01_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式陸攻は全金属製双発攻撃機でそれまでの攻撃機を超越する高性能を示した。最高速度は当時の艦上戦闘機を上回り、航続距離、運動性能全てが優秀であったが、防弾性能は皆無である。九六式陸攻は日中戦争から太平洋戦争終戦まで活躍する。

 

九六式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(11型)

全幅 25.0m
全長 16.45m
全高 3.685m
自重 4,770kg
最大速度 348km/h(高度2,000m)
上昇力  -
上昇限度 7,480m
エンジン出力 910馬力
航続距離 4,550km(過荷重状態)
武装 7.7mm旋回銃3挺
設計・開発 本庄季郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 ワシントン、ロンドン軍縮条約で対米6割とされた日本海軍は、航空機によってその劣勢を補おうとした。そこで目を付けたのが雷撃可能な陸上攻撃機であった。最初に七試大型攻撃機(のちの九五式大攻)の開発を指示、さらに中距離陸上機の開発を三菱重工に命じた。これが八試特殊偵察機(八試特偵)と呼ばれる機体でこれが改良され九六式中攻となる。

 

開発

 

八試特偵

 1933年、三菱は海軍より八試特偵の開発を指示された。九六式艦戦の時と同じように当時の航空本部長山本五十六少将の判断により細部にわたる指示はせずに性能要求は大枠のみを示し、技師に自由に腕を振るわせるという方針であった。このため三菱に提示された性能要求は「乗員3名、巡航速度222km/h以上、航続距離3,330km、自動操縦装置が装備されていること程度の簡単なものであった。

 これに対し三菱は本庄季郎技師を設計主務者として開発を開始、1934年4月18日、試作1号機が完成する。この八試特偵は、全金属製中翼単葉双発機で日本初の引込脚を装備、沈頭鋲の使用、自動操縦装置の装備等斬新なものであった。なお、試作中に計画が変更され、乗員が5名、7.7mm機銃2挺が設置されることとなった。

 1934年5月7日初飛行が行われた。当初は重量超過や重心位置や剛性不足等の問題が発生したが、テスト飛行の結果は非常に優秀であった。馬力不足から上昇力に問題があり、実用上昇限度は4,600mと今ひとつであり、巡航速度は203km/hと性能要求を下回ったものの、全体的な性能は素晴らしく、特に航続距離は4,380kmと性能要求を1,000kmも上回るものであった。操縦性能も抜群で安定性も良好、その軽快さは戦闘機並みであり、テストパイロット達から絶賛された。

 

九試中攻(九六式陸攻)

02_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年2月、八試特偵の実用機型ともいえる九試中攻の開発が指示された。設計主務者は八試特偵と同じく本庄季郎技師で1935年6月に試作1号機が完成する。機体は最新の超ジュラルミンが使用され、主翼と尾翼は八試特偵のものをほぼそのまま流用したが、胴体は完全に再設計され操縦席は正副並列式となった。

 機銃は前上方、後上方、後下方の3ヵ所に7.7mm機銃が設置され、爆弾・魚雷の懸吊、投下装置が設置された(爆弾等は機外に懸吊される)。エンジンは九一式600馬力エンジン2基が装備された。初飛行は1935年7月で最高速度は315km/hを記録、3,000mまでの上昇時間も八試特偵の16分54秒に対して9分43秒と航続距離以外の全てにおいて八試特偵を凌駕していた。一時期、座席の配置が問題となり時間を浪費したが、1936年6月には、九六式陸上攻撃機として制式採用された。

 

11型

 最初期の量産型で34機が製造された。エンジンは金星3型(790馬力)で最高速度は348km/hであった。続いて21型が生産された。これは金星41型または42型(どちらも1,075馬力)エンジンに換装された型で最大速度は376km/hに達した。乗員5名。

 

22型

 1939年4月、それまで後上方の機銃が7.7mmであったのを20mm機銃に変更、胴体側面に7.7mm機銃を各1挺新設、機銃を合計4挺とした武装強化型の22型が制式採用された。後上方銃座は涙滴形風防が採用されている。乗員は7名となった。エンジンは途中の生産機から金星45型(1,000馬力)に変更されている。

 

23型

 1941年2月、一式陸攻の生産に集中するために三菱での九六式陸攻の生産は打ち切られ、中島飛行機に生産が移行された。この中島飛行機で最終生産型の23型が生産されている。23型はエンジンを金星51型(1,300馬力)に変更、最大速度は415km/hとなった。

 

その他バリエーション

 九六式陸上輸送機は11型、21型がある。11型は乗員5名、乗客10名を乗せることができ、12型は乗員以外に落下傘兵12名を乗せることができた。その他民間型もあり、これは乗員4名と乗客8名を乗せることができる。ニッポン号と呼ばれた。

 

生産数

 試作機が21機、11型で34機、21型が343機、22型が238機、23型が412機生産されている。

 

戦歴

 最初に九六式陸攻が配備されたのは館山空で1936年早春のことであった。さらに4月1日には海軍初の陸攻専門部隊である木更津空が誕生、6月には九六式陸攻が配備された。1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると木更津空は長崎県大村基地に鹿屋空は台北に進出、8月14日には18機の九六式陸攻が中華民国軍の飛行場等を爆撃に成功している。この際、九六式陸攻の被撃墜2機、不時着1機、大破1機の損害が発生、以降、3日間に渡って中国本土の基地を攻撃したものの陸攻隊も9機を失うという損害を出している。これが有名な渡洋爆撃の最初であったが、中華民国軍の反撃は激しく、17日には木更津空、鹿屋空ともに兵力が半減してしまっている。

 これ以降、木更津空、鹿屋空で編成された第一連合航空隊(一連空)は陸戦協力や敵飛行場、交通施設等への爆撃、1938年2月には重慶への無差別爆撃も行ったものの、陸攻隊の損害も30機に達したため、3月には内地に帰還した。これと入れ替わりに同月、台湾の高雄で新しく高雄空が編成、さらに1939年10月には千歳基地で千歳空、1940年10月には美幌空、11月には元山空が開隊するなど、徐々に陸攻隊が充実していく。

 1941年になると新鋭の一式陸攻が部隊に配備されるようになり、鹿屋空、高雄空が一式陸攻に改変されていった。しかし未だ一式陸攻は全部隊に配備されるまでには至っておらず、太平洋戦争開戦時には一空、元山空、千歳空が九六式陸攻を装備していた。太平洋戦争開戦後は美幌空、元山空の陸攻隊がマレー沖海戦に参加、航行中の戦艦を撃沈するという快挙を成し遂げた。同時に比島では一空の九六式陸攻がクラーク基地に対して爆撃を行い、中部太平洋では千歳空の九六式陸攻がウェーク島攻撃を実施している。

 1942年1月には一空、元山空がラバウルへ進出、珊瑚海海戦等にも参加したものの7月には一空が内地へ帰還、兵力の補充のため、11月には701空(旧美幌空)がラバウルに進出しているが、この頃には主力は一式陸攻に代わっており、九六式陸攻は徐々に第一線から後退していったものの、終戦まで哨戒、索敵、船団護衛等に活躍した。

 

まとめ

 

 九六式陸攻は当時の戦闘機を凌ぐ高速であったため海軍内部に戦闘機不要論を引き起こす結果となった。しかしこれは防弾性能を全て犠牲にした結果であり、実際に戦闘に参加した九六式陸攻は防弾装備の欠落のため多大な損害を受けることとなる。そして防弾装備を強化されることなく終戦まで使用され続けた。

 

 

【お願い】
下記のリンクを踏んで何らかの商品を購入して頂くと私にちょっとだけお金が入ります。良い記事だと思われたら投げ銭代わりにお願いします。


ミリタリーランキング