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イギリス

01_スピットファイア
(画像はwikipediaより転載)

 

ポートダーウィン空襲

 

ジークは右上方に急旋回をして攻撃を回避したあとあと(ママ)降下した。私もそのあとを追って急降下を行ない、300ヤード(274.3メートル)付近から3分の2秒の連射を行なった。そのままでは攻撃を受けることが予期されていたため、右に急旋回する回避行動をとったのち、ジークの動きを見るために左に旋回した。さらにそのジークを追って急降下を続けると、5,000フィート(1,524メートル)付近で敵機から白い煙が上がり始め、相手はそのまま地上に墜落炎上した。
クリステンアレキサンダー『キラーと呼ばれた男』P215

 

オーストラリア空軍のトップエース、コールドウェル大佐

 これは1943年6月30日、日本海軍航空隊とオーストラリア空軍の戦闘に参加したオーストラリア空軍のエースパイロット、コールドウェル大佐が日本の戦闘機ジーク(零戦)を撃墜した記録である。コールドウェル大佐とは、オーストラリア空軍史上最高の敵機を撃墜したエースで総撃墜数は27.5機にもなる。1910年シドニーで生まれた。30歳の時に年齢を偽り空軍に入隊、翌年少尉に任官した。天性の才能があったようでわずか157時間の飛行時間で実戦に参加、1ヶ月半後にはドイツ空軍のBf109を撃墜して初戦果を挙げた。

 オーストラリア空軍は実力主義であったようで、実績を挙げたコールドウェル少尉はトントン拍子に出世、わずか4年で第11航空団司令に任命され、階級も中佐となる(秦P97)。英国の名機スピットファイアで編成されたこの飛行隊はポートダーウィンに展開、日本空軍と対峙することになる。

 これに対する日本空軍戦闘機隊は、主に海軍の202空で太平洋戦争開戦と同時に台南空と共に比島で航空撃滅戦を展開、南方作戦を終了した後、チモール島に展開していた部隊である。台南空以上にベテランが揃えられていた部隊で赤松貞明中尉や横山保中佐等が在籍していた部隊でもある。海軍航空隊の中でも特にベテランが多い精鋭部隊であった。6月30日の空襲時の202空の指揮官は鈴木實少佐でこれまた日中戦争以来のベテランであった。爆撃機隊は主に陸攻部隊である753空で、一時的に陸軍の戦闘機隊である飛行第59戦隊、爆撃機隊である61戦隊も参加している。

 この空戦の結果、スピットファイア隊は6機が撃墜されたものの、敵戦闘機3機、爆撃機4機を撃墜、不確実撃墜4機を報告している。6機の損失を出したものの、7機(資料によっては8機)を撃墜しているのでスピットファイア隊としては互角の戦いであったといってよい。コールドウェル大佐自身はこの空戦で零戦1機を撃墜し撃墜数は26.5機となった。

 

 

日本側から見てみると。。。

 ここで日本側からこの空戦を見てみたい。6月30日の空襲の目標は内陸に位置するブロックスクリーク基地で、ここには米軍の新鋭爆撃機B24が大量に配備されていた。航続距離3,540kmという性能を誇るB24を地上で破壊するのが作戦の目的である。しかしブロックスクリークは内陸に位置するため攻撃には非常な危険が伴う。このため戦闘機隊の指揮官鈴木實中佐は、6月30日の出撃に関しては特に熟練搭乗員を選んでいた。日本海軍の搭乗員は下士官が一番練度が高い。今回の編成は下士官と下士官からの叩き上げである准士官のみで編成され、唯一の士官である鈴木中佐が指揮官となるという特異な編成で行われた(神立P247)。

 鈴木隊長に率いられた202空零戦隊27機と754空の一式陸攻24機は一路ブロックスクリークに向かう。これに対してコールドウェル大佐率いるスピットファイア38機が激撃に上がった。ここに空戦の火ぶたが切って落とされた。この空戦は予想通りの激烈な空戦となり、百戦錬磨の指揮官である鈴木中佐ですら自分の身を守るのが精いっぱいであったようだ。空戦が終わり基地に帰還してみると出撃27機中帰還したのは25機であった。しかししばらくするともう2機も帰還。全機無事に帰還したのだった。しかも陸攻隊にも2名が機上戦死したものの撃墜された機は無かった。

 

 

撃墜された零戦は1機もない

 そう、実は冒頭のあの精緻な空戦の様子。間違いなのだ。6月30日の空戦では日本側に損害は1機もない。故にあの煙を噴きながら地上に激突した零戦というのは存在しないのだ。しかしこれはコールドウェル大佐が問題なのではない。コールドウェル大佐率いるスピットファイア隊の空戦技術が高かったことは当の鈴木中佐も認めているし、コールドウェル大佐の撃墜戦果も確認されたているものも多い。この空戦では日本側もスピットファイア13機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜したのは先ほども書いたように6機のみだ。

 よく「何十機撃墜のエース」というようなものがあるが、実際には本当に撃墜していたのかは誰にも分からない。台南空のエースパイロットである坂井三郎氏に言わせると「戦果報告というのは、まずそのほとんどが誤認」だそうだ(梅本P2)。実際、坂井氏が参加した1942年8月7日の空戦では台南空と米海軍戦闘機隊が激突した結果、台南空は撃墜40機を報告したものの実際撃墜したのは12機であった。戦果が3倍以上に膨らんでいるのだ。当時の台南空の精鋭を以てしてもこれほどの誤認戦果が出るのだ。

 そして彼我の搭乗員の練度が低下してくる上に混戦となってくる太平洋戦争後期の空戦では戦果報告と実際の戦果の差はさらに激しくなる。1943年7月17日、つまりは今回のブロックスクリーク攻撃の翌月行われたブイン基地での迎撃戦では海軍航空隊は45機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜していたのは6機、同年11月11日に行われたラバウル迎撃戦では海軍航空隊は71機の撃墜を報告しているものの実際に撃墜したのは7機のみであった(⊃P305,306)。これは報告と実数の極端な乖離があったものを抽出したのだが、それ以外の空戦をみても、平均的に戦果は3倍程度は膨らんでしまうようだ。空戦での戦果確認というのはそれほど難しいものなのだ。

 

 

コールドウェル大佐は零戦を1機も撃墜したことがない?

 コールドウェル大佐が生涯で撃墜した航空機は合計で27.5機。28.5機という資料もあるようだが、27.5機というのが正解のようだ(クリステンP327)。この中でコールドウェル大佐は7機の日本機を撃墜している。その内訳は、零戦4機、一式戦闘機1機、九七式艦攻1機、百式司偵1機で、日時を書くと1943年3月2日に零戦1機、九七式艦攻1機撃墜、5月2日に零戦2機撃墜、6月20日に一式戦闘機1機撃墜、6月30日に零戦1機撃墜、8月17日に百式司偵1機の撃墜を報告している。

 実はこの戦果の内、零戦4機撃墜は全て誤認である。6月30日については前述したが、3月2日、5月2日の空戦でも零戦隊は全機帰還しており、日本側に損害の報告はない。そして6月20日の空戦の一式戦闘機1機の撃墜であるが、これは対戦した陸軍の59戦隊に一式戦闘機1機の未帰還が報告されているのでこれが該当するとも思われるが(秦P383)、オーストラリア空軍はこの空戦で零戦5機(一式戦闘機を零戦と誤認している)の撃墜を報告しているので実際にこの一式戦闘機を撃墜したのが誰なのかは不明である。

 8月17日の百式司偵1機は、202空の田中富彦飛曹長、河原眞治上飛曹機で撃墜が確認されている。以上を総合するとコールドウェル大佐の日本軍に対する戦果は、百式司偵1機、九七式艦攻1機の合計2機、さらに一式戦闘機1機を撃墜した可能性があるというところだろう。ただ、3月2日の九七式艦攻であるが、これはオーストラリア空軍の情報将校がパイロットの証言を集めて九七式艦攻と「判断」しているだけなので、実際にはどこの部隊のどの飛行機なのかは謎である。

 

 

ともあれ。。。

 実戦は命がけである。空戦で相手の撃墜を確認している余裕はない。特に第二次世界大戦では編隊空戦が主流となり、混戦となる場合が多い。日中戦争での零戦初空戦のような最新鋭機を使った一方的な戦いにおいてでも実際の戦果が13機撃墜であるのに対して27機撃墜を報告している。故にコールドウェル大佐の撃墜数が実数と異なることによってコールドウェル大佐が「偽物」である訳ではない。彼は飛行時間も1,200時間近く、隊長としても人望を集めた優秀なパイロットであったのだ。

 「敵機を撃墜」といってもその中には人間が乗っている。敵機を撃墜するということは多くの場合、中の人間を殺戮することでもある。コールドウェル大佐は、現役時代にこれらのことに対して割り切っており、無関心を決め込んでいた。兵隊としては当然のことだ。さらにコールドウェル大佐はパラシュートで脱出した敵パイロットも射殺するという冷酷さを示した。この結果、付いたニックネームは「殺し屋」で、当初は自称もしていたニックネームであったが、晩年になると毛嫌いするようになっていく(クリステンP20)。徐々に「殺戮をした」ことに対して無関心ではいられなくなってきたのだ。

 さらに最晩年になると撃墜した搭乗員の遺族からの面会も拒否(遺族は許している)、撃墜した敵パイロットの話になると涙声になっていたという。オーストラリア空軍のトップエースコールドウェル大佐の「スコア」は実際にはもっと少ない。少なくとも零戦4機の撃墜は完全な誤認だ。英雄を求める人々にとっては残念なことであろうが、故コールドウェル大佐にとっては朗報かもしれない。自身が撃墜、すなわち殺戮したと思っていたのは間違いで、敵パイロットは死んでいなかったのだ。

 

参考文献

  1. クリステン・アレキサンダー『キラーと呼ばれた男』 津雲 2011年
  2. /前衂А愨2次大戦世界の戦闘機隊付・エース列伝』 酣燈社 1987年
  3. 神立尚紀『祖父たちの零戦』講談社 2013年
  4. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』1巻 大日本絵画 2011年
  5. ⊃前衂А愼本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1975年
  6. 秦郁彦『日本陸軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1973年

 

 

 


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01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

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01_L85
(画像はwikipediaより転載)

 

 L85(SA80)とは、1985年にイギリス軍が制式採用したブルパップ式自動小銃である。80年代に採用された小銃だけあって使用弾薬はSS109を使用する。フリーフローティングバレルをいち早く採用する等革新的な部分もあるが、欠陥や不具合が多く実戦においては死傷者も発生している。現在は改良されたA2が採用されているが、根本的な欠陥が改善されておらずA3への改修が研究されている。

 

L85(SA80)(実銃)

 

 

性能

全長 785mm
重量 4,720kg
口径 5.56mm
使用弾薬 5.56×45mmNATO弾
装弾数 30発
設計・開発 エンフィールド造兵廠

 

背景から開発まで

 第二次世界大戦でドイツ軍のアサルトライフルの洗礼を受けた英国は1945年頃よりブルパップ式で小口径のカートリッジを使用する自動小銃の開発を志向していたものの米国が7.62mm弾をNATO標準弾として採用させたため、1957年、英国も同カートリッジを使用するL1A1小銃を制式採用した。しかし1960年代後半になると第二次世界大戦、朝鮮戦争の戦訓を検討した結果、小口径のカートリッジの採用が最適という結論となり小口径ブルパップ式自動小銃の開発が開始された。

 当初は4.85mm弾の使用を想定していたものの、米国の5.56mm弾を改良したSS109がNATO標準弾となったため5.56mm弾に変更、エンフィールド造兵廠においてXL65という名称で開発が開始、1984年9月13日に制式採用に向けての合意が結ばれた。

 

開発

02_L85A2
(画像はwikipediaより転載)

 

 SA80は1985年にL85としてイギリス軍に制式採用された自動小銃で約350,000挺がイギリス軍に納入された。特徴はブルパップ式というストック内に機関部がある方式の銃でグリップ後方にマガジンがあるという独特のスタイルをしている。1980年代といえばM16自動小銃も新型のA2モデルとなっていた時代であったが驚いたことにこのL85は樹脂やアルミを使用せずにスチールプレスで製作されている。このため全長は短いものの重量は4,72kgとM16始め他のブルパップ小銃に比べても約1.5倍の重量がある。

 ベースとなったのは米国アーマライト社製のAR-18自動小銃でこの点においては日本の89式小銃と共にアーマライト社の血統を受け継いでいる小銃である。ブルパップ式は通常の小銃に比べ、左利きの射手には特に操作しにくいため諸外国のブルパップ小銃でチャージングハンドルを上部にもっていったり、排莢口が左右に変更できるようになっている等の工夫を凝らしているが、本銃に関しては一切そのような対策は行っていない。

 弾薬はNATO標準弾であるSS109を使用、弾倉はM16小銃と互換性のあるSTANAG弾倉を採用している。ブルパップ式の欠点である照準半径が短いという問題に対処するためステアーAUGと同様にスコープが標準装備されており、万が一スコープが使用不可能になった場合に備えてスコープ上部にアイアンサイトを装備している。本銃で画期的なのは現在のライフルで主流となりつつあるフリーフローティングバレルをいち早く搭載した点である。

 このフリーフローティングバレルとはバレルが機関部に直接装着されている以外にハンドガード等が銃身に接触していないバレルのことで、前方から見た場合、ハンドガードの中心にバレルが浮かんでいるような状態になる。このためハンドガード等がバレルに干渉することが無く命中精度の向上に貢献する。このバレルシステムと前制式採用小銃L1A1の重量に匹敵する本体重量で高い命中精度を発揮するはずであったが、実際には重量バランスの悪さや引き金の硬さから命中精度は悪かった。

 このL85が初めて実戦で使用されたのは1991年の湾岸戦争であったが、上記の不良が完全に解消されておらず現場では銃の不良による死傷者が発生している。この不具合の改良は1990年代中盤にはドイツのH&K社が担当、2001年10月18日には改良されたモデルがA2として制式採用された。しかしこの改良によっても不具合は完全には解決しなかったため、2016年9月に再び改修計画が発表された。この改修も前回同様にH&K社が担当、2025年以降の運用を目指している。

 

バリエーション

03_L85A2
(画像はwikipediaより転載)

 

 L85の銃身を延長して銃身下部にバイポット、ストック部にフォアグリップを装着した分隊支援火器仕様のL86、逆に銃身を極限まで短くして銃口下部にフォアグリップを装着したアサルトカービン仕様としたモデル、その他訓練用に改造された数種類のモデルが存在する。

 

L85(SA80)(トイガン)

 

概要

 1989年にLSがエアーコッキング式でモデルアップ、LSから独立したMMCがガス式でモデルアップしている。1991年にはLSがガス式で再モデルアップ、1992年にはKSKがMMCの金型を引き継いで発売している。近年ではWE-TECH、G&G、ICS社がモデルアップしている。

 

WE-TECH L85(SA80) ガスブローバック

性能

全長 795mm
重量 4,030g
装弾数 30発
初速 75m/s前後
定価 67,600円

 レシーバー、フラッシュハイダーはスチール製、アウターバレル、フロントサイト、キャリングハンドルはアルミ製で構成、通常分解は実物通りに分解が可能であり、非常にリアルで重量も実銃に近く、マガジンは同社製M4のマガジンが使用可能である。欠点としては多くのユーザーからマガジンが冷えに弱いことが指摘されている。これは海外の高圧ガスを使用sするガスガンを低圧ガスを使用する日本仕様にしたためだと考えられる。

 

G&G L85(SA80) 電動ガン

性能

全長 785mm
重量 3,250g
装弾数 450発
初速 81m/s前後
定価 72,000円

 重量は実銃に比べ2〜3割ほど軽いが機関部はスチールプレス製で主要箇所のほとんどが金属製である。ハンドガード、グリップ、チークパッドは樹脂製となっている。弾道は非常に良く、電動ブローバックであるためボルトが可動するのも面白い。しかしユーザーによって個体差がかなりあるようで新品でセミオートが作動しない等の根本的な欠陥が指摘されている。購入する際には覚悟が必要かもしれない。

 

まとめ

 

 先進的なブルパップ式自動小銃は70年代後半から80年代にかけていくつかの先進国で採用されたが、独特な構造のため問題点も多い。L85は80年代中盤に制式採用された自動小銃でありながらプレス加工を採用、重量は4.72kgと驚くような重量になっている。命中精度を追求したフリーフローティングバレルも重量バランスの悪さとトリガーの重さから命中精度の向上には貢献しておらず、各種の不具合対応に現在でも追われているのが現状である。しかし外観の無骨さや近未来的なデザインはファンの心をつかんで離さないのである。

 

 


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