01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 ゼロファイターゴッドと呼ばれた熟練搭乗員である。日中戦争から太平洋戦争終戦まで戦い抜いた。日中戦争では零戦初戦果の空戦に参加するという貴重な経験をしている。数々の空戦に参加するも被弾ゼロという記録を持ち終戦を迎えた。母艦戦闘機隊に所属していることが多く、母艦戦闘機隊のエースであるといっていい。

 

岩井勉中尉の経歴

 

略歴

 1919年京都府生まれ。1938年8月乙6期予科練の飛練課程修了。佐伯空、大分空に異動する。1939年2月大村空配属。5月鈴鹿空配属。1940年1月12空配属。9月13日の零戦初空戦に参加した。11月本土へ帰還。筑波空、佐伯空配属。1942年2月大村空で教員配置。9月結婚する。11月空母瑞鳳乗組。1943年1月ラバウル進出。4月には「い」号作戦に参加した。作戦終了後内地帰還。訓練に明け暮れる。7月瑞鳳戦闘機隊として再度南方進出。1944年1月二代目台南空に配属。8月再建中の601空配属。レイテ沖海戦に参加する。11月内地に帰還、1945年4月末百里原に移動し、終戦を鈴鹿基地で迎えた。戦後は1年間兵器処理委員会に所属。経理を学び以後は経理の道を歩む。2004年4月17日死去。享年84歳。

 

瑞鳳戦闘機隊に配属

 岩井勉中尉は戦後まで生き残った数名の零戦初空戦の搭乗員の一人である。他には進藤三郎少佐、三上一禧氏がいるのみである。日中戦争で実戦経験を踏んだ上で太平洋戦争に臨んだ熟練搭乗員である。開戦時は内地で教員配置についていたが、1942年11月。空母瑞鳳乗組を命ぜられる。以降、岩井中尉は終始母艦戦闘機隊員として活躍することとなる。この時、飛行長より「今度の戦いは日華事変当時とは全然様相が変わっているから、功をあせらず、一回目は見学せよ。」という訓示を受けた。岩井氏は、この言葉によって今日まで生き残って来られたという。

 岩井中尉が配属された空母瑞鳳は改造空母であり、正規空母に比べて飛行甲板が小さかった。故に岩井中尉のような熟練搭乗員が選抜されたのだろう。空母瑞鳳は空母翔鶴瑞鶴と共に第一航空戦隊を編成、1943年1月にラバウルに進出する。「い」号作戦参加の後、4月には内地に帰還。7月、再度南方に進出し激戦を戦った。

 

台南空・601空に配属

 1944年、台湾の二代目台南空で教員配置に付く。この時に、亀井勉中尉のあまりの技量の高さから訓練生達から「ゼロファイターゴッド(零戦の神様)」と呼ばれたという。因みにこの部隊の先任下士官は撃墜マークで有名な谷水竹雄上飛曹である。

 その後、母艦戦闘機隊である601空配属。レイテ沖海戦に参加、特攻隊にも編入されたりしたが無事終戦を迎えた。総撃墜数はエース列伝では11機、『零戦の20世紀』では22機となっている。

 

岩井勉中尉関係書籍

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 岩井氏の自著。日中戦争から太平洋戦争終戦までが描かれている。空戦の話以外にも翼に神様が乗っている等の興味深い話もある。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏による零戦搭乗員のインタビュー集。岩井勉中尉へのインタビューもある。戦後の話等、自著とはまた違った話もあり面白い。

 

 

まとめ

 

 岩井中尉は日中戦争以来の熟練者で太平洋戦争では母艦戦闘機隊員として活躍した。総撃墜数は22機と言われるが、特筆すべきはその間に1発も被弾しなかったことだ。恐らく陸海軍航空隊の中でもこれだけの戦果を挙げた搭乗員で被弾ゼロは皆無であろう。熟練者中の熟練者であった。

 

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