
(画像はwikipediaより転載)
P-38ライトニング
性能
全幅 15.85m
全長 11.53m
全高 3.00m
自重 5,800kg
最大速度 667km/h(高度7,620m)
上昇力 1,448m / 分
上昇限度 13,400m
エンジン出力 1,475馬力(アリソンV-1710-111/113液冷エンジン)
航続距離 1,770km
翼面荷重 261kg / 立方メートル
乗員 1名
武装 20mm機関砲1門(弾数150発)、12.7mm機銃4挺(弾数各500発)
爆装 2,000ポンド(908kg)爆弾2発または
500ポンド(227kg)爆弾4発または
ロケットランチャー4基、5連装HVAR2基
設計・開発 クラレンス・レオナルド・ジョンソン / ロッキード社
開発
1937年2月、米陸軍はドイツや日本の戦闘機に対抗できるような高速戦闘機の開発を各航空メーカーに命じた。これに対してベル・エアクラフト社はB-4(のちのP-39)、当時、旅客機専門メーカーであったロッキード社はモデル22を設計した。これがのちのXP-38である。
この機体は高速を発揮するために双発、さらには双胴で双胴の中央に胴体がまた一つ入る三胴という特殊な形態をしていた。パイロットは中央の胴体前部に搭乗、左右の胴体は後方で昇降舵で繋がっていた。垂直尾翼は2枚である。エンジンは1,150馬力液冷式V型12気筒アリソンV-1710-29/17エンジンでトルクを打ち消すために左右反転するように設計されており、さらに高高度での戦闘用に排気タービン過給器を装備していた。
形態上、プロペラに邪魔されることなく、コックピット前方に武装を集中できるため武装は強力で、25mm(23mm)機関砲1門、12.7mm機関銃4挺が搭載予定であった。設計はわずか1年半で完成、1939年1月27日に初飛行に成功した。細部に問題はあったものの性能は素晴らしく、米陸軍が要求した最高速度640km/hを35km/h上回る675km/hを達成した。これに満足した陸軍は同年9月にP-38として制式採用した。この際に武装は37mm機関砲1門、12.7mm機関銃4挺に変更されている。
類稀なる高性能機
対ドイツ戦では爆撃機の護衛や戦闘爆撃機として使用され、双胴の悪魔と呼ばれていた。対日本戦でも初期の段階から投入され、外観的な特徴から「メザシ」または「ペロ八」等というあだ名が付けられていた。「ペロ八」というのは「ペロ(ペロ)っと食べられる(撃墜できる)P38(八)」という意味である。
P-38は翼面荷重が261kg/立方メートルと重く、零戦の108kg/立方メートルの2.5倍であった。このため格闘戦に持ち込まれると弱く、日本のパイロットに簡単に撃墜されてしまった。このためペロ八と呼ばれていたのだが、これはP-38が太平洋戦域に投入された初期の話で中期以降は格闘戦を避け、一撃離脱戦法に変えたため日本軍にとって脅威となった。
このP38はもっとも多くの日本機を撃墜したと言われており、事実、米軍のトップエースであるリチャード・ボング少佐(40機撃墜)、二位のマクガイア少佐(38機撃墜)等はどちらもP-38を使用している。航続距離も長大であり、この航続距離を生かして山本五十六連合艦隊司令長官の乗機を撃墜したこともあった。
このように高性能機であったため、英空軍からも購入希望があったが、軍事機密である排気タービン過給器を取り外し、プロペラも左右同方向に回転するというかなり性能を落としたモンキーモデルを渡したため、結局、受取りを拒否されている。
実戦での運用
1942年5月29日のアリューシャン列島で初めて運用が開始。初戦果は同年8月9日の九七式大艇の撃墜である。しかし以降P-38は太平洋戦域よりもヨーロッパ戦線に優先的に配備されており、1942年8月からヨーロッパ戦線に配備されたのに対して、本機が太平洋戦域に配備されたのは同年末であった。
戦闘機としても高性能であったが、偵察機、夜間戦闘機としても優秀であり、ヨーロッパでの航空写真の90%がP-38写真偵察機型によるものである。
実戦でのP-38は当初はエンジントラブルや急降下での振動等の問題が起こったが、エンジンの改良、プロペラの回転方向を外向きに変更することで徐々に信頼性の高い機体となっていった。第二次世界大戦のほぼ全期間で活躍、総生産数は10,037機である。
米国参戦前の1941年9月から生産が始まり、終戦の年である1945年まで生産され続けた稀有な機体である。米陸軍では1949年で全機退役、イタリア空軍、ホンジュラス、ドミニカ共和国、中国等で運用された。最後まで運用していたのはホンジュラス空軍で1965年に最後のP-38が退役している。
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