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ハ25

01_九九式双軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式双軽爆撃機とは、1940年に制式採用された日本陸軍の双発軽爆撃機である。三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師の設計である。航続距離、爆弾搭載量こそは少なかったものの、速度、運動性能は抜群であり太平洋戦争終戦まで活躍した。双発爆撃機でありながら急降下爆撃も可能であり汎用性の高い機体であった。

 

九九式双軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 17.47m
全長 12.88m
全高 4.32m
自重 4,550kg
最大速度 505km/h(高度5,600m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 10,100m
エンジン出力 1130馬力2基
航続距離 2,400km
武装 7.92mm連装機銃1挺、7.92mm機銃2門挺
爆弾搭載量 300〜500kg
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

陸軍爆撃機が航続距離が短く爆弾搭載量が少ない理由

 日本陸軍の爆撃機は、航続距離が短く爆弾搭載量が少ない機体が多い。これは、地上部隊との協同が主な任務であったことやソビエトを仮想敵国としていたことから国境付近に展開している敵を攻撃することが主眼となっていたためであった。地上部隊との協同、国境付近の敵への攻撃には長距離を飛行する必要がなく、頻繁に往復することが可能であるため爆弾搭載量も少なくても問題無かった。むしろ敵戦闘機に対抗するために運動性能、速度が重視された結果であった。

 

開発

02_九九式双軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月末、陸軍は、旧式化した九三式双軽爆撃機に代わる軽爆撃機キ48の開発を川崎航空機に指示した。これを受けた川崎航空機は、のちに二式複戦屠龍や三式戦闘機飛燕の開発で有名になる土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。

 エンジンはハ25(1,000馬力。海軍名「栄」)を搭載。プロペラは直径2.8m3翅プロペラを採用、爆弾は全弾胴体内に収納できるよう設計されていた。爆弾倉の扉はそれまでの単純な左右に開く方式だと機体の安定が悪く、命中率が低下していた。そこでキ48では爆弾扉は二重繰り上げ方式という独自の方式を採用していた。機銃は7.7mm機銃で後上方に連装1基、前方、後下方に1挺の合計4挺が設置された(後期生産型では7.92mm機銃)。脚は引込脚を採用し、尾輪も引込式であった。

 1939年4月に設計完了、同年7月上旬には試作1号機が完成した。8月から基本審査、11月から実用審査が行われた。最大速度は480km/h(高度3,500m)、5,000mまでの上昇時間が9分、実用上昇限度は9,500m、航続距離が2,400kmという圧倒的な高性能を示した。このため審査は順調に進み、爆撃審査では苦心して開発した二重繰り上げ方式爆弾扉の効果で命中率は90%近かった。増加試作機も発注され、1940年5月11日に九九式1型双軽爆撃機として制式採用された。

 この機体設計の完成度の高さから本機は複座戦闘機キ45改のベースとなっている。キ45改の設計主務者も本機と同じ土井技師である。これに対して、米軍からの評価は、爆弾搭載量は単座爆撃機並で少なく、防御力も貧弱であるとかなり低い。事実、太平洋戦争中期以降になると陳腐化は甚だしく高性能の連合国軍戦闘機に対して損害を重ねていった。戦後は中華民国軍、人民解放軍の双方で使用されている。

 

2型甲

 1940年6月、エンジンを二速過給器付きハ115(1,130馬力。海軍名「栄21型」)に換装した性能向上型の設計を開始した。設計は1941年2月に完了したがエンジンの製作が遅延していたため試作機の完成は遅れ、1年後の1942年2月に試作1号機が完成した。最大速度は25km/h向上した他、武装も強化され、機銃の数は変わらなかったが、口径は7.7mmから7.92mm機銃に変更された。搭載爆弾もそれまでの100kg爆弾から250kg爆弾の搭載が可能となった。1943年2月、九九式2型双軽爆撃機として制式採用された。

 

2型乙

 キ66用に開発された制動板(急降下爆撃時に機体の速度を落とすための板)を装着した急降下爆撃機型で搭載爆弾も500kg爆弾の搭載が可能となった。九九式2型双軽爆撃機乙型として制式採用された。この乙型は制動板以外にも急降下爆撃用に各所に改良が加えられている。乙型をベースに後上方機銃を12.7mm機関砲に改修、機首側面に7.92mm機銃が追加された2型丙も製作されている。

 

生産数

 1型試作機は4機、増加試作機5機、量産機が557機生産されている。2型試作機は3機、2型甲は1942年4月から1944年10月まで550機が生産されている。乙型が1943年5月から1944年10月まで858機が生産されている。総生産数は1,977機である。

 

 

 

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01_一式戦闘機
02_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争中の軍用機で最も有名な機体は海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」と陸軍の一式戦闘機、通称「隼」の2機種であろう。この2機種、実は使用しているエンジンも同じであれば設計思想も同じで非常に似通った機体なのである。同時期に開発され、またほぼ同時期に改良されたこの2機種の性能を比較してみたい。

 

ゼロ戦 VS 隼 〜概要〜

 

 

 

性能(零戦21型 隼儀拭

全幅 零戦 12.00m
   隼 11.44m
全長 零戦 9.05m
   隼 8.83m
全高 零戦 3.53m
   隼 3.31m
自重 零戦 1,754kg
   隼 1,580kg
最大速度 零戦 533km/h(高度4,700m)
   隼 495km/h(高度4000m)
上昇力 零戦 5,000mまで5分55秒
   隼 5,000mまで5分30秒
上昇限度 零戦 10,008m
   隼 11,750m
エンジン出力 零戦 950馬
   隼 950馬力
航続距離 零戦 2,222km(増槽装備時 3,502km)
   隼 1,146km(増槽装備時 2,600km)
武装 零戦 20mm機機銃2挺、7.7mm機銃2挺 60kg爆弾2発
   隼 12.7mm機関砲2門 100kg爆弾2発
設計開発 零戦 三菱
   隼 中島飛行機

 

開発

03_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 海軍の傑作艦上戦闘機九六式艦戦の後継機として零式艦上戦闘機の開発が始まったのは1937年10月であった。設計主務者は九六式艦戦と同じく堀越二郎。高速化してきた先進国の航空機の進歩に合わせて速度の向上と航続距離の延長、さらには九六式艦戦並の運動性能までも要求するという不可能に近い要求であった。零戦の計画から2ヶ月後である1937年12月、陸軍も九七式戦闘機の後継機の開発がスタートした。無茶な性能要求は陸軍も同様であり、傑作戦闘機九七式戦闘機よりも40km/h以上の速度、1.6倍の航続距離、そして同等の格闘戦能力が要求された。これに対して中島飛行機は小山悌技師を設計主務者として開発をスタートする。

 試作機の完成は陸軍のキ43(のちの一式戦闘機隼)の方が早く、開発指示から1年後の1938年12月には試作1号機が完成した。これに対して十二試艦戦(のちの零戦)は3ヶ月後の1939年3月に試作1号機が完成する。どちらも戦闘機としては初の飛行時に脚が機体内に収納される引込脚、密閉型風防が採用された。エンジンは海軍が瑞星、陸軍は1939年に中島飛行機で開発されたハ25発動機(海軍名「栄」)であった。但し、零戦のエンジンは増加試作機の3号機以降は栄発動機に変更されている。

 

性能

04_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 飛行性能に関しては、キ43は機体が大型化した割には最高速度は495km/hと九七式戦闘機の470km/hより25km/h速いだけであり、航続距離は向上したものの旋回性能では九七式戦闘機に劣っていた。このため発動機をハ25の改良型であるハ105に換装した性能向上型を開発するということで採用は見送られた。

 これに対して零戦は同様に機体は大型化、旋回性能は低下したものの最高速度は533km/hと九六式艦戦を大きく上回っていた。武装は当初キ43は7.7mm機銃2挺のみであったのに対して零戦は20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺と強力であった。陸軍でも当初から12.7mm機関砲を搭載する計画はあったが、12.7mm機関砲の信頼性が今ひとつ担保されないため7.7mm機銃2挺という仕様になったのであった。のちに7.7mm機銃と12.7mm機関砲装備の儀寝機△気蕕12.7mm機関砲2門装備の儀進困開発されている。照準器は零戦のOPL光学照準器に対して隼は旧式の眼鏡型照準器を採用している。

 

零戦21型と隼儀神能比較

 最高速度が零戦の533km/hに対して隼の495km/h、機体設計はどちらも軽量化を重視したため機体強度は低く、零戦、隼共に空中分解事故を起こしている。上昇力は5000mまでの上昇時間が零戦の5分55秒に対して隼が5分30秒と優っている。上昇限度も零戦の10,008mに対して隼は11,750mと隼の方が上である。しかし、それ以外の性能では航続距離が零戦の2,222kmに対して隼の1146kmと半分程度で武装も零戦の20mm機銃2挺と7.7mm機銃2挺に対して、隼は儀進困任12.7mm機関砲2門と貧弱である。さらに照準器は零戦の光学式照準器に比べ、隼の眼鏡型照準器は照準する際に視界が狭くなり不利である。

 

陸海軍戦闘機性能コンテスト

 1941年1月、恒例の陸海軍戦闘機性能コンテストが開催された。これは陸海軍が会し陸海軍の戦闘機の性能比較をするというもので、1941年は海軍が零戦11型、陸軍が一式戦闘機隼儀燭鮖臆辰気擦拭この結果、カタログスペックでは、速度や航続距離は零戦、旋回性能、上昇力では一式戦闘機が優っている筈なのだが、上昇力を含め、すべての点において零戦の性能が優っていたという。これは海軍と陸軍の性能測定環境の違いであり、陸軍は海軍よりも有利な状況で測定した結果であったとみられている。

 

制式採用

05_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、日本は泥沼の日中戦争に突入しており、海軍は九六式陸上攻撃機によって重慶爆撃を行っていたが、九六式艦戦の航続距離では九六陸攻の護衛をすることは出来ず、損害が増していた。これに対して海軍は長大な航続距離を持つ零戦で九六陸攻を護衛するために制式採用される前に零戦を実戦に送り込んだ。制式採用は1941年7月である。これに対して隼は前述の通り陸軍ではあまり評価されておらず、中島飛行機も制式採用を諦めていたが、シンガポール攻略の可能性が検討され始めた結果、陸軍戦闘機の中では航続距離が長い一式戦闘機隼が制式採用されることとなった。零戦の制式採用から1年後のことであった。

 このような経緯から、太平洋戦争開戦時には零戦は南雲機動部隊、第三航空隊、台南航空隊等の第一線部隊にはほぼ配備されていたのに対して、隼が配備されていたのは飛行第59戦隊と第64戦隊の2個飛行戦隊のみであった。以降、零戦、隼共に陸海軍の主力戦闘機として量産されていくが、陸軍が1942年3月に隼の存在を愛称「隼」と共に公表したのに対して、海軍は1943年に至るまで零戦の存在を秘匿し続けた。このため当時日本国内では、零戦よりも隼の方が圧倒的に有名であった。

 

改良型の比較

06_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

隼況燭販軅32・22型

 太平洋戦争中盤になるとどちらの機体も旧式化が顕著となり、零戦、隼共にバージョンアップが行われた。隼が儀燭ら況拭↓祁燭伐良されていく。隼況燭亮腓焚良点はエンジンをハ115(海軍名栄21型)、プロペラを2翅から3翅に変更、主翼翼端を30cm短縮し、隼の弱点である機体強度を改良している。この結果、最高速度は515km/hとなったものの、重量の増加から翼面荷重が124kg/平方メートルとなり水平面の旋回性能が低下、上昇力も儀燭5,000mまで5分30秒から5分49秒、上昇限度も11,750mから11,215mと低下している。試作機は1942年2月に完成、1943年1月頃から実戦配備された。

 この隼況燭試作されるおよそ半年前の1941年7月、零戦32型が初飛行をした。この32型は隼況燭汎瑛佑縫┘鵐献鵑魃21型(陸軍名ハ115)に変更、主翼翼端を50cm短縮している。この改良により航続距離は大幅に減少したものの最高速度は545km/hに向上、上昇力も向上しているが、隼況深舁磴鮹蚕未靴燭燭疇瑛与緤震未寮回性能は低下している。この32型は1942年6月あたりから実戦配備されている。さらに1942年秋には主翼を21型と同様の長さに戻し、燃料タンクを増設した22型が完成。最高速度は541km/hと若干低下したものの、航続距離は歴代零戦中最長となった。隼況親瑛諭1943年1月に実戦配備されている。

 隼況燭販軅32型・22型の比較でも、最高速度が隼況燭515km/hに対して零戦22型でも541km/hと圧倒しており、やはり零戦に軍配が上がるようだ

 

隼祁燭販軅52型

 1943年末、陸軍は中島飛行機に対して隼祁燭寮澤廚鯑蘯─1944年3月に正式に製作命令がでた。主な改良点はエンジンを水メタノール噴射式のハ115競┘鵐献鵑法排気管を推進式単排気管に変更、操縦席前後に厚さ13mmの防弾鋼板が設置されたことである。試作機は1944年12月に初飛行、最高速度は568km/h、航続距離も2,100km、上昇力も5,000mまで5分19秒、上昇限度も11,400mと隼史上最高の数値が出た。量産機になると性能が低下したものの550km/hとそれまでの隼に比べると30km/h以上の高速を発揮している。

 零戦52型は、1943年8月に制式採用された零戦22型の改良型で主翼翼端を再び50cm短縮、32型のように角型ではなく、丸型に成形された。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管は推進式単排気管に変更している。この結果、最高速度は565km/hと零戦中最高速度を記録、最も遅い零戦52型丙でも540km/hを発揮している。上昇限度は11,740mで上昇力は6,000mまで7分1秒、航続距離は1,550kmであった。

 試作機の完成した時期が零戦の1943年夏に対して、隼祁燭1944年12月初飛行は1年半近くの開きがあり、単純な比較は無理があるかもしれないが、この頃になると流石に零戦も改良の限界を迎えたようである。上昇限度以外の性能は、おおむね隼祁燭寮能が零戦を上回っている。この隼祁燭砲覆辰独擦禄蕕瓩椴軅錣鯆兇┐燭箸い┐襦

 

そもそもだねぇ。。。

 

 しかしここで忘れてはならないのは海軍が制空戦闘機をここまで零戦一本で戦ったのに対して、陸軍は1943年には三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風が制式採用、実戦に投入されていることだ。三式戦闘機は1941年12月に試作1号機が初飛行、最高速度が591km/hという高い性能を発揮した。1942年12月には飛行第68戦隊に配備が始まり1943年3月に完了、同年ラバウルに進出している。

 四式戦闘機疾風は1943年3月に完成、4月に初飛行、1944年8月には実戦に投入されている。最高速度は655km/h、上昇力は5,000mまで5分弱、航続距離は2,500kmと圧倒的である。隼対零戦という視点だけでみれば零戦がほぼ圧倒しているものの、陸海軍の戦闘機という視点で見た場合、零戦32型が登場した時点ですでに陸軍は三式戦闘機を完成させており、最高速度だけでも零戦32型の545km/hに対して三式戦闘機の591km/hは圧倒的である。さらに零戦52型に対して四式戦闘機の655km/hとはすでに比較にすらならない。海軍も末期には紫電改を開発するものの生産数は400機程度と圧倒的に少ない。海軍は零戦の高性能に頼り過ぎてしまったようだ。

 

 


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