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ロシア海軍

01_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 南下政策を採るロシアに対して国防の危機を感じた日本は開戦を決意、主に北東中国(満洲)や日本近海で日露両軍が激突し、陸軍は辛勝、海軍は完勝する。この後、アメリカの仲介によって講和会議が開かれ、日本は遼東半島の一部、東清鉄道(南満州鉄道)の一部、韓国への監督権、南樺太を手に入れる。戦後数年で韓国を併合、満洲政策を巡ってアメリカと不仲となる。

 

日露戦争 〜概要〜

 

02_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

前史

 日清戦争によって清国の冊封体制から脱した大韓帝国(韓国)にはロシアの影響力が浸透しつつあった。満洲に権益を持つロシアはさらに南下政策を進め韓国にまでその影響力を及ぼそうとしていた。これに対して大日本帝国は隣国である韓国がロシアの影響下に置かれることに国防上の危機感を感じていた。とはいってもロシアは明らかに強そうなので出来れば戦争をしたくない日本は満洲はロシア、日本は韓国という満韓交換論等の妥協案を提示したものの当時の超大国ロシアはクソ弱小国(ロシア視点)の日本に遠慮する必要はなく交渉がまとまることはなかった。

 

日露戦争とは

陸軍の行動

 1904年2月、先遣隊として日本陸軍が朝鮮半島仁川に上陸、さらに本隊の第一軍が朝鮮半島に上陸してロシア軍の抵抗を排除しつつ北上。さらに遼東半島から上陸した第二軍もロシア軍陣地等を制圧しつつ北上した。当時、ロシア軍最強の旅順要塞があったが、これらに対して両軍ともに攻撃しないで北上を続けた。とはいってもやはり旅順要塞を放置していくと主力部隊の背後を突かれてしまうため、5月、乃木大将の下、第三軍を編成、8月に旅順攻略を開始した。

 攻略は1905年1月には終わったが分厚いコンクリートと機関銃で武装された要塞に日本軍は歩兵の突撃で対抗したため旅順攻略戦だけで6万名の死傷者を出すこととなった。そのころロシア軍主力は奉天に集結しており、日本陸軍も第一軍、第二軍、のちに編成された第四軍、さらに旅順攻略を行った第三軍が奉天に集結、2月末には奉天会戦が行われた。ロシア軍36万人、日本軍24万人が参加したこの会戦は日本軍の兵力を過大に見積もった上、包囲されると勘違いしたロシア軍が退却、一応日本軍の勝利ということになった。

 

海軍の行動

 日本海軍は戦時にほぼ全艦隊を集中運用するための連合艦隊を編成。旅順要塞にいるロシア極東艦隊と対峙した。戦力は連合艦隊と同数のロシア旅順艦隊であったが、バルト海に展開する所謂バルチック艦隊が到着すれば戦力は日本の倍となり圧倒的に有利。「だったら待った方が良くね?」と日本艦隊との戦いを避け旅順要塞から出てこなかった。

 出てこないと日本は困るので陸から旅順港を砲撃、これが結構効いちゃったため8月、旅順艦隊は渋々出撃、連合艦隊と黄海海戦が起こり連合艦隊が勝利して旅順艦隊は再び旅順要塞に逃げていった。その後、陸軍第三軍により旅順要塞は陥落。連合艦隊はバルチック艦隊に対抗するための準備を行った。

 バルト海からはるばる喜望峰を回って7ヶ月かけて日本近海に到着したバルチック艦隊であったが、疲労困憊、士気もあるんだか無いんだか。とりあえずウラジオストックに逃げ込もうとするが、対馬沖で待ち受けていた連合艦隊と遭遇、1905年5月、日本海海戦が起こった。ほぼ互角の戦力といっても方や7ヶ月間の航海で疲労困憊、方や十分な休養と訓練で準備万端。勝敗は目に見えており、バルチック艦隊はほぼ壊滅、連合艦隊の完全勝利となった。

 

講和会議

 

03_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 日露戦争は日本の国力を大きく超えていた(戦費の借金を返済し終わったのは何と1986年)。同時にロシアも革命の機運が高まっており、戦争を継続することは困難であった。ここでアメリカ合衆国が仲介に入り、8月に講和会議が行われた。この結果、日本は賠償金(当時は敗戦国が戦勝国に莫大な賠償金を支払う慣習があった)こそは取れなかったものの、それまでロシアが持っていた満洲の遼東半島の租借権(中国から借りる権利)、東清鉄道の一部、終戦間際にどさくさ紛れに占領した南樺太、さらに朝鮮半島の監督権を入手した。

 

その後。。。

 

 満洲の遼東半島の一部と後の南満州鉄道、さらには韓国への監督権をロシアに認めさせた日本。本格的に満洲の開発に乗り出すことになるが、当初、アメリカやその他の国で山分けしましょうね。と言っていたもののロシアと独占してその他の国を締め出してしまった。このため戦争をしたにも関わらずロシアとの関係は急接近。対して講和会議までやってくれたアメリカとは険悪な関係になってしまった。

 

 

 


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01_戦艦ポチョムキン
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ポチョムキンの反乱として有名なロシア戦艦。最新のクルップ鋼で武装された新鋭艦で第一次世界大戦で活躍、ロシア革命で機関部を破壊されたのち1925年に除籍、解体された。

 

戦艦クニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12582トン
 最大排水量 -トン
 全長 115.36m
 全幅 22.25m
 吃水 8.23m
 機関出力 1万600馬力
 最大速力 16.6ノット
 航続距離 3400海里/10ノット
 乗員 750名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    15.2cm砲単装16基
    7.5cm砲単装14基
    4.7cm砲単装6基
    38.1水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 7.6cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 1隻

 

特徴

 黒海艦隊用に建造された戦艦で装甲には最新のクルップ鋼を採用している。他にも統一射撃統制装置を採用したことや石油と石炭併用のボイラーシステムを採用している。主砲は当時としては平均的な30.5cm砲で砲身長は40口径である。揚弾、装填は電動で発射速度は1発/分である。

 

同型艦

戦艦クニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー(起工1898年10月、竣工1905年5月)

 

戦歴

02_戦艦ポチョムキン
(画像はwikipediaより転載)

 

 当初は1903年を予定していた本艦は事故により竣工が遅れ、1905年5月にやっと竣工した。竣工直後の6月に有名なポチョムキンの反乱が発生した。9月には戦艦パンテレイモンと改名される。1910年オーバーホールを受け、さらに1912年にはオスマン帝国の弩級戦艦に対抗するために改修を受けた。

 第一次世界大戦開戦によりロシア海軍の艦艇として数々の戦闘に参加する。1917年の二月革命により艦名を公爵を意味するクニャージを除いたポチョムキン・タウリチェスキーに改名する。しかし艦名の由来となったポチョムキン公爵は圧政者であったため、艦名をボレーツ・ザ・スヴォボードゥに改名した。

 1917年12月には赤軍の管理下に編入される。1918年2月よりウクライナに放置される。11月には侵攻してきたイギリス・フランス軍に拿捕、1919年にはイギリス軍によって機関を爆破、武装が撤去された。ソビエトにより奪還されたのちの1925年11月除籍、解体された。

 

 

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01_戦艦オスラビア
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ペレスヴェート級は、軽装甲、軽武装で高速という後の巡洋戦艦のような戦艦で姉妹艦全艦が日露戦争に参加している。内、バルチック艦隊旗艦となったオスラビア以外は日本軍に鹵獲され戦艦相模、周防となった。戦艦ペレスヴェートはのちにロシアに返却された。

 

戦艦ペレスヴェート級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12683トン
 最大排水量 -トン
 全長 132.43m
 全幅 21.79m
 吃水 7.92m
 機関出力 1万5000馬力
 最大速力 18.5ノット
 航続距離 10000海里/10ノット
 乗員 752名
 武装 45口径25.4cm砲連装2基
    45口径15.2cm砲単装11基
    7.5cm砲単装20基
    4.7cm砲単装20基
    38.1cm水上発射管3門
    同水中発射管2門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 7.6cm
    主砲 22.9cm
 同型艦 3隻

 

特徴

02_戦艦周防
(画像はwikipediaより転載)

 

 ペレスヴェート級は、兵装、装甲を抑える代わりに速力を重視した戦艦である。結果、18.5ノットとロシア戦艦中最高速を実現した。船体の装甲にはハーヴェイ鋼や最新のクルップ鋼を使用しているものの戦艦というよりのちの巡洋戦艦に近い物であった。主砲は当時の主流である30.5cm砲ではなく、口径の小さい25.4cm砲であった。

 

同型艦

ペレスヴェート(起工1895年11月、竣工1901年6月)
オスラビア(起工1898年10月、竣工1901年8月)
ポベーダ(起工1898年8月、竣工1902年7月)

 

戦歴

03_戦艦ペレスヴェート
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦ペレスヴェートは完成すると極東艦隊に配属され、1902年旅順に到着した。1904年日本軍の砲撃により旅順港内で沈没した。その後、日本軍に鹵獲され戦艦相模として日本海軍に編入された。1916年4月ロシアに返還されたが1917年1月にドイツ軍が敷設した機雷に触雷撃沈した。

 2番艦オスラビアは1901年に竣工はしたものの計画よりも排水量がオーバーしてしまった関係で稼働が1903年にまでずれ込んでしまった。竣工したオスラビアはバルチック艦隊の旗艦として喜望峰を周り対馬海峡に到着するが日本海海戦で日本海軍の集中砲火を浴び撃沈された。

 3番艦ポベーダは就役後の1903年、極東艦隊に配属され旅順艦隊に配属された。日露戦争での日本軍の砲撃により旅順港内で沈没、後に日本軍に鹵獲された。鹵獲後は戦艦周防として日本海軍に編入された。1912年には一等海防艦に類別変更、第一次世界大戦では青島攻略戦に参加、艦砲射撃を行う。1922年、ワシントン軍縮条約により除籍、護岸用として自沈した。

 

戦艦ペレスヴェート級(関係書籍)

 

連合艦隊vsバルチック艦隊―日本海海戦1905

ロバート・フォーチェック
大日本絵画 (2009/12/1)

 日本海海戦について歴史的背景、兵器、人員、戦略など、総合的に書かれた本。日本海海戦について詳しく知りたいという方にはおススメ。

 

ツシマ 上 ~バルチック艦隊遠征

ノビコフ・プリボイ
原書房; 新装版 (2009/11/20)

 日本海海戦に参加したロシア海軍水兵の記録。日本海海戦で捕虜になった際に捕虜仲間から当時の状況を聞き取り海戦の全体を調べた。ロシア側から見た日本海海戦が分かる貴重な本。

 

日本海海戦の真実 (読みなおす日本史)

野村 實
吉川弘文館 (2016/8/17)

 元海軍士官であり、歴史学の博士号を持つ著者が日本海海戦について書いている。丁字戦法の考案者は秋山真之ではないこと、日本海海戦後の東郷平八郎が神格化されてしまったという問題等、興味深い。

 

 

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01_戦艦ポルタヴァ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ペトロパブロフスク級は速力こそ若干遅かったものの、それ以外の性能面では当時の一流戦艦と比べても遜色のないものであった。同型艦3隻とも日露戦争に参加、3隻とも撃沈されるが、戦艦ポルタヴァは後に日本軍により浮揚、戦艦丹後となったのち再びロシア軍に編入、さらにイギリス軍に鹵獲、ソビエト海軍に編入という数奇な運命を辿る。

 

戦艦ペトロパブロフスク級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 11354トン
 最大排水量 -トン
 全長 112.38m
 全幅 21.31m
 吃水 7.77m
 機関出力 1万1250馬力
 最大速力 16.5ノット
 航続距離 4000海里/10ノット
 乗員 632名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    45口径15.2cm砲連装4基
    45口径15.2cm砲単装4基
    4.7cm砲単装12基
    3.7cm砲単装28基
    45.7cm水上発射管2門
    同水中発射管4門
 装甲 舷側 40.6cm
    甲板 7.6cm
    主砲 35.6cm
 同型艦 3隻

 

特徴

02_戦艦丹後
(画像はwikipediaより転載)

 

 本級は当時の世界の戦艦の水準からしても速力が若干劣る以外は(16.5ノット。同時期に竣工したイギリス戦艦カノーパス級は18ノット)、遜色のない性能を有していた。艦形は艦首、艦尾は著しく突出、かつ水線部分から上部に上がるにつれて絞られていくといういわば「ピラミッド型」のような形状をしていた。これは備砲の視界を確保するためにも有効であった。主砲は40口径30.5cm砲で当時の平均的なもので1発/分の発射性能を持つ。

 

同型艦

戦艦ペトロパブロフスク(起工1892年5月、竣工1899年)
戦艦ポルタヴァ(起工1892年5月、竣工1899年)
戦艦セヴァストポリ(起工1892年5月、竣工1899年)

 

戦歴

03_戦艦チェスマ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ペトロパブロフスクは1899年に就役すると太平洋艦隊に所属。1900年5月に旅順口に到着し、太平洋艦隊の旗艦となった。日露戦争時、旅順港外で触雷して沈没。乗艦していたロシア太平洋艦隊司令官ステパン・マカロフ中将も戦死した。戦艦ポルタヴァは1900年に就役、黄海海戦に参加したが、日本軍による旅順口砲撃により大破着底した。後に日本軍により浮揚鹵獲され戦艦丹後となる。この戦艦ポルタヴァは数奇な運命をたどるがそれは後述する。戦艦セヴァストポリは黄海海戦に参加、旅順港外において駆逐艦、水雷艇の攻撃により着底、日本軍による鹵獲を避けるために1905年1月に沖合で自沈した。

 

戦艦丹後(戦艦ポルタヴァ)

 1905年5月日本軍により浮揚鹵獲された戦艦ポルタヴァは戦艦丹後と命名され一等戦艦として日本海軍に編入された。編入された後、ボイラーは日本製に変更され、さらに兵装などが変更された。1912年には一等海防艦へ類別変更、第一次世界大戦では日本とロシアは同盟国となったため1916年にロシアに返還された。この際、艦名ポルタヴァは既に使用されていたために戦艦チェスマと変更された。

 

戦艦チェスマ(戦艦ポルタヴァ)

 戦艦チェスマとなったポルタヴァは白海艦隊に編入、ロシア内戦ではソビエト軍に参加した。このためロシア内戦に介入した連合軍により鹵獲された。イギリス軍では刑務所として使用されていたが、イギリス軍の撤退により白海艦隊に復帰、1923年廃棄処分が決定、翌年に解体された。

 

関連リンク

前級シソイ・ヴェリキー級戦艦

 

次級ロスティスラブ級戦艦

 

 

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01_戦艦ロスティスラブ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ロスティスラブは世界で初めて石炭・重油混合燃焼装置を採用した戦艦であった。主要装甲部分にハーヴェイ鋼を使用した強力な防御力を持った戦艦であったが、主砲が25.4cm砲と攻撃力が弱かった。第一次世界大戦では艦砲射撃等に活躍した後、ロシア革命で放棄され、ドイツ軍に接収、さらにドイツの敗北によりイギリス軍に接収されるという数奇な運命を辿った。

 

戦艦ロスティスラブ 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 8880トン
 最大排水量 -トン
 全長 107.23m
 全幅 20.73m
 吃水 6.71m
 機関出力 8700馬力
 最大速力 15.6ノット
 航続距離 3000海里/10ノット
 乗員 650名
 武装 45口径25.4cm砲連装2基
    15.2cm砲連装4基
    4.7cm砲単装12基
    3.7cm砲単装16基
    45.7cm水上発射管4門
    同水中発射管2門
 装甲 舷側 35.6cm
    甲板 7.6cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 1隻

 

特徴

02_戦艦ロスティスラブ
(画像はwikipediaより転載)

 

 沿岸防御型の小型戦艦である戦艦ロスティスラブは黒海艦隊用として竣工した。特徴は主砲のみならず副砲も砲塔式となり、主要部分の装甲は最新のハーヴェイ鋼が使用された。世界初の石炭・重油混合燃焼装置を採用した戦艦でもある。主砲が当時主流であった30.5cm砲ではなく25.4cm砲であり、攻撃力が劣るという欠点があった。主砲弾は1門当り80発、合計320発が内蔵されていた。

 

同型艦

戦艦ロスティスラブ(起工1894年1月、竣工1896年8月)

 

戦歴

 黒海艦隊に所属した戦艦ロスティスラブは1905年、戦艦ポチョムキンの反乱の鎮圧に参加した。第一次世界大戦が始まると艦砲射撃等に活躍した。1917年のロシア革命の当初は本艦も戦闘力を維持していたが、1918年になると規律は乱れ、乗組員は艦を去っていった。

 結局、セヴァストポリで放棄された戦艦ロスティスラブはセヴィストポリを占領したドイツ軍に接収されるが、1918年、第一次世界大戦が終結すると今度はイギリス軍に接収された。1919年、イギリス軍が撤収する時にロスティスラブの動力を破壊したため、以後は浮砲台として使用された。1920年11月に自沈させられ、1930年に解体された。

 

 

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01_戦艦シソイ・ヴェリキー
(画像はwikipediaより転載)

 

 ロシア海軍の前弩級戦艦である。舷側をニッケル鋼で覆い、主砲の全周囲にもニッケル鋼の装甲を設ける等、近代戦艦としての完成度を高めた戦艦である。義和団の乱の鎮圧に活躍したが、日本海海戦で日本駆逐艦の雷撃により撃沈された。

 

戦艦シソイ・ヴェリキー 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 10400トン
 最大排水量 -トン
 全長 107.23m
 全幅 20.73m
 吃水 7.77m
 機関出力 8500馬力
 最大速力 15.7ノット
 航続距離 -海里/-ノット
 乗員 586名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    15.2cm砲単装6基
    4.7cm砲単装12基
    3.7cm砲単装18基
    45.7cm水上発射管6門
 装甲 舷側 40.6cm
    甲板 7.6cm
    主砲 30.5cm
 同型艦 1隻

 

特徴

 バルト艦隊初の1万トン級戦艦ナヴァリンの系統をひく戦艦であるが、船体形状は英戦艦ロイヤルサブリン級に酷似している。戦艦ナヴァリンと同様、バルト艦隊用の戦艦として建造された。装甲は戦艦ナヴァリンが複合装甲であるのに対してシソイ・ヴェリキーはニッケル鋼と進化している。さらに主砲フランス式の全周囲が防御されている形式で天蓋にも装甲が施された。発射速度は1発/1分である。最大の特徴はロシア戦艦として初のボイラーにベルヴィール水管缶を採用したことである。

 

同型艦

戦艦シソイ・ヴェリキー(起工1891年7月、竣工1896年8月)

 

戦歴

02_戦艦シソイ・ヴェリキー
(画像はwikipediaより転載)

 

 同時期に建造された戦艦ナヴァリンと同様に本艦も部品の供給や技術的な問題により竣工までに5年以上を要した戦艦であった。竣工後はバルト艦隊に配属され地中海海域の作戦に従事しました。1900年に中国で義和団の乱が勃発すると戦艦ナヴァリンと共に中国に派遣された。

 1902年には修理のためにバルト海に戻るが1904年、日露戦争によってバルチック艦隊に配属される。日本海海戦での砲撃戦では沈まなかったが、夜間に日本海軍の駆逐艦の雷撃により撃沈された。

 

 

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01_戦艦ナヴァリン
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ナヴァリンはロシア海軍初の1万トン級戦艦である。主砲こそ古かったものの低い乾舷と40cmに及ぶ重装甲によって建造当時は撃沈不可能と言われていた。1904年、バルチック艦隊に配属され、日本海海戦で鈴木貫太郎司令麾下の駆逐艦隊の攻撃により撃沈された。

 

戦艦ナヴァリン 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 10206トン
 最大排水量 -トン
 全長 109m
 全幅 20.42m
 吃水 8.38m
 機関出力 9140馬力
 最大速力 15.5ノット
 航続距離 3050海里/10ノット
 乗員 622名
 武装 35口径30.5cm砲連装2基
    15.2cm砲単装8基
    4.7cm砲単装8基
    3.7cm砲単装15基
    38.1cm水上発射管6門
 装甲 舷側 40.6cm
    甲板 6.3cm
    主砲 30.5cm
 同型艦 1隻

 

特徴

 戦艦ナヴァリンはバルト艦隊用に建造されたバルト艦隊初の1万トン級戦艦である。舷側で最大40.6cmにもなる複合装甲と並列で配置された4本の煙突が特徴である。その他司令塔や主砲にはフランス製のニッケル鋼が使用され防御力の強化が図られており、さらに極めて低い乾舷を採用したため、船体面積を減らすことができ、重装甲と相まって就役当時は砲撃での撃破は不能と看做されていた。

 逆に乾舷の低さは高い防御力を発揮はしたが航洋性という点から見ると欠点であった。主砲は30.5cm連装砲2基と当時の平均的な装備であったが、当時でもすでに旧式化している黒色火薬を使用していた。

 

同型艦

ナヴァリン(起工1890年5月、竣工1895年6月)

 

戦歴

 1890年に起工し、1891年10月に進水したナヴァリンであったが、装備の納入が遅れたことやボイラーの不具合によって竣工したのは1896年と遅かった。竣工したナヴァリンは予定通りバルト艦隊に配備され、地中海を中心に活動した。1898年にはスエズ運河からシンガポール、香港を経て極東に派遣され、義和団の乱の鎮圧に活躍した。

 1902年、義和団の乱の鎮圧が完了するとナヴァリンはバルト海に戻った。そこで改修を受ける。この改修によってナヴァリンは測距儀、無線機が装備された。さらに砲塔の増設も行われている。1904年に日露戦争が勃発するとナヴァリンはバルチック艦隊に配属され、喜望峰を周り極東へ向かった。1905年日本海海戦において「鬼貫太郎」こと鈴木貫太郎司令率いる駆逐艦隊の雷撃により撃沈された。

 

関連リンク

 

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01_戦艦アドミラール・ウシャコーフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦アドミラール・ウシャコーフはロシア海軍の海防戦艦である。同型艦3隻が建造され、3隻とも日本海海戦に参加する。1番艦以外は日本軍に鹵獲され、海防艦見島、沖島となる。その後も様々に類別を変更されたのち1930年代中盤から後半まで使用された。

 

戦艦アドミラル・ウシャコフ級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 4971トン
 最大排水量 -トン
 全長 87.32m
 全幅 15.83m
 吃水 5.94m
 機関出力 5750馬力
 最大速力 16ノット
 航続距離 2600海里/10ノット
 乗員 404名
 武装 45口径25.4cm砲連装2基
    45口径25.4cm砲単装1基
    12cm砲単装4基
    4.7cm砲単装6基
    3.7cm砲単装16基
    38.1cm水上発射管4門
 装甲 舷側 25.4cm
    甲板 7.6cm
    主砲 20.3cm
 同型艦 3隻

 

特徴

02_海防艦沖島
(画像は海防艦沖島 wikipediaより転載)

 

 本級はドイツ海軍のオーディン級やスウェーデン海軍の艦艇に対抗して建造された海防戦艦である。本来は4隻建造することを計画されていたが3隻のみが就役した。装甲は旧来のニッケル鋼であるが、3番艦ゲネラール=アドミラール・アプラークシンのみは最新のハーヴェイ鋼を使用している。このため3番艦のみは装甲が薄くなっている。

 

同型艦

アドミラール・ウシャコーフ(起工1892年1月、竣工1895年2月)
アドミラール・セニャーヴィン(起工1892年8月、竣工1894年8月)
ゲネラール=アドミラール・アプラークシン(起工1894年10月、竣工1896年5月)

 

戦歴

03_砕氷艦見島
(画像は砕氷艦見島 wikipediaより転載)

 

 就役後、訓練に従事した本級であったが、日露戦争が始まると3隻ともバルチック艦隊に編入されスエズ運河を通りインドシナでバルチック艦隊本隊と合流した。日本海海戦により1番艦は撃沈、2番艦、3番艦は日本軍に鹵獲された。

 鹵獲後、日本海軍に編入され、2番艦アドミラール・セニャーヴィンは海防艦見島、3番艦ゲネラール=アドミラール・アプラークシンは海防艦沖島と改名された。編入された後は第4艦隊に所属、見島は砲塔の爆発事故により主砲、副砲等が換装されている。

 第一次世界大戦が始まると両艦ともに青島方面での作戦に参加した。沖島は1922年除籍、その後雑役船となり、佐世保で練習船として使用された。1924年廃艦となり、当初は記念艦として保存する予定であったが荒天時に座礁、破壊されたため1939年に解体された。

 一方、見島は1918年に砕氷艦として改装され、シベリア出兵ではウラジオストクやシベリア方面に進出した。1922年には潜水母艦に改造され、十年以上にわたり活躍する。1935年10月除籍、1936年5月標的艦として沈没した。

 

 

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01_戦艦トリ・スヴィティテリア
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦トリー・スヴャチーチェリャは建造当時はロシア最大の戦艦であった。19世紀末の建造から第一次世界大戦まで参加し、ソビエト海軍に編入されて1923年に廃艦となったという長期間使用された艦であった。これは主砲を最新の40口径30.5cm砲を採用したことによる。

 

戦艦トリー・スヴャチーチェリャ 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12480トン
 最大排水量 -トン
 全長 115.14m
 全幅 22.25m
 吃水 8.66m
 機関出力 11300馬力
 最大速力 17ノット
 航続距離 3980海里/10ノット
 乗員 753名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    15.2cm砲単装8基
    12cm砲単装4基
    4.7cm砲単装10基
    3.7cm砲単装40基
    45.7cm水上発射管4門
    同水中発射管2門
 装甲 舷側 45.7cm
    甲板 7.6cm
    主砲 40.6cm

 

特徴

 戦艦トリー・スヴャチーチェリャは竣工時点でロシア海軍最大の戦艦で名前はロシア語で「三成聖者」の意味。装甲は国産装甲ではなく、イギリスより輸入したニッケル鋼が使用された。主砲は従前の35口径30.5cm砲ではなく、砲身が延長された40口径30.5cm砲が採用された。動力機関もイギリスからの輸入であるが、最高速度は17.7ノットと高性能を発揮した。本艦は世界で初めて無線通信装置を搭載した戦艦でもある。

 

同型艦

(起工1891年9月、竣工1897年8月)

 

戦歴

02_戦艦トリ・スヴィティテリア
(画像は改装後の戦艦トリ・スヴィティテリアwikipediaより転載)

 

 戦艦トリー・スヴャチーチェリャは竣工すると黒海艦隊に配属。1905年には戦艦ポチョムキンの反乱の鎮圧に参加。1911年から1912年にかけて近代化改修が行われた。この改装では重心が下げられ、各種の兵器類の変更が行われた。外観上も別物といっていいほど変更された。

 第一次世界大戦が始まると、ロシア海軍の数少ない主力艦として艦砲射撃等に活躍、ロシア革命後はソビエト海軍に編入された。1923年に廃艦となるが、1925年になってやっと除籍された。

 

 

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01_戦艦ドヴィエナザット・アポストロフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ドヴィエナザット・アポストロフは1892年に就役した黒海艦隊用の沿岸防御型戦艦である。戦艦ポチョムキンの反乱の鎮圧作戦に参加した以外には目立った活躍は無い。1931年に解体されている。

 

戦艦 ドヴィエナザット・アポストロフ 〜概要〜

 

性能

(画像はwikipediaより転載)

 

 通常排水量 8709トン
 最大排水量 -トン
 全長 104.24m
 全幅 18.29m
 吃水 8.38m
 機関出力 8750馬力
 最大速力 15.7ノット
 航続距離 4000海里/10ノット
 乗員 611名
 武装 30口径30.5cm砲連装1基
    22.8cm砲単装4基
    15.2cm砲単装8基
    4.7cm砲単装10基
    3.7cm砲単装8基
    38.1cm水上発射管5基(ニコライは6基)
 装甲 舷側 35.6cm
    甲板 -cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 戦艦インペラトール・アレキサンドル2世級に次いで建造された艦で、艦名はロシア語で十二使徒という意味。前級の主砲が連装1基であったのに対して2基装備したデザインに優れた戦艦であった。主砲は蒸気機関により動作する。装填機構が船体に固定されていたために砲弾装填時には砲を中央線上に向ける必要があった。このために主砲の発射速度は1発/4分と遅い。主砲に天蓋はない。

 

同型艦

(起工1888年2月、竣工1892年12月)

 

戦歴

02_戦艦ドヴィエナザット・アポストロフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ドヴィエナザット・アポストロフは1892年に就役したが、特に大きな作戦に参加することはなかった。1905年に戦艦ポチョムキンに反乱が起こると鎮圧に出動するが失敗している。1911年武装解除され、1912年に宿泊船に改造された。1918年まで機能していたが、1931年に解体された。

 

 

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01_戦艦インペラートル・アレキサンドル2世
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦インペラートル・アレキサンドル2世級はロシア海軍初の近代戦艦である。姉妹艦にはインペラートル・ニコライ1世があり、バルチック艦隊に配属され、日本海海戦で日本軍に鹵獲された。以降、二等戦艦壱岐となり、1915年に標的艦として撃沈されている。

 

戦艦インペラートル・アレキサンドル2世級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9500トン
 最大排水量 -トン
 全長 105.53m
 全幅 20.42m
 吃水 7.87m
 機関出力 8500馬力
 最大速力 15.3ノット
 航続距離 4000海里/10ノット
 乗員 611名
 武装 30口径30.5cm砲連装1基
    22.8cm砲単装4基
    15.2cm砲単装8基
    4.7cm砲単装10基
    3.7cm砲単装8基
    38.1cm水上発射管5基(ニコライは6門)
 装甲 舷側 35.6cm
    甲板 -cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 本級はドイツ海軍のザクセン級装甲艦に対抗する目的で建造されたバルチック艦隊用に設計された小型戦艦である。姉妹艦は2隻あり、主砲や装甲等が若干異なる。主砲は連装1基で天蓋が付いているが、破片を防ぐ程度の能力しかない。砲弾の揚弾、装填は水圧によって行われる。発射速度は1発/5分である。

 

同型艦

インペラートル・アレキサンドル2世(起工1885年7月、竣工1891年6月)
インペラートル・ニコライ1世(起工1886年8月、竣工1891年7月)

 

戦艦インペラトール・アレキサンドル2世級の活躍

 

1番艦インペラトール・アレキサンドル2世

02_戦艦インペラートル・アレキサンドル2世
(画像はwikipediaより転載)

 

 1891年に竣工したインペラートル・アレキサンドル2世は、バルト艦隊に配属。1896年8月には地中海艦隊に配属、さらには1897年からはマルタ島に移動、国際艦隊に参加した。1901年9月にはバルチック艦隊の拠点であるクロンシュタットに帰還した。1902年から1904年にフランスで改装を受け武装が強化されたが、1907年には練習艦となり、1917年5月にはザリャ・スヴォボデ(ロシアのカザフスタン近郊の地名)と改称される。1922年スクラップとして売却された。

 

2番艦インペラートル・ニコライ1世

03_戦艦インペラートル・ニコライ1世
(画像はwikipediaより転載)

 

 姉妹艦のインペラートル・ニコライ1世は1891年、バルト艦隊に配属、1893年には大西洋を横断してアメリカに行った。その後、その後、アレキサンドル2世と同様に国際艦隊に所属、太平洋に回航された。日清戦争後の1895年4月には長崎に寄港している。1898年4月には大規模な改修を受けている。1905年1月には第三太平洋艦隊旗艦としてバルチック艦隊に配属、日本海海戦で日本海軍に降伏した。

 

二等戦艦壱岐

 日本海軍によって鹵獲された戦艦インペラートル・ニコライ1世は、二等戦艦壱岐と改名し、横須賀鎮守府籍となるが、同年12月には一等海防艦に類別変更された。1915年5月退役、10月には標的艦として戦艦金剛、比叡の砲撃により撃沈される。

 

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