01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

略歴

 1921年長崎県出身。海兵団に入団後、整備兵から航空兵となる。1940年11月丙飛2期として採用、1941年11月飛練12期を卒業後千歳空隊員として太平洋戦争開戦を迎える。1942年8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に参加。12月201空に復帰してマーシャル群島防空任務に就く。1943年春に内地へ帰還の後、7月再びブインに進出、ソロモン航空戦に参加した。12月331空に転じてサバンに転進し、1944年3月202空、ついで221空に異動、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。

 

中谷飛曹長と丙飛2期

 

 中谷芳市飛曹長は丙飛2期出身で「搭乗員の墓場」と言われたソロモン航空戦に二度にわたり派遣されている。この丙飛2期というクラスは、開戦直前に訓練を終えたクラスで比較的余裕のあった日中戦争の空戦を経ることなしにいきなり精強な連合軍と戦うことになったクラスである。特にソロモン・ラバウル方面に派遣された隊員の戦死が非常に多く、開戦1年目の1942年には丙飛2期戦闘機専修者65名中17名の隊員が戦死しており、そのほとんどが同方面であった(ポートダーウィンで1名戦死、不明が3名以外14名は全て同方面)。

 開戦1年目というと戦争全般としてみれば米軍は守勢にまわって日本側が攻勢をかけることも多かったという戦争中期以降に比べると比較的余裕のあった時期であった。それもで26%の同期が戦死してしまったことからも新人搭乗員を取り巻く環境がどれだけ厳しかったのかが分かるだろう。さらにより戦闘が熾烈になる1943年に入るとさらに丙飛2期の戦死は多くなり、この一年間で23名の同期が戦死している。割合にすると35%で、この2年間で同期の内62%が戦死している。

 この熾烈な状況の中で2度にわたるラバウル派遣を生き残った中谷飛曹長は、1943年12月スマトラ島サバン基地に展開している331空に配属された。この部隊は開戦当初台南空で有名を馳せた新郷英城少佐が飛行隊長を務める部隊で他にも奇行で有名なベテラン赤松貞明少尉、操練出身の谷口正夫岡野博等がいた。331空に配属された中谷飛曹長はビルマに進出、陸軍航空隊と共同でカルカッタ攻撃に参加した。

 1944年3月には331空は、戦闘603飛行隊に改編されたのち202空に編入され、手薄になった内南洋防衛のためにメレヨン島に進出した。その後221空に配属となり内地に帰還した。以降筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。総撃墜数は16機ともいわれるが実数は不明である。

 

 

まとめ

 

 中谷飛曹長は太平洋戦争を生き残った。同じく生き残った丙飛2期の同期は65名中わずか15名となっていた。この中にはソロモン航空戦で重傷を負った渡辺秀夫飛曹長、23機撃墜を表彰された伊藤 清飛曹長、宮崎 勇少尉等がいる。

 

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