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わかりやすく解説

01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

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01_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 南下政策を採るロシアに対して国防の危機を感じた日本は開戦を決意、主に北東中国(満洲)や日本近海で日露両軍が激突し、陸軍は辛勝、海軍は完勝する。この後、アメリカの仲介によって講和会議が開かれ、日本は遼東半島の一部、東清鉄道(南満州鉄道)の一部、韓国への監督権、南樺太を手に入れる。戦後数年で韓国を併合、満洲政策を巡ってアメリカと不仲となる。

 

日露戦争 〜概要〜

 

02_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

前史

 日清戦争によって清国の冊封体制から脱した大韓帝国(韓国)にはロシアの影響力が浸透しつつあった。満洲に権益を持つロシアはさらに南下政策を進め韓国にまでその影響力を及ぼそうとしていた。これに対して大日本帝国は隣国である韓国がロシアの影響下に置かれることに国防上の危機感を感じていた。とはいってもロシアは明らかに強そうなので出来れば戦争をしたくない日本は満洲はロシア、日本は韓国という満韓交換論等の妥協案を提示したものの当時の超大国ロシアはクソ弱小国(ロシア視点)の日本に遠慮する必要はなく交渉がまとまることはなかった。

 

日露戦争とは

陸軍の行動

 1904年2月、先遣隊として日本陸軍が朝鮮半島仁川に上陸、さらに本隊の第一軍が朝鮮半島に上陸してロシア軍の抵抗を排除しつつ北上。さらに遼東半島から上陸した第二軍もロシア軍陣地等を制圧しつつ北上した。当時、ロシア軍最強の旅順要塞があったが、これらに対して両軍ともに攻撃しないで北上を続けた。とはいってもやはり旅順要塞を放置していくと主力部隊の背後を突かれてしまうため、5月、乃木大将の下、第三軍を編成、8月に旅順攻略を開始した。

 攻略は1905年1月には終わったが分厚いコンクリートと機関銃で武装された要塞に日本軍は歩兵の突撃で対抗したため旅順攻略戦だけで6万名の死傷者を出すこととなった。そのころロシア軍主力は奉天に集結しており、日本陸軍も第一軍、第二軍、のちに編成された第四軍、さらに旅順攻略を行った第三軍が奉天に集結、2月末には奉天会戦が行われた。ロシア軍36万人、日本軍24万人が参加したこの会戦は日本軍の兵力を過大に見積もった上、包囲されると勘違いしたロシア軍が退却、一応日本軍の勝利ということになった。

 

海軍の行動

 日本海軍は戦時にほぼ全艦隊を集中運用するための連合艦隊を編成。旅順要塞にいるロシア極東艦隊と対峙した。戦力は連合艦隊と同数のロシア旅順艦隊であったが、バルト海に展開する所謂バルチック艦隊が到着すれば戦力は日本の倍となり圧倒的に有利。「だったら待った方が良くね?」と日本艦隊との戦いを避け旅順要塞から出てこなかった。

 出てこないと日本は困るので陸から旅順港を砲撃、これが結構効いちゃったため8月、旅順艦隊は渋々出撃、連合艦隊と黄海海戦が起こり連合艦隊が勝利して旅順艦隊は再び旅順要塞に逃げていった。その後、陸軍第三軍により旅順要塞は陥落。連合艦隊はバルチック艦隊に対抗するための準備を行った。

 バルト海からはるばる喜望峰を回って7ヶ月かけて日本近海に到着したバルチック艦隊であったが、疲労困憊、士気もあるんだか無いんだか。とりあえずウラジオストックに逃げ込もうとするが、対馬沖で待ち受けていた連合艦隊と遭遇、1905年5月、日本海海戦が起こった。ほぼ互角の戦力といっても方や7ヶ月間の航海で疲労困憊、方や十分な休養と訓練で準備万端。勝敗は目に見えており、バルチック艦隊はほぼ壊滅、連合艦隊の完全勝利となった。

 

講和会議

 

03_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 日露戦争は日本の国力を大きく超えていた(戦費の借金を返済し終わったのは何と1986年)。同時にロシアも革命の機運が高まっており、戦争を継続することは困難であった。ここでアメリカ合衆国が仲介に入り、8月に講和会議が行われた。この結果、日本は賠償金(当時は敗戦国が戦勝国に莫大な賠償金を支払う慣習があった)こそは取れなかったものの、それまでロシアが持っていた満洲の遼東半島の租借権(中国から借りる権利)、東清鉄道の一部、終戦間際にどさくさ紛れに占領した南樺太、さらに朝鮮半島の監督権を入手した。

 

その後。。。

 

 満洲の遼東半島の一部と後の南満州鉄道、さらには韓国への監督権をロシアに認めさせた日本。本格的に満洲の開発に乗り出すことになるが、当初、アメリカやその他の国で山分けしましょうね。と言っていたもののロシアと独占してその他の国を締め出してしまった。このため戦争をしたにも関わらずロシアとの関係は急接近。対して講和会議までやってくれたアメリカとは険悪な関係になってしまった。

 

 

 


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01_米軍
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 士官と下士官の違いとは、用兵の専門教育を受けているか否かの違いである。士官は士官学校で用兵の専門教育を受けるが、下士官以下は受けない。士官はあらゆる面で優遇され下士官以下とは寝所、食事も別々にとる。「貴族と奴隷」とまで言われる制度であるが、これは士官が下士官以下に「死」を命じることができるように維持されている制度であると言われている。

 

士官と下士官の違い

 

黒木為禎大将
(画像はwikipediaより転載)

 

 士官と下士官の違いは、士官学校等で用兵等の専門教育を受けたか否かである。一般に士官は士官学校等で用兵等の専門教育を受け任官、下士官、兵を指揮するが、下士官とは兵から昇進する場合がほとんどで、専門教育は受けていないものの軍隊の実務に精通している場合が多く、士官の指揮の下で自分より下位の下士官、兵を指揮する。

 一般の軍隊では士官と下士官の間に大きな壁があり、兵から下士官までは順当に昇進することは出来ても士官に昇進するのは内部で試験を受けたり、士官学校に入校することが必要である場合が多い。当然、待遇にも大きな差がつけられており、給料はもちろん、食事も士官用と下士官以下用で食堂も食事の内容も異なっていることが多い。この待遇の違いの理由の一つは、ヨーロッパでは士官とは元は貴族であったためであり、士官はたとえ捕虜になったとしても下士官、兵とは異なり自分から希望しない限り労働をさせることも禁止されている。

 

現代版「貴族と奴隷」

 

薔薇戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 著名な海軍の戦闘機搭乗員である坂井三郎氏はこの士官と下士官の待遇の違いについて「貴族と奴隷」とまで言っている。坂井三郎原作映画『大空のサムライ』では、藤岡弘扮する坂井三郎に「俺たちは二つの敵と戦っている。一つは連合国、もう一つは士官だ」というようなことを言わせている。同じく海軍の戦闘機搭乗員である角田和男氏は著書『修羅の翼』で、フィリピンで下士官以下の隊員が住む隊舎に入ろうとしたところ、下士官に道を塞がれ「ここは士官の来るところではありません」と、危うく追い返されそうになったというエピソードがある。角田氏は下士官からの叩き上げだったので結局通してもらえたが、やはり士官と下士官兵の壁はあったようである。

 元々貴族がなっていた士官なので「貴族と奴隷」となってしまうのも分からなくもないが、現在は無論、貴族が特権的に士官になるなどということは近代民主主義国会ではありえない。士官といえば通常、10代で士官学校に入学、専門教育を受けた後、士官として任官するというのが一般的である。しかし士官が用兵の専門教育を受けているといっても所詮は10代か20歳そこそこのガキ、専門教育といっても机上の用兵を勉強しているに過ぎない。

 これに対して下士官は違う。下士官の多くは一番下っ端の兵から始まる。二等兵、三等兵から始まり現場の実務に精通、多くの知識と経験を現場で培って昇進したのが下士官である。なので、軍隊等では古参の下士官が新米士官を「育てる」ということが往々にして行われている。そもそも実務経験が違うのだ。この不自然さは、我々の日常生活に置き換えてみれば分かりやすい。一般的なサラリーマンは新卒、既卒問わず一番下の立場からスタートする。一部には縁故採用や幹部候補等がある会社もあるが、おおよそはそう考えてよいだろう。

 そして上司や先輩に仕事を教わり一人前になっていく。後輩が出来て、その内部下ができる。さらに能力のあるものがどんどん昇進していくというのが普通である。これは日本の会社だけでなく欧米を含む多くの会社はこのような人事で動いている。何も問題がないどころか大きな成果を上げ、一部は国家を超える規模の会社まで存在しているのである。かつては貴族と庶民という差別的な区分があり、欧米では軍隊に参加することが「特権」であった時代もあった。その残滓だとしても現在は差別も特権も許されない時代である。しかし、では、なぜこのような「貴族と奴隷」とも譬えられるような「階級差別」と呼べるような制度が現在でも世界中で採用されているのであろうか。

 

士官は「死ね」と命令できる

 

 多くの軍隊において士官と下士官の区分が存在し続けるのは理由がある。世間では非合理的であったとしても軍隊では合理的なのだ。普通の会社では上司が部下に「死ね」と命令することは出来ない。仮に命令したとしたら大変な問題となる。しかし軍隊は違う。場合によっては上官が部下に「死」を命じることがある。軍隊が置かれる環境は極限である場合が多い、作戦によっては味方に必ず犠牲が出るような作戦も全体の勝利のために実行しなくてはいけないこともある。

 その際に上官は間接的にしろ直接的にしろ部下に「死」を命じることとなる。かつての同僚、一緒に厳しい訓練を受けある意味肉親以上の友情で結ばれた同期に「死ね」と命じることができるだろうか。そして命じられた一方は素直に「かつては同期であったが、今は上官なので命令には従います」と合理的に考え自分に対する同期からの死の命令を諾々と受けることが出来るだろうか。

 それがかつての先輩、上司であればなおさらである。かつての後輩、部下が自分に「死ぬ」ことを命令してきた場合、素直に従うというのは相当難易度が高い判断である。仮にこのような判断を下せたとしても双方に大きな精神的ストレスがかかるのは間違いない。この結果、作戦が実行できなくなったり、実行できたとしても戦力へのダメージは避けられない。

 しかし軍隊にあるのはリアリズムである。作戦が失敗した場合、多数の死者を始め多くの損害が出る。失敗もまた「死」なのだ。このためにはどうしても冷徹に判断を下す「専門家」が必要になってくるのだ。それが士官なのである。

 このため士官は下士官、兵と精神的な距離を取る必要がある。精神的な距離は物理的な距離とニアリーイコールである。違う待遇で扱われ、違うところで寝起きをする必要がある。特に食事は人間に一体感を感じさせるため違う食堂でとる必要がある。士官、下士官双方が「別の存在」と感じることが必要なのである。この精神的な距離があってこそ軍隊の最も厳しい命令「死」を命令することができるのである。

 

士官と下士官の関係書籍

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

デーヴ グロスマン 著
筑摩書房 (2004/5/1)

 人間は人を殺すことに強烈な抵抗感がある。しかし物理的距離と精神的距離をとることでそれが可能となる。著者は米陸軍レンジャー資格保有者にして心理学、歴史学の学位を持つという戦争研究者としては高度な専門性を持つ。綿密な調査とヒアリングで「本当の戦争」を再現する。

 

まとめ

 

 人間は人を殺すことを本能的に拒否する。それは生物の絶滅につながるということを本能的に感じているからだとも言われている。それでも現代の戦争には多くの兵士を動員する必要がある。近年では機械化により以前ほどの人数は必要なくなったがその数は膨大である。この本能的に殺人を拒否する人間に強制的に「死」を与える立場、それが士官だといえる。

 

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01_大阪市
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 「大阪都構想」とは政令指定都市大阪市を廃止する制度のことで名称が「大阪都」と変わることはない。さらに「都構想」によって予算が増えたり支出が削減されることはほとんどない。「大阪都構想」の本質は、大阪市を廃止することで府知事への権限を集中させることである。これにより大プロジェクト等が実行しやすくなるが、この改革のために240億円という費用が必要となるのが問題である。そして一度大阪市を廃止してしまえば法律上、基に戻すことはほぼできない。

 

東京市廃止の理由

 

02_東京市役所
(画像はwikipediaより転載)

 

 東京市とは1889年に東京府の15個の区を統合して誕生した自治体である。当初市長は東京府長官と兼任であったが、1898年に官選による市長が選任されるようになり、1926年からは東京市議の互選により市長が任命された。それまで自治権を持っていた東京市であったが、1943年7月には戦時体制下において強力な集権体制を作ることを目的として東京市が廃止、東京都が設置された。東京市廃止の3ヶ月後の1943年9月30日には絶対国防圏が設定されていることからも東京市の廃止が空襲へ対処するための強権体制であったことは想像できる。

 

「大阪都構想」

 

03_大阪市役所
(画像はwikipediaより転載)

 

政令指定都市とは

 政令指定都市とは人口50万人以上の都市で全国に20都市存在する。1956年に制定された制度で「田舎」とは人口密度も経済的な条件も異なる大都市に特別な権限を与え、独自の行政サービスを行うことを理念としている。つまり人が閑散としている田舎と大都市は条件が全然違うのでそれぞれの特性に合わせて独自の行政を行おうとする制度である。この制度を経済的に担保するために、独自の財源や国からの地方交付税も交付される。

 

「大阪都構想」

 「大阪都構想」とカッコ付きで表現した理由は、「大阪都構想」とは単なるキャッチコピーであり、住民投票によって「都構想」が可決したとしても表記上「大阪都」とはならず、表記上は今まで通り「大阪府」である。それでは「都構想」とは具体的にどういう改革なのかというと、これは単に政令指定都市大阪市を廃止することである。ここで大阪市廃止の問題点について簡単に説明してみたい。

 

二重行政の解消

 大阪市廃止の議論で真っ先にメリットとして挙げられるのが二重行政の解消という問題である。これは同一の行政サービスを府と市が重複して行うことを防ぐことができるというものである。これにより無駄な支出が削減され財政負担が軽くなるとしている。しかし廃止後も同一水準のサービスが行われることはすなわち同レベルの支出を必要とするものであり、人員整理やサービスの廃止をしない限り支出が削減されることはない。そもそも二重行政を解消したいのであれば、重複しているサービスの一方を廃止すれば良いだけの話である。廃止した自治体は財政負担が軽減されるので好都合である。

 

住民サービスが向上する

 財源が増える訳ではないので向上はしない。現状が維持されるか低下するかのどちらかである。

 

大阪の経済力が増す

 何も変わらない。東京都と同じ制度に変更したからといって税収が増える訳ではない。東京都の予算が潤沢なのは、人口の多さと大企業の本社が集中しているためであって行政制度の結果ではない。

 

政策を強力に推し進めることができる

 これは可能である。大阪市を廃止することで大阪市の財源の大半を大阪府が管理することになるため大阪府知事の権限が増す上、大阪市長が存在しなくなるため大阪府知事が提案した政策はスムーズに運びやすくなる。行政区分の「垣根」が無くなるため幹線道路等の行政区分の問題が起こりやすいプロジェクトは円滑に進むようになる。但し、現状でもプロジェクトを実行することは可能である。

 

大阪市以外の大阪府民にとってはメリットになる可能性もあり

 それまで大阪市民のために使われていた膨大な予算の多くが大阪府の管理なるため大阪府知事の政策によっては大阪府民への行政サービスは向上する可能性があるが、当然、予算は限られているのでこうなった場合、大阪市民への行政サービスは低下することになるが、大阪府民として同等のサービスを受けることができる。

 

片道切符である

 現行法上、政令指定都市を分割して特別区を設置することは可能であるが、特別区を政令指定都市にする法律はない。このため一度、政令指定都市から外れると大阪市を復活させることはほぼ不可能である。仮に特別区を政令指定都市にする新法を作ったとすれば、その新法は東京の特別区も対象になるため東京市が生まれる可能性がある。これは「東京市」以外の地域に在住する東京都民の多くが猛反対する可能性が高い。東京都の人口は日本の人口の1/10を占めるため立法化は難しい。

 

まとめ

 

 巷でいわれているような「二重行政の解消」による支出の削減という効果はほぼないといっていい。仮に二重行政が行われているのであれば現状でも解消が可能であり、わざわざ政令指定都市を廃止する必要はない。「都構想」の一番のポイントは、東京都が設置された理由からも分かるようにそれまで府と市に分散されていた権限を府知事に集中させることである。これにより大プロジェクトが実行しやすくなるが、同時に制度を変更する経費として240億円が必要とされる。

 「大阪都構想」とは最も端的にいえば、「240億円の費用をかけて大阪府知事の権限を強化する制度」と結論付けられる。

 

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01_満州事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 満州事変とは、1931年9月の柳条湖事件から始まる関東軍による一連の軍事行動である。関東軍は謀略により満洲の軍閥張学良軍に対して戦闘行動を開始、各地を制圧する。その後朝鮮軍が投入され満洲全土をほぼ制圧した。軍部の暴走であったが、政府も満洲国を承認したものの国際連盟はこれを認めなかったため日本は国際連盟を脱退する。

 

満州事変 〜概要〜

 

02_あじあ号
(画像はwikipediaより転載)

 

 1906年、日露戦争終結により、日本はロシアから遼東半島先端部分の関東州の租借権と旅順から長春までの南満州鉄道と付属地の権益を継承した。日本軍はここにこれらの権益を守るために関東軍を配置した。当時、日本は満洲全土を支配していた訳でなく、それ以外の満洲の多くの部分は、中国の軍閥である張学良が支配していた。

 アヘン戦争後、列強国に食い物にされていた中国であるが、徐々に国権回復の機運が高まりつつあり、満洲を支配する張学良はその一環として南満州鉄道に並行する鉄道を開設、運賃を低価格に設定して南満州鉄道の経営を圧迫、さらに付属地からの商品に高い関税をかけることで日本に対抗していた。同時に日本人への殺害事件等が相次ぎ、中国国内で反日世論が高まるのと同時に、日本国内でも反中国世論が高まっていた。

 

柳条湖事件から満洲占領へ

03_満州事変
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、満洲の権益を保護するために設置された関東軍の参謀達の間では、満州を占領することによりソ連の南下に対して朝鮮を守るという目的から満洲の占領が計画されていた。1931年9月、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破される。これは関東軍の自作自演であったが、関東軍はこれを張学良の軍によるものと断定、即座に作戦行動を開始、奉天、長春、営口の各都市を占領する。

 これらの作戦は計画通りに無事完了したものの、関東軍はわずか1万、対する張学良の軍は45万という圧倒的な兵力差があった。このため関東軍は当時朝鮮に駐屯していた精鋭部隊朝鮮軍の派遣を要請する。当時の若槻礼次郎内閣はこれを拒否するも、世論と陸軍の圧力により認めることとなる。これにより1932年初頭には、日本軍は万里の長城の線を境界線とした満洲全土を制圧、3月には清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を皇帝とした満洲国を成立させた。

 辞任した若槻礼次郎内閣に代わり組閣した犬養毅内閣はこの満洲国承認を渋っていたが、1932年、犬養首相が五・一五事件により殺害、9月には次に組閣した斎藤実内閣が満洲国との間で日満議定書を締結、満洲国を承認した。これら一連の軍事行動は、中華民国政府の提訴により国際連盟の調査対象となり、リットン卿を団長とする調査団が派遣された。調査団の結果は、日本の経済的利益は擁護しているものの満洲国は認めないというものであった。

 

熱河作戦と国際連盟脱退

 

04_リットン調査団
(画像はwikipediaより転載)

 

 ここで少しややこしい話をしたい。満州事変に対して中華民国政府は国際連盟に第11条を根拠に提訴した。この11条とは、「戦争になりそうな事案が発生した時には理事会を開く」という程度の内容であったが、1932年1月に第一次上海事変が発生、海軍陸戦隊と中華民国軍の戦闘状態が発生すると中華民国政府は提訴を11条から15条に切り替える。15条とは「国交断絶する可能性がある戦争」という11条よりも一段と深刻な状況に対応する条文で、国際連盟に提訴された段階で双方戦闘を終始しなければならない。もしも違反した場合は、国際連盟加盟国全部に対して戦争を起こしたとみなされ、16条を根拠に経済制裁、除名の対象になった。この状態で起こったのが熱河作戦である。

 熱河作戦とは、1933年1月に起こった日本軍による熱河省での抗日兵力への掃討作戦である。熱河省とは、日本が主張する万里の長城以東の満洲国内にあった省で、ここで抗日軍が育成されていたため日本軍は掃討作戦を計画する。満洲国内の掃討として天皇の正式な裁可を得た作戦ではあったが、満洲国を承認しているのは日本のみであり、国際的には明確に中国領であった。国際連盟に預けられている最中の案件であるにも関わらず、中国国内で日本軍が戦闘行動を起こしたとすれば前述の16条が発動され、経済制裁、除名の対象となってしまう。

 これに気付いた斎藤実首相は天皇に中止を進言。天皇も同意するが、「一度裁可したものを中止すれば天皇の権威が失墜、軍部の暴走が止められなくなる」と考えた重臣や側近達によって天皇は説得され中止されることはなかった。結局、経済制裁、除名という不名誉を被らないために斎藤内閣は国際連盟の脱退を決意、連盟脱退に強く反対していた日本全権松岡洋右は皮肉にも国際連盟で脱退を宣言して退出することになった。

 

まとめ

 

 満州事変により日本は国際連盟を脱退、1936年にはワシントン・ロンドン軍縮条約も失効、日本は世界から孤立していく。軍拡時代にはいった海軍は条約に縛られない軍艦の建造を開始、陸軍は満洲の防衛用として華北分離工作を開始した。中国では抗日運動が激化、日中戦争へと進んでいく。

 

 

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01_エンタープライズ
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた海戦で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を奪回する陸軍を援護するために行われた海戦であった。日本側は空母4隻、米側は空母2隻を投入、正面から戦闘を行った結果、米側は空母1隻、駆逐艦1隻が撃沈、日本側は大破した艦が2隻あったものの撃沈された艦はなかったが、ヘンダーソン飛行場の奪取には失敗した。このため戦術的には日本側勝利、戦略的には米側勝利と言われている。

 

南太平洋海戦 〜概要〜

 

02_ホーネット
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月7日、米軍のガダルカナル島以降、米軍の対日反抗の拠点となったヘンダーソン飛行場の再奪取を目論む日本陸軍第17軍は10月下旬に総攻撃を計画、支援を海軍に要請した。これに対して海軍は空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳から成る第一航空戦隊(一航戦。司令官南雲忠一中将)、空母隼鷹の第二航空戦隊(二航戦。司令官角田覚治少将)、前衛部隊として戦艦金剛、榛名をを中心とする戦艦、重巡部隊をソロモン海域に出撃させた。

 対する米軍も同海域に空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊、空母ホーネットを基幹とする第17任務部隊、戦艦ワシントンを中心とする第64任務部隊が派遣された。10月25日、二航戦とラバウルの基地航空隊がヘンダーソン飛行場への攻撃を行う。同日、日米機動部隊は同海域に相手側も機動部隊を派遣していることを確認した。

 1942年10月26日、双方がほぼ同時に相手側機動部隊の位置を確認、日本側は第1次攻撃隊62機を発進、第2次攻撃隊も発進させたがレーダーが敵機の接近を確認したため各母艦毎に別個に発進することになった。同時刻に米側も攻撃隊73機を発進、日米の攻撃隊は進撃途中にすれ違うこととなった。双方、自軍の攻撃隊を援護する必要性から攻撃を見送るが、この時、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊が反転、米側攻撃隊の一隊であるエンタープライズ隊19機に対して攻撃を行った。これが後に大きな問題となる。

 日本側第1次攻撃隊は空母ホーネットを攻撃、大破させるが、米側もまた日本軍機動部隊の空母2隻を発見(瑞鳳は米軍偵察機の奇襲により被弾し戦線より後退している)、空母翔鶴に命中弾2発を与えている。続いて日本側第2次攻撃隊が米機動部隊を発見、エンタープライズを攻撃している。さらに敵機動部隊発見の報により二航戦がヘンダーソン飛行場攻撃を中止、エンタープライズ攻撃に第1次攻撃隊を派遣、攻撃を行った。これらの攻撃によりエンタープライズは中破、戦列を離れることとなった。

 これにより日本側の攻撃目標は空母ホーネットに集中、二航戦は第2次攻撃隊を編成して炎上中のホーネットに攻撃をかけた。また一航戦も第3次攻撃隊を編成、同空母を攻撃している。さらに二航戦が第3次攻撃隊を発進、ホーネットに攻撃をかけた。さらに近藤信竹中将が指揮する前衛部隊が水上戦闘を挑むために追撃戦を開始した。これらの攻撃に対して米側は空母ホーネットを放棄、総員退艦の後、駆逐艦の砲雷撃を行った。

 日本軍の前衛部隊が空母ホーネットに到着した時、ホーネットは未だ浮いていたため連合艦隊司令部は一時、ホーネットの鹵獲を試みるが、結局、雷撃により撃沈された。

 

瑞鳳戦闘機隊の反転

 

03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 第1次攻撃隊が進撃途中に米攻撃隊とすれ違った際、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊9機が攻撃隊の護衛を中止して米攻撃隊への攻撃を行った。この攻撃を受けたエンタープライズ隊は19機中5機が撃墜され、1機が不時着、2機が被弾のため母艦へ帰投した。これに対して瑞鳳戦闘機隊も2機が撃墜され、2機が帰途行方不明となり合計4機が失われた。

 エンタープライズ隊は残った11機で進撃を続けたが、空戦で燃料を消費していたのと高度が下がっていたため日本側機動部隊への攻撃は出来ず、前衛部隊への攻撃を行っている。この攻撃により重巡筑摩が大破している。

 この攻撃により日本側は損害を未然に防ぐことが出来た反面、攻撃隊を援護する戦闘機が9機減少したことにより苦戦を強いられた。この日高大尉の行動に対しては部内でも批判的な意見が出た反面、肯定する意見も多かった。これに対して日高大尉は命令違反として処分されることはなかったが、戦後も一切弁明することはなかった。

 

まとめ

 

 南太平洋海戦における双方の損害は、日本側が空母1隻、重巡1隻大破、航空機92機を失った。対して米側は空母1隻、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻が大破した。航空機の損失は81機であったが、日本軍の作戦目標であったヘンダーソン飛行場の奪取には失敗する。このことから戦術的には日本側勝利したものの、ヘンダーソン飛行場を確保した米国が戦略的には勝利したと評価されている。

 確かに艦艇、航空機の損害で判断すれば日本側に軍配が上がるが、この海戦による搭乗員の戦死者は日本側148名に対して米側26名と極端に異なる。日本側は開戦以来、珊瑚海、ミッドウェー、第2次ソロモン海戦、そしてこの海戦により開戦以来の練度の高い母艦搭乗員をほぼ失ったといってよい。以後、終戦まで同レベルの練度を持った母艦搭乗員で機動部隊を編成することは出来なくなった。この点も含めて日本側の戦略的敗北といっていいだろう。

 

 

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01_第38任務部隊
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 レイテ沖海戦とは、フィリピン周辺で行われた海戦でレイテ島に上陸した米軍を砲撃すべく日本軍はわずかな空母機動部隊と戦艦部隊を投入、米海軍の主力部隊とガチで激突したものの、空母部隊は速攻で壊滅、戦艦部隊は航空機の援護がほぼ無い状態で米軍制空海権下に突入、日本海軍の主力部隊は壊滅的大打撃を受け、米海軍もちょっとだけ打撃を受けた。最終的には日本海軍の主力部隊がレイテ湾突入を断念したため作戦は失敗、連合艦隊は事実上消滅した。

 

レイテ沖海戦 〜概要〜

 

02_レイテ沖海戦図
(画像はgooglemapに加筆修正)

 

 台湾沖航空戦後、日本軍は捷号作戦を立案した。これは米軍の上陸に対する日本軍の対抗作戦で米軍が上陸した場合、日本海軍の機動部隊が米機動部隊を北方に誘致、戦艦部隊が上陸地点に突入して艦砲射撃を実施、これに呼応した陸軍が米上陸部隊を殲滅するというものであった。上陸地点はフィリピン、台湾、本州、北海道の4地点を想定、それぞれに一号、二号、三号、四号と命名した。

 1944年10月18日、米軍がフィリピンレイテ島に上陸することがほぼ確定したことにより日本側は捷一号作戦を発動した。日本側の参加兵力は、スマトラ島リンガ泊地に停泊していた連合艦隊の戦艦7隻と重巡を中心にした第一遊撃部隊、マリアナ沖海戦で生き残った空母4隻に航空戦艦2隻で編成した機動部隊。重巡と水雷戦隊を中心に編成された志摩中将指揮の第二遊撃隊、陸上航空部隊である第一航空艦隊等である。

 しかし機動部隊は先の台湾沖航空戦に航空兵力を提供したため搭載機は何とかかき集めた航空機116のみであり、陸上基地航空隊も9月の米機動部隊の攻撃によりほとんどを失っていた。このため第一、第二遊撃部隊は敵制空権下を進撃することとなった。

 これに対して米軍は、正規空母9隻とほぼ同数の軽空母を中心とする第38任務部隊が太平洋上に展開、レイテ湾内にはオルデンドルフ少将指揮の6隻の戦艦を中心とする支援射撃部隊、護衛空母6隻で編成されている護衛空母部隊3群がレイテ島周辺に展開していた。航空機は約1,000機である。

 10月19日、捷一号作戦発動を受けた小沢中将率いる機動部隊は内地を出撃、21日には志摩少将率いる第二遊撃部隊が台湾を出撃、新たに編成された第三部隊と共にレイテ湾突入を目指す。主力の第一遊撃部隊は燃料補給に問題があり、急遽、西村中将率いる戦艦扶桑、山城を中心とする第三部隊を編制、第一遊撃部隊とは別行動で行動、合流した上でレイテ湾に突入することになった。

 10月22日、第一遊撃部隊もブルネイ泊地を出撃、第一遊撃部隊は北からルソン島南を通り時計回りにレイテ島に向かい、第三部隊は南からミンダナオ島北を直進、最短距離でレイテ島を目指した。北回りに進んだ第一遊撃部隊は、23日パラワン水道で米潜水艦の雷撃を受ける。これにより重巡愛宕、摩耶、高雄が被雷、旗艦であった重巡愛宕、摩耶が撃沈、高雄は大破したため戦列を離れた。同日、二航艦の攻撃により米空母プリンストンが撃沈されている。

 

運命の10月25日

03_戦艦群
(画像はwikipediaより転載)

 

 旗艦を戦艦大和に変更した第一遊撃部隊旗艦は24日、シブヤン海において第38任務部隊の航空攻撃を受け戦艦武蔵を失ってはいるが(シブヤン海海戦)、25日には難所と予想されたサンベルナルジノ海峡突破に成功した。同日、第一遊撃部隊と合流後レイテ湾に突入予定であった西村中将指揮の第三部隊がレイテ湾に到着、第一遊撃部隊と合流が不可能なため単独突入を決行、オルデンドルフ少将の戦艦部隊と戦闘になり駆逐艦1隻以外全滅した(スリガオ海峡海戦)。この突入の2時間後にやっと到着した志摩中将麾下の第二遊撃部隊は敵情不明のため突入を断念し帰投した。この日、北方では小沢機動部隊がルソン島北東海域で第38任務部隊と激突、空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳を全て撃沈され完敗している(エンガノ沖海戦)。

 25日未明、サンベルナルジノ海峡を突破した第一遊撃部隊は、同日早朝、突如米軍護衛空母部隊と遭遇して砲撃戦となり砲撃により護衛空母1隻を撃沈する(サマール沖海戦)。海戦後、再びレイテ湾に向け進撃する第一遊撃部隊はレイテ湾突入を目前にして敵機動部隊発見の報により反転北上した。これが一般に言われる「謎の反転」である。この日、関行男大尉以下5名の神風特別攻撃隊が体当たり攻撃を敢行、護衛空母1隻撃沈、3隻撃破の戦果を挙げている。その後、第一遊撃部隊はサンベルナルジノ海峡に退避、数度の航空攻撃を受けるものの主力はブルネイ泊地に帰投した。

 

謎の反転問題とレイテ湾突入

 

04_戦艦大和
(画像はwikipediaより転載)

 

 10月25日、レイテ湾突入を目前にした第一遊撃部隊に敵機動部隊発見の報が届く。この報により第一遊撃部隊はレイテ湾突入を中止、機動部隊攻撃に向かう。しかしこの報は他の部隊の記録には残っておらず「謎の電報」ともいわれているが、戦闘中であり三日三晩戦い続けた各部隊で連絡の齟齬が発生するのは不思議なことではない。

 栗田健男中将は直前に偶然の空母部隊との遭遇戦を経験しており、これを第38任務部隊本隊と誤解していた。戦闘終了後も付近に機動部隊が存在すると考えるのも当然であり、戦艦の主砲による米空母部隊撃滅の可能性に賭けたのであろう。

 それはともかく、仮にレイテ湾に第一遊撃部隊が突入していたらどうなったのであろうか。当時、レイテ湾には上陸部隊と共にオルデンドルフ少将率いる戦艦6隻を中心とする支援部隊が存在した。さらに付近には護衛空母群が3群存在しており、太平洋上には第38任務部隊もある。ここに満身創痍の戦艦4隻を主力とする第一遊撃部隊が突入したとしてもオルデンドルフ艦隊に撃退されるか、付近に遊弋している空母部隊によりフルボッコにされるのがオチであっただろう。

 地上目標の艦砲射撃にしても1942年10月に栗田中将によって実施されたヘンダーソン飛行場艦砲射撃では、ほぼ反撃がない状態での理想的攻撃であるにも関わらず在地96機の航空機の内、54機を破壊するに留まっている。このヘンダーソン飛行場からは翌日、航空機が日本軍攻撃に出撃しており、日本陸軍の攻撃も撃退している。

 これに対してレイテ湾に突入に関してははるかに条件が悪い。乗組員は、数日間不眠不休で戦闘を行った疲労のピークにあり、艦艇は数度の戦闘で満身創痍。その上、重厚な護衛部隊が守るレイテ湾に突入したところで戦果を挙げるのは難しかったであろう。

 

まとめ

 

 レイテ沖海戦は、航空機の「傘」がない中での水上部隊のみの突入、さらに作戦は広大な海域を4つの艦隊と基地航空隊が有機的に連携して行動するという極めて難易度の高い作戦であった。案の定、それぞれの艦隊は連携が取れず作戦は失敗してしまった。しかし仮に成功していたとしてもすでに戦略的劣勢を覆すことは出来なかったであろう。

 

 

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01_支那大地図
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 「支那」とは、中国大陸初の統一帝国秦に由来する名称で秦の音「Thin Chin」の当て字である。仏典を中国語に翻訳した際に生まれた言葉で、日本にも伝来した。当初は侮蔑的な意味はなかったが、近代になると徐々に軽蔑的なニュアンスを含むようになったため、中国での反発が強くなり現在ではあまり使用されていない。本ブログでは中国のことは普通に「中国」と書く。

 

「中国」と「支那」 〜概要〜

 

02_支那大地図
(画像はwikipediaより転載)

 

「支那」とは。。。

 「支那」の名称の由来は、中国初の統一王朝秦の音「Thin Chin」であると言われている。始皇帝の統一王朝以降、中国大陸では多くの王朝が生まれては消えてきたが、これらの王朝を超越した地域を指す名称として存続していると考えられている。このため英語では「China」、日本では平安時代以来、永く「シナ」と呼ばれてきた。漢字で「支那」と表記するのは仏典内で中国を指す「チーナ」を漢訳した際に「支那」という字を充てたためで、当初は名称の由来にも漢字にも侮蔑の意味はなかった。むしろ学術的には明治以降は「漢文学」等の王朝名を指す語に対して正確を期して「支那文学」と変えたほどである。

 しかし近代に入ると日本では徐々に「支那」という語にたいして軽蔑的なニュアンスが含まれるようになっていき、これに対するように中国側も反発を強めていった。1911年、辛亥革命が起こり中華民国の成立が宣言されると、中華民国政府は「支那」ではなく、正式な国名である「中華民国」と呼称するように大日本帝国に求めた。日本政府も戦後は中華民国からの要請を受け、正式に「支那」から「中華民国」と呼称を変更、メディアも自主的に「中国」と呼称するようになり、現在ではあまり使用されていない。

 

「中国」という呼称

 

03_台湾
(画像はwikipediaより転載)

 

 「支那」とは別に「中国」という言葉に自国中心的な価値観があるという問題が指摘されるが、中国という「国号」を受け入れるのと「世界の中心の国」という価値観を受け入れるのは別の話である。国号というのは外国から一方的に命名されたり、その国の理念や理想を想って付けらたりと様々である。日本という国名が中国から見て「日が昇る方向」という中国視点で見た日本であったとしてもその価値観までも継承している訳ではないのと同様、その国名を受け入れることがその背後の思想まで受け入れることとはならない。

 これとは別に、中国という国は19世紀以前には存在しなかったため、それ以前の歴史で「中国」という表記をするのはおかしいとする考えもある。この考えは間違ってはいないが、それは近代国家成立以前から存在したどこの国に関しても同じことがいえる。歴史の流れの中の「国」の範囲は時間的にも空間的にも明確に設定できるものではなく、さらには固有名詞も永遠に続くものではないためこの問題に対して明確な回答を出すことは誰にもできない。紀元前の中国大陸の人を「中国人」と呼べないのであれば、一般に8世紀初頭と言われる日本国号成立以前の日本人も「日本人」ということはできない。結局、便宜上「中国史」「日本史」と呼称する他ないのである。

 

 

まとめ

 

 「支那」と「China」の語源は一緒である。故に中国のことを「シナ」「チャイナ」と呼ぶのは批判されることではない。ただ、中国人が自身のことを支那ではなく中国と呼んで欲しいと主張するのであれば中国と呼べばよい。これはただの呼称であり、わざわざ外国語に変換したり相手の嫌がる呼称で呼ぶ必要もないと考える故、私は普通に中国と呼ぶ。

 

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01_文革
(画像はwikipediaより転載)

 

 1981年6月29日、 中国共産党第11期6中総会で文化大革命を全面否定する「歴史決議」を採択された。これは意外と重要な事件で、実は、中国共産党は文化大革命を否定してるのである。この中国共産党も否定した文化大革命とはどういう事件であったのだろうか。文化大革命について分かりやすく解説してみたいが、文化大革命に行く前にまず1958〜1961年に中国で起こった大躍進政策から説明していこう。

 

大躍進政策

 

02_大躍進政策
(画像はwikipediaより転載)

 

 1957年、当時ソビエト連邦書記長だったフルシチョフは「15年以内に工業生産、農業生産でアメリカを追い越す」という宣言をした。これに対して当時ソ連と関係が悪化していた中国は同様に壮大な計画を立てる。それが大躍進政策である。

 そもそもマルクス主義では共産社会は資本主義社会の次にくる世界であるため、資本主義に対して共産主義が負けるということはあってはならない。つまりは、ソ連、中国ともに資本主義に対して生産力が向上していないと、理屈が合わなくなってしまう。そのため、ソ連も中国も大規模な増産計画を計画、実行した。

 その結果、実際に行われた大躍進政策はかなり「まずい」結果となった。鉄鋼の生産量を上げるために農工具を溶かしてしまったり、農作物の生産を上げるために雀を大量にとってしまったりした結果、生産効率は激下がりし、食物連鎖が崩れた結果、大凶作が起こった。

 しかし各地の現場指導者たちはノルマを課せられているために生産量を過剰に報告する。その結果、生産量の辻褄を合わせるために農村から食料を洗いざらい挑発、その結果、大量の餓死者が発生した。その数は1000〜4000万人という膨大な数だと言われており、当時中国の指導者であった毛沢東も大躍進政策の失敗を認めざるを得なくなった。

 

文化大革命

 

03_文革
(画像はwikipediaより転載)

 

 失脚した毛沢東に代わって劉少奇や小平が権力を握る。劉らは部分的に市場経済を導入することにより大躍進政策の混乱から回復させつつあったが、これに対して毛沢東は権力の奪還を企図、そこで劉少奇や小平を「修正主義者」(共産主義から資本主義へと修正する人)と弾劾し、名目上、封建的文化、資本主義的文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようというもので、紅衛兵と呼ばれた10代のガキや大衆を扇動することにより劉やの失脚を狙った。

 劉やのシンパのみならず地主や知識人等も反革命分子、反動分子とされ攻撃の対象となった。社会主義では宗教も否定されているため、宗教者や宗教施設も攻撃の対象とされた。このためこの紅衛兵はどんどん先鋭化していき、拷問、殺戮、吊し上げ等が横行した。遂には毛沢東にも制御できなくなり、最終的に毛沢東は人民解放軍を投入することになる。そして1976年毛沢東が死亡し、中心となっていた四人組が失脚することにより文化大革命は終了する。1977年に勝利のうちに終結と宣言が出されたが、文化大革命による死者は数百万〜2000万人にも及ぶと言われている。

 

まとめ

 

 文化大革命では、知識人は人民を毒する存在として徹底的に弾圧されたため、中国の発展は科学技術、経済共に大きく阻害された。大躍進政策、文化大革命を主導した毛沢東は「史上最も人を殺戮した人物」と言われている。

 

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01_第二次上海事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日中戦争とは、1937年7月7日、日中両軍が盧溝橋事件により衝突、第二次上海事変により本格的な全面戦争へと発展した。12月には日本軍が中華民国政府の首都南京を攻略するも中華民国政府は首都を重慶に移し抗戦を継続した。日本軍は占領地を拡大させたものの米英ソが中華民国を支援したため戦争は泥沼化していく。

 

日中戦争 〜概要〜

 

02_山川日本史詳説
(山川出版社日本史詳説より転載)

 

 満州事変の結果、満洲国を建国、傀儡国家とした日本であったが、満洲国と国境を接するソビエトは徐々に国力を増大させつつあった。これに脅威を感じた日本軍は満洲の防衛のために華北5省を日本軍の勢力圏下に置こうと画策。これに対して中華民国は反感を募らせており、当時、中華民国は対立していた共産党軍との話し合いの結果、まずは共同して日本軍を中国から追い出すことで合意(第二次国共合作)、日本軍と戦う準備を整えていた。

 1937年7月7日、北清事変以降、北京に駐留するようになった日本軍は盧溝橋で演習を行っていたが、ひょんなことから中国軍と戦闘状態に入る。当初日本は、紛争が拡大しないようにしていたが、徐々に拡大していき、日本軍と中国軍は北支事変と呼ばれる戦闘状態となった。

 宣戦布告の無いまま戦争状態に入った両国の戦闘は拡大、第二次上海事変の勃発により全面戦争へと発展した。8月中旬より日本海軍も爆撃機による渡洋爆撃を開始、9月には新たに編成された北支方面軍が河北省、山西省の省都を攻略、これに対してソ連は中国に対する軍事援助を開始する。11月には中支方面軍が編成され江蘇省を攻略、これに対し中華民国政府は首都を南京から重慶に移動、日本軍は12月には中華民国の旧首都南京を攻略した。

 

1938年から太平洋戦争開戦まで

03_九六陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年1月には海軍陸戦隊が青島占領、その後、日本政府は「国民政府を対手とせず」との声明を出した。2月には新たに中支派遣軍が編成され、4月には北支方面軍と中支派遣軍によって徐州を攻略、10月には第21軍によって広東が占領、中支派遣軍によって武漢三鎮が占領された。11月、日本政府が東亜新秩序声明を出した。12月には日本海軍による重慶爆撃が開始、同月、中華民国政府副総裁の汪兆銘が蒋介石と対立、重慶を脱出した。

 1939年になると日本軍は、1月に重慶爆撃開始、2月には海南島上陸、3月には南昌攻略と快進撃を続けるが戦争は泥沼化していった。11月には南寧作戦を実施、南寧を占領、1940年5月には海軍による無差別爆撃である一〇一号作戦が実施、10月まで行われた。9月には米英ソによる中華民国支援物資の補給ルートである援蒋ルート遮断を目的に日本軍による北部仏印進駐が行われ、11月には汪兆銘による南京政府が成立。日本政府によって中国中央政府として承認された。

 1941年5月には江北作戦、中原会戦が行われ、同時に無差別爆撃である一〇二号作戦が実施された。7月には日本軍による南部仏印進駐、9月から11月まで第一次長沙作戦、12月から翌年1月まで第二次長沙作戦が行われた。

 

日本の戦術的勝利、中国の戦略的勝利

 

04_中国軍陣地
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争前夜、中国では日本に対する反感が強くなっていた。同時に日本国内でも中国に対する敵意が増幅していた。この状況の中、満洲を防衛するために華北を狙う日本軍と中国大陸に侵攻させることで米英ソの軍事介入を行わせ日本軍を排除しようとする中国の思惑が盧溝橋事件を引き起こすこととなる。

 盧溝橋事件はどちらが先に発砲したのかは不明であるが、どのみち日中戦争の開戦は必至であった。短期決戦で解決すると思っていた日本軍は局地戦ではほとんどの場合勝ち続けたが、中国軍の策にはまり奥地へと引き込まれていく。同時に中国は米英ソの支援を取り付け長期持久体制を確立、外交により連合国を味方にしていく。そして中国の思惑通り、1941年には米国、1945年にはソ連が対日戦争参戦をしたことにより日本は敗北した。

 

まとめ

 

 対日戦争に勝利した中華民国政府と共産党軍であったが、日本という共通の敵を失った中華民国軍と共産軍は国共内戦に突入した。1949年、中華民国政府は、あまりにも中国国民を犠牲にしたため民心が離反、民衆を味方に付けた毛沢東率いる共産党軍が中華民国軍に勝利、中華人民共和国が成立する。その後、民衆に支持された中華人民共和国では大躍進政策を実施、さらには文化大革命と続くが、これによって数千万人の民衆が犠牲になることになる。

 

 

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01_レキシントン
(画像は被弾するレキシントン wikipediaより転載)

 

超要約

 

 珊瑚海海戦とは、1942年5月に行われた世界初の空母対空母の艦隊戦である。双方、輸送船団、補給艦隊を攻撃、撃沈したのち、正面からの機動部隊同士の戦闘となった。結果、日本側は空母祥鳳が撃沈、翔鶴が大破、連合軍側は空母レキシントンが撃沈、ヨークタウンが中破した。このためこの海戦は戦術的には日本側の勝利、戦略的には連合軍側の勝利とされているが、航空機、人的損害も含めると戦術的にも日本側が勝利したとは言い切れない。

 

珊瑚海海戦 〜概要〜

 

02_祥鳳
(画像は被弾した祥鳳 wikipediaより転載)

 

 開戦後、ニューギニア東方にある要衝ニューブリテン島ラバウルの占領に成功した日本軍であったが、さらにこのラバウルの防衛を完全なものにするためには連合国軍の一大反抗拠点となっていたニューギニア東南に位置するポートモレスビー攻略が必要であった。このため陸海軍共同で輸送船団を編成、海路よりポートモレスビーの攻略を目指した。これがMO作戦である。

 この作戦を察知した米海軍は空母レキシントンとヨークタウンで編成される第17任務部隊を迎撃のために派遣した。米空母がソロモン海域に投入されたことを知った日本側は増援を要請、急遽、第一航空艦隊より空母翔鶴、瑞鶴で編成された第五航空戦隊(五航戦)が増派された。これにより日本側の空母は翔鶴、瑞鶴と当初からMO作戦に編入されていた軽空母祥鳳の3隻となった。

 1942年4月下旬、軽空母祥鳳の護衛の下、ポートモレスビー攻略に出撃、少し遅れて第五航空戦隊も米機動部隊を求めてソロモン海域に出撃していった。5月7日には五航戦が米機動部隊を発見、攻撃隊を発進させた。しかし、これは米軍の油槽船と駆逐艦の誤りであったが、五航戦攻撃隊はこれら2隻を撃沈帰投した。一方、米機動部隊でも偵察機がMO攻略部隊を発見、第17任務部隊が攻撃をかけ空母祥鳳を撃沈している。

 その後、双方、散発的な攻撃は続いたものの、5月8日には双方ともに相手方機動部隊を発見、攻撃をかけた。結果、米機動部隊は空母レキシントンが撃沈、ヨークタウンも中破した。これに対して日本側は空母翔鶴が大破した。航空機の損害は日本側が97機喪失、米側が69機の喪失であった。この海戦の結果、日本軍はMO作戦を延期、その後断念することになった。

 

日本は戦術的勝利、米国は戦略的勝利?

 

03_翔鶴
(画像は前部甲板を破壊された翔鶴 wikipediaより転載)

 

 この海戦は世界初の空母対空母の戦いであった。結果は日本側が軽空母1隻、駆逐艦1隻、掃海艇3隻撃沈、正規空母1隻大破航空機損失97機であった。これに対して連合軍は正規空母1隻、油槽船、駆逐艦各1隻撃沈、航空機の損失は69機である。このことから一般的には珊瑚海海戦は日本側が戦術的勝利、連合軍側がMO作戦を阻止したことから戦略的勝利と判定されている。

 この連合軍側が戦略的勝利であることは間違いないが、日本側は空母の損害こそ少なかったものの、航空機は連合軍側の約1.5倍を失い、人員に関しても連合軍側656名の戦死者に対して日本側は966名とこちらも約1.5倍の損害を出している。特に五航艦航空隊の損害は酷く、戦闘機隊こそは被害が比較的少なかったものの攻撃隊はほぼ壊滅であった。航空機や人員の損失まで考慮すればこの海戦の結果を日本側の戦術的勝利とするのは疑問符が付く。特に育成に10年かかると言われる航空機搭乗員、その中でもさらに高い技量が必要と言われる母艦搭乗員を一挙に失ったことは大きな損失であった。

 

まとめ

 

 珊瑚海海戦により五航戦航空隊は実質的に壊滅、空母翔鶴は修理に3ヶ月を要する大損害を受けた。初戦期で日本の戦力が一時的に連合軍の戦力を上回っていた状態であったとはいえ、日本側は、第一航空艦隊に集中していた空母戦力を分散、さらにまた五航艦と祥鳳を分散して運用するという悪手を行ってしまった。緻密過ぎる作戦と無駄な戦力の分散は以降も日本海軍の作戦で多く見られる傾向である。

 

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01_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 仏印進駐とは、日中戦争の相手国中華民国への補給路を遮断するために日本軍が北部仏印に進出、これに米英が怒って日本への資源の輸出を禁止、資源が欲しい日本は、今度は東南アジアの資源を求めて南部仏印に進出。激ギレした米国は対日石油禁輸をする。石油が欲しい日本は太平洋戦争の開戦を決意する。

 

仏印進駐 〜概要〜

 

02_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

北部仏印進駐

 1937年に何となく始まった日中戦争。日本軍が中華民国の首都南京を攻略したものの、中華民国は内陸部の重慶に首都を変更して抗戦を続けた。この中華民国に対してイギリス、アメリカ、ソビエトは大量の物資を送り続け中華民国を支援していた。このルートは4路あったが、その中でも最大のルートがフランスが植民地としていたベトナム、ラオス(仏印)の北部を通るルートであった。

 1940年、中華民国の「兵糧攻め」を狙う日本軍は、このルートの遮断するため北部仏印に武力進出する。当時、ドイツに占領されて力の衰えていたフランスは日本の要求を受諾せざるえなくなかった。この結果、援蒋ルートの遮断には成功したものの米英の反感を買い、同時期に日本が日独伊三国同盟を締結したこともあって米国は日本への鉄くずの輸出を禁止した。

 

南部仏印進駐

 米英からの反感は買ったものの、制裁は日本側が思っていた程厳しいものではなかったが、日本は戦略物資の供給元を失ってしまった。そこで日本が目を付けたのがオランダ領東インドであった。これは現在のインドネシアに相当する地域で豊富な資源を産出していた。

 南部仏印とは現在のベトナム南部で、ここに進駐することはこのオランダ領東インドに圧力をかけることができるだけでなく、イギリス植民地にも圧力をかけることが出来る要地であった。1941年7月末、日本軍は南部仏印に進出する。日本軍の進出は一応、平和的なものであったが、日本軍の強力な武力を背景にしていることには変わりはなかった。

 これに対して米国は即座に対日石油輸出禁止を決定、石油の輸入を米国に頼っていた日本はピンチに陥る。石油が無くなれば戦争も出来なくなると考えた日本は、11月に対米戦争を決意、12月に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。

 

援蒋ルートとは

 

03_援蒋ルート
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年に日本と中華民国の間で日中戦争(日本側呼称は支那事変)が始まると日本の勢力拡大を脅威に感じた米国、英国、ソ連は中華民国に対して大量の支援物資を送ることで対抗した。この支援物資を送るためのルートを当時の中華民国の主席であった蒋介石から「援蒋ルート」と呼ばれるようになった。

 このルートはソ連からのルート、香港からのルート、仏印ルート、ビルマルートの4つが存在したが、ソ連からのルートは独ソ戦開戦によって余裕が無くなったことや日ソが日ソ中立条約を締結したこともあって閉鎖。香港ルートも1938年に日本軍によって広州が占領されると遮断、残る仏印ルートは日本軍による北部仏印進駐によって遮断されたが、米英はビルマルートにより中華民国を支援し続けたため、日本軍はビルマルートを遮断するためにインパール作戦を行うこととなった。

 

仏印進駐のおすすめ書籍

 

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

 2020年菅内閣時に学術会議任命拒否された6人の内の一人、加藤陽子氏による日本近代史の概略を一般向けに分かりやすく解説した本。加藤氏は日本近代史の専門で本書は多少回りくどい部分もあるが、明治維新以降、日本が太平洋戦争に突き進んでいく姿を描き出している。徐々に選択肢が少なくなり、最終的には開戦に至っていくという過程が良く分かる。

 

まとめ

 

 援蒋ルートを遮断するために行った仏印進駐は米英による経済制裁を招いた。鉄と石油という近代国家に必須の戦略物資の供給を断たれた大日本帝国は米英蘭に対して開戦する。開戦当初は二線級の兵器で武装した米英蘭連合軍を圧倒的な戦力で撃破した日本軍であったが、そもそも日本と連合国では、生産力や技術力に圧倒的な差があったため数ヶ月で快進撃は止まり、以降は守勢から敗北へと突き進んでいく。

 

 

 


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01_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 真珠湾攻撃とは、1941年12月8日に日本海軍の空母部隊、小型潜水艦が真珠湾に停泊中の艦船、軍事施設を奇襲した。これにより太平洋戦争が開戦する。合計2回攻撃を行い、戦艦を中心に多くの艦艇を行動不能にしたが、石油タンク、修理工廠は攻撃対象としなかったため攻撃は不徹底で空母を捕捉出来なかったこと合わせて、第二次攻撃をするべきであったのか否かがしばしば問題となるが、実際の諸条件を加味すれば南雲機動部隊の行動は妥当だったといえる。

 

真珠湾攻撃 〜概要〜

 

02_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の南部仏印進駐によって対日石油禁輸等の強硬措置を決定した米国に対して、日本は交渉を継続する一方、対米戦の準備も開始していた。連合艦隊は新しい兵器である航空機で真珠湾に停泊中の艦艇を行動不能とする計画を立てる。当時は一般には、航空機で戦艦を撃沈できるとは考えられておらずかなり奇抜な作戦であった。

 当時、空母は各艦隊に分散配置されていたが、真珠湾攻撃のために空母を終結、第一航空艦隊を編成した。第一航空艦隊に編入された空母は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、そして就役したばかりの翔鶴、瑞鶴の6隻であった。この艦隊は、司令官の苗字をとって南雲機動部隊とも言われる。この南雲機動部隊は、演習を偽装して別個に択捉島単冠湾に集結、11月26日に事前に調査した上で最も艦船の航行しない航路を選択して真珠湾に向かった。

 12月2日、洋上で攻撃決行の暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を受信、当初の計画通りに12月8日早朝、第一波攻撃隊183機が真珠湾を攻撃、同時に潜水艦によってハワイ近海まで輸送された2人乗り小型潜水艦「甲標的」5隻も真珠湾を攻撃した。続いて第二波167機が真珠湾を攻撃、これらの攻撃で米側は戦死約2,300名、航空機200機撃破、戦艦4隻、その他2隻が撃沈した他、米海軍主力戦艦のほとんどに致命的な損害を与えた。

 しかし、日本海軍が重要攻撃目標としていた空母は在泊しておらず、膨大な量の石油備蓄タンク、艦艇の修理工廠も攻撃を受けなかった。南雲機動部隊は一撃のみを行い真珠湾近海を離脱、日本本土に帰還した。日本側の損害は航空機29機である。

 

第二次攻撃は必要だったのか

 

03_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本軍の攻撃は艦艇や飛行場に集中したため膨大な量の石油タンク、修理工廠は無傷であったため攻撃後、被害を受けた艦艇の多くはすぐに引き上げられ戦争後半には戦列に加わっている。このため、これらを攻撃するために第二次攻撃を行うべきだったのか否かというのが必ずといっていいほど議論になる。これに関しては、海軍の作戦全般を統括する軍令部と連合艦隊の作戦目標のずれが指摘されている。

 軍令部が設定した真珠湾攻撃の目的とは南方資源地帯への進攻を円滑に進めるために米太平洋艦隊を一時的に無力化することであり、連合艦隊の作戦目標は艦隊を含むハワイ基地の機能を無力化することであった。これらの意見のずれは結局、最後まで統一されることはなく不明瞭で、いわば「現場任せ」の状態となっていた。このため南雲中将が一撃で戦艦部隊を無力化したのち帰還したのは軍令部の作戦目標に沿った行動であったといえる。

 むろん石油タンクや修理工廠を使用不能とするに越したことはないが、南雲機動部隊は、第一波攻撃で9機が撃墜、第二波攻撃では20機が撃墜されており、明らかに米軍の反撃体制が整備されつつあることが分かる。ここで第二次攻撃を行った場合、その損害は第一次攻撃を遥かに上回ったことは確実であり、さらには無傷の米空母部隊が攻撃してくる可能性も高かった。さらには日本軍は修理や補給というのを軽視しており作戦計画でも攻撃目標とされていなかった。これらの点も考慮すれば南雲機動部隊の行動は妥当であったと考えてよい。

 

まとめ

 

 真珠湾攻撃は、その準備から実施まで非常に緻密に計算して行われた作戦であった。作戦は参加する隊員に対しても一切知らされることなく準備され、参加部隊は演習と偽り、別々に本土から出撃していった。全参加者に攻撃目標を知らされたのは択捉島単冠湾であった。この緻密さ故に真珠湾攻撃は成功したものの、宣戦布告前の攻撃であったため卑怯なだまし討ちとして「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、国民一丸となって戦争に邁進していく。

 

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01_ヘンダーソン飛行場
(画像はヘンダーソン飛行場 wikipediaより転載)

 

 ヘンダーソン基地艦砲射撃とは、日本海軍の戦艦金剛、榛名以下12隻の艦艇が一晩中ガダルカナル島ヘンダーソン基地を艦砲射撃した戦闘。砲撃は大成功でヘンダーソン基地に合計966発の砲弾を撃ち込むことに成功、全艦無事に帰還した。ヘンダーソン基地は航空機54機を喪失、第一飛行場が一時的に使用不可能となったが、第二飛行場が完成していたため致命傷とはならなかった。

 

ヘンダーソン基地艦砲射撃 〜概要〜

 

02_金剛型戦艦
(画像は金剛型戦艦右から金剛・榛名・霧島・比叡 wikipediaより転載)

 

 1942年10月11日、日本海軍の拠点トラック島を栗田健男中将が指揮する日本海軍の戦艦金剛、榛名、軽巡五十鈴他駆逐艦9隻が出撃、直掩機6機の護衛の下にソロモン海域に侵入した。10月13日夕方より全力でガダルカナル島に侵入、23時より14日1時まで2時間ほど、ヘンダーソン基地に対して砲撃を開始、基地攻撃に有効であると考えられた対空用の零式弾、三式弾、ついには副砲や徹甲弾等ありとあらゆる砲弾を撃ち込みまくった。当時の航空機は夜間攻撃が出来なかったため、栗田艦隊は夜陰に乗じて侵入、砲撃終了後は、最大戦速の29ノットで脱出した。その間、米軍魚雷艇の攻撃を受けたものの撃退、全艦が無事に帰還した。

 米軍側は海兵隊が反撃するも砲弾が届かず、ヘンダーソン基地所属航空機96機の内、54機が撃破された他、第一飛行場が一時的に使用不可能となった。しかし日本軍に知られていなかった第二飛行場は無傷であり、被害を免れた航空機が翌日には出撃、日本軍を攻撃している。

 

艦砲射撃の威力

 

 「一度成功すると何度でも同じことをやる」と米軍高官に言わしめた日本軍、翌14日夜にも重巡鳥海、衣笠と駆逐艦2隻がガダルカナル島に侵入、ヘンダーソン基地に対して752発の砲弾を撃ち込んでいる。さらに15日夜には重巡妙高、摩耶以下9隻が主砲926発を撃ち込んでいる。これらの前後も含めてヘンダーソン基地に対する砲撃は何と13回にも及んでいる。結構な確率で砲撃は成功しているものの、ヘンダーソン基地に対しては致命傷となるような損害を与えることは出来なかった。これに対して日本軍は待ち構えていた米艦隊の攻撃により戦艦比叡、霧島を失っている。

 戦艦の砲弾は対艦攻撃用には徹甲弾を使用するが、日本海軍は対空戦闘用に空中で爆発する零式通常弾、三式弾を開発していた。これらの砲弾は時限信管を持っており、時間になると爆発、内部にあるマグネシウムや金属片を周囲に飛散させる仕組みになっていた。ヘンダーソン基地砲撃にはこれらの砲弾が使用され、一定の効果を発揮したが、撃ち尽くした後は通常の徹甲弾を撃ち込んでいる。何もしないよりはマシだが地上目標に対しては地面にめり込むだけなのでほとんど効果はない。

 この艦砲射撃を受けた米軍は早速この戦法を応用、戦争後半の太平洋の島嶼攻撃、沖縄本島への攻撃等を行った。米軍の艦砲射撃は航空機による制空権の確保、地上爆撃を行った上で、圧倒的な火力に正確な着弾観測を行い、目標をエリアで区切り一つずつ徹底して潰していくというものであった。この砲撃の凄まじさは当時の日本軍兵士の手記等により知ることが出来る。この艦砲射撃は1991年の湾岸戦争においても戦艦ミズーリ、ウィスコンシンによってイラク軍陣地に対して行われている。

 

まとめ

 

 ヘンダーソン基地艦砲射撃は、一定の戦果は上がったが、米軍のように一点に全戦力を投入して徹底して行うというものではなく、戦力を小出しにしている感が否めない。だが、仮に全戦力を集中して投入したところでガダルカナル島を再占領維持するのは日本の国力、特にロジスティクスの観点から考えると難しかった。ここは内地からは遠すぎるのだ。

 

 

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01_台湾沖航空戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 台湾沖航空戦とは、空母17隻、航空機1,100機の陣容を誇る米海軍第38任務部隊をコテンパンにやっつけようと陸海軍の航空機によって総攻撃をかけたところ攻撃は大成功。空母19隻を撃沈する戦果を挙げ米海軍を壊滅させたと思っていたのだが、実際の戦果は全部誤認で、実は日本の航空部隊が壊滅していたという作戦。米国ではフォルモサ航空戦(フォルモサとは台湾の別称)と呼ばれている。

 

台湾沖航空戦 〜概要〜

 

02_第38任務部隊
(画像は第38任務部隊 wikipediaより転載)

 

 日本軍が勝手に設定した絶対国防圏を容易に突破した米海軍に対して、海軍では762空が編成された。これは通称「T攻撃部隊」と称され、海軍の熟練搭乗員と気鋭の若年搭乗員で編成された荒天時や夜間の攻撃を主任務とする決戦部隊であった。特に台湾沖に頻繁に発生する台風と共に接近、攻撃をかける戦法を企図していた部隊で名称の由来は「Typoon(台風)」の頭文字、はたまた「Torpedo(魚雷)」の頭文字とも言われている。当時の粗悪乱造で性能の低下した航空機とメチャクチャ練度が低い搭乗員でやるには難しすぎる任務である気もするが、陸軍からも飛行第7戦隊、98戦隊が編入されて米機動部隊の襲来を今や遅しと待ち構えていた。

 そんなさ中の1944年10月10日、太平洋艦隊司令官ニミッツに台湾攻撃を命じられたハルゼー大将は沖縄諸島の日本軍拠点を攻撃する。10月12日にT攻撃部隊が出撃、第38任務部隊に対して以降4日間にわたって航空攻撃を敢行する。その結果、日本軍の戦果は空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻撃沈、その他15隻撃沈・撃破という大戦果を挙げた。

 これに対して日本軍の損害は航空機の損失312機。空前の大戦果に日本は沸き立ったが、後日、それが全て誤認戦果であることが発覚、実際の戦果は航空機89機撃墜と重巡2隻大破程度であった。

 

幻の大戦果が生まれるワケ

 

03_大本営発表
(画像は開戦時の大本営発表 wikipediaより転載)

 

 これ、一般に大本営発表の嘘として有名なのだが、軍上層部が実態を知っていながら虚報を流したと考えているのであれば完全な間違いで、当時の軍上層部のお偉方は完全に信じ切っていたのだ。何でこんな「幻の大戦果」が発生してしまったのかというと、理由は単に搭乗員の経験不足。そもそも戦果の誤認はベテランでもかなり発生する。戦後の調査でも練度の高い搭乗員で編成された開戦初期の作戦でも多くの誤認戦果が発生している。航空機の戦果では実際の戦果の倍以上に誤認されているのもザラなのだ。

 何でこんなことが起こるのかというと、戦闘中はもちろん冷静でいられない。敵は大きく見え、希望的観測によって自身の戦果は過大に認識してしまう。ましてや実戦経験の少ない若年搭乗員や初めて雷撃を行う陸軍航空隊員が戦果を確認しにくい夜間攻撃を行えばその誤認たるや目を覆うばかりである。

 例えば、雷撃機が魚雷を発射!敵艦に命中、闇夜に火柱が上がる。そしてすぐに火柱は消える。実際は、命中はしたものの敵艦の乗組員の処置により即座に鎮火していても、搭乗員からしてみると「大爆発!一瞬で轟沈!」となる。元々敵は大きく見えるのだが、闇夜ともなればそれは駆逐艦が戦艦になってしまう。そこで「戦艦1隻轟沈!」という戦果が報告されるのだ。

 それを複数の航空機の搭乗員がそれぞれに報告する。そうすると実は駆逐艦1隻が大破した程度であっても「戦艦3隻撃沈!」というような誤認戦果が生まれる。報告を受ける上官としてみても、当の搭乗員達は本気で信じているし、自分が実際に現場に行った訳でもないので否定する要素は何もない。さらには部下の戦果を認めてやりたい気持ちや自身の願望が重なってそのまま戦果として認めてしまう。その報告がどんどん上に上がり「幻の大戦果」が生まれるのである。

 

まとめ

 

 この台湾沖航空戦の当時、大本営陸軍部の「マッカーサーの参謀」こと堀栄三氏は当初からこの大戦果を不審に思い、帰還した搭乗員に対してヒアリングを行っていた。結果、誤認戦果であると推測していた。さすがマッカーサーのレイテ上陸をぴったり的中させた情報参謀である。でも、普通の人はみな信じたいことを信じるのだ。

 

 

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