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歴史

01_藤田信雄と零式小型水偵
(藤田信雄中尉と零式小型水偵 画像はwikipediaより転載)

 

ドーリットル隊の日本本土爆撃

 

 1942年4月18日、ドーリットル少佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を空襲した。この爆撃隊は空母ホーネットから発艦し、東京・名古屋・神戸を爆撃、そのまま中国に飛び去った。この爆撃は日本本土に対する米軍初の爆撃で、破竹の進撃をしていた日本軍の虚を突かれた帝都爆撃であった。爆撃の被害はのちの米軍の本土爆撃に比べれば小さかったが、帝都上空に敵機の侵入を許したという心理的効果は大きかったようで、軍令部や陸軍がミッドウェー作戦を決断する一因になったとも言われている(生出P154)。

 この時、同時にもう一つの構想が動き始めた。「何としても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」という感じで決まっていったようである。しかしそうはいっても南雲機動部隊を米本土に出撃させるわけにもいかない。そこで潜水艦搭載の小型水上機による爆撃となったのである(藤田P54)。そしてもう一つ、別ルートでの話もあったようだ。それは元シアトル領事館員のアイデアで米国西海岸の森林地帯は毎年山火事に悩まされている。これを何とか人為的に起こすことが出来れば米国に効果的な損害を与えることができるというものだ。このアイデアは当時の作戦課長であった富岡定俊中佐へ手紙で届いたのだが、このプランはそのまま上部に上がっていった。そこで潜水艦搭載の小型水上機による米国西海岸森林爆撃という形になったようである(藤田P96)。

 

 

潜偵による爆撃という発想

 

 ここに藤田信雄飛行兵曹長(飛曹長)という男がいる。藤田飛曹長は1912年大分県生まれ、1932年佐世保海兵団入団。翌33年7月、霞ヶ浦航空隊で水上機操縦課程を修了、開戦時にはすでに飛行歴10年にもなろうとするベテラン搭乗員で、太平洋戦争開戦後は潜水艦伊25潜搭載偵察機の操縦員として乗艦、開戦当初から数々の偵察を成功させていた(秦P181)。藤田飛曹長はその積極的な性格から、当時、偵察のみで爆装はなかった零式小型水上機に爆弾を搭載、攻撃機として使用するというアイデアを海軍に提出していた。そしてこのアイデアが軍上層部の目に留まった。

 日本本土空襲への報復というアイデア、森林火災というアイデア、そして藤田飛曹長の零式小型水上機を爆装するというアイデア。この3つのアイデアが一つになったのが史上初の米本土爆撃であった。ここから米本土爆撃計画はトントン拍子に話は進んでいく。使用する潜水艦は藤田飛曹長が飛行長を務める伊号第25潜水艦である。この伊25潜は、伊15型潜水艦の6番艦で全長108.7m、全幅9.30m、基準排水量2,198トン、艦本式2号10型ディーゼル2基2軸を装備、最高速度は水上23.6ノット、水中8ノット、航続距離は水上16ノットで14,000海里、水中は3ノットで96海里に達する。巡潜乙型とも呼ばれ20隻が建造された(福井P316)。最大の特徴は零式小型水上機を搭載することで、この水上機は零式小型水上機と呼ばれる。

 零式小型水上機とは、1938年に一号機が完成、1940年に制式採用された潜水艦搭載用の小型水上機で全長8.53m、最高速度246km/h、航続距離882kmの木製、金属混合の骨組みに羽布張り、金属フロートを装備する総生産数は試作機を含めて138機であった(秋本P212)。開戦時、この小型水上機を搭載できる潜水艦は12隻あったが、この内、水上機を搭載しているのは伊25潜を含め、僅か6隻で、それらも搭載されていたのは旧式の九六小型水上機であった(秋本P213)。

 

 

海軍、米本土爆撃を計画

 

 1942年7月17日、伊25潜が横須賀に帰港した。伊25潜は太平洋戦争開戦時には第六6艦隊第1戦水戦隊第4潜水隊に所属、真珠湾攻撃時には付近の哨戒を行っていた。その後、米国西海岸での通商破壊戦を行ったのち、マーシャル諸島クェゼリン環礁で補給を受け、メルボルンの偵察を行っている。4月に一旦横須賀に帰港したのち、今度はアリューシャン方面に出撃、水上機によりダッチハーバー偵察に成功、その後、再び米国西海岸で通商破壊戦の後に浮上して艦載砲でオレゴン州フォートスティーブンス基地を砲撃している。まさに歴戦の潜水艦と言って良い。

 帰港中の8月1日、飛行長藤田飛曹長は軍令部に出頭を命じられ、皇族の高松宮中佐(昭和天皇の弟)が臨席する中、米本土爆撃を指示された。目標が森林地帯であることに藤田飛曹長は落胆したものの事情を知ると任務の重要性を認識、さらに副官が高松宮中佐をチラリと見たのち「我々はアメリカとは違う。民間人を殺傷するわけにはいかない」という言葉から、藤田飛曹長は、高松宮中佐は市街地攻撃には反対であると推測している(藤田P59)。

 この10日ほど前、藤田飛曹長は、横須賀の海軍航空技術廠で通称「金魚」と呼ばれる零式小型水上機に爆弾懸吊装置を装着しているのを目撃している。零式小型水上機は本来、爆弾を搭載することは計画されておらず、この時点で初めて爆弾懸吊装置を装着したようだ(藤田P57)。零式小型水上機の潜水艦搭載は1942年7月14日以降からなので(秋本P213)、伊25潜は初めて零式小型水上機を搭載したことになる。しかし、これに関して、秦氏は零式小型水上機は開戦前から潜水艦隊に配属されていたとしている(秦P181)。

 

 

作戦決行

 

 零式小型水上機と重要な任務を帯びた伊25潜は、1942年8月15日午前9時に横須賀を出航する。艦長は開戦以来の豪胆で鳴る田上明次少佐(海兵51期)で、今回の任務は、艦長と先任将校福本一雄大尉、藤田飛曹長と偵察員の奥田省二二飛曹の4人しか知らされていないという(藤田P64)。重要任務を秘めた伊25潜は、出航から約3週間後の9月4日、オレゴン州北部に到着、さらに南下した後、艦長は全員集合を命令、次のような訓示をしたという。

 

 「いいか諸君、本艦はこれよりはアメリカ本土攻撃を行う。知っての通りさる四月十八日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱。これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失ったことは、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の、水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国百六十年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
藤田信雄『わが米本土爆撃』より引用

 

 あまりにもかっちょいいので引用してしまったが、多くの伊25潜乗組員は、これで今回の出撃の目的を知った。これによって艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化したという(藤田P66)。ところが実は、出航時点で多くの乗組員に知られていた可能性がある。同じく伊25潜に乗組、米本土爆撃に参加した槇幸兵曹長の手記によると、出撃前後に「こんどの目標は米本土森林爆撃だそうだが詳細はわからない」とあり、さらに「一体なんのために山の中へ爆弾を投げこむのだろうか、みんか首をかしげていた」とある(槇P189)。むろん槇氏の本は、戦後に書かれたものなので「あと知恵」である可能性もある。しかし防諜意識の甘さ、関心の薄さで有名な海軍のこと(小谷P106)、網の無いザルのように情報が漏洩しまくっていたとしても不思議ではない。ただ、上記の艦長の演説は目的を知っていたとしても乗組員を興奮させるには十分だろう。名艦長である。

 

 

第1回米本土爆撃

 

 1942年9月9日5時30分、北緯42度、西経125度、ブランコ岬灯台距岸25海里の沖合で藤田飛曹長機は離水した(秦P187)。発進した藤田機は、ブランコ岬に達すると高度3,000mに上昇、目標地点に向かった(‘E弔任2,500mP161)。340馬力という非力なエンジンである上に2個の76kg爆弾を装備しているため速度は140km/hと遅い(藤田P69。秦氏は160km/hとしているP187)。この低速で飛行する零式小型水上機は2ヶ所の監視哨で発見、どちらも報告されたもののまさか日本軍機が米国上空を飛行しているとは思わず藤田機の侵入、爆撃、脱出を許してしまった(藤田P75、秦P190)。爆弾は2発とも目標通りオレゴン州の森林地帯に投下、2発とも爆発を確認している。この爆弾は、520個の焼夷弾子が入っており、爆発と同時に100m以内に散布され、1,500度の高熱で燃え上がるというものであった(秦P107)。爆弾を投下した藤田機は行きと同じコースを通って帰還している。

 藤田飛曹長と奥田二飛曹は無事母艦を発見、着水、収容されたが、その直後、伊25潜は、定時パトロールを行っていた第390爆撃機中隊のハドソン爆撃機3機に発見され爆撃を受けた(秦P192)。初弾は命中しなかったものの至近弾を受け、電信室の電源引込口が破られ浸水した(槇P198、岡村P300)。伊25潜は急速潜航、幸い浸水は止まったものの聴音機は故障、深度計も狂ってしまった(槇P199)。そして肝心の藤田機の爆弾であるが、爆発したものの偶然にも前日に季節外れの大雨が降っていたため山火事を起こすことは出来なかった(秦P192)。

 

第2回米本土爆撃

 

 9月29日、藤田飛曹長、奥田二飛曹は再び米本土爆撃のために出撃した。実は当初は計画されていなかった作戦であるが、艦内に爆弾がまだ4発残っているために艦長が決断したものだった。前回は昼間攻撃であったが、今回はさすがに警備が厳しいことを想定して夜間攻撃としたのだろう。投下地点も前回のように内陸部に侵入することなく沿岸部が選ばれた(藤田P90)。伊25潜は12時30分に浮上、その後浮上したまま大陸に接近、17時より飛行作業開始、21時07分に藤田機を射出したとしている(槇P209)。発進準備に4時間もかかったというのは不思議な気もするが、槇兵曹長がいう飛行作業とは発進準備だけではないのかもしれない。ともかく、伊25潜は、前回と同じくブランコ岬洋上で浮上、7海里の地点で浮上したのち、5海里の地点に移動、そこで藤田機を発進させた(藤田P90)。

 発進した藤田機は、母艦上空を一周して周囲を警戒したのちに、高度2,000mをとって再びオレゴン州の森林地帯を目指した。今回は夜間飛行ではあるが、月夜であるので陸地の区別は容易であった。なんせ敵地上空なので周囲を警戒しながら飛行すること25分、目標地点を選定して爆弾を投下した。爆弾は二つとも爆発、爆発音、閃光と共に煙が立ち上った。藤田飛曹長と奥田二飛曹はその煙を確認すると帰路についた。

 

 

偵察員は大変なのだ!

 

 集合地点に着いたものの、母艦は見えない。当時の航空機にはGPSというような便利なものはない。洋上飛行は後席の偵察員による推測航法となる。この推測航法とは、速度と方角、さらに偏流測定によって現在地を測るという技術で、わずか1°間違えただけで60海里飛行すると到達地点は目標よりも1海里もずれてしまう。

 偏流測定とは航空機の風による影響を測定する技術である。航空機は飛行中、横風の影響を受ける。この影響を無視すると飛行機の向かっている方向が少しずつ変わっていき最後には全然違う方向になってしまう。このためにこの横風「偏流」を測定、機位を正しく保つ必要があるのだ。この技術は非常に高度な技術で習得は海軍では「千本偏流」と言われていた。つまりは1,000回偏流を測定して一人前という訳である(鈴木P93)。偵察員とはあまり注目されない地味な仕事であるが、実は非常に高度な技術と経験が必要な「職人」なのである。

 爆撃を終了した藤田機は会合地点と思われる場所に到着、必死に海上を探すが母艦は見えない。と、そこに月光に照らされて一筋の航跡が見えた。これは伊25潜から漏れ出たオイルであったが、このオイル漏れのお陰で藤田機は無事に母艦に帰還することが出来たのだった。

 

その後の伊25潜

 

 1942年10月24日、伊25潜は、無事に横須賀に帰港、藤田飛曹長は田上艦長と共に小松宮輝久王の宮廷晩餐会に呼ばれた。そして12月、伊25潜は、トラック諸島に進出。ここで藤田飛曹長は官を降り、鹿島航空隊教官として内地に帰還している。その後、田上艦長、奥田省二二飛曹等も艦を降りている。新艦長の下出撃した伊25潜は、1943年7月25日トラック諸島より出撃、再び戻ることはなかった。戦後の調査によると伊25潜は、8月25日サント沖で米駆逐艦パターソンに撃沈されたものと推定されている(秦P198)。

 

この作戦って意味あるの?

 

 米国土爆撃作戦は成功した。2回攻撃を行い、どうも2回とも爆弾がオレゴン州の森林地帯爆発はしたらしい。しかし山火事になることはなく、実質的には損失はなかった。成果があったといえばこの決死の攻撃により米国民の「心胆を寒からしめる」ことができたかもしれないことだ。作戦の目的であるドーリットル隊の爆撃に対する報復は出来たのかもしれない。しかしそれは名目だけのことで実はなかった。当時の日本には潜水艦は貴重過ぎるくらい貴重な艦艇であった。乗組員は厳しい訓練を受けた精鋭、艦長も熟練者であり潜偵搭乗員達の練度も高かった。

 特に潜偵での発進、帰還には非常な技術と危険が伴う。敵に発見されないように離水、航続距離の短い潜偵で目標地点を偵察、そして帰還する。帰還時に敵に追尾されていれば帰還することはできない。追尾されていなかったとしても上記のように潜水艦を発見することは困難であり、同じく潜偵の搭乗員であった高橋一中尉も母艦を発見することが出来なかったこともあった(高橋P146)。さらに母艦を発見できたとしても、外洋での着水は波の高さによっては非常に難しい。無事着水できたとしても収容中は完全に無防備である。それらのリスクを克服して行われるのが潜偵の偵察である。

 ここまでのリスクを冒して貴重な潜水艦とより貴重な訓練を積んだ歴戦の乗組員を使用するにはこの米本土爆撃という作戦はあまりにもリターンが少ないように思える。確かに「世界で唯一の米本土爆撃」という名誉は手に入れた。しかし実態は森林地帯に小型飛行機が小型爆弾を合計4発投下しただけである。藤田飛曹長、奥田二飛曹、そして伊25潜の乗組員は勇敢だった。それは間違いない。しかしこの作戦自体に実質的な意味はどれほどあったのだろうか。この作戦に対する価値観こそが戦争末期に数千人もの乗組員を乗せて出撃した戦艦大和の水上特攻作戦と共通するものであるように思えてならない。

 

参考文献

  1. 生出寿『『勝つ司令部 負ける司令部』東郷平八郎と山本五十六』新人物文庫2009年
  2. ‘E朕雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01今日の話題社1967年
  3. 藤田信雄『わが米本土爆撃』
  4. 秦郁彦『太平洋戦争空戦史話』上
  5. 福井静夫『日本潜水艦物語』光人社1994年
  6. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』2巻グリーンアロー1996年
  7. 槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』
  8. 小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社2007年
  9. 鈴木輝彦『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年
  10. 高橋一雄『神龍特別攻撃隊』光人社2009年

 

 


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01_呉第三特別陸戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

フロリダ諸島の戦いとは、

 

 1942年8月7日、米軍第一海兵師団は日本軍が攻略したソロモン諸島フロリダ諸島にあるツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸、同地を守る日本軍部隊と戦闘状態に突入した。この戦闘で日本軍守備隊は全滅。米軍は同日行われたガダルカナル島上陸と並んでソロモン諸島に米軍の橋頭保を築くことに成功した。米軍のガダルカナル島上陸はあまりにも有名な話であるが、同時に行われたフロリダ諸島の戦いはあまり注目されていないために知名度は低い。

 まず、この戦いに至るまでの経緯を簡単に説明してみたい。そもそも何でこんなところに日本軍がいるのよ?という話である。太平洋戦争開戦以来、破竹の進撃を続ける日本軍。1942年1月23日には、ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエンを占領した。さらにそこからニューギニア東部のラエも占領。ラエの南側にある連合軍拠点のポートモレスビーをも攻略しようとする。しかしラエとポートモレスビーの間にはオーエンスタンレー山脈という富士山並に標高の高い山脈が連なっており、陸路からはなかなか難しい。そこで海路から侵攻するMO作戦が決定された。

 このMO作戦に先立ち、水上機が輸送船団の周辺を哨戒するために前進基地が必要となり、適地を探したところ、フロリダ諸島のフロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島が水上機の基地として適していると判断され、5月3日に呉第三特別陸戦隊を主力とした部隊で上陸占領された。これら占領した島には、ツラギ島に第84警備隊約400名、ガブツ島には横浜空の病院班、舟艇班、工作半100名、タナンボゴ島には九七式大艇10機と横浜空大艇隊等350名、フロリダ島には二式水戦隊60名が進出した。その後、MO作戦は失敗したもののフロリダ諸島の日本軍は駐留を続けた。

 

その頃米軍は。。。

02_ツラギに上陸する米軍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年3月14日、米軍統合参謀本部は、太平洋。大西洋方面での基本方針を策定。ウォッチタワー作戦と命名された。これは太平洋方面で押され気味の米軍の反抗作戦で、米本土の安全の確保、米豪交通路の確保等が盛り込まれていた。この作戦は同年6月25日に発令、第一段作戦は、総指揮官はニミッツ大将で、サンタクルーズ諸島、ツラギ周辺の攻略を目標としていた。保有戦力は空母サラトガ、エンタープライズ、ワスプの3隻と新型戦艦ノースカロライナ合わせて26隻、リッチモンド・ターナー少将率いる輸送船23隻、巡洋艦8隻、駆逐艦15隻、掃海部隊1個群の水陸両用部隊、アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将麾下の第1海兵師団約19,000人であった。参加する航空機は合計541機にも上る。

 作戦発動は8月1日であったが、日本軍がガダルカナル島に飛行場を設営していることを発見したため急遽、ガダルカナル島を目標に追加、サンタクルーズ諸島は中止された。このため作戦発動日は遅れて、8月7日となった。

 

そもそもおかしいのだ

03_米軍上陸ルート
(画像はwikipediaより転載)

 

 そして運命の8月7日、米軍は大挙してフロリダ諸島に上陸してきた。この作戦に動員された米軍の戦力は第1海兵師団およそ8,000名で航空隊や後方支援部隊が中心の日本軍1,100名を圧倒していた。日本軍は事前に米軍の侵攻を察知することが出来ず、米軍は完全な奇襲に成功したといっていい。このため、日本軍守備隊はほぼ全滅。伝統の横浜空は壊滅した。対して米軍の戦死者は122名で米軍圧勝の戦いであった。同日に行われたガダルカナル島上陸と併せて太平洋戦争の転換点となった戦いである。

 米軍の周到な作戦に対して、日本側は善戦はしたものの戦略的には相当な問題のある戦いであったといえるだろう。当初、米軍が上陸してきた際に日本側は本格的な反撃とは認識していなかったようである。上陸当日に急遽、ラバウルの航空隊をガダルカナル島に急行させたことはさせたが、そんな少数の航空機ではどうなる問題ではない。この後、ガダルカナル島へは戦力の逐次投入が繰り返され、総数30,000名の陸海軍兵力が投入されたが、生還したのはわずか10,000名程度であった。

 ガダルカナル島の問題はともかく、フロリダ諸島の水上機基地には相当な問題がある。このフロリダ諸島フロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島はガダルカナル島の向かいに位置する島で日本軍の最前線に位置していた。この場所に非力な水上機群を展開させるというのは「攻撃してください」と言っているようなものである。確かにこの位置に飛行艇を配置すれば珊瑚海からラバウル方面まで広く海域をカバーすることはできる。しかしほぼ無防備な飛行艇基地を最前線に設置すれば攻撃されることは火を見るよりも明らかである。

 飛行艇というのは、長大な航続距離を生かして後方基地から出撃して偵察した後に後方基地に帰還する。そのための長大な航続距離のはずだ。このような飛行艇の運用法自体が貴重な大型飛行艇を失い、何よりも育成に10年はかかると言われているベテラン搭乗員、整備員等を多く失ってしまう結果となった。これは米軍の戦略、戦術が素晴らしかったというよりも日本軍のそれらが稚拙であったと言っても過言ではないだろう。

 

 

 


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01_米軍
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 士官と下士官の違いとは、用兵の専門教育を受けているか否かの違いである。士官は士官学校で用兵の専門教育を受けるが、下士官以下は受けない。士官はあらゆる面で優遇され下士官以下とは寝所、食事も別々にとる。「貴族と奴隷」とまで言われる制度であるが、これは士官が下士官以下に「死」を命じることができるように維持されている制度であると言われている。

 

士官と下士官の違い

 

黒木為禎大将
(画像はwikipediaより転載)

 

 士官と下士官の違いは、士官学校等で用兵等の専門教育を受けたか否かである。一般に士官は士官学校等で用兵等の専門教育を受け任官、下士官、兵を指揮するが、下士官とは兵から昇進する場合がほとんどで、専門教育は受けていないものの軍隊の実務に精通している場合が多く、士官の指揮の下で自分より下位の下士官、兵を指揮する。

 一般の軍隊では士官と下士官の間に大きな壁があり、兵から下士官までは順当に昇進することは出来ても士官に昇進するのは内部で試験を受けたり、士官学校に入校することが必要である場合が多い。当然、待遇にも大きな差がつけられており、給料はもちろん、食事も士官用と下士官以下用で食堂も食事の内容も異なっていることが多い。この待遇の違いの理由の一つは、ヨーロッパでは士官とは元は貴族であったためであり、士官はたとえ捕虜になったとしても下士官、兵とは異なり自分から希望しない限り労働をさせることも禁止されている。

 

現代版「貴族と奴隷」

 

薔薇戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 著名な海軍の戦闘機搭乗員である坂井三郎氏はこの士官と下士官の待遇の違いについて「貴族と奴隷」とまで言っている。坂井三郎原作映画『大空のサムライ』では、藤岡弘扮する坂井三郎に「俺たちは二つの敵と戦っている。一つは連合国、もう一つは士官だ」というようなことを言わせている。同じく海軍の戦闘機搭乗員である角田和男氏は著書『修羅の翼』で、フィリピンで下士官以下の隊員が住む隊舎に入ろうとしたところ、下士官に道を塞がれ「ここは士官の来るところではありません」と、危うく追い返されそうになったというエピソードがある。角田氏は下士官からの叩き上げだったので結局通してもらえたが、やはり士官と下士官兵の壁はあったようである。

 元々貴族がなっていた士官なので「貴族と奴隷」となってしまうのも分からなくもないが、現在は無論、貴族が特権的に士官になるなどということは近代民主主義国会ではありえない。士官といえば通常、10代で士官学校に入学、専門教育を受けた後、士官として任官するというのが一般的である。しかし士官が用兵の専門教育を受けているといっても所詮は10代か20歳そこそこのガキ、専門教育といっても机上の用兵を勉強しているに過ぎない。

 これに対して下士官は違う。下士官の多くは一番下っ端の兵から始まる。二等兵、三等兵から始まり現場の実務に精通、多くの知識と経験を現場で培って昇進したのが下士官である。なので、軍隊等では古参の下士官が新米士官を「育てる」ということが往々にして行われている。そもそも実務経験が違うのだ。この不自然さは、我々の日常生活に置き換えてみれば分かりやすい。一般的なサラリーマンは新卒、既卒問わず一番下の立場からスタートする。一部には縁故採用や幹部候補等がある会社もあるが、おおよそはそう考えてよいだろう。

 そして上司や先輩に仕事を教わり一人前になっていく。後輩が出来て、その内部下ができる。さらに能力のあるものがどんどん昇進していくというのが普通である。これは日本の会社だけでなく欧米を含む多くの会社はこのような人事で動いている。何も問題がないどころか大きな成果を上げ、一部は国家を超える規模の会社まで存在しているのである。かつては貴族と庶民という差別的な区分があり、欧米では軍隊に参加することが「特権」であった時代もあった。その残滓だとしても現在は差別も特権も許されない時代である。しかし、では、なぜこのような「貴族と奴隷」とも譬えられるような「階級差別」と呼べるような制度が現在でも世界中で採用されているのであろうか。

 

士官は「死ね」と命令できる

 

 多くの軍隊において士官と下士官の区分が存在し続けるのは理由がある。世間では非合理的であったとしても軍隊では合理的なのだ。普通の会社では上司が部下に「死ね」と命令することは出来ない。仮に命令したとしたら大変な問題となる。しかし軍隊は違う。場合によっては上官が部下に「死」を命じることがある。軍隊が置かれる環境は極限である場合が多い、作戦によっては味方に必ず犠牲が出るような作戦も全体の勝利のために実行しなくてはいけないこともある。

 その際に上官は間接的にしろ直接的にしろ部下に「死」を命じることとなる。かつての同僚、一緒に厳しい訓練を受けある意味肉親以上の友情で結ばれた同期に「死ね」と命じることができるだろうか。そして命じられた一方は素直に「かつては同期であったが、今は上官なので命令には従います」と合理的に考え自分に対する同期からの死の命令を諾々と受けることが出来るだろうか。

 それがかつての先輩、上司であればなおさらである。かつての後輩、部下が自分に「死ぬ」ことを命令してきた場合、素直に従うというのは相当難易度が高い判断である。仮にこのような判断を下せたとしても双方に大きな精神的ストレスがかかるのは間違いない。この結果、作戦が実行できなくなったり、実行できたとしても戦力へのダメージは避けられない。

 しかし軍隊にあるのはリアリズムである。作戦が失敗した場合、多数の死者を始め多くの損害が出る。失敗もまた「死」なのだ。このためにはどうしても冷徹に判断を下す「専門家」が必要になってくるのだ。それが士官なのである。

 このため士官は下士官、兵と精神的な距離を取る必要がある。精神的な距離は物理的な距離とニアリーイコールである。違う待遇で扱われ、違うところで寝起きをする必要がある。特に食事は人間に一体感を感じさせるため違う食堂でとる必要がある。士官、下士官双方が「別の存在」と感じることが必要なのである。この精神的な距離があってこそ軍隊の最も厳しい命令「死」を命令することができるのである。

 

士官と下士官の関係書籍

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

デーヴ グロスマン 著
筑摩書房 (2004/5/1)

 人間は人を殺すことに強烈な抵抗感がある。しかし物理的距離と精神的距離をとることでそれが可能となる。著者は米陸軍レンジャー資格保有者にして心理学、歴史学の学位を持つという戦争研究者としては高度な専門性を持つ。綿密な調査とヒアリングで「本当の戦争」を再現する。

 

まとめ

 

 人間は人を殺すことを本能的に拒否する。それは生物の絶滅につながるということを本能的に感じているからだとも言われている。それでも現代の戦争には多くの兵士を動員する必要がある。近年では機械化により以前ほどの人数は必要なくなったがその数は膨大である。この本能的に殺人を拒否する人間に強制的に「死」を与える立場、それが士官だといえる。

 

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01_エンタープライズ
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた海戦で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を奪回する陸軍を援護するために行われた海戦であった。日本側は空母4隻、米側は空母2隻を投入、正面から戦闘を行った結果、米側は空母1隻、駆逐艦1隻が撃沈、日本側は大破した艦が2隻あったものの撃沈された艦はなかったが、ヘンダーソン飛行場の奪取には失敗した。このため戦術的には日本側勝利、戦略的には米側勝利と言われている。

 

南太平洋海戦 〜概要〜

 

02_ホーネット
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月7日、米軍のガダルカナル島以降、米軍の対日反抗の拠点となったヘンダーソン飛行場の再奪取を目論む日本陸軍第17軍は10月下旬に総攻撃を計画、支援を海軍に要請した。これに対して海軍は空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳から成る第一航空戦隊(一航戦。司令官南雲忠一中将)、空母隼鷹の第二航空戦隊(二航戦。司令官角田覚治少将)、前衛部隊として戦艦金剛、榛名をを中心とする戦艦、重巡部隊をソロモン海域に出撃させた。

 対する米軍も同海域に空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊、空母ホーネットを基幹とする第17任務部隊、戦艦ワシントンを中心とする第64任務部隊が派遣された。10月25日、二航戦とラバウルの基地航空隊がヘンダーソン飛行場への攻撃を行う。同日、日米機動部隊は同海域に相手側も機動部隊を派遣していることを確認した。

 1942年10月26日、双方がほぼ同時に相手側機動部隊の位置を確認、日本側は第1次攻撃隊62機を発進、第2次攻撃隊も発進させたがレーダーが敵機の接近を確認したため各母艦毎に別個に発進することになった。同時刻に米側も攻撃隊73機を発進、日米の攻撃隊は進撃途中にすれ違うこととなった。双方、自軍の攻撃隊を援護する必要性から攻撃を見送るが、この時、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊が反転、米側攻撃隊の一隊であるエンタープライズ隊19機に対して攻撃を行った。これが後に大きな問題となる。

 日本側第1次攻撃隊は空母ホーネットを攻撃、大破させるが、米側もまた日本軍機動部隊の空母2隻を発見(瑞鳳は米軍偵察機の奇襲により被弾し戦線より後退している)、空母翔鶴に命中弾2発を与えている。続いて日本側第2次攻撃隊が米機動部隊を発見、エンタープライズを攻撃している。さらに敵機動部隊発見の報により二航戦がヘンダーソン飛行場攻撃を中止、エンタープライズ攻撃に第1次攻撃隊を派遣、攻撃を行った。これらの攻撃によりエンタープライズは中破、戦列を離れることとなった。

 これにより日本側の攻撃目標は空母ホーネットに集中、二航戦は第2次攻撃隊を編成して炎上中のホーネットに攻撃をかけた。また一航戦も第3次攻撃隊を編成、同空母を攻撃している。さらに二航戦が第3次攻撃隊を発進、ホーネットに攻撃をかけた。さらに近藤信竹中将が指揮する前衛部隊が水上戦闘を挑むために追撃戦を開始した。これらの攻撃に対して米側は空母ホーネットを放棄、総員退艦の後、駆逐艦の砲雷撃を行った。

 日本軍の前衛部隊が空母ホーネットに到着した時、ホーネットは未だ浮いていたため連合艦隊司令部は一時、ホーネットの鹵獲を試みるが、結局、雷撃により撃沈された。

 

瑞鳳戦闘機隊の反転

 

03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 第1次攻撃隊が進撃途中に米攻撃隊とすれ違った際、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊9機が攻撃隊の護衛を中止して米攻撃隊への攻撃を行った。この攻撃を受けたエンタープライズ隊は19機中5機が撃墜され、1機が不時着、2機が被弾のため母艦へ帰投した。これに対して瑞鳳戦闘機隊も2機が撃墜され、2機が帰途行方不明となり合計4機が失われた。

 エンタープライズ隊は残った11機で進撃を続けたが、空戦で燃料を消費していたのと高度が下がっていたため日本側機動部隊への攻撃は出来ず、前衛部隊への攻撃を行っている。この攻撃により重巡筑摩が大破している。

 この攻撃により日本側は損害を未然に防ぐことが出来た反面、攻撃隊を援護する戦闘機が9機減少したことにより苦戦を強いられた。この日高大尉の行動に対しては部内でも批判的な意見が出た反面、肯定する意見も多かった。これに対して日高大尉は命令違反として処分されることはなかったが、戦後も一切弁明することはなかった。

 

まとめ

 

 南太平洋海戦における双方の損害は、日本側が空母1隻、重巡1隻大破、航空機92機を失った。対して米側は空母1隻、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻が大破した。航空機の損失は81機であったが、日本軍の作戦目標であったヘンダーソン飛行場の奪取には失敗する。このことから戦術的には日本側勝利したものの、ヘンダーソン飛行場を確保した米国が戦略的には勝利したと評価されている。

 確かに艦艇、航空機の損害で判断すれば日本側に軍配が上がるが、この海戦による搭乗員の戦死者は日本側148名に対して米側26名と極端に異なる。日本側は開戦以来、珊瑚海、ミッドウェー、第2次ソロモン海戦、そしてこの海戦により開戦以来の練度の高い母艦搭乗員をほぼ失ったといってよい。以後、終戦まで同レベルの練度を持った母艦搭乗員で機動部隊を編成することは出来なくなった。この点も含めて日本側の戦略的敗北といっていいだろう。

 

 

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01_第38任務部隊
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 レイテ沖海戦とは、フィリピン周辺で行われた海戦でレイテ島に上陸した米軍を砲撃すべく日本軍はわずかな空母機動部隊と戦艦部隊を投入、米海軍の主力部隊とガチで激突したものの、空母部隊は速攻で壊滅、戦艦部隊は航空機の援護がほぼ無い状態で米軍制空海権下に突入、日本海軍の主力部隊は壊滅的大打撃を受け、米海軍もちょっとだけ打撃を受けた。最終的には日本海軍の主力部隊がレイテ湾突入を断念したため作戦は失敗、連合艦隊は事実上消滅した。

 

レイテ沖海戦 〜概要〜

 

02_レイテ沖海戦図
(画像はgooglemapに加筆修正)

 

 台湾沖航空戦後、日本軍は捷号作戦を立案した。これは米軍の上陸に対する日本軍の対抗作戦で米軍が上陸した場合、日本海軍の機動部隊が米機動部隊を北方に誘致、戦艦部隊が上陸地点に突入して艦砲射撃を実施、これに呼応した陸軍が米上陸部隊を殲滅するというものであった。上陸地点はフィリピン、台湾、本州、北海道の4地点を想定、それぞれに一号、二号、三号、四号と命名した。

 1944年10月18日、米軍がフィリピンレイテ島に上陸することがほぼ確定したことにより日本側は捷一号作戦を発動した。日本側の参加兵力は、スマトラ島リンガ泊地に停泊していた連合艦隊の戦艦7隻と重巡を中心にした第一遊撃部隊、マリアナ沖海戦で生き残った空母4隻に航空戦艦2隻で編成した機動部隊。重巡と水雷戦隊を中心に編成された志摩中将指揮の第二遊撃隊、陸上航空部隊である第一航空艦隊等である。

 しかし機動部隊は先の台湾沖航空戦に航空兵力を提供したため搭載機は何とかかき集めた航空機116のみであり、陸上基地航空隊も9月の米機動部隊の攻撃によりほとんどを失っていた。このため第一、第二遊撃部隊は敵制空権下を進撃することとなった。

 これに対して米軍は、正規空母9隻とほぼ同数の軽空母を中心とする第38任務部隊が太平洋上に展開、レイテ湾内にはオルデンドルフ少将指揮の6隻の戦艦を中心とする支援射撃部隊、護衛空母6隻で編成されている護衛空母部隊3群がレイテ島周辺に展開していた。航空機は約1,000機である。

 10月19日、捷一号作戦発動を受けた小沢中将率いる機動部隊は内地を出撃、21日には志摩少将率いる第二遊撃部隊が台湾を出撃、新たに編成された第三部隊と共にレイテ湾突入を目指す。主力の第一遊撃部隊は燃料補給に問題があり、急遽、西村中将率いる戦艦扶桑、山城を中心とする第三部隊を編制、第一遊撃部隊とは別行動で行動、合流した上でレイテ湾に突入することになった。

 10月22日、第一遊撃部隊もブルネイ泊地を出撃、第一遊撃部隊は北からルソン島南を通り時計回りにレイテ島に向かい、第三部隊は南からミンダナオ島北を直進、最短距離でレイテ島を目指した。北回りに進んだ第一遊撃部隊は、23日パラワン水道で米潜水艦の雷撃を受ける。これにより重巡愛宕、摩耶、高雄が被雷、旗艦であった重巡愛宕、摩耶が撃沈、高雄は大破したため戦列を離れた。同日、二航艦の攻撃により米空母プリンストンが撃沈されている。

 

運命の10月25日

03_戦艦群
(画像はwikipediaより転載)

 

 旗艦を戦艦大和に変更した第一遊撃部隊旗艦は24日、シブヤン海において第38任務部隊の航空攻撃を受け戦艦武蔵を失ってはいるが(シブヤン海海戦)、25日には難所と予想されたサンベルナルジノ海峡突破に成功した。同日、第一遊撃部隊と合流後レイテ湾に突入予定であった西村中将指揮の第三部隊がレイテ湾に到着、第一遊撃部隊と合流が不可能なため単独突入を決行、オルデンドルフ少将の戦艦部隊と戦闘になり駆逐艦1隻以外全滅した(スリガオ海峡海戦)。この突入の2時間後にやっと到着した志摩中将麾下の第二遊撃部隊は敵情不明のため突入を断念し帰投した。この日、北方では小沢機動部隊がルソン島北東海域で第38任務部隊と激突、空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳を全て撃沈され完敗している(エンガノ沖海戦)。

 25日未明、サンベルナルジノ海峡を突破した第一遊撃部隊は、同日早朝、突如米軍護衛空母部隊と遭遇して砲撃戦となり砲撃により護衛空母1隻を撃沈する(サマール沖海戦)。海戦後、再びレイテ湾に向け進撃する第一遊撃部隊はレイテ湾突入を目前にして敵機動部隊発見の報により反転北上した。これが一般に言われる「謎の反転」である。この日、関行男大尉以下5名の神風特別攻撃隊が体当たり攻撃を敢行、護衛空母1隻撃沈、3隻撃破の戦果を挙げている。その後、第一遊撃部隊はサンベルナルジノ海峡に退避、数度の航空攻撃を受けるものの主力はブルネイ泊地に帰投した。

 

謎の反転問題とレイテ湾突入

 

04_戦艦大和
(画像はwikipediaより転載)

 

 10月25日、レイテ湾突入を目前にした第一遊撃部隊に敵機動部隊発見の報が届く。この報により第一遊撃部隊はレイテ湾突入を中止、機動部隊攻撃に向かう。しかしこの報は他の部隊の記録には残っておらず「謎の電報」ともいわれているが、戦闘中であり三日三晩戦い続けた各部隊で連絡の齟齬が発生するのは不思議なことではない。

 栗田健男中将は直前に偶然の空母部隊との遭遇戦を経験しており、これを第38任務部隊本隊と誤解していた。戦闘終了後も付近に機動部隊が存在すると考えるのも当然であり、戦艦の主砲による米空母部隊撃滅の可能性に賭けたのであろう。

 それはともかく、仮にレイテ湾に第一遊撃部隊が突入していたらどうなったのであろうか。当時、レイテ湾には上陸部隊と共にオルデンドルフ少将率いる戦艦6隻を中心とする支援部隊が存在した。さらに付近には護衛空母群が3群存在しており、太平洋上には第38任務部隊もある。ここに満身創痍の戦艦4隻を主力とする第一遊撃部隊が突入したとしてもオルデンドルフ艦隊に撃退されるか、付近に遊弋している空母部隊によりフルボッコにされるのがオチであっただろう。

 地上目標の艦砲射撃にしても1942年10月に栗田中将によって実施されたヘンダーソン飛行場艦砲射撃では、ほぼ反撃がない状態での理想的攻撃であるにも関わらず在地96機の航空機の内、54機を破壊するに留まっている。このヘンダーソン飛行場からは翌日、航空機が日本軍攻撃に出撃しており、日本陸軍の攻撃も撃退している。

 これに対してレイテ湾に突入に関してははるかに条件が悪い。乗組員は、数日間不眠不休で戦闘を行った疲労のピークにあり、艦艇は数度の戦闘で満身創痍。その上、重厚な護衛部隊が守るレイテ湾に突入したところで戦果を挙げるのは難しかったであろう。

 

まとめ

 

 レイテ沖海戦は、航空機の「傘」がない中での水上部隊のみの突入、さらに作戦は広大な海域を4つの艦隊と基地航空隊が有機的に連携して行動するという極めて難易度の高い作戦であった。案の定、それぞれの艦隊は連携が取れず作戦は失敗してしまった。しかし仮に成功していたとしてもすでに戦略的劣勢を覆すことは出来なかったであろう。

 

 

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01_レキシントン
(画像は被弾するレキシントン wikipediaより転載)

 

超要約

 

 珊瑚海海戦とは、1942年5月に行われた世界初の空母対空母の艦隊戦である。双方、輸送船団、補給艦隊を攻撃、撃沈したのち、正面からの機動部隊同士の戦闘となった。結果、日本側は空母祥鳳が撃沈、翔鶴が大破、連合軍側は空母レキシントンが撃沈、ヨークタウンが中破した。このためこの海戦は戦術的には日本側の勝利、戦略的には連合軍側の勝利とされているが、航空機、人的損害も含めると戦術的にも日本側が勝利したとは言い切れない。

 

珊瑚海海戦 〜概要〜

 

02_祥鳳
(画像は被弾した祥鳳 wikipediaより転載)

 

 開戦後、ニューギニア東方にある要衝ニューブリテン島ラバウルの占領に成功した日本軍であったが、さらにこのラバウルの防衛を完全なものにするためには連合国軍の一大反抗拠点となっていたニューギニア東南に位置するポートモレスビー攻略が必要であった。このため陸海軍共同で輸送船団を編成、海路よりポートモレスビーの攻略を目指した。これがMO作戦である。

 この作戦を察知した米海軍は空母レキシントンとヨークタウンで編成される第17任務部隊を迎撃のために派遣した。米空母がソロモン海域に投入されたことを知った日本側は増援を要請、急遽、第一航空艦隊より空母翔鶴、瑞鶴で編成された第五航空戦隊(五航戦)が増派された。これにより日本側の空母は翔鶴、瑞鶴と当初からMO作戦に編入されていた軽空母祥鳳の3隻となった。

 1942年4月下旬、軽空母祥鳳の護衛の下、ポートモレスビー攻略に出撃、少し遅れて第五航空戦隊も米機動部隊を求めてソロモン海域に出撃していった。5月7日には五航戦が米機動部隊を発見、攻撃隊を発進させた。しかし、これは米軍の油槽船と駆逐艦の誤りであったが、五航戦攻撃隊はこれら2隻を撃沈帰投した。一方、米機動部隊でも偵察機がMO攻略部隊を発見、第17任務部隊が攻撃をかけ空母祥鳳を撃沈している。

 その後、双方、散発的な攻撃は続いたものの、5月8日には双方ともに相手方機動部隊を発見、攻撃をかけた。結果、米機動部隊は空母レキシントンが撃沈、ヨークタウンも中破した。これに対して日本側は空母翔鶴が大破した。航空機の損害は日本側が97機喪失、米側が69機の喪失であった。この海戦の結果、日本軍はMO作戦を延期、その後断念することになった。

 

日本は戦術的勝利、米国は戦略的勝利?

 

03_翔鶴
(画像は前部甲板を破壊された翔鶴 wikipediaより転載)

 

 この海戦は世界初の空母対空母の戦いであった。結果は日本側が軽空母1隻、駆逐艦1隻、掃海艇3隻撃沈、正規空母1隻大破航空機損失97機であった。これに対して連合軍は正規空母1隻、油槽船、駆逐艦各1隻撃沈、航空機の損失は69機である。このことから一般的には珊瑚海海戦は日本側が戦術的勝利、連合軍側がMO作戦を阻止したことから戦略的勝利と判定されている。

 この連合軍側が戦略的勝利であることは間違いないが、日本側は空母の損害こそ少なかったものの、航空機は連合軍側の約1.5倍を失い、人員に関しても連合軍側656名の戦死者に対して日本側は966名とこちらも約1.5倍の損害を出している。特に五航艦航空隊の損害は酷く、戦闘機隊こそは被害が比較的少なかったものの攻撃隊はほぼ壊滅であった。航空機や人員の損失まで考慮すればこの海戦の結果を日本側の戦術的勝利とするのは疑問符が付く。特に育成に10年かかると言われる航空機搭乗員、その中でもさらに高い技量が必要と言われる母艦搭乗員を一挙に失ったことは大きな損失であった。

 

まとめ

 

 珊瑚海海戦により五航戦航空隊は実質的に壊滅、空母翔鶴は修理に3ヶ月を要する大損害を受けた。初戦期で日本の戦力が一時的に連合軍の戦力を上回っていた状態であったとはいえ、日本側は、第一航空艦隊に集中していた空母戦力を分散、さらにまた五航艦と祥鳳を分散して運用するという悪手を行ってしまった。緻密過ぎる作戦と無駄な戦力の分散は以降も日本海軍の作戦で多く見られる傾向である。

 

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01_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 真珠湾攻撃とは、1941年12月8日に日本海軍の空母部隊、小型潜水艦が真珠湾に停泊中の艦船、軍事施設を奇襲した。これにより太平洋戦争が開戦する。合計2回攻撃を行い、戦艦を中心に多くの艦艇を行動不能にしたが、石油タンク、修理工廠は攻撃対象としなかったため攻撃は不徹底で空母を捕捉出来なかったこと合わせて、第二次攻撃をするべきであったのか否かがしばしば問題となるが、実際の諸条件を加味すれば南雲機動部隊の行動は妥当だったといえる。

 

真珠湾攻撃 〜概要〜

 

02_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の南部仏印進駐によって対日石油禁輸等の強硬措置を決定した米国に対して、日本は交渉を継続する一方、対米戦の準備も開始していた。連合艦隊は新しい兵器である航空機で真珠湾に停泊中の艦艇を行動不能とする計画を立てる。当時は一般には、航空機で戦艦を撃沈できるとは考えられておらずかなり奇抜な作戦であった。

 当時、空母は各艦隊に分散配置されていたが、真珠湾攻撃のために空母を終結、第一航空艦隊を編成した。第一航空艦隊に編入された空母は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、そして就役したばかりの翔鶴、瑞鶴の6隻であった。この艦隊は、司令官の苗字をとって南雲機動部隊とも言われる。この南雲機動部隊は、演習を偽装して別個に択捉島単冠湾に集結、11月26日に事前に調査した上で最も艦船の航行しない航路を選択して真珠湾に向かった。

 12月2日、洋上で攻撃決行の暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を受信、当初の計画通りに12月8日早朝、第一波攻撃隊183機が真珠湾を攻撃、同時に潜水艦によってハワイ近海まで輸送された2人乗り小型潜水艦「甲標的」5隻も真珠湾を攻撃した。続いて第二波167機が真珠湾を攻撃、これらの攻撃で米側は戦死約2,300名、航空機200機撃破、戦艦4隻、その他2隻が撃沈した他、米海軍主力戦艦のほとんどに致命的な損害を与えた。

 しかし、日本海軍が重要攻撃目標としていた空母は在泊しておらず、膨大な量の石油備蓄タンク、艦艇の修理工廠も攻撃を受けなかった。南雲機動部隊は一撃のみを行い真珠湾近海を離脱、日本本土に帰還した。日本側の損害は航空機29機である。

 

第二次攻撃は必要だったのか

 

03_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本軍の攻撃は艦艇や飛行場に集中したため膨大な量の石油タンク、修理工廠は無傷であったため攻撃後、被害を受けた艦艇の多くはすぐに引き上げられ戦争後半には戦列に加わっている。このため、これらを攻撃するために第二次攻撃を行うべきだったのか否かというのが必ずといっていいほど議論になる。これに関しては、海軍の作戦全般を統括する軍令部と連合艦隊の作戦目標のずれが指摘されている。

 軍令部が設定した真珠湾攻撃の目的とは南方資源地帯への進攻を円滑に進めるために米太平洋艦隊を一時的に無力化することであり、連合艦隊の作戦目標は艦隊を含むハワイ基地の機能を無力化することであった。これらの意見のずれは結局、最後まで統一されることはなく不明瞭で、いわば「現場任せ」の状態となっていた。このため南雲中将が一撃で戦艦部隊を無力化したのち帰還したのは軍令部の作戦目標に沿った行動であったといえる。

 むろん石油タンクや修理工廠を使用不能とするに越したことはないが、南雲機動部隊は、第一波攻撃で9機が撃墜、第二波攻撃では20機が撃墜されており、明らかに米軍の反撃体制が整備されつつあることが分かる。ここで第二次攻撃を行った場合、その損害は第一次攻撃を遥かに上回ったことは確実であり、さらには無傷の米空母部隊が攻撃してくる可能性も高かった。さらには日本軍は修理や補給というのを軽視しており作戦計画でも攻撃目標とされていなかった。これらの点も考慮すれば南雲機動部隊の行動は妥当であったと考えてよい。

 

まとめ

 

 真珠湾攻撃は、その準備から実施まで非常に緻密に計算して行われた作戦であった。作戦は参加する隊員に対しても一切知らされることなく準備され、参加部隊は演習と偽り、別々に本土から出撃していった。全参加者に攻撃目標を知らされたのは択捉島単冠湾であった。この緻密さ故に真珠湾攻撃は成功したものの、宣戦布告前の攻撃であったため卑怯なだまし討ちとして「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、国民一丸となって戦争に邁進していく。

 

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01_ヘンダーソン飛行場
(画像はヘンダーソン飛行場 wikipediaより転載)

 

 ヘンダーソン基地艦砲射撃とは、日本海軍の戦艦金剛、榛名以下12隻の艦艇が一晩中ガダルカナル島ヘンダーソン基地を艦砲射撃した戦闘。砲撃は大成功でヘンダーソン基地に合計966発の砲弾を撃ち込むことに成功、全艦無事に帰還した。ヘンダーソン基地は航空機54機を喪失、第一飛行場が一時的に使用不可能となったが、第二飛行場が完成していたため致命傷とはならなかった。

 

ヘンダーソン基地艦砲射撃 〜概要〜

 

02_金剛型戦艦
(画像は金剛型戦艦右から金剛・榛名・霧島・比叡 wikipediaより転載)

 

 1942年10月11日、日本海軍の拠点トラック島を栗田健男中将が指揮する日本海軍の戦艦金剛、榛名、軽巡五十鈴他駆逐艦9隻が出撃、直掩機6機の護衛の下にソロモン海域に侵入した。10月13日夕方より全力でガダルカナル島に侵入、23時より14日1時まで2時間ほど、ヘンダーソン基地に対して砲撃を開始、基地攻撃に有効であると考えられた対空用の零式弾、三式弾、ついには副砲や徹甲弾等ありとあらゆる砲弾を撃ち込みまくった。当時の航空機は夜間攻撃が出来なかったため、栗田艦隊は夜陰に乗じて侵入、砲撃終了後は、最大戦速の29ノットで脱出した。その間、米軍魚雷艇の攻撃を受けたものの撃退、全艦が無事に帰還した。

 米軍側は海兵隊が反撃するも砲弾が届かず、ヘンダーソン基地所属航空機96機の内、54機が撃破された他、第一飛行場が一時的に使用不可能となった。しかし日本軍に知られていなかった第二飛行場は無傷であり、被害を免れた航空機が翌日には出撃、日本軍を攻撃している。

 

艦砲射撃の威力

 

 「一度成功すると何度でも同じことをやる」と米軍高官に言わしめた日本軍、翌14日夜にも重巡鳥海、衣笠と駆逐艦2隻がガダルカナル島に侵入、ヘンダーソン基地に対して752発の砲弾を撃ち込んでいる。さらに15日夜には重巡妙高、摩耶以下9隻が主砲926発を撃ち込んでいる。これらの前後も含めてヘンダーソン基地に対する砲撃は何と13回にも及んでいる。結構な確率で砲撃は成功しているものの、ヘンダーソン基地に対しては致命傷となるような損害を与えることは出来なかった。これに対して日本軍は待ち構えていた米艦隊の攻撃により戦艦比叡、霧島を失っている。

 戦艦の砲弾は対艦攻撃用には徹甲弾を使用するが、日本海軍は対空戦闘用に空中で爆発する零式通常弾、三式弾を開発していた。これらの砲弾は時限信管を持っており、時間になると爆発、内部にあるマグネシウムや金属片を周囲に飛散させる仕組みになっていた。ヘンダーソン基地砲撃にはこれらの砲弾が使用され、一定の効果を発揮したが、撃ち尽くした後は通常の徹甲弾を撃ち込んでいる。何もしないよりはマシだが地上目標に対しては地面にめり込むだけなのでほとんど効果はない。

 この艦砲射撃を受けた米軍は早速この戦法を応用、戦争後半の太平洋の島嶼攻撃、沖縄本島への攻撃等を行った。米軍の艦砲射撃は航空機による制空権の確保、地上爆撃を行った上で、圧倒的な火力に正確な着弾観測を行い、目標をエリアで区切り一つずつ徹底して潰していくというものであった。この砲撃の凄まじさは当時の日本軍兵士の手記等により知ることが出来る。この艦砲射撃は1991年の湾岸戦争においても戦艦ミズーリ、ウィスコンシンによってイラク軍陣地に対して行われている。

 

まとめ

 

 ヘンダーソン基地艦砲射撃は、一定の戦果は上がったが、米軍のように一点に全戦力を投入して徹底して行うというものではなく、戦力を小出しにしている感が否めない。だが、仮に全戦力を集中して投入したところでガダルカナル島を再占領維持するのは日本の国力、特にロジスティクスの観点から考えると難しかった。ここは内地からは遠すぎるのだ。

 

 

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01_台湾沖航空戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 台湾沖航空戦とは、空母17隻、航空機1,100機の陣容を誇る米海軍第38任務部隊をコテンパンにやっつけようと陸海軍の航空機によって総攻撃をかけたところ攻撃は大成功。空母19隻を撃沈する戦果を挙げ米海軍を壊滅させたと思っていたのだが、実際の戦果は全部誤認で、実は日本の航空部隊が壊滅していたという作戦。米国ではフォルモサ航空戦(フォルモサとは台湾の別称)と呼ばれている。

 

台湾沖航空戦 〜概要〜

 

02_第38任務部隊
(画像は第38任務部隊 wikipediaより転載)

 

 日本軍が勝手に設定した絶対国防圏を容易に突破した米海軍に対して、海軍では762空が編成された。これは通称「T攻撃部隊」と称され、海軍の熟練搭乗員と気鋭の若年搭乗員で編成された荒天時や夜間の攻撃を主任務とする決戦部隊であった。特に台湾沖に頻繁に発生する台風と共に接近、攻撃をかける戦法を企図していた部隊で名称の由来は「Typoon(台風)」の頭文字、はたまた「Torpedo(魚雷)」の頭文字とも言われている。当時の粗悪乱造で性能の低下した航空機とメチャクチャ練度が低い搭乗員でやるには難しすぎる任務である気もするが、陸軍からも飛行第7戦隊、98戦隊が編入されて米機動部隊の襲来を今や遅しと待ち構えていた。

 そんなさ中の1944年10月10日、太平洋艦隊司令官ニミッツに台湾攻撃を命じられたハルゼー大将は沖縄諸島の日本軍拠点を攻撃する。10月12日にT攻撃部隊が出撃、第38任務部隊に対して以降4日間にわたって航空攻撃を敢行する。その結果、日本軍の戦果は空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻撃沈、その他15隻撃沈・撃破という大戦果を挙げた。

 これに対して日本軍の損害は航空機の損失312機。空前の大戦果に日本は沸き立ったが、後日、それが全て誤認戦果であることが発覚、実際の戦果は航空機89機撃墜と重巡2隻大破程度であった。

 

幻の大戦果が生まれるワケ

 

03_大本営発表
(画像は開戦時の大本営発表 wikipediaより転載)

 

 これ、一般に大本営発表の嘘として有名なのだが、軍上層部が実態を知っていながら虚報を流したと考えているのであれば完全な間違いで、当時の軍上層部のお偉方は完全に信じ切っていたのだ。何でこんな「幻の大戦果」が発生してしまったのかというと、理由は単に搭乗員の経験不足。そもそも戦果の誤認はベテランでもかなり発生する。戦後の調査でも練度の高い搭乗員で編成された開戦初期の作戦でも多くの誤認戦果が発生している。航空機の戦果では実際の戦果の倍以上に誤認されているのもザラなのだ。

 何でこんなことが起こるのかというと、戦闘中はもちろん冷静でいられない。敵は大きく見え、希望的観測によって自身の戦果は過大に認識してしまう。ましてや実戦経験の少ない若年搭乗員や初めて雷撃を行う陸軍航空隊員が戦果を確認しにくい夜間攻撃を行えばその誤認たるや目を覆うばかりである。

 例えば、雷撃機が魚雷を発射!敵艦に命中、闇夜に火柱が上がる。そしてすぐに火柱は消える。実際は、命中はしたものの敵艦の乗組員の処置により即座に鎮火していても、搭乗員からしてみると「大爆発!一瞬で轟沈!」となる。元々敵は大きく見えるのだが、闇夜ともなればそれは駆逐艦が戦艦になってしまう。そこで「戦艦1隻轟沈!」という戦果が報告されるのだ。

 それを複数の航空機の搭乗員がそれぞれに報告する。そうすると実は駆逐艦1隻が大破した程度であっても「戦艦3隻撃沈!」というような誤認戦果が生まれる。報告を受ける上官としてみても、当の搭乗員達は本気で信じているし、自分が実際に現場に行った訳でもないので否定する要素は何もない。さらには部下の戦果を認めてやりたい気持ちや自身の願望が重なってそのまま戦果として認めてしまう。その報告がどんどん上に上がり「幻の大戦果」が生まれるのである。

 

まとめ

 

 この台湾沖航空戦の当時、大本営陸軍部の「マッカーサーの参謀」こと堀栄三氏は当初からこの大戦果を不審に思い、帰還した搭乗員に対してヒアリングを行っていた。結果、誤認戦果であると推測していた。さすがマッカーサーのレイテ上陸をぴったり的中させた情報参謀である。でも、普通の人はみな信じたいことを信じるのだ。

 

 

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