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わかりやすく解説

01_防人
(画像は防人。本物そっくりだ。 wikipediaより転載)

 

防人

 

そもそも防人ってなんなのさ!

 663年、日本軍は白村江において唐・新羅連合軍に大敗する。白村江の戦いである。日本軍の水上部隊の総兵力は2万、それに対する唐・新羅連合軍の総兵力4万。大陸での長い戦いの歴史の中で集団戦闘を訓練されている唐・新羅軍に対して豪族とその私兵を中心として集団戦闘の訓練も受けていない日本軍はあまりにも弱かった。フルボッコにされた日本軍は内地に帰還、朝廷はすぐに逆撃体制を整える。

 対馬から九州、西日本一帯にはおびただしい数の山城を構築、防御の拠点となる九州北部の大宰府は1,200mにも及ぶ水城と呼ばれる城壁を設けて要塞化していた。そして山々にはと烽と呼ばれる狼煙を設けて各拠点間の通信設備も整えた。そして防御の専門部隊として防人が充てられた。防人とは「さきもり」と読み、語源は不明であるが、「岬(みさき)守(もり)」あたりが語源だと言われている。現在でも、国境警備に当たる自衛隊やその他の公務員を「○○の防人」などと表現することもあるが、そもそもこの防人とはどんな存在だったのか、知名度の高さの割には意外と知られてない防人。今回はこの防人に関して解説してみたい。

 

律令以前の防人

 簡単に防人といっても古代で防人がいた期間というのは意外に長く、7世紀中葉から9世紀まで断続的ではあるが主に北九州に配備されていた。防人の初見は646年の大化改新の際に朝廷より出された改新の詔であるが、これはちょっと胡散臭い。ガチ確実なのは、664年で先述の通り、白村江以後の日本の防衛のために配備されたものである。ただ、この時期の防人というのはどのような編成でどこに配備されていたのかというと詳しいことは分からない。685年に朝廷が「任期満了した防人は返せ」とわざわざ指示していることから任期があるのだが、その任期はあまり守られていなかったのかもしれない。

 

 

大宝律令で明記された防人

 701年、大宝律令が制定されると防人は律令によって明確に規定されることになる。防人は当時の常備軍である軍団から選別されたが、どうも現在の関東甲信地方の軍団から選抜されていたようだ。関東甲信地方は、現在でこそ東京があり、埼玉、神奈川があり、全国のオシャレ人(びと)が集結する夢の大都会だが、古代ではこの一帯は「ド田舎」どころか、さらにもう二つ三つ「ド」が付くような辺境である。逆に人々はハングリーだったようで、この辺の地域は朝廷の軍事力の供給源となっていた。

 明確な規定は無いが、防人の規模は2,000〜3,000人、東国から摂津(大阪府)を経て水路で北九州に送られた。ちょっと細かいことを書くと、古代といえども政府の組織は官僚が管理している。防人の管轄は、防人の徴収から摂津までが徴収した国の国司が担当、摂津から大宰府までは兵部省の管轄、そして大宰府に到着すると大宰府麾下の防人司に管轄が移る。総司令官は大宰帥(だざいのそつ)という大宰府の総責任者だ。古代でも管轄やら手続やらいっぱいあるのだ。

 防人の任期は3年で、赴任先は北九州。当時、唐や新羅と緊張関係にあった古代日本にとって西部方面の防衛は最重要だった。装備は弓や剣、さらには弩と呼ばれる巨大ボーガンのような重兵器も使用した。当時は全国に軍団が設置されていたため北九州は防人と軍団によって「爪牙(そうが)の備え」とも呼ばれる鉄壁の守りを誇っていた。

 ただし、防人に選ばれた人はけっこう悲惨である。徒歩で関東から大阪に行き、はるばる船に揺られ瀬戸内海を通過、北九州に到着するのであるが、帰り道で野垂れ死にしてしまう防人もいた。それが理由なのか何なのか、奈良時代中葉になると防人は北九州諸国からも徴発されるようになる。しかし現場の大宰府は困ったもの。唐軍や新羅軍が攻めて来ることはないが横行する海賊に対して九州の兵は今ひとつだったようだ。再び剽悍な東国兵の復活を申請するが認められなかった。

 

廃止

 帰順した蝦夷を防人として送り込む等の奇策も行ったものの、795年には壱岐対馬以外の防人は廃止、804年にはとうとう壱岐対馬の防人も廃止されてしまう。廃止の理由は良く分からないが、防人とその家族の負担があまりにも重すぎることや財政的な負担が理由と考えられる。826年になると北九州は軍団も廃止され、代わりに地元の金持ちの子弟で編成される統領・選士と呼ばれる少数精鋭の兵士が沿岸防衛任務に就くこととなった。

 この時期の北九州の軍縮の理由は不明だが、この時期は、東北での大侵攻作戦を行っており大規模な軍が投入されていた。これに対して北九州は、この150年の間に唐や新羅の軍事侵攻の可能性は低くなり、強力な部隊を北九州に展開する必要がなくなったのだろう。これより以前、8世紀末には全国の軍団も廃止されていることからも財政的負担を軽減するための措置だったのではないかと思う。

 

 

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関ヶ原19990827_01

 

超要約

 

 奈良時代から平安時代の初期にかけて日本の軍事制度の基本は軍団制であった。一般成人男子から徴兵された徴兵軍で古代中国の制度を参考にした軍隊で最大1,000人の軍団を編成、全国に配置されたものの、全国に配置する必要性もなくなり維持費も高いことから平安時代初期に廃止された。以降は健児と呼ばれる弓馬に巧みな者が採用されて地域の治安維持にあたった。

 

軍団

 

豪族に率いられた私兵集団

 現在の日本の軍事制度は周知のように自衛隊を中心とするものだ。それ以前は帝国陸海軍が存在した。さらにその前は江戸幕府、戦国時代とずーっと飛ばして古代の軍事制度とはどんなものだったのだろうか。古代の軍事制度とは意外と知られていないと言いたいが、むしろ意外ではなく普通は知らないものだ。まあ「防人とかあったよねぇ〜」という程度だろう。古代といっても範囲は広い、今回の範囲は主に律令が発布されてから奈良時代、平安時代初期位までだ。

 それ以前の日本の軍事制度は制度と呼べるようなしっかりしたものではなく、国造軍など、地方の豪族が私兵を率いてはせ参じるというようなものであった。しかし激動の東アジア情勢、中国大陸に隋帝国が成立、さらに唐が成立するとにわかに緊張が走るようになる。日本列島内部の戦いにおいてはそれで良かったかもしれないが、対外戦を考えるともっと中央集権の統一指揮可能な軍事力が必要となってくる。地方豪族が私兵を率いるという軍隊はやはり集団戦の訓練を受けた統制された軍隊に対しては弱いのだ。

 事実、663年の白村江の戦では唐・新羅連合軍の前に惨敗してしまう。朝鮮半島南部の海上で行われたこの戦いは豪族に率いられ、遮二無二突撃する日本水軍に対して、唐・新羅連合軍は左右から包囲殲滅してしまった。集団戦闘に長けた大陸・半島の軍隊の前に豪族中心の日本軍は無残な敗退を強いられたのだった。

 

軍団の編成

 白村江の戦の直後、日本はすぐに逆撃体制を構築、対馬、九州北部から瀬戸内海に至る地域に山城を構築、防人と呼ばれる強力な兵団による防御体制が構築された。さらに九州北部には水城と呼ばれる1.2kmにも及ぶ長大な防壁に護られた大宰府と呼ばれる拠点を設置した。この大宰府、最近の調査では大宰府北部に構築された水城だけでなく、南部にも城壁、さらにその周辺には山城が存在したという。古代の要塞地帯であった。

 防御体制と共に軍隊もそれまでの豪族が率いる私兵集団から中央集権化された強力な軍隊の存在が求められるようになってくる。7世紀後半に戸籍によって日本全国の人口が中央政府によって掌握されたことにより、中央集権の大規模な軍隊が編成できるようになった。この軍隊は、編成も中国の軍隊の編成を参考に現代と同じ様に合理的に編成されたもので「軍団」と呼ばれた。

 軍団は、一般成人男性を一定の割合で徴兵した徴兵軍で最小単位は10人の「火」と呼ばれる部隊で火長と呼ばれる指揮官によって統率された。さらにその火が5個(50人)集まると「隊」と呼ばれる単位になる。これは隊正と呼ばれる指揮官に統率される。この隊が2個(100人)集まったものを旅帥が統率、旅帥が統率する2個部隊(200人)を統率するのが校尉となる。この旅帥率いる100人編成の部隊、校尉率いる200人の部隊が組み合わされて軍団が編成されたようだ。

 軍団はおよそ500人から1,000人で編成され、毅と呼ばれる指揮官に統率された。これらの軍団は人数によって大団、中団、小団と分けられ大団では大毅と呼ばれる指揮官に小毅2人が補佐した。これら歩兵部隊とは別に騎兵隊も編成されており、これは乗馬や弓の技術に長けた者が選抜されて配属された。武装は弓、刀の他に弩と呼ばれる機械式の強力な弓、さらに集団戦闘の際の指揮道具である太鼓やほら貝等が装備された。

 

ということで廃止

 この軍団の中で運がいいのか悪いのか、選抜された兵士が防人や衛士として辺境や都の警備にあたる。衛士は一年で帰ることができるからまだ良いが、防人は辺境まで行きそこで三年間服務することが決められている。平時の軍団兵士は一応、軍事訓練や設備の修繕等を行うことになっているが、結構、雑用にこき使われていたようだ。

 この軍団、対外戦争のために動員されると総指揮官として大将が任命される。大将は天皇より節刀を受け部下の処刑まで含めたかなりの権限を委譲される。節刀とは刀で恐らくは権限の象徴だったのだろう。動員される軍の規模によって副将が配置される他、軍監、軍曹(多分中級指揮官)、さらに録事(多分事務官)が配置される。

 軍団兵士は全国で推定20万人とも言われ、当時の日本の人口が400〜800万人であったことを考えると相当な規模である。現在の自衛隊の隊員数が25万人程度であることを考えるとどれだけのものだったのかが分かるというものだ。これだけの規模の軍隊を維持するための維持費は尋常なものではない。さらにその軍団兵士というのは同時に税を納める百姓であることも忘れてはならない。軍団に労働力を提供している間は農地の耕作などはできない。軍団の規模が大きければそれだけ税収は減るのだ。

 んで、実際に軍団が役に立ったのかというと微妙なところだ。東北での侵攻作戦では軍団は活躍したものの、唐や新羅が攻め込んでくることもないし、日本から攻めることもなかった。この状況で全国津々浦々まで軍団を維持しておく必要はあまりない。ということで平安時代初期に軍団は一部地域(東北など)を除き廃止してしまう。

 但し、地域の治安維持も担っていた軍団、廃止後は健児と呼ばれる豪族の子弟の中で乗馬や弓が得意な者を選抜して治安維持を行うことにした。しかし人数は極端に減り、大きい国でも数十人程度の規模になってしまった。

 

 

 

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01_藤原良房
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 摂政は天皇の代行、関白は天皇の補佐、摂政は制度としては現在でも存続しているが、関白は明治時代に廃止された。臣下で最初に摂政になったのは藤原良房、最初に関白になったのはその子、藤原基経である。

 

摂政と関白

 

摂政、関白とは

 日本史上初めて臣下で摂政に任じられたのは藤原良房である!すっ、すげーよぉ〜。臣下でありながら摂政とは。そして史上初の関白に任じられたのは藤原基経なのだ。そっちもすげーよぉー。摂政になったり関白になったり。だって偉いんでしょ?摂政も関白も!

 そう偉いのだ!摂政も関白も偉いのだ。天皇に次いで偉いと言っても良い。どっちも偉い。と言っても偉いだけなら貴族だって偉いし、大臣も偉い、天皇なんてもっと偉いのだ。では、何がどのように偉いのか。摂政と関白の違いも分からないし、最初に登場した藤原良房と藤原基経って何?わからないことだらけの古代の制度。ここから簡単にというよりも出来るだけわかりやすく説明してみよう。まず摂政と関白の違いだ。摂政とは天皇に代わって政務をみる役割、天皇が幼かったり、病気だったり、その他大人の事情があったりと、何らかの事情で政務をみられない場合に皇族や臣下が天皇の代わりに政務をみる。それが摂政である。古い時代から主に皇族が摂政として天皇を代行したが、初めて臣下で摂政となったのは前述した藤原良房である。

 これに対して関白とは天皇の補佐役、要するに宰相と考えて良い。みんなの大好きな三国志の時代、劉備を補佐していたのが諸葛孔明、劉備が天皇であるならば孔明の立場が関白に近い。まあ、ほぼ同じだ。天皇は発言権と決定権を持ち続けているが、そのナンバー2として存在するのが関白なのだ。当然、天皇を除くと政界の頂点に君臨する最高権力者である。

 

摂政と関白、その後。。。

 古くは聖徳太子がなったと言われる摂政、実は現在でも制度としてはあるのだ。摂政も古代から近世まで存続、明治時代になっても大日本国憲法に摂政の制度が定められた。摂政というのは天皇の代行であって天皇に万が一のことがあった時には必要不可欠な存在である。近代以降でも実は摂政がいた時代があった。その時代とは大正時代で、大正10年(1921年)から大正15年(1926年)まで大正天皇に代わって、皇太子であった裕仁親王が天皇の代行、摂政を務めた。この裕仁皇太子は言うまでもなく、後の昭和天皇である。当時は摂政を務めていたので摂政宮(せっしょうのみや)と呼ばれていた。この摂政の制度は現在でもあり、天皇に何かあった場合は摂政に就任する順位も決まっている。

 これに対して関白というのは平安時代に誕生、以降、藤原氏が継承するようになり、中世、近世と続いていく。戦国武将の豊臣秀吉も就任するなど権力の頂点に君臨した関白であったが、江戸時代になると関白といえども江戸幕府には逆らえない。関白に就任するには幕府の許可が必要であった。その後、明治時代になると関白という職は廃止されて現在に至る。関白というのはあくまで補佐なのでその役割は、明治時代になると維新の元勲たち、そして総理大臣に継承されていった。

 

藤原良房と基経

 つまりは摂政は天皇の代行、関白は天皇の補佐というのが摂政と関白の違いである。ところで最初に登場した藤原良房やら藤原なんちゃらさん、具体的にどういうことなのかこれも説明しよう。藤原氏というのは藤原鎌足から始まる。その子が不比等、男の子が4人おり、それぞれが家を起こした。この四家は藤原四家と呼ばれるが、それぞれが権力を争い、平安時代になると北家と呼ばれる次男の一族が権力を掌握する。平安時代前期、この一族に生まれたのが藤原良房である。

 パパである藤原冬嗣は弘仁元年の政変で藤原北家台頭の基礎を築いた。子である良房は当時の上皇(退位した天皇)の支援等を受けて順調に昇進、30歳で参議、翌年には従三位と貴族の中でも「公卿」と呼ばれる一段上の地位に上る。さらに36歳で中納言と権力街道まっしぐらであった。家柄だけでなく本人もかなり有能で、文徳天皇の外戚(皇后のお父さん)となり絶大な権力を手に入れた。

 そんな時に応天門の変という事件が起こる。この事件により当時の左大臣、右大臣が一挙に力を失った。この空白を埋めるために良房は摂政に就任する。これが日本史上初の臣下による摂政だ。その後、権力は子の藤原基経が継承する。基経も摂政となり、そして日本史上初の関白となった。

 天皇の代行である摂政に比べて関白というのは一段グレードが下がるのではないかと思われるかもしれない。確かに制度上はそうであるが、そこはそこ、実際はかなりの権力を持っていた。例えば、基経の力によって即位した宇多天皇が基経を関白に任命する際「阿衡に任ずる」と詔を下した。阿衡とは関白のかっちょいい表現であったのだが、基経は、「阿衡とは有名無実の役職」との話を小耳にはさみすっかりへそを曲げてしまった。

 ブチ切れて政務を放棄してしまった基経、宇多天皇も「違うんだよ〜」「そんな意味じゃないよー(涙目)」と基経に言うのだが納得しない。仕方なく宇多天皇は「ハイ!僕が間違っていました!(涙)」というような詔を発布して何とか政務に復帰して頂いたのだ。それほどの権力を基経は持っていた。良房と親子二代、どちらも有能な人物であったのだ。

 最後に簡単にまとめると、摂政は天皇の代行、関白は天皇の補佐、臣下で最初に摂政になったのは藤原良房で最初に関白になったのは藤原基経ということなのだ。因みに関白自体は制度としては亡くなってしまったが、「亭主関白」などの言葉としては残っている。もちろん絶対的な権力を持っている夫という意味であるが、よーく考えると関白というのはあくまでも天皇の補佐である。家族で亭主が関白に就任するということは、つまりは天皇は妻ということになる。どっちが偉いのかというと。。。

 

 

 

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01_藤原不比等
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 藤原鎌足に始まった藤原氏。子の不比等には四兄弟がいた。それぞれ南、北、式、京の四家に分かれるが、奈良時代に京家と南家が衰退、平安時代初期に式家が衰退して北家が権力を握る。以降北家の内部での権力闘争が激化。

 

藤原四家の栄枯盛衰

 

不比等の子四兄弟

 奈良時代の政治史を知る上で欠かせないのは、藤原氏の存在だ。藤原氏とは、いわゆる大化の改新で功績のあった中臣鎌足が死の直前に天皇から賜った姓である。その後、藤原氏は権力を握り増殖、平安時代には藤原氏だらけになってしまう。では藤原氏はみんな仲良しでお手々てつないで仲良しかといえばそうではない。人間の業というか罪というか何というか。その藤原氏内部でも権力闘争が起こってしまうのだ。つまりは藤原氏といっても一枚岩ではないのだ。

 ではその藤原氏、どのように分かれていったのだろうか。その最初のきっかけが藤原四家の存在だ。藤原氏の始祖といってもいいのが前述の中臣鎌足、死して藤原鎌足となる。その子が藤原不比等、大宝律令やら養老律令やらの編纂で中心的な存在であり、父、鎌足の権力を継承発展させた有能な人物であった。その不比等には4人の男の子がいた。これらが武智麻呂、房前、宇合、麻呂でそれぞれ南、北、式、京家の四家の始祖となる。

 

奈良時代で南家と京家は脱落!

 この四兄弟は意外と仲が良かったようだ。しかし8世紀中頃の京の都では天然痘が大流行、四兄弟は次々と然痘に感染してしまう。737年4月、次男で北家の始祖である房前が他界、7月には長男で南家の始祖である武智麻呂と四男である麻呂が他界、8月には三男で式家の始祖である宇合も他界した。もしかしたら兄弟の見舞いに行って感染してしまったのかもしれない。

 そこで藤原氏は次世代に移る。それぞれ権力の中枢に上るが、末っ子の麻呂の京家は子供も少なかったこともあり、何だか分からない内にマイナーな存在となっていく。残る三家の内、まずは南家が頭一つ抜きんでた。これは藤原仲麻呂という超有能な人物が存在したからだ。しかしその仲麻呂も764年に挙兵、失敗して南家は没落。これ以降南家はパッとしない存在となっていく。そこで残ったのが地味に存在し続けた北家と式家の二家だ。

 

いよいよ式家も没落

 そんなこんなで奈良時代が終わり、平安京に都が移った平安時代初期、時代は平城天皇の時代となった。この平城天皇に接近したのが式家の藤原仲成で妹薬子が平城天皇のお気に入りとなり、権力をほしいままにする。しかし平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位してしまう。上皇となった平城と嵯峨天皇はその内対立、結局平城上皇が挙兵しようとするも嵯峨天皇によって未然に鎮圧、これにより仲成は射殺、薬子は自害、式家も没落した。

 そこで嵯峨天皇に近侍して権力を掌握したのが北家である。奈良時代はパッとしなかった北家であったが、ここで藤原冬嗣という人材を得て藤原四家のレースに勝ち抜いた。以降、藤原道長など平安時代中期から後期にかけて名前が知られている藤原氏はほぼ全て北家の藤原氏だ。しかしその北家もまた兄弟や従弟などで対立、権力闘争に明け暮れることになる。なんとも。。。

 

 

 

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01_大塩平八郎の乱
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 1837年、天保の大飢饉に対する大坂奉行所の対応に不満を持つ、元大坂町奉行与力大塩平八郎は門弟たちを集め武力蜂起をする。しかし反乱はわずか半日で鎮圧、大塩平八郎は自決する。幕府は、この反乱が幕府の最重要地域である大坂で起こったこと、起こしたのが元町奉行所の与力という重要な役割の人物であったことに衝撃を受けた。

 

大塩平八郎の乱

 

天保の大飢饉

 1836年から37年にかけて有名な大飢饉天保の飢饉が起こる。飢饉とは主に天候不順により農作物、特に米が不作になることで、特にこの天保の飢饉では米の収穫高が前年の半分程度にまで落ち込んでいた。当時、米食を中心としていた日本人は餓死者が続出、特に奥羽地方では10万人にも上る餓死者が出ていた。都市部である京都や大坂も例外ではなく、町は餓死者で溢れかえり、生活が出来なくなった近郊の庶民は大都市に流入、治安も急速に悪化していた。

 これに対して大坂町奉行は何ら対策をしない。しないどころではない。ただでさえ少ない米を江戸幕府の儀式費用のために江戸に送り続けた。さらに大坂の豪商はビジネスチャンスとばかりに米を買い占めていた。これにより米価は急騰、庶民は飢える一方であった。

 

大塩平八郎という漢

 ここに大塩平八郎という男がいる。大塩は大坂で生まれた大塩は14歳で大坂町奉行の与力見習、25歳で与力となる。与力とは補佐官のようなもので町奉行を補佐するのが仕事である。幕府の職制では将軍の下に実質的に政策を決定する頭脳集団としての老中がおり、その直下に町奉行が設置されている。江戸幕府にとって町奉行とはかなり重要な役職なのだ。補佐官とはいえ、この町奉行の補佐官といえば相当な官職であるといっていい。

 大塩は剛直な男であった。官僚時代には汚職の摘発、キリシタンの摘発などに力を発揮、相手が上位の人物であろうが構わずに摘発していった。学問にも精通、独学で陽明学を修めた。陽明学とは16世紀の中国の学者王陽明により生まれた儒教の一派で知識だけでなく実践することを重視する学問である。このため時に反権力的になることもあり、幕府からは警戒されていた。大塩の学問のレベルは相当なものであったようで、私塾を開き弟子を作るほどであった。

 正義を貫く剛直な性格がこの陽明学によって自身の哲学となった大塩平八郎にとってこの天保の大飢饉の惨状は決して許せるものではなかった。1837年5月1日(旧暦3月27日)、大塩は決起する。目的は当時の大阪町奉行を殺害し、米を買い占めている豪商の焼き討ちをすることである。蔵書を全て売り払い自費で武器弾薬を集め弟子たちに軍事訓練を行っての決起である。

 

 決起した大塩とその門弟たちは檄文を撒き豪商の家を焼き討ちした。しかし密告で事前に情報が漏れていたこともあり、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまう。半日の反乱であったが、火災は大坂の20%の家屋を焼き、死者は270人以上、さらにこの騒乱に巻き込まれた15名が死亡した。大塩平八郎は逃亡、のちに潜伏先を包囲されて自決、門人たちは捕らえられほとんどが判決が出る前に獄中死している。

 この事件、当時の幕府に衝撃を与えた。この武力蜂起がおこったのが、幕府の直轄地である大坂であること、そして首謀者が幕府の元官僚であることからだ。幕府の最重要地域反乱を鎮圧する側にいた人間が反乱を起こした。それまで盤石であった江戸幕府の統治にほころびが出始めたのだった。この事件を境に全国で同様の一揆や乱が頻発する。江戸幕府が成立して200数十年、幕府は徐々に衰退に向かっていく。

 

 

 

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01_伴大納言絵詞
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 866年に起こった応天門の変、応天門を管理する伴善男はライバルの源信の放火と告発するが、その後自作自演と発覚流罪となった。無罪の源信も精神的ショックで立ち直れず、その空白を埋める形で事件を処理した藤原良房が臣下で初の摂政となった。

 

応天門の変

 

概要

  866年、平安京応天門に火の手が上がった。この応天門とは平安宮にある12の門の内の一つ、で正面に位置する門である。大伴氏が造営を担当していることから、かつては大伴門と呼ばれていたが平安時代の初め頃「オシャレな唐風の名前に変更したくな〜い?」と誰かが発案、決定となり、応天門となった。同様にかつて壬生氏が警備していた壬生門もオシャレに「美福門」、佐伯氏の佐伯門も「藻壁門」などとなった。

 応天門火災の原因は、伴善男の告発により、左大臣源信が応天門の造営主である伴氏(この頃、大伴氏は伴氏に改姓している)を呪うための放火であることが判明する。伴善男とは仁明天皇に気に入られて出世した貴族で事件時点では大納言まで昇進した有力者であった。この告発により、すぐに兵士が派遣され源信宅が包囲されるものの、あわやというところで、当時の太政大臣である藤原良房は清和天皇に対して源信を弁護、これにより源信は処罰されることはなかった。

 結局、出火の原因は山稜(偉い人のお墓)の木が伐採されたことによる祟りということになり一段落したと思いきや、今度は逆に伴善男の「自作自演」という話が上がってくる。つまりはライバルである源信を失脚させるために自分の造営した門に放火して源信のせいにしたというのだ。清和天皇の命令により伴善男一派の取り調べが開始すると、伴善男は自分が放火したとあっさり自白、伴善男は死罪となるところを減刑されて島流しとなった。

 結局、伴善男は失脚、源信は無実とされたものの精神的にすっかりまいってしまい自宅に引きこもってしまう。たまたま気分転換に出掛けた狩りで落馬して死亡してしまった。この事件で政治の中枢にいた重要人物が次々と消えてく中で清和天皇は太政大臣である藤原良房に天皇に代わって政務を行う摂政に任命した。これは臣下としては初めてのことであった。

 いわゆる応天門の変、最終的には藤原良房が臣下で初の摂政となり子々孫々栄華を極めることとなるのだ(藤原道長も藤原良房の子孫)。

 

 

 

 

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01_一式戦三型
(画像は一式戦闘機隼三型 wikipediaより転載)

 

主な航空機メーカーの戦後

 

中島飛行機

 1917年に創業した航空機メーカーで終戦まで世界有数の航空機メーカーであった。 創業者は元海軍機関大尉中島知久平で中島飛行機から生まれた航空機は隼、疾風、月光、天山、彩雲等枚挙にいとまがない。終戦直前に第一軍需工場となり実質国営化。終戦後、中島知久平は社長を自任、社名を富士産業株式会社とする。

 その後、GHQより財閥会社として解体命令、1950年5月に工場ごとに15社以上に分割された。1952年のサンフランシスコ講和条約が発効すると分割されたうち5社が再統合に動きだす。1955年4月には5社に加えさらに1社が加わり6社が集まって富士重工業株式会社を設立する。

 その後、自動車部門はインプレッサやレガシー等数々の名車を生み出し現在に至っており、航空機部門も1958年にはT-1練習機を開発、1978年にはT-3、1987年にはT-5を開発している他、対潜哨戒機P-1や輸送機C-2の製造にも参加、自衛隊や消防、警察のヘリコプターの定期整備も行っている。

 2016年に社名を富士重工業からスバルに変更し現在に至っている。このスバルのロゴは戦後に再統合した際の5社が一社になるということを表したものだという。

 

 

 

三菱重工業

 言わずと知れた名機零戦や百式司令部偵察機、九六陸攻や一式陸攻、雷電等を開発したメーカーだ。1950年、三菱重工業も戦後には財閥解体により、それぞれ東日本重工業、西日本重工業、中日本重工業に分割された。さらに1952年には三菱日本重工業(東日本重工業)、三菱造船(西日本重工業)、新三菱重工業(中日本重工業)、に商号を変更している。1964年にはこの3社が再び三菱重工業として合併して現在に至る。

 

川崎重工業

 川崎重工業は三式戦闘機飛燕等を生み出したメーカーである。1919年、川崎造船所兵庫工場に設立された飛行機科が前身である。1937年飛行機部門が分離、川崎航空機工業となる。終戦により民需産業に転換、1956年には国産初のジェット練習機T-33の製造、1966年にはP-2Jをライセンスを得て国内開発をする。1969年に川崎重工業に吸収合併、現在でもC-1、C-2輸送機、観測ヘリコプターOH-1等の軍用機の開発を行っている。

 

川西航空機

 1920年、日本毛織の創業者川西清兵衛によって操業された航空機メーカーである。飛行艇の開発に強みを発揮、九七式飛行艇や二式大艇、紫電改等の航空機を開発した。終戦直前に第二軍需工廠として国有化された。戦後はGHQの命令で航空機の製造が中止され民需産業への転換を図った。1949年には社名を新明和工業としている。サンフランシスコ条約以降は再び飛行艇を中心に航空機メーカーとして現在に至る。

 

愛知航空機

 九九式艦爆の開発で有名。1893年に設立された愛知時計製造合資会社の一部門として出発、1943年に愛知航空機として分離された。終戦により民需産業へ転換、1946年には愛知起業株式会社に商号変更、その後、紆余曲折を経て2012年より日産自動車の子会社となっている。

 

九州飛行機

 1830年に創業した渡邉藤吉本店の分工場として1886年に開設された。1904年に軍需産業に参入、1916年に渡邊鉄工所となる。1935年より航空機の製造を開始、1943年に航空機部門を分離して九州飛行機を設立する。1953年に渡辺自動車工業と改名バス車両の修理、更新を手掛ける。2001年に会社清算を行い解散した。

 

 

 

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01_ガーター勲章を佩用する明治天皇
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 栄光ある孤立を選んでいた英国であったが、中国におけるロシア・フランス・ドイツの進出を防ぐために日本との同盟を選んだ。直後に起こった日露戦争での日本の強さを知った英国はより強力な同盟を締結する。しかし日英両国の接近は両国に挟まれた米国の警戒心を生む。結局、日英に米仏を含めた四か国条約を締結することで日英同盟は解消された。

 

日英同盟

 

同盟締結までの情勢

 清国はアヘン戦争以降、英国の半植民地のような状態であったが、1895年に日清戦争によって日本が勝利すると状況は一変することになる。日本に対して巨額の賠償金の支払い義務がある清国は資金を捻出するためにロシアとフランスから金を借りることにした。その見返りとして自国への権益を認めざるを得なかった。

 ロシアは満洲から中国に勢力を拡大、同時にフランスも自国領であるベトナムから中国に勢力を拡大してきた。さらにドイツが山東半島に出兵して勢力圏としたのに対して英国もいよいよ単独で対処するには限界となり、どこかの国と軍事同盟を結ぼうと考えるようになった。

 その国とは日本の事で、日本もロシアの南下に対して警戒感を強めていた。このまま南下が続けば、その先には日本がある。どこかで南下を食い止めたかったのだ。日本ではロシアと協約を結び、ロシアが朝鮮半島へ侵入するのを防ぐ案と英国と同盟を結びロシアと開戦するという案の二つが対立したが、結局、英国と同盟を結ぶこととなった。

 

第一次日英同盟(1902年)

 1902年、日英同盟が成立する。この同盟は1国が戦争状態になった時、同盟国は中立を守ること。そして2国以上と交戦状態になった場合は同盟国側に立ち参戦することが決められた。つまりは一対一の「サシの勝負」は見守るだけだが、相手に助太刀が入った場合は「お味方致す」ということだ。この時の秘密交渉では日本はロシアと開戦する予定であると英国に伝えている。期限は5年間でああった。

 

 

第二次日英同盟(1905年)

 2年後の1904年、日露戦争が開戦する。大方の予想に反して戦局は日本にとって有利となった。1905年、奉天会戦での勝利、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃滅と同盟国が予想以上に強かったので気を良くした英国は、さらに進めて同盟国が1国以上と交戦した場合は参戦するというより積極的な同盟に変更された。つまりは「サシの勝負」でも日英の2国で戦うということだ。さらに期限も10年と延長されることとなった。この第二次日英同盟時に日本の大韓帝国保護国化を英国が承認することが確認された。これは割と重要なことだ。

 

第三次日英同盟(1911年)

 日露戦争以降、米国は膨張していく日本に対して警戒感を強めていた。米国にとって日本と英国とは大洋を挟んだ隣国なのだ。自国を挟んだ隣国同士が軍事同盟を結んでいるというのは脅威でしかない。このため米国の希望により第三次日英同盟では米国を交戦相手国の対象外とすることが決められた。但し、この決定は日英同盟の自動参戦規定とは矛盾することになる。

 

同盟解消(1923年)

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は人種差別撤廃を主張した。これは主に移民に対する差別を禁止することを目的としたものであった。これに対して英国が反対にまわったことは両国のわだかまりとして残った。さらに日英同盟を警戒する米国の思惑が重なった結果、1921年のワシントン会議で新たに日英同盟に米国とフランスを加えた四か国条約を締結することとなった。これは日英同盟のような強力な軍事同盟ではなく、相互尊重、現状維持という内容のあまり実体のあるものではなかった。1923年、四か国条約発効とともに日英同盟は破棄されることになった。

 

 

 

 

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01_南満州鉄道本社
(画像は南満州鉄道本社社屋 wikipediaより転載)

 

超要約

 

 日露戦争後、日露関係は急速に改善、1907年に日露協約を結んだ。これは極東での両国の特殊権益を認め合うというもので双方にとってメリットのあるものであった。1916年に第4次日露協約が締結されたが、翌年のロシア革命によって成立したソビエト連邦政府によって破棄された。

 

 

日露協約とはなにか

 

そのまえの国際情勢

 日露戦争が終わるとロシアは進出の矛先を満洲からバルカン半島に移すことになる。そしてロシアがドイツと緊張関係になると、ドイツに敵対している英国はロシアに接近する。1907年、ロシアは英国とは英露協商、日本とは日露協約を結ぶこととなった。これ以降、利害が一致したこの三国の関係は緊密になっていく。

 

第一次日露協約

 日本とロシアの間で結ばれた日露協約は1907年から1916年まで合計4回に及ぶ。内容は主に両国の極東での特殊権益を相互に認めることで一貫している。まず最初の1907年の第一次日露協約では、日露間の条約と日露が清国との間に結んだ条約を尊重することが決められた。さらに清国の独立、門戸開放、機会均等等が決められた。「清国の独立」とは要するに清国はどこかの国の所有ではなく、みんなで美味しく頂きましょうということだ。決して清国の側に立ったものではない。

 この第一次日露協約には秘密条約があった。それはロシアが持っている北満洲、外蒙古での特殊権益を認める代わりに日本の南満州、朝鮮半島での特殊権益も認めるというものだ。因みに「特殊権益」とは、簡単にいうと「戦争で奪い取った権益」のオブラートに包んだ言い方だ。

 

第二次日露協約

 1910年に第二次日露協約が結ばれる。これは米国の国務長官ノックスによって提案された満洲の鉄道を全て清国に返還、その後、米・英・仏・露・清・日の六か国によって共同管理を使用という提案だ。中国市場に出遅れた米国はどうしても中国の権益が欲しかったのだが、米・清国以外には何のメリットもないためその他4ヶ国によって拒否されてしまった。

 第二次日露協約とはこの提案を拒否することを日露両国が確認したものである。

 

第三次日露協約

 1912年、第三次日露協約が結ばれる。これは同年に中国で起こった辛亥革命に対応するためのもので、内蒙古の西部をロシア、東部を日本が利益を分割するということを取り決めたもの。

 

第四次日露協約

 1916年に結ばれた最後の日露協約。第一次世界大戦中の協約で日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、そしていつも通りの極東における両国の特殊権益の擁護を再確認したものだ。第一次世界大戦でドイツ・オーストラリア、イタリアの三国同盟に対抗したのは、主に英・仏・露・日である。英・仏・露は前述の英露協商にフランスが加わった三国協商、さらに日露協約という協約によって成り立っている。それを再確認したかったのだ。因みに露仏は1894年に露仏同盟、英仏は1904年に英仏同盟、日本と英は1902年に日英同盟を結んでいる。ガチガチの同盟関係をさらに確認したことになる。

 しかし1917年にとんでもないことが起こる。ロシア革命だ。ロシア革命により帝政ロシアは滅亡してしまった。新しく権力を握ったソビエト連邦政府は日露協約を破棄。10年近く続いた日露の同盟関係は終わりを告げた。

 

 

 

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01_塹壕戦
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 第一次世界大戦が始まると日本は強引に参戦。ドイツ権益の山東半島や南洋諸島を占領しまくる。中国に対しては対華二十一ヶ条の要求を突きつけ、山東半島の権益を日本のものにしてしまった。大戦中、日本はすげー儲かったのでその金を使って中国の政権に金を貸しまくったがその後焦付く。ついでにロシア革命が起こったのでシベリア出兵、そのため米騒動が起こるなど大騒ぎだったのだ。

 

第一次世界大戦と日本

 

ドイツ権益を奪取

  1914年6月、第一次世界大戦が勃発すると、当時の総理大臣大隈重信、外相加藤高明は、日英同盟を根拠に強引に参戦。同年中に山東半島、南洋諸島のドイツ権益を占領してしまう。1915年には当時の中国中央政府である袁世凱政府に対してドイツ権益の継承、満洲や内蒙古の権益の強化、さらには中国政府に日本人軍事顧問を置くこと等、ここぞとばかりに要求した二十一ヶ条の要求を行った。

 さすがにこれは内外から批判が殺到したが、日本は海軍の艦隊を出動させたり、満洲駐屯兵で圧力をかけた。その結果、1915年5月9日に条約成立。当時の中国国民はあまりの悔しさからこの日を「国恥記念日」とするほどだった。

 

大戦好況

 逆に日本は笑いが止まらない。第一次世界大戦では連合国に軍需品を売りまくり、列強が後退したアジアでは綿織物、アメリカには生糸を輸出、世界的な船舶不足から造船業や鉄鋼業も好況となり、多くの成金が生まれた。空前の好景気となったのだ。

 1916年には、これらの資金を基に寺内正毅内閣が西原借款と呼ばれる巨額の借款を中国に対して行った。これは中国利権を獲得することが目的であったが、のちに返済されずに大損害を被ることとなる。

 

ドイツ権益を各国に認めさせる

 1917年にはイギリスが日本の艦隊を地中海に派遣することを要請。受諾する対価として日本は大戦で獲得したドイツ権益を英・仏が承認するという密約を得た。前年にはロシアと第4次日露協約を結び英・仏・露との間で日本のドイツ権益を認めさせている。1917年には、日本の中国進出に警戒感を持つアメリカも第一次世界大戦参戦のために太平洋方面の安全を確保する必要から、中国での日本の権益を認める石井・ライジング協定を結んだ。

 

 

シベリア出兵と米騒動、そして終戦

 1918年にはロシア革命によりロシア帝国が崩壊、新しく誕生したソビエトはドイツ・オーストラリアと単独講和を結ぶと、日本は社会主義国家誕生を恐れた英・仏・米と共にシベリアに派兵する。このシベリア出兵を当て込んで米の買い占めが行われたために日本では全国で大騒動が発生、米騒動と呼ばれるこの騒動はのちに警官隊によって鎮圧されるが寺内内閣は総辞職することとなり、同年9月、新たに原敬が首相に就任する。

 第一次世界大戦は1918年11月11日に休戦協定が締結され、翌年1月にはパリ講和会議が行われる。この結果ヴェルサイユ条約が結ばれ正式に第一次世界大戦は終戦した。1921年にはワシントン会議が開催され、アジア・太平洋の戦後問題が協議された。このワシントン会議の結果、日本はアメリカの仲介の下、中国と協議して山東半島を放棄することになる。

 

 

 

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01_マルクス
(画像はマルクス wikipediaより転載)

 

超要約

 

 人類の歴史には下部構造の生産と上部構造の政治・社会体制がある。下部構造が進歩すると上部構造との軋轢が起こり闘争が発生、新しい上部構造が出来上がる。人類というのはそれを繰り返して進歩してきた。

原始共産制

奴隷制社会

封建社会

絶対王政

資本主義(←イマココ)

共産主義(歴史的必然性!絶対なる!マジでなる!なるに決まってんじゃん!(マルクス))

ということのようだ。しかしあくまで理論なので「じゃあ、証拠あるんですかぁー?」などということは言ってはいけない。

 

唯物史観とは

 

下部構造と上部構造によって社会は進歩する

 唯物史観とは経済学者のマルクスが考えた歴史観である。世の中には何かを生み出す生産とそれを管理する政治・社会体制があり、この二つの関係によって歴史は動いてきたという考え方で、生産というのは時間が経つと新しい技術や手法が開発されたりして技術が進歩する。これに対してそれを支配する政治・社会体制というのは既得権益側なので保守的である。ここで進歩する生産と現状維持を図る政治体制が衝突して闘争状態になる。この闘争の結果、新しい政治・社会体制が出来上がり社会は次の段階に移行するという考え方である。

 唯物史観の考えでは歴史は原始共産制から始まり、奴隷制社会、封建制社会、絶対王政、資本主義社会と進歩していき、資本主義は必ず共産主義に進歩する。難しい言い方をすると下部構造(生産)が進歩すると上部構造(政治・社会体制)が変化するとなる。中心はあくまで下部構造でその変化によって上部構造が変化する。そして下部構造は「生産=物」であるのに対して、上部構造は政治や社会体制という制度や規則という実体のない概念でしかない。このため下部構造「生産=物」の変化によって歴史を見る方法ということで唯物史観と呼ばれているのだ。

 

あくまで個人の感想です!

 と、これでも何だか分からない人が多いと思う。何だか分からないというので良いと思う。この歴史観はあくまでも理論であり、恐らくマルクスも世界中の歴史を精査して法則を導き出した訳ではない。上部構造には政治や社会体制以外にも文化や芸術、宗教も入るので、これらが全て生産によって変化するというのはちょっと単純すぎる。相互に影響し合っているというのが常識的な見方だ。これに対してマルクスの親友エンゲルスが反論しているが、これはこれでまた批判の対象になっている。要するに叩けばホコリがいくらでも出てくる理論なのだ。

 たぶんマルクスにとっては、一番大切なところは5段階の歴史のうち最後の部分で、資本主義の下部構造(労働者)が上部構造(資本家)との闘争によって新しい政治体制(共産主義)が成立するというところなのだろう。但し、この唯物史観は今でも日本共産党や共産主義者で信じている人も多いので理屈だけは知っておくとよい。

 

 

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01_赤旗
(画像はwikipediaより転載)

 

共産主義国家

 

駄目だったから駄目は駄目

 最近、共産主義について調べている。以前から興味はありその都度調べていたが、今回は一応系統立てて調べてみた。おおよそは分かっていたのだが、ソビエトの歴史など調べると知らないことが多く楽しい時間であった。と、それは良いのだ。今回私が書きたいのは共産主義が何故、何がダメなのかということだ。共産主義が駄目だということはみんな知っている。何故ならソビエトは崩壊したじゃないか。今更何故そんなことを書く必要があるのかと思われるかもしれない。

 しかしこれは違う。ソビエトが崩壊したからと言って共産主義が駄目というのは論理として成立しない。理由は簡単である。現在においても世界中に共産主義国家というのは存続しているからだ。一番大きな共産主義国家に中華人民共和国がある。さらに朝鮮民主主義人民共和国、そしてキューバ等、未だに共産主義国家は多い。全人類の何割かは共産主義を国是とする国家に所属していると言っていい。このように書くと当然の批判として「中国は実質資本主義国家である」「北朝鮮は独裁国家である」という意見があるのは承知している。

 

ソビエトだって共産主義の理想通りではない

 確かにその通りである。では逆に問いたい。ソビエトは100%理念を実現した社会主義国家であったのかということだ。ソビエトだってマルクスの理念の通りの純粋な社会主義国家ではなかったではないか。1922年に成立、1924年にはレーニンが亡くなりスターリンが跡を継ぐ。スターリンは有名な独裁者である。独裁者がいる時点で社会主義ではない。ソビエトだって社会主義を実現した国家ではないのだ。

 こういう考え方もできる。仮にソビエトが社会主義の理想に近い国家であったとする。そしてそれが崩壊した。しかしそれは理念が間違っていたのではなく、たまたま地理的、時代的、または個別の要因によって崩壊しただけだ。将来的には社会主義国家、または共産主義社会が実現されるのだ。という論理もありうる。つまり共産主義とソビエトというのはイコールではないのだ。

 

人は他者との違いを求める

 まあ、つまらない前置きは良いとして本題に入ろう。共産主義というのは資本(工場、農地等)を労働者が共有、そしてそこから生まれた生産物(製品や食糧)はみんなで分配するという考え方。社会主義というのは一時的にそれを国家が行うというものだ。むろんこれは一時的で将来的には国家はなくなり共産主義社会となる。

 制度的に相当問題があることは100年前から指摘されている。結局、ほとんどの場合、汚職が蔓延する独裁国家になってしまうのだ。それはそれとして、私は、共産主義にはもう一つ別の問題があると考えている。それは人間にはアイデンティティ(自己同一性)があるということだ。自己同一性とはその言葉通り、私は私であるという認識である。私が私であるということは、逆に言えば私は他者とは違うということだ。

 身体は他者とは違う。経験も他者とは違う。これで人間は自己同一性が満たされるのかといえばそうではない。「私は有名大学出身である」「私は一流企業に所属している」「私は人と違う才能を持っている」など、もっと具体的なことで他者との違いを確認したい生き物なのだ。

 

違うは価値になる

 衣食住に関しても同じだ。人間は人と同じ食事をして人と同じ仕事をして人と同じ家に住む。こんなことには耐えられない。人と違うことをして見た目でも他者に差をつけたいのだ。そうするとどうなるのか。料理の得意な人が他の人と違う料理を作る。デザインの得意な人がオシャレな服を作る。そうすると他者との差をつけたい人がその製品に殺到する。

 美味しい料理が存在するということは、同時に不味い料理が存在するということだ。オシャレな服があるということは、同時にダサい服が存在するということになる。そこでオシャレな服には価値が出てしまう。オシャレな服を持っていることはダサい服を持っていることよりも資産価値が出てしまう。その時点で平等ではなくなってしまうのだ。そこに資産を持つ者と持たざる者の差が出来てしまう。

 さらにこの美味しい料理人、オシャレな服を作る人というのは何をやっているのかを考えてみる。この人達は原料を購入、そして加工して製品を作り上げている。これはそのまま工場だ。そして作っている人は一人工場の資本家に他ならない。この時点でもう共産主義ではなくなってしまう。

 もちろん個人で楽しむだけで売らなければ共産主義ではある。しかし前述のように人間というのは他の人と差をつけたいのだ。これは人間の自己同一性の問題で、人間の本質的なものなのだ。その本能は抑えることはできない。

 結局、共産主義を貫徹しようと思えばこれらの行為を強制的に禁止することになる。その時点で共産主義の限界を露呈したことになるのだ。もう人類の理想ではなくなっている。

 

 

 

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01_マルクス
(画像はカール・マルクス wikipediaより転載)

 

超要約

 

 資本(工場や農地、会社等)を労働者で共有、そこから出た生産物も労働者で平等に分けるという思想。社会主義は国家が間に入ってそれを行う。実際にやってみると社会主義国家は、生産性は下がり汚職が蔓延、独裁国家になってしまった。

 

共産主義とは

 

資本主義の真実

 マルクスが生きた19世紀のヨーロッパというのは資本主義の発達で資本家(会社のオーナー)と労働者の貧富の差が激しかった。これに疑問を持ったマルクスは思った。「そもそも何で会社は利益を出すことができるのだろうか?」と。例えば工場がある。材料を人が機械を使って加工して製品とする。儲かった金から材料費と諸経費を払う。さらに仕事をした人に給料を払う。そうしたら残金はゼロになるはずじゃないか。何で利益が出るのだ?そこでマルクスは考えた。材料費と諸経費は当然払わねばならない費用なので関係ない。では、利益はどこから出てきたのかというと、それは人件費なのではないかと。

 材料は材料の価値でしかない。そこに労働者が加工することによって材料以上の価値が生まれる。それが利益だ。労働者が加工したのだからその利益を生み出したのは労働者だ。それなのに資本家が労働者に給料を払ったはずなのに利益が残る。つまりは資本家は労働者に全部払っていないと考えたのだ。確かにマルクスは正しい。これは間違いなく資本主義の事実なのだ。

 

マルクスの考えた未来

 マルクスはさらに考えた。未来はどうなるのかと。前提として労働者の立場は弱く、資本家の立場は強い。そこで立場の強い資本家はどんどんと労働者の給料を減らして利益を増やしていく。労働者はどんどん貧しくなっていくが労働者の我慢にも限界がある。労働者たちは団結して資本家と戦う。つまりは革命だ。この革命により資本家はこの世から消え、労働者だけになり工場はみんなのもの。出来た製品もみんなで平等に分ける世界。これが共産主義なのだ。

 そしてその前段階として工場や農地という資本は国が管理して、分配も国がやろうというのが社会主義。共産主義との違いは国が一枚かむかどうかだ。そうして人類は理想の世界を手に入れるのだ。貧困はこの世からなくなりみんなが平等に豊かに生きていける。これが資本主義の次にくる社会主義社会、そしてその先に国家すらも消滅した人類の夢、共産主義社会があるのだ。とマルクスは考えた。

 しかし実際にやってみるとそううまくは行かなかった。頑張っても頑張らなくても賃金は同じ。こうなると出来るだけ手を抜いた方が得だとなってしまう。そして生産性はどんどん下がっていった。さらに国が管理するというのも問題だった。生産を管理する官僚に権力が集中し汚職が蔓延。さらにそれら官僚の頂点に立つ国の元首に全ての権力が集中した結果、独裁国家になってしまった。

 

 

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04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

教育は大切なのだの巻

 

知的水準の高い社会

 「人は何のために学ぶのか?」とは、結構お約束の哲学的な疑問である。実は私はかなり勉強好きなのでこれはもう疑問というよりも「これを疑問と思うのがギモン」レベルだ。調べものをする。勉強するは私の生活の中心なのだ。という私の自慢話はどうでも良いのだ。そんなものは誰も聞きたくはない。おっさんの自慢話、説教というのは人類最悪の行為と言って良い。

 とはいいつつ、何のために学ぶのかというのを考えることは大切だ。今、世間では学校無償化というのが問題になりつつある。高校無償化、大学無償化等々。そしてこういう問題が出ると必ず出る議論が「自分が勝手に高校や大学に進学して自分の知識や教養を高めるのにどうして国が金を出さなければならないのか」という批判である。

 これはこれでごもっとも。一つの意見としてはあるだろうが、私はこれに対しては異論がある。勉強というのは確かに自分自身のためにやっている行為である。大学の研究者というのは大概その研究が好きな趣味人と言っても過言ではない。高校、大学の勉強だって自分のためといえばその通り、もっと言えば義務教育だって自分のためと言えるのかもしれない。

 では教育はいらないのか。もし教育がなかったらどうだろう。誰も字が読めないし足し算引き算も出来ない。これでは現在の科学中心の世界では致命的なのだ。全くそういった教育を受けていない国民が多数であったとしたらその国ってどうなるの?と考えてみれば、教育というのは本人のためだけでなく社会や国家にとって必要なことなのだ。こう考えればスッキリするのではないか。

 さらに社会の構成員の知識、知性、教養がどんどん高くなっていけば、国家としてはすごいことになる。社会全体がハイレベルになるのだから科学技術や政治も国民の水準に従ってどんどん高くなっていくのだ。いいことではないか。でも、必要なのは「理系の知識だけだ。文系はいらないよねー」。こういった話もしばしば聞く。しかしそうではないのだ。社会として見た場合、全体的に水準が上がらなければダメなのだ。理系のみが優れていても文系の教養がなければ社会の成長というのは頭打ちになってしまう。たぶん。

 

世の中曼荼羅なのだ

 何故かといえば、これらの知識というのはどこかで繋がっているのだ。関係があるのだ。理系と文系なんて簡単に分けられるものではない。どこかで理系の知識も文系の知識も必要になる。それらが影響しあってさらに水準が上がっていくのだ。芸術や文学も同様である。どこでなにが関係してくるのかは分からない、しかし必ずどこかで関係してくるのが知識なのだ。

 かつて日本はゼロ戦という名機を作った。ゼロ戦以外にも一式戦闘機隼、紫電改、雷電、三式戦闘機、四式戦闘機。世界最高水準の航空機を作っていた。これらを作っていたのは東京帝国大学航空機学科の若いエリートエンジニアたちであった。東大は今も難関であるが、実は毎年3,000人が合格する。4学年併せると12,000人が在学しているのだ。東京都の人口の1,000人に1人は東大生なのだ。だが当時はそうではない。東京帝大の航空機学科の採用枠はせいぜい5〜6人程度である。東京帝大全体の在学生の数も推して知るべしだ。その選び抜かれたエリートたちが設計したのが上記の航空機だ。

 彼らは知識も能力も世界レベルでもトップクラスであったと言っていい。では、その彼らが作った航空機は本当に世界のトップクラスであったのか。ゼロ戦や四式戦闘機は本当に世界の最高水準であったのかといえば実はそうではない。確かに機体設計は秀逸であった。しかし日本は航空機用エンジンの技術が欧米ほど進んでいなかった。どうしても欧米に比べて性能の低いエンジンで設計しなければならなかった。そして故障も多い。エンジンだけではない。機体自体もデリケートで油漏れなどは日常茶飯事であった。

 それに比べて欧米の航空機は違う。雨ざらしにしておいても電源一発で起動するのだ。可動率も高い。何が違うのか。それは基礎技術の違いである。確かに機体設計は優秀な人材が揃った。しかしその設計を実現する技術が欧米に比べて未熟だったのだ。良いエンジンが作れない、設計をしても部品が作れない、ベアリングが作れない、プレス加工ができない等々。さらにはそれら部品を作る機械は外国製だったりと設計以外の基礎技術が弱いのだ。

 ゼロ戦にしても全部を日本人が設計している訳ではない。機体とエンジンは日本製ではある。しかしプロペラは米国製、機銃はスイス製、クルシー無線帰投装置は米国製である。実は主要パーツは外国製だったりもするのだ。当時の日本の技術では作れないのだ。これが航空機の稼働率の低さになってしまう。スーパーエリートの設計者がいるだけではダメだ。同時に製造技術、加工技術等、様々な技術が必要であり、それを習得できる基礎知識を持った人材が必要なのだ。

 

誰かが何とかしてくれる!

 では今現在はどうか。日本は当然ベアリングも作れるしプレス加工もできる。耐久財も日本製で基礎技術の高さは世界随一である。これらは昨日今日に得たものではない。太平洋戦争から、いや、もっと以前からのながーーーい蓄積によって得られたものだ。学校教育も充実して義務教育だけでなく高校まで行くのが当たり前となった優秀な人材。これらの蓄積が現在の技術を支えているのだ。この広い裾野のどこにどの知識が必要なんてわからない。総合的なものだ。

 故に理系だけ、文系だけ(これはないか(汗))という風に学問を限定してはダメだ。単純に考えても技術を生かすためには政治が大事である。政治自体が文系であることはもちろんであるが、政治問題は時として歴史問題でもある。社会や経済の知識も大切であるし、芸術だって工業製品のデザインという実用的な価値もある。文学も人の内面を理解するには大切だ。技術に限らず、学問というのもどれか一分野さえあればそれでいいという訳ではないのだ。

 最初に書いたように社会の水準は高ければ高いほどよい。高校無償化、大学無償化大賛成である。日本は教育水準の高い国民で構成されていた繁栄したのだ。教育には最優先で金をかけなければダメだ。その他の問題はその教育を受けた優秀な人が何とかしてくれるのだ!(最後は丸投げ(汗))

 

 

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01_ワシントン会議
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 アメリカが提唱。列強各国の中国の権益の新規獲得禁止を決定。現状維持であるが、日本の進出を警戒した米国の圧力や国際的孤立を恐れたため日本は第一次世界大戦で獲得した山東半島を返還することになった。以降、ワシントン体制という軍縮、国際協調の時代が訪れた。

 

九か国条約

 

 日露戦争が終わると日本はロシアから獲得した関東州と南満州鉄道を中心に中国への進出を強めていった。これに対して中国進出に出遅れた米国は満鉄の共同経営を提案するが日本に拒否されてしまう。米国と日本は中国を巡って利害が対立、さらに米国は、大国ロシアに勝った日本へ軍事的な警戒心も抱き始めていた。米国から見れば日本は隣国で、隣国が軍事的にも経済的にも力を付け始めたのだ。そして第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由に参戦。どさくさに紛れてドイツ権益である山東半島や南洋の島々を占領してしまった。

 そこで米国は、自国が主催したワシントン会議によって中国の門戸開放を主張。要するに「自分も一枚かませろ」という訳だ。この結果、締結されたのが九か国条約で、新たに権益を獲得することを禁止した。つまりは「昔の権益は持っていていい」ということだ。しかし日本に対しては満洲の権益には目をつぶる代わりに米国は、第一次世界大戦で獲得した山東半島は返還を求めた。日本の力が強くなりすぎるのは米国にとってよろしくないのだ。

 これに対して日本は抵抗するが、当時の日本は、1907年に締結した日露協約というロシアと結んだ同盟と日英同盟という英国と結んだ同盟の二つの同盟を持っていた。しかしロシアには革命が起こりソビエトとなってしまったため協約は解消、日英同盟の延長も米国やカナダが難色を示していることから日英同盟も危ない。ここで米国の提案を拒否すれば、日本は国際的に孤立してしまう。このため日本は渋々と山東半島は返還することにした。しかしこの条約に参加した国の多くは山東半島の日本支配を肯定していたため、米国の仲介により日本と中国の二国間交渉で返還することになった。

 これらを経て日本は「ワシントン体制」という国際協調の中に組み込まれていった。但し、この九か国条約、ソビエトが入っていなかったこと、違反に対する制裁規定はなかったこと、これがのちに問題となっていくのだ。

 

 

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01_ソビエト
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 ソビエト連邦とは単一の国家ではなく、1922年に成立した複数の共和国で構成される社会主義連邦である。共産主義の構造上の問題から経済が停滞、権力の集中により汚職が蔓延した。1980年代に改革を試みるも中央が統制力を失ったために構成国が独立、1991年に崩壊した。

 

ソビエト社会主義共和国連邦

 

成立から発展

 ソビエト連邦とは、1922〜1991年まであった世界初の社会主義国家である。一応は共和国が集まった連邦国家であったが、ソビエト共産党による中央集権的な政治が行われていた。

 1917年、ロシア帝国が崩壊した。これによりボルシェビキ(のちのソビエト共産党)が臨時政府を設立。その後、ボルシェビキと反対派の内戦が激化するもののボルシェビキが勝利。1922年、ボルシェビキによりロシア帝国の領土の大部分を領域とするソビエト連邦が成立する。しかしボルシェビキを指導していたレーニンは1924年に死亡。後継者スターリンの独裁が始まる。

 このスターリンは反対派を弾圧。大粛清をはじめとする恐怖政治が行われる。経済は、計画経済と呼ばれる中央が全て管理する方式を採用。その失策により、ホロドモールと呼ばれる数百万人規模の餓死が起こるのもこのころである。1953年にはスターリンが死亡するが、ソビエトは、資本主義国家のように競争が無く、権力が集中しやすい構造であったため経済は停滞、集中した権力による汚職が蔓延した。さらに1979年にはソビエト軍がアフガニスタンに侵攻。経済はさらに苦しくなった。

 

改革から崩壊へ

 プラハの春と呼ばれる反対勢力に対する軍事侵攻やアフガニスタン侵攻により西側は対決姿勢を鮮明にする。そして経済の停滞により技術革新も進まず、西側との経済格差は広がっていった。この中で1980年代になるとゴルバチョフ書記長が登場、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)という一連の改革を実施した。これによりソビエトはそれまでの一党独裁の体制から議会政治に移行、経済も自由化が進んだ。

 しかしこれらの政策によって、それまで集中していた権力が分散、情報公開により様々な政権内部情報が公開されたことにより中央の統制力が低下、ソビエト構成国の独立運動がさかんになる。ソビエトの同盟国であった東欧諸国でも民主化革命が起こり始める。

 1991年8月、これらソビエトが解体の方向に進んでいくことに危機感を持った保守派がモスクワで蜂起。クーデターを実施したもののこのクーデターは国民の支持も諸外国の支持も得られなかったため失敗した。しかしこのクーデターによりゴルバチョフも影響力を失ってしまった。中央の統制力が弱体化した結果、ソビエトを構成していた共和国が次々に独立を宣言、新たにCIS(独立国家共同体)を構成することを決定、そして1991年12月25日、ゴルバチョフ書記長はソビエト連邦の解体を宣言した。

 

CIS(独立国家共同体)

 ソビエトに代わり結成されたCISであったが、これはソビエトのように強力な中央集権の連邦ではなく、独立した国家の連合体であった。現在でもロシアを中心に存続しているが、ウクライナ、ジョージアは脱退している。

 

 

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01_長門
(画像はwikipediaより転載)

 

ワシントン会議

 

概要

 ワシントン会議は、1921〜1922年に行われた。提唱したのは米大統領ハーディングで日本、米国、英国、仏国、中国、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダの九か国が参加した。日本側の全権代表は日本海海戦時の連合艦隊参謀長であった加藤友三郎大将である。

 第一次世界大戦(1914〜1918年)は、主に欧州での戦争ではあったのだが、実は日本も連合国軍としてちゃっかり参戦している。この機会とばかりにドイツ領であった山東半島や内南洋の島々を占領した。戦後、パリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約によってヨーロッパの秩序は出来たものの、アジア(要は中国)・太平洋は未だ問題を多く残している(要するに日本)。このため中国や太平洋の各国の権益の調整を図るためにワシントン会議が行われたのだ。結果、中国に関しては九か国条約、太平洋に関しては四か国条約、各国の膨大な軍事費を抑えるための海軍軍縮条約も締結された。

 

九か国条約

 この会議で、中国に対しては日本側が得た山東半島を中国に返還することが決定、同時に中国に対する門戸開放、領土保全、機会均等が決められた。要するに「中国の権益は一つの国が独占しちゃだめだよ」ということだ。これは九か国条約として参加国全部が批准した。これにより日本は第一次世界大戦のどさくさに紛れて取った山東半島を返還した。九か国条約の「九か国」とは、日本、英国、米国、フランス、ベルギー、イタリア、オランダ、ポルトガルである。

 

四か国条約

 さらに太平洋についても話し合われた。これは日米関係が大きな意味を持つ。当時の日米は相当険悪になっていた。日本は中国から第一次世界大戦のどさくさで南洋のドイツ権益の島々を制圧してしまった。膨張する軍事強国日本は米国には脅威だったのだ。当時日本も米国の日系移民への迫害を行っている米国に対して良い印象を持っていない。お互い緊張関係があった。

 この状態で米国が気に入らないのが、長い間続いている同盟関係である日英同盟である。この同盟には米国と日本が戦争状態になった時の参戦条項等はないものの、日本と英国という米国を挟んだ大国同士が結んでいる軍事同盟は気持ちの良いものではない。地理的にみれば、米国は日本と英国に包囲されている状態なのだ。

 何とか二次にわたって続いた同盟をぶっ潰したい米国。米国との関係悪化を心配する英国。そして日本と三者の思惑が交差した結果、日英同盟は軍事的義務や同盟的性格を削除、問題が起これば「協議する」という激ユルな内容に変更。さらに日英に加え米国も加入、何だか分からないがフランスも加入した。結果、「太平洋における領土と権益の相互尊重、非軍事基地化」というこれもまた何だか分からない内容に変更した日英同盟に米仏も加えた四か国条約を締結した。これにより20年にわたって続いた日英同盟は破棄されたのだ。

 

ワシントン海軍軍縮条約

 第一次世界大戦は何とか終了したものの、世界の軍拡競争は激しかった。世界の強国は今の我々がみれば、頭がおかしいのではないかと思うくらい軍隊、特に海軍に予算をつぎ込んでいた。当時は「海軍の力=国力」という側面もあったのだ。当然のように国家予算は圧迫していたため話し合って軍縮をしようではないかということになった。人類史上初の軍縮だったようだ。

 とりあえず莫大な金食い虫である戦艦、空母、巡洋艦という主力艦の新規の建造を禁止、さらに現有の主力艦も保有量を制限した。当初、対英米7割を主張した日本であったが、結果、対英米6割でまとまった。5大海軍国でみると米英5、日本3、仏伊1.67という割合である。さらに主力艦は今後10年間建造を禁止することとなった。これ以降、次のロンドン海軍軍縮条約が失効するまでの間は「海軍の休日(Naval holiday」といわれる。

 

 

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01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

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01_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 南下政策を採るロシアに対して国防の危機を感じた日本は開戦を決意、主に北東中国(満洲)や日本近海で日露両軍が激突し、陸軍は辛勝、海軍は完勝する。この後、アメリカの仲介によって講和会議が開かれ、日本は遼東半島の一部、東清鉄道(南満州鉄道)の一部、韓国への監督権、南樺太を手に入れる。戦後数年で韓国を併合、満洲政策を巡ってアメリカと不仲となる。

 

日露戦争 〜概要〜

 

02_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

前史

 日清戦争によって清国の冊封体制から脱した大韓帝国(韓国)にはロシアの影響力が浸透しつつあった。満洲に権益を持つロシアはさらに南下政策を進め韓国にまでその影響力を及ぼそうとしていた。これに対して大日本帝国は隣国である韓国がロシアの影響下に置かれることに国防上の危機感を感じていた。とはいってもロシアは明らかに強そうなので出来れば戦争をしたくない日本は満洲はロシア、日本は韓国という満韓交換論等の妥協案を提示したものの当時の超大国ロシアはクソ弱小国(ロシア視点)の日本に遠慮する必要はなく交渉がまとまることはなかった。

 

日露戦争とは

陸軍の行動

 1904年2月、先遣隊として日本陸軍が朝鮮半島仁川に上陸、さらに本隊の第一軍が朝鮮半島に上陸してロシア軍の抵抗を排除しつつ北上。さらに遼東半島から上陸した第二軍もロシア軍陣地等を制圧しつつ北上した。当時、ロシア軍最強の旅順要塞があったが、これらに対して両軍ともに攻撃しないで北上を続けた。とはいってもやはり旅順要塞を放置していくと主力部隊の背後を突かれてしまうため、5月、乃木大将の下、第三軍を編成、8月に旅順攻略を開始した。

 攻略は1905年1月には終わったが分厚いコンクリートと機関銃で武装された要塞に日本軍は歩兵の突撃で対抗したため旅順攻略戦だけで6万名の死傷者を出すこととなった。そのころロシア軍主力は奉天に集結しており、日本陸軍も第一軍、第二軍、のちに編成された第四軍、さらに旅順攻略を行った第三軍が奉天に集結、2月末には奉天会戦が行われた。ロシア軍36万人、日本軍24万人が参加したこの会戦は日本軍の兵力を過大に見積もった上、包囲されると勘違いしたロシア軍が退却、一応日本軍の勝利ということになった。

 

海軍の行動

 日本海軍は戦時にほぼ全艦隊を集中運用するための連合艦隊を編成。旅順要塞にいるロシア極東艦隊と対峙した。戦力は連合艦隊と同数のロシア旅順艦隊であったが、バルト海に展開する所謂バルチック艦隊が到着すれば戦力は日本の倍となり圧倒的に有利。「だったら待った方が良くね?」と日本艦隊との戦いを避け旅順要塞から出てこなかった。

 出てこないと日本は困るので陸から旅順港を砲撃、これが結構効いちゃったため8月、旅順艦隊は渋々出撃、連合艦隊と黄海海戦が起こり連合艦隊が勝利して旅順艦隊は再び旅順要塞に逃げていった。その後、陸軍第三軍により旅順要塞は陥落。連合艦隊はバルチック艦隊に対抗するための準備を行った。

 バルト海からはるばる喜望峰を回って7ヶ月かけて日本近海に到着したバルチック艦隊であったが、疲労困憊、士気もあるんだか無いんだか。とりあえずウラジオストックに逃げ込もうとするが、対馬沖で待ち受けていた連合艦隊と遭遇、1905年5月、日本海海戦が起こった。ほぼ互角の戦力といっても方や7ヶ月間の航海で疲労困憊、方や十分な休養と訓練で準備万端。勝敗は目に見えており、バルチック艦隊はほぼ壊滅、連合艦隊の完全勝利となった。

 

講和会議

 

03_日露戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 日露戦争は日本の国力を大きく超えていた(戦費の借金を返済し終わったのは何と1986年)。同時にロシアも革命の機運が高まっており、戦争を継続することは困難であった。ここでアメリカ合衆国が仲介に入り、8月に講和会議が行われた。この結果、日本は賠償金(当時は敗戦国が戦勝国に莫大な賠償金を支払う慣習があった)こそは取れなかったものの、それまでロシアが持っていた満洲の遼東半島の租借権(中国から借りる権利)、東清鉄道の一部、終戦間際にどさくさ紛れに占領した南樺太、さらに朝鮮半島の監督権を入手した。

 

その後。。。

 

 満洲の遼東半島の一部と後の南満州鉄道、さらには韓国への監督権をロシアに認めさせた日本。本格的に満洲の開発に乗り出すことになるが、当初、アメリカやその他の国で山分けしましょうね。と言っていたもののロシアと独占してその他の国を締め出してしまった。このため戦争をしたにも関わらずロシアとの関係は急接近。対して講和会議までやってくれたアメリカとは険悪な関係になってしまった。

 

 

 


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01_米軍
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 士官と下士官の違いとは、用兵の専門教育を受けているか否かの違いである。士官は士官学校で用兵の専門教育を受けるが、下士官以下は受けない。士官はあらゆる面で優遇され下士官以下とは寝所、食事も別々にとる。「貴族と奴隷」とまで言われる制度であるが、これは士官が下士官以下に「死」を命じることができるように維持されている制度であると言われている。

 

士官と下士官の違い

 

黒木為禎大将
(画像はwikipediaより転載)

 

 士官と下士官の違いは、士官学校等で用兵等の専門教育を受けたか否かである。一般に士官は士官学校等で用兵等の専門教育を受け任官、下士官、兵を指揮するが、下士官とは兵から昇進する場合がほとんどで、専門教育は受けていないものの軍隊の実務に精通している場合が多く、士官の指揮の下で自分より下位の下士官、兵を指揮する。

 一般の軍隊では士官と下士官の間に大きな壁があり、兵から下士官までは順当に昇進することは出来ても士官に昇進するのは内部で試験を受けたり、士官学校に入校することが必要である場合が多い。当然、待遇にも大きな差がつけられており、給料はもちろん、食事も士官用と下士官以下用で食堂も食事の内容も異なっていることが多い。この待遇の違いの理由の一つは、ヨーロッパでは士官とは元は貴族であったためであり、士官はたとえ捕虜になったとしても下士官、兵とは異なり自分から希望しない限り労働をさせることも禁止されている。

 

現代版「貴族と奴隷」

 

薔薇戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

 著名な海軍の戦闘機搭乗員である坂井三郎氏はこの士官と下士官の待遇の違いについて「貴族と奴隷」とまで言っている。坂井三郎原作映画『大空のサムライ』では、藤岡弘扮する坂井三郎に「俺たちは二つの敵と戦っている。一つは連合国、もう一つは士官だ」というようなことを言わせている。同じく海軍の戦闘機搭乗員である角田和男氏は著書『修羅の翼』で、フィリピンで下士官以下の隊員が住む隊舎に入ろうとしたところ、下士官に道を塞がれ「ここは士官の来るところではありません」と、危うく追い返されそうになったというエピソードがある。角田氏は下士官からの叩き上げだったので結局通してもらえたが、やはり士官と下士官兵の壁はあったようである。

 元々貴族がなっていた士官なので「貴族と奴隷」となってしまうのも分からなくもないが、現在は無論、貴族が特権的に士官になるなどということは近代民主主義国会ではありえない。士官といえば通常、10代で士官学校に入学、専門教育を受けた後、士官として任官するというのが一般的である。しかし士官が用兵の専門教育を受けているといっても所詮は10代か20歳そこそこのガキ、専門教育といっても机上の用兵を勉強しているに過ぎない。

 これに対して下士官は違う。下士官の多くは一番下っ端の兵から始まる。二等兵、三等兵から始まり現場の実務に精通、多くの知識と経験を現場で培って昇進したのが下士官である。なので、軍隊等では古参の下士官が新米士官を「育てる」ということが往々にして行われている。そもそも実務経験が違うのだ。この不自然さは、我々の日常生活に置き換えてみれば分かりやすい。一般的なサラリーマンは新卒、既卒問わず一番下の立場からスタートする。一部には縁故採用や幹部候補等がある会社もあるが、おおよそはそう考えてよいだろう。

 そして上司や先輩に仕事を教わり一人前になっていく。後輩が出来て、その内部下ができる。さらに能力のあるものがどんどん昇進していくというのが普通である。これは日本の会社だけでなく欧米を含む多くの会社はこのような人事で動いている。何も問題がないどころか大きな成果を上げ、一部は国家を超える規模の会社まで存在しているのである。かつては貴族と庶民という差別的な区分があり、欧米では軍隊に参加することが「特権」であった時代もあった。その残滓だとしても現在は差別も特権も許されない時代である。しかし、では、なぜこのような「貴族と奴隷」とも譬えられるような「階級差別」と呼べるような制度が現在でも世界中で採用されているのであろうか。

 

士官は「死ね」と命令できる

 

 多くの軍隊において士官と下士官の区分が存在し続けるのは理由がある。世間では非合理的であったとしても軍隊では合理的なのだ。普通の会社では上司が部下に「死ね」と命令することは出来ない。仮に命令したとしたら大変な問題となる。しかし軍隊は違う。場合によっては上官が部下に「死」を命じることがある。軍隊が置かれる環境は極限である場合が多い、作戦によっては味方に必ず犠牲が出るような作戦も全体の勝利のために実行しなくてはいけないこともある。

 その際に上官は間接的にしろ直接的にしろ部下に「死」を命じることとなる。かつての同僚、一緒に厳しい訓練を受けある意味肉親以上の友情で結ばれた同期に「死ね」と命じることができるだろうか。そして命じられた一方は素直に「かつては同期であったが、今は上官なので命令には従います」と合理的に考え自分に対する同期からの死の命令を諾々と受けることが出来るだろうか。

 それがかつての先輩、上司であればなおさらである。かつての後輩、部下が自分に「死ぬ」ことを命令してきた場合、素直に従うというのは相当難易度が高い判断である。仮にこのような判断を下せたとしても双方に大きな精神的ストレスがかかるのは間違いない。この結果、作戦が実行できなくなったり、実行できたとしても戦力へのダメージは避けられない。

 しかし軍隊にあるのはリアリズムである。作戦が失敗した場合、多数の死者を始め多くの損害が出る。失敗もまた「死」なのだ。このためにはどうしても冷徹に判断を下す「専門家」が必要になってくるのだ。それが士官なのである。

 このため士官は下士官、兵と精神的な距離を取る必要がある。精神的な距離は物理的な距離とニアリーイコールである。違う待遇で扱われ、違うところで寝起きをする必要がある。特に食事は人間に一体感を感じさせるため違う食堂でとる必要がある。士官、下士官双方が「別の存在」と感じることが必要なのである。この精神的な距離があってこそ軍隊の最も厳しい命令「死」を命令することができるのである。

 

士官と下士官の関係書籍

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

デーヴ グロスマン 著
筑摩書房 (2004/5/1)

 人間は人を殺すことに強烈な抵抗感がある。しかし物理的距離と精神的距離をとることでそれが可能となる。著者は米陸軍レンジャー資格保有者にして心理学、歴史学の学位を持つという戦争研究者としては高度な専門性を持つ。綿密な調査とヒアリングで「本当の戦争」を再現する。

 

まとめ

 

 人間は人を殺すことを本能的に拒否する。それは生物の絶滅につながるということを本能的に感じているからだとも言われている。それでも現代の戦争には多くの兵士を動員する必要がある。近年では機械化により以前ほどの人数は必要なくなったがその数は膨大である。この本能的に殺人を拒否する人間に強制的に「死」を与える立場、それが士官だといえる。

 

 


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01_大阪市
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 「大阪都構想」とは政令指定都市大阪市を廃止する制度のことで名称が「大阪都」と変わることはない。さらに「都構想」によって予算が増えたり支出が削減されることはほとんどない。「大阪都構想」の本質は、大阪市を廃止することで府知事への権限を集中させることである。これにより大プロジェクト等が実行しやすくなるが、この改革のために240億円という費用が必要となるのが問題である。そして一度大阪市を廃止してしまえば法律上、基に戻すことはほぼできない。

 

東京市廃止の理由

 

02_東京市役所
(画像はwikipediaより転載)

 

 東京市とは1889年に東京府の15個の区を統合して誕生した自治体である。当初市長は東京府長官と兼任であったが、1898年に官選による市長が選任されるようになり、1926年からは東京市議の互選により市長が任命された。それまで自治権を持っていた東京市であったが、1943年7月には戦時体制下において強力な集権体制を作ることを目的として東京市が廃止、東京都が設置された。東京市廃止の3ヶ月後の1943年9月30日には絶対国防圏が設定されていることからも東京市の廃止が空襲へ対処するための強権体制であったことは想像できる。

 

「大阪都構想」

 

03_大阪市役所
(画像はwikipediaより転載)

 

政令指定都市とは

 政令指定都市とは人口50万人以上の都市で全国に20都市存在する。1956年に制定された制度で「田舎」とは人口密度も経済的な条件も異なる大都市に特別な権限を与え、独自の行政サービスを行うことを理念としている。つまり人が閑散としている田舎と大都市は条件が全然違うのでそれぞれの特性に合わせて独自の行政を行おうとする制度である。この制度を経済的に担保するために、独自の財源や国からの地方交付税も交付される。

 

「大阪都構想」

 「大阪都構想」とカッコ付きで表現した理由は、「大阪都構想」とは単なるキャッチコピーであり、住民投票によって「都構想」が可決したとしても表記上「大阪都」とはならず、表記上は今まで通り「大阪府」である。それでは「都構想」とは具体的にどういう改革なのかというと、これは単に政令指定都市大阪市を廃止することである。ここで大阪市廃止の問題点について簡単に説明してみたい。

 

二重行政の解消

 大阪市廃止の議論で真っ先にメリットとして挙げられるのが二重行政の解消という問題である。これは同一の行政サービスを府と市が重複して行うことを防ぐことができるというものである。これにより無駄な支出が削減され財政負担が軽くなるとしている。しかし廃止後も同一水準のサービスが行われることはすなわち同レベルの支出を必要とするものであり、人員整理やサービスの廃止をしない限り支出が削減されることはない。そもそも二重行政を解消したいのであれば、重複しているサービスの一方を廃止すれば良いだけの話である。廃止した自治体は財政負担が軽減されるので好都合である。

 

住民サービスが向上する

 財源が増える訳ではないので向上はしない。現状が維持されるか低下するかのどちらかである。

 

大阪の経済力が増す

 何も変わらない。東京都と同じ制度に変更したからといって税収が増える訳ではない。東京都の予算が潤沢なのは、人口の多さと大企業の本社が集中しているためであって行政制度の結果ではない。

 

政策を強力に推し進めることができる

 これは可能である。大阪市を廃止することで大阪市の財源の大半を大阪府が管理することになるため大阪府知事の権限が増す上、大阪市長が存在しなくなるため大阪府知事が提案した政策はスムーズに運びやすくなる。行政区分の「垣根」が無くなるため幹線道路等の行政区分の問題が起こりやすいプロジェクトは円滑に進むようになる。但し、現状でもプロジェクトを実行することは可能である。

 

大阪市以外の大阪府民にとってはメリットになる可能性もあり

 それまで大阪市民のために使われていた膨大な予算の多くが大阪府の管理なるため大阪府知事の政策によっては大阪府民への行政サービスは向上する可能性があるが、当然、予算は限られているのでこうなった場合、大阪市民への行政サービスは低下することになるが、大阪府民として同等のサービスを受けることができる。

 

片道切符である

 現行法上、政令指定都市を分割して特別区を設置することは可能であるが、特別区を政令指定都市にする法律はない。このため一度、政令指定都市から外れると大阪市を復活させることはほぼ不可能である。仮に特別区を政令指定都市にする新法を作ったとすれば、その新法は東京の特別区も対象になるため東京市が生まれる可能性がある。これは「東京市」以外の地域に在住する東京都民の多くが猛反対する可能性が高い。東京都の人口は日本の人口の1/10を占めるため立法化は難しい。

 

まとめ

 

 巷でいわれているような「二重行政の解消」による支出の削減という効果はほぼないといっていい。仮に二重行政が行われているのであれば現状でも解消が可能であり、わざわざ政令指定都市を廃止する必要はない。「都構想」の一番のポイントは、東京都が設置された理由からも分かるようにそれまで府と市に分散されていた権限を府知事に集中させることである。これにより大プロジェクトが実行しやすくなるが、同時に制度を変更する経費として240億円が必要とされる。

 「大阪都構想」とは最も端的にいえば、「240億円の費用をかけて大阪府知事の権限を強化する制度」と結論付けられる。

 

 


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01_満州事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 満州事変とは、1931年9月の柳条湖事件から始まる関東軍による一連の軍事行動である。関東軍は謀略により満洲の軍閥張学良軍に対して戦闘行動を開始、各地を制圧する。その後朝鮮軍が投入され満洲全土をほぼ制圧した。軍部の暴走であったが、政府も満洲国を承認したものの国際連盟はこれを認めなかったため日本は国際連盟を脱退する。

 

満州事変 〜概要〜

 

02_あじあ号
(画像はwikipediaより転載)

 

 1906年、日露戦争終結により、日本はロシアから遼東半島先端部分の関東州の租借権と旅順から長春までの南満州鉄道と付属地の権益を継承した。日本軍はここにこれらの権益を守るために関東軍を配置した。当時、日本は満洲全土を支配していた訳でなく、それ以外の満洲の多くの部分は、中国の軍閥である張学良が支配していた。

 アヘン戦争後、列強国に食い物にされていた中国であるが、徐々に国権回復の機運が高まりつつあり、満洲を支配する張学良はその一環として南満州鉄道に並行する鉄道を開設、運賃を低価格に設定して南満州鉄道の経営を圧迫、さらに付属地からの商品に高い関税をかけることで日本に対抗していた。同時に日本人への殺害事件等が相次ぎ、中国国内で反日世論が高まるのと同時に、日本国内でも反中国世論が高まっていた。

 

柳条湖事件から満洲占領へ

03_満州事変
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、満洲の権益を保護するために設置された関東軍の参謀達の間では、満州を占領することによりソ連の南下に対して朝鮮を守るという目的から満洲の占領が計画されていた。1931年9月、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破される。これは関東軍の自作自演であったが、関東軍はこれを張学良の軍によるものと断定、即座に作戦行動を開始、奉天、長春、営口の各都市を占領する。

 これらの作戦は計画通りに無事完了したものの、関東軍はわずか1万、対する張学良の軍は45万という圧倒的な兵力差があった。このため関東軍は当時朝鮮に駐屯していた精鋭部隊朝鮮軍の派遣を要請する。当時の若槻礼次郎内閣はこれを拒否するも、世論と陸軍の圧力により認めることとなる。これにより1932年初頭には、日本軍は万里の長城の線を境界線とした満洲全土を制圧、3月には清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を皇帝とした満洲国を成立させた。

 辞任した若槻礼次郎内閣に代わり組閣した犬養毅内閣はこの満洲国承認を渋っていたが、1932年、犬養首相が五・一五事件により殺害、9月には次に組閣した斎藤実内閣が満洲国との間で日満議定書を締結、満洲国を承認した。これら一連の軍事行動は、中華民国政府の提訴により国際連盟の調査対象となり、リットン卿を団長とする調査団が派遣された。調査団の結果は、日本の経済的利益は擁護しているものの満洲国は認めないというものであった。

 

熱河作戦と国際連盟脱退

 

04_リットン調査団
(画像はwikipediaより転載)

 

 ここで少しややこしい話をしたい。満州事変に対して中華民国政府は国際連盟に第11条を根拠に提訴した。この11条とは、「戦争になりそうな事案が発生した時には理事会を開く」という程度の内容であったが、1932年1月に第一次上海事変が発生、海軍陸戦隊と中華民国軍の戦闘状態が発生すると中華民国政府は提訴を11条から15条に切り替える。15条とは「国交断絶する可能性がある戦争」という11条よりも一段と深刻な状況に対応する条文で、国際連盟に提訴された段階で双方戦闘を終始しなければならない。もしも違反した場合は、国際連盟加盟国全部に対して戦争を起こしたとみなされ、16条を根拠に経済制裁、除名の対象になった。この状態で起こったのが熱河作戦である。

 熱河作戦とは、1933年1月に起こった日本軍による熱河省での抗日兵力への掃討作戦である。熱河省とは、日本が主張する万里の長城以東の満洲国内にあった省で、ここで抗日軍が育成されていたため日本軍は掃討作戦を計画する。満洲国内の掃討として天皇の正式な裁可を得た作戦ではあったが、満洲国を承認しているのは日本のみであり、国際的には明確に中国領であった。国際連盟に預けられている最中の案件であるにも関わらず、中国国内で日本軍が戦闘行動を起こしたとすれば前述の16条が発動され、経済制裁、除名の対象となってしまう。

 これに気付いた斎藤実首相は天皇に中止を進言。天皇も同意するが、「一度裁可したものを中止すれば天皇の権威が失墜、軍部の暴走が止められなくなる」と考えた重臣や側近達によって天皇は説得され中止されることはなかった。結局、経済制裁、除名という不名誉を被らないために斎藤内閣は国際連盟の脱退を決意、連盟脱退に強く反対していた日本全権松岡洋右は皮肉にも国際連盟で脱退を宣言して退出することになった。

 

まとめ

 

 満州事変により日本は国際連盟を脱退、1936年にはワシントン・ロンドン軍縮条約も失効、日本は世界から孤立していく。軍拡時代にはいった海軍は条約に縛られない軍艦の建造を開始、陸軍は満洲の防衛用として華北分離工作を開始した。中国では抗日運動が激化、日中戦争へと進んでいく。

 

 

 

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01_エンタープライズ
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた海戦で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を奪回する陸軍を援護するために行われた海戦であった。日本側は空母4隻、米側は空母2隻を投入、正面から戦闘を行った結果、米側は空母1隻、駆逐艦1隻が撃沈、日本側は大破した艦が2隻あったものの撃沈された艦はなかったが、ヘンダーソン飛行場の奪取には失敗した。このため戦術的には日本側勝利、戦略的には米側勝利と言われている。

 

南太平洋海戦 〜概要〜

 

02_ホーネット
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年8月7日、米軍のガダルカナル島以降、米軍の対日反抗の拠点となったヘンダーソン飛行場の再奪取を目論む日本陸軍第17軍は10月下旬に総攻撃を計画、支援を海軍に要請した。これに対して海軍は空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳から成る第一航空戦隊(一航戦。司令官南雲忠一中将)、空母隼鷹の第二航空戦隊(二航戦。司令官角田覚治少将)、前衛部隊として戦艦金剛、榛名をを中心とする戦艦、重巡部隊をソロモン海域に出撃させた。

 対する米軍も同海域に空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊、空母ホーネットを基幹とする第17任務部隊、戦艦ワシントンを中心とする第64任務部隊が派遣された。10月25日、二航戦とラバウルの基地航空隊がヘンダーソン飛行場への攻撃を行う。同日、日米機動部隊は同海域に相手側も機動部隊を派遣していることを確認した。

 1942年10月26日、双方がほぼ同時に相手側機動部隊の位置を確認、日本側は第1次攻撃隊62機を発進、第2次攻撃隊も発進させたがレーダーが敵機の接近を確認したため各母艦毎に別個に発進することになった。同時刻に米側も攻撃隊73機を発進、日米の攻撃隊は進撃途中にすれ違うこととなった。双方、自軍の攻撃隊を援護する必要性から攻撃を見送るが、この時、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊が反転、米側攻撃隊の一隊であるエンタープライズ隊19機に対して攻撃を行った。これが後に大きな問題となる。

 日本側第1次攻撃隊は空母ホーネットを攻撃、大破させるが、米側もまた日本軍機動部隊の空母2隻を発見(瑞鳳は米軍偵察機の奇襲により被弾し戦線より後退している)、空母翔鶴に命中弾2発を与えている。続いて日本側第2次攻撃隊が米機動部隊を発見、エンタープライズを攻撃している。さらに敵機動部隊発見の報により二航戦がヘンダーソン飛行場攻撃を中止、エンタープライズ攻撃に第1次攻撃隊を派遣、攻撃を行った。これらの攻撃によりエンタープライズは中破、戦列を離れることとなった。

 これにより日本側の攻撃目標は空母ホーネットに集中、二航戦は第2次攻撃隊を編成して炎上中のホーネットに攻撃をかけた。また一航戦も第3次攻撃隊を編成、同空母を攻撃している。さらに二航戦が第3次攻撃隊を発進、ホーネットに攻撃をかけた。さらに近藤信竹中将が指揮する前衛部隊が水上戦闘を挑むために追撃戦を開始した。これらの攻撃に対して米側は空母ホーネットを放棄、総員退艦の後、駆逐艦の砲雷撃を行った。

 日本軍の前衛部隊が空母ホーネットに到着した時、ホーネットは未だ浮いていたため連合艦隊司令部は一時、ホーネットの鹵獲を試みるが、結局、雷撃により撃沈された。

 

瑞鳳戦闘機隊の反転

 

03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 第1次攻撃隊が進撃途中に米攻撃隊とすれ違った際、日高盛康大尉率いる瑞鳳戦闘機隊9機が攻撃隊の護衛を中止して米攻撃隊への攻撃を行った。この攻撃を受けたエンタープライズ隊は19機中5機が撃墜され、1機が不時着、2機が被弾のため母艦へ帰投した。これに対して瑞鳳戦闘機隊も2機が撃墜され、2機が帰途行方不明となり合計4機が失われた。

 エンタープライズ隊は残った11機で進撃を続けたが、空戦で燃料を消費していたのと高度が下がっていたため日本側機動部隊への攻撃は出来ず、前衛部隊への攻撃を行っている。この攻撃により重巡筑摩が大破している。

 この攻撃により日本側は損害を未然に防ぐことが出来た反面、攻撃隊を援護する戦闘機が9機減少したことにより苦戦を強いられた。この日高大尉の行動に対しては部内でも批判的な意見が出た反面、肯定する意見も多かった。これに対して日高大尉は命令違反として処分されることはなかったが、戦後も一切弁明することはなかった。

 

まとめ

 

 南太平洋海戦における双方の損害は、日本側が空母1隻、重巡1隻大破、航空機92機を失った。対して米側は空母1隻、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻が大破した。航空機の損失は81機であったが、日本軍の作戦目標であったヘンダーソン飛行場の奪取には失敗する。このことから戦術的には日本側勝利したものの、ヘンダーソン飛行場を確保した米国が戦略的には勝利したと評価されている。

 確かに艦艇、航空機の損害で判断すれば日本側に軍配が上がるが、この海戦による搭乗員の戦死者は日本側148名に対して米側26名と極端に異なる。日本側は開戦以来、珊瑚海、ミッドウェー、第2次ソロモン海戦、そしてこの海戦により開戦以来の練度の高い母艦搭乗員をほぼ失ったといってよい。以後、終戦まで同レベルの練度を持った母艦搭乗員で機動部隊を編成することは出来なくなった。この点も含めて日本側の戦略的敗北といっていいだろう。

 

 

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01_第38任務部隊
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 レイテ沖海戦とは、フィリピン周辺で行われた海戦でレイテ島に上陸した米軍を砲撃すべく日本軍はわずかな空母機動部隊と戦艦部隊を投入、米海軍の主力部隊とガチで激突したものの、空母部隊は速攻で壊滅、戦艦部隊は航空機の援護がほぼ無い状態で米軍制空海権下に突入、日本海軍の主力部隊は壊滅的大打撃を受け、米海軍もちょっとだけ打撃を受けた。最終的には日本海軍の主力部隊がレイテ湾突入を断念したため作戦は失敗、連合艦隊は事実上消滅した。

 

レイテ沖海戦 〜概要〜

 

02_レイテ沖海戦図
(画像はgooglemapに加筆修正)

 

 台湾沖航空戦後、日本軍は捷号作戦を立案した。これは米軍の上陸に対する日本軍の対抗作戦で米軍が上陸した場合、日本海軍の機動部隊が米機動部隊を北方に誘致、戦艦部隊が上陸地点に突入して艦砲射撃を実施、これに呼応した陸軍が米上陸部隊を殲滅するというものであった。上陸地点はフィリピン、台湾、本州、北海道の4地点を想定、それぞれに一号、二号、三号、四号と命名した。

 1944年10月18日、米軍がフィリピンレイテ島に上陸することがほぼ確定したことにより日本側は捷一号作戦を発動した。日本側の参加兵力は、スマトラ島リンガ泊地に停泊していた連合艦隊の戦艦7隻と重巡を中心にした第一遊撃部隊、マリアナ沖海戦で生き残った空母4隻に航空戦艦2隻で編成した機動部隊。重巡と水雷戦隊を中心に編成された志摩中将指揮の第二遊撃隊、陸上航空部隊である第一航空艦隊等である。

 しかし機動部隊は先の台湾沖航空戦に航空兵力を提供したため搭載機は何とかかき集めた航空機116のみであり、陸上基地航空隊も9月の米機動部隊の攻撃によりほとんどを失っていた。このため第一、第二遊撃部隊は敵制空権下を進撃することとなった。

 これに対して米軍は、正規空母9隻とほぼ同数の軽空母を中心とする第38任務部隊が太平洋上に展開、レイテ湾内にはオルデンドルフ少将指揮の6隻の戦艦を中心とする支援射撃部隊、護衛空母6隻で編成されている護衛空母部隊3群がレイテ島周辺に展開していた。航空機は約1,000機である。

 10月19日、捷一号作戦発動を受けた小沢中将率いる機動部隊は内地を出撃、21日には志摩少将率いる第二遊撃部隊が台湾を出撃、新たに編成された第三部隊と共にレイテ湾突入を目指す。主力の第一遊撃部隊は燃料補給に問題があり、急遽、西村中将率いる戦艦扶桑、山城を中心とする第三部隊を編制、第一遊撃部隊とは別行動で行動、合流した上でレイテ湾に突入することになった。

 10月22日、第一遊撃部隊もブルネイ泊地を出撃、第一遊撃部隊は北からルソン島南を通り時計回りにレイテ島に向かい、第三部隊は南からミンダナオ島北を直進、最短距離でレイテ島を目指した。北回りに進んだ第一遊撃部隊は、23日パラワン水道で米潜水艦の雷撃を受ける。これにより重巡愛宕、摩耶、高雄が被雷、旗艦であった重巡愛宕、摩耶が撃沈、高雄は大破したため戦列を離れた。同日、二航艦の攻撃により米空母プリンストンが撃沈されている。

 

運命の10月25日

03_戦艦群
(画像はwikipediaより転載)

 

 旗艦を戦艦大和に変更した第一遊撃部隊旗艦は24日、シブヤン海において第38任務部隊の航空攻撃を受け戦艦武蔵を失ってはいるが(シブヤン海海戦)、25日には難所と予想されたサンベルナルジノ海峡突破に成功した。同日、第一遊撃部隊と合流後レイテ湾に突入予定であった西村中将指揮の第三部隊がレイテ湾に到着、第一遊撃部隊と合流が不可能なため単独突入を決行、オルデンドルフ少将の戦艦部隊と戦闘になり駆逐艦1隻以外全滅した(スリガオ海峡海戦)。この突入の2時間後にやっと到着した志摩中将麾下の第二遊撃部隊は敵情不明のため突入を断念し帰投した。この日、北方では小沢機動部隊がルソン島北東海域で第38任務部隊と激突、空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳を全て撃沈され完敗している(エンガノ沖海戦)。

 25日未明、サンベルナルジノ海峡を突破した第一遊撃部隊は、同日早朝、突如米軍護衛空母部隊と遭遇して砲撃戦となり砲撃により護衛空母1隻を撃沈する(サマール沖海戦)。海戦後、再びレイテ湾に向け進撃する第一遊撃部隊はレイテ湾突入を目前にして敵機動部隊発見の報により反転北上した。これが一般に言われる「謎の反転」である。この日、関行男大尉以下5名の神風特別攻撃隊が体当たり攻撃を敢行、護衛空母1隻撃沈、3隻撃破の戦果を挙げている。その後、第一遊撃部隊はサンベルナルジノ海峡に退避、数度の航空攻撃を受けるものの主力はブルネイ泊地に帰投した。

 

謎の反転問題とレイテ湾突入

 

04_戦艦大和
(画像はwikipediaより転載)

 

 10月25日、レイテ湾突入を目前にした第一遊撃部隊に敵機動部隊発見の報が届く。この報により第一遊撃部隊はレイテ湾突入を中止、機動部隊攻撃に向かう。しかしこの報は他の部隊の記録には残っておらず「謎の電報」ともいわれているが、戦闘中であり三日三晩戦い続けた各部隊で連絡の齟齬が発生するのは不思議なことではない。

 栗田健男中将は直前に偶然の空母部隊との遭遇戦を経験しており、これを第38任務部隊本隊と誤解していた。戦闘終了後も付近に機動部隊が存在すると考えるのも当然であり、戦艦の主砲による米空母部隊撃滅の可能性に賭けたのであろう。

 それはともかく、仮にレイテ湾に第一遊撃部隊が突入していたらどうなったのであろうか。当時、レイテ湾には上陸部隊と共にオルデンドルフ少将率いる戦艦6隻を中心とする支援部隊が存在した。さらに付近には護衛空母群が3群存在しており、太平洋上には第38任務部隊もある。ここに満身創痍の戦艦4隻を主力とする第一遊撃部隊が突入したとしてもオルデンドルフ艦隊に撃退されるか、付近に遊弋している空母部隊によりフルボッコにされるのがオチであっただろう。

 地上目標の艦砲射撃にしても1942年10月に栗田中将によって実施されたヘンダーソン飛行場艦砲射撃では、ほぼ反撃がない状態での理想的攻撃であるにも関わらず在地96機の航空機の内、54機を破壊するに留まっている。このヘンダーソン飛行場からは翌日、航空機が日本軍攻撃に出撃しており、日本陸軍の攻撃も撃退している。

 これに対してレイテ湾に突入に関してははるかに条件が悪い。乗組員は、数日間不眠不休で戦闘を行った疲労のピークにあり、艦艇は数度の戦闘で満身創痍。その上、重厚な護衛部隊が守るレイテ湾に突入したところで戦果を挙げるのは難しかったであろう。

 

まとめ

 

 レイテ沖海戦は、航空機の「傘」がない中での水上部隊のみの突入、さらに作戦は広大な海域を4つの艦隊と基地航空隊が有機的に連携して行動するという極めて難易度の高い作戦であった。案の定、それぞれの艦隊は連携が取れず作戦は失敗してしまった。しかし仮に成功していたとしてもすでに戦略的劣勢を覆すことは出来なかったであろう。

 

 

 

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01_支那大地図
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 「支那」とは、中国大陸初の統一帝国秦に由来する名称で秦の音「Thin Chin」の当て字である。仏典を中国語に翻訳した際に生まれた言葉で、日本にも伝来した。当初は侮蔑的な意味はなかったが、近代になると徐々に軽蔑的なニュアンスを含むようになったため、中国での反発が強くなり現在ではあまり使用されていない。本ブログでは中国のことは普通に「中国」と書く。

 

「中国」と「支那」 〜概要〜

 

02_支那大地図
(画像はwikipediaより転載)

 

「支那」とは。。。

 「支那」の名称の由来は、中国初の統一王朝秦の音「Thin Chin」であると言われている。始皇帝の統一王朝以降、中国大陸では多くの王朝が生まれては消えてきたが、これらの王朝を超越した地域を指す名称として存続していると考えられている。このため英語では「China」、日本では平安時代以来、永く「シナ」と呼ばれてきた。漢字で「支那」と表記するのは仏典内で中国を指す「チーナ」を漢訳した際に「支那」という字を充てたためで、当初は名称の由来にも漢字にも侮蔑の意味はなかった。むしろ学術的には明治以降は「漢文学」等の王朝名を指す語に対して正確を期して「支那文学」と変えたほどである。

 しかし近代に入ると日本では徐々に「支那」という語にたいして軽蔑的なニュアンスが含まれるようになっていき、これに対するように中国側も反発を強めていった。1911年、辛亥革命が起こり中華民国の成立が宣言されると、中華民国政府は「支那」ではなく、正式な国名である「中華民国」と呼称するように大日本帝国に求めた。日本政府も戦後は中華民国からの要請を受け、正式に「支那」から「中華民国」と呼称を変更、メディアも自主的に「中国」と呼称するようになり、現在ではあまり使用されていない。

 

「中国」という呼称

 

03_台湾
(画像はwikipediaより転載)

 

 「支那」とは別に「中国」という言葉に自国中心的な価値観があるという問題が指摘されるが、中国という「国号」を受け入れるのと「世界の中心の国」という価値観を受け入れるのは別の話である。国号というのは外国から一方的に命名されたり、その国の理念や理想を想って付けらたりと様々である。日本という国名が中国から見て「日が昇る方向」という中国視点で見た日本であったとしてもその価値観までも継承している訳ではないのと同様、その国名を受け入れることがその背後の思想まで受け入れることとはならない。

 これとは別に、中国という国は19世紀以前には存在しなかったため、それ以前の歴史で「中国」という表記をするのはおかしいとする考えもある。この考えは間違ってはいないが、それは近代国家成立以前から存在したどこの国に関しても同じことがいえる。歴史の流れの中の「国」の範囲は時間的にも空間的にも明確に設定できるものではなく、さらには固有名詞も永遠に続くものではないためこの問題に対して明確な回答を出すことは誰にもできない。紀元前の中国大陸の人を「中国人」と呼べないのであれば、一般に8世紀初頭と言われる日本国号成立以前の日本人も「日本人」ということはできない。結局、便宜上「中国史」「日本史」と呼称する他ないのである。

 

 

まとめ

 

 「支那」と「China」の語源は一緒である。故に中国のことを「シナ」「チャイナ」と呼ぶのは批判されることではない。ただ、中国人が自身のことを支那ではなく中国と呼んで欲しいと主張するのであれば中国と呼べばよい。これはただの呼称であり、わざわざ外国語に変換したり相手の嫌がる呼称で呼ぶ必要もないと考える故、私は普通に中国と呼ぶ。

 

 

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01_文革
(画像はwikipediaより転載)

 

 1981年6月29日、 中国共産党第11期6中総会で文化大革命を全面否定する「歴史決議」を採択された。これは意外と重要な事件で、実は、中国共産党は文化大革命を否定してるのである。この中国共産党も否定した文化大革命とはどういう事件であったのだろうか。文化大革命について分かりやすく解説してみたいが、文化大革命に行く前にまず1958〜1961年に中国で起こった大躍進政策から説明していこう。

 

大躍進政策

 

02_大躍進政策
(画像はwikipediaより転載)

 

 1957年、当時ソビエト連邦書記長だったフルシチョフは「15年以内に工業生産、農業生産でアメリカを追い越す」という宣言をした。これに対して当時ソ連と関係が悪化していた中国は同様に壮大な計画を立てる。それが大躍進政策である。

 そもそもマルクス主義では共産社会は資本主義社会の次にくる世界であるため、資本主義に対して共産主義が負けるということはあってはならない。つまりは、ソ連、中国ともに資本主義に対して生産力が向上していないと、理屈が合わなくなってしまう。そのため、ソ連も中国も大規模な増産計画を計画、実行した。

 その結果、実際に行われた大躍進政策はかなり「まずい」結果となった。鉄鋼の生産量を上げるために農工具を溶かしてしまったり、農作物の生産を上げるために雀を大量にとってしまったりした結果、生産効率は激下がりし、食物連鎖が崩れた結果、大凶作が起こった。

 しかし各地の現場指導者たちはノルマを課せられているために生産量を過剰に報告する。その結果、生産量の辻褄を合わせるために農村から食料を洗いざらい挑発、その結果、大量の餓死者が発生した。その数は1000〜4000万人という膨大な数だと言われており、当時中国の指導者であった毛沢東も大躍進政策の失敗を認めざるを得なくなった。

 

文化大革命

 

03_文革
(画像はwikipediaより転載)

 

 失脚した毛沢東に代わって劉少奇や小平が権力を握る。劉らは部分的に市場経済を導入することにより大躍進政策の混乱から回復させつつあったが、これに対して毛沢東は権力の奪還を企図、そこで劉少奇や小平を「修正主義者」(共産主義から資本主義へと修正する人)と弾劾し、名目上、封建的文化、資本主義的文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようというもので、紅衛兵と呼ばれた10代のガキや大衆を扇動することにより劉やの失脚を狙った。

 劉やのシンパのみならず地主や知識人等も反革命分子、反動分子とされ攻撃の対象となった。社会主義では宗教も否定されているため、宗教者や宗教施設も攻撃の対象とされた。このためこの紅衛兵はどんどん先鋭化していき、拷問、殺戮、吊し上げ等が横行した。遂には毛沢東にも制御できなくなり、最終的に毛沢東は人民解放軍を投入することになる。そして1976年毛沢東が死亡し、中心となっていた四人組が失脚することにより文化大革命は終了する。1977年に勝利のうちに終結と宣言が出されたが、文化大革命による死者は数百万〜2000万人にも及ぶと言われている。

 

まとめ

 

 文化大革命では、知識人は人民を毒する存在として徹底的に弾圧されたため、中国の発展は科学技術、経済共に大きく阻害された。大躍進政策、文化大革命を主導した毛沢東は「史上最も人を殺戮した人物」と言われている。

 

 

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01_第二次上海事変
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 日中戦争とは、1937年7月7日、日中両軍が盧溝橋事件により衝突、第二次上海事変により本格的な全面戦争へと発展した。12月には日本軍が中華民国政府の首都南京を攻略するも中華民国政府は首都を重慶に移し抗戦を継続した。日本軍は占領地を拡大させたものの米英ソが中華民国を支援したため戦争は泥沼化していく。

 

日中戦争 〜概要〜

 

02_山川日本史詳説
(山川出版社日本史詳説より転載)

 

 満州事変の結果、満洲国を建国、傀儡国家とした日本であったが、満洲国と国境を接するソビエトは徐々に国力を増大させつつあった。これに脅威を感じた日本軍は満洲の防衛のために華北5省を日本軍の勢力圏下に置こうと画策。これに対して中華民国は反感を募らせており、当時、中華民国は対立していた共産党軍との話し合いの結果、まずは共同して日本軍を中国から追い出すことで合意(第二次国共合作)、日本軍と戦う準備を整えていた。

 1937年7月7日、北清事変以降、北京に駐留するようになった日本軍は盧溝橋で演習を行っていたが、ひょんなことから中国軍と戦闘状態に入る。当初日本は、紛争が拡大しないようにしていたが、徐々に拡大していき、日本軍と中国軍は北支事変と呼ばれる戦闘状態となった。

 宣戦布告の無いまま戦争状態に入った両国の戦闘は拡大、第二次上海事変の勃発により全面戦争へと発展した。8月中旬より日本海軍も爆撃機による渡洋爆撃を開始、9月には新たに編成された北支方面軍が河北省、山西省の省都を攻略、これに対してソ連は中国に対する軍事援助を開始する。11月には中支方面軍が編成され江蘇省を攻略、これに対し中華民国政府は首都を南京から重慶に移動、日本軍は12月には中華民国の旧首都南京を攻略した。

 

1938年から太平洋戦争開戦まで

03_九六陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年1月には海軍陸戦隊が青島占領、その後、日本政府は「国民政府を対手とせず」との声明を出した。2月には新たに中支派遣軍が編成され、4月には北支方面軍と中支派遣軍によって徐州を攻略、10月には第21軍によって広東が占領、中支派遣軍によって武漢三鎮が占領された。11月、日本政府が東亜新秩序声明を出した。12月には日本海軍による重慶爆撃が開始、同月、中華民国政府副総裁の汪兆銘が蒋介石と対立、重慶を脱出した。

 1939年になると日本軍は、1月に重慶爆撃開始、2月には海南島上陸、3月には南昌攻略と快進撃を続けるが戦争は泥沼化していった。11月には南寧作戦を実施、南寧を占領、1940年5月には海軍による無差別爆撃である一〇一号作戦が実施、10月まで行われた。9月には米英ソによる中華民国支援物資の補給ルートである援蒋ルート遮断を目的に日本軍による北部仏印進駐が行われ、11月には汪兆銘による南京政府が成立。日本政府によって中国中央政府として承認された。

 1941年5月には江北作戦、中原会戦が行われ、同時に無差別爆撃である一〇二号作戦が実施された。7月には日本軍による南部仏印進駐、9月から11月まで第一次長沙作戦、12月から翌年1月まで第二次長沙作戦が行われた。

 

日本の戦術的勝利、中国の戦略的勝利

 

04_中国軍陣地
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争前夜、中国では日本に対する反感が強くなっていた。同時に日本国内でも中国に対する敵意が増幅していた。この状況の中、満洲を防衛するために華北を狙う日本軍と中国大陸に侵攻させることで米英ソの軍事介入を行わせ日本軍を排除しようとする中国の思惑が盧溝橋事件を引き起こすこととなる。

 盧溝橋事件はどちらが先に発砲したのかは不明であるが、どのみち日中戦争の開戦は必至であった。短期決戦で解決すると思っていた日本軍は局地戦ではほとんどの場合勝ち続けたが、中国軍の策にはまり奥地へと引き込まれていく。同時に中国は米英ソの支援を取り付け長期持久体制を確立、外交により連合国を味方にしていく。そして中国の思惑通り、1941年には米国、1945年にはソ連が対日戦争参戦をしたことにより日本は敗北した。

 

まとめ

 

 対日戦争に勝利した中華民国政府と共産党軍であったが、日本という共通の敵を失った中華民国軍と共産軍は国共内戦に突入した。1949年、中華民国政府は、あまりにも中国国民を犠牲にしたため民心が離反、民衆を味方に付けた毛沢東率いる共産党軍が中華民国軍に勝利、中華人民共和国が成立する。その後、民衆に支持された中華人民共和国では大躍進政策を実施、さらには文化大革命と続くが、これによって数千万人の民衆が犠牲になることになる。

 

 

 

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01_レキシントン
(画像は被弾するレキシントン wikipediaより転載)

 

超要約

 

 珊瑚海海戦とは、1942年5月に行われた世界初の空母対空母の艦隊戦である。双方、輸送船団、補給艦隊を攻撃、撃沈したのち、正面からの機動部隊同士の戦闘となった。結果、日本側は空母祥鳳が撃沈、翔鶴が大破、連合軍側は空母レキシントンが撃沈、ヨークタウンが中破した。このためこの海戦は戦術的には日本側の勝利、戦略的には連合軍側の勝利とされているが、航空機、人的損害も含めると戦術的にも日本側が勝利したとは言い切れない。

 

珊瑚海海戦 〜概要〜

 

02_祥鳳
(画像は被弾した祥鳳 wikipediaより転載)

 

 開戦後、ニューギニア東方にある要衝ニューブリテン島ラバウルの占領に成功した日本軍であったが、さらにこのラバウルの防衛を完全なものにするためには連合国軍の一大反抗拠点となっていたニューギニア東南に位置するポートモレスビー攻略が必要であった。このため陸海軍共同で輸送船団を編成、海路よりポートモレスビーの攻略を目指した。これがMO作戦である。

 この作戦を察知した米海軍は空母レキシントンとヨークタウンで編成される第17任務部隊を迎撃のために派遣した。米空母がソロモン海域に投入されたことを知った日本側は増援を要請、急遽、第一航空艦隊より空母翔鶴、瑞鶴で編成された第五航空戦隊(五航戦)が増派された。これにより日本側の空母は翔鶴、瑞鶴と当初からMO作戦に編入されていた軽空母祥鳳の3隻となった。

 1942年4月下旬、軽空母祥鳳の護衛の下、ポートモレスビー攻略に出撃、少し遅れて第五航空戦隊も米機動部隊を求めてソロモン海域に出撃していった。5月7日には五航戦が米機動部隊を発見、攻撃隊を発進させた。しかし、これは米軍の油槽船と駆逐艦の誤りであったが、五航戦攻撃隊はこれら2隻を撃沈帰投した。一方、米機動部隊でも偵察機がMO攻略部隊を発見、第17任務部隊が攻撃をかけ空母祥鳳を撃沈している。

 その後、双方、散発的な攻撃は続いたものの、5月8日には双方ともに相手方機動部隊を発見、攻撃をかけた。結果、米機動部隊は空母レキシントンが撃沈、ヨークタウンも中破した。これに対して日本側は空母翔鶴が大破した。航空機の損害は日本側が97機喪失、米側が69機の喪失であった。この海戦の結果、日本軍はMO作戦を延期、その後断念することになった。

 

日本は戦術的勝利、米国は戦略的勝利?

 

03_翔鶴
(画像は前部甲板を破壊された翔鶴 wikipediaより転載)

 

 この海戦は世界初の空母対空母の戦いであった。結果は日本側が軽空母1隻、駆逐艦1隻、掃海艇3隻撃沈、正規空母1隻大破航空機損失97機であった。これに対して連合軍は正規空母1隻、油槽船、駆逐艦各1隻撃沈、航空機の損失は69機である。このことから一般的には珊瑚海海戦は日本側が戦術的勝利、連合軍側がMO作戦を阻止したことから戦略的勝利と判定されている。

 この連合軍側が戦略的勝利であることは間違いないが、日本側は空母の損害こそ少なかったものの、航空機は連合軍側の約1.5倍を失い、人員に関しても連合軍側656名の戦死者に対して日本側は966名とこちらも約1.5倍の損害を出している。特に五航艦航空隊の損害は酷く、戦闘機隊こそは被害が比較的少なかったものの攻撃隊はほぼ壊滅であった。航空機や人員の損失まで考慮すればこの海戦の結果を日本側の戦術的勝利とするのは疑問符が付く。特に育成に10年かかると言われる航空機搭乗員、その中でもさらに高い技量が必要と言われる母艦搭乗員を一挙に失ったことは大きな損失であった。

 

まとめ

 

 珊瑚海海戦により五航戦航空隊は実質的に壊滅、空母翔鶴は修理に3ヶ月を要する大損害を受けた。初戦期で日本の戦力が一時的に連合軍の戦力を上回っていた状態であったとはいえ、日本側は、第一航空艦隊に集中していた空母戦力を分散、さらにまた五航艦と祥鳳を分散して運用するという悪手を行ってしまった。緻密過ぎる作戦と無駄な戦力の分散は以降も日本海軍の作戦で多く見られる傾向である。

 

 


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01_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 仏印進駐とは、日中戦争の相手国中華民国への補給路を遮断するために日本軍が北部仏印に進出、これに米英が怒って日本への資源の輸出を禁止、資源が欲しい日本は、今度は東南アジアの資源を求めて南部仏印に進出。激ギレした米国は対日石油禁輸をする。石油が欲しい日本は太平洋戦争の開戦を決意する。

 

仏印進駐 〜概要〜

 

02_仏印進駐
(画像はwikipediaより転載)

 

北部仏印進駐

 1937年に何となく始まった日中戦争。日本軍が中華民国の首都南京を攻略したものの、中華民国は内陸部の重慶に首都を変更して抗戦を続けた。この中華民国に対してイギリス、アメリカ、ソビエトは大量の物資を送り続け中華民国を支援していた。このルートは4路あったが、その中でも最大のルートがフランスが植民地としていたベトナム、ラオス(仏印)の北部を通るルートであった。

 1940年、中華民国の「兵糧攻め」を狙う日本軍は、このルートの遮断するため北部仏印に武力進出する。当時、ドイツに占領されて力の衰えていたフランスは日本の要求を受諾せざるえなくなかった。この結果、援蒋ルートの遮断には成功したものの米英の反感を買い、同時期に日本が日独伊三国同盟を締結したこともあって米国は日本への鉄くずの輸出を禁止した。

 

南部仏印進駐

 米英からの反感は買ったものの、制裁は日本側が思っていた程厳しいものではなかったが、日本は戦略物資の供給元を失ってしまった。そこで日本が目を付けたのがオランダ領東インドであった。これは現在のインドネシアに相当する地域で豊富な資源を産出していた。

 南部仏印とは現在のベトナム南部で、ここに進駐することはこのオランダ領東インドに圧力をかけることができるだけでなく、イギリス植民地にも圧力をかけることが出来る要地であった。1941年7月末、日本軍は南部仏印に進出する。日本軍の進出は一応、平和的なものであったが、日本軍の強力な武力を背景にしていることには変わりはなかった。

 これに対して米国は即座に対日石油輸出禁止を決定、石油の輸入を米国に頼っていた日本はピンチに陥る。石油が無くなれば戦争も出来なくなると考えた日本は、11月に対米戦争を決意、12月に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。

 

援蒋ルートとは

 

03_援蒋ルート
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年に日本と中華民国の間で日中戦争(日本側呼称は支那事変)が始まると日本の勢力拡大を脅威に感じた米国、英国、ソ連は中華民国に対して大量の支援物資を送ることで対抗した。この支援物資を送るためのルートを当時の中華民国の主席であった蒋介石から「援蒋ルート」と呼ばれるようになった。

 このルートはソ連からのルート、香港からのルート、仏印ルート、ビルマルートの4つが存在したが、ソ連からのルートは独ソ戦開戦によって余裕が無くなったことや日ソが日ソ中立条約を締結したこともあって閉鎖。香港ルートも1938年に日本軍によって広州が占領されると遮断、残る仏印ルートは日本軍による北部仏印進駐によって遮断されたが、米英はビルマルートにより中華民国を支援し続けたため、日本軍はビルマルートを遮断するためにインパール作戦を行うこととなった。

 

仏印進駐のおすすめ書籍

 

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

 2020年菅内閣時に学術会議任命拒否された6人の内の一人、加藤陽子氏による日本近代史の概略を一般向けに分かりやすく解説した本。加藤氏は日本近代史の専門で本書は多少回りくどい部分もあるが、明治維新以降、日本が太平洋戦争に突き進んでいく姿を描き出している。徐々に選択肢が少なくなり、最終的には開戦に至っていくという過程が良く分かる。

 

まとめ

 

 援蒋ルートを遮断するために行った仏印進駐は米英による経済制裁を招いた。鉄と石油という近代国家に必須の戦略物資の供給を断たれた大日本帝国は米英蘭に対して開戦する。開戦当初は二線級の兵器で武装した米英蘭連合軍を圧倒的な戦力で撃破した日本軍であったが、そもそも日本と連合国では、生産力や技術力に圧倒的な差があったため数ヶ月で快進撃は止まり、以降は守勢から敗北へと突き進んでいく。

 

 

 


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01_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

要約

 

 真珠湾攻撃とは、1941年12月8日に日本海軍の空母部隊、小型潜水艦が真珠湾に停泊中の艦船、軍事施設を奇襲した。これにより太平洋戦争が開戦する。合計2回攻撃を行い、戦艦を中心に多くの艦艇を行動不能にしたが、石油タンク、修理工廠は攻撃対象としなかったため攻撃は不徹底で空母を捕捉出来なかったこと合わせて、第二次攻撃をするべきであったのか否かがしばしば問題となるが、実際の諸条件を加味すれば南雲機動部隊の行動は妥当だったといえる。

 

真珠湾攻撃 〜概要〜

 

02_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本の南部仏印進駐によって対日石油禁輸等の強硬措置を決定した米国に対して、日本は交渉を継続する一方、対米戦の準備も開始していた。連合艦隊は新しい兵器である航空機で真珠湾に停泊中の艦艇を行動不能とする計画を立てる。当時は一般には、航空機で戦艦を撃沈できるとは考えられておらずかなり奇抜な作戦であった。

 当時、空母は各艦隊に分散配置されていたが、真珠湾攻撃のために空母を終結、第一航空艦隊を編成した。第一航空艦隊に編入された空母は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、そして就役したばかりの翔鶴、瑞鶴の6隻であった。この艦隊は、司令官の苗字をとって南雲機動部隊とも言われる。この南雲機動部隊は、演習を偽装して別個に択捉島単冠湾に集結、11月26日に事前に調査した上で最も艦船の航行しない航路を選択して真珠湾に向かった。

 12月2日、洋上で攻撃決行の暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を受信、当初の計画通りに12月8日早朝、第一波攻撃隊183機が真珠湾を攻撃、同時に潜水艦によってハワイ近海まで輸送された2人乗り小型潜水艦「甲標的」5隻も真珠湾を攻撃した。続いて第二波167機が真珠湾を攻撃、これらの攻撃で米側は戦死約2,300名、航空機200機撃破、戦艦4隻、その他2隻が撃沈した他、米海軍主力戦艦のほとんどに致命的な損害を与えた。

 しかし、日本海軍が重要攻撃目標としていた空母は在泊しておらず、膨大な量の石油備蓄タンク、艦艇の修理工廠も攻撃を受けなかった。南雲機動部隊は一撃のみを行い真珠湾近海を離脱、日本本土に帰還した。日本側の損害は航空機29機である。

 

第二次攻撃は必要だったのか

 

03_真珠湾攻撃
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本軍の攻撃は艦艇や飛行場に集中したため膨大な量の石油タンク、修理工廠は無傷であったため攻撃後、被害を受けた艦艇の多くはすぐに引き上げられ戦争後半には戦列に加わっている。このため、これらを攻撃するために第二次攻撃を行うべきだったのか否かというのが必ずといっていいほど議論になる。これに関しては、海軍の作戦全般を統括する軍令部と連合艦隊の作戦目標のずれが指摘されている。

 軍令部が設定した真珠湾攻撃の目的とは南方資源地帯への進攻を円滑に進めるために米太平洋艦隊を一時的に無力化することであり、連合艦隊の作戦目標は艦隊を含むハワイ基地の機能を無力化することであった。これらの意見のずれは結局、最後まで統一されることはなく不明瞭で、いわば「現場任せ」の状態となっていた。このため南雲中将が一撃で戦艦部隊を無力化したのち帰還したのは軍令部の作戦目標に沿った行動であったといえる。

 むろん石油タンクや修理工廠を使用不能とするに越したことはないが、南雲機動部隊は、第一波攻撃で9機が撃墜、第二波攻撃では20機が撃墜されており、明らかに米軍の反撃体制が整備されつつあることが分かる。ここで第二次攻撃を行った場合、その損害は第一次攻撃を遥かに上回ったことは確実であり、さらには無傷の米空母部隊が攻撃してくる可能性も高かった。さらには日本軍は修理や補給というのを軽視しており作戦計画でも攻撃目標とされていなかった。これらの点も考慮すれば南雲機動部隊の行動は妥当であったと考えてよい。

 

まとめ

 

 真珠湾攻撃は、その準備から実施まで非常に緻密に計算して行われた作戦であった。作戦は参加する隊員に対しても一切知らされることなく準備され、参加部隊は演習と偽り、別々に本土から出撃していった。全参加者に攻撃目標を知らされたのは択捉島単冠湾であった。この緻密さ故に真珠湾攻撃は成功したものの、宣戦布告前の攻撃であったため卑怯なだまし討ちとして「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、国民一丸となって戦争に邁進していく。

 

 

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