01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 この大原亮治氏は丙飛4期出身。丙飛4期とは太平洋戦争開戦後に卒業したクラスだ。つまり卒業後、いきなり練度の高い米軍航空隊と戦わなければならないという非常に厳しい状況に置かれていた。ただ、この丙飛4期はまだ初戦期であったせいか後半に比べればまともな訓練を受けていたようだ。この丙飛4期には他にも70機を撃墜したといわれる杉田庄一氏がいる。

 

大原亮治の経歴

 

概要

 1921年2月25日宮城県生まれ。1940年6月一般航空兵として横須賀海兵団に入団。1941年2月丙種予科練を受験し合格する。1941年5月、丙飛4期として土浦空に入隊。1942年7月21期飛練卒業。大分空で戦闘機専修延長教育。卒業と同時に6空へ配属される。10月7日204空本隊としてラバウル進出。10月12日初出撃をする。10月13日ブイン飛行場に進出。10月19日初空戦を体験する。1943年10月内地に帰還。11月横空に勤務し終戦を迎える。終戦時海軍兵曹長。戦後は米軍キャンプで働くが、1953年海上警備隊入隊。第一回操縦講習員となり修了後教官となる。1971年三等海佐で退官する。退官後は航空振興財団に勤務する。2018年11月2日死去。

 

予科練修了、そのままラバウルへ

 大原氏は、1921年宮城県生まれ、1940年6月海軍に入隊。1941年2月丙種予科練4期生として土浦航空隊に入隊した。1942年7月21期飛練課程を修了し、さらに戦闘機操縦者として大分航空隊に配属。その後いきなり第六航空隊に配属された。第六航空隊とは後の204空のことでのちにラバウル航空戦の中核となる部隊である。

 1942年10月に激戦地のラバウル、それも悪いことに最前線のブーゲンビル島ブイン基地に六空は進出する。10月19日、大原は初空戦を体験する。大原は空戦に入る前に増槽を落とすのを忘れてしまう。その後、数々の戦闘をくぐり抜けて大原氏は204空の中核として成長しながら激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。1943年10月内地に移動になった頃には当初の六空搭乗員は大原氏、大正谷宗市氏、坂野隆雄氏の3名しかいなかったという。

 

 

ラバウルから生還。横須賀航空隊勤務

 1943年11月、204空生存者3名は、ともに海軍航空隊の殿堂、横須賀航空隊に配属される。1年に亘り激戦地のラバウルで生き抜いてきた彼らには当然海軍の殿堂に所属する権利はあるということだ。その後終戦まで横須賀航空隊所属となる。

 これが大原氏の経歴であるが、大原氏の経歴で面白いのは転属が一回しかなかったことだ。海軍は転属が多い。例えば岩本徹三氏は12空、瑞鶴戦闘機隊、281空、201空、204空、253空、252空、203空と転属し、その間に教員配置もこなしている。これをみれば大原氏の転属一回というのが特異なのが分るというものであろう。

 

大原亮治関係書籍

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 神立尚紀氏に戦中派エースとして取材された記事が載っている。戦中戦後まで幅広くインタビューに答えている。大原の前向きな性格が良く分かる。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 上掲『零戦の20世紀』とほぼ同じ内容。大原以外には生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男、岩井勉、小町定、渡辺秀夫、岩下邦雄、笠井智一等へのインタビューがある。ほとんどの方は他界されているのでこのインタビューは貴重。

 

零戦、かく戦えり! 搭乗員たちの証言集

零戦搭乗員会 編
文藝春秋 (2016/12/1)

 大原はソロモン航空戦についてと先輩搭乗員羽切松雄氏についての思い出を寄稿している。

 

まとめ

 

 大原亮治氏は太平洋戦争開戦後に実戦に参加した戦中派パイロットである。開戦時には実戦経験を持っていた岩本徹三氏や坂井三郎と異なり、教育課程も短縮された上に、最初の戦闘は練度の高い連合国軍との戦闘であった。その劣悪な条件下で生き残りラバウルを去った時、進出した時の隊員はわずか3名になっていたという。その後も終戦まで戦い抜き、戦後も長命を保ったが2018年11月2日他界した。

 

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