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(画像はコンベアB36 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 富嶽とは、太平洋戦争後期に中島飛行機創業者中島知久平の独創によって計画された超大型戦略爆撃機である。当時、大型機の開発経験の無い日本には実現困難な計画であった。特にエンジンには5,000馬力が必要であり、このようなエンジンは当時はどこも実用化していなかった。中島飛行機の社内計画として開始、一時は陸海軍の正式の計画にまでなるが、結局実現困難として開発中止となる。

 

超重爆撃機 富嶽 〜概要〜

 

 

性能(試製富嶽最終案)

全幅 63.00m
全長 42.00m
全高 8.80m
自重 338,000kg
最大速度 780km/h(高度15,000m)
上昇力  -
上昇限度 15,000m
エンジン出力 5,000馬力(ハ54)6基
航続距離 19,400km(爆弾5,000kg搭載時)
乗員 6名
武装 20mm機関砲4門
爆装 最大20,000kgまたは魚雷20本
設計・開発  - / 中島飛行機

 

開発

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(画像は戦略爆撃機B29 wikipediaより転載)

 

 1942年11月、中島飛行機「大社長」中島知久平は、群馬県太田市に中島飛行機首脳部と幹部技術者を集めて超大型戦略爆撃機を製作するという決意を表した。これに呼応した幹部、技術者は一式戦闘機隼や四式戦闘機疾風の設計で有名な小山悌技師をまとめ役として「必勝防空研究会」を設置、超重爆の研究を開始した。この計画は「Z計画」と名付けられ、1943年1月末には基本方針が出来上がった。この「Z計画」の「Z」とは海軍の「Z旗」が由来であり、そのZ旗とは「皇国の荒廃この一戦に在り」を意味する。

 Z飛行機の基本コンセプトは、米軍機に対して、々丗概離が優越していること、爆弾搭載量が優越していること、B度が優越していることであった。要するに「無敵爆撃機」を製作しようとした訳であるが、このコンセプトからして当時の日本の技術力を超越したものであるのは言うまでもない。このため軍部からは批判の声が強かった。こんなものにリソースを割くのであれば戦闘機を製作せよという訳である。

 しかし「変人」中島知久平はこんなことではめげない。めげるような男であるならばそもそも中島飛行機などという会社は存在しなかったであろう。中島は小山悌技師を同道、陸軍に対して米本土爆撃が可能であることを力説した。この結果、軍部に理解者が現れ始め、ついには「富嶽」という名称で軍の正式な計画となった。

 

Z飛行機計画

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(画像は戦略爆撃機B29とB36 wikipediaより転載)

 

 以上のように中島飛行機が独自に研究した飛行機は「Z飛行機」と呼ばれ、軍部によって正式に認められた計画によって完成が企図された飛行機が「富嶽」と呼ばれている。つまりZ飛行機計画が正式に採用されて富嶽計画となった訳である。では、このZ飛行機とはどんな飛行機であったのだろうか。

 Z飛行機には複数の案があったが、最終案として残ったものは全幅65m、全長45m、全高12m、重量が自重67.3トン、最大爆弾搭載量50,000kg、最大速度は高度7,000mで680km/h、実用上昇限度12,480m、航続距離は16,000kmというとんでもない化け物飛行機であった。エンジンは6発で搭載が予定されていたのはハ44(2,450馬力)2基をタンデムに連結したハ54エンジン(5,000馬力)であった。

 このようにZ飛行機は空前の超大型機であったが、中島知久平が考案した使用法もまた壮大なものであった。まずZ飛行機には1,000kg爆弾20発を搭載するZ爆撃機、20mm機関砲96門を装備したZ掃討機、7.7mm機関銃400挺を装備したZ掃討機、1,000kg魚雷20本を装備するZ雷撃機、武装落下傘兵200名を搭乗させるZ輸送機があり、これらを駆使して戦っていく。

 第一段階は防衛線で、数百機の爆撃機型Z飛行機で日本本土空襲が可能な位置にある飛行場を爆砕、来襲する敵爆撃機は掃討機型が高度差を利用して上空から機関砲の雨を降らせて全て撃墜する。機動部隊に対してはまず掃討機型で対空砲火を沈黙させる。次いで爆撃機型で絨毯爆撃を行い、撃ち漏らした艦船を雷撃機型で撃沈する。この雷撃機型は1機で1隻が割り当てられており、1隻に対して搭載魚雷20本を撃ち込む。これらにより日本に来襲する敵航空機、艦隊を壊滅させる。

 第二段階では、ドイツ占領下のフランスに前進基地を設けて米本土を猛爆撃する。これでも降伏しなかった場合は、4,000機のZ爆撃機、2,000機のZ掃討機、2,000機のZ輸送機で米本土を占領するというものだ。第三段階はドイツ国内に拠点を設け、ソ連やイギリスを猛爆撃するという壮大な計画であった。もちろん実現する可能性は全くない。

 余談であるが、これを架空戦記としてシミュレーションしたのが、檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』シリーズで、元零戦搭乗員坂井三郎氏も舌を巻く程の専門知識を持つ著者が合理的に「仮に富嶽が量産された場合」をシミュレートする。

 

「試製富嶽」委員会の設置

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(画像は現代の戦略爆撃機B-52 wikipediaより転載)

 

 中島知久平の熱意により、1944年1月下旬に中島知久平を委員長として「試製富嶽委員会」が背設置されることが決定、陸軍航空技術研究所、海軍航空技術廠を始め、大学、民間企業の専門家をメンバーとした委員会は、1944年3月(4月とも)正式に発足した。

 ここで一番の問題となったのはやはりエンジンであった。Z飛行機で搭載予定であった5,000馬力級エンジンであるハ54は、その元となるハ44エンジンすら試作の段階であったため、開発は難航した。このため様々な代替案が用意されたがどれを採用しても能力が低下することは必須であった。エンジンの開発は難航していたものの、委員会員が協議の上完成させた試製富嶽最終案は以下の通りとなった。

 全幅63m、全長42m、自重338トン、最高速度15,000mで780km/h、航続距離が爆弾15,000kg搭載で16,500km、エンジンはハ54が6基、プロペラは6翅または8翅プロペラで20mm機関砲4門、与圧室装備で乗員6名であった。しかしこの遠大過ぎる計画は明らかに実現困難であったため、1944年4月には開発中止が決定、1945年4月に委員会は正式に解散した。

 

生産数

 計画のみ。

 

超重爆撃機 富嶽の関係書籍

 

檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』

 仮に富嶽が完成していたら。。。というシミュレーションである。著者は架空戦記物の草分け的な存在の檜山良昭氏。戦史や当時の技術に対する造詣の深さは元零戦搭乗員の坂井三郎氏を唸らせるほどであった。本書では、富嶽のエンジンが苦難の末に開発に成功、富嶽の量産が始まる。

 中島知久平の計画では富嶽は数百機を生産することになっているが、本書では月産10機程度しか生産できない。当時の日本の工業力を考えれば妥当な数である。日本軍は、この富嶽を以って陸海合同で戦略空軍を発足、米本土爆撃を始め、様々な作戦に活躍するが所詮20〜30機程度の富嶽では戦局を覆すことは出来ず、富嶽も1機、また1機と消耗していく。

 架空戦記というと当時の日本の技術力、工業力や時代背景を完全に無視した荒唐無稽な作品が多いが、本書は「ハ54エンジンの開発に成功した」という設定の下、日米の国力差、空襲の激化による生産数の減少等、可能な限りリアルに「富嶽」をシミュレートする。

 

まとめ

 

 富嶽は航空機好きなら誰でも知っている中島飛行機が計画した幻の超重爆撃機である。確かに中島知久平の計画通りにこの富嶽が生産されていれば戦局は大逆転したであろう。しかし、もしこの富嶽を日本が製造できる技術力と工業力があれば、日本の軍用機はもっと高性能であり戦場を席巻していたであろうから、そもそも大逆転させなければならない状況にはならなかった。

 技術的にも工業力的にも完全に不可能であった本計画であったが、陸海軍共にこの計画を取り上げて正式な委員会まで設置してしまったことに当時の日本の末期的状態が見て取れる。富嶽は富士であり、富士は日本の象徴であるが、この富嶽計画もまた当時の日本の状態を表す象徴的な計画であった。

 しかし、無理な計画、遠大な計画を目指してそれを実現させていくのが技術であり、この富嶽計画に関わった技術者達の挑戦は決して無駄ではなかった。戦後、中島飛行機はその技術力と会社規模を恐れたGHQの命令により解体されるが、数年後には分割された会社のほぼ全社が再集結して「富士重工業」を成立させる。無論、社名の「富士」は「富嶽」に由来している。富嶽は確かに当時の日本の国力を完全に無視した実現不可能な計画であった。しかし当時の中島飛行機の人々の心に夢として刻み込まれ、それは戦後も生き続けたのである。

 

 

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