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(画像はwikipediaより転載)

 

 特殊攻撃機橘花とは、太平洋戦争末期に日本海軍が計画、中島飛行機が開発したジェット攻撃機である。試作機1機が11分飛行したのが唯一の飛行記録である。2回目の飛行は失敗、そのまま終戦となった。海軍の期待は大きく戦闘機型等多くの派生型が計画されたが画餅となった。

 

特殊攻撃機 橘花 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.00m
全長 9.25m
全高 3.50m
自重 2,300kg
最大速度 679.7km/h(高度6,000m)(計算値)
上昇力 10,000mまで29分18秒(計算値)
上昇限度 10,600m(計算値)
エンジン出力 推力475kg(ネ20)2基
航続距離 680km(計算値)
乗員 1名
武装  -
爆装 500kg爆弾1発または
   800kg爆弾1発
設計・開発 松村健一 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

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(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

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(画像はwikipediaより転載)

 

 ジェットエンジン研究の先進国はドイツであったが、日本でも研究は進んでいた。1944年、無事に帰国した巌谷技術中佐がもたらした資料を参考に陸海軍官民合同研究会が開催され、ジェットエンジンは海軍、ロケットエンジンは陸軍の主導で行うことが決定された。因みに、この際に決定したジェットエンジンの陸海軍共通名称であるが、ジェットエンジンは「ネ●●●」とカタカナと三ケタの数字で呼ばれることが決定した。この「ネ」は「燃料ロケット」三ケタの数字の上一桁はメーカー番号、下二桁はエンジンの馬力相当出力である。これは1,000馬力級であれば「10」、2,000馬力級であれば「20」と表記される。あと空技廠が製作した場合にはメーカー番号は付与されない。例えば「ネ20」であれば、空技廠製の2,000馬力級ジェットエンジン、「ネ230」であれば中島製3,000馬力級ジェットエンジンという具合である。

 空技廠で開発されていた国産ジェットエンジン「ネ10」は1944年9月には全力運転に成功したが、性能は不安定であり未だ実用レベルには達しておらず、ネ10は、ネ10改、ネ12と改良されていったもののエンジンの耐久性は低いままであった。この頃から空技廠ではドイツ型ジェットエンジン「ネ20」の開発が開始されていたが、このネ20はネ10に比べて小型高性能であり、耐久性も及第点に達したため開発はネ20を中心に進められることとなりネ10の開発は打ち切られることとなった。

 

橘花開発開始

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(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年8月、中島飛行機に対してジェット機「皇国二号兵器」の開発を指示(当時は「橘花」という名称ではなかった)、中島飛行機側は設計主務者に艦上攻撃機天山や百式重爆呑龍の設計主務者である松村健一技師を充てて開発を開始した。機体はドイツ製Me262を模倣した無難な形状に決定、とにかく「飛ばす」ことを目的に開発が進められたのに合わせて海軍では生産計画が立案された。おれは10月には木型審査完了、12月には月産30機、翌1945年1月には月産60機、2月100機、3月150機という遠大な計画で、機体設計すら完了していない状態では無謀という他の無い計画であった。

 1944年12月末、正式に試製橘花計画要求書案が交付される。この要求書で双発単座の陸上攻撃機と明記された。名称に特攻機を示す「花」が使用されていることからも分かるように当初は特攻機として計画されたようであるが、計画が進むにつれて機体の安定性や操縦性等が求められるようになり、落下傘の装備も要求されていたことから、橘花は、特攻機から徐々に通常の攻撃機と性格を変化させていったものと考えられる。

 設計中、空襲の被害を避けるため設計室は栃木県佐野市に疎開、橘花の生産は何と群馬県世良田村の養蚕小屋で行われた。1945年6月25日、この養蚕小屋で試作1号機が完成した。機体は全幅10.00mと零戦よりも2mも小さいコンパクトな双発機で主翼はエンジンから先の外翼が上方に折り畳めるようになっていた。素材はジェラルミンであるが、胴体中央部の一部外板には鋼板、翼端には木を使用しており、主車輪は零戦、前輪は銀河の尾輪の流用であった。

 7月27日に地上滑走、8月7日に初飛行した。8月11日には第二回飛行が行われたが離陸に失敗、そのまま終戦となった。

 

生産数

 完成したのは試作機1機のみである。他に完成直前の2号機、ほぼ完成状態の24機があった。

 

まとめ

 

 海軍の期待が集まっていた橘花には多くの計画があった。しかし完成が1945年6月という終戦直前であったことからも分かるようにこれが当時の日本の航空技術の限界であった。ドイツではMe262が1941年に初飛行、1,430機が生産され実戦部隊も編成されていた。英国でも同時期にグロスターミーティアが実戦配備、米国も1942年にはP59が初飛行、1944年にはP80シューティングスターが初飛行している。太平洋戦争開戦前、九七式戦闘機や零戦、二式大艇等の世界水準の航空機を開発していた日本であったが、技術競争が激しくなる中で基礎技術力の低さが如実に現れた結果であったといえる。

 

 

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