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フランス

01_ガーター勲章を佩用する明治天皇
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 栄光ある孤立を選んでいた英国であったが、中国におけるロシア・フランス・ドイツの進出を防ぐために日本との同盟を選んだ。直後に起こった日露戦争での日本の強さを知った英国はより強力な同盟を締結する。しかし日英両国の接近は両国に挟まれた米国の警戒心を生む。結局、日英に米仏を含めた四か国条約を締結することで日英同盟は解消された。

 

日英同盟

 

同盟締結までの情勢

 清国はアヘン戦争以降、英国の半植民地のような状態であったが、1895年に日清戦争によって日本が勝利すると状況は一変することになる。日本に対して巨額の賠償金の支払い義務がある清国は資金を捻出するためにロシアとフランスから金を借りることにした。その見返りとして自国への権益を認めざるを得なかった。

 ロシアは満洲から中国に勢力を拡大、同時にフランスも自国領であるベトナムから中国に勢力を拡大してきた。さらにドイツが山東半島に出兵して勢力圏としたのに対して英国もいよいよ単独で対処するには限界となり、どこかの国と軍事同盟を結ぼうと考えるようになった。

 その国とは日本の事で、日本もロシアの南下に対して警戒感を強めていた。このまま南下が続けば、その先には日本がある。どこかで南下を食い止めたかったのだ。日本ではロシアと協約を結び、ロシアが朝鮮半島へ侵入するのを防ぐ案と英国と同盟を結びロシアと開戦するという案の二つが対立したが、結局、英国と同盟を結ぶこととなった。

 

第一次日英同盟(1902年)

 1902年、日英同盟が成立する。この同盟は1国が戦争状態になった時、同盟国は中立を守ること。そして2国以上と交戦状態になった場合は同盟国側に立ち参戦することが決められた。つまりは一対一の「サシの勝負」は見守るだけだが、相手に助太刀が入った場合は「お味方致す」ということだ。この時の秘密交渉では日本はロシアと開戦する予定であると英国に伝えている。期限は5年間でああった。

 

 

第二次日英同盟(1905年)

 2年後の1904年、日露戦争が開戦する。大方の予想に反して戦局は日本にとって有利となった。1905年、奉天会戦での勝利、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃滅と同盟国が予想以上に強かったので気を良くした英国は、さらに進めて同盟国が1国以上と交戦した場合は参戦するというより積極的な同盟に変更された。つまりは「サシの勝負」でも日英の2国で戦うということだ。さらに期限も10年と延長されることとなった。この第二次日英同盟時に日本の大韓帝国保護国化を英国が承認することが確認された。これは割と重要なことだ。

 

第三次日英同盟(1911年)

 日露戦争以降、米国は膨張していく日本に対して警戒感を強めていた。米国にとって日本と英国とは大洋を挟んだ隣国なのだ。自国を挟んだ隣国同士が軍事同盟を結んでいるというのは脅威でしかない。このため米国の希望により第三次日英同盟では米国を交戦相手国の対象外とすることが決められた。但し、この決定は日英同盟の自動参戦規定とは矛盾することになる。

 

同盟解消(1923年)

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は人種差別撤廃を主張した。これは主に移民に対する差別を禁止することを目的としたものであった。これに対して英国が反対にまわったことは両国のわだかまりとして残った。さらに日英同盟を警戒する米国の思惑が重なった結果、1921年のワシントン会議で新たに日英同盟に米国とフランスを加えた四か国条約を締結することとなった。これは日英同盟のような強力な軍事同盟ではなく、相互尊重、現状維持という内容のあまり実体のあるものではなかった。1923年、四か国条約発効とともに日英同盟は破棄されることになった。

 

 

 

 

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01_ワシントン会議
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 アメリカが提唱。列強各国の中国の権益の新規獲得禁止を決定。現状維持であるが、日本の進出を警戒した米国の圧力や国際的孤立を恐れたため日本は第一次世界大戦で獲得した山東半島を返還することになった。以降、ワシントン体制という軍縮、国際協調の時代が訪れた。

 

九か国条約

 

 日露戦争が終わると日本はロシアから獲得した関東州と南満州鉄道を中心に中国への進出を強めていった。これに対して中国進出に出遅れた米国は満鉄の共同経営を提案するが日本に拒否されてしまう。米国と日本は中国を巡って利害が対立、さらに米国は、大国ロシアに勝った日本へ軍事的な警戒心も抱き始めていた。米国から見れば日本は隣国で、隣国が軍事的にも経済的にも力を付け始めたのだ。そして第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由に参戦。どさくさに紛れてドイツ権益である山東半島や南洋の島々を占領してしまった。

 そこで米国は、自国が主催したワシントン会議によって中国の門戸開放を主張。要するに「自分も一枚かませろ」という訳だ。この結果、締結されたのが九か国条約で、新たに権益を獲得することを禁止した。つまりは「昔の権益は持っていていい」ということだ。しかし日本に対しては満洲の権益には目をつぶる代わりに米国は、第一次世界大戦で獲得した山東半島は返還を求めた。日本の力が強くなりすぎるのは米国にとってよろしくないのだ。

 これに対して日本は抵抗するが、当時の日本は、1907年に締結した日露協約というロシアと結んだ同盟と日英同盟という英国と結んだ同盟の二つの同盟を持っていた。しかしロシアには革命が起こりソビエトとなってしまったため協約は解消、日英同盟の延長も米国やカナダが難色を示していることから日英同盟も危ない。ここで米国の提案を拒否すれば、日本は国際的に孤立してしまう。このため日本は渋々と山東半島は返還することにした。しかしこの条約に参加した国の多くは山東半島の日本支配を肯定していたため、米国の仲介により日本と中国の二国間交渉で返還することになった。

 これらを経て日本は「ワシントン体制」という国際協調の中に組み込まれていった。但し、この九か国条約、ソビエトが入っていなかったこと、違反に対する制裁規定はなかったこと、これがのちに問題となっていくのだ。

 

 

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01_長門
(画像はwikipediaより転載)

 

ワシントン会議

 

概要

 ワシントン会議は、1921〜1922年に行われた。提唱したのは米大統領ハーディングで日本、米国、英国、仏国、中国、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダの九か国が参加した。日本側の全権代表は日本海海戦時の連合艦隊参謀長であった加藤友三郎大将である。

 第一次世界大戦(1914〜1918年)は、主に欧州での戦争ではあったのだが、実は日本も連合国軍としてちゃっかり参戦している。この機会とばかりにドイツ領であった山東半島や内南洋の島々を占領した。戦後、パリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約によってヨーロッパの秩序は出来たものの、アジア(要は中国)・太平洋は未だ問題を多く残している(要するに日本)。このため中国や太平洋の各国の権益の調整を図るためにワシントン会議が行われたのだ。結果、中国に関しては九か国条約、太平洋に関しては四か国条約、各国の膨大な軍事費を抑えるための海軍軍縮条約も締結された。

 

九か国条約

 この会議で、中国に対しては日本側が得た山東半島を中国に返還することが決定、同時に中国に対する門戸開放、領土保全、機会均等が決められた。要するに「中国の権益は一つの国が独占しちゃだめだよ」ということだ。これは九か国条約として参加国全部が批准した。これにより日本は第一次世界大戦のどさくさに紛れて取った山東半島を返還した。九か国条約の「九か国」とは、日本、英国、米国、フランス、ベルギー、イタリア、オランダ、ポルトガルである。

 

四か国条約

 さらに太平洋についても話し合われた。これは日米関係が大きな意味を持つ。当時の日米は相当険悪になっていた。日本は中国から第一次世界大戦のどさくさで南洋のドイツ権益の島々を制圧してしまった。膨張する軍事強国日本は米国には脅威だったのだ。当時日本も米国の日系移民への迫害を行っている米国に対して良い印象を持っていない。お互い緊張関係があった。

 この状態で米国が気に入らないのが、長い間続いている同盟関係である日英同盟である。この同盟には米国と日本が戦争状態になった時の参戦条項等はないものの、日本と英国という米国を挟んだ大国同士が結んでいる軍事同盟は気持ちの良いものではない。地理的にみれば、米国は日本と英国に包囲されている状態なのだ。

 何とか二次にわたって続いた同盟をぶっ潰したい米国。米国との関係悪化を心配する英国。そして日本と三者の思惑が交差した結果、日英同盟は軍事的義務や同盟的性格を削除、問題が起これば「協議する」という激ユルな内容に変更。さらに日英に加え米国も加入、何だか分からないがフランスも加入した。結果、「太平洋における領土と権益の相互尊重、非軍事基地化」というこれもまた何だか分からない内容に変更した日英同盟に米仏も加えた四か国条約を締結した。これにより20年にわたって続いた日英同盟は破棄されたのだ。

 

ワシントン海軍軍縮条約

 第一次世界大戦は何とか終了したものの、世界の軍拡競争は激しかった。世界の強国は今の我々がみれば、頭がおかしいのではないかと思うくらい軍隊、特に海軍に予算をつぎ込んでいた。当時は「海軍の力=国力」という側面もあったのだ。当然のように国家予算は圧迫していたため話し合って軍縮をしようではないかということになった。人類史上初の軍縮だったようだ。

 とりあえず莫大な金食い虫である戦艦、空母、巡洋艦という主力艦の新規の建造を禁止、さらに現有の主力艦も保有量を制限した。当初、対英米7割を主張した日本であったが、結果、対英米6割でまとまった。5大海軍国でみると米英5、日本3、仏伊1.67という割合である。さらに主力艦は今後10年間建造を禁止することとなった。これ以降、次のロンドン海軍軍縮条約が失効するまでの間は「海軍の休日(Naval holiday」といわれる。

 

 

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01_FA-MAS
(画像はFA-MASF1 wikipediaより転載)

 

 FA-MASとは、フランス軍が1977年に制式採用したブルパップ式自動小銃である。小型軽量であるにも関わらず長銃身であり、ブルパップ式の構造と相まって高い命中精度を誇るが、ブルパップ式にしたことによりサイト間の照準半径が短くなったことや機関部が射手の耳元にあることによる健康被害も多いが、40年以上にわたってフランス軍の制式小銃であり続けた。

 

FA-MAS(実銃)

 

 

性能

全長 757mm
重量 3,800g
口径 5.56mm
使用弾薬 5.56×45mmNATO弾
装弾数 25発
設計・開発 サン・テチエンヌ造兵廠

 

開発

02_FA-MAS
(画像はFA-MASG1 wikipediaより転載)

 

 FA-MASは1977年に制式採用されたフランス軍の自動小銃である。1979年から納入が開始、28万挺がフランス軍に納入された。最大の特徴はショルダーストック内部に機関部を内蔵、グリップ後方に弾倉を設定したブルパップ型であることである。上部には大型のキャリングハンドルが設置され、ステア―AUGやイギリス軍が制式採用したL85のように光学照準器は採用されておらず、メタルサイトがキャリングハンドルの上部に設置されている。

 ブルパップ形式を採用した欠点としてフロントサイト、リアサイト間の照準半径(フロントサイト、リアサイト間の距離)が短くなってしまった対策として二脚が標準装備されている。作動方式は遅延式ブローバックでガス圧によるブローバックにタイムラグをつけるためにボルトの動きを阻止するレバーが設置されている。コンパクトであるが、それまでの自動小銃と同等の銃身長を持っており、ガスポートが無いこと、反動に対するデザインが優れていること、反動を抑制しやすいブルパップ形式であること等から命中精度は高い。

 欠点としては、銃本体の命中精度は高いものの、ブルパップ特有の照準半径が短いため長距離射撃の際には照準しにくいという点が挙げられる。このため他のブルパップ小銃の場合は光学照準器が標準装備されているが、このFA-MASの場合は二脚によってその不利を補っているが、立射や二脚が使用できないような低姿勢での射撃の場合には不利である。ブルパップ式は健康被害も重要な問題で機関部が射手の耳元であるため射撃時の破裂音が鼓膜を傷める問題や銃口が射手の顔に近いため硝煙を吸い込んでしまうという問題もある。

 他にも弾薬の問題も指摘されている。FA-MASが制式採用された1977年時点ではNATO軍に制式採用された5.56mmカートリッジはM193であったが、現在ではSS109という同寸法でありながら高圧力のカートリッジが採用されている。FA-MASはM193仕様で設計されているためSS109が使用できない。対策としてフランス軍は独自に鉄製の薬莢を製作しているが、SS109は使用できずNATO軍内部での弾薬の互換性が無い事は大きな問題である。

 

バリエーション

03_FA-MAS
(画像はwikipediaより転載)

 

 F1モデルの銃身を切り詰めたアサルトカービンモデル、キャリングハンドルをマウントレールに変更、光学照準器の使用を可能にしたF1スナイパーモデルがある。ただ、キャリングハンドルを撤去してもコッキングレバーが上部に位置しているためマウントレールの取付位置は高い。他にも基本的な構造は同じであるが、トリガーガードを大型化したG1モデル、このG1モデルをSS109カートリッジ仕様、NATO軍共通規格のSTANAG規格のマガジンを使用することができる。

 

FA-MAS(トイガン)

 

概要

 1991年4月26日に東京マルイがスタンダード電動ガン第1弾として発売している。さらに1993年7月1日にはG1モデルをスーパーバージョンとして発売している。これは東京マルイ製品で初めて可変ホップアップ機能を搭載したモデルでこのモデルによって東京マルイの電動ガンの構造は確立されたと言っても過言ではない。さらに1996年9月11日には可変ホップアップを搭載したF1モデルが発売されている。

 

東京マルイ FA-MAS スタンダード電動ガン

性能

全長 760mm
重量 2,800g
装弾数 60発
初速 87m/s前後
定価 24,800円

 東京マルイ初の電動ガンであったFA-MASの最新版である。命中精度は非常に高く弾道はフラットである。発売当初は不評であったものの高性能故にフィールドからガスフルオート銃を駆逐していった名銃である。価格は東京マルイの電動ガンでは最も安い24,800円となっている。取り回しの良さや軽さも含め電動ガンの入門者にはおすすめの一挺である。

 

まとめ

 

 FA-MASは70年代後半に制式採用された自動小銃である。当時珍しいブルパップ式を採用しており、取り回しやすい上に長銃身であるため命中精度が高いというメリットがあるものの、サイト間の照準半径が短いことや弾倉の交換に手間取る等の問題点も指摘されている。フランス軍も2017年に次期制式採用小銃をドイツH&K社のHK416を採用、2027年までに更新することを発表している。しかし40年にわたってフランスの権益を守り続けてきたFA-MAS、名銃といえる。

 

 


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01_凱旋門
(画像はwikipediaより転載)

 

 今日は知っているようで知らないフランスの歴史について書いてみよう。「ルイ○○世」や「ブルボン王」「フランス革命」等の単語は知っていても、フランス国の歴史は意外と知らない人が多い。特に今回はフランス革命以降から現代までの権力の変遷について、私自身もちょっと忘れてしまっているので自分自身の備忘録も兼ねて簡単に分かり易く書いてみる。

 

<1789〜1791年>フランス革命期

 

 

02_バスティーユ襲撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 ブルボン王朝によって支配されていたフランスに、1789年フランス革命が勃発する。これ以降、フランス国王は、名目的には未だルイ16世であるが、権力は国民会議に移る。国民会議とは革命以前から存在する平民も含めた会議である。その後1791年、過激化するフランスに嫌気がさしたルイ16世がオーストリアへの逃亡を企てる。これが有名なヴァレンヌ事件だ。実は、1789年からこの時間まで、フランス国王というのは未だその権威を失っていなかった。しかし、国王がしたことにより国王の権威は失墜する。自国を見捨てる国王というのは如何なものか。。。ということだ。

 

<1791〜1804年>第一共和政

 

03_フランス国旗
(画像はwikipediaより転載)

 

 以降、国民会議が名実ともに権力を掌握する。これが第一共和政。これによってブルボン王朝は消滅する。しかしこの第一共和政の政治は派閥に分裂し混とんとした恐怖政治となる。数千人の人々が虐殺され、経済も停滞し市民には不満が高まっていた。

 

<1804〜1814年>第一帝政

 

04_ナポレオン
(画像はwikipediaより転載)

 

 この中で登場したのが有名なナポレオン・ボナパルトだ。ナポレオンはクーデターを起こし、後に自らを皇帝と称する。これがフランス第一帝政だ。ナポレオンはヨーロッパ中で戦争をするが、1813年ライプツィヒの戦いで敗北したのち1814年退位する。

 

<1814〜1830年>再びブルボン王朝(王政復古)

 

05_王政復古
(画像はwikipediaより転載)

 

 安定した王政を望むヨーロッパ諸国の干渉によりルイ18世が即位する。これによりブルボン王朝が復活する。ルイ18世はルイ16世の弟である。王位はその後弟のシャルル10世に引き継がれるが、自由主義運動に対して抑圧したことから、七月革命が起こり退位する。ここにブルボン王朝は終焉を迎える。

 

<1830〜1848年>オルレアン朝

 

06_ルイ・フィリップ
(画像はwikipediaより転載)

 

 七月革命によりシャルル10世は退位し、革命を主導したラファイエットによりルイ・フィリップが国王に選ばれる。ルイ・フィリップはブルボン家支流の王家の血筋でありながらも自由主義者として知られていた。その自由主義者のルイ・フィリップも普通選挙実現への要求に対して抑圧を図ったため二月革命が起こり退位させられる。余談だが、このオルレアン朝初期の1831年にフランス外国人部隊は創設される。

 

<1848〜1851年>第二共和政

 

07_第二共和政
(画像はwikipediaより転載)

 

 二月革命の結果、再び共和政が布かれる。しかし普通選挙を行った結果、中流市民であるブルジョア階級と労働者であるプロレタリア階級の対立が激化していく。それまでは王対市民だった対立が市民同士の階級対立となっていく。この混乱は数千人もの死者を出すことになる。その結果、市民はこの混乱を収束してくれる強力な指導者を待望するようになっていた。この市民の期待を一身に背負ったのはナポレオン・ボナパルトの甥であるナポレオン三世であった。彼は1848年の選挙で大勝し大統領に選ばれた。

 

<1851〜1870年>第二帝政

 

08_第二帝政
(画像はwikipediaより転載)

 

 大統領に選ばれたナポレオン三世は、その後、議会との対立を強め1851年クーデターを起こし皇帝に即位する。皇帝に即位したナポレオン三世は、外征の成功により世論の圧倒的支持を受ける。この支持を背景にインフラ整備等を積極的に行っていく。しかしメキシコ出兵の失敗によりケチが付き徐々に権威は失墜していく。そして1870年の普仏戦争の中でナポレオン三世はプロセイン軍の捕虜となってしまう。

 

<1870〜1940年>第三共和政

 

09_パリ・コミューン
(画像はwikipediaより転載)

 

ナポレオン三世が捕虜になったことでフランス市民は共和政への移行を望むようになる。その結果、1870年9月4日第三共和政が成立する。この体制でフランスは第一次世界大戦、第二次世界大戦に突入する。

 

<1940〜1944年>ヴィジー政権

 

10_ヴィジー政権
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年、フランスはナチスドイツに占領され、傀儡政権としてペタン元帥を首班とした政権が生まれる。これがいわゆるヴィジー政権である。1940年の日本軍による北部仏印進駐、1941年の南部仏印進駐を認めたのもこのヴィジー政権である。同時にペタン元帥に反対するド・ゴール准将はイギリスに亡命し、ロンドンに自由フランスを組織する。

 

<1946〜1958年>第四共和政

 

11_パリ解放
(画像はwikipediaより転載)

 

連合国軍の侵攻によってドイツの占領から解放されたフランスは、一時的に臨時政府を組織するが、1946年、新しい憲法草案が可決され、第四共和政がスタートする。

 

<1958〜 現在>第五共和政

 

12_ド・ゴール将軍
(画像はwikipediaより転載)

 

 大戦後、成立した第四共和政であったが、当時植民地であったアルジェリア政策に不満を持ったフランス軍アルジェリア駐留軍がド・ゴール将軍の政界復帰を要求してクーデターを起こす。1958年ド・ゴール将軍は新憲法を国民に承認させ第五共和制が始まる。以降、現在にいたるまで第五共和制は維持されている。

 

−フランス史まとめ−

 

 フランスのブルボン王朝以降の歴史について簡単に書いてみた。第三共和制までは共和制と独裁制が交互に行われている。まず独裁制のブルボン王朝が潰れ、その後第一共和政が行われる。でも数千人が死ぬ恐怖政治となってしまい、これを打破するために英雄が待望され、ナポレオンが登場する。ナポレオンが失脚した後、「やっぱり王家がいい」ということで王朝が復活する。王政復古とオルレアン朝である。

 しかし王朝になるとやはり「自由主義じゃなーい」ということで再び共和制になる。これが第二共和政だ。共和制になると大体フランスは恐怖政治になる。そうするとまた英雄が待望される。そこで登場したのがナポレオン三世。これが第二帝政と呼ばれる。独裁になると今度は共和制を望むようになる。それが第三共和政だ。第四共和政はナチスの占領まで続くが、占領後は新憲法を定め第四共和政がスタートする。さらにアルジェリア軍のクーデターにより第五共和制が始まり現在に至る。

 

独裁(ブルボン王朝)

共和制(第一)

独裁(ナポレオン)

独裁(ブルボン王朝、オルレアン王朝)

共和制(第二)

独裁(ナポレオン三世)

共和制(第三)

共和制(第四)

共和制(第五)

 

 ブルボン王朝以降、現在に至るまでの大まかな流れは以上の通り。フランス革命以降、あまり知られていないだろうフランスの現在に至るまでの政権の推移を簡単に書いてみた。ブルボン王朝以前やそれぞれの政権時の概略はいつか気分が向いたら書いてみたい。

 

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