01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

略歴

 1923年10月3日長崎県に生まれる。1939年6月乙種予科練11期に入隊。1941年9月予科練卒業後11月より23期飛練課程に入る。1942年9月同課程を卒業。1943年6月261空に配属された。1944年2月末サイパン進出、メレヨン島、ハルマヘラ島、ヤップ島、グアム島と転戦する。サイパン島陥落後、メレヨン島、パラオ経由でセブ島に移動、201空に異動、1945年1月内地に帰還、252空、203空と異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加後終戦を迎えた。戦後は全日空の操縦士として活躍した。

 

田中飛曹長と虎部隊

 

 田中民穂飛曹長は、乙飛11期出身。乙飛とは乙種予科練の略である。予科練とは「海軍飛行予科練習生」の略称で14歳以上の10代の少年を搭乗員として育成する目的で1929年に発足した制度で、1937年には新たに甲種予科練が設置されたため、それまでの予科練は乙種予科練と呼ばれるようになった。田中飛曹長はこの乙種の11期で同期の戦闘機専修者は67名。内、55名が戦死している。生存率17%であった。

 乙11期の飛練は21期と23期の二期に分けられており、21期は甲飛6期、丙飛4期と共に1942年7月、23期は丙飛6期と共に9月に飛練を修了している。多くの隊員は、訓練終了後すぐに戦地に送られており、10月には乙11期の2名が南方で戦死している。田中飛曹長はすぐに戦地に送られることなく、1943年6月には新設の261空に配属されている。

 261空は別名「虎」部隊とも称された部隊で第1航空艦隊に所属していた。この第1航空艦隊とは、海上機動戦力である第1機動部隊と基地航空隊の第1航空艦隊という二つの強力な航空部隊を創設、中部太平洋に進出してきた米機動部隊を挟撃するという源田大佐の発案の下に編成された決戦部隊で261空は第1航空艦隊の中核をなす戦闘機部隊であった。

 鹿児島基地に着任した田中飛曹長はそこから猛訓練に突入、1944年2月には東山市郎少尉の分隊の一員としてサイパン島に進出した。3月30日、米機動部隊がパラオに来襲、これを攻撃するため艦上爆撃機彗星を装備する523空が出撃、261空も援護として攻撃に参加したが、米機動部隊を発見することはできずペリリュー島に着陸したが、翌日の朝ペリリュー島は米機動部隊艦載機の総攻撃を受ける。

 この総攻撃に対して261空は迎撃戦を展開するが、出撃28機中20機を失うという大損害を受けてしまった。田中飛曹長もこの迎撃戦に参加、これが田中飛曹長の初出撃となった。4月になるとメレヨン島への大型爆撃機の来襲が頻繁となったため261空は交代でメレヨン島防空の任に就いた。このメレヨン島での防空戦で田中飛曹長は撃墜2機を報告している。

 6月6日には指宿大尉指揮の下、ダバオ南方にあるハルマヘラ島に進出、ついでヤップ島、グアム島と転戦する。7月15日までグアム島からサイパン島への艦船攻撃を繰り返した田中飛曹長であったが、グアム島への米軍上陸当日に上陸地点を爆撃後、メレヨン島へ脱出したのちパラオを経てセブ島に到着した。到着後、201空に異動となり(261空は7月10日で解隊している)特攻隊の直掩等に活躍した。

 1945年1月には1年に及ぶ激しい戦地勤務を終え内地に帰還、252空、203空と異動しつつ本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。戦後も旅客機パイロットとして活躍しており、総撃墜数は15機といわれている。

 

 

まとめ

 

 田中飛曹長の出身期である乙11期の多くは訓練後、南東方面に送られ多くが戦死している。1943年までに同期67名中30名が戦死、内20名以上がラバウル方面での戦死である。1944年2月には海軍航空隊はラバウルから後退が、以降、中部太平洋、フィリピンと乙11期の隊員達は戦い続けた。1945年に入ることには生き残った37名中15名が戦死しており、終戦までにさらに10名が戦死した。終戦時まで生き残ったのは田中飛曹長を含めわずか12名で生存率は17%という激しいものであった。

 

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