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ネ20

01_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特別攻撃機 桜花とは、太平洋戦争後期に開発された特別攻撃機である。搭乗員1名が乗機、火薬ロケットにより最高速度648km/hを発揮、機首に搭載された1,200kg爆弾により機体もろとも敵艦を撃沈することを目的としている攻撃機である。無論搭乗員が生還する可能性は全くない。

 

特別攻撃機 桜花 〜概要〜

 

性能

全幅 5m
全長 6m
全高 1m
自重 2,140kg
最大速度 648.2km/h(高度4,000m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 800kg3基
航続距離 37km
弾頭重量 1,200kg
設計・開発 三木忠直 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

 1944年、405空に在籍した太田正一特務少尉は、ロケット推進式の小型有人滑空爆弾を一式陸攻の胴体に懸架して、それを空中から発射、敵艦を撃沈するという意見を海軍航空技術廠(空技廠)に提出したのが始まりである。搭乗員必死である上、母機が投下点に到着する以前に撃墜されてしまう危険性が高いため反対意見も多かったが、太田少尉の並々ならぬ熱意により計画が開始される。発案者の名前をとりマルダイ部品という名目で秘密裏に50機が空技廠に発注された。

 

開発

02_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 空技廠では、実質的には三木忠直少佐が主務者として開発を開始。設計は1944年8月16日から開始。最大でマッハ0.85に達する高速に耐えらえれる機体の設計。火薬ロケットの使用。高翼面荷重機であることや胴体下面懸架式親子飛行機という初めての形式であるなど、新しいことが多かった。このため入念な設計と実験が行われており、決して粗雑に製作された機体ではなかった。

 1944年9月初旬、試作1号機が完成する。エンジンは推力800kgの四式1号20型火薬ロケットで胴体後部に3基搭載された。計算上の最高速度は648.2km/h、航続距離は高度3,500mで発射した場合、約37kmであった。機首には、1,200kg徹甲爆弾が装備された。ロケットエンジンのため高温となる尾部を除き、胴体や主翼、尾翼は全木製であった。全木製としたのは、材料不足という理由はあったものの、レーダーや電波信管に対するステルス化という目的もあった。

 同年10月23日、初飛行はダミー機の投下実験という形で行われた。このダミー機は、ロケットエンジン、操縦者、爆弾、装備品の代わりに固定バラストを搭載して実機と同じ重量配分とした機体であった。実験は成功であり、これにより懸架式親子飛行機という一つのハードルは超えることができた。

 最も大切なのは機体そのものの操縦性や安定性の確認であったが、これはどうしても搭乗員が登場して飛行することが必要であった。最大の問題は高速の本機をどうやって着陸させるかということであったが、機体にバラストとして水を搭載、実験を終えた段階で水を放出して軽量化、揚力を大きくした状態で着陸するという方法に落ち着いた。それでも着陸速度は殺人機と呼ばれた雷電並みであった。この実験機は、軽量化のために主翼は鋼製、尾翼は軽合金とされた。

 搭乗員の操縦による飛行実験は、10月31日に行われた。結果は予想以上に安定性は良く、軽快さは戦闘機並みで着陸も容易であった。11月6日、火薬ロケットを使用した飛行実験が行われたが、この実験でも安定性も操縦性も良好であった。11月20日には爆弾の起爆実験が行われた。この実験以後、「マルダイ」は桜花11型と呼ばれるようになる。さらに1945年2月には機体の強度実験が行われた。この実験の結果、実用には十分であることが確認されたため生産が開始された。

 

仮称桜花練習用滑空機(桜花K-1)

 桜花搭乗員訓練用に作られた滑空機で外形は11型とほとんど変わらないが、ロケットエンジン部分が流線形に整形されており、機内には水バラストタンクが設置されていた。

 

22型

03_桜花22型
(画像は桜花22型 wikipediaより転載)

 

 エンジンをツ11エンジンジェット、さらに緊急加速用として11型で使用されている四式1号20型ロケットをさらに1基、胴体下に搭載、爆弾は600kgで機体は小型化された。兵装はレーダー波を探知する逆探や防弾鋼板も装備される予定であった。最高速度は426km/hに低下する代わりに129.65kmの自力飛行が可能であった。

 1945年2月15日前後に設計が開始され、1ヶ月程度で設計が完了した。4月頃には試作1号機が完成、6月には実験が開始されたが、7月には母機が地上滑走中に試作1号機が母機から転落するという事故を始めとしてトラブルが多発した。空中投下実験は8月12日で母機から離脱しようとした瞬間、突然緊急加速用ロケットが噴射し墜落した。テストパイロットの長野一敏飛曹長は殉職。その後、終戦となった。

 

33型

 33型は、橘花にも搭載されたターボジェットエンジン、ネ20を装備した型で22型のツ11エンジンの2.35倍のパワーが予定されていた。33型は当時開発が進んでいた十八試陸攻連山を母機とする機体で、主翼は木製であるが、それ以外は全軽金属製であった。設計が開始されたが、43型を優先的に開発するという海軍の方針のため設計は中止、そのまま終戦となった。

 

43型

04_桜花43型
(画像は桜花K-2 wikipediaより転載)

 

 43型は、カタパルト射出用の桜花で甲乙2種類が存在する。甲型が潜水艦からのカタパルト射出用、乙型は陸上基地からのカタパルト射出用であった。エンジンにネ20を採用、全軽合金製であった。乙型には訓練用の桜花K-2と呼ばれる複座桜花があり、1945年8月上旬に2機が完成している。風防は涙滴型で前後それぞれが涙滴形となっている。

 

その他バリエーション

 21型は陸爆銀河に搭載できるように軽量化された機体で、爆弾を600kgに変更した型であった。他にも飛行機曳航型の53型等が計画されていた。

 

生産数

 11型が155機、桜花K-1が45機生産されている。アメリカ、イギリス、日本、インドに合計14機が現存している。

 

戦歴

 初めての桜花部隊は1944年10月1日に神ノ池基地で開隊した721空である。当時の海軍の航空隊の編成は、航空機で編成された飛行隊が整備を始めとした後方支援機能を持った航空隊の下に組み込まれ航空隊司令の指揮下で作戦行動するというものであった。つまり飛行隊というユニットが航空隊という器に入ると考えると分かりやすい。

 飛行隊は作戦や状況によって別の航空隊に組み込まれたりすることもある。これは空地分離方式と呼ばれ、1944年7月10日から採用されている。721空は戦闘機と攻撃機の混成部隊で戦闘機隊は戦闘306飛行隊(定数24機のち48機)、攻撃機は攻撃711飛行隊(定数48機)が配属されており、桜花隊はどの飛行隊にも所属しない721空直属部隊である。

 訓練が開始されたのは11月中旬で当初はフィリピン戦に投入される予定であったが、投入予定の桜花50機は空母信濃で輸送中に母艦が雷撃により沈没、桜花も海底に沈んでしまったために投入は見送られた。1945年2月15日、721空は第5航空艦隊に編成替えとなると同時に戦闘305飛行隊、戦闘307飛行隊、攻撃708飛行隊が編入された。これにより定数は戦闘機192機、攻撃機96機に増強された。因みに定数とは保有することができる最大数であるので実際に配備されている機数は定数を下回る場合がほとんどである。

 桜花の初陣は1945年3月21日で、午前11時35分、15機の桜花を搭載した18機の一式陸攻が攻撃708飛行隊長野中五郎少佐直率の下出撃、零戦隊約30機の直掩を受けたものの、米機動部隊の戦闘機約50機の攻撃を受け目標に到達する前に一式陸攻は全滅、護衛の零戦隊も分隊長二人を含む7機を失うという損害を出した。4月1日には陸攻6機に桜花3機を搭載して出撃、桜花3機、陸攻2機を失った。

 4月12日には陸攻8機に桜花8機を搭載して出撃、桜花8機、陸攻5機を失っている。この攻撃で土肥三郎中尉機が米駆逐艦マナート・L・エーブルに命中、轟沈した他、駆逐艦スタンリーにも2機が命中し同艦は大破した他、桜花の至近弾を受けた掃海駆逐艦ジェファーズも大破している。

 4月14日には桜花7機、陸攻7機が出撃、全機未帰還となった。2日後の16日にも桜花6機、陸攻 6機が出撃、桜花5機、陸攻4機が未帰還となった。28日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花1機が未帰還となった。5月4日には桜花7機、陸攻7機が出撃、駆逐艦シェーに命中、シェーが大破した他、「至近弾」2機により掃海艇、上陸支援艇が大破している。この攻撃での未帰還は桜花6機、陸攻5機である。さらに11日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花3機、陸攻3機が未帰還となった。25日には桜花12機、陸攻12機が出撃、各3機が未帰還となっている。

 以降、一ヶ月近く出撃はなかったが、6月22日には桜花6機、陸攻6機が出撃、各4機が未帰還となった。これが最後の出撃で桜花の出撃は合計10回、未帰還となった桜花は55機、陸攻51機で搭乗員の戦死者は桜花隊55名、陸攻隊365名であった。桜花を搭載し重鈍となった一式陸攻の多くは射点到着前に撃墜されたが、一旦発射した桜花はレーダーで追尾することは困難であり、一撃で駆逐艦を大破させる威力があった。

 

まとめ

 

 日本陸海軍の航空機は戦争後半になると機体のバリエーションが多くなる傾向がある。桜花も例外ではなく数多くのバリエーションが計画された。搭乗員が必ず死亡する攻撃機のバリエーションがこれほど計画されているというのは、軍首脳部がこの特攻機にどれだけ期待していたのかが良く分かる。戦争の狂気以外の何物でもない。

 

 


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01_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特殊攻撃機橘花とは、太平洋戦争末期に日本海軍が計画、中島飛行機が開発したジェット攻撃機である。試作機1機が11分飛行したのが唯一の飛行記録である。2回目の飛行は失敗、そのまま終戦となった。海軍の期待は大きく戦闘機型等多くの派生型が計画されたが画餅となった。

 

特殊攻撃機 橘花 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.00m
全長 9.25m
全高 3.50m
自重 2,300kg
最大速度 679.7km/h(高度6,000m)(計算値)
上昇力 10,000mまで29分18秒(計算値)
上昇限度 10,600m(計算値)
エンジン出力 推力475kg(ネ20)2基
航続距離 680km(計算値)
乗員 1名
武装  -
爆装 500kg爆弾1発または
   800kg爆弾1発
設計・開発 松村健一 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

02_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

03_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 ジェットエンジン研究の先進国はドイツであったが、日本でも研究は進んでいた。1944年、無事に帰国した巌谷技術中佐がもたらした資料を参考に陸海軍官民合同研究会が開催され、ジェットエンジンは海軍、ロケットエンジンは陸軍の主導で行うことが決定された。因みに、この際に決定したジェットエンジンの陸海軍共通名称であるが、ジェットエンジンは「ネ●●●」とカタカナと三ケタの数字で呼ばれることが決定した。この「ネ」は「燃料ロケット」三ケタの数字の上一桁はメーカー番号、下二桁はエンジンの馬力相当出力である。これは1,000馬力級であれば「10」、2,000馬力級であれば「20」と表記される。あと空技廠が製作した場合にはメーカー番号は付与されない。例えば「ネ20」であれば、空技廠製の2,000馬力級ジェットエンジン、「ネ230」であれば中島製3,000馬力級ジェットエンジンという具合である。

 空技廠で開発されていた国産ジェットエンジン「ネ10」は1944年9月には全力運転に成功したが、性能は不安定であり未だ実用レベルには達しておらず、ネ10は、ネ10改、ネ12と改良されていったもののエンジンの耐久性は低いままであった。この頃から空技廠ではドイツ型ジェットエンジン「ネ20」の開発が開始されていたが、このネ20はネ10に比べて小型高性能であり、耐久性も及第点に達したため開発はネ20を中心に進められることとなりネ10の開発は打ち切られることとなった。

 

橘花開発開始

04_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年8月、中島飛行機に対してジェット機「皇国二号兵器」の開発を指示(当時は「橘花」という名称ではなかった)、中島飛行機側は設計主務者に艦上攻撃機天山や百式重爆呑龍の設計主務者である松村健一技師を充てて開発を開始した。機体はドイツ製Me262を模倣した無難な形状に決定、とにかく「飛ばす」ことを目的に開発が進められたのに合わせて海軍では生産計画が立案された。おれは10月には木型審査完了、12月には月産30機、翌1945年1月には月産60機、2月100機、3月150機という遠大な計画で、機体設計すら完了していない状態では無謀という他の無い計画であった。

 1944年12月末、正式に試製橘花計画要求書案が交付される。この要求書で双発単座の陸上攻撃機と明記された。名称に特攻機を示す「花」が使用されていることからも分かるように当初は特攻機として計画されたようであるが、計画が進むにつれて機体の安定性や操縦性等が求められるようになり、落下傘の装備も要求されていたことから、橘花は、特攻機から徐々に通常の攻撃機と性格を変化させていったものと考えられる。

 設計中、空襲の被害を避けるため設計室は栃木県佐野市に疎開、橘花の生産は何と群馬県世良田村の養蚕小屋で行われた。1945年6月25日、この養蚕小屋で試作1号機が完成した。機体は全幅10.00mと零戦よりも2mも小さいコンパクトな双発機で主翼はエンジンから先の外翼が上方に折り畳めるようになっていた。素材はジェラルミンであるが、胴体中央部の一部外板には鋼板、翼端には木を使用しており、主車輪は零戦、前輪は銀河の尾輪の流用であった。

 7月27日に地上滑走、8月7日に初飛行した。8月11日には第二回飛行が行われたが離陸に失敗、そのまま終戦となった。

 

生産数

 完成したのは試作機1機のみである。他に完成直前の2号機、ほぼ完成状態の24機があった。

 

まとめ

 

 海軍の期待が集まっていた橘花には多くの計画があった。しかし完成が1945年6月という終戦直前であったことからも分かるようにこれが当時の日本の航空技術の限界であった。ドイツではMe262が1941年に初飛行、1,430機が生産され実戦部隊も編成されていた。英国でも同時期にグロスターミーティアが実戦配備、米国も1942年にはP59が初飛行、1944年にはP80シューティングスターが初飛行している。太平洋戦争開戦前、九七式戦闘機や零戦、二式大艇等の世界水準の航空機を開発していた日本であったが、技術競争が激しくなる中で基礎技術力の低さが如実に現れた結果であったといえる。

 

 

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