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超要約

 

 B-29は1942年に初飛行した米国の戦略爆撃機である。ターボチャージャー、与圧室、リモート砲塔等の先進的な装備を持ち長大な航続距離を生かして日本への戦略爆撃を敢行、さらに広島と長崎に原子爆弾を投下している。このB-29の最大の意義は長大な航続距離で核爆弾を世界中に投下できることであった。

 

ボーイング B-29

 

性能

全幅 43.05m
全長 31.18m
全高 8.46m
自重 33,793kg
最大速度 575km/h
上昇力 4.6m/s
上昇限度 9,710m
エンジン出力 2,200馬力(ライト R-3350-23 エンジン)4基
航続距離 9,000km
乗員 11名
武装 12.7mm機関砲連装5基(携行弾数各1,000発)、20mm機関砲1門
爆装 爆弾搭載量9,100kg
初飛行 1942年9月21日
総生産数 3,970機
設計・開発 ボーイング社

 

開発経緯

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 1934年、米軍は超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは航続距離8,000km以上、10,000トンの爆弾を搭載することができる爆撃機を開発する計画であった。当時の米軍制式採用爆撃機B-10の性能が航続距離1,996km、爆弾搭載量1,050kgであることを考えるといかに壮大な計画であったのかが分かる。因みにこの年にこのB-10爆撃機の後継機としてボーイング社製B-17爆撃機、ダグラスB-18爆撃機の開発が開始されている。

 このプロジェクトAの性能要求である航続距離8,000kmというのは往復を考えると半径4,000kmとなる。ロンドンを起点にするとヨーロッパ全土、マニラ、グアム島を起点とすると日本全土が射程距離に入ることとなる。米軍はこの時点でドイツ、日本という仮想敵国に対して攻撃することを想定していたとみて良いだろう。

 1938年、この米軍からの要求に応える形でボーイング社は与圧室を備えた長距離爆撃機の開発に着手、1940年5月11日にはモデル345を完成させた。8月24日にはXB-29試作機を米軍に提出、1941年5月には米軍から14機の試作機と250機の量産機の注文を受けた。日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった1941年12月以降は注文数が激増、1942年1月には500機、さらに2月10日には1,600機が注文された。

 初飛行は1942年9月21日であったが、開発を急いだためか不具合が多発した。特にエンジンは非常に過熱しやすく、1942年12月30日の飛行ではエンジン火災が発生したために飛行中止となった。1943年2月18日には試験飛行中エンジン火災が発生、食肉工場に墜落して乗組員10名と工場の職員20名、消防士1名が犠牲になるという痛ましい事故が発生してしまった。

 この事故は厳重な報道管制が敷かれたものの多数の人が目撃する大事故であったため軍は隠しきることができず、この事故によって日本はB-29の存在を知ることとなる。このエンジン過熱問題はシリンダーやカウルの設計変更により低減させることができ、さらに200〜250時間でエンジンの換装を行うことで実用化の目途がたった。

 

完成

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 完成したB-29は全幅43.04m、全長31.18mで最大速度は640km/h以上を発揮する。エンジンは2,500馬力ライト社製R-3350-23 エンジン4基を装備する4発重爆であった。航続距離はプロジェクトAの要求値8,000kmを超える9,000kmとB-17爆撃機の2,832kmの3倍以上であった。爆弾搭載量は最大で9,000kgとこれもB-17爆撃機の倍近い量であった。

 機体は円筒形の胴体の正面から見て中央に主翼がある中翼で、そこに左右2基のエンジン、垂直尾翼は1枚というオーソドックスな形状であった。ターボチャージャーを装備しているため上昇限度は9,710mであるため機内の居住区は完全に与圧されている。

 武装は12.7mm連装機銃座が胴体前方上下に2基、中央部上下に2基の合計4基、さらに尾部には12.7mm2連装に加えて20mm機関砲が装備されていた。但し、この20mm機関砲は12.7mm機銃と弾道特性が異なる上に作動不良が多かったためにのちに廃止されており、一部、20mmの代わりに12.7mm機銃3連装とした機体も存在する。

 

弾道特性とは

 ここで「弾道特性」について少し説明したい。機銃弾は火薬の圧力で発射されるとその火薬の威力と空気抵抗、重力を受けながら最初は直進するのだが遠距離になるにしたがって落ちていく。大きく放物線を描くのだ(厳密には最初も直進ではない)。

 この放物線の描き方はカートリッジの火薬量や弾頭重量、銃身の長さによって変わってくる。これが弾道特性だ。12.7mmや20mmというのは弾丸を正面から見た時の直径で数値からも分かるように大きさが倍近く違っている。直径(口径)が違えば当然質量も異なり、発射するための火薬量も銃身の長さも異なってくる。そうなると弾丸の放物線の描き方が全く違くなってしまうのだ。同時に発射した場合、一方は直進している距離でも一方は重力によって落ちてしまうということも起こり得る。

 これは実用上非常に問題だ。基本的に同じ照準器で照準することができないし装弾数も違ってくる。さらにB-29の場合は20mm機関砲に故障が多かったために実戦デビューしてからしばらくして廃止されてしまったのだ。B-29の機銃には死角はほぼ無く、12.7mm機銃弾は有効射程850mと直進性に優れ、携行弾数は各500発と多かった。

 

日本空軍パイロット達の戦法

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 では、対する日本側のパイロット達はどうやって攻撃したのかというと「直上急降下背面攻撃」という戦法であった。これは実戦の中で編み出された戦法で死角のほぼない米軍爆撃機の唯一死角ともいえる場所が機体の前上方、機銃の仰角を超える位置だ。

 日本の戦闘機パイロット達はB-29よりも高い高度で待機、B-29が到着するとB-29の前方機銃の仰角よりも高い位置から背面になりダイブを行う。背面になるのは自機が起こす揚力で機体がB-29の進行方向に向くからだ。ダイブ中に前方機銃の射程内に入るが日本機は重力プラス自機の推力で高速になっている上に機銃弾は高速で飛行するB-29の強烈な向かい風の中で撃つため威力も多少弱まるので日本機を撃墜することが比較的困難なのだ。

 背面でダイブした日本機はB-29のコックピットもしくはエンジンを狙い射撃、日本機はそのままB-29の下方に抜けていく。これが直上急降下背面攻撃である。高速で飛行する航空機同士なので射撃は一瞬、距離や速度の計算を誤れば衝突してしまうという非常に危険な戦法である。著名な撃墜王岩本徹三中尉もこの戦法でB-29に攻撃をかけている。米軍はこの戦法に対するためB-29A-BN型では前方機銃が連装から4連装に変更して火力を強化されている。

 

最先端技術の塊であるB-29

 以上、B-29が「なんかすげぇ」爆撃機であることは分かって頂けたと思う。しかしB-29とは「なんかすげぇ」レベルの爆撃機ではない。それまでの爆撃機であるB-17やB-24とは大きさや航続距離、爆弾搭載量だけでなく様々な能力が桁違いに「すげぇ」爆撃機であり、それまでの爆撃機を超えた「超」爆撃機なのだ。以下、B-29の特徴的な「すげぇ」能力について見てみよう。

 

ターボチャージャー

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 B-29は当時の米国のというよりも世界の最先端技術が凝縮された爆撃機であった。その最大の特徴の一つはターボチャージャーであった。レシプロエンジンは空気を取り入れることで燃料を燃焼させてエンジンを可動させるが、高高度では酸素が少ないためにエンジンを稼働させるために十分な酸素を得ることが出来ない。このために空気を圧縮、エンジンに送り込むのがターボチャージャーである。このターボチャージャーの能力によりB-29は高度10,000mの高高度でも高速で飛行することが可能となった。

 

与圧室

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 しかし高高度での飛行となると気温が下がる(高度10,000mの気温はマイナス50度)上に酸素が少ないために搭乗している人間が参ってしまう。このためにそれまでの航空機では搭乗員は防寒具を厳重に装着した上に酸素マスクを装着して航空機に搭乗していたが、それでは作業に不便であるためにB-29では与圧室を採用した。

 これはB-29の機内を密閉した上で室内を加圧するもので、操縦席区画と弾倉を挟んで後部区画が与圧されていた。両区画への人の移動は弾倉上部にあるトンネルで行う。室内はエアコンにより温度調整もなされていたためにB-29の室内ではTシャツ1枚で作業をしていることもあったという。「なんだ、そんなの室内を密閉して気圧を高くするだけだろ?」と思われるかもしれないが、これは大変に高度な技術だったのだ。

 与圧室は高高度を飛行する航空機にとっては必須の技術であったため前述のターボチャージャーと共に日本でも研究が行われており、ロ式B型高高度研究機等が開発されたが、性能も不安定で操縦席からの視界も悪く、結局、実用化には至らなかった。

 

リモコン銃座

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 B-29がすごかったのはこれらだけではない。前述のようにB-29には連装5基、10門の12.7mm機銃で武装されていた。この機銃は尾部の機銃以外は遠隔操作である。B-29の写真を見ると胴体主翼後方の左右と上部に涙滴型の観測窓のようなものがあるのが分かるだろう。これはB-29の射手が敵機を確認するための窓だ。この窓には機銃と連動する照準器が装備されており、射手はその照準器を敵機に合わせて射撃ボタンを押すだけで連動する機銃によって射撃が行われる。これは機内が与圧されているためにそれまでの爆撃機のように直接射撃することができないからだ。

 完成度は別にして遠隔操作機銃といえば日本の九七式重爆撃機も装備していたしのちに夜間戦闘機月光として対B-29戦で活躍する十三試双発三座戦闘機にも採用されていた。これ自体は先進的な技術という訳ではないのだが、B-29のすごいのはこのリモコン機銃はアナログコンピューターが搭載されており、射手が敵機の大きさを照準器で測定して追尾するだけで距離と速度を計算、弾道計算を行い偏差射撃を自動で行うのだ。

 さらにリモコン機銃は切替によって複数の射手が使用することが可能で、射手はヘッドセットを使用した機内電話により他の射手と連携を取り合い効率的に敵機を射撃することができる。例えば右から来た敵機を右側の射手が射撃、左に抜けたところで今度は左の射手が同じ機銃で射撃をするというようなことが可能となる。その上このコンピューターの偏差射撃の精度はかなり高かったようだ。

 

戦歴

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 当初、B-29は対ドイツ戦、対日戦の両方での使用が検討されていた。しかしB-29の開発が遅れたことにより計画は変更、対日戦にのみ使用されることとなった。計画時点では太平洋戦域はマリアナ諸島の制圧が終わっていなかったため中国大陸、特に日本軍の進出の可能性が低い成都に拠点を置き、対日爆撃に使用されることとなった。米国から中国までは当然のように陸路がないためB-29本体と補給物資は空路で輸送されることとなった。

 1944年4月、B-29で編成された第20空軍の編成が完了、同月に最初のB-29が中国の成都に進出した。4月26日には移動中のB-29を日本陸軍航空隊の第64飛行戦隊(通称「加藤隼戦闘隊」)の一式戦闘機隼が発見、交戦状態に入るが双方ともに撃墜することは出来なかった。

 これが日本軍との初交戦とされているが、これに先立つ3月30日、南洋の日本海軍の拠点であるトラック諸島への空襲にB-24の編隊の中に混ざって2機のB-29が参加してという(肥田真幸『青春天山雷撃隊』P129)。このB-29に対して日本海軍航空隊は手も足も出なかったというが、これが事実だとすればこれがB-29と日本軍との初交戦である。

 この後も順次B-29が集結、中国大陸のB-29は6月までに98機となった。初の実戦は6月5日でタイ国バンコクの爆撃で、この空襲は77機のB-29が参加、内5機が撃墜された。そして6月15日には北九州に対してB-29による初の日本本土爆撃が実行される。参加機数は63機で日本側の迎撃や事故等により6機が失われた。以降、日本本土を含め日本軍占領地への攻撃がしばしば行われるようになる。

 同月、米軍はマリアナ沖海戦に勝利、7月にはサイパン島、8月にはテニアン島の制圧が完了。新しく占領した両島にB-29用の飛行場が整備され、以降はここから日本本土を攻撃するようになる。当初は重要施設だけを狙っていたB-29であったが、途中からは無差別となっていった。1945年3月になると米軍は硫黄島の攻略に成功、航続距離の長いP-51戦闘機が硫黄島の飛行場に進出することでそれまで戦闘機の掩護を受けなかったB-29にも掩護戦闘機が随伴することになった。

 1945年8月6日には広島に原子爆弾を投下、8月9日には長崎にも原子爆弾を投下、8月15日には日本は連合国にポツダム宣言受諾を通告、9月2日に戦艦ミズーリ号艦上にて日本側は降伏文書に調印して終戦となった。

 

第二次世界大戦後

 1950年6月に朝鮮戦争が勃発するとB-29は再び実戦に投入されることとなる。これに対して朝鮮人民軍、中国人民志願軍はソビエト連邦製ジェット戦闘機Mig15で対抗するとB-29も大きな損害を出すようになった。1947年にはB-29の改良型であるB-29Dが初飛行、最高速度が640km/hとB-29よりも100km/h近く高速になった。

 1948年にB-50として制式採用されたものの、同年に制式採用されたB-36ピースメーカーに比べて性能は劣っており、さらに1951年にボーイングB-47爆撃機、1955年にボーイングB-52爆撃機が就役すると第一線を離れ後方支援任務に活躍するようになる。

 第一線を離れたB-29であったが、その後も空中給油機、気象観測機などとして活動、ベトナム戦争にも参加したのち1965年に退役する。総生産数は3,970機である。

 

核爆弾を世界中に落とすことができる

 実はB-29の最大の意義は与圧室やリモート砲塔ではない。最大の意義は核爆弾を世界中に投下できるようになったことだ。核爆弾は単体で存在しても意味がない。核爆弾と共にそれを目的地まで運ぶ道具が必要なのだ。米国が手に入れたB-29と核爆弾の組み合わせは世界各国、特に米国を仮想敵国としている国にとっては脅威でしかなかった。

 1948年、この能力を誇示するために米軍はB-29による世界一周飛行を敢行、途中で1機が墜落したものの2機が世界一周を成し遂げた。戦後、米国と対立することになったソビエト連邦は、1947年にソビエト連邦領内に不時着したB-29の完全なコピー機であるTu-4戦略爆撃機を開発、さらに1949年には初の核実験を成功させ米国に対抗した。

 

 

まとめ

 「日本の航空業界は米国に比べて十年遅れている」これは三式戦闘機の設計で有名な航空機設計者土井武夫氏の言葉である。与圧室、ターボチャージャーの実用化に関しては日本でも相当な研究がなされていた。しかし日本は終戦までに与圧室を実用化することは出来なかった。ターボチャージャーに関しても同じようなものである。ましてや弾道を計算するコンピューターを爆撃機の機銃に搭載することなどは全く不可能であった。

 十年の遅れというが、では10年後には出来たのだろうか。B-17爆撃機が初飛行したのは1935年である。十年後の1945年に日本はB-17爆撃機と同性能の爆撃機を量産することができていたのかといえば答えは「否」である。十八試陸上攻撃機連山等が開発されてはいたがこれも試作機の域を出なかった。実は日米の技術力の差というのは十年以上の差があったのかもしれない。

 B-29の凄さとは大きさではない。B-29の凄さとは、このハイテクの塊のような機体を開発・生産した米国の高度な技術力、さらにはそれを4,000機も製造して運用することが可能な巨大な国力であった。日本の航空機にも光るものはあった。しかし米国の技術力とその裾野の広さ、国力は圧倒的であった。

※文中の画像はwikipediaより転載

 

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