクトにまとめられていた。エンジンは信頼性の高いハ104(1,900馬力)でプロペラは直径3.6mの4翅プロペラを採用した。

 燃料タンクは、胴体内燃料タンクは装甲板や厚いゴム被膜で防弾しており、翼内タンクは下面がセミ・インレグラルタンク(燃料タンクがそのまま外板になっている構造。)となっており、被弾した際には燃料が自動的に下方に流れ出て火災を防ぐように設計されていた。機銃は5ヶ所で、前方、後上方、尾部、両側面が12.7mm機関砲(ホ103)が装備、死角が無くなるように視界が広く取られた。

 最高速度は537km/hで安定性不良、プロペラの不調、タイヤのパンク等が問題点として指摘されていたが、一つ一つ解消していった。ただ、プロペラの不調に関しては電気系統のトラブルが原因で、電気系統に弱い当時の日本では最後まで手を焼いた。1943年2月には17機の増加試作機が発注され、1944年2月までの間に完成した。この増加試作機で後上方機銃が20mm機関砲(ホ5)に変更され、以後、量産機の標準となった。制式採用は1944年8月であったが、生産は同年初頭には開始されており、3月には量産1号機が完成している。

 生産451号機以降は尾部銃座が連装銃架となり1型乙と呼ばれた。これに伴い20号機(試作機が20機存在するため生産1号機)から100号機までが1型、101〜450号機までが1型甲と呼ばれた。

 

雷撃機化

 1943年12月、陸軍は、三菱に対してキ67を雷撃機改修を内示、1944年1月5日に正式に改修が指示された。差し当たり17、18号機の2機が改修されたが、結果は極めて良好であり、陸軍は17号機以降全機に雷撃装備を施すことが決定した。さらに追加装備として電波警戒器タキ1供超低空用電波高度計タキ1靴鯀備していた。

 

2型、1型改

03_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月よりキ67のエンジンをハ214(2,350馬力)に換装するという研究が開始された。そして1943年9月に1型にハ214を搭載、試験を行った。1945年1月12日、キ67、2型の試作が指示されたが設計中に終戦となった。さらに1型に排気タービン付きハ104ルに換装した1型改も2機製作されたが、最大速度は545〜551km/hと大して向上しなかったため試作のみで終わった。

 

キ109特殊防空戦闘機

 キ109はキ67の防空戦闘機型で、1943年11月20日に試作が指示されている。これは75mm高射砲を装備した特殊防空戦闘機で、小沢久之丞技師を設計主務者として開発を開始、1944年8月末に試作1号機が完成している。テストの結果、操縦性、運動性は良好であり、75mm砲の命中率も高いため早速44機の緊急生産が命令された。

 しかし、1944年11月、実際に2機の試作機で来襲したB29を迎撃したところ、高空性能不足で有効射程に入れなかった。このため軽量化と空気抵抗の低減が行われたが、結局、期待した性能には達しなかった。試作機2機、量産機20機が生産されている。

 

その他試作機

 1944年2月には滑空機曳航装置を装備した型、5月には四式自動爆撃照準器と自動操縦装置を連携させる実験機が製作された。8月には機上サーチライトを装備した実験機が完成している。同月、イ号1型甲空対艦無線誘導ミサイル母機型と体当たり攻撃用ト号機の試作が指示されている。イ号母機は1944年10月に1号機が完成、12月までに全10機が納入されている。

 ト号機は銃座を全て廃し、800kg爆弾2発を搭載した型で15機が製作された。1945年2月にはキ167櫻弾装備特攻機の試作が指示されている。ト号同様、銃座は全て廃されている。試作2機の他、小数機が改修され実戦で使用されている。尚、キ167という計画番号は非公式。

 1945年7月には長距離襲撃機型、特殊航続延長機型が計画されている。特殊航続延長機型は両翼端を75cm延長し、燃料タンクを増設、さらに翼下に落下タンクを各1個装備、武装は尾部の機関砲のみとした機体で、長距離襲撃機型は20mm機関砲を胴体下面に4門、尾部に1門、機首に1門装備することを予定したものであったが、どちらも完成することなく終戦を迎えた。他にも、キ67を輸送機化したキ97輸送機は、1943年2月に試作指示が出たが、1944年9月に開発中止となった。全木製重爆キ112、重爆掩護機キ69が計画されたがいずれも計画のみで終わっている。他にも重爆指揮官機型も計画されていた。

 

生産数

 生産は、三菱名古屋製作所が564機(試作機含む)、熊本製作所が42機、川崎航空機が91機の合計697機が完成している(635機説あり)。

 

戦歴

 1944年5月、四式重爆は豊橋で訓練中の飛行第98戦隊に配備された。この戦隊は陸軍初の雷撃隊で、1944年2月より海軍761空の指揮下に入り、3ヶ月にわたって雷撃の訓練を行っていた部隊であり、四式重爆を配備された98戦隊は同機での訓練を開始、8月に海軍でT攻撃部隊が編成されると98戦隊も同部隊に加えられた。この時点で98戦隊の隊員は暗夜行動可能27組、月明時夜間行動可能5組とかなりの練度にまで達してた。

 四式重爆の初出撃は、1944年10月12日夜で、台湾より98戦隊の四式重爆20機が出撃したものの、1機は離陸に失敗、19機が索敵攻撃に出撃したものの敵機動部隊を発見することができずにバラバラに帰還、台湾にたどり着けたのは8機、中国大陸への不時着3機、行方不明8機という大損害を出してしまった。続く13日の攻撃では16機が出撃、1機以外は全て不時着・未帰還となり98戦隊の可動機はわずか2機となってしまった。同月、浜松では四式重爆を装備した飛行第110戦隊が編成、同月下旬には特攻機であるト号機装備の富嶽隊が編成(翌月全機が突入戦死)、11月には新たに特殊防空戦闘機型のキ109を装備する107戦隊が編成された他、60戦隊も四式重爆に改変されており、1945年1月には61戦隊、2月には62戦隊が四式重爆への改変を行っている。

 7戦隊も四式重爆を装備した部隊で98戦隊同様、雷撃訓練を受けた部隊であったが、この戦隊も98戦隊と同じくT攻撃部隊に編入されたものの台湾沖航空戦には参加せず、11月には比島に進出、数度の攻撃に参加した後内地へ帰還したのち、12月には新編の110戦隊と共にサイパン攻撃を行っている。1945年2月には米軍の硫黄島攻略作戦に際して60戦隊、110戦隊が米艦船攻撃を行っており、3月の沖縄侵攻では7戦隊、60戦隊、62戦隊、98戦隊、110戦隊が沖縄決戦に参加している他、1月に四式重爆に改変した61戦隊が蘭印方面で活躍している。

 

まとめ

 

 四式重爆は性能が高く、操縦性、運動性能も良かったため多くのバリエーションが考案された。しかし登場したのが太平洋戦争後半であり、生産数も少なかったため戦局を覆すほどの活躍は出来なかったが、1944年秋の実戦投入以来、多くの戦場で活躍した傑作機であった。

 

 

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01_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式重爆は陸軍初の近代的重爆撃機であった。中島、三菱の競作であり、その採用には政治的思惑も噂されているが、性能は素晴らしく、同時期の海軍の爆撃機九六式陸攻の最高速度を100km/h以上上回った傑作爆撃機である。

 

九七式重爆撃機 〜概要〜

 

 

性能(1型)

全幅 22.00m
全長 16.00m
全高 4.35m
自重 4,691kg
最大速度 432km/h(高度 -000m)
上昇力  -
上昇限度 8,600m
エンジン出力 1,080馬力
航続距離 2,500km
武装 7.7mm連装機銃1挺、7.7mm機銃3挺
爆装 最大 1,000kg
設計・開発 三菱

 

背景から開発まで

 それまでの九三式重爆の旧式化に伴い、陸軍は、新重爆の開発を計画。1935年9月、陸軍航空本部は中島飛行機、三菱、川崎に次期爆撃機の研究に着手させた。その結果、1936年2月15日、中島飛行機と三菱に試作命令が出た。この新重爆は、最大速度がそれまでの九三式重爆の200km/hに対して、一挙に400km/hの速度を要求されたことが特徴的であった。そしてこの重爆が目標としていたことはそれまでの重爆が単に地上支援が任務であったのに対して、新重爆は航空撃滅戦(敵航空機の殲滅)であった。

 

開発

02_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島、三菱に命じられた試作機の完成期限は1936年10月であったが、両社共に遅れた。1936年12月、三菱が一足早く試作機を完成させた。性能はほぼ要求値を満たしており、1937年4月末の基本審査でも大きな問題は指摘されなかった。一方の中島飛行機は1937年3月に試作1号機が完成、6月より基本審査が行われた。両社の試作機を比較すると、まずエンジンは三菱がハ6(700馬力)、中島がハ5(950馬力)であり、寸法は三菱がやや大きく、中島はスマートな流線形であった。性能はどちらも甲乙付け難く、陸軍内部においても意見が二分されてしまった。

 この結果、陸軍は三菱の機体に中島製のエンジンを装着するということで解決、1937年6月11日、三菱に対して増加試作機(キ21)の製作が指示された。この決定は、両社の優れているところだけを抽出するというものであったが、問題はここからである。三菱にはエンジンの変更と共に陸軍の指示により機体の改修が命じられた。この内容は中島製の試作機の長所を全て三菱製に反映させるというもので、案の定、完成した機体はスマートな流線形を持つ中島製試作機にそっくりな形状となった。

 これを知った中島側は、自社の設計を三菱に「横取り」されたと不満を抱き、三菱側は自社の自慢のエンジンを不採用にされたことや設計の変更をさせられたことに不満を感じた。結局、この決定は両社に不満を持たせる結果となってしまった。しかし、この陸軍の決定により九七式重爆という傑作機が生まれたというのは皮肉な話である。

 試作機1、2号機は試験のため中国戦線に投入、さらに1937年末(1938年説あり)までに製造された増加試作機6機の内、5機も戦線に投入され、これらのフィードバックを残りの1機の増加試作機に反映させる方針であった。同時にエンジンをハ5改(850馬力)に換装された量産機(1型)が三菱、中島で製作されていった。

 

1型

 1型甲は、1型よりも燃料搭載量を増大させたタイプで武装は後上方に7.7mm連装機銃、機首と後下方に7.7mm機銃各1挺の合計4挺であった。

 1938年7月20日に試作1号機が完成した1型乙は、尾部銃と側方銃(左右兼用)が各1挺追加された。以前から安定性が不十分であった上に武装強化により重心位置が後退したため水平尾翼が大型化された。燃料タンクも防弾ゴムが装備されている。最大速度は432km/h、上昇限度8,600m。

 丙型は2型へのつなぎとして製造された機体で、外翼の形状の変更、車輪の大型化、燃料搭載量の増大等が行われている。

 

2型

 エンジンをハ101(1,450馬力)に換装した機体である。1939年11月14日、試作が指示された。1型丙のエンジンをハ101に改修して各種テストを実施、1940年12月に完成した。エンジンの換装に伴いエンジンナセルの形状を変更、車輪も完全な引込脚に変更された。武装もそれまで左右兼用であった側方銃も左右に各1挺設置された。エンジンの換装により最大速度は1型の432km/hに対して478km/hと大幅に向上した。2型乙の登場により2型甲と呼ばれた。

 2型乙は後上方機銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、機銃座の風防を球形に改良された型である。2型丙は、機上電波警戒器タキ1(レーダー)を装備した機体で1944年2月中旬に試作機が完成、その後数機が生産された。2型は生産中に単排気管の装着、防弾装備の充実等が行われている。

 

輸送機型

 1型をベースに100式輸送機(キ57)として制式採用された。MC-20として民間にも転用されている。さらには貨物輸送機とされた機もあり、これはMC-21と呼ばれた。

 

生産数

 1型は、試作機2機、増加試作機6機、量産機350機が生産され、1型甲型は143機、乙型が120機、丙型が160機生産されている。1型は合計2型は1944年9月まで生産が続けられ2型甲が1,025機、2型乙が257機の合計1,282機が生産された。総生産数は試作機も含めると2,063機である。

 

戦歴

 1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により日中戦争が始まる。当時の日本陸軍が採用していた重爆は九三式重爆であったが、能力的には十分といえるものではなかった。このため1937年10月末、独立第3中隊に実用実験を兼ねて九七式重爆の試作1号機、2号機が配備、約2ヶ月の実用実験が終了した後、この2機は飛行第6大隊に引き渡された。さらに1938年6月までには大隊の全12機が九七式重爆に改変された。

 1938年8月には第6大隊は飛行第60戦隊に改編、以降、要地攻撃や地上部隊支援、さらには重慶等の奥地攻撃に活躍する。この頃になると九七式重爆は満洲の58、61戦隊、台湾の14戦隊にも配備されるようになっており、61戦隊は1939年に勃発したノモンハン事件にも参加している。このノモンハン戦の最中、九七式重爆を装備した62戦隊が誕生、さらに内地の7戦隊、1940年春には98戦隊、6月から8月の間に12戦隊が九七式重爆に改変された(1941年5月には12戦隊、98戦隊が2型へ改変されている)。

 太平洋戦争開戦時には1型丙を装備した62戦隊、12戦隊、60戦隊、98戦隊が仏印に進出、進出時に悪天候により14機を失ったものの145機が仏印に集結した。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦するとこれらの戦隊はマレー攻撃、シンガポール攻撃に参加、その後ビルマのラングーン航空撃滅戦に参加、1942年2月には98戦隊に搭乗した第一挺身団によるパレンバン油田への空挺降下が実施、3月には九七式重爆によるビルマへの航空撃滅戦が行われている。

 一方、太平洋戦争開戦時に比島攻撃に参加した14戦隊は、1943年3月2日にシンガポールから島伝いにラバウルに進出、ソロモン、ニューギニア航空戦に参加したのち、1944年3月には比島に移動した。比島には12戦隊の九七式重爆と共に第7飛行師団の指揮下に入り比島決戦に活躍した。他にも比島にはタキー1機上電波警戒機を搭載した九七式重爆二型を装備した独立飛行31中隊が哨戒部隊として参加している。

 その他の戦線では、1943年3月には58戦隊、60戦隊がインド洋の哨戒任務や中国大陸での作戦を行っており、12戦隊や14戦隊、62戦隊等も中国大陸で活躍している。1945年になると九七式重爆はすでに旧式化していたが、同年3月に始まった沖縄戦では九七式重爆が義烈空挺隊を乗せて沖縄の飛行場へ強行着陸を敢行している。

 

まとめ

 

 九七式重爆は、日中戦争のさ中に開発された重爆撃機で太平洋戦争終戦まで使用され続けた。生産中に防弾性能の強化も行われたが、連合軍爆撃機に比べれば防弾装備は無きに等しい。沖縄への特攻攻撃である義烈空挺隊の搭乗機としても有名である。戦後も少数がタイで運用されている。

 

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01_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 一式陸攻は1941年に制式採用された双発爆撃機でその性能は当時としては随一のものであった。そのため多くの改良型が開発されたが、防弾装備を軽視したため戦場では「ワンショットライター」と呼ばれるほど脆く、多くの機体が撃墜されていったが、機体性能は素晴らしく傑作機といっていい。

 

一式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(22型)

全幅 24.88m
全長 19.63m
全高 6.00m
自重 8,050kg
最大速度 437.1km/h(高度4,600m 250kg爆弾4発搭載時)
上昇限度 8,950m
エンジン出力 1,850馬力(2基)
航続距離 6,060km(偵察時)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃3挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または500kg爆弾1発または
   250kg爆弾4発または
   60kg爆弾12発
設計・開発 本庄季郎 / 三菱

 

開発

02_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年9月末、海軍は、三菱に対して仮称一二試陸上攻撃機(G4M)の開発を命じた。要求された性能は最高速度398.1km/h(高度4,000m)、航続距離4,815km、800kg爆弾または魚雷搭載可能であること、乗員7〜9名、発動機は金星(1,000馬力)を使用することというものであった。これは当時、制式採用されていた九六式陸攻と爆弾搭載量は同じにして速度は50km/h以上、航続距離は800km以上を増大させるという苛烈なものであった。

 これに対して三菱は九六式陸攻の設計主務者であった本庄季郎技師を設計主務者として検討を開始した。本庄技師は当初は発動機4発の重爆を想定していた。これは双発でも要求性能は発揮することはできたが、防御面が不十分になるためエンジン2発のパワーで本来の性能、もう2発で防御関係の重量を支えるという構想であった。しかし、この構想は海軍側の猛反発に遭い、結果双発高速陸攻が完成するが、同時に防御装備が貧弱であり連合軍からは「ワンショットライター」と呼ばれることとなる。

 爆弾倉を胴体内に持つため胴体はいわゆる「葉巻型」となった。これは空力的には非常に優れた設計であった。翼内には燃料タンクが設けられ、さらに偵察任務の場合には爆弾倉内に増設タンクを搭載することが可能、脚は電動式で機体内に完全収納されるものであった。エンジンは当初は金星エンジンを採用する予定であったがより高性能な火星11型(1,530馬力)が完成したため火星エンジンを採用している。機銃は7.7mm機銃が前方に1挺、胴体上方に1挺、左右側面に各1挺、後方に20mm機銃が1挺の合計5挺が装備された。

 1939年9月、試作1号機が完成、翌10月23日初飛行が行われ、最高速度が444.5km/h(性能要求398.1km/h)、航続距離は5,556km(同4,815km)と性能要求を大幅に超えたもので関係者を驚かせたという。そして一連の審査が終わった1940年1月24日海軍に領収、順調に進んでいたが、掩護機型生産のため(下記参照)作業は大幅に遅れ、1年以上経た1941年4月2日一式陸上攻撃機として制式採用された。

 

海軍の型番の命名規則

 以下、一式陸攻のバリエーションについて解説するが、海軍の型番の命名規則は一の位がエンジンの変更、十の位が機体の変更を表している。つまり最初期型は11型で、機体設計に変更を加えると21型、エンジンに変更を加えると22型となる。さらにエンジンに変更を加えると23型という風に変わっていく。

 

G4M1シリーズ 型番10番台

 

03_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

一式大型陸上練習機11型・一式陸上輸送機11型

 一式陸攻が制式採用される以前、十二試陸上攻撃機の高性能に注目した海軍は掩護機型を思い付く(G6M1)。三菱側は性能が低下すると反対したが、海軍は方針を変えず生産を命じた。改良点は爆弾倉を廃し、代わりに胴体下面に砲塔を設置、前後に20mm旋回銃2挺を搭載、上方銃座を20mm機銃に変更、燃料タンクの防弾化などである。1940年8月に試作機が完成したが予想通り重量超過となり失敗した。この試作機は練習機や輸送機に変更され、一式大型練習機11型(G6M1-L)、一式陸上輸送機11型(G6M1-L2)として制式採用された。

 

11型(12型とも)

 高高度性能を強化する目的でエンジンを火星15型に変更したもの。これにより最高速度が11型に比べ18.5km/h速くなった他、上昇時間、上昇限度も向上した。最高速度463km/h、航続距離6,030kmとなった。途中の生産機から燃料タンクに厚さ30mmの防弾ゴムを装備、防弾性能が強化された。11型、12型併せ略符号はG4M1である。

 

G4M2シリーズ 型番20番台

 

04_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

22型(G4M2)

 22型は1942年11月24日に試作1号機が完成する。12型との変更点は、主翼、水平尾翼の形状を変更、プロペラを4翅に変更、燃料タンクの容量の増加、尾輪を引込脚に変更、上部機銃を20mm機銃に換装した他脚の補強も行われた。重量が増加したためエンジンを火星21型(1,850馬力)に変更している。22型甲は電探装備機で、22型乙は胴体上方の機銃が変更されている。最高速度437.1km/h、上昇限度8,950m、航続距離は2,500km。

 

24型(G4M2A)

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に変更した機体。1944年に1号機が完成する。24型甲は側方銃を20mm1号銃に変更したタイプで、24型乙は24型甲の上方銃を変更したもの。24型丙は24型乙の前方銃を12.7mm機銃に変更したタイプである。24型丁は特別攻撃機桜花の母体とするために設計されたタイプで桜花用の懸吊装置を設置した他、防弾鋼板の設置などがされている。一部の24型丁には離陸補助用の四式噴進器2本が装備されている。

 

25型、26型、27型

 25型は、エンジンを火星27型(馬力不明)にしたものであったが、発動機工場が被爆してしまったため1機のみ製造された。26型はエンジンを火星25型乙に変更したもので2機が試作された。内1機は26型丁として桜花の母機となっている。

 27型はエンジンを火星25型ル付に変更したもので1機が改造された。

 

G4M3シリーズ 型番30番台

 

34型

 34型は、連合艦隊側から航続距離を犠牲にしても防弾性能を強化して欲しいという要望の下にエンジンは火星25型のままで機体の防弾性能を強化したタイプである。燃料タンクを防弾ゴムで覆ったものであったが、設計の途中で設計主務者である高橋巳治郎技師が病に倒れたため完成は遅れた。1944年1月試作1号機が完成、初飛行を行った。最高速度は481km/hと24型よりも向上していたが、重量が増大したため強度不足が生じその対策に手間取った。

 さらに海軍側から航続距離を延長せよという要求が出されたため作業は再び遅れた。そして再び海軍から武装を強化せよという要求が出された結果、完成は遅れに遅れ1944年10月に34型生産1号機が完成した。こうして生産が開始された34型であったが、そのころには攻撃機の主力は陸爆銀河や四式重爆飛龍(陸軍)に代わっており、一式陸攻は輸送や対潜哨戒に使用されていた。このため34型も輸送用や対潜哨戒用に改造された34型甲、上方機銃を長銃身の99式2号銃に変更した34型乙、機首前方機銃を13mm機銃に変更した34型丙もある。

 36型(G4M3D)はエンジンを火星25型乙に換装したもので、桜花の母機として36型丁も製作される予定であった。37型はエンジンを火星25型ル付に換装したもので2機が改造されテスト中に終戦となった。

 

生産数

 G4M1シリーズは、試作機が2機、11型が403機、12型が797機の合計1,202機、G4M2シリーズが、22型から27型までは三菱名古屋製作所で640機、水島製作所で512機(513機とも)の合計1,152機(1,153機とも)、G4M3シリーズが、約516〜530機ほど生産された。総生産数は2,420機、または2,435機である。

 

戦歴

 最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空で、1941年5月、九六式陸攻から一式陸攻に改変されている。初めての実戦参加は同年7月27日の成都空襲で、以降、高雄空の一式陸攻は中国戦線での攻撃に度々参加している。そして9月には新たに鹿屋空が一式陸攻に改変を開始、両部隊ともにその後仏印進駐に参加している。

 太平洋戦争開戦時に一式陸攻を装備していたのも両部隊で、開戦劈頭フィリピンの各基地の攻撃に参加、12月10日には鹿屋空の一式陸攻隊がマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに雷撃を行っている。その後、零戦隊と共に比島・蘭印の各作戦に参加、この中で2月28日には高雄空の一式陸攻隊が水上機母艦ラングレーを撃沈している。

 

南東方面(ソロモン・ラバウル)の一式陸攻

 当初2航空隊のみであった一式陸攻隊であったが、1942年2月には新たに三沢空、4空にそれぞれ一式陸攻が配備、4空は2月14日にはラバウルに進出、20日には戦闘機の援護を受けずに米機動部隊攻撃を実施、参加17機中12機が被撃墜、2機が不時着という大損害を受け(ニューギニア沖海戦)、戦力回復後に行われた珊瑚海海戦においても出撃12機中隊長機以下4機を失うという損害を受けていた。このため内地で哨戒任務に就いていた三沢空にもラバウル進出が命ぜられ、8月には三沢空もラバウルに進出した。この頃になると九六式陸攻から一式陸攻への改変は進み、1空、千歳空が新たに一式陸攻を装備するようになっている。

 1942年8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸、第一次ソロモン海戦が開始、4空、三沢空の一式陸攻隊は出撃87機中24機と実に30%の戦力を失うという大損害を受けており、これ以降でも8月中にさらに11機が撃墜されている。このため同月中に木更津空、9月には千歳空と高雄空の一部がラバウルに鹿屋空(751空)の一部(27機)がカビエンに進出、同時に戦力を消耗し尽くした4空(702空)が内地に帰還したもののラバウルには三沢空(705空)、木更津空(707空)、千歳空(703空)、高雄空(753空)の4個飛行隊79機が集結した。その後、12月には707空は戦力を消耗して解隊、代わりに九六式陸攻装備の701空(旧美幌空)が進出している。その後これらの航空隊と再度進出した702空によりラバウル航空戦が展開されるが、1944年2月には751空がトラック島に後退、おびただしい犠牲を出した一式陸攻隊によるソロモン航空戦は終止符を打った。

 

千島列島、中部太平洋の一式陸攻

 一方、北東方面(千島列島)では752空(旧1空)の一式陸攻隊45機が幌筵島に進出、アッツ島に来襲した米艦隊への攻撃を行ったものの戦果はなく、アッツ島の玉砕ののちの1943年11月にはマーシャル諸島に移動している。中部太平洋では開戦当初は千歳空(703空)と1空(752空)が展開していたが、ラバウル方面の戦局が逼迫したため千歳空はラバウルに進出、中部太平洋は1空のみとなったが1942年11月には755空(旧元山空)がウェーク島に進出した。1944年に入ると平和であったマーシャル諸島も米機動部隊の攻撃を受けるようになり、2月に入ると米軍が上陸、さらにトラック島も米機動部隊の空襲を受けるようになった。

 

終戦まで

 この後、米軍の攻撃はマリアナ諸島、台湾、比島にも及ぶことになるが、戦力の差が決定的になってしまった状態では一式陸攻も戦果は少なく消耗する一方であった。この戦争後期に特筆すべきなのは721空で、通称神雷部隊と呼ばれるこの航空隊は「人間爆弾」桜花を搭載する部隊であった。飛行隊長は野中五郎少佐で一式陸攻24丁型で各1機特攻機桜花が搭載可能であった。初出撃は3月21日で一式陸攻18機が出撃、全機撃墜されている。以降、6月22日までに計10回出撃が行われているが損害に対して目立った戦果は挙げられていない。

 

まとめ

 

05_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)
雷撃中の一式陸攻。一式陸攻の胴体の高さが2.5mであることを考えると海面ギリギリで雷撃する一式陸攻の搭乗員の練度の凄さが良く分かる。

 

 一式陸攻は完成当時世界トップクラスの飛行性能を持った双発爆撃機であったが、実戦では防弾装備を軽視した結果、機銃弾が命中すると即座に発火、連合軍パイロットから「ワンショットライター」と呼ばれる機体となった。これは海軍が防弾能力を軽視した結果であった。このため海軍は太平洋戦争初戦期で多くの優秀な搭乗員を失ってしまった。

 

 

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01_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式陸攻は全金属製双発攻撃機でそれまでの攻撃機を超越する高性能を示した。最高速度は当時の艦上戦闘機を上回り、航続距離、運動性能全てが優秀であったが、防弾性能は皆無である。九六式陸攻は日中戦争から太平洋戦争終戦まで活躍する。

 

九六式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(11型)

全幅 25.0m
全長 16.45m
全高 3.685m
自重 4,770kg
最大速度 348km/h(高度2,000m)
上昇力  -
上昇限度 7,480m
エンジン出力 910馬力
航続距離 4,550km(過荷重状態)
武装 7.7mm旋回銃3挺
設計・開発 本庄季郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 ワシントン、ロンドン軍縮条約で対米6割とされた日本海軍は、航空機によってその劣勢を補おうとした。そこで目を付けたのが雷撃可能な陸上攻撃機であった。最初に七試大型攻撃機(のちの九五式大攻)の開発を指示、さらに中距離陸上機の開発を三菱重工に命じた。これが八試特殊偵察機(八試特偵)と呼ばれる機体でこれが改良され九六式中攻となる。

 

開発

 

八試特偵

 1933年、三菱は海軍より八試特偵の開発を指示された。九六式艦戦の時と同じように当時の航空本部長山本五十六少将の判断により細部にわたる指示はせずに性能要求は大枠のみを示し、技師に自由に腕を振るわせるという方針であった。このため三菱に提示された性能要求は「乗員3名、巡航速度222km/h以上、航続距離3,330km、自動操縦装置が装備されていること程度の簡単なものであった。

 これに対し三菱は本庄季郎技師を設計主務者として開発を開始、1934年4月18日、試作1号機が完成する。この八試特偵は、全金属製中翼単葉双発機で日本初の引込脚を装備、沈頭鋲の使用、自動操縦装置の装備等斬新なものであった。なお、試作中に計画が変更され、乗員が5名、7.7mm機銃2挺が設置されることとなった。

 1934年5月7日初飛行が行われた。当初は重量超過や重心位置や剛性不足等の問題が発生したが、テスト飛行の結果は非常に優秀であった。馬力不足から上昇力に問題があり、実用上昇限度は4,600mと今ひとつであり、巡航速度は203km/hと性能要求を下回ったものの、全体的な性能は素晴らしく、特に航続距離は4,380kmと性能要求を1,000kmも上回るものであった。操縦性能も抜群で安定性も良好、その軽快さは戦闘機並みであり、テストパイロット達から絶賛された。

 

九試中攻(九六式陸攻)

02_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年2月、八試特偵の実用機型ともいえる九試中攻の開発が指示された。設計主務者は八試特偵と同じく本庄季郎技師で1935年6月に試作1号機が完成する。機体は最新の超ジュラルミンが使用され、主翼と尾翼は八試特偵のものをほぼそのまま流用したが、胴体は完全に再設計され操縦席は正副並列式となった。

 機銃は前上方、後上方、後下方の3ヵ所に7.7mm機銃が設置され、爆弾・魚雷の懸吊、投下装置が設置された(爆弾等は機外に懸吊される)。エンジンは九一式600馬力エンジン2基が装備された。初飛行は1935年7月で最高速度は315km/hを記録、3,000mまでの上昇時間も八試特偵の16分54秒に対して9分43秒と航続距離以外の全てにおいて八試特偵を凌駕していた。一時期、座席の配置が問題となり時間を浪費したが、1936年6月には、九六式陸上攻撃機として制式採用された。

 

11型

 最初期の量産型で34機が製造された。エンジンは金星3型(790馬力)で最高速度は348km/hであった。続いて21型が生産された。これは金星41型または42型(どちらも1,075馬力)エンジンに換装された型で最大速度は376km/hに達した。乗員5名。

 

22型

 1939年4月、それまで後上方の機銃が7.7mmであったのを20mm機銃に変更、胴体側面に7.7mm機銃を各1挺新設、機銃を合計4挺とした武装強化型の22型が制式採用された。後上方銃座は涙滴形風防が採用されている。乗員は7名となった。エンジンは途中の生産機から金星45型(1,000馬力)に変更されている。

 

23型

 1941年2月、一式陸攻の生産に集中するために三菱での九六式陸攻の生産は打ち切られ、中島飛行機に生産が移行された。この中島飛行機で最終生産型の23型が生産されている。23型はエンジンを金星51型(1,300馬力)に変更、最大速度は415km/hとなった。

 

その他バリエーション

 九六式陸上輸送機は11型、21型がある。11型は乗員5名、乗客10名を乗せることができ、12型は乗員以外に落下傘兵12名を乗せることができた。その他民間型もあり、これは乗員4名と乗客8名を乗せることができる。ニッポン号と呼ばれた。

 

生産数

 試作機が21機、11型で34機、21型が343機、22型が238機、23型が412機生産されている。

 

戦歴

 最初に九六式陸攻が配備されたのは館山空で1936年早春のことであった。さらに4月1日には海軍初の陸攻専門部隊である木更津空が誕生、6月には九六式陸攻が配備された。1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると木更津空は長崎県大村基地に鹿屋空は台北に進出、8月14日には18機の九六式陸攻が中華民国軍の飛行場等を爆撃に成功している。この際、九六式陸攻の被撃墜2機、不時着1機、大破1機の損害が発生、以降、3日間に渡って中国本土の基地を攻撃したものの陸攻隊も9機を失うという損害を出している。これが有名な渡洋爆撃の最初であったが、中華民国軍の反撃は激しく、17日には木更津空、鹿屋空ともに兵力が半減してしまっている。

 これ以降、木更津空、鹿屋空で編成された第一連合航空隊(一連空)は陸戦協力や敵飛行場、交通施設等への爆撃、1938年2月には重慶への無差別爆撃も行ったものの、陸攻隊の損害も30機に達したため、3月には内地に帰還した。これと入れ替わりに同月、台湾の高雄で新しく高雄空が編成、さらに1939年10月には千歳基地で千歳空、1940年10月には美幌空、11月には元山空が開隊するなど、徐々に陸攻隊が充実していく。

 1941年になると新鋭の一式陸攻が部隊に配備されるようになり、鹿屋空、高雄空が一式陸攻に改変されていった。しかし未だ一式陸攻は全部隊に配備されるまでには至っておらず、太平洋戦争開戦時には一空、元山空、千歳空が九六式陸攻を装備していた。太平洋戦争開戦後は美幌空、元山空の陸攻隊がマレー沖海戦に参加、航行中の戦艦を撃沈するという快挙を成し遂げた。同時に比島では一空の九六式陸攻がクラーク基地に対して爆撃を行い、中部太平洋では千歳空の九六式陸攻がウェーク島攻撃を実施している。

 1942年1月には一空、元山空がラバウルへ進出、珊瑚海海戦等にも参加したものの7月には一空が内地へ帰還、兵力の補充のため、11月には701空(旧美幌空)がラバウルに進出しているが、この頃には主力は一式陸攻に代わっており、九六式陸攻は徐々に第一線から後退していったものの、終戦まで哨戒、索敵、船団護衛等に活躍した。

 

まとめ

 

 九六式陸攻は当時の戦闘機を凌ぐ高速であったため海軍内部に戦闘機不要論を引き起こす結果となった。しかしこれは防弾性能を全て犠牲にした結果であり、実際に戦闘に参加した九六式陸攻は防弾装備の欠落のため多大な損害を受けることとなる。そして防弾装備を強化されることなく終戦まで使用され続けた。

 

 

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01_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機九七式司令部偵察機の後継機で三型で最高速度630km/h、四型では10,000mでも同速度を発揮した。これは日本陸海軍実用機中最高速度である。太平洋戦争開戦から終戦まであらゆる戦場に現れ情報収集に活躍した。

 

百式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.70m
全長 11.00m
全高 3.88m
自重 3,263kg
最大速度 604km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで20分15秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 1,050馬力×2基
航続距離 4,000km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

背景から開発まで

 九七式司令部偵察機の活躍は陸軍に戦略偵察機の重要性を認めさせるには十分であった。しかし九七式司令部偵察機は司令部偵察機としては暫定的なもので固定脚であること等、性能に不満な点も残るものであった。このため陸軍は本格的な司令部偵察機の開発を計画することになる。この時の性能要求は引込脚で最大速度が高度4,000mで600km/h以上、航続距離が巡航速度400km/hで6時間という厳しいものであった。特に写真撮影のために水平直線飛行性能が良好であることが強く求められた。

 

開発

02_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月27日、陸軍は三菱重工に次期司令部偵察機をキ46として試作を命じた。これに対して三菱重工は、設計主務者を九七式司令部偵察機と同じ久保富夫技師として設計にかかった。まずエンジンは、敵地深くに侵入した際にも安全性を確保できるようにハ26(850馬力)の双発とし、構造上、空気抵抗が大きくなってしまう空冷エンジンの不利を極小化するためにエンジンナセルを始め流線形のデザインを取り入れた。本機はその後、日本陸海軍を代表する傑作機と言われるが、本機の要求に関して陸軍は細部にまで注文を付けず、メーカーに自由に設計を行わせたことにあるとも言われている。

 1939年11月(8月とも)、試作1号機が完成、同月に初飛行に成功する。その後、基本審査、実用実験、寒冷地試験等の各種試験が行われ1940年8月(6月とも)10日試験が完了した。試験の結果、安定性、操縦性などに関しては非常に優秀であったものの、最高速度が540km/hと性能要求の600km/h以上に遥かに及ばなかったが、1940年9月下旬に百式司令部偵察機として制式採用された。この間に試作機、増加試作機含め7機が製造されている。

 

二型

 1941年3月、キ46のエンジンをハ102(1050馬力)に換装したキ46兇了邵遒行われた。このハ102に換装した況燭蝋眦5,800mで最高速度604km/hを記録、改良により自重は増加したが燃料搭載量も増大したため航続力も374km長くなった。但し、自重が増えたため着陸速度が増大し、着陸距離が儀燭606mから706mと100mほど長くなった。同時に翼面荷重も若干増大している。二型の試験は1年以上に及び、1942年5月に試験が完了、翌月に百式二型司令部偵察機として制式採用された。この二型は、初期こそ脚破損等の問題点が発生したが種々の対策により解消されている。

 この二型は大戦時に最も活躍した型であったためいくつかのバリエーションが存在する。B17迎撃用として37mm戦車砲を搭載した型がある。これは1942年12月末に設計開始、1943年1月に1号機が完成した。この機体は17機(15機とも)製造され、同年2月にラバウルの飛行第10戦隊に送られた。1944年11月には6機に斜め銃が取り付けられた。さらには現地部隊で翼端を25cm切断した機体もあったようだ。この機体は速度こそ10km/hほど向上したものの離着陸が非常に困難であったという。

 

三型甲

 二型が初飛行を行った1942年5月、三型の開発が命じられている。これはエンジンを水メタノール噴射式のハ112供1,500馬力)に変更したもので、エンジンが大型化したため新たに抵抗の少ないエンジンナセルを製作、同時に航続距離を延長するために燃料タンクを増設した。さらに後部の7.7mm機銃は効果が無いため撤去、胴体燃料タンクには防弾ゴム被覆が施された。

 1943年3月に試作1号機が完成、1944年3月に基本審査が完了したのち1944年8月に百式三型司令部偵察機として制式採用された。

 最高速度は高度6,000mで630km/hと日本陸海軍の実用機中最速を記録した。大きな欠点はなかったものの酸素装置の性能不良、自動操縦装置の不良、脚の強度不足等の問題が実戦部隊から指摘された。後期生産機からは推力式単排気管が採用されている。

 

三型乙(百式司令部偵察機三型防空戦闘機)

 1943年6月、審査中の二型の防空戦闘機型の開発を開始。1944年8月、試作1号機が完成した。これは機首に20mm機関砲2門搭載、それまで胴体と一体化して流線形を構成していた風防を段付きに変更、推力式単排気管を採用した。乙型は90機(75機とも)が改造され、内、15機が37mm上向砲1門を搭載した三型乙+丙であった。

 

四型

 三型に排気タービン過給器を装着した型で、1943年12月に試作1号機が完成、1944年1月12日初飛行をした。排気タービン過給器を装着したため細部に改造が行われた。このため自重は179kgしたものの高高度性能はずば抜けており、高度10,000mで630km/hを記録した(三型は580km/h)。基本審査は1945年8月に完了、同年9月より量産に入る予定であった。

 

生産数

03_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 儀燭試作機3機、増加試作機5機、生産機26機の合計34機が生産されている。二型は試作機4機、生産機1,093機の合計1097機、三型は試作機を含め611機が生産された(内4機が四型に改造されている)。合計の生産数は1,742機である。現在はイギリスに三型甲が1機が完全な姿で残されている(上掲画像)。

 

戦歴

 1940年11月に制式採用された百式司偵は、1941年8月に北支に展開していた独立飛行第16中隊に配備、これが初めての実戦部隊への配備であった。その後、この独飛16中隊は飛行第81戦隊に改変、11月には仏印サイゴンに進出、マレー方面の隠密偵察を行っている。太平洋戦争の開戦を迎えると81戦隊と同じく百式司偵を装備した第15独立飛行隊によってシンガポールの偵察が行われた。

 その他にも初戦期の蘭印航空戦、パレンバン空挺降下の事前偵察を行う一方、ビルマ方面でも81戦隊が百式司偵による偵察を実施、81戦隊は終戦まで同地で偵察活動に活躍している。南方では1942年7月に独飛70戦隊がニューギニアに進出、10月には独飛76中隊がラバウルに進出しており、それぞれニューギニア、オーストラリアやソロモン方面の偵察に活躍した。1943年6月には独飛74中隊、81中隊がニューギニアに進出、さらに1944年1月には満洲から進出した独飛82中隊も進出した。

 1944年5月には満洲から15戦隊がニューギニアに進出、海軍指揮下に入り洋上航法を習得したのちニューギニア北岸の偵察、さらには「あ」号作戦開始に伴いパラオ、ペリリュー島に進出して洋上での索敵を行ったのち、9月には比島に移動している。一方、同時期に満洲から比島に進出した2戦隊もダバオに進出、同じく海軍指揮下で洋上航法の訓練を受け6月にはパラオ島、ペリリュー島に進出、7月には同隊も比島に移動した。

 1944年10月には台湾沖航空戦が行われるが、この航空戦でも百式司偵を装備した10戦隊が米機動部隊索敵に出撃し、接触に成功、写真撮影を行い帰還している。この頃には百式司偵三型に改変した15戦隊、38戦隊が比島に進出、1945年2月には全ての戦隊が内地に帰還した。蘭印方面ではニューギニアで消耗した独飛74中隊が百式司偵三型に改変して同方面に進出、哨戒活動に従事している。1945年3月には台湾に展開していた第10戦隊が沖縄方面の偵察活動に参加、満洲では独飛81中隊と第42教育飛行隊が終戦まで活動している他、中国大陸では18中隊が同じく終戦まで活動している。

 そのほか、北東方面(現在の北方領土)でのアッツ島偵察やマリアナ強行偵察、本土防空戦での武装司偵によるB29迎撃等、百式司偵は多くの方面で活躍した。

 

まとめ

 

 百式司令部偵察機の成功は、陸軍が設計の細部に至るまで首を突っ込まなかったことになると言われている。その結果、実用機中最高速度を発揮、その高速は海軍にも注目される程であった。四型に至っては高度10,000mで630km/hを記録している。この高空性能に注目した陸軍は防空戦闘機型も開発したものの偵察機用に設計された機体は強度的に急機動には耐えられず目立った活躍はしなかった。

 

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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

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01_雷電
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

  閃電は単発双胴推進式という珍しい形の局地戦闘機として計画された。計算上の最高速度は759km/hとされており、仮に完成していたとすれば日本ではトップクラスの高速機であっただろう。設計は三菱によって行われていたが、戦局の悪化に伴って計画は中止された。

 

局地戦闘機 閃電 〜概要〜

 

<性能(計算値)>

全幅 12.5m
全長 12.5m
重量 正規状態4886kg、過荷重5255kg
最高速度 759km/h
上昇時間 8000mまで10分
実用上昇限度 12000m
航続距離 -
武装 30mm機関砲1挺、20mm機関砲2挺

 

概要

 閃電は1942年度の試作局地戦闘機として計画されたもので、その計画は1939年に開発が計画された十四試局地戦闘機、後の雷電の後継機としてであった。海軍の性能要求は最大速度が高度8000mで703km/h、巡航速度高度3000mで463km/h、着陸速度148km/h、上昇力高度8000mまで15分、実用上昇限度11000m、航続力2時間プラス全力30分、武装は30mm機関砲1門、20mm機関砲2門というものであった。

 機体は特殊な単発双胴推進式という形式のもので、米国陸軍の戦闘機P38の形状に酷似しているものの推進器はコックピット後方に推進式(後ろにプロペラが付いている形状)となっているためエンジン、プロペラは1基のみである。この形式の機体のメリットとしては機首にプロペラを設置する必要がないため搭乗員の視界を広く確保できること、機種に機銃の集中装備が可能であること等が挙げられる。反面、空冷式発動機の場合、エンジンの冷却に問題が生じること、機体の強度や振動に配慮が必要なこと等が問題として挙げられる。

 三菱はこの計画に大変な熱意を示し、零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師を設計主務者として開発を開始したものの、計画されていたスケジュールとしては1942年末に発注、1943年末に1号機完成、1944年秋に審査完了というものであった。このように全体的な計画自体が無謀であったことや、単発双胴推進式という前例のない形式であったため開発は難航、当初心配されていた空冷エンジンの冷却問題こそ起こらなかったが、プロペラ後流による振動問題やその他の問題が多発、戦局の急速な悪化に伴って実用化の可能性の低い本機は1944年10月に開発の中止が決定した。

 

性能

 エンジンは当時、三菱が開発し、烈風にも搭載されたハ-43エンジン(2200馬力)を搭載する計画で、三菱が試算した計算値では、最高速度759.3km/h、巡航速度500km/h、上昇時間は高度8000mまで10分、実用上昇限度12000mとなっていた。

 

生産数

 0機

 

まとめ

 

 レシプロ機の速度は800km/h前後が限界と言われている。高速になればなるほど空気の流入が少なくなりエンジンの性能低下を起こすのが理由で、その限界値が800km/h前後であるという。閃電は完成こそしなかったものの、航空技術に関して欧米に後れを取っていた日本航空界の挑戦であった。

 機体も古い形に拘らず、三菱技術陣は、日本全体の基礎技術力の低さや戦争の悪化による物資不足、軍部の無理な要求等、不利な条件が重なる中、与えられた環境で最大限の努力をしたといえる。これら当時の航空機業界の挑戦には目をみはるものがある。

 

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01_烈風
(画像はwikipediaより転載)

 

艦上戦闘機烈風 〜概要〜

 

 

 烈風は零戦の後継機であるが、開発に紆余曲折があり、結局、試作機が7機のみ完成したに過ぎない。しかし最高速度627km/h、空戦性能も高く、操縦も比較的容易という当時の日本の航空機では卓越した高性能を発揮した機体であった。早期に実戦配備されていれば戦局にも大きな影響を与えたとも言われる。

 

<性能>

全幅 14m
全長 10.995m
翼面積 30.86
自重 3110kg
全備重量 4410kg
最高速度 627.8km/h
上昇時間 6000mまで6分7秒
実用上昇限度 10900m
武装 翼内に九九式2号20mm機銃5型2挺(内側)、三式13mm機銃2挺(外側)
   または九九式2号20mm機銃5型4挺
爆装 60kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 1939年実用機試製四ヵ年計画に三菱十六試艦上戦闘機として初めて計画、1940年末に三菱に試作が内示される。しかし三菱は零戦の改造と十四試局戦(雷電)の開発で手一杯な上に適当な発動機がないことを理由に開発は見送ることとなった。その後、さらに構想を練り直し、1942年4月、十七試艦上戦闘機(A7M1)として計画が再開することとなる。通常、後継機の開発は3年強程度の間隔を置いているが、烈風の場合は5年以上の間隔があり、かなり期間が開いてしまった。

 

開発

 1942年7月6日、十七試艦戦試製烈風の計画要求書が交付された。内容は最高速度638km/h、上昇力6000mまで6分以下、格闘戦性能は零戦と同等以上という厳しいものであった。この要求に対して三菱は零戦の設計で有名な堀越二郎技師を設計主務者として開発を開始、堀越技師は多少大型にはなるが、自社で試作中のMK9Aエンジン(2200馬力)の使用を主張するも海軍は傑作エンジンである誉発動機(1850馬力)の採用を決定した。これがのちの烈風に暗い影を残すこととなる。

 1944年4月19日、試製烈風1号機が完成する。エンジンは誉22型(2000馬力)で空戦性能は高かったが、速度は最高でも574km/h程度までしか出ず、上昇力も6000mまで10分以上と今ひとつの性能であった。これに対して三菱は当初要望していたMK9Aエンジンへ換装した試作機の製作を希望、海軍も換装した機体をA7M2とするとして試作を認めた。その結果、1944年10月初旬、烈風6号機を改造したA7M2試作1号機が完成した。

 

発動機の変更

 元々、発動機換装の可能性を考慮して製作された烈風は重心位置の調整のための部分を再設計した程度で全体の設計にはほとんど影響がなく、再設計も全長が11mm短縮された程度であった。1944年10月13日初飛行をした結果、最大速度は624km/h、6000mまでの上昇時間も6分5秒と大幅に性能が向上した。空戦性能も自動空戦フラップを装備した結果良好であり、試験を担当した空技廠からの意見書には、上記の特徴に加え、操縦が容易である程度未熟な搭乗員でも充分活用できるとした上で、至急生産を開始することを要望していた。

 しかし、当初からMK9Aエンジンを選考から外してしまったためエンジンの生産が行われていなかった上、空襲の影響も甚大であり、生産は遅々として進まなかった。1945年6月、A7M2は烈風11型として制式採用されたが、量産1号機の完成寸前に終戦となった。

 

試製烈風改(計画のみ)

 1944年2月、烈風を高高度用局地戦闘機に改造することが決定した。これはエンジンを過給機付きのMK9A(ハ-43 11型)に変更し(この時点での烈風は誉エンジン搭載予定であった)、武装を30mm固定機銃4挺または6挺(2挺は斜め銃)。最大速度は10200mで633.4km/h、10000mまでの上昇時間が18分15秒とし、1号機の完成時期は1945年3月とされた。

 これはかなりの大改造を必要としており、実現不可能な要求であったものの、1944年11月基礎設計が終わり、12月全面的に了承された。武装は五式30mm固定機銃4挺で携行弾数は60発、過荷重では73発(75発説もあり)であった。防弾装備は風防前面と後方に防弾ガラス、後方に防弾鋼板、燃料タンクには防弾ゴム、消火装置も装備する予定であった。

 計画では全長11.964m、自重3955kg、全備重量5732kg、最大速度が高度10300mで648.2km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで15分30秒となっていた。しかし過給機付きMK9Aをしてもパワーが足りないことが想定され、実現できた可能性は低い。

 

試製烈風性能向上型

 これはエンジンを三速過給機付きハ-43・51型に換装して、武装も20mm機銃6挺に強化、防弾性能も向上させる予定であった。試作1号機の完成が1945年12月であったが、その前に終戦となった。

 計画では最高速度が642.6km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで13分6秒、実用上昇限度が11300m、航続力が巡航2.6時間プラス全力30分となっていた。照準器は四式射爆照準器3型を装備した。3型は対大型機撃墜用である。

 防弾装備は風防前後に防弾ガラスを装備し、胴体内タンクは防弾式、翼内タンクは自動消火装置を設置した。この烈風性能向上型は実現性が高く関係者の期待を集めていた。

 

二十試甲戦闘機(陸風)

 卓越した空力的特性を持った烈風改の機体を若干改良してエンジンをハ-44・21型(二段三速過給機装備)とすることで比較的簡単に次期甲戦ができるというのが狙いであった。エンジンは大型であったが、烈風の機体設計には余裕があったため大きな改造をしなくても搭載可能であると考えられていた。

 最大速度は高度10000mで657km/h以上、上昇力は10000mまで15分以内、空戦性能はA7M2程度という要求であった。1946年に烈風性能向上型が実戦配備され、数年活躍した後、1947年初めから実戦配備するという予定であった。

 

評価

 烈風に関しては、空技廠でテストパイロットを担当した小福田中佐は、視界の良さ、操縦の容易さを絶賛しており、戦後の手記にもういちど操縦して思いっきり飛んでみたいと書くほどの高評価であった。これに対して同じく烈風の試験飛行を行った志賀淑雄少佐は全く逆の評価を下している。

 烈風の乗り心地の良さは認めるものの、とにかく機体が大きく、キレがなくて大味、被弾面積が大きすぎて話にならないと酷評した上で、このような無茶な性能要求をした海軍を批判している。さらには烈風は実戦に間に合わなくてよかったとまで言い切っている。

 テストパイロット2人が真逆の意見となってしまった理由は、恐らく、志賀少佐が烈風に搭乗した日は、1944年5月31日とある。記録が正しければ、この烈風は前月に初飛行をした誉エンジン搭載の「低性能モデル」A7M1で、小福田中佐が搭乗した烈風はA7M2であった可能性が高い。志賀少佐が仮にエンジンをMK9Aに換装した「高性能モデル」A7M2に登場していれば評価も変わったのかもしれない。

 

生産数

 烈風の生産数は試作の7機のみである。試作機のため各機で若干細部が異なっていた。烈風改は部品の一部が完成した程度、以降の型は計画のみで実現していない。現存機なし。

 

まとめ

 

 烈風に関しては上記評価でも書いたように賛否が分かれる機体である。理由の一つとしては全幅14mと艦攻並の大きさであることが挙げられる。これは海軍の無理な性能要求に応えた結果でもあるが、小福田中佐は設計者堀越二郎が将来の拡張性も考慮した結果ではないかとも推測している。

 もしそうだとすれば、零戦がギリギリの機体設計であったため、技術の進歩に対して拡張性がなく小改造を繰り返したことを考慮したのかもしれない。同時期に開発されたスピットファイアやBf109は改良を繰り返し終戦まで一流の性能を維持し続けた。

 烈風には計画のみであったが様々なバリエーションが予定されており、計画のほとんどはエンジンを大型のものに換装することが予定されていたが、機体は若干の改良で済むと想定されていた。これは烈風の機体設計に余裕があったためであり、仮に堀越が拡張性を意識していたとすれば、正に先見の明であったといえる。

 

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01_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機秋水とは、太平洋戦争末期に日本陸海軍によって計画されたロケット戦闘機である。開発は三菱重工でドイツのMe163の設計を元としているが、設計図の一部しか日本には届かなかったため独自開発の部分が多い。1号機は1945年7月に初飛行をしたが上昇中にエンジン停止、滑空の後に大破した。2回目の飛行を準備中に終戦となる。

 

局地戦闘機 秋水 〜概要〜

 

性能

全幅 9.5m
全長 5.95m
全高 2.7m
自重 1,445kg
最大速度 800km/h(高度10,000m)※(900km/h説もあり)
上昇力 10,000mまで3分30秒
上昇限度  - m
エンジン出力 推力1,500kg(特呂二号)
航続距離 高度10,000mまで全力上昇後、800km/hで1分15秒
乗員 1名
武装 30mm機銃2挺
設計・開発 高橋己治郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

02_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 ドイツで実用化されたロケット戦闘機Me163コメートの資料を遣独潜水艦によって入手した日本軍は、陸海軍共同で開発を開始することを決定した。設計方針の違いから意見が対立したものの結局、海軍名秋水、陸軍試作機番号キ200として三菱重工によって開発することとなった。

 1944年8月7日、陸海軍は三菱重工に対して試作機の開発を正式に指示した。これに対して三菱重工は高橋己治郎技師を設計主務者として開発を開始した。資料がドイツから届いたといっても届いた資料は簡単な図面と設計説明書等、ごくわずかであったが、1944年11月には設計完了、12月には試作1号機が完成した。

 形状はMe163とほとんど変わらなかったが、Me163が20mm機銃を搭載したのに対して秋水は30mm機銃を搭載したためもあって全体的に秋水よりも少しだけ大型化していた。主翼の桁、垂直尾翼は木製で胴体はジェラルミン製でセミモノコック構造、外板もジェラルミンを使用していた。

 降着装置は主車輪と尾輪、橇によって構成されており、離陸時には主車輪を使用、離陸完了と同時に投下、着陸時は橇を使用する構造になっていた。武装は30mm機銃であるが、同じ機銃であっても海軍は五式30mm機銃、陸軍は口径30mmホ155機関砲を搭載する計画であった。

 エンジンは特呂二号(海軍名「KR10」)で秋水の開発以前から研究されていたもので水素に水化ヒドラジンとメタノールの混合液を反応させ高温高速ガスを発生させるというものであった。開発の中心になったのは三菱の持田勇吉技師であったが、開発を主導していたのは陸軍で海軍空技廠の技術も必要という複雑な中での開発であった。試作機の完成と同時にエンジンも完成するはずであったが、未知の分野であり資料も乏しかったため開発が難航、完成は1945年6月になった。

 

練習用グライダー秋草

03_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 この秋水の搭乗員訓練用に実物と同じ大きさ、形状のグライダーも製作された。これは無尾翼滑空機秋草(MXY8。陸軍名「ク13」)で1944年12月26日に初飛行に成功している。この初飛行は高度3,000mまで航空機により曳航されたのち切り離されるというものでテストパイロットは秋水のテストパイロットでもある犬塚豊彦大尉で、犬塚大尉の操縦により無事に着陸に成功した。

 さらには重滑空機と呼ばれる実機から動力装置、タンク類、兵装等を取り除いた機体で2機が製作され陸海軍に各1機引き渡された。初飛行は、1945年1月8日に犬塚大尉の手によって行われた。高度1,700mまで曳航された後、滑空しながら無事に着陸した。陸軍でもク13(海軍名「秋草」)や重滑空機の試験を行っていたが、1945年8月10日、訓練中の事故により機体は大破、搭乗員は重傷を負った。

 秋水の初飛行は1945年7月7日で滑空機と同じく犬塚大尉の手によって行われたが、上昇中にエンジンが停止、飛行場に滑り込むことには成功したものの機体は大破、犬塚大尉は重傷、翌日に死亡した。原因は燃料を1/3に減らした状態で試験を行ったため、上昇中に機体の姿勢と加速の関係で燃料取り出し口に燃料が入らなくなってしまったことであった。この燃料を1/3に減らしたのは秋水部隊である312空司令柴田武雄大佐が傾倒していた新興宗教による「お告げ」が原因であったとも言われている。

 

 

キ202 秋水改(計画のみ)

 秋水(キ200)の航続時間延長型である。全体的に秋水よりも一回り大きく、エンジンは特呂三号液体燃料ロケットで最大飛行時間が秋水の6分36秒から10分28秒に増大していたが、実現さえることなく計画のみで終わった。他にも武装を30mm1挺、車輪を廃してカタパルト発射式としたJ8M2等も計画されていた。

 

生産数

 試作機が2機、量産機が5機完成していた。他にも10機がほぼ完成という状態であった。終戦時には5機が残存していた。内3機を米軍が接収、米国で1機のみが現存している。

 

まとめ

 

 秋水はそれまで別々に同じような性能の航空機を開発していた日本陸海軍が共同で開発した画期的な機体であった。しかし遅きに失した感はある。秋水は実用化されなかったものの、仮にされたとしても燃料の調達や整備、生産、秋水自体の安全性から見ても戦果は挙げられなかった可能性が高い。

 

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