01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

略歴

 1919年10月5日香川県に生まれる。1936年佐世保海兵団入団。磐手千歳、長良乗組の後、1939年10月航海学校に入校。1940年5月砲艦熱海乗組。ののち1940年11月予科練丙2期に採用、土浦空での訓練課程を経て百里原空で飛練12期訓練を受ける。1941年11月、修了と同時に横空配属。1942年10月252空に配属。11月9日ラバウルに進出した。1943年2月252空の移動と共に内南洋方面に移動。11月末から1944年1月末までマロエラップ島で迎撃戦に従事した。2月には内地へ帰還。4月には空地分離で戦闘302飛行隊所属となる。6月には八幡空襲部隊第2陣として硫黄島進出。10月には比島に進出した。11月飛曹長進級。1945年1月343空戦闘301飛行隊に配属、本土防空戦に活躍しつつ終戦を迎えた。

 

宮崎勇少尉の激闘

 

 宮崎勇少尉は広島県呉出身で父親は呉海軍工廠に勤めていた。のちに片翼帰還で有名になる樫村寛一少尉と同じ、広島県丸山中学を中退、1936年6月1日佐世保海兵団に入団した。11月に基礎教程が終わり練習艦磐手に配属、乗員として遠洋航海にも参加している。その後も水上機母艦千歳、軽巡長良と艦隊勤務を経て1939年10月海軍航海学校に入校したのち、1940年砲艦熱海乗組となる。

 1940年、砲艦熱海艦内で丙種予科練2期生の採用試験を受験した。この時、試験中に問題が分からないで悩んでいると部屋に先任将校と通信長が入ってきて、「解答」を雑談し始めたという。結果、満点で合格。宮崎一水が上官から可愛がられていたのが分かる。1940年11月、宮崎三曹は適性検査にも合格、予科練丙飛2期に採用された。

 その後、飛練12期生として百里原空で訓練を受け、さらに艦爆専修として宇佐空で訓練を受けた後、戦闘機に転じ横空へ異動した。そこでは同じ中学の先輩、「片翼帰還の樫村」から1年にも及ぶ猛烈な指導を受けることとなる。この樫村飛曹長の列機として訓練を受けていた1942年4月18日、ドーリットル隊の本土爆撃を迎撃に参加している。

 この時、米空母の接近の報を受けて離陸したものの米機がまさか双発爆撃機だとは思わず、陸軍の双発戦闘機が飛行しているとの情報もあり、B-25ミッチェル爆撃機を取り逃がしている。このことは後年になっても悔しがっていたというが、これは樫村飛曹長や宮崎三飛曹の失態というよりも日本の防空体制の脆弱性の問題であろう。

 

252空に異動、最前線のラバウルへ

 1942年10月、宮崎二飛曹に木更津で編成中の252空へ異動、11月9日ラバウルに進出した。到着3日後の11月12日に初出撃、以降連日の航空戦に参加、12月14日、1943年1月17日には被弾不時着、鱶や鰐のいる海を泳ぎ生還している。1943年2月には252空は中部太平洋に移動、宮崎上飛曹もウェーク島に進出した(のちマロエラップ)。10月6日にはウェーク島に米機動部隊が来襲、増援としてマロエラップを出撃、初めてF6Fヘルキャットと空戦を行った。

 この空戦で宮崎上飛曹以下3名は自機の位置を喪失、太平洋上空に孤立してしまった。その後、敵機動部隊を発見、機動部隊上空を「味方機のように」旋回、敵攻撃隊が帰っていた方向に飛行してウェーク島に着陸するという奇跡的な生還を果たしている。11月24日、25日にはマキンに上陸した米軍を爆撃するために一部を爆装化した零戦隊で出撃、大損害を受けた。

 これら一連の戦闘で252空は壊滅、残存搭乗員は1944年2月5日、マロエラップを脱出、トラック島からサイパンへ行き、そこから二式大型飛行艇で内地に帰還した。内地に帰還した宮崎上飛曹始め252空残存隊員達は部隊の再建を開始する。4月には空地分離のため252空残存搭乗員は戦闘302飛行隊に所属することとなる。米軍のマリアナ進攻によりあ号作戦が発動されると252空も横空を中心に編成された八幡空襲部隊に参加、第二陣として6月25日に硫黄島に進出した。この米機動部隊相手の空戦で252空はまたもや壊滅、再度内地で再編を行うこととなった。この空戦の後、宮崎上飛曹は海面に浮かぶ無数の墜落跡を見て恐怖を覚えたという。

 

比島進出から343空、そして終戦

 1944年10月、252空は比島に進出、252空にもいよいよ特攻隊への「志願」が行われた。特攻への覚悟を決めていた宮崎上飛曹であったが、突如、岩本徹三少尉、斎藤三朗 少尉とともに内地への飛行機受領命令が出た。恐らくこれは貴重な熟練搭乗員を救出するための命令であったのであろう。内地に戻った宮崎上飛曹は11月に飛曹長に昇進、1945年1月、新たに編成中の343空戦闘301飛行隊に配属された。

 この343空は最新鋭機紫電改を装備、松山上空で大戦果を挙げるが、この頃から宮崎飛曹長は航空神経症に悩まされる。その後は大きな空戦に参加することもなく長崎県大村で終戦を迎えた。終戦後は郵便自動車の運転手、雇われ社長を経て酒店の経営を行っていたが、戦後も航空神経症の後遺症と原爆からの被爆の影響で大病に悩まされることとなった。総撃墜機数は13機といわれている。

 

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。全体的には、宮崎勇少尉の記録としては『帰って来た紫電改』よりも本書の方が詳しい。

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。

 

 

まとめ

 

 丙飛2期の戦闘機専修者は37名、その他艦爆、艦攻からの転科者を含めると65名の戦闘機搭乗員がいた。内、終戦を迎えることができたのはわずか12名である。その半数近くはソロモン・ラバウルの航空戦に散っていった。この中で生き残った宮崎少尉であったが、航空神経症の後遺症や戦中に受けた原爆の放射能の被爆により白血球異常、1966年には失明、回復したものの1976年には航空神経症の後遺症と思われる硬膜下血腫に倒れた。一命はとりとめたものの、晩年まで戦争の恐怖に苛まれていた。

 

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