トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

ラバウル航空戦

岩本徹三01
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 岩本徹三とは、日本海軍航空隊の搭乗員であり、日中戦争から太平洋戦争までほぼ第一線で戦い抜いた搭乗員である。1916年に樺太で生まれ、1934年17歳で呉海兵団に入団。その後航空機搭乗員として日中戦争、太平洋戦争で活躍する。大言壮語型の人間で腕は超一流、下級士官でありながら特攻反対を公言するなど勇気のある発言をしている。日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流の搭乗員であることは間違いない。

 

岩本徹三の経歴

 

 

日中戦争

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 1916年6月14日、岩本徹三は樺太に生まれる。警察官であった父の転勤で、岩本一家は北海道札幌に転居、しばらくして島根県益田と転居する。1934年6月1日、岩本は親に無断で海軍の入団試験を受験、見事合格して呉海兵団に四等航空兵として入団する。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊。空母龍驤の艦上整備員を経て、1936年4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。同年12月26日、第34期操縦練習生終了後、一等航空兵として佐伯空に配属。1937年7月大村空に配属され、1938年2月2日、中国に展開する第13航空隊(第12航空隊とも)に配属された。

 岩本の回顧録は、ここからスタートしている。同時期に同じ部隊に所属していた同年兵の田中國義少尉は後年、インタビューでその当時の搭乗員のレベルの高さを「あのころはすごいパイロットがそろってました 〜中略〜 あとから来た岩本徹三なんて食卓番ですよ。」と語っている。(神立P86)。実際、回顧録でも一番下っ端の岩本は、食卓番として奮闘して、主計科に「ギンバイ」をしに行ったこと等が書いてある。当時岩本は、一等兵であったが、他の部隊の下っ端は三等兵であったので岩本は優先的に「獲物」をもらうことが出来たようだ(岩本P36)。

 因みに「ギンバイ」とは海軍の言葉で、食糧を主計科から貰ってくることをいう。もちろん違反であるが、そこはある程度大目に見られていたようだ。岩本は食卓番も「商売繁盛の料理屋のコック」等と前向きに楽しんでいたようである。後に零戦虎徹を自称する岩本はこの日に4機撃墜、1機不確実の初戦果を申告している。

 1938年3月31日、第12航空隊に異動、そこでも戦果を重ねた後、1938年9月14日、佐伯航空隊付を命じられ内地に帰還するまでに14機の撃墜を申告した。これは日中戦争における海軍航空隊での最多撃墜で、後に岩本はこの武勲によって功五級金鵄勲章を受けている。しかし、これには異論も多いようだ(神立P88)。因みにその他、日中戦争での海軍多撃墜搭乗員としては黒岩利雄、古賀清澄の13機撃墜、田中國義の12機撃墜等がいる。

 

 

母艦戦闘機隊へ

03_南太平洋海戦
(画像は翔鶴から発進する零戦 wikipediaより転載)

 

 内地に帰還した岩本は、1940年4月母艦搭乗員になるために空母龍驤で母艦訓練に参加、そして1941年4月には第1航空艦隊(一航艦)第3航空戦隊(三航戦)空母瑞鳳戦闘機隊に配属、さらに1941年9月1日、第5航空戦隊(五航戦)が編成されると、岩本達瑞鳳戦闘機隊員は五航戦に編入、10月4日、空母瑞鶴乗組となった。11月26日、空母瑞鶴を含む南雲機動部隊は択捉島単冠湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を敢行した。岩本は真珠湾攻撃の攻撃隊には参加できず、母艦の直掩隊に回される。岩本は攻撃隊に参加できないことを残念がるものの、「艦隊上空での空戦も悪くない」と気持ちを切り替えている(岩本P59)。あくまでも前向きな性格だ。この時に直掩隊に回された搭乗員は後に活躍する原田要中尉、小町定飛曹長、岡部健二少尉等がいる。

 1942年に入ると五航艦は内南洋からラバウル攻略に参加、2月には内地に帰還した後、4月にはインド洋作戦、5月には珊瑚海海戦に艦隊直掩隊として参加している。8月には瑞鶴を降りて内地の大村空で教員配置となる。第一線に未練のあった岩本は、この教員配置を拒否したものの上官の岡嶋清熊大尉に説得され受諾。ここで3ヶ月教員配置に就いた後、11月2日、横須賀航空隊に異動、翌年2月上旬には追浜航空隊に異動している。

 

激戦のラバウルへ

04_ブイン基地
(画像はブイン基地 wikipediaより転載)

 

 1943年3月2日、新編の第281航空隊に配属、同年5月には幌筵島武蔵基地に進出、キスカ島に進出予定であったが、7月には日本軍はキスカ島から撤収。さらに冬季に入ったため10月25日には館山に移動したものの同月、281空派遣隊のラバウルに進出が決定する。11月10日、春田虎二郎中尉以下16名の281空搭乗員は、当時旧式化していた零戦21型に搭乗、一式陸攻の誘導により発進、14日には全員がラバウルに進出した。

 岩本達281空派遣隊は、11月14日付で201空に編入、12月15日には204空に異動している。この頃(回顧録では12日)から岩本はマラリアとデング熱の症状が発生、12月下旬から1944年1月13日までほぼ空戦に参加していないことから病気療養をしていたと推定されている(梅本P13,35)。1月に入ると204空がトラック島に後退したため253空へ異動、253空がトラックに後退する2月20日までラバウル航空戦に活躍した。実は、岩本がラバウル航空戦に参加したのはわずか3ヶ月強であったが、その間、連日のように出撃しており、世間の3ヶ月とは重さが違う。実際、回顧録には

 

「私たち搭乗員も一種の変人になってしまった。 〜中略〜 私たちの生活は無我無心、敵の来るたびに機械的に飛び上がり、去れば降りて来る。ただそれを繰り返すだけである。も早娯楽を求める気持ちもない。同僚の死もさして気にならない。ただ頭にあるのは自分はいつ死ぬかということだけである。腹の底から笑うことなどはない。
(岩本P160)

 

 とあるように精神的にも相当過酷な状態であった。

 1944年2月、253空はトラック島に後退する。岩本も「搭乗員の墓場」と言われたラバウルから奇跡的に生還することが出来た。1943年11月中旬から僅か3ヶ月であったが、前述の岩本の手記にもあるように「一種の変人」になってしまうほどの命がけの3ヶ月であった。岩本はこの間の自身の撃墜数を142機としている。

 

 

中部太平洋から比島へ

05_神風特別攻撃隊
(画像は出撃する特攻隊 wikipediaより転載)

 

 1944年2月にトラック島に後退した後もトラック島防空戦に活躍、6月14日には機材受領のために内地に帰還する。機材受領後にトラック島に戻る予定であったが、サイパン島の戦いが始まり、空路が遮断されてしまったためトラック島復帰は中止となった。その後、8月には呉防空を担う332空に異動、若年搭乗員、特に少尉クラスの指導を任された。ここで岩本は初めて局地戦闘機雷電に搭乗しているが、スピードは出るが重い飛行機で運動性は悪く、大型機相手なら良いが戦闘機相手では零戦以下、大したものではないと評している(岩本P251)。

 9月には252空戦闘316飛行隊に異動するが、戦闘316飛行隊の分隊長はラバウルで共に戦った春田大尉であった。ここでも岩本は若年搭乗員の錬成を担当するが、10月には台湾沖航空戦に参加するため台湾に移動する。移動先の台湾高雄基地では、突然現れた参謀に高雄基地の指揮下に入れと命令されるが「初めての爆撃で少し頭がおかしくなっているのだろう」と一刀両断したものの(岩本P259)、その後進出したフィリピンでも岩本に対して指揮権の無い現地の参謀に特攻機の空輸を命令される。岩本は断っているが、この時期は現地も相当混乱していたのであろう。

 

本土防空戦

06_零戦52型丙
(画像は零戦52型丙 wikipediaより転載)

 

 岩本は輸送機によりフィリピンから内地に帰還、11月には戦闘311飛行隊に異動する。1945年2月には米第58任務部隊によるジャンボリー作戦の迎撃戦に活躍した後、九州の国分基地に進出した。そして3月中旬に戦闘303飛行隊に異動、空母瑞鶴時代の隊長であった岡嶋清熊少佐の下で再び戦うこととなった。この戦闘303飛行隊とはかつてトップエースの一人と言われる西澤廣義も所属していた飛行隊でこの時点で海軍航空隊中、最も練度の高い搭乗員を集めた部隊であった。戦闘303飛行隊は数少ない練度の高い制空部隊として終戦まで特攻機の援護や撃激戦に活躍した。

 岩本も戦闘303飛行隊の一員として沖縄航空戦に参加、4月には沖縄特攻作戦に出撃した戦艦大和の救援に向かったが、到着した時にはすでに大和の姿はなかったという。4月下旬になると菊水四号作戦が発令、岩本も特攻機の援護に出撃したが、岩本小隊はF4Uコルセア戦闘機8機と不利な体勢から空戦に入り、岩本機は胴体、翼に数十発被弾した。幸い致命部をそれていたため墜落することはなかったが、機体の性能の違いと敵に有利な状態から空戦を仕掛けられてしまったことから岩本もついに体当たりを決意するもやぶれかぶれの戦法で危機を脱することができた。

 この時の被弾は相当なもので風防は飛び散り、計器盤はメチャメチャに壊れていた。幸いエンジンは回っていたため何とか基地に帰還することができた。帰還後、調べてみると被弾30数発、落下傘バントの金具に弾丸が一発命中しており、それがなかったら岩本自身に弾丸が命中していたかもしれない。この空戦の様子を見ていた味方機は岩本機が撃墜されて戦死したと判断、二階級特進の手続きをしていたという。この岩本の被弾は相当な衝撃だったようで、同じ部隊に所属していた土方敏夫、安倍正治も手記にこのことを書いている(土方P248、安倍P213)。

 そして6月には岩国基地で編成された天雷特別攻撃隊の教員配置、終戦を迎える。終戦から数日後は茫然としていたという。終戦から数日後、軍用自転車にウイスキーを一本を積んで故郷に帰った。終戦後は公職追放となり日本開拓公社に入社、北海道に行くが、体調を崩して島根に戻った。その後も畑仕事や養鶏、菓子問屋勤め等、職を転々とした後、1952年増田大和紡績工場に就職する。

 しかし一年後の1953年には盲腸炎を発症、誤診の結果、腹部手術を3回、さらに背中も4〜5回手術した上に、最後は脇の下を麻酔なしで手術、あばら骨を二本とるという大手術を受けた。そして病名もはっきりしないまま1955年5月20日、38歳の若さで他界した。

 

 

岩本徹三という男

 

07_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

【撃墜数】ホントに216機も落としたの?

 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で単独撃墜202機、協同撃墜、地上撃破まで含めると合計254機、さらに日中戦争で14機と凄まじい数字となっている。さすがにこれが実際の撃墜数である可能性は低く、戦史研究家の秦郁彦は岩本の撃墜数を80機前後と推定されている(秦P174)。そして前述のように日中戦争の14機撃墜という数字についても異論がある。

 空中戦での敵機の撃墜は非常に困難である。丙飛16期出身の今泉利光は「アメリカの戦闘機を50機も60機も墜としたかのような話が伝わっているのであれば、それは誰かがつくった「戦後の嘘」である。なぜなら、速度と機銃そして機数の関係からして物理的に不可能だからである」と断言している(久山P132)。さらに戦史研究家の梅本弘の研究でも明らかなように、空戦での撃墜判定はかなり誤認が多く、何十機も撃墜戦果を報告していたが実際には1機も撃墜出来てなかったというようなこともある。著名な搭乗員である坂井三郎もまた「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語っているように(梅本P4)、ラバウル航空戦に関しても日米共に撃墜の誤認は多い。特に彼我の損害を比較すると日本側の誤認戦果が多い上に岩本の253空時代の戦闘行動調書に記載されている撃墜数が21機であるということから考えると、岩本主張するほど実際には撃墜してはいないのではないだろうか。

 無論、岩本はラバウル時代には201空、204空、253空と転々としているので、他の部隊では大量撃墜している可能性もあるが、ラバウルの熾烈な航空戦を岩本と一緒に戦った小町定も岩本については「空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていた」と語っており(川崎P272)、撃墜数についても、暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を指摘しているが(川崎P244)、そこらへんが事実なのであろう。

 

 

「ズルくても落とせばいい!?」岩本の空戦法

 

 岩本は緻密な計算の上で自身の戦法を編み出し、他人が非難を気にせずに実績を作り周囲を納得させるというタイプだったようで、ドッグファイトに参加せずに高度を取って上空を遊弋し、敵機を発見するや急降下、50m程度まで接近して後方より一撃した後、下方に抜け、上昇する際にまた別の敵機に下方より一撃した後、上空に戻るというような方法を多用していた。さらに他の搭乗員の攻撃によって傷付いた敵機を撃墜したり、空戦が終わって帰る敵機を付け狙い油断しているところを撃墜する「送り狼」戦法など、「卑怯」な戦法を好んだ。

 これについては、ラバウルの253空時代に同じ部隊にいた小町定飛曹長や日本のトップエースである西澤廣義が直接、岩本本人に「ズルい」と文句を言っているが、岩本は「そんなこと言っても、生きて帰せばまた空襲に来るんだぜ」と全く意に介さなかったという(神立P199、角田P358)。しかし口だけでなく、空戦の腕は相当であったらしく、前述の土方も岩本を「田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評しており(土方P226)、当時若手搭乗員であった阿部三郎もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述しているように(阿部P224)、口だけではなく空戦技術も相当なものであり、その名は海軍航空隊では有名だったようだ(久山P65)。

 

 

「意外と几帳面!?」岩本徹三の性格

 

08_零戦コックピット
(画像は零戦コックピット wikipediaより転載)

 

 このように書くと岩本は相当な暴れん坊であったと思われるかもしれないが、実はそうでもなかったようだ。元航空自衛隊のパイロットである服部省吾は岩本の著書を読んで「岩本徹三は人一倍素直に、そして真面目に訓練に取り組んでいたのではないか」と印象を語っている(服部P53)。実際、大雑把であったり、暴れん坊であったというような感じではなく、同年兵で主に母艦搭乗員として活躍した原田要によると、「岩本は性格は繊細で非常に緻密であり、そして要領がよく戦況把握が上手であった。」と言っている(原田P58,59)。さらに同じ部隊に所属していた安倍正治も岩本の印象を物静かであったと語っている(安倍P212)。

 しかし性格は強かったようで、夫人の岩本幸子による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである(岩本P316)。岩本の性格は、真面目で几帳面、繊細で緻密、そして自分の信じたことを押し通す気の強さがあったようである。実際、253空時代に航空機受領で内地に帰った際、他部隊士官になぜ早く前線に行かぬのかと罵倒された際にも今までの実績と現状を説明した後に「トラック基地司令の命令以外に他所轄の者よりとやかく言われることはないと思います。」とはっきり言っている(岩本P247)。この性格の強さは特攻を求められた時も同様で周りの搭乗員が特攻に反対できずにいる中、上官に対してハッキリと「否」と言ったという(角田P340)。

 岩本は気が強い上に「ズルい」戦法を使うため周りからは煙たがれていたと思われがちであるが、空戦ではチームワークを大切にしており、岩本と一緒に編隊を組んだ瀧澤は後年、岩本は、やさしくてよく気を使ってくれるため、若手搭乗員には人気があったと語っている(瀧澤P203)。

 これは余談であるが、岩本は飛行場に迷い込んでいた皮膚病の犬を可愛がり、この犬を膝の上に乗せたまま邀撃に上がったこともあったという(阿部P224)。戦闘303飛行隊時代にも「ウルフ」と名付けたシェパードを買っていたと言われており(安倍P213)、動物が好きであったようだ。

 

 

おわりに

 

 岩本徹三は日中戦争から太平洋戦争終戦まで多くを第一線で戦い続けた稀有な搭乗員である。1944年、253空がトラック島に後退した時点での飛行時間も8,000時間と事実だとすれば相当なレベルである。撃墜数に関しては疑わしいものの、その空戦技術は非常に合理的であり、一対一の空戦でもかなりの技量を持っていたことは確かだ。周りの空気に流されず、特攻には明確に反対意見を述べ、自分の正しいと思った戦い方は誰に批判されようともこれを貫いた岩本徹三という人間はやはり立派であったといえる。

 

参考文献

  1. 岩本徹三『零戦撃墜王』今日の話題社1972年
  2. /昔尚紀『零戦最後の証言』1999年
  3. 秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社1975年
  4. ’瀚楾亜愕し確軅鐶盞眥得鏥3』大日本絵画2013年
  5. 土方敏夫『海軍予備学生空戦記』光人社2004年
  6. 安倍正治「我が胸中にのこる零戦撃墜王の素顔」『空戦に青春を賭けた男たち』2013年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 服部省吾「「一撃離脱」に徹した零戦撃墜王の合理的な戦い方」『歴史街道 岩本徹三と零戦』2009年8月号
  9. 原田要『零戦 老兵の回想』2011年
  10. ⊃昔尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  11. 角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版1990年
  14. 瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻1996年
  15. 梅本弘『ビルマ航空戦』上2002年

 

 


ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

渋川茂飛曹長の略歴

 

 1923年8月12日大阪府生まれ。1940年海軍に入団。丙飛6期に採用され航空兵となる。1942年9月23期飛練を卒業。同年12月253空に配属。1943年はじめカビエンに進出。1943年5月サイパンに後退。9月上旬再度ラバウルに進出した。11月1日トロキナ岬艦船攻撃にて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。回復後、筑波空に配属され終戦を迎えた。

 

死亡率91%。壮絶な丙飛6期

 

 渋川飛曹長は丙飛6期出身、丙飛6期は1941年8月から訓練を開始、太平洋戦争開戦後の1942年9月に飛練を終えたクラスであった。大量育成であり、十分な訓練を受けたとは言い難いクラスではあったが、多くが「搭乗員の墓場」といわれた南東方面(ソロモン・ラバウル等)に送られた。丙飛6期の戦闘機専修者は66名で内、多くの隊員が1943年初頭頃から前線に出ていったが、1943年の1年間だけで38名が戦死しており、その内、判明しているだけで23名が南東方面である。

 1943年を生き抜いた28名も1944年の内に15名が戦死、1945年8月までに残った13名の内7名が戦死している。結局、終戦を無事に迎えることができたのは66名中わずか6名であった。戦死率91%、生存率はわずか9%という壮絶なクラスであった。

 渋川飛曹長も飛練修了数ヶ月後には南東方面に展開する253空に配属、1943年初頭にはニューアイルランド島北端のカビエンに進出、ソロモン・ニューギニア方面の航空戦に参加した。1943年5月には一時サイパンに後退、休養したのち、9月上旬には再度ラバウルに進出した。進出後も連日のように航空戦に参加したが、11月1日の第二次トロキナ岬艦船攻撃に艦爆7機の直掩として高沢謙吉中尉式の零戦42機(253空は13機)の一員として出動、後方から射たれて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。内地帰還後は筑波空で教員配置ののち終戦を迎えた。総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 丙飛6期の死亡率の高さは驚愕であるが、この時期の前後のクラスも同様の高い死亡率である。日本機、特に海軍機は防弾性能を軽視しており、さらには救助体制も連合軍程積極的ではないため、空戦で撃墜されると戦死してしまうことが多かった。さらに人材の不足から一度前線に出ると出ずっぱりとなることが多く、空戦経験が豊富になると今度は重宝されてしまい、結局「死ななきゃ内地には帰れない」状態となってしまった。このため育成に10年はかかると言われている貴重な搭乗員を多く失っていった。この中を渋川飛曹長は生き残り終戦を迎えることとなる。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

高塚寅一少尉の略歴

 

 高塚寅一 少尉 撃墜数16機  1914年静岡県生まれ。1933年11月22期操練を卒業。12空所属。1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。1941年10月飛曹長に進級して除隊後、直ちに招集され、台南空に配属される。1942年6月ラバウルに進出。9月13日ガダルカナル島上空の空戦にて未帰還となる。

 

 

空戦での撃墜の困難さ

 

 高塚飛曹長は操練22期出身で1928年6月から11月まで半年間操縦の訓練を受けた。同期には8機撃墜といわれる江島友一少尉がいる。戦闘機専修者は7名で太平洋戦争では3名が戦死しており、3名が終戦を迎えることができた。高塚一空曹は12空隊員として日中戦争に参戦、1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。

 この空戦で高塚一空曹は白根中尉率いる第2中隊第2小隊長として参加したが、空戦前に増槽落下後、燃料コックの切り換えを忘れ燃料を噴きながら空戦に突入、2番機の三上一禧三空曹に合図されて気付くというトラブルもあった。

 空戦では1機に命中弾を与え空中分解するのを確認した後、機体を引き起こしたが、その際に引込脚のロックがはずれ主脚が飛び出してしまった。このため着陸の際に機体が転覆大破してしまったが、高塚一飛曹は無事であった。この空戦では日本側は27機を撃墜、高塚一空曹も3機を撃墜したことになっているが、実際の中国軍の損害は13機で個人戦果も新聞社が適当に割り振ったものである。

 様々なトラブルがありながらも12空で活躍した高塚一空曹であったが、1941年に飛曹長に昇進すると同時に除隊してしまったが、すぐに招集された。台南空に配属された高塚飛曹長は1942年6月初旬にラバウル・ラエに展開する台南空に着任、6月13日に久しぶりの実戦に参加、19日にはB-17との空戦を行った。7月26日にはB-25 2機を共同で撃墜、29日にはA-24 4機を共同で撃墜した。8月2日にはP-39と交戦、1機撃墜を報告したが、この空戦で実際に撃墜されたP-39は1機のみで撃墜を主張している隊員は6名いるため実際には誰が撃墜したのかは不明である。

 8月4日にはラビ飛行場の強行偵察では地上銃撃の後にP-40と空戦となり1機撃墜を報告しているが、この空戦で連合軍側に空戦による被撃墜はなかった。米軍がガダルカナル島に上陸した8月7日の空戦では空中火災を起こしたものの無事に帰還することができた。8月21日には高塚飛曹長含む台南空零戦隊6機がF4F4機と交戦、高塚飛曹長は1機撃墜、1機不確実撃墜を報告しているがこれも連合軍側には空戦での被撃墜はなかった。

 9月13日には陸軍の河口支隊のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪還を目的とした作戦に連動して成功した場合に強行着陸するため陸軍の参謀を載せた陸偵の援護として出撃するが、高塚飛曹長を含む台南空零戦隊9機はガ島上空で26機のF4Fと空戦となり、高塚飛曹長及び高塚小隊全員が未帰還となった。

 

高塚寅一少尉関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。高塚一空曹の9月13日の空戦での活躍についても描かれている。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 高塚飛曹長が予備役から招集され台南空に着任した直後からの活躍が詳しく書かれている。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。高塚飛曹長に関してはソロモン航空戦の時の活躍が描かれている。

 

まとめ

 

 高塚飛曹長の撃墜数は16機ということになっているが、実際の数となると、分かっているのは零戦初空戦時の1機の他は、7月26日、29日の協同撃墜、8月2日のP-40の撃墜である。これらの撃墜数を協同撃墜として欧米式にカウントすると1.15機で高塚飛曹長の総撃墜数は2.15機ということになる。他にも日中戦争での撃墜やその他把握できなかった空戦もあるかもしれないので断定はできないが、「口だけの男ではない」と言われた老練な搭乗員高塚飛曹長をもってしても撃墜とはこれほど困難なものなのである。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

中島文吉飛曹長の経歴

 

 1918年富山県生まれ。1936年9月33期操練を卒業後、鹿屋空へ配属された。1938年3月13空、7月15空に異動。1941年9月3空に配属され太平洋戦争開戦を迎える。3空隊員として比島・蘭印航空撃滅戦に参加。1942年11月252空に転じてラバウルに進出。1943年2月マーシャル群島に転進した。年10月6日、米機動部隊のウェーク島来襲に対して増援のため出撃、米艦載機の奇襲により乱戦となり未帰還となった。

 

中島飛曹長の太平洋戦争

 

 操練33期の戦闘機専修者は5名と少ない。これは戦前の少数精鋭教育のためである。同期には翔鶴戦闘機隊で活躍した大森茂高少尉がいる。前後のクラスでは32期に「空の宮本武蔵」と呼ばれた武藤金義少尉、34期には「零戦虎徹」を自称した岩本徹三少尉がいる。中島文吉飛曹長は17歳で戦闘機搭乗員となったため太平洋戦争開戦時には23歳と年齢的には若いが、日中戦争には勃発時から防空任務に就いているなど経験が多い。

 太平洋戦争開戦時には3空に所属しているが、この3空は練度の高い隊員が非常に多かった部隊で新米搭乗員でも飛行時間が1000時間を超えていたといわれている。3空は開戦後、フィリピンのクラーク基地攻撃を手始めに台南空と共に開戦当初の比島・蘭印航空撃滅戦を行った。中島一飛曹も3空隊員として幾多の空戦に参加している。

 1942年11月、中島上飛曹は252空に転出する。この252空は現在の北朝鮮で編成された戦闘機陸攻混成部隊であった元山航空隊から戦闘機隊を抽出して編成された部隊で同年9月に館山で編成され、11月にはラバウルに進出する。搭乗員にはベテランの武藤金義上飛曹、宮崎勇一飛曹等が在籍していた。中島文吉上飛曹も252空の一員として空母大鷹によってラバウルに進出、翌年の2月に内南洋に進出するまで数ヶ月にわたって熾烈なソロモン・ラバウル航空戦に参加する。

 進出早々の11月14日、飛行隊長菅波政治大尉率いる252空零戦隊6機は輸送船団掩護に出撃、第1小隊は菅波大尉が直率、中島上飛曹は第2小隊の小隊長として出撃した。全機無事に戦闘は終了したものの菅波大尉は戦果確認に戻ってしまう。中島飛曹長は菅波大尉に同行しようとしたが菅波大尉に制止されてしまい、それでも律儀な中島上飛曹は菅波大尉に付いていこうとすると菅波大尉は強い調子で制止したため断念した。その後菅波大尉が戻ってくることはなかった。

 ラバウル進出後、わずか5日で飛行隊長を失った252空であったが、後任には士官でありながら個人撃墜11機の記録を持つと言われている周防元成大尉が着任、数ヶ月にわたって連日のように上空哨戒や戦闘に活躍することとなる。しかし1943年2月になると中部太平洋の緊張が高くなり始めたため252空はラバウルから後退、部隊を二分して1隊をウェーク島、1隊をマーシャル諸島に配置したが、中島上飛曹はマーシャル諸島に展開することとなった。

 1943年10月6日、ウェーク島が米機動部隊に襲撃されたためマーシャル諸島に展開していた252空に出撃命令が発令された。中島上飛曹も増援隊の一員として第2小隊2番機として出撃したが、途中、F6Fヘルキャットの襲撃により空戦に突入、中島上飛曹は未帰還となった。尚、この空戦がF6Fが日本軍と行った最初の空戦であったようだ。総撃墜数は16機といわれている。

 

中島文吉飛曹長関係書籍

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。

 

まとめ

 

 操練33期の戦闘機専修者はわずか5名、のちの搭乗員不足の状況を考えるとお寒い限りであったが、航空機はあくまでも海戦の補助戦力であったため致し方ないといえる。この5名の内、終戦まで生き残ったのは普川秀夫少尉ただ一人で他の4名は日中戦争、南太平洋海戦、終戦間際の九州で散っている。生存率は20%である。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

志賀正美少尉の経歴

 

  1919年茨城県出身。1937年海軍に入隊後、整備兵となった。1940年6月50期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。1941年9月千歳空に配属。内南洋タロア島で開戦を迎える。その後マーシャル群島に移動。1943年7月201空隊員としてソロモン群島ブイン基地に進出した。1944年2月横空に異動。1944年6月には八幡空襲部隊として硫黄島に派遣される。1945年2月203空に異動、終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊、定年で退職した。

 

長期間にわたり南方で戦った男

 

 志賀少尉は操練50期、太平洋戦争開戦直前に訓練を修了したクラスでこの前後のクラスが開戦後、もっとも消耗したクラスといって良い。事実、操練50期は11名が戦闘機専修として卒業しているが、終戦まで生き残ったのは志賀少尉只一人である。同期にはラバウルの活躍で有名な石井静夫飛曹長、母艦戦闘機隊で活躍した山本一郎少尉がいる。

 志賀少尉は開戦時は千歳空所属として内南洋で防空任務に就いていた。この当時の千歳空には後に太平洋戦争のトップエースとなる西澤廣義一飛曹、予科練同期の福本繁夫一飛曹等、のちに活躍する搭乗員が多く在籍していた。こららの搭乗員が次々と南方に引き抜かれていく中で志賀少尉は千歳空、201空(1942年12月改称)隊員として防空任務に就いていたが、1943年2月内地に帰還する。7月には201空の南東方面進出が下令されたため志賀少尉を含め搭乗員52名は、7月15日にラバウルに進出する。

 さらに志賀少尉は最前線のブイン基地に進出する。ブイン基地とはラバウルとガダルカナル島の中間地点にある日本軍の最前線基地で同年4月にはブイン基地に現地視察に向かった山本五十六連合艦隊司令長官が戦死している。それまでは比較的平穏な内南洋で腕を撫していた志賀少尉は、この最前線基地で過酷なソロモン航空戦に活躍することとなる。

 1943年10月下旬には戦局の悪化のため201空はラバウルに後退、翌年2月まで連日の航空戦に活躍することとなる。1944年1月には201空はサイパン後退が命ぜられ、2月にはサイパンに進出するが、志賀少尉は海軍航空の殿堂と呼ばれる横須賀航空隊に異動する。横空は内地の部隊であったが、戦局の悪化はそれを許さず、6月には八幡空襲部隊を編成して硫黄島に進出する。

 この硫黄島進出に志賀少尉は坂井三郎少尉の2番機として参加、米機動部隊相手に劣勢ながら健闘している。特に7月4日の米機動部隊特攻攻撃では空戦中にカウリングが吹き飛んでしまうほどの過過酷な空戦をくぐり抜けて生還している。1945年2月には203空に異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 203空時代に同じ部隊に所属した阿部三郎中尉は落下傘を付けずに出撃する志賀少尉に驚愕している。それを志賀少尉に訊いたところ「撃墜されるようなへまをやるくらいなら、自爆しますよ。」とさりげなく答える姿に自信と決意を感じたという。現に八幡空襲部隊で米機動部隊に特攻攻撃を命ぜられた際、志賀少尉は顔色一つ変えなかったという。戦後は航空自衛官として定年まで活躍した。

 

志賀正美少尉関係書籍

 

坂井三郎『零戦の最期』

坂井三郎 著
講談社 (2003/12/1)

  零戦三部作といわれる『零戦の真実』『零戦の運命』『零戦の最期』の最後の作品。ベストセラー『大空のサムライ』は実際には坂井氏の執筆ではなく、高城肇氏の執筆であると言われているが、こちらは正真正銘の坂井氏の執筆である。坂井氏は、当時の綿密な記録を持っており、内容も精緻である。自身の乗機が平成になり発見されたエピソードから始まり興味を惹かれる。終戦の詔後である1945年8月17日にB32が来襲した際、一瞬とまどったベテラン指揮官指宿少佐は、電話をガチャンと置いてこういった

 

「エンジン発動!」

 

 これが坂井氏最後のフライトとなる。後半の鴛淵孝大尉あたりの話は若干、記憶に混乱があるように思われるが、今は亡き伝説の零戦搭乗員、坂井三郎氏の筆は迫力がある。志賀少尉は坂井三郎中尉が硫黄島進出した際に列機として登場する。

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

 書名に著名な搭乗員、藤田怡与蔵少佐の名前があるが、中身は阿部氏自身についての記載が多い。阿部氏は戦争末期に戦闘303飛行隊にいたこともあり、トップエース岩本徹三についての記述がある。どうも岩本徹三に気に入られていたようで、いろいろ教えてもらったようだ。著者の経験も興味深いが岩本徹三の別の顔も見られて面白い。志賀少尉は「エース岩本少尉という男」の段に登場、上記のエピソードが掲載されている。

 

まとめ

 

 志賀少尉は操練50期中ただ一人の生き残りであった。経歴は非常に特徴的で太平洋戦争前半は内南洋でほとんど空戦をすることなく過ごしたが、中盤以降は突然、最前線のブイン基地に配属、半年以上熾烈なソロモン、ラバウル航空戦に活躍することとなる。その後も内地に帰還したものの八幡空襲部隊として少数機で米機動部隊と戦い、本土に帰っても最前線の九州で戦闘に参加し続けた。その実戦に裏打ちされた自信は落下傘を装着せずに出撃する姿に良く表れている。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

大木芳男飛曹長の経歴

 

 1916年茨城県に生まれる。1933年機関兵として海兵団に入団後、整備兵に転科。1937年7月操練37期修了後、戦闘機搭乗員となった。1940年7月横空から12空に異動。初陣で零戦初空戦に参加した。1942年7月台南空に転属後、11月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。11月に内地帰還、翌年5月、251空隊員としてラバウルに再進出したが、6月16日空戦中に戦死した。

 

大木飛曹長と台南空

 

 1916年生まれは戦前に十分な訓練を受け、日中戦争で実戦を経験後、25歳で太平洋戦争に参加したという経験に関してはもっとも恵まれた生まれといってよいだろう。同年兵には零戦虎徹岩本徹三中尉、坂井三郎中尉、原田要中尉、武藤金義少尉等、戦後有名になった搭乗員が多い。操練同期はわずか5名で当時流行していた「戦闘機無用論」の影響なのかは分からないが、少数精鋭主義であったことは確かである。この5名の内、終戦まで生き残ったのは零戦初空戦に大木飛曹長と共に参加した三上一禧氏わずか1名で生存率20%という凄惨な状態であった。

 操練課程を修了した大木飛曹長は海軍航空の殿堂といわれる横須賀航空隊を経て12空に配属される。この12空は戦闘機専門部隊として中国大陸に展開していたが、ここに大木飛曹長を含む零戦隊が参加することになった。大陸進出の2ヶ月後の1940年9月13日、大木飛曹長を含む零戦隊は陸攻隊の護衛として出撃する。この出撃は「13日の金曜日」に「13機」の零戦が出撃するという縁起の悪さもあり心配する隊員もいたが、結果として撃墜27機の大戦果を挙げることとなった。ここで大木飛曹長は4機を撃墜したことになっているが、この空戦での個人撃墜数はのちに創作されたものであるといわれている。

 太平洋戦争では米軍のガダルカナル島上陸の直前にラバウルに展開する台南空に配属、有名な搭乗員である坂井三郎一飛曹、笹井醇一中尉、西澤廣義一飛曹、太田敏夫二飛曹等と共に激烈なソロモン航空戦の洗礼を受けることとなった。この台南空は大きな戦果を挙げたものの損害も多く、8月には先任下士官である坂井三郎一飛曹が負傷して内地に送還、さらに笹井中尉が戦死した。9月には歴戦の羽藤一志三飛曹が戦死、10月には太田敏夫一飛曹も戦死するなど消耗が激しく、11月には戦力回復のため愛知県豊橋に後退した。

 1943年5月には戦力の再編成が完了したため再びラバウルに進出するが、この時点で実戦経験者は大木飛曹長、西澤廣義飛曹長、奥村武雄上飛曹等10名程度に過ぎなかった。この時に新たに部隊配属された青年士官大野竹好中尉は特に大木飛曹長と親しかったようで、大木飛曹長をして「勇敢なること鬼神のごとく、温和なること菩薩のごとく、機敏なること隼のごとく」と絶賛している。

 この大木飛曹長も1942年6月16日、ルンガ沖船団攻撃において未帰還となった。総撃墜数は17機といわれているが、毎度のことながら撃墜数というのはほとんど誤認であるといってよく実際の撃墜数は不明であるが、上記大野中尉の評価のように大木飛曹長は腕の立つ熟練搭乗員であったのは間違いない。因みにこの空戦では同じく台南空の奥村武雄上飛曹も未帰還となっている。

 

大木芳男飛曹長 関係書籍

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。

 それ以外にも青年士官大野竹好中尉の絶筆となった日記も貴重である。唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。大木飛曹長は上記大野中尉の日記中に登場する。

 

まとめ

 

 大野中尉の絶筆の日記をみると大木飛曹長の人柄の良さが伝わってくる。実戦経験が皆無であった大野中尉にいろいろと操縦について教えていたのだろう。その大木飛曹長は操練を修了後、横須賀航空隊勤務、最初の零戦搭乗員として戦地に進出するなど経歴からみても操縦技術が高く評価されていたのが分かる。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

増山正男飛曹長の経歴

 

  1921年長崎県に生まれる。1940年6月に49期操練を修了後、佐世保空を経て14空に配属される。海南島、ハノイ、中国大陸を転戦したのち1941年秋に3空配属となり開戦を迎える。比島蘭印航空撃滅戦に参加したのちチモール島に前進。1942年9月から11月までの間ラバウルへ派遣され、台南空指揮下で連日の戦闘に参加、3空復帰後はポートダーウィン攻撃に参加する。1943年4月内地帰還後は、空技廠実験部のテストパイロットとして各種の実験に活躍している。

 

増山飛曹長と操練49期

 

 増山正男飛曹長は操練49期、このクラスの前後は最も戦死者を出したクラスである。同期には坂井三郎中尉の列機として有名な本田敏秋三飛曹、同じく台南空の国分武一二飛曹、翔鶴戦闘機隊で活躍した小町定飛曹長がいる。操練49期は戦闘機専修10名の内、開戦から一年以内に6名が戦死している。その後1名が戦死したが、他3名は終戦まで生き残っている。

 増山飛曹長は操練修了後、14空隊員として中国戦線に加わる。日本軍の北部仏印進駐の一部としてハノイに進出した後、一旦内地帰還後、すぐに台湾に展開する3空に配属される。この3空は海軍でも指折りの練度の高い隊員で編成された部隊で新人でも飛行時間1,000時間以上であったという。この3空の隊員として開戦を迎えた増山飛曹長は比島航空戦から蘭印航空撃滅戦に参加したのちチモール島クーパン基地に進出、ここを拠点として3空はポートダーウィン空襲で戦果を重ねることとなる。

 1942年9月には3空飛行長榊原少佐以下21名の隊員がラバウルに進出するが、増山飛曹長もその一員としてラバウルに進出、台南空の指揮下に入った。この台南空には操練49期で同期の国分武一二飛曹が活躍していたが、増山飛曹長の到着に前後して戦死している。そして台南空の指揮下に入った増山飛曹長は、連日のガ島進攻や船団直衛、要地防空に活躍することとなる。

 幾度となく死地をくぐり抜けてきた増山飛曹長は1942年11月、再びチモール島クーパン基地に帰還するが、その間に21名中8名の隊員が戦死している。クーパン基地に戻った増山飛曹長はその後もポートダーウィン攻撃に活躍するが、1943年4月には約1年半振りに内地に帰還、空技廠実験部の所属となり以降はテストパイロットとして各種実験に活躍して終戦を迎えた。総飛行時間1,540時間、総撃墜数は17機ともいわれているが、撃墜数はあまりにも誤認が多いので参考程度である。

 

増山正男飛曹長関係書籍

 

零戦よもやま物語 零戦アラカルト

柳田邦男 豊田穣他 著
潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月

 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。

 増山正男氏は「生への執着」という短編を寄稿している。増山氏の手記はあまり見かけないので貴重である。

 

 

まとめ

 

 増山飛曹長の出身期である操練49期のクラスとその前後のクラスは太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受けたクラスであり、戦中の不十分な訓練でそのまま戦場に駆り出されたクラスに比べれば恵まれているといえるが、十分な実戦経験の無いまま過酷な太平洋戦争に突入したため犠牲も多かった。増山飛曹長はその中でも日中戦争で実戦を経験しており比較的恵まれていたといえないこともない。しかし増山飛曹長自身の手記内で戦争中盤で内地勤務になったことが現在生きていられる理由であると語っていることからも太平洋戦争の航空戦がどれほど過酷だったのかが分かる。操練49期の生存者は10名中増山飛曹長を含め3名のみである。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

隼況
(画像はwikipediaより転載)

 

 最近、私は陸軍戦闘機隊の記録を読むのが楽しみだ。記録といっても梅本弘氏の著作なのだけど、この梅本氏の著作は、日本と連合国の記録を照合して空戦をリアルに再現しているのが特徴だ。私は外国語は「からっきし」なので、どうしても日本の記録に偏ってしまう。ここで私が昔から気になっていた問題がある。

 

撃墜王ってホントは何機落としているの?

 

 「撃墜王」やら「エース」と言われている人の記録、特に岩本徹三氏等の著作を読むと、日本軍は来襲する敵機をバッタバッタと端から撃墜しているような印象を受ける。しかし、『日本海軍戦闘機隊』巻末の彼我の戦果報告と損害報告を見ると実はかなりの誤認戦果があったことが分る。当然といえば当然だが、ほとんどの場合、実数よりも戦果は大きくなる。これは空戦という極限状態での戦果確認となるので仕方が無いことだ。ラバウル航空戦を例にとれば部隊に報告された戦果と実数の差は大きい時で10倍にまで膨れ上がったりする。

 「撃墜王オタク」だった私としては、憧れの撃墜王が「本当は何機撃墜しているのだろうか」というのがとても気になるところ。そこを出来る限り資料を突き合わせて調べたのが梅本氏の著書だ。梅本氏の著作は値段は割高に感じてしまうが調べる手間を考えるとむしろ割安といってもいいと思う。興味のある人は是非購入してほしい。それはともかく、梅本氏の著作を読んでいて気になったことがあったのでちょっと書いてみたい。

 

ブラックドラゴン飛行隊と零戦ナゴヤタイプ

 

 みなさんは「ブラックドラゴン飛行隊」というのをご存じだろうか。これは日本軍がビルマ方面の航空戦に投入したエース部隊だ。隊長機は黒塗りのメッサーシュミットBf-109で、6機の零戦を従えている。この部隊はガダルカナルの戦場からビルマに展開した部隊でとんでもなく練度の高い部隊だ。このように書くと、よくある架空戦記物かと思われがちだが、実際に米軍の公式記録に記載されているもののようだ。

 さらにその「ブラックドラゴン飛行隊」が活躍したガダルカナルでは、昭和17年にしばしば新型の零戦「ナゴヤタイプ」が目撃されている。この「ナゴヤタイプ」は零戦の徹底的な軽量化を行い、他の零戦に比べて信じられないような機動性を発揮する。さらに速度はグラマン(F4Fか?)に比して111kmは速いという。要するにナゴヤタイプは650kmくらいは出せるということだ。しかし、軽量化のために防弾性能や自動消火装置を排除してしまったので機体としての性能はグラマンの方がいいというのが対戦したパイロットの報告であった。

 

結局は、航空戦も人間同士の戦い。

 

 もちろん、これらの情報は全て誤認だ。Bf-109がビルマ戦線で活躍したという事実はないし、確かその当時、零戦隊はビルマ方面には展開していなかったはずだ。そもそも隊長機だけが機種が違うというのはアニメの世界だけの話だ。実際は補給やらメンテナンスの関係で飛行隊は基本的には同一機種となる。「ナゴヤタイプ」に関しては周知のようにそのような機体は存在しない。そもそもただでさえ強度の弱い零戦をさらに軽量化してしまったらあっという間に空中分解してしまう。

 面白いのはこれらの情報が出た時は日米の戦力が日本優勢、若しくは拮抗していたということだ。「ブラックドラゴン飛行隊」も零戦「ナゴヤタイプ」も人の恐怖心が見せた幻想だったようだ。逆に日本空軍の搭乗員からこのような怪情報が出たというのをあまり聞かない。日本の搭乗員の間でもこのような伝説はあったのだろうか。誰か知っている人がいれば教えて欲しい。ともかくも、近代戦というと機械と機械のぶつかり合いという印象が強くなってしまうが、このような事例を知るにつけ、戦争とは人間同士が戦っているということを実感する。

 

関係書籍

 

 「ブラックドラゴン飛行隊」について書いてあるのはこれ。
  ↓↓↓

第二次大戦の隼のエース

 航空史家梅本弘氏の著作。第二次世界大戦時の陸軍戦闘機隊の活躍を描く。特に本書では隼に登場した「エースパイロット」について詳しく描いている。彼我の戦果報告書を丹念に読み解くという精緻な研究で知られている梅本氏であるが、本書では連合軍パイロットや陸軍戦闘機隊員の人柄までもがわかる。戦闘といってもどちらも同じ人と人なのだ。

 

 「ナゴヤタイプ」について書いているのはこれ。
  ↓↓↓

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の新刊である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。

 『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 興味があれば読んでみると面白いですよ。撃墜数云々という話はともかく、彼我の記録を辿ることでどちらの搭乗員も苦しんだり悩んだりする普通の人であることが分る。梅本氏の著作はこういう面も分かることがよい。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

藤田怡与蔵
(画像はwikipediaより転載)

 

 藤田怡与蔵少佐は、岩本徹三、西澤廣義、坂井三郎等に比べると知名度は今一つであろう。しかし撃墜42機ともいわれるエースである。藤田は撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官であり、それも海兵66期出身という、太平洋戦争開戦前に中国戦線を経験した最後のクラスであった。それ故にもっとも使い勝手が良く、終戦まで酷使されたクラスである。

 

藤田怡与蔵少佐の経歴

 

略歴

 大正6年中国山東省に生まれる。昭和13年9月海兵66期を卒業。昭和15年6月第33期飛行学生を終了。大分空で延長教育を受ける。昭和15年11月修了し、同航空隊の教官となる。昭和16年9月蒼龍乗組。12月8日の真珠湾攻撃が初陣であった。昭和17年6月ミッドウェー海戦では共同撃墜7機を含む10機を撃墜する。内地帰還後、分隊長として飛鷹乗組。10〜12月中旬までガダルカナル航空戦に参加する。昭和18年4月には、「い」号作戦参加のため再度ラバウルに進出。6月築城空に異動。11月飛行隊長として301空に配属される。昭和19年7月飛行隊長として戦闘402飛行隊に配属。台湾沖航空戦、比島航空戦に参加。昭和20年1月内地に帰還。福知山基地で終戦を迎えた。

 

士官だからといって安全な場所にいる訳ではない

 藤田は大正6年生まれ。海兵66期出身。飛行学生を修了したのち、昭和15年11月大分航空隊戦闘機実用機教程を修了、同航空隊の教官となった。因みに教員配置は、士官は教官、下士官は教員という。その後美幌航空隊に配属され中国戦線に進出したが実戦の機会はなかったようだ。

 半年ほど勤務したのち、1941年9月、空母蒼龍乗組となる。その後真珠湾攻撃に参加、ウェーク島攻略、コロンボ空襲と機動部隊の一員として活躍する。蒼龍乗組としてミッドウェー海戦に参加、その後、ラバウル航空戦に参加する。フィリピンには341空飛行隊長として戦闘に参加、本土に帰還後は一瞬だけ343空に配属されるもすぐに601空に転属させられた。

 前述のように海兵66期は酷使された。同期で戦闘機に配属されたもの11名中生存者は5名。死亡率は54%に達する。しかし66期はこれでも生存率が高いクラスであったといえる。前期の65期は死亡率87%、後輩に当る67期も死亡率87%であった。具体的に人数でいうと66期が5名生存しているのに対して67期は3名、65期に至っては戦争を生き抜いたのは1名のみだった。

 

指揮官パイロットの役割

 このようにこのクラスの士官は絶えず最前線に駆り出され消耗していったのだ。それはともかく藤田の話に戻ろう。藤田は真珠湾攻撃で初空戦を体験して以来、小隊長として撃墜を重ねたようだ。士官搭乗員の撃墜数は少ない。なぜなら士官とは戦闘全般の状況を見ながら指揮官として部下を誘導したり指示したりする監督の役割だからだ。自分が実際に戦闘をして撃墜するという状況はあまりない。

 現に海兵59期で日中戦争から太平洋戦争の前半に零戦隊隊長として活躍した横山保中佐ですら撃墜数は5機しかない。同様に不敗の零戦隊202空の名隊長であった鈴木實も横山と同期であり、日中戦争以来のベテランであったが撃墜数は5機、零戦初空戦時の指揮官であった進藤三郎中佐に至っては撃墜数でいえば欧米でいう「エース」にすらなっていない。

 これに対して「敵機撃墜」を主任務とする同世代の下士官は20機、30機撃墜のエースがキラ星の如く輩出した。このように士官と下士官には職務に違いがあり、士官が撃墜を重ねるというのは珍しいことであった。藤田の撃墜数についてはヘンリーサカイダの著書によると42機、秦郁彦『エース列伝』によると10機以上となっている。

 

藤田怡与蔵少佐関係書籍

 

阿部三郎『零戦隊長藤田怡与蔵の戦い』

海軍兵学校73期の阿部三郎氏の著作。阿部氏は戦争後半に実戦に参加したため戦闘経験は少ないが、末期の過酷な戦場を生き残っている。タイトルの通り藤田怡与蔵少佐について詳しく書いている。

 

秋本実『伝承零戦』1巻

 月刊『丸』紙上に掲載された海軍戦闘機隊搭乗員の手記を集めたもの。編者の秋本実氏は航空史家。第1巻は零戦の誕生から太平洋戦争中盤までの手記を収録。

 

まとめ

 

 この藤田氏、かなり人望のある人だったようだ。最後の福知山時代の部下が藤田を評してこのように言っている。
「ざっくばらんで、きさくな人柄だが、自分の功績を一言も言ったことのない人で、なんとなく人をひきつける何かがあって、この隊長となら安心して戦いが出来るという信頼感を部下に与える人だった」

 藤田は戦後、公職追放のため職業を転々とした後、日本航空のパイロットとして世界の空を飛びまわった。日本で最初のボーイング747の機長となり1977年退職した。そして2006年肺がんのため死去した。

 

零戦11型

(画像はwikipediaより転載)

 

 石井静夫は、福岡県出身で昭和16年4月〜昭和18年10月までと2年半の間、台南空、隼鷹戦闘機隊等で活躍、日中戦争で3機、太平洋戦争で26機撃墜した搭乗員である。操練50期だと大体初陣は太平洋戦争なのであるが、この石井静夫は中国戦線が初陣である。太平洋戦争開戦前までに3機を撃墜したというのだから運と才能に恵まれていたのだろう。

 

石井静夫の経歴

 

 大正9年、福島県に生まれる。昭和12年海軍に入隊。昭和15年6月50期操練を卒業。昭和16年4月12空に配属され、中国戦線に出動。昭和16年10月台南空に異動。台南空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。初期の蘭印航空撃滅戦に活躍。昭和17年4月内地帰還。大村空で教員。昭和17年9月隼鷹乗組。昭和18年9月204空に異動。10月24日戦死。

 エース関係の記事にはよく、「公認撃墜数」なるものが登場する。「公認」というと、あたかも日本海軍が個人撃墜をスコアとして認めていたニュアンスがあるが、日本海軍は空戦は集団戦という価値観から、諸外国のように個人の撃墜数を評価の対象にはしていなかった。故に日本海軍が5機以上撃墜するとエースとして扱ったり、それを公認したりしたことはない。この「公認」という言葉は、恐らく秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』が広めたものだろうが、この「公認」というのは、戦闘行動調書などの公文書に記載されている撃墜数を指している。諸外国のように5機以上撃墜者に対してエースという称号を贈ったりしてはいないということに注意する必要がある。

 因みに公文書とは主に『飛行機隊戦闘行動調書』のことで当初は個人撃墜戦果も記載していた。のちにチームワークを重視するという観点から個人撃墜数は記載されないようになったという。ただ全部隊が以後、個人撃墜数を全く記載しなくなったのかというとそれも違うようで部隊によっては記載されていたりもする。

 石井静夫は中国戦線で活躍したのち、太平洋戦争では台南航空隊に所属してフィリピン、蘭印航空撃滅戦に参加している。その後、本隊がラバウルに進出する際、新郷英城大尉以下一部搭乗員と共に本土に帰還している。大村航空隊で教員配置の後、母艦乗組を命ぜられる。この頃、空母部隊はミッドウェー海戦で主力空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍を一挙に失い、残存空母を以て再編成を行った。

 第一航空戦隊は翔鶴、瑞鶴、第二航空戦隊は隼鷹、飛鷹、龍驤である。石井は、昭和17年9月第二航空戦隊所属隼鷹乗組となり、激闘の南東方面ラバウルに進出した。昭和18年9月、ラバウルに展開する204空に異動した。当時、251空と改称された古巣の台南航空隊が再編成ののち再びラバウルに進出していたが9月に夜戦隊に改編になった。

 夜戦隊に改編されたことにより零戦隊の搭乗員達は同じくラバウルに展開する201空、253空に転属していった。石井が204空に着任した昭和18年9月時点では西沢等、台南空の生き残り搭乗員達がまだラバウルにおり、石井にとって懐かしい顔ぶれが揃っていた。その後、10月24日ラバウル上空の迎撃戦で戦死する。総撃墜数は29機、中国戦線、母艦搭乗員を経験した貴重な搭乗員であった。

 

石井静夫関連書籍

 

郡義武『台南空戦闘日誌』

郡 義武 著
潮書房光人新社 (2013/11/1)

 台南空の大ファンの著者が日米の資料を調べて書いたもの。梅本弘氏の著作ほどの精密さはないが、なかなか再現することが難しい戦闘記録を再現している。著者が台南空の大ファンであることから若干台南空の戦果を評価する傾向がある。梅本弘『ガ島航空戦』も併せて読むとより理解が深まる。石井静夫氏が在隊した当時の台南空の記録。坂井三郎氏の著作にも登場するが、エピソード等は多くない。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。石井静夫上飛曹が少しだけ登場する。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 石井静夫飛曹長に関しては戦争中盤で戦死されているのであまり他のパイロットの手記等にも言及されない謎が多いパイロットである。新しい情報が入ったら更新して内容に反映させたい。

 

西澤廣義01
(画像はwikipediaより転載)

 

西澤廣義の経歴

 

 西澤は、大正9年長野県に生まれる。昭和9年3月、高等小学校を卒業すると製糸工場に勤める。昭和11年6月、第7期予科練習生として海軍に入隊。昭和13年8月、霞ヶ浦空で飛行練習生、昭和14年3月〜6月まで大分航空隊で延長教育を受ける。昭和14年6月大村空配属。昭和15年12月鈴鹿航空隊に異動。そして昭和16年10月1日千歳空に配属、内南洋ルオット島で太平洋戦争開戦を迎える。

 その後、西澤は千歳空隊員としてラバウルに進出、昭和17年2月10日、第4航空隊に編入される。さらに昭和17年4月1日付の改編で台南空に編入される。ここで笹井醇一、坂井三郎、太田敏夫などと連日の航空戦に参加する。昭和17年11月、台南空の内地帰還命令で他の残存搭乗員と共に内地に帰還。昭和18年5月、再建が完了した251空(台南空が改称)と共に、再びラバウルに進出。9月1日、トベラ基地の253空に異動。

 同月草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後、11月1日付で大分空に異動、教官配置となる。同月飛曹長に進級。昭和19年3月1日、203空戦闘303飛行隊に異動、部隊と共に厚木、千歳、美幌、幌筵、茂原、鹿児島と移動する。昭和19年10月12日、戦闘303飛行隊がT部隊に編入される。鹿児島から台湾、10月24日には、比島・マバラカットに移動する。

 10月25日、神風特攻隊の直掩隊長として出動。10月26日、乗機を置いて輸送機で帰還する途上ミンドロ島カラ晩上空でF6F2機に襲撃され戦死する。公式資料に残る撃墜数は36機だが、147機、150機、120機、102機、87機とも言われる多撃墜パイロットであった。

 岩本徹三、坂井三郎、武藤金義等、のちに撃墜王と呼ばれたパイロットは大正5年生まれが結構多いが、西沢は大正9年と若干若い。予科練に入ったのは16歳であった。因みに予科練は1930年に始まった航空士官を養成するための制度である。高等小学校卒業以上が応募資格で競争率が高くかなりの難関であった。

 後に中学校4年生以上を対象として甲種予科練という制度が始まったことにより旧来の予科練は乙種予科練と呼ばれた。さらに1940年に従来の操縦練習生課程も予科練に統合され丙種となるのであるが複雑になるのでここでは割愛する。甲種予科練制度が始まったのは1937年なので西沢が採用された1936年は厳密にはまだ乙種予科練ではない。それはそうとこの倍率何百倍という超難関を突破した西沢は日中戦争を体験することなく太平洋戦争開戦を迎えた。

 当初は千歳航空隊に所属し、その後あの台南航空隊に配属された。西沢は台南航空隊での勤務が一番長かったようである。他の搭乗員は航空隊を転々としたのに対して西沢は移動は少なかったようだ。それでも千歳航空隊、台南航空隊、253空、203空と転属した。ここで面白いのは、西沢が253空に転属したのは18年9月で、10月には本土に帰還している。これと入れ替わるように岩本徹三が11月にラバウルに着任している。

 さらに西沢はその後203空戦闘303飛行隊に転属してるが西沢フィリピンで戦死後、岩本徹三もまた戦闘303飛行隊に着任している。 西沢と岩本はお互いにライバル視していたようで、普段は寡黙で自分の手柄話をしたことがないという西沢であるが(吉田一『サムライ零戦記者』)、フィリピンで岩本と会い空戦談義となった際は饒舌だったという(角田和男『零戦特攻』)。この二人と同じ航空隊に所属し戦争を生き抜いた安倍正治氏は自身の体験の中で西沢と岩本について触れている(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』、同「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三」》『丸12月別冊 撃墜王と空戦』)。

 

西澤廣義関連書籍

武田信行『最強撃墜王』

 本書は西沢氏のかなり綿密な取材のを基に執筆されている。西澤氏の親族への聞き取りや西沢氏自身が書いたノートなどを参考に書いているため信ぴょう性は高いと感じる。西澤廣義の記録としてはこれ以上はない秀作。

 

吉田一『サムライ零戦記者』

 戦場カメラマンとしてラバウルに進出した吉田一氏の著作。太平洋戦争初期の比較的日本軍が優勢だった時期のラバウルだが当初から激しい戦闘が繰り広げられていたのが分かる。吉田氏自身、かなり腹の座った男だったようで、陸攻に同乗したりもしている。興味深いのは、のちに撃墜王を綺羅星の如く排出するようになる台南空の記録だ。

 のちにエース列伝を賑わせることになる、西澤廣義、坂井三郎、太田敏夫等の台南空のエースパイロット達の素顔がみえる。吉田氏は人懐っこい性格だったようで、彼らも本心をさらけ出している。「俺は何機落としたら表彰されるのかな」と不満げな顔の西澤廣義などの描写が面白い。西澤廣義やその他のパイロットについても描写があるので零戦パイロット好きには外せない。

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 私が好きな海軍戦闘機パイロットの一人角田和男氏。エースリストでは撃墜数9機となっていたはずだ。実際に何機だったのかは分からないが、映画やアニメと違って実際には、ほとんどのパイロットは1機も撃墜しない。その中で敵機を1機でも撃墜したというのはすごいことだ。著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。本書の比島の部分に西澤廣義と岩本徹三という二大エースが議論になる部分がある。巴戦(ドッグファイト)に参加しない岩本徹三に対して西澤は、

 

「岩本さん、それはずるいよ」

「でも俺が落とさなきゃ奴ら基地まで帰っちゃうだろ」

 

 それぞれの戦い方が分かるやりとりが面白い。

 

本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』

 零戦に関わった兵士たちの記録。著者は本田稔、梅村武士、安倍正治、加藤茂、中沢政一、大野竹好の6名である。本田稔氏は著名なエースで総撃墜数17機と言われている人だ。本書ではラバウル時代について書いている。本田氏は本書の部分も含めて『本田稔空戦記―エース・パイロットの空戦哲学 (光人社NF文庫)』にさらに詳しく書いているのでそちらがおすすめ。それ以外にも唯一不敗だった戦闘機隊202空に所属していた梅村武士氏の手記では、慰問団として来た森光子のこと、安倍正治氏の手記では十分な訓練期間も与えられずに戦場へ送り込まれた戦争後半担当パイロットの戦いの工夫等が面白い。

 安倍氏は西澤廣義、岩本徹三の二大エースが所属した戦闘303飛行隊に初期から終戦まで在籍した唯一のメンバー。両エース在籍時にそれぞれから薫陶を受けており、彼らについての記録も貴重。

 

野村了介ほか『空戦に青春を賭けた男たち』

本書は月刊『丸』に掲載された戦闘機パイロットたちの手記を集めたもの。野村了介や柴田武雄という高級士官の手記もある。特にパイロットということで戦闘303飛行隊長であった岡本晴年少佐、母艦戦闘機隊のエース斎藤三朗少尉、その他あまり記録を残していない柴山積善氏等も執筆している。安倍正治氏の手記に西澤廣義とのやりとりについて詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 以上、最強撃墜王西澤廣義についての概略と参考書籍について書いてみた。ネットで調べてもそれなりの情報は出て来るが、さらに詳しく知りたい方は本を読むことをおすすめする。

 

ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

福本繁夫の経歴

 

 撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。

生年月日不明である。大正9年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、昭和11年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、昭和10年とする資料もあり)。昭和14年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。

 台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西沢広義と一緒に転属していたようだ。昭和18年11月、乙飛7期出身者は飛曹長に昇進しているので恐らく福本もこの時期に飛曹長に昇進したと思われる。

 昭和18年12月に253空には転属する。岩本徹三、小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。昭和19年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留している。

 この253空後退後のラバウル253空についてであるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』253空の項には「ラバウルには福本繁夫飛曹長の指揮する零戦9機のみが残留した。」とあり、福本飛曹長と共に零戦9機も残留したことになっているが、碇義朗『最後のゼロファイター』にはラバウルには958空の零式三座水上偵察機8〜9機のみとある。どちらが正しいのかは不明であるが、その後の経緯から考えても零式三座水偵が残った可能性が高そうだ。

 ともかくも福本飛曹長は何らかの事情でラバウルに残留している。どうして福本ほどの熟練者が本隊から離れたのかは不明だが、同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)、福本飛曹長も重症又は負傷していた可能性が高い。

 残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。現地制作の零戦は、253空撤収後、まず2機修復され、さらに昭和19年2月末までにさらに5機完成した。昭和19年3月3日、福本飛曹長を指揮官とする現地製作された零戦隊7機はアメリカ海兵隊第223戦闘中隊と空戦に入る。米軍側記録によると米軍機に損害無し、零戦を1機撃墜、1機不確実とあるが、日本側記録では米軍機5機を撃墜したとある。

 3日後の3月6日にも空戦が行われているがこの戦闘に福本が参加していたのかは不明。3月13日には列機3機を率いて、グリーン島の攻撃に参加しているが列機は集合できず、福本のみが攻撃し帰投している。3月23〜24日の深夜に第17軍突撃掩護のため零戦3機が出撃したが、滑走中の事故で3機とも損傷。掩護を行うことが出来なかった。福本は自身が出撃しなかったことを理由に苛立った司令から暴行を受けた。

 そして昭和19年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。日本に戻った日は不明だが、昭和20年2〜3月頃のようだ。昭和20年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。

 昭和20年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。

 

福本繁夫関連書籍

 

ヘンリーサカイダ・碇義朗『最後のゼロファイター』

ヘンリーサカイダ・碇義朗 著
光人社 (1995/7/1)

 幾多の撃墜王を生んだラバウル航空隊は昭和19年2月にトラック島に後退する。ここで太平洋戦争の中心は中部太平洋から比島、本土へと移っていくのだが、忘れ去れたラバウル航空隊では、廃棄された零戦や隼、九七式艦攻などの部品を組み合わせて「ラバウル製航空機」を生産し始めた。海軍は105基地航空隊として偵察、輸送、攻撃の任務に就いた。ほとんど知られることが無かった「その後のラバウル」の出来事を克明に記している。パイロットの多くは他の戦場に移動するが、ラバウルに残留したパイロットに乙7期予科練出身というベテラン搭乗員福本繁夫飛曹長がいた。

 

川戸正治郎『体当たり空戦記』

 丙種予科練12期という戦中派中の戦中派、川戸正治郎上飛曹の戦い。満足な訓練も受けられず、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに派遣される。ラバウル航空戦では5回も撃墜されながらも19機を撃墜する。航空隊が撤退した後もラバウルに残留して空戦を行った。福本飛曹長についての記載もある。因みに本書は大手出版社による本ではないので購入できるうちに買っておいた方がいい。この手の本が再販される可能性は低い。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

↑このページのトップヘ