01_B-17
(画像はwikipediaより転載)

 

B-17フライングフォートレス

 

 

性能

全幅 31.62m
全長 22.66m
全高 5.82m
自重 16,391kg
全備重量 24,500kg
最大離陸重量 29,700kg
最大速度 462km/h
上昇力 4.60m/秒
上昇限度 10,850m
エンジン出力 1,200馬力(ライトR-1820-97)4基
航続距離 3,219km(爆弾2,700kg搭載)
乗員 10名
武装 12.7mm機関砲13門
爆弾搭載量 最大7,800kg
初飛行 1935年7月28日
総生産数 12,731機
設計・開発 ボーイング社

 

概要

 B-17フライングフォートレスとは米軍初の全金属製爆撃機B-10の後継機として開発された機体であった。昔の映画で第二次世界大戦中に英国からドイツへ爆撃を行う搭乗員達の活躍を描いた『メンフィス・ベル』というものがあったが、この『メンフィス・ベル』で主人公達が乗っていた爆撃機が本機である。実際、本機はヨーロッパ戦線で重要な役割を果たし、ドイツに対して米軍が投下した爆弾の実に40%以上が本機によるものであった。1935年に初飛行した「旧式機」ではあったが、その重装甲、重武装で枢軸国軍から恐れられたフライングフォートレス(空の要塞)である。

 

開発前史

 1934年、米陸軍航空隊はB-10爆撃機に代わる新型爆撃機の要件を出しだ。この要件とは高度3,000mで10時間の飛行が可能なこと、320km/h以上の速度で尚且つ必要な量の爆弾を運ぶことができることで、航続距離に関しても可能であれば3,200km以上という条件であった。この新型爆撃機の運用法というのは、外国への侵攻というよりも米国の長大な海岸線を防御するという防衛が目的だったようで、仮に米国の海岸に敵国が上陸した場合、この新型爆撃機が飛来、水際で撃退するというものであったようだ。このため長大な航続距離と高速が必要だったのだ。

 フライングフォートレスという名称自体が防御の拠点である「要塞」から来ているという説もあるが、B-17が完成した時にその機体から多数の機銃が突き出ている姿みた新聞記者が名付けたというのが正しそうだ。それはともかくこの要件に合わせて製造されたボーイング社の新型爆撃機YB-17は、米軍爆撃機初の4発重爆、つまりエンジンが4基装備されている大型爆撃機となり、全幅31.62m、 全長22.66m、爆弾の最大積載量は2,000kg、5挺の7.62mm機銃で武装されたものとなった。エンジンはP&W R-1690エンジン4基でそれぞれ750馬力を発揮する。

 

初飛行

 初飛行は1935年7月28日で巡航速度は406km/hを記録、これは競合他社の性能を圧倒していた。米陸軍は早速65機のYB-17を購入する予定であった。しかし不幸にも飛行試験中に墜落事故が発生、このため本機の採用は見送られ、ダグラス社のB-18爆撃機が採用されることとなった。しかしやはりこのYB-17の性能は陸軍航空隊にとっては魅力的であり、1936年1月、陸軍航空隊は13機のYB-17を発注した。

 さらに試験用に製造された14機目にはターボ過給機が装備、最高速度はYB-17の385km/hに対して501km/hと圧倒的な高速を発揮した。上昇限度もそれまでの8,500mから一挙に12,000mと成層圏にまで達した。但し、機内は与圧されていないので搭乗員はそれまで同様、完全な防寒装備をする必要があった。

 

同機種との比較

 1935年当時の爆撃機ではまずB-17と競合したB-18爆撃機、さらに奇しくもB-17爆撃機と同年同月に初飛行に成功した九六式陸上攻撃機がある。まず全幅がB-17の31.62mに対してB-18が27.3m、九六陸攻が25m、全長はB-17の22.66mに対してB-18が17.6m、九六陸攻が16.45m、自重がB-17の16,391kgに対してB-18が7,403kg、九六陸攻が4,770kgである。

 B-17は全幅がB-18よりも4m、九六陸攻よりも7m近くあり、全長もB-18よりも5m、九六陸攻よりも6m大きくかなりの大型機であることが分かる。重量に至ってはB-18の2倍超、九六陸攻の3倍以上である。そして性能は最高速度がB-17(G型)の最高速度462km/hに対してB-18、九六陸攻ともに348km/hで航続距離がB-17の3,219kmに対してB-18が1,400km、九六陸攻が4,550km、爆弾搭載量はB-17が7,800kg、B-18が2,000kg、九六陸攻が720kgとなっている。

 これらのスペックの中で唯一B-17に優っているのは九六陸攻の航続距離だけでこれは九六陸攻の機体が軽かっただけの話だ。航続距離以外は全てにおいてB-17に負けており、爆弾搭載量に関してはB-18が1/4、九六陸攻に関しては1/10しかない。機銃はB-17が12.7mm機銃13門に対してB-18が7.62mm機銃3挺、九六陸攻が23型でも20mm機銃1門、7.7mm機銃3挺である。

 ここで出したB-17の数値は1935年当時の機体ではなくG型のものであるが、九六陸攻23型と比較してもほぼ全ての面において同時期の爆撃機を圧倒していることに間違いはない。逆に言えばこの時期の爆撃機というのはB-18や九六陸攻程度のものであった。B-17がこの時代においてどれほどの驚きを以って迎えられたのかが分かるだろうか。

 

戦歴

 1937年にはB-17と命名され、各航空隊に配備されたものの、その総数は太平洋戦争開戦時典でわずか200機以下であった。

 しかし太平洋戦争が開戦すると大量生産を開始、B-17自体にも様々な改良が加えられ、戦前までにB型からE形までが初飛行を終了、開戦後もF型、G型と改良が続けられた。この間に試作機では7.62mm機銃5挺であった武装も12.7mm機銃13挺と強力になり、生産数もF型が3,405機、G型が8,680機、B-17全シリーズ合計で12,731機が製造された。これは米軍の爆撃機ではB-24に次いで2番目、世界でも3番目に多く生産された爆撃機となった。

 重装甲であるのと同時に武装は極めて強力であり、機種に12.7mm2連装機銃1基、上部に1基、下部に1基、尾部に1基、胴体左右、機種にも機銃が設置されていた。死角はなく対戦した戦闘機搭乗員を恐れさせた。

 

実戦での運用

 このB-17を最も早く運用したのは英国であった。当時、独自の重爆撃機を持たなかった英国は1941年までにB-17を取得することで米国と合意、1941年7月には実戦に投入されている。太平洋方面では対栄養戦争開戦後にフィリピンに配備されていたB-17の多くは運悪く地上で多くを失ったものの、少数のB-17が日本空軍相手に健闘している。当時、日本海軍の主力戦闘機零戦は20mm機関砲という世界でも珍しい強力な機関砲を装備していたが、これすらもB-17の重装甲には効果が薄く、さらなる大口径砲の開発を促進させることとなった。

 ヨーロッパ戦線でも1943年頃からB-17によるドイツ本土への爆撃が本格化、当初は掩護戦闘機もない状態でドイツの強力な防空システムに突入したために大きな損害を出したものの、戦争後半になるとP-47サンダーボルトP-51マスタングという航続距離の長い戦闘機の護衛が付くようになり損害は激減した。太平洋戦線では日本空軍はB-17の撃墜に苦慮していたものの、米国は1942年9月時点で168機が配備されていたB-17を順次、より強力なB-24に変更していった。

 第二次世界大戦後半になるとB-17は徐々に最前線から退き、B-24や超重爆撃機B-29にその役割を代わっていった。しかしこの時点においても捜索、救助にはB-17が活躍し続けており、B-17の生産自体は1945年まで続いている。

 戦後もB-17は運用され続け、米国でも偵察用RB-17として使用された。さらに米国沿岸警備隊にもB-17が引き渡され1959年まで運用され続けた。このため現存数も多く、大型機でありながら45機前後が現存、内9機前後が飛行可能であるという。

 

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