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海防艦

01_淡路
(画像は淡路 wikipediaより転載)

 

要約

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の設計を大幅に改良して誕生した海防艦である。択捉型の建造途中に設計が完了したため設計が反映できる艦から択捉型から御蔵型に変更された。大きな変更点は主砲に対空砲が装備されたこと、爆雷投射機が2基になり爆雷搭載量が36個から120個に増加されたこと、船体の構造が耐寒、耐氷仕様でなくなり構造が簡略化されたこと、船体が択捉型よりも1m延長したこと等がある。燃料搭載量を200トンから120トンに減らしたため航続距離は減少した。8隻が竣工、5隻が戦没している。

 

御蔵型海防艦

 

02_御蔵
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

建造

03_能美
(画像は wikipediaより転載)

 

 1941年、戦時計画により海防艦30隻の建造が始まった。これが択捉型でこの択捉型は、改占守型と呼べるようなもので個艦としては性能が良いものの量産に向かない占守型に小規模な改良を加えた程度のものだった。しかし太平洋戦争が始まると実戦部隊からのフィートバックがあり、設計を大幅に変更。新たに乙型海防艦と呼ばれる海防艦を設計した。以降、建造予定の択捉型も順次、この乙型海防艦に設計変更することとなった。その結果、30隻中、択捉型は14隻のみとなり、残りは乙型海防艦として建造されることとなった。この乙型海防艦こそが御蔵型である。

 それまでの占守型、択捉型は主に北方警備用に設計された艦であったため、北方警備用としては申し分ないものであったが、対空火器、対潜火器が貧弱で船団護衛等には向かず、また戦時設計ではない上に質の高い艦を持つことで欧米との数の格差を埋めようとする個艦優越主義の下に設計された艦であるため工期が非常に長く量産には向かない艦であった。御蔵型は初めてこれらの問題点を大掛かりに修正した艦であった。

 

 

御蔵型の特徴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 主な修正点としては、占守・択捉型海防艦で使用されていた旧式駆逐艦の主砲を転用した三年式45口径12センチ単装平射砲から45口径12センチ高角砲連装1基(A型改三)、単装1基に変更、爆雷投射機も択捉型が九四式爆雷投射機1基に対して御蔵型は倍の2基を搭載している。爆雷数も占守型が18個、択捉型が36個であったのに対して120個と一挙に3倍以上の搭載数となった。それまでの海防艦が高角砲を持っていないという致命的な欠点が本級より改善されている。その他、25mm連装機銃2基、掃海具等は択捉型と同じである。

 船体もそれまで北方で運用するために必要であった耐氷、耐寒機能も排除され、上甲板の上部構造の全通も廃している等、簡略化された構造になっている。全長は120個の爆雷を搭載するために1m延長延長され、建造には電気溶接も多用された。しかし燃料搭載量は択捉型200トンに対して120トンに減少されてしまった。これにより航続距離が択捉型が16ノットで8,000海里であるのに対して同ノットで5,000海里と3,000海里減少しているが戦時設計の海防艦としては十分な航続距離であると言って良い。

 これらの設計変更の結果、御蔵型は基準排水量は70トン増加して940トンとなり、航続距離こそは減少したものの、主砲は対空射撃可能となり爆雷搭載量は3倍以上となった。船体部の工事工数は占守型よりも40%、択捉型よりも20%減少しており、実際の建造期間も占守型の平均建造期間が271.8日となり、占守型の587.5日、択捉型の326.9日に比べると占守型の46%、択捉型の83%の工期で完成している。一応、択捉型の約8割で完成しているものの量産性はまだ高いとは言えず、さらに設計を簡略化した改乙型海防艦日振、鵜来型へと繋がっていく。

 

 

戦歴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 1943年10月30日に竣工した御蔵は、それまでの択捉型と同様に翌月には海上護衛総司令部に所属、船団護衛に活躍するが、1945年3月28日戦闘中に亡失、5月25日除籍となった。2番艦三宅は太平洋戦争を生き抜き、戦後復員船として活躍、役目を終え1948年7月2日に解体された。3番艦淡路は1944年1月25日に竣工、船団護衛に活躍するも同年6月2日、米潜ギターロの雷撃により沈没してしまう。僅か4ヶ月強の活躍であった。4番艦能美も1944年2月28日に竣工、船団護衛に活躍するが1945年4月14日米潜ティランテの雷撃により沈没した。1番艦御蔵と同日の5月25日に除籍される。

 5番艦倉橋は、2月19日竣工。船団護衛に活躍し終戦を迎える。戦後は6番艦屋代と共に掃海任務に就いた後、1947年9月賠償艦として英国へ引き渡されるが、当時の英国は同様の護衛艦が余っていたため1948年1月に解体された。6番艦屋代も船団護衛に活躍した後に終戦を迎える。前述の掃海任務に就いたのち1947年8月賠償艦として中華民国に引き渡される。艦名雪峰として活躍、1950年正安に改名、1963年に除籍解体された。

 7番艦千振は1944年4月3日竣工、レイテ沖海戦では燃料補給部隊を護衛、11月7日、マニラ湾にて僚艦と共に米潜グロウラーを撃沈するが、翌年1月12日、米雷撃機の空爆により撃沈。3月10日除籍となる。8番艦草垣は1944年5月31日に竣工するも8月7日、3番艦淡路を撃沈した米潜ギターロの雷撃により沈没、10月10日除籍となる。約2ヶ月の短い活躍であった。

 

まとめ

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の建造中に設計が完成し、間に合った艦から御蔵型に変更されていった。船体は簡略化したが、装備は択捉型を大きく上回っていた。合計で8隻が竣工したが、内5隻が戦火の中で失われ、終戦時に残存していたのは僅か3隻のみであった。船団護衛に東奔西走した海防艦、その戦いの激しさはこの数字からも明らかである。

 

関連リンク

前級択捉型海防艦

 

 

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01_択捉
(画像は wikipediaより転載)

 

要約

 

 択捉型海防艦は太平洋戦争開戦前に計画、開戦後に建造された海防艦で基本設計は占守型海防艦と同じであり、違いは船首と舵の形状、爆雷搭載数が増えたこと等である。短期間の工期で建造するための設計の簡略化は不十分であったが、それでも占守型の56%の工期で建造、戦中に14隻が竣工、南方での船団護衛に活躍したが、8隻が戦没している。戦後生き残った数隻は中華民国や人民解放軍に編入されて戦後も活躍した。

 

択捉型海防艦

 

02_佐渡
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

船団護衛用海防艦

 1941年、日米開戦の可能性が濃厚になる中で日本海軍は戦時体制に徐々に移行している。この中で計画されたのがマル急計画と呼ばれる戦時建造計画であった。この計画には、米英国と戦争が開始された場合に必須となる南方地帯からの物資輸送を護衛するための護衛用海防艦30隻の建造が含まれていた。これが択捉型海防艦であった。主に南方での運用を前提にしていた海防艦であり、戦時大量生産を考慮すべきであったのだが、時間の制約上、新規に設計することはなく、占守型海防艦の設計をほぼそのまま受け継いだものであった。このため公式には択捉型海防艦は占守型海防艦として分類されている。

 

択捉型海防艦の性能

 占守型との違いは、舵を半平衡舵から平衡舵に変更して大型化していることや艦首を直線に近い形状にして簡略化等である。その他も出来るだけ簡略化を図り、生産性を向上させている。武装は占守型と大きく変わらず、主砲は旧式駆逐艦の物を再利用した三年式45口径12センチ単装平射砲3門で、この砲は旧式な上、仰角が+33°と対空射撃には向かない砲であった。対空用の武装としては25mm連装機銃2基、さらに対潜用に九四式爆雷投射機1基を装備していた。爆雷数のみは占守型の18個に対して倍の36個を搭載している。タービンは占守型と同じ22号10型ディーゼル機関2基2軸で最大速度19.7ノット、航続距離も16ノットで8,000海里と占守型と同等の性能を持っている。燃料搭載量は占守型よりも20トン少ない200トンである。レーダーやソナーは装備に間に合った艦は新造時から搭載している。

 戦時を意識して計画された艦ではあったが、元になった占守型は軍縮条約によって保有量において不利となった日本海軍が個艦の性能を米英に比して高性能とすることで量の不利を補おうとする個艦優越主義の下に設計された艦なので個艦としての能力は高いものの、大量生産には向かない設計であった。このため建造計画30隻の内、16隻は、のちに乙型、改乙型の設計が完了するとそれぞれの型に設計が変更されていき、結局、択捉型として完成したのは14隻のみであった。

 

 

建造

03_満珠
(画像は wikipediaより転載)

 

 この択捉型14隻の内、起工したのは2番艦松輪が最初で1942年2月20日に起工、続けて3、4番艦が2月中に、1番艦も翌3月には起工した。1943年3月23日に2番艦松輪が最初に竣工したのを皮切りに13隻が1943年中に竣工している。一番最後の択捉型は14番艦笠戸で、1943年8月10日起工、1944年2月27日に竣工している。全14隻の平均工期は326.9日で最短が14番艦笠戸の201日、最長が1番艦択捉の418日である。戦時急造と呼べるレベルの工期ではないが、それでも占守型の平均工期587.5日に比べれば択捉型は占守型の約55.6%の工期で完成している。無論、占守型が平時の建造で択捉型が戦時中の建造であることもあるので一概に比較はできないがそれなりの数字といえる。

 

戦中、戦後の活躍

 起工から約1年の1943年3月に2番艦松輪が竣工、同月中にさらに2隻、5月に2隻、6月に1隻、7月に2隻と順次竣工していった。1944年2月に竣工した14番艦笠戸まで合計14隻の択捉型海防艦は占守型が主に北方警備に使用されたのに対して南方の船団護衛に使用された。そのため損害も多く、終戦までに全14隻中8隻が戦没、1隻大破、1隻は修理中で終戦時に稼働状態にあったのはわずか4隻のみであった。

 択捉型海防艦で終戦を迎えたのは合計6隻で、4隻が稼働状態、1隻が大破状態。1隻が香港で修理中であった。大湊で大破状態であった14番艦笠戸はそのまま修理されることなく1948年に解体。稼働状態にあった4隻は戦後復員船として多くの日本人を内地に帰した後、戦時賠償艦として連合国に引き渡された。この4隻の内、1番艦択捉、10番艦福江はそれぞれ米国と英国に引き渡されたものの、これらの国では使用されることもなくどちらも1947年中に解体されている。残り2隻は中華民国に引き渡され、4番艦隠岐が「固安」、7番艦対馬が「臨安」として中華民国海軍に編入された。さらに終戦時修理中であった12番艦満珠も中華民国が海防巡艦七号として押収された。

 中華民国に押収された択捉型海防艦の内、臨安(対馬)は、中華民国海軍の艦艇として人民解放軍相手に活躍したのち退役、1963年に解体された。固安(隠岐)は1949年2月に人民解放軍に鹵獲され、機雷敷設艦「長白」として南海艦隊に編入、1982年に除籍された。海防巡艦七号(満珠)は1949年に人民解放軍に鹵獲され、1954年に「南寧」として南海艦隊に編入、1979年に退役した。

 

まとめ

 

 択捉型海防艦は、占守型と異なり主に南方での船団護衛に使用された。このためほぼ同型艦でありながら主に北方警備に使用された占守型が太平洋戦争終戦までに4隻中、1隻が撃沈されたのみであったが、択捉型は14隻中8隻を失い、稼働状態にあるのはわずか4隻という満身創痍の状態であった。対潜護衛を第一目的に設計された択捉型は、戦没艦8隻中6隻が潜水艦による雷撃での戦没であったことは皮肉であった。日本と米国の国力、技術力の差が如実に表れてしまった結果であったといえる。

 

関連リンク

前級占守型海防艦

 

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01_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

要約

 

 占守型海防艦とは日本海軍が主に北方での漁船の警備、救難のために建造した排水量860トンの小型艦艇である。北方での活動を想定していたため、船体は耐氷構造で、解氷装置、暖房等が充実していた。速度は19ノットと遅いもののディーゼル機関の採用により航続距離は長く燃費の良い艦であった。高性能であったが、武装は旧式駆逐艦から転用した12センチ平射砲、爆雷数も少なく、何よりも造船工数が多く、量産には不向きな艦であった。4隻中3隻が終戦を迎え、1隻が賠償艦としてソビエトに引き渡された。

 

占守型海防艦

 

02_国後
(画像は国後 wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。

 この流れが変わったのが1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結であった。この条約は列強各国の補助艦艇の建造を制限するためのもので、この条約の結果、それまでのワシントン海軍軍縮条約では対象外であった空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦に至るまで軍縮の対象となった。しかしこの条約では排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦は対象外とされた。つまりは無限に建造することが可能なのだ。

 

 

北方警備用艦艇

 では、この無制限の枠をどう使うのか。日本海軍が考えたのは、北方警備用艦艇の建造であった。当時の日本の国土は北は南樺太、占守島を北端とする千島列島が含まれており、この海域の豊富な漁業資源を求めて多くの日本漁船が操業していた。この日本漁船の警備や事故時の救助等をするために速度は遅くとも航続距離が長く耐氷性に優れた艦艇が必要とされていたが、日本海軍には適当な艦が存在しなかった。このため海軍は駆逐艦を派遣して代用としていたのだ。

 しかし駆逐艦とは本来艦隊戦闘を行うための艦種であり、速度は速く小回りが利くように設計されている。武装も魚雷を装備する等重武装であるが、こと漁船の警備、救助等にはオーバースペックであり、むしろ高速、重武装故の燃費の悪さや北方の極寒海域で活動するための専用装備を持っていない点がマイナスポイントであった。

 北方警備用の専用艦艇を開発することは上記の点からメリットがあったのは言うまでもないが、ロンドン海軍軍縮条約によって保有数が制限された駆逐艦を北方警備から本来の任務に戻すということも重要な目的であった。このため海軍はロンドン海軍軍縮条約が締結された翌年の1931年から北方警備用艦の建造を計画するが、予算不足のため実現するには至らなかった。

 

新型海防艦完成

03_八丈
(画像は八丈 wikipediaより転載)

 

 初めて建造計画が承認されたのが、1937年の第三次補充計画でこれにより警備用小型艦艇の建造が決定した。この小型艦艇は海防艦に類別され翌年の1938年に建造開始、のちに占守型海防艦と命名された。排水量は860トンであるが、計画の排水量は1200トンとされた。これは同計画で計画されていた戦艦大和を秘匿するためのもので大和の排水量65000トンを同計画で建造される様々な艦艇に割り振ったためである。

 前述のように北方警備を主目的に設計された艦であるため舷側は高く、船体は耐氷構造となっている。暖房設備は充実しており、艦内は露天甲板に出ることなく移動することが可能であった。当時の日本の艦艇の建造方針である個艦優越主義の下に設計された艦であるため艦自体のスペックは高かったが、大量生産向きではなく、造船工数は9万と後の丙型海防艦の4倍近い工数を必要とした。

 機関は燃費の良い22号10型ディーゼル機関を採用、2基2軸で出力4,050馬力、速力19.7ノットと駆逐艦の70%程度の速力しかないものの、航続距離は16ノットで8,000海里と同じ7弉茲之造された陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里よりも遥かに長大なものであった。搭載している燃料が占守型220トンに対して陽炎型622トンであることからも占守型の燃費の良さが良く分かる。因みにこの22号10型ディーゼル機関は飛行艇母艦秋津洲、潜水空母伊号13型等に採用されている。

 武装は主砲に三年式45口径12センチ単装平射砲3基を装備したが、これは予算の都合上、旧式駆逐艦の「おさがり」であった。大正3年に開発されたこの砲は手動式で射程距離15,000mであるが、仰角が+33°であり、航空機に対しては無力であった。占守型はのちにソナーやレーダーも追加で装備されていくが、この主砲が換装されることはなかった。北方警備が主目的ではあったが、掃海や艦船の護衛等も任務としているため、25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機1基、爆雷18個、掃海具を装備している。

 そしてこの占守型海防艦に対しては軍艦籍が与えられた。この「軍艦」とは日本海軍の軍制上の用語であり、一般に言う軍艦とは異なる。簡単に説明すると、日本海軍の艦艇には軍艦とそれ以外の艦艇があり、軍艦の方がランクは上であった。このため軍艦の艦首には菊の御紋と呼ばれる金色の菊のエンブレムが取り付けられた。軍艦籍を与えられている艦種は、主に戦艦、空母、巡洋艦等の大型艦艇であり、駆逐艦、潜水艦等には与えられていなかった。

 900トンに満たない占守型海防艦に対して軍艦籍を与えられた理由は、海防艦の主目的が北方海域で活動する日本漁船の警護や救難が任務であったからだ。これらの任務の遂行上、ソビエト連邦の艦船等とやり取りする必要性があることが想定されたため、通常の艦艇よりも上のランクの軍艦籍が与えられたのだった。

 

占守型海防艦の活躍

04_石垣
(画像は石垣 wikipediaより転載)

 

 同型艦は占守、国後、八丈、石垣の4隻で、1番艦占守が1938年11月に起工、続いて国後が1939年3月、八丈、石垣が同8月に起工している。2年弱の建造期間を経て1940年6月30日に占守が竣工、続いて国後が同年10月3日、4番艦石垣が1941年2月15日、遅れて3番艦八丈が同年3月31日に竣工している。

 1940年、6月30日、最初に竣工した1番艦占守は、舞鶴鎮守府に本籍を置き(つまり舞鶴が占守の母港)、第二遣支艦隊、南遣艦隊に配属され、主に南シナ海方面で作戦に当たった。1940年から1941年初頭に次々と竣工した占守型も全て本籍は舞鶴で、2番艦国後、4番艦石垣は竣工後すぐに大湊要港部部隊に編入、3番艦八丈は占守と共に第二遣支艦隊、南遣艦隊と異動したのち、1941年10月には国後、石垣と共に大湊要港部部隊に編入された。ここで占守以外の3艦は本来の目的である北方警備の任に就いた。

 太平洋戦争が始まると2番艦以降は引き続き北方警備の任に就き、1番艦占守のみは南方作戦に活躍した。1942年7月1日には、類別等級が改正、海防艦が軍艦籍から除籍され、ただの海防艦となった。1944年7月10日、4番艦石垣が米潜水艦により撃沈され北方警備の占守型は2隻のみとなったが、1945年1月には占守が大湊警備府に配属、再び姉妹艦3隻が北方の警備、救難等に活躍、終戦を迎えた。

 戦後は空襲で被弾した八丈はそのまま舞鶴で放置、1番艦占守、2番艦国後の2隻は復員船として復員業務に当たったが、国後は静岡県御前崎付近で座礁、そのまま放棄された。八丈は1948年に解体されたが、無事に生き残った占守は戦後に賠償艦としてソビエトに引き渡され、ソビエト太平洋艦隊に編入された。1953年には通報艦、1957年には工作艦に類別変更され運用されたのち1959年5月に退役、解体された。

 

まとめ

 

 戦前の個艦優越主義の下に設計された艦であったため大量生産には向かず、造船工数も丙型海防艦の24000に対して90000と圧倒的に多かった。そして主砲も平射砲で対空射撃は出来ず、爆雷も18個と貧弱であった。しかしこれらの装備は、平時の漁船警護、救難活動等を主な目的として想定していたためであり、個艦としては高性能な艦艇であった。幸運にも戦前に竣工した艦でありながら終戦時には4隻中3隻が残存していたという幸運な型でもあった。

 

 

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01_奄美
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 海防艦とは沿岸防衛用の旧式艦の総称であったが、のちには護衛任務を主任務とする800〜900トンクラスの小型艦艇の名称へと代わっていく。初の新造海防艦は占守型でこれは北方警備を想定したものであった。その後、太平洋戦争が近づくにつれ構造が簡略化され、大量生産されていく。全型合計で178隻が建造され、戦時中は船団の護衛等に活躍、一部は戦後、海上保安庁の巡視船として活躍している。最後の海防艦が現役を退いたのは1966年で戦時の簡略化した設計であったとはいえ、20年以上も現役でいられるほど完成度の高い艦であった。

 

日本海軍の海防艦

 

巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍の海防艦とは、本来、沿岸防衛用に使用される軍艦の総称で、英語のCoast Defence shipの邦訳であった。艦種自体は明治時代から存在しており、旧式化した戦艦や巡洋艦、さらには砲艦等の小型艦艇や鹵獲した艦艇等もまとめて「海防艦」と称されていた。つまりは第一線の任務には使用できないものの後方の沿岸防衛用やその他の補助任務には使用可能な艦艇で日本海海戦で旗艦を務めた戦艦三笠や朝日、敷島、富士等の日露戦争時の主力戦艦、出雲や磐手等の巡洋艦も第一線引退後は海防艦として類別登録されていた時期もあった。

 

 

新造海防艦

 

 海防艦とは二線級の旧式艦が指定されるものであったため、当然新型艦等が建造されるはずもなかったが、1930年代に入ると事態は一変する。それはロンドン海軍軍縮条約の締結であった。ロンドン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦以降、列強各国の軍事費が財政を圧迫していることから締結された軍縮条約で、1922年のワシントン海軍軍縮条約が主力艦の保有量を制限したのに対して、1930年のロンドン海軍軍縮条約は当時は補助艦扱いであった空母、巡洋艦やそれ以下の小型艦艇の保有量を制限した条約であった。

 この条約により駆逐艦、潜水艦までが制限の対象になったものの、2000トン以下の小型艦艇は対象外とされた。つまりは2000トン以下であればいくらでも建造できるということになり、駆逐艦の保有量まで規制された各国の海軍にとってはいわゆる「抜け道」で、特に規制された駆逐艦の代用艦として2000トン以下の艦艇の建造に各国は注目することとなった。因みにこの対象外とされる基準はトン数以外にも速度が20ノット以内、砲は6.1インチ砲4門以内である。つまりは排水量2000トンで最高速度20ノット、6.1インチ砲4門搭載の艦艇は条約の制限を受けないということである。

 

占守型海防艦

 

02_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

 この条約の締結を受けて日本海軍は早速上記の制限内での艦艇の建造を計画した。特に必要性が高かったのが北方警備用の艦艇でそれまで駆逐艦で「代用」していたものの、高出力、軽構造の駆逐艦は北方の波浪や氷結には弱く、専用艦の開発が求められていた。このため早速、新型艦の建造が計画されたものの、不況の折でもあり、中々予算が通らなかった。結局、1937年度になってやっと新型艦の建造費が承認された。

 この時建造された新型艦が日本海軍史上初めて新造された「海防艦」占守型であった。当時の日本の最北端の島名を与えられた占守型は、まさに北方での漁船の遭難、救出、警備や居留民の保護を主任務と想定して開発された艦艇で排水量はわずか860トンという小型艦であった。しかし防寒装備や氷結防止装置、耐流氷構造を備え、任務上、長期間の行動が可能なように設計されていた。さらには南方での任務も可能にするため通風能力も強力なものであった。この新型海防艦に関しては公表される際、それまでの海防艦の常識とあまりにも排水量が違うために担当者が、本級の排水量860トンを8600トンと書き換えてしまい、それがそのままそれが発表されてしまったというエピソードもあったようだ。

 このように様々な機能を装備された占守型は当時の日本海軍の主流を占めていた思想で、高性能の艦艇を少数建造するという個艦優越主義の影響もあり、精密で複雑な設計となってしまった。このため次級以降は段々と簡略化されていくこととなる。占守型はネームシップ占守が1938年に起工、1940年6月30日に竣工、さらに2番艦国後、3番艦八丈、4番艦石垣も1941年4月までに竣工した。これら占守型は1番艦占守のみ開戦後も南方で任務に就いたが、他の3艦は本来の目的通り、主に北方で活動している。この占守型4隻の内、1隻が米潜水艦の雷撃により撃沈されたものの、他3隻は終戦まで生き残り、1番艦占守は戦時賠償艦としてソビエト連邦に引き渡し、他の二艦は戦後解体された。

 占守型は建造当初は軍艦として艦首に菊の御紋を持ち、艦長は中佐・大佐が充てられていたが、1942年7月の艦艇類別等級の改正により、海防艦は、軍艦籍から排除され、新たに一艦種として海防艦が規定されたため、海防艦の艦首の菊の御紋は外されることとなった。

 

 

択捉型、御蔵型海防艦

 

03_択捉
(画像は択捉 wikipediaより転載)

 

 太平洋戦争開戦が意識され出した1941年4月、日本海軍は戦時建造計画を策定する。この計画には新たに海防艦択捉型30隻の建造が計画されていた。この択捉型の設計は一部簡略化されているものの基本設計は占守型を踏襲していたため占守型の精密で複雑な設計はほとんど変更されることはなかった。占守型との主な相違点は爆雷搭載数が18個から36個に増加されたこと、旋回性能を向上させるために舵を大型化したこと、艦首の構造を簡略化したことである。

 この択捉型が建造されているさ中、海軍は新たに海防艦の対空兵装と爆雷搭載数の増加、誘爆防止装置を装備した乙型海防艦の開発が決定される。このため択捉型30隻中、変更が間に合った11番艦御蔵から合計8隻が乙型海防艦に変更、海防艦御蔵型となった。そして合計で択捉型14隻、御蔵型8隻が竣工した。これら海防艦は当初は乙型と分類されていたが、のちに丙型、丁型海防艦が建造されると甲型海防艦に分類変更される。

 

 

日振型、鵜来型海防艦

 

05_昭南
(画像は能美 wikipediaより転載)

 

 乙型海防艦が建造されている中、さらに戦時型として大幅に構造を簡略化した改乙型の設計が完了した。このため乙型海防艦の内、残り8隻は戦時型の設計が反映された改乙型として建造されたが、この内3隻は日振型、5隻は鵜来型と呼ばれている。これらは、兵装の違いによって日振型と鵜来型に分かれる。日振型は爆雷投射機こそは旧来の九四式爆雷投射機であるが掃海具を備えている型で、これに対して鵜来型は最新の三式爆雷投射機を装備しているが、掃海具を装備しておらず、重爆雷投射兵装艦といえる。端的に書けば日振型は掃海能力、鵜来型は重爆雷能力を持つことが特徴である。

 開戦前の建造計画で日振型3隻、鵜来型5隻が完成、さらにその後の二度の建造計画で新たに日振型6隻、鵜来型15隻が追加された。これらを合わせると建造された改乙型海防艦は日振型9隻、鵜来型20隻である。そしてこの改乙型海防艦も択捉型、御蔵型同様、丙型、丁型海防艦の建造により甲型海防艦に分類変更された。

 この改乙型は、大量生産を意識して設計されたため、船体はの大部分を平面をして艤装も簡略化された。このため造船工数は大幅に減少、占守型の僅か35%の工数で建造できるようになったが、同時に建造時点で開発されていた新兵器(レーダー、ソナー等)は全て採用、戦後も1960年代まで海上保安庁の巡視船として使用されていることからしても、一概に「安かろう悪かろう」の艦とは言えない。

 

 

丙型、丁型海防艦

 

07_第17号
(画像は第17号 wikipediaより転載)

 

 ブロック工法の採用や設計の簡略化により造船工数は3万強と占守型の35%程度にまで削減された大量生産型の改乙型であったが、戦局は厳しくさらなる大量生産が求められた。このためさらに徹底した簡略化が図られたのが丙型、丁型海防艦である。丙型、丁型海防艦の設計にあたっては、それまでの海防艦、戦時標準船の設計で培ったノウハウを全て採用、さらに作り易くするため船体を鵜来型の940トンから800トンと小型化、最高速度も16ノット程度と割り切って設計された。

 数百隻単位の大量生産が計画されたが、ディーゼル機関が必要数を満たせないため、蒸気タービン機関の艦も建造された。ディーゼル機関装備の艦を丙型(第一号型海防艦)、蒸気タービン機関装備の艦は丁型(第二号海防艦)と呼ばれる。一切の無駄を省いたため居住性は最悪、最高速度も丙型が16.5ノット、丁型が17.5ノットと低速で、丁型に至っては海軍初の単軸推進となった。しかし兵装は12センチ高角砲2門と三式爆雷投射機に爆雷120個とそれなりに強力なものであった。

 この結果、造船工数は2万4000と改乙型よりもさらに削減、4ヶ月で建造することを目標としたが、3ヶ月で完成した艦も多い。最短は75日である。総生産数は丙型が56隻、丁型が67隻であるが、損害も多く、丙型は26隻、丁型は25隻が撃沈されている。

 

 

おわりに

 

 最初に新造された海防艦は占守型でその設計を踏襲した択捉型、さらに御蔵型と続く。その後、大量生産向けに設計された日振型、鵜来型が続き、さらに簡略化された丙型、丁型と続く。総生産数は占守型4隻、択捉型14隻、御蔵型8隻、日振型9隻、鵜来型20隻、丙型56隻、丁型67隻である。この内、終戦まで生き残ったのは占守型3隻、択捉型5隻、御蔵型3隻、日振型4隻、鵜来型17隻、丙型30隻、丁型42隻である。終戦時残存艦の多くは戦時賠償として戦勝国に譲渡されたが、日振型、鵜来型の内数隻は戦後、海上保安庁の巡視船として活躍している。

 

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