01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

略歴

 1910年6月30日福岡県に生まれる。1927年佐世保海兵団に入団。信号兵を経て1930年5月操練16期に採用、翌年5月に卒業した。大村空を経て横空に配属、1934年度、1936年度に航空優秀章を授与された。1937年7月の日中戦争勃発により13空に配属され、8月に上海基地に進出、初空戦の9月19日から12月までの約3ヶ月半の間に戦闘機11機、重爆2機の撃墜を報告した。この武功に対して12月末支那方面艦隊司令長官より個人感状が授与、空曹長に特進した。1938年9月15日、横空で夜間飛行演習中にサーチライトに幻惑されて墜落、翌日に死亡した。

 

古賀清登少尉

 

 古賀少尉は操練16期で同期は7名で1名が他機種に転科している。訓練は1930年5月から1931年5月と1年間にわたり行われた。16期以前も以後も訓練期間は半年から長くても9ヶ月位なので異例の長い訓練期間であった。同時期に予科練制度が創設されており、後に乙1期といわれる1期生が入隊している。この時期の士官搭乗員を育成する飛行学生は20期、21期で太平洋戦争時に航空隊司令を務めた舟木忠夫大佐、八木勝利大佐等が訓練を受けている。

 同時期に訓練を受けた士官が太平洋戦争時には司令官クラスであったからも分かるように操練16期というのはかなり古いクラスで日中戦争勃発時にはすでにベテラン搭乗員であった。因みに一期下には著名な搭乗員赤松貞明中尉がいる(同年兵で誕生日も1ヶ月違い)。古賀一空曹は日中戦争が始まると同時に13空に配属、上海に進出した。この第13航空隊とは、日中戦争勃発に伴い海軍が大陸進出のために臨時に編成した部隊で戦闘機、攻撃機、爆撃機等から成る混成部隊であった。

 盧溝橋事件事件からわずか4日後の1937年7月11日に大村基地で編成、当時の最新鋭機であった九六式艦上戦闘機(12機)、九六式艦上爆撃機(6機)、九六式艦上攻撃機(12機)で編成されていた。9月には上海進出命令が下り9月19日以降、中華民国政府の首都南京攻撃を繰り返し行った。古賀一空曹も本空戦に参加、初陣ながら2機撃墜を報告している。この空戦では日本側は古賀一空曹の戦果も含め27機撃墜、不確実撃墜6機を報告しているが、中華民国側の資料では実際に撃墜されたのは11機である。

 以降も出撃を繰り返しわずか3ヶ月間に戦闘機11機、重爆2機の13機の撃墜を報告している。この戦果により12月31日、支那方面艦隊司令長官より異例の生存者個人感状が授与され、空曹長に特別昇進した。1938年9月15日、横空に配属されていた古賀空曹長は夜間飛行演習中にサーチライトに幻惑されて墜落、重傷を負い病院に収容されたが翌16日に絶命した。

 

古賀清登少尉の関係書籍

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、水上機のエース河村一郎甲木清実など独自に調査している。コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。

 

 

まとめ

 

 古賀清登少尉が修了した操練16期の戦死者はほとんどいない。唯一の戦死者は太平洋戦争で岡本泰蔵中尉で瑞鶴戦闘機隊員として1943年4月11日のオロ湾攻撃で戦死しているのみである。日中戦争前半で活躍した古賀少尉は撃墜数でいえば日本初の「エースパイロット」ということになるようだ。ただ、日中戦争での戦果も誤認戦果が多く、撃墜数自体も搭乗員の技量の算定基準とはいえない。しかし操練16期という戦前に十分な訓練を受けており実戦でも活躍していることから古賀少尉が高い技量を持っていることは疑いない。

 

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