
(画像はwikipediaより転載)
航空母艦 加賀
性能(改装後)
通常排水量 38,200トン
全長 247.7m
水線幅 32.5m
吃水 9.479m
機関出力 12万7,400馬力
最大速力 28.95ノット
航続距離 10,000海里/16ノット
乗員 1,708名
武装 20cm砲単装10基
12.7cm連装高角砲8基
25mm連装機銃11基
搭載機 常用72機、補用18機
戦艦から空母へ
空母加賀は当初、加賀型戦艦のネームシップとして起工された。しかし1922年のワシントン会議で保有が問題となった。一時は航空母艦に改装するという案も出たが天城型巡洋戦艦の2隻が空母に改装されることとなり廃艦が決定していた。しかし翌年1923年9月1日の関東大震災で改装中の天城が被災、修理不能状態となってしまったため急遽、代艦として航空母艦に改装されることとなった。
1923年11月、改装中の赤城と共に空母に類別変更、名称はそのまま加賀となった。戦艦加賀として起工したのが1920年7月、進水が1921年、日本初の空母が建造されてまだ5年、日本は空母建造のノウハウを持たなかったために試行錯誤の末、1928年に空母加賀として竣工した。当初は艦首に20cm連装砲2基4門、同単装砲6門等を装備する重武装の空母で、飛行甲板ものちのように全通式甲板ではなくサンドイッチのように上中下三段となっていた。
これは最上段の甲板を発着艦用、中段を小型機用、最も長い下段を大型機用として効率的に発着艦を行うというアイデアであったが、実際にやってみると最上段、中段の甲板は短すぎ、特に中段では発艦が不可能であった。さらに問題だったのは速力である。空母は航空機を発刊させる際に全速力で向かい風に進み、合成風力を作り、それによって航空機を短距離で離艦させるが、巡洋戦艦として計画された赤城は最高速度が32.5ノットと空母としては十分な速度を発揮したものの、加賀は戦艦として計画されていたため最高速度が26.5ノットと低かった。
大改装

(画像はwikipediaより転載)
1934年6月、これらの不具合の修正のため佐世保海軍工廠で改装工事を開始、1年に及ぶ大改装の結果、1935年6月に改装が完了した。竣工時の排水量26,900トンが38,200トンに増加、全長も10m近く延長された。重巡洋艦並みの20cm砲は撤去され、赤城を超える7,000平方メートルの全通式甲板となり、問題のあった煙突の位置も赤城と同様に湾曲煙突式に変更、最高速度も28.9ノットと2ノット向上した。但し、最高速度に関しては30ノットを切っているというのは空母の中では相当に遅い方に入る。
格納庫も拡充され、航空機の搭載量もそれまでの60機から90機と増加している。艦橋は飛行甲板右側に設置された。姉妹艦的な位置づけの赤城は左側に艦橋があるが、これは航空機の発着艦に障害となることが判明したため以後の空母では加賀と同じく右側に艦橋を置いた。唯一空母飛龍のみが左側に艦橋を置いているが、これは上記の決定が行われた際、飛龍はすでに竣工間近であったためである。
戦歴
1929年艦隊編入、1932年の第一次上海事変で初の実戦参加を経験した。改修の後も第二次上海事変、日中戦争に参加、1937年8月10日の出撃では戦闘機の護衛がなかったこともあり、出撃45機中10機を失う大損害を受けた。これにより当時海軍内を席巻していた戦闘機無用論は支持を失っていった。1941年4月には第一航空艦隊が発足、加賀も第一航空戦隊として編入された。
太平洋戦争開戦時には第一航空艦隊一航戦に所属、真珠湾攻撃に参加、1942年1月上旬にはラバウル攻撃、2月にはパラオに入港した際に座礁、その後ポートダーウィン攻撃を行うが、3月には座礁の際の損傷を修理するために佐世保に帰港した。6月にはミッドウェー島攻略のために主力空母4隻で出撃するが、6月5日、ミッドウェー海戦で被弾、艦にある爆発物に次々と引火沈没した。1942年8月10日除籍。
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