
(画像はwikipediaより転載)
超要約
仏印進駐とは、日中戦争の相手国中華民国への補給路を遮断するために日本軍が北部仏印に進出、これに米英が怒って日本への資源の輸出を禁止、資源が欲しい日本は、今度は東南アジアの資源を求めて南部仏印に進出。激ギレした米国は対日石油禁輸をする。石油が欲しい日本は太平洋戦争の開戦を決意する。
仏印進駐 〜概要〜

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北部仏印進駐
1937年に何となく始まった日中戦争。日本軍が中華民国の首都南京を攻略したものの、中華民国は内陸部の重慶に首都を変更して抗戦を続けた。この中華民国に対してイギリス、アメリカ、ソビエトは大量の物資を送り続け中華民国を支援していた。このルートは4路あったが、その中でも最大のルートがフランスが植民地としていたベトナム、ラオス(仏印)の北部を通るルートであった。
1940年、中華民国の「兵糧攻め」を狙う日本軍は、このルートの遮断するため北部仏印に武力進出する。当時、ドイツに占領されて力の衰えていたフランスは日本の要求を受諾せざるえなくなかった。この結果、援蒋ルートの遮断には成功したものの米英の反感を買い、同時期に日本が日独伊三国同盟を締結したこともあって米国は日本への鉄くずの輸出を禁止した。
南部仏印進駐
米英からの反感は買ったものの、制裁は日本側が思っていた程厳しいものではなかったが、日本は戦略物資の供給元を失ってしまった。そこで日本が目を付けたのがオランダ領東インドであった。これは現在のインドネシアに相当する地域で豊富な資源を産出していた。
南部仏印とは現在のベトナム南部で、ここに進駐することはこのオランダ領東インドに圧力をかけることができるだけでなく、イギリス植民地にも圧力をかけることが出来る要地であった。1941年7月末、日本軍は南部仏印に進出する。日本軍の進出は一応、平和的なものであったが、日本軍の強力な武力を背景にしていることには変わりはなかった。
これに対して米国は即座に対日石油輸出禁止を決定、石油の輸入を米国に頼っていた日本はピンチに陥る。石油が無くなれば戦争も出来なくなると考えた日本は、11月に対米戦争を決意、12月に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。
援蒋ルートとは

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1937年に日本と中華民国の間で日中戦争(日本側呼称は支那事変)が始まると日本の勢力拡大を脅威に感じた米国、英国、ソ連は中華民国に対して大量の支援物資を送ることで対抗した。この支援物資を送るためのルートを当時の中華民国の主席であった蒋介石から「援蒋ルート」と呼ばれるようになった。
このルートはソ連からのルート、香港からのルート、仏印ルート、ビルマルートの4つが存在したが、ソ連からのルートは独ソ戦開戦によって余裕が無くなったことや日ソが日ソ中立条約を締結したこともあって閉鎖。香港ルートも1938年に日本軍によって広州が占領されると遮断、残る仏印ルートは日本軍による北部仏印進駐によって遮断されたが、米英はビルマルートにより中華民国を支援し続けたため、日本軍はビルマルートを遮断するためにインパール作戦を行うこととなった。
仏印進駐のおすすめ書籍
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
2020年菅内閣時に学術会議任命拒否された6人の内の一人、加藤陽子氏による日本近代史の概略を一般向けに分かりやすく解説した本。加藤氏は日本近代史の専門で本書は多少回りくどい部分もあるが、明治維新以降、日本が太平洋戦争に突き進んでいく姿を描き出している。徐々に選択肢が少なくなり、最終的には開戦に至っていくという過程が良く分かる。
まとめ
援蒋ルートを遮断するために行った仏印進駐は米英による経済制裁を招いた。鉄と石油という近代国家に必須の戦略物資の供給を断たれた大日本帝国は米英蘭に対して開戦する。開戦当初は二線級の兵器で武装した米英蘭連合軍を圧倒的な戦力で撃破した日本軍であったが、そもそも日本と連合国では、生産力や技術力に圧倒的な差があったため数ヶ月で快進撃は止まり、以降は守勢から敗北へと突き進んでいく。

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