トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

近代史

01_ワシントン会議
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 アメリカが提唱。列強各国の中国の権益の新規獲得禁止を決定。現状維持であるが、日本の進出を警戒した米国の圧力や国際的孤立を恐れたため日本は第一次世界大戦で獲得した山東半島を返還することになった。以降、ワシントン体制という軍縮、国際協調の時代が訪れた。

 

九か国条約

 

 日露戦争が終わると日本はロシアから獲得した関東州と南満州鉄道を中心に中国への進出を強めていった。これに対して中国進出に出遅れた米国は満鉄の共同経営を提案するが日本に拒否されてしまう。米国と日本は中国を巡って利害が対立、さらに米国は、大国ロシアに勝った日本へ軍事的な警戒心も抱き始めていた。米国から見れば日本は隣国で、隣国が軍事的にも経済的にも力を付け始めたのだ。そして第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由に参戦。どさくさに紛れてドイツ権益である山東半島や南洋の島々を占領してしまった。

 そこで米国は、自国が主催したワシントン会議によって中国の門戸開放を主張。要するに「自分も一枚かませろ」という訳だ。この結果、締結されたのが九か国条約で、新たに権益を獲得することを禁止した。つまりは「昔の権益は持っていていい」ということだ。しかし日本に対しては満洲の権益には目をつぶる代わりに米国は、第一次世界大戦で獲得した山東半島は返還を求めた。日本の力が強くなりすぎるのは米国にとってよろしくないのだ。

 これに対して日本は抵抗するが、当時の日本は、1907年に締結した日露協約というロシアと結んだ同盟と日英同盟という英国と結んだ同盟の二つの同盟を持っていた。しかしロシアには革命が起こりソビエトとなってしまったため協約は解消、日英同盟の延長も米国やカナダが難色を示していることから日英同盟も危ない。ここで米国の提案を拒否すれば、日本は国際的に孤立してしまう。このため日本は渋々と山東半島は返還することにした。しかしこの条約に参加した国の多くは山東半島の日本支配を肯定していたため、米国の仲介により日本と中国の二国間交渉で返還することになった。

 これらを経て日本は「ワシントン体制」という国際協調の中に組み込まれていった。但し、この九か国条約、ソビエトが入っていなかったこと、違反に対する制裁規定はなかったこと、これがのちに問題となっていくのだ。

 

 

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01_ソビエト
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 ソビエト連邦とは単一の国家ではなく、1922年に成立した複数の共和国で構成される社会主義連邦である。共産主義の構造上の問題から経済が停滞、権力の集中により汚職が蔓延した。1980年代に改革を試みるも中央が統制力を失ったために構成国が独立、1991年に崩壊した。

 

ソビエト社会主義共和国連邦

 

成立から発展

 ソビエト連邦とは、1922〜1991年まであった世界初の社会主義国家である。一応は共和国が集まった連邦国家であったが、ソビエト共産党による中央集権的な政治が行われていた。

 1917年、ロシア帝国が崩壊した。これによりボルシェビキ(のちのソビエト共産党)が臨時政府を設立。その後、ボルシェビキと反対派の内戦が激化するもののボルシェビキが勝利。1922年、ボルシェビキによりロシア帝国の領土の大部分を領域とするソビエト連邦が成立する。しかしボルシェビキを指導していたレーニンは1924年に死亡。後継者スターリンの独裁が始まる。

 このスターリンは反対派を弾圧。大粛清をはじめとする恐怖政治が行われる。経済は、計画経済と呼ばれる中央が全て管理する方式を採用。その失策により、ホロドモールと呼ばれる数百万人規模の餓死が起こるのもこのころである。1953年にはスターリンが死亡するが、ソビエトは、資本主義国家のように競争が無く、権力が集中しやすい構造であったため経済は停滞、集中した権力による汚職が蔓延した。さらに1979年にはソビエト軍がアフガニスタンに侵攻。経済はさらに苦しくなった。

 

改革から崩壊へ

 プラハの春と呼ばれる反対勢力に対する軍事侵攻やアフガニスタン侵攻により西側は対決姿勢を鮮明にする。そして経済の停滞により技術革新も進まず、西側との経済格差は広がっていった。この中で1980年代になるとゴルバチョフ書記長が登場、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)という一連の改革を実施した。これによりソビエトはそれまでの一党独裁の体制から議会政治に移行、経済も自由化が進んだ。

 しかしこれらの政策によって、それまで集中していた権力が分散、情報公開により様々な政権内部情報が公開されたことにより中央の統制力が低下、ソビエト構成国の独立運動がさかんになる。ソビエトの同盟国であった東欧諸国でも民主化革命が起こり始める。

 1991年8月、これらソビエトが解体の方向に進んでいくことに危機感を持った保守派がモスクワで蜂起。クーデターを実施したもののこのクーデターは国民の支持も諸外国の支持も得られなかったため失敗した。しかしこのクーデターによりゴルバチョフも影響力を失ってしまった。中央の統制力が弱体化した結果、ソビエトを構成していた共和国が次々に独立を宣言、新たにCIS(独立国家共同体)を構成することを決定、そして1991年12月25日、ゴルバチョフ書記長はソビエト連邦の解体を宣言した。

 

CIS(独立国家共同体)

 ソビエトに代わり結成されたCISであったが、これはソビエトのように強力な中央集権の連邦ではなく、独立した国家の連合体であった。現在でもロシアを中心に存続しているが、ウクライナ、ジョージアは脱退している。

 

 

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01_長門
(画像はwikipediaより転載)

 

ワシントン会議

 

概要

 ワシントン会議は、1921〜1922年に行われた。提唱したのは米大統領ハーディングで日本、米国、英国、仏国、中国、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダの九か国が参加した。日本側の全権代表は日本海海戦時の連合艦隊参謀長であった加藤友三郎大将である。

 第一次世界大戦(1914〜1918年)は、主に欧州での戦争ではあったのだが、実は日本も連合国軍としてちゃっかり参戦している。この機会とばかりにドイツ領であった山東半島や内南洋の島々を占領した。戦後、パリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約によってヨーロッパの秩序は出来たものの、アジア(要は中国)・太平洋は未だ問題を多く残している(要するに日本)。このため中国や太平洋の各国の権益の調整を図るためにワシントン会議が行われたのだ。結果、中国に関しては九か国条約、太平洋に関しては四か国条約、各国の膨大な軍事費を抑えるための海軍軍縮条約も締結された。

 

九か国条約

 この会議で、中国に対しては日本側が得た山東半島を中国に返還することが決定、同時に中国に対する門戸開放、領土保全、機会均等が決められた。要するに「中国の権益は一つの国が独占しちゃだめだよ」ということだ。これは九か国条約として参加国全部が批准した。これにより日本は第一次世界大戦のどさくさに紛れて取った山東半島を返還した。九か国条約の「九か国」とは、日本、英国、米国、フランス、ベルギー、イタリア、オランダ、ポルトガルである。

 

四か国条約

 さらに太平洋についても話し合われた。これは日米関係が大きな意味を持つ。当時の日米は相当険悪になっていた。日本は中国から第一次世界大戦のどさくさで南洋のドイツ権益の島々を制圧してしまった。膨張する軍事強国日本は米国には脅威だったのだ。当時日本も米国の日系移民への迫害を行っている米国に対して良い印象を持っていない。お互い緊張関係があった。

 この状態で米国が気に入らないのが、長い間続いている同盟関係である日英同盟である。この同盟には米国と日本が戦争状態になった時の参戦条項等はないものの、日本と英国という米国を挟んだ大国同士が結んでいる軍事同盟は気持ちの良いものではない。地理的にみれば、米国は日本と英国に包囲されている状態なのだ。

 何とか二次にわたって続いた同盟をぶっ潰したい米国。米国との関係悪化を心配する英国。そして日本と三者の思惑が交差した結果、日英同盟は軍事的義務や同盟的性格を削除、問題が起これば「協議する」という激ユルな内容に変更。さらに日英に加え米国も加入、何だか分からないがフランスも加入した。結果、「太平洋における領土と権益の相互尊重、非軍事基地化」というこれもまた何だか分からない内容に変更した日英同盟に米仏も加えた四か国条約を締結した。これにより20年にわたって続いた日英同盟は破棄されたのだ。

 

ワシントン海軍軍縮条約

 第一次世界大戦は何とか終了したものの、世界の軍拡競争は激しかった。世界の強国は今の我々がみれば、頭がおかしいのではないかと思うくらい軍隊、特に海軍に予算をつぎ込んでいた。当時は「海軍の力=国力」という側面もあったのだ。当然のように国家予算は圧迫していたため話し合って軍縮をしようではないかということになった。人類史上初の軍縮だったようだ。

 とりあえず莫大な金食い虫である戦艦、空母、巡洋艦という主力艦の新規の建造を禁止、さらに現有の主力艦も保有量を制限した。当初、対英米7割を主張した日本であったが、結果、対英米6割でまとまった。5大海軍国でみると米英5、日本3、仏伊1.67という割合である。さらに主力艦は今後10年間建造を禁止することとなった。これ以降、次のロンドン海軍軍縮条約が失効するまでの間は「海軍の休日(Naval holiday」といわれる。

 

 

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01_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 南下政策を採るロシアに対して国防の危機を感じた日本は開戦を決意、主に北東中国(満洲)や日本近海で日露両軍が激突し、陸軍は辛勝、海軍は完勝する。この後、アメリカの仲介によって講和会議が開かれ、日本は遼東半島の一部、東清鉄道(南満州鉄道)の一部、韓国への監督権、南樺太を手に入れる。戦後数年で韓国を併合、満洲政策を巡ってアメリカと不仲となる。

 

日露戦争 〜概要〜

 

02_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

前史

 日清戦争によって清国の冊封体制から脱した大韓帝国(韓国)にはロシアの影響力が浸透しつつあった。満洲に権益を持つロシアはさらに南下政策を進め韓国にまでその影響力を及ぼそうとしていた。これに対して大日本帝国は隣国である韓国がロシアの影響下に置かれることに国防上の危機感を感じていた。とはいってもロシアは明らかに強そうなので出来れば戦争をしたくない日本は満洲はロシア、日本は韓国という満韓交換論等の妥協案を提示したものの当時の超大国ロシアはクソ弱小国(ロシア視点)の日本に遠慮する必要はなく交渉がまとまることはなかった。

 

日露戦争とは

陸軍の行動

 1904年2月、先遣隊として日本陸軍が朝鮮半島仁川に上陸、さらに本隊の第一軍が朝鮮半島に上陸してロシア軍の抵抗を排除しつつ北上。さらに遼東半島から上陸した第二軍もロシア軍陣地等を制圧しつつ北上した。当時、ロシア軍最強の旅順要塞があったが、これらに対して両軍ともに攻撃しないで北上を続けた。とはいってもやはり旅順要塞を放置していくと主力部隊の背後を突かれてしまうため、5月、乃木大将の下、第三軍を編成、8月に旅順攻略を開始した。

 攻略は1905年1月には終わったが分厚いコンクリートと機関銃で武装された要塞に日本軍は歩兵の突撃で対抗したため旅順攻略戦だけで6万名の死傷者を出すこととなった。そのころロシア軍主力は奉天に集結しており、日本陸軍も第一軍、第二軍、のちに編成された第四軍、さらに旅順攻略を行った第三軍が奉天に集結、2月末には奉天会戦が行われた。ロシア軍36万人、日本軍24万人が参加したこの会戦は日本軍の兵力を過大に見積もった上、包囲されると勘違いしたロシア軍が退却、一応日本軍の勝利ということになった。

 

海軍の行動

 日本海軍は戦時にほぼ全艦隊を集中運用するための連合艦隊を編成。旅順要塞にいるロシア極東艦隊と対峙した。戦力は連合艦隊と同数のロシア旅順艦隊であったが、バルト海に展開する所謂バルチック艦隊が到着すれば戦力は日本の倍となり圧倒的に有利。「だったら待った方が良くね?」と日本艦隊との戦いを避け旅順要塞から出てこなかった。

 出てこないと日本は困るので陸から旅順港を砲撃、これが結構効いちゃったため8月、旅順艦隊は渋々出撃、連合艦隊と黄海海戦が起こり連合艦隊が勝利して旅順艦隊は再び旅順要塞に逃げていった。その後、陸軍第三軍により旅順要塞は陥落。連合艦隊はバルチック艦隊に対抗するための準備を行った。

 バルト海からはるばる喜望峰を回って7ヶ月かけて日本近海に到着したバルチック艦隊であったが、疲労困憊、士気もあるんだか無いんだか。とりあえずウラジオストックに逃げ込もうとするが、対馬沖で待ち受けていた連合艦隊と遭遇、1905年5月、日本海海戦が起こった。ほぼ互角の戦力といっても方や7ヶ月間の航海で疲労困憊、方や十分な休養と訓練で準備万端。勝敗は目に見えており、バルチック艦隊はほぼ壊滅、連合艦隊の完全勝利となった。

 

講和会議

 

03_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 日露戦争は日本の国力を大きく超えていた(戦費の借金を返済し終わったのは何と1986年)。同時にロシアも革命の機運が高まっており、戦争を継続することは困難であった。ここでアメリカ合衆国が仲介に入り、8月に講和会議が行われた。この結果、日本は賠償金(当時は敗戦国が戦勝国に莫大な賠償金を支払う慣習があった)こそは取れなかったものの、それまでロシアが持っていた満洲の遼東半島の租借権(中国から借りる権利)、東清鉄道の一部、終戦間際にどさくさ紛れに占領した南樺太、さらに朝鮮半島の監督権を入手した。

 

その後。。。

 

 満洲の遼東半島の一部と後の南満州鉄道、さらには韓国への監督権をロシアに認めさせた日本。本格的に満洲の開発に乗り出すことになるが、当初、アメリカやその他の国で山分けしましょうね。と言っていたもののロシアと独占してその他の国を締め出してしまった。このため戦争をしたにも関わらずロシアとの関係は急接近。対して講和会議までやってくれたアメリカとは険悪な関係になってしまった。

 

 

 


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01_大阪市
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 「大阪都構想」とは政令指定都市大阪市を廃止する制度のことで名称が「大阪都」と変わることはない。さらに「都構想」によって予算が増えたり支出が削減されることはほとんどない。「大阪都構想」の本質は、大阪市を廃止することで府知事への権限を集中させることである。これにより大プロジェクト等が実行しやすくなるが、この改革のために240億円という費用が必要となるのが問題である。そして一度大阪市を廃止してしまえば法律上、基に戻すことはほぼできない。

 

東京市廃止の理由

 

02_東京市役所
(画像はwikipediaより転載)

 

 東京市とは1889年に東京府の15個の区を統合して誕生した自治体である。当初市長は東京府長官と兼任であったが、1898年に官選による市長が選任されるようになり、1926年からは東京市議の互選により市長が任命された。それまで自治権を持っていた東京市であったが、1943年7月には戦時体制下において強力な集権体制を作ることを目的として東京市が廃止、東京都が設置された。東京市廃止の3ヶ月後の1943年9月30日には絶対国防圏が設定されていることからも東京市の廃止が空襲へ対処するための強権体制であったことは想像できる。

 

「大阪都構想」

 

03_大阪市役所
(画像はwikipediaより転載)

 

政令指定都市とは

 政令指定都市とは人口50万人以上の都市で全国に20都市存在する。1956年に制定された制度で「田舎」とは人口密度も経済的な条件も異なる大都市に特別な権限を与え、独自の行政サービスを行うことを理念としている。つまり人が閑散としている田舎と大都市は条件が全然違うのでそれぞれの特性に合わせて独自の行政を行おうとする制度である。この制度を経済的に担保するために、独自の財源や国からの地方交付税も交付される。

 

「大阪都構想」

 「大阪都構想」とカッコ付きで表現した理由は、「大阪都構想」とは単なるキャッチコピーであり、住民投票によって「都構想」が可決したとしても表記上「大阪都」とはならず、表記上は今まで通り「大阪府」である。それでは「都構想」とは具体的にどういう改革なのかというと、これは単に政令指定都市大阪市を廃止することである。ここで大阪市廃止の問題点について簡単に説明してみたい。

 

二重行政の解消

 大阪市廃止の議論で真っ先にメリットとして挙げられるのが二重行政の解消という問題である。これは同一の行政サービスを府と市が重複して行うことを防ぐことができるというものである。これにより無駄な支出が削減され財政負担が軽くなるとしている。しかし廃止後も同一水準のサービスが行われることはすなわち同レベルの支出を必要とするものであり、人員整理やサービスの廃止をしない限り支出が削減されることはない。そもそも二重行政を解消したいのであれば、重複しているサービスの一方を廃止すれば良いだけの話である。廃止した自治体は財政負担が軽減されるので好都合である。

 

住民サービスが向上する

 財源が増える訳ではないので向上はしない。現状が維持されるか低下するかのどちらかである。

 

大阪の経済力が増す

 何も変わらない。東京都と同じ制度に変更したからといって税収が増える訳ではない。東京都の予算が潤沢なのは、人口の多さと大企業の本社が集中しているためであって行政制度の結果ではない。

 

政策を強力に推し進めることができる

 これは可能である。大阪市を廃止することで大阪市の財源の大半を大阪府が管理することになるため大阪府知事の権限が増す上、大阪市長が存在しなくなるため大阪府知事が提案した政策はスムーズに運びやすくなる。行政区分の「垣根」が無くなるため幹線道路等の行政区分の問題が起こりやすいプロジェクトは円滑に進むようになる。但し、現状でもプロジェクトを実行することは可能である。

 

大阪市以外の大阪府民にとってはメリットになる可能性もあり

 それまで大阪市民のために使われていた膨大な予算の多くが大阪府の管理なるため大阪府知事の政策によっては大阪府民への行政サービスは向上する可能性があるが、当然、予算は限られているのでこうなった場合、大阪市民への行政サービスは低下することになるが、大阪府民として同等のサービスを受けることができる。

 

片道切符である

 現行法上、政令指定都市を分割して特別区を設置することは可能であるが、特別区を政令指定都市にする法律はない。このため一度、政令指定都市から外れると大阪市を復活させることはほぼ不可能である。仮に特別区を政令指定都市にする新法を作ったとすれば、その新法は東京の特別区も対象になるため東京市が生まれる可能性がある。これは「東京市」以外の地域に在住する東京都民の多くが猛反対する可能性が高い。東京都の人口は日本の人口の1/10を占めるため立法化は難しい。

 

まとめ

 

 巷でいわれているような「二重行政の解消」による支出の削減という効果はほぼないといっていい。仮に二重行政が行われているのであれば現状でも解消が可能であり、わざわざ政令指定都市を廃止する必要はない。「都構想」の一番のポイントは、東京都が設置された理由からも分かるようにそれまで府と市に分散されていた権限を府知事に集中させることである。これにより大プロジェクトが実行しやすくなるが、同時に制度を変更する経費として240億円が必要とされる。

 「大阪都構想」とは最も端的にいえば、「240億円の費用をかけて大阪府知事の権限を強化する制度」と結論付けられる。

 

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01_満州事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 満州事変とは、1931年9月の柳条湖事件から始まる関東軍による一連の軍事行動である。関東軍は謀略により満洲の軍閥張学良軍に対して戦闘行動を開始、各地を制圧する。その後朝鮮軍が投入され満洲全土をほぼ制圧した。軍部の暴走であったが、政府も満洲国を承認したものの国際連盟はこれを認めなかったため日本は国際連盟を脱退する。

 

満州事変 〜概要〜

 

02_あじあ号
(画像はwikipediaより転載)

 

 1906年、日露戦争終結により、日本はロシアから遼東半島先端部分の関東州の租借権と旅順から長春までの南満州鉄道と付属地の権益を継承した。日本軍はここにこれらの権益を守るために関東軍を配置した。当時、日本は満洲全土を支配していた訳でなく、それ以外の満洲の多くの部分は、中国の軍閥である張学良が支配していた。

 アヘン戦争後、列強国に食い物にされていた中国であるが、徐々に国権回復の機運が高まりつつあり、満洲を支配する張学良はその一環として南満州鉄道に並行する鉄道を開設、運賃を低価格に設定して南満州鉄道の経営を圧迫、さらに付属地からの商品に高い関税をかけることで日本に対抗していた。同時に日本人への殺害事件等が相次ぎ、中国国内で反日世論が高まるのと同時に、日本国内でも反中国世論が高まっていた。

 

柳条湖事件から満洲占領へ

03_満州事変
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、満洲の権益を保護するために設置された関東軍の参謀達の間では、満州を占領することによりソ連の南下に対して朝鮮を守るという目的から満洲の占領が計画されていた。1931年9月、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破される。これは関東軍の自作自演であったが、関東軍はこれを張学良の軍によるものと断定、即座に作戦行動を開始、奉天、長春、営口の各都市を占領する。

 これらの作戦は計画通りに無事完了したものの、関東軍はわずか1万、対する張学良の軍は45万という圧倒的な兵力差があった。このため関東軍は当時朝鮮に駐屯していた精鋭部隊朝鮮軍の派遣を要請する。当時の若槻礼次郎内閣はこれを拒否するも、世論と陸軍の圧力により認めることとなる。これにより1932年初頭には、日本軍は万里の長城の線を境界線とした満洲全土を制圧、3月には清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を皇帝とした満洲国を成立させた。

 辞任した若槻礼次郎内閣に代わり組閣した犬養毅内閣はこの満洲国承認を渋っていたが、1932年、犬養首相が五・一五事件により殺害、9月には次に組閣した斎藤実内閣が満洲国との間で日満議定書を締結、満洲国を承認した。これら一連の軍事行動は、中華民国政府の提訴により国際連盟の調査対象となり、リットン卿を団長とする調査団が派遣された。調査団の結果は、日本の経済的利益は擁護しているものの満洲国は認めないというものであった。

 

熱河作戦と国際連盟脱退

 

04_リットン調査団
(画像はwikipediaより転載)

 

 ここで少しややこしい話をしたい。満州事変に対して中華民国政府は国際連盟に第11条を根拠に提訴した。この11条とは、「戦争になりそうな事案が発生した時には理事会を開く」という程度の内容であったが、1932年1月に第一次上海事変が発生、海軍陸戦隊と中華民国軍の戦闘状態が発生すると中華民国政府は提訴を11条から15条に切り替える。15条とは「国交断絶する可能性がある戦争」という11条よりも一段と深刻な状況に対応する条文で、国際連盟に提訴された段階で双方戦闘を終始しなければならない。もしも違反した場合は、国際連盟加盟国全部に対して戦争を起こしたとみなされ、16条を根拠に経済制裁、除名の対象になった。この状態で起こったのが熱河作戦である。

 熱河作戦とは、1933年1月に起こった日本軍による熱河省での抗日兵力への掃討作戦である。熱河省とは、日本が主張する万里の長城以東の満洲国内にあった省で、ここで抗日軍が育成されていたため日本軍は掃討作戦を計画する。満洲国内の掃討として天皇の正式な裁可を得た作戦ではあったが、満洲国を承認しているのは日本のみであり、国際的には明確に中国領であった。国際連盟に預けられている最中の案件であるにも関わらず、中国国内で日本軍が戦闘行動を起こしたとすれば前述の16条が発動され、経済制裁、除名の対象となってしまう。

 これに気付いた斎藤実首相は天皇に中止を進言。天皇も同意するが、「一度裁可したものを中止すれば天皇の権威が失墜、軍部の暴走が止められなくなる」と考えた重臣や側近達によって天皇は説得され中止されることはなかった。結局、経済制裁、除名という不名誉を被らないために斎藤内閣は国際連盟の脱退を決意、連盟脱退に強く反対していた日本全権松岡洋右は皮肉にも国際連盟で脱退を宣言して退出することになった。

 

まとめ

 

 満州事変により日本は国際連盟を脱退、1936年にはワシントン・ロンドン軍縮条約も失効、日本は世界から孤立していく。軍拡時代にはいった海軍は条約に縛られない軍艦の建造を開始、陸軍は満洲の防衛用として華北分離工作を開始した。中国では抗日運動が激化、日中戦争へと進んでいく。

 

 

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01_第二次上海事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日中戦争とは、1937年7月7日、日中両軍が盧溝橋事件により衝突、第二次上海事変により本格的な全面戦争へと発展した。12月には日本軍が中華民国政府の首都南京を攻略するも中華民国政府は首都を重慶に移し抗戦を継続した。日本軍は占領地を拡大させたものの米英ソが中華民国を支援したため戦争は泥沼化していく。

 

日中戦争 〜概要〜

 

02_山川日本史詳説
(山川出版社日本史詳説より転載)

 

 満州事変の結果、満洲国を建国、傀儡国家とした日本であったが、満洲国と国境を接するソビエトは徐々に国力を増大させつつあった。これに脅威を感じた日本軍は満洲の防衛のために華北5省を日本軍の勢力圏下に置こうと画策。これに対して中華民国は反感を募らせており、当時、中華民国は対立していた共産党軍との話し合いの結果、まずは共同して日本軍を中国から追い出すことで合意(第二次国共合作)、日本軍と戦う準備を整えていた。

 1937年7月7日、北清事変以降、北京に駐留するようになった日本軍は盧溝橋で演習を行っていたが、ひょんなことから中国軍と戦闘状態に入る。当初日本は、紛争が拡大しないようにしていたが、徐々に拡大していき、日本軍と中国軍は北支事変と呼ばれる戦闘状態となった。

 宣戦布告の無いまま戦争状態に入った両国の戦闘は拡大、第二次上海事変の勃発により全面戦争へと発展した。8月中旬より日本海軍も爆撃機による渡洋爆撃を開始、9月には新たに編成された北支方面軍が河北省、山西省の省都を攻略、これに対してソ連は中国に対する軍事援助を開始する。11月には中支方面軍が編成され江蘇省を攻略、これに対し中華民国政府は首都を南京から重慶に移動、日本軍は12月には中華民国の旧首都南京を攻略した。

 

1938年から太平洋戦争開戦まで

03_九六陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年1月には海軍陸戦隊が青島占領、その後、日本政府は「国民政府を対手とせず」との声明を出した。2月には新たに中支派遣軍が編成され、4月には北支方面軍と中支派遣軍によって徐州を攻略、10月には第21軍によって広東が占領、中支派遣軍によって武漢三鎮が占領された。11月、日本政府が東亜新秩序声明を出した。12月には日本海軍による重慶爆撃が開始、同月、中華民国政府副総裁の汪兆銘が蒋介石と対立、重慶を脱出した。

 1939年になると日本軍は、1月に重慶爆撃開始、2月には海南島上陸、3月には南昌攻略と快進撃を続けるが戦争は泥沼化していった。11月には南寧作戦を実施、南寧を占領、1940年5月には海軍による無差別爆撃である一〇一号作戦が実施、10月まで行われた。9月には米英ソによる中華民国支援物資の補給ルートである援蒋ルート遮断を目的に日本軍による北部仏印進駐が行われ、11月には汪兆銘による南京政府が成立。日本政府によって中国中央政府として承認された。

 1941年5月には江北作戦、中原会戦が行われ、同時に無差別爆撃である一〇二号作戦が実施された。7月には日本軍による南部仏印進駐、9月から11月まで第一次長沙作戦、12月から翌年1月まで第二次長沙作戦が行われた。

 

日本の戦術的勝利、中国の戦略的勝利

 

04_中国軍陣地
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争前夜、中国では日本に対する反感が強くなっていた。同時に日本国内でも中国に対する敵意が増幅していた。この状況の中、満洲を防衛するために華北を狙う日本軍と中国大陸に侵攻させることで米英ソの軍事介入を行わせ日本軍を排除しようとする中国の思惑が盧溝橋事件を引き起こすこととなる。

 盧溝橋事件はどちらが先に発砲したのかは不明であるが、どのみち日中戦争の開戦は必至であった。短期決戦で解決すると思っていた日本軍は局地戦ではほとんどの場合勝ち続けたが、中国軍の策にはまり奥地へと引き込まれていく。同時に中国は米英ソの支援を取り付け長期持久体制を確立、外交により連合国を味方にしていく。そして中国の思惑通り、1941年には米国、1945年にはソ連が対日戦争参戦をしたことにより日本は敗北した。

 

まとめ

 

 対日戦争に勝利した中華民国政府と共産党軍であったが、日本という共通の敵を失った中華民国軍と共産軍は国共内戦に突入した。1949年、中華民国政府は、あまりにも中国国民を犠牲にしたため民心が離反、民衆を味方に付けた毛沢東率いる共産党軍が中華民国軍に勝利、中華人民共和国が成立する。その後、民衆に支持された中華人民共和国では大躍進政策を実施、さらには文化大革命と続くが、これによって数千万人の民衆が犠牲になることになる。

 

 

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01_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 仏印進駐とは、日中戦争の相手国中華民国への補給路を遮断するために日本軍が北部仏印に進出、これに米英が怒って日本への資源の輸出を禁止、資源が欲しい日本は、今度は東南アジアの資源を求めて南部仏印に進出。激ギレした米国は対日石油禁輸をする。石油が欲しい日本は太平洋戦争の開戦を決意する。

 

仏印進駐 〜概要〜

 

02_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

北部仏印進駐

 1937年に何となく始まった日中戦争。日本軍が中華民国の首都南京を攻略したものの、中華民国は内陸部の重慶に首都を変更して抗戦を続けた。この中華民国に対してイギリス、アメリカ、ソビエトは大量の物資を送り続け中華民国を支援していた。このルートは4路あったが、その中でも最大のルートがフランスが植民地としていたベトナム、ラオス(仏印)の北部を通るルートであった。

 1940年、中華民国の「兵糧攻め」を狙う日本軍は、このルートの遮断するため北部仏印に武力進出する。当時、ドイツに占領されて力の衰えていたフランスは日本の要求を受諾せざるえなくなかった。この結果、援蒋ルートの遮断には成功したものの米英の反感を買い、同時期に日本が日独伊三国同盟を締結したこともあって米国は日本への鉄くずの輸出を禁止した。

 

南部仏印進駐

 米英からの反感は買ったものの、制裁は日本側が思っていた程厳しいものではなかったが、日本は戦略物資の供給元を失ってしまった。そこで日本が目を付けたのがオランダ領東インドであった。これは現在のインドネシアに相当する地域で豊富な資源を産出していた。

 南部仏印とは現在のベトナム南部で、ここに進駐することはこのオランダ領東インドに圧力をかけることができるだけでなく、イギリス植民地にも圧力をかけることが出来る要地であった。1941年7月末、日本軍は南部仏印に進出する。日本軍の進出は一応、平和的なものであったが、日本軍の強力な武力を背景にしていることには変わりはなかった。

 これに対して米国は即座に対日石油輸出禁止を決定、石油の輸入を米国に頼っていた日本はピンチに陥る。石油が無くなれば戦争も出来なくなると考えた日本は、11月に対米戦争を決意、12月に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。

 

援蒋ルートとは

 

03_援蒋ルート
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年に日本と中華民国の間で日中戦争(日本側呼称は支那事変)が始まると日本の勢力拡大を脅威に感じた米国、英国、ソ連は中華民国に対して大量の支援物資を送ることで対抗した。この支援物資を送るためのルートを当時の中華民国の主席であった蒋介石から「援蒋ルート」と呼ばれるようになった。

 このルートはソ連からのルート、香港からのルート、仏印ルート、ビルマルートの4つが存在したが、ソ連からのルートは独ソ戦開戦によって余裕が無くなったことや日ソが日ソ中立条約を締結したこともあって閉鎖。香港ルートも1938年に日本軍によって広州が占領されると遮断、残る仏印ルートは日本軍による北部仏印進駐によって遮断されたが、米英はビルマルートにより中華民国を支援し続けたため、日本軍はビルマルートを遮断するためにインパール作戦を行うこととなった。

 

仏印進駐のおすすめ書籍

 

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

 2020年菅内閣時に学術会議任命拒否された6人の内の一人、加藤陽子氏による日本近代史の概略を一般向けに分かりやすく解説した本。加藤氏は日本近代史の専門で本書は多少回りくどい部分もあるが、明治維新以降、日本が太平洋戦争に突き進んでいく姿を描き出している。徐々に選択肢が少なくなり、最終的には開戦に至っていくという過程が良く分かる。

 

まとめ

 

 援蒋ルートを遮断するために行った仏印進駐は米英による経済制裁を招いた。鉄と石油という近代国家に必須の戦略物資の供給を断たれた大日本帝国は米英蘭に対して開戦する。開戦当初は二線級の兵器で武装した米英蘭連合軍を圧倒的な戦力で撃破した日本軍であったが、そもそも日本と連合国では、生産力や技術力に圧倒的な差があったため数ヶ月で快進撃は止まり、以降は守勢から敗北へと突き進んでいく。

 

 

 


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