01_零式観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

略歴

 河村一郎飛曹長は1920年8月27日、山口県で生まれる。1938年6月海兵団に入団。戦艦伊勢乗組を経て1939年3月第41期操縦練習生として鹿島航空隊に入隊する。1940年10月水上機母艦瑞穂乗組みとなり、南支那方面航空作戦に参加した。1941年12月、開戦と共にフィリピン、蘭印攻略作戦に参加、翌1942年1月には英空軍の爆撃機を撃墜する。その2か月後、さらに爆撃機を撃墜。5月館山航空隊教員として本土に帰還するが、7月水上機母艦国川丸乗組みとなりラバウル、ショートランド基地に進出する。1943年1月27日、船団上空哨戒中に戦爆連合38機編隊を発見、僚機と共に突入する。

 6月船団上空哨戒中に戦爆連合に遭遇、単独でB-17、艦爆各1機を撃墜するが自身も負傷してしまう。1943年9月百里原航空隊へ転属する。そこで陸上機転換訓練を受けて戦闘機搭乗員となる。1944年2月三亜航空隊付、6月には高雄航空隊で教員配置に就く。10月に台湾沖航空戦に参加した後、12月戦闘901飛行隊配置、のちに戦闘901飛行隊は131航空隊に編入されている。1945年4月から沖縄航空戦に参加し、数次の夜間攻撃を行う。8月岩川基地で終戦を迎える。

 

水上機から戦闘機へ転科

 河村飛曹長は1920年生まれで、開戦時は若干21歳であったが、開戦前に十分な訓練を受けて日中戦争を経験した後に太平洋戦争に参加している。河村飛曹長が搭乗したのは戦闘機ではなく、偵察が主任務の複座水上機であったが、持ち前の闘志で開戦当初に複葉観測機でありながら1機を撃墜した。

 一時期内地で教員配置をしたのち、「搭乗員の墓場」ソロモン方面に進出する。ここで船団護衛中に敵戦爆連合約38機を確認、船団を護るために単機で突入、被弾、負傷する。その後も「搭乗員の墓場」で戦い続け、B-17を1機、艦爆1機を撃墜する戦果を挙げるが自らも負傷、1943年7月、病院船氷川丸で内地に帰還する。

 生死を賭けた戦場での河村飛曹長は非常に厳しかったようで、のちに5機を撃墜することになる中芳光飛曹長(当時一飛兵)は、敵機の攻撃で回避して命中弾を受けた時、河村飛曹長に「当たったタマ数を数えてこい」と言われ、数えて来るとその数だけ殴られたという。これは河村飛曹長の空戦哲学で撃ってきた敵に向かっていかなければならないという方針に背いたせいであった。

 実際、中一飛兵は敵弾を回避しようとした時に被弾したとのちに語っている。これは戦後に戦史研究家である梅本弘氏に対しても同じことを語っているが、これに対して著名な戦闘機搭乗員である坂井三郎は全く逆のことを言っており、梅本氏を混乱させている。

 太平洋戦争中盤以降になると陸上機の搭乗員不足が深刻になると同時に水上機の活躍の場が少なくなってきたため、陸上機に転科させられることが多くあった。河村飛曹長は同年陸上機転換訓練を受け戦闘機に転科する。因みに同じく零式観測機搭乗員であった甲木清実飛曹長も戦闘機に転科している。零観は偵察機でありながら空中戦を行うことも想定して設計された機体であったためか零観出身者でその後、戦闘機に転科した搭乗員が複数いるというのは面白い。

 戦闘機搭乗員となった河村飛曹長は三亜空を経て高雄空で台湾沖航空戦に参加したが、その後、901空131飛行隊に配属される。この部隊は美濃部少佐率いる有名な「芙蓉部隊」である。この芙蓉部隊隊員として沖縄戦に参加、数度の夜間攻撃を行う等「南方帰りのベテラン」の技量の高さを示した。

 

河村一郎飛曹長関係書籍

 

大空のエピソード (新戦史シリーズ)

渡辺洋二 著
朝日ソノラマ (1990/9/1)

 航空史家渡辺洋二氏の短編集。渡辺氏は実証的な研究をすることで知られている航空史家の第一人者。魅力的な航空史のエピソードを紹介している。第1章「南太平洋の零観たち」に上述の河村飛曹長のエピソードが登場する。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 冒頭部分に著者が中飛曹長から聞いた河村飛曹長の上述の話が載っている。本書はあまり知られていない水上機隊の活躍が克明に描かれており貴重。

 

まとめ

 

 河村一郎飛曹長は、複葉偵察機である零式観測機で零戦でも撃墜困難と言われている空の要塞B-17を撃墜するという偉業を成し遂げている。水上機搭乗員は戦争後期に水上機の活躍の場が無くなってきたのと同時に陸上機の搭乗員不足から機種転換訓練を経て多くの水上機搭乗員が陸上機に異動している。河村飛曹長は1943年に機種転換訓練を受けるが、偵察機搭乗員でありながら戦闘機を選択するというのはやはり惹かれるものがあったのだろうか。水上機から陸上機への転科は出来ても逆は出来ないと言われるほど水上機の難易度は高い。その技量を買われたのだろう。教員配置の後は夜間攻撃に活躍している。河村飛曹長は大戦を生き抜き無事終戦を迎える。技術と強運を共に備えた人物であった。総撃墜数は5機といわれている。

 

 

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