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戦闘機

01_一式戦闘機隼
(画像はwikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦中最も生産された陸軍の戦闘機「隼」として有名な機体である。合計5751機の生産数は零戦に次いで日本軍用機史上2番目の多さ。太平洋戦争開戦から終戦まで使用され、戦後もアジア地域で使用されていた。

 

一式戦闘機隼〜概要〜

 

 

 

性能(一式一型)

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

背景から開発まで

 傑作機として有名な九七式戦闘機の後継機として計画された本機の基本方針は、「九七式戦闘機と同程度の旋回性能を保持しつつ他の性能を向上させる」というものであった。高速重戦闘機に移行しつつあった世界の趨勢とは異なり、格闘戦性能に重きを置いた要求であった。

 しかしだからといって速度では妥協はしたくない。航続力も欲しいということで性能要求は、速度は九七式戦闘機と比較して40km/h以上、航続力は1.6倍とする無茶な性能要求であった。

 

開発

 1937年12月、陸軍は、九七式戦闘機の後継機であるキ-43の開発を中島飛行機に指示した。試作機キ-43の設計は、設計主務者小山悌を中心に進められ、1938年12月末、試作1号機が完成した。初飛行は同年12月12日で、1939年2月に2号機、3月に3号機が立て続けに完成した。単翼で陸軍戦闘機初の引込脚を採用、風防も密閉式が採用された。照準器は旧来の筒状の望遠鏡式が採用され、プロペラは2翅、スロットルレバーはフランス式の手前に引くと増速するタイプのものであった。

 試作機の武装はドイツラインメタル社製MG17、またはこれを国産化した九八式7.9mm固定機関銃2丁であった。装弾数は各400発である。これら3機の試作機は各部に微妙な違いがあったが、1940年から1941年にかけて試作4号機以降と統一された。完成した試作機の性能はというと機体が大型化し重量も増加したため空戦性能では九七式戦闘機に及ばず、速度も期待していたほどではなかった。

 試作機3機についで増加試作機も10機が1939年11月から1940年9月にかけて製造された。試作機の不評を受けてこの増加試作機では、尾翼、風防等多くの部分で性能改善が行われた。この時にスロットルレバーも前方に押すと増速する方式に変更された。さらに機銃も八九式7.7mm固定機銃2挺に変更されたが、中島飛行機側は採用を半ば諦めていたようだ。

 変化が訪れたのは1940年の夏、シンガポール攻略を念頭に置いた遠距離戦闘機の必要性から航続距離の長いキ-43の採用が決定した。この結果、中島飛行機では1941年4月までに陸軍が要求したキ-43戦闘機40機を完成、1941年5月に一式戦闘機として制式採用された。

 制式採用された一式戦闘機は1942年3月に報道関係者に発表されたが、この時に報道係将校である西原勝少佐の発案で「隼」という愛称が考案され、以降、戦闘機隼として国民に親しまれた。因みにこれは愛称であり正式名称ではない。

 

一式一型

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

 最も初期に生産された一式戦闘機。発動機はハ‐25(海軍名「栄」)で950馬力、全幅11.44m、全長8.83m、重量1580kg、武装は八九式7.7mm固定銃または一式12.7mm固定機関砲2挺を機首内に装備できる。海軍の零戦と異なり、当初から防弾装備が装備されていた。7.7mm2挺を装備した機体は一型甲、右7.7mm、左12.7mmの機体は一型乙、12.7mm2挺の機体は一型丙と呼ばれる。

 武装に関しては威力からすると12.7mm機関砲2挺が好ましかったが、当時の12.7mm機関砲は信頼性が低かったため、実績のある7.7mm機銃2挺とした。後に12.7mm機関砲の信頼性が向上したため12.7mm機関砲2挺の丙型が誕生した。無線機は九六式飛三号無線機。

 

一式二型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 1975kg(資料により異なる)
出力 1130馬力
最大速度 515km/h(米軍テスト結果では558km/h)
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 キ-43が制式採用される前の1940年1月、速度及び上昇力向上を目的とした第二案の研究が始まった。これはエンジンをハ-25の改良型ハ‐105に変更し、機体を空気抵抗の少ない形に改良することであった。1940年5月にキ-43増加試作機1機に改修を実施、発動機はハ-105をさらに改良したハ-115(海軍名「栄21型」)を搭載した試作1号機が1942年2月に完成した。

 その後、5機の試作機と3機の増加試作機が製作され、1942年6月一式二型戦闘機として制式採用された。上記以外の改良点としてはプロペラが2翅から3翅に変更、主翼の両翼端を30cm切り詰め、主翼付け根部分の縦通材が強化された。さらに照準器は望遠鏡式から光学照準器である一式照準器に変更された。燃料タンクにも13mmのゴムで防弾化された。防弾タンクを装備した関係で搭載燃料は36L減少した。無線機は九九式飛三号無線機。

 生産は中島飛行機と立川飛行機で行われた。1942年11月に量産一号機が完成、1944年9月まで生産が続けられた。二型は大きく甲乙丙の3タイプに分けられるがこれは一般的に用いられている区分であり、陸軍の公式の呼称ではない。

 

二型甲

 甲型は最初の生産型。二型は一型に比べエンジンのパワーが向上したため潤滑油冷却器を装備しているが、初期生産型と後期生産型では冷却器の位置が異なる。排気管は集合排気管を使用。

 

二型乙

 排気管が推進力式排気管に変更された。初期生産機は集合排気管であったが、後期生産機は単排気管となった。それ以外にも冷却器の追加、増槽振れ止め、増槽取付位置の変更、頭部保護支柱の改修等の改良が行われた。二型乙型以降はタ弾、ト弾、ロ弾の搭載が可能となっている。1943年1月頃から実戦配備が開始されている。

 

一式三型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 - kg
出力 1130馬力
最大速度 568km/h
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 エンジンを水メタノール噴射式のハ-115供淵-35・32型)に換装した型。最大速度は試作機で568km/hに達し、量産機でも550km/hを維持していた。1943年末に試作が内示、1944年3月に試作指示が出され、1944年12月に制式採用された。

 水メタノール噴射式のエンジンを採用したことにより、胴体内に70Ⅼのメタノールタンクが新設された。さらに座席後方の3ヵ所に厚さ13mmの防弾鋼板が追加され、照準器も三式照準器に変更されている。これらの改良により三型は一式戦の使いやすさ、運動性能を維持しつつ、速度、上昇力、実用上昇限度、航続距離等が向上している。但し、エタノール噴射装置の不具合や整備員の不慣れにより稼働率は低下している。無線機は九九式飛三号無線機であるが、一部に性能向上型であるム4四式飛三号無線機を装備している。

 この三型の武装強化型として三型乙というのも計画された。これは武装を20mm機関砲に変更したもので、1944年末から製作を開始、1945年初頭に試作機が完成した。当初は翼下に20mm機関砲ポッドを装着する案も検討されたが、結局、機首12.7mm機関砲を20mm機関砲に変更することになった。このため三型乙は風防前面の胴体が大きく膨らんだものとなった。

 この改良により重心位置が変わったためエンジン架を200mm程延長しているが、この三型乙は重量過大のため不採用となった。

 

一式四型

 計画のみに終わったが、一式戦闘機にハ-45(海軍名「誉」)、ハ-33(海軍名「金星」)エンジンを装着するという案があった。しかし計画中に終戦となった。または航空本部の指示により中止されたとも言われている。因みに零戦は金星エンジンを装着した五四型が2機試作されている。

 

その他の改修機

ロケット弾搭載型

 試作のみで終わったが、二型の両翼下面にロ三ロケット弾各2発を搭載できるようにしたロケット弾搭載機が53機試作された。1943年11月に設計に着手、1944年3月に試作機が完成したが実用に適せずとして不採用となった。

 

対潜爆弾搭載型

 二型に対潜爆弾を搭載できるようにした型。1943年11月に設計に着手、1944年1月に試作機が完成した。懸吊架は木製で両翼に60kgまたは30塲弾を搭載することができる。合計3機が試作されたが試作のみに終わった。

 

着陸制動フック装着型

 陸軍が開発中であった陸上移動式着陸制動装置と射出装置に対応するように改造された型。1944年3月に設計に着手、9月までに50機が改修されている。

 

 マルサ装置搭載型

 マルサとは資料上は○の中にカタカナのサが入る。「サ」とは酸素を指すと思われる。高高度性能を強化するためにエンジンに液体酸素を供給することにより高性能を発揮することを企図したもの。試作機のみ製作された。

 

寒冷地用装備型

 エンジンの過冷却防止のためカウリング前面の開口部に脱着可能なシャッター付き空気制限板が用意されていた。主翼とプロペラの防氷装置も試作されたが試作のみ。

 

生産数

 一型は試作機が13機あり、量産機は1941年4月から1943年2月までの間に中島飛行機で703機、陸軍航空工廠で51機の合計767機、二型が試作機8機、量産機は1942年11月から1944年9月までの間に中島飛行機で2481機、立川飛行機で1342機の合計3831機、三型が試作機3機、量産機が立川飛行機のみで1143機の合計5751機である。

 

配属部隊

 この一式戦闘機を最初に装備した部隊は59戦隊で1941年6月に立川にて一式戦一型甲を約30機受領した。しかし強度的な不具合が続出、空中分解事故が起こるに至って再度立川に帰還、一型乙に改修した後、仏印に進駐している。同年8月には64戦隊が一式戦に改変、太平洋戦争開戦時には、59戦隊が21機、64戦隊が32機、合計53機の一式戦を装備していたのみであった。

 太平洋戦争開戦後は一式戦の配備も進み、33戦隊、50戦隊、教導飛行隊の204戦隊にも一式戦が装備されていった。1942年10月になるとビルマに展開していた64戦隊は一式戦2型に改変するために内地に帰還、1943年2月3日には同じくビルマに展開していた50戦隊もスラバヤに移動、陸軍輸送船あきつ丸で運ばれてきた一式戦2型を受領、同時に2型への改編が完了した64戦隊が再びビルマに進出した。遅れて11月頃には204戦隊も2型に改変された。

 南東方面では1942年12月18日、一式戦を装備した11戦隊がラバウルに到着、1943年1月9日には1戦隊もラバウルに進出した。5月には2型を装備した24戦隊がニューギニアに進出、8月には11戦隊の後退と共に59戦隊が進出、二式複戦装備の13戦隊や三式戦装備の68戦隊も11戦隊や24戦隊、59戦隊が残していった一式戦を装備していた他、63戦隊、77戦隊が一式戦を装備していた。

 以降、20戦隊、26戦隊、30戦隊、31戦隊等多くの部隊が一式戦闘機を装備、終戦まで活躍した。

 

 

 

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01_P47
(画像はwikipediaより転載)

 

P47サンダーボルト

 

 

性能P47N

全幅 12.95m
全長 11m
全高 4.48m
自重 4,997kg
最大速度 735km/h(高度10,668m)
上昇力  -
上昇限度 12,939m
エンジン出力 2,100馬力(P&W R-2800ダブルワスプ)
航続距離 3,158km
乗員 1名
武装 12.7mm機銃8挺
爆装 1,000ポンド爆弾3発
   ロケット弾10発
初飛行 1941年5月6日
総生産数 15,660機
設計・開発 アレキサンダー・カルトベリ / リパブリック社

 

概要

  P47サンダーボルトとは米陸軍航空隊が第二次世界大戦中盤から運用を開始した高高度戦闘機である。全幅13m、全長11mという巨大な戦闘機であった。当時の日本陸軍の主力戦闘機である一式戦闘機が全幅11m、全長9mと比べればその巨大さが分かるだろう。一式戦闘機とは全幅、全長共に2mも違っているのだ。この巨大戦闘機、さすがに米軍パイロットもその巨大さに驚いたようだが、P&W R-2800エンジンを搭載した上にターボ過給機を装備している本機は鈍重とは程遠い高速戦闘機であった。

 今回はこの高高度戦闘機の生まれた経緯について書いてみたいと思う。このP47サンダーボルトのベースとなったのはAP-4という機体で、1939年の米陸軍戦闘機トライアルでカーチス社製P40と競合した機体であった。最終的にトライアルではP40に軍配が上がり制式採用されたものの、この機体に米軍はを惜しみ評価試験用としてXP43の名称を与え発注した機体であった。

 ターボチャージャーを装備したXP43は最高速度565km/hを発揮、米陸軍はP43として54機の発注を行った。しかし、当時の航空機の進歩は目覚ましく、すでにこの性能ではドイツ空軍の戦闘機には太刀打ち出来ないことが判明、P43の後継機として大量注文されていたP44も全てキャンセルされてしまった。これによりリパブリック社は深刻な経営難に陥ってしまうが、実力主義の米国でもさすがに見捨てることは出来なかったようで、結局P43戦闘機の生産をさせることになった。このP43戦闘機は第二次世界大戦ではほとんど活躍することはなかったが272機が製造され、中華民国空軍に108機が引き渡され日本軍とも交戦しているものの多くは偵察機として運用された。

 この間、P43の改良も進んでいた。凄まじい勢いで進歩し続ける航空機の流れに追いつき、そして追い越すために設計者アレキサンダー・カルトベリはP43の機体を大型化、エンジンをP&W R-2800ダブルワスプエンジンに変更、ターボチャージャーを装備した。このR-2800エンジンはF6Fヘルキャット、F4Uコルセアなどに採用された傑作エンジンで出力は2,000馬力にも達するものだ。これに4m4翅のプロペラ、胴体内にターボチャージャーを装備したため胴体は太くなり主翼には12.7mm機関銃8門、自動防漏燃料タンクも装備するという強力な戦闘機になった。

 1941年5月6日、この巨大戦闘機XP47Bは初飛行を行った。しかし後の事故により不具合が発覚、1942年9月、それらの問題点を改良したP47Cが米軍に引き渡された。そしてさらに改良が進み、ついに決定版となるP47Dが登場する。このタイプは総生産数12,602機で、P47の総生産数15,660機のほとんどを占めている。

 

実戦での運用

 1942年末、P47サンダーボルトはまず危機に瀕している英国に送られた。この時のタイプはP47Cである。この時、やはり連合軍のパイロット達もその巨大な戦闘機に度肝を抜かれたという。当時の英国空軍は日本空軍と同じくドッグファイトを重視しており、戦闘機もスピットファイアやハリケーンといったドッグファイト向きの機体であった。そこに翼面荷重246kgの重戦闘機が登場したのだ。因みに翼面荷重とは航空機の重量を翼面積で割った値でその数値が低ければ低いほど、機体が軽く翼が大きいということになり旋回性能が高くなる。零戦や一式戦闘機の翼面荷重は100kg前後、スピットファイアの初期型は117kgである。

 当然、ドッグファイトではこれらの戦闘機に太刀打ちできず、最大離陸重量8トンにも達するその機体は離陸するまでも距離を必要とした。しかし高高度になると運動性能は高く、頑丈で防弾性能に優れた本機は多くのパイロットの命を救うこととなる。P47も改良が進むにつれ燃料タンクが大型化、これにより航続距離が増大、重爆撃機の援護も出来るようになった。

 初の戦闘は1943年3月のヨーロッパ戦線で、8月には太平洋戦線でも初陣を飾った。戦争も後半となり、P51マスタングが登場すると護衛任務はP51に譲り、P47はその8門の12.7mm機銃と重装甲、爆弾搭載量の大きさから戦闘爆撃機として運用されるようになった。第二次世界大戦終結後もP47は1947年までは陸軍航空隊で運用され、1947年米空軍が誕生するとF47として1949年まで現役で運用され続けた。その後は州軍で1953年まで運用された後に退役している。

 第二次世界大戦中、それ以降もこの傑作戦闘機は米国、英国以外にも多くの国で運用されている。最も多く運用したのが自由フランス空軍で米国より446機を受領、1950年代まで運用を続けた。ソビエト連邦に対してもレンドリース法に基づいて203機が送られたものの目立った活躍はしていない。戦後は中華民国に102機のP47Dが送られ、国共内戦に使用されている他、トルコ空軍、イタリア空軍、イラン空軍や南米の国々等多くの国で運用された。最後まで運用したのはペルー空軍で1966年に最後のP47が退役している。

 

 

 

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01_p40warhawk
(画像はwikipediaより転載)

 

カーチスP40ウォーホーク

 

性能(P40)

全幅 11.37m
全長 10.15m
全高 3.77m
自重 2,812kg
最大速度 563km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで7分42秒
上昇限度 9.450m
エンジン出力 1,150馬力(V-1710-39)
航続距離 1,207km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 12.7mm機関砲6門(弾数各280発)
爆装 227kg(500ポンド)爆弾1発
総生産数 13.738機(全型)
設計・開発 ドノバン・R・ベルリン / カーチス社

 

 

概要

 P40ウォーホークとは、航空機の名門、カーチス社が製造した戦闘機で1939年に米軍に制式採用されて以降、世界各国で使用されていた。第二次世界大戦中は連合国軍のほぼ全ての国で運用されていた傑作戦闘機である。名称の「ウォーホーク」とは、米陸軍が採用した名称で英軍、ソ連軍ではP40のバリエーションの内、P40からP40C型までトマホーク、P40D型以降をキティホークという名称で呼んでいた。トマホークとはアメリカ先住民が使用していた斧の意味でキティホークとは米国ノースカロライナ州の街の名前である。のちに米国の航空母艦の名称として採用されたことでも有名である。のにち米国にも逆輸入され「トマホーク」「キティホーク」等と呼ばれるようになった。

 1930年代に米軍に採用されたP36は、日本ではあまり知名度は高くないが、世界中で地味に活躍した戦闘機であった。このP36に液冷エンジンを搭載したのがP40である。初飛行は1938年10月4日で液冷エンジンに変更した結果、最高速度が40km/h以上アップ、さらなる試験の結果、最高速度が589km/hにも達することが証明された。このため気を良くした米陸軍は直ちに量産命令を出し、P40として制式採用した。

全戦線を支えた「タカ派」戦闘機

 P40は、第二次世界大戦終了まで様々な部隊で運用され、特に第二次世界大戦中盤まではP39と共に戦力の中核として活躍した。しかし戦争後半になるとP51マスタングやP47サンダーボルトに取って代わられるようになる。P40は、米軍以外でも英軍、ソ連軍を始めとする同盟国で運用されており、日中戦争では早い段階から米軍義勇兵部隊フライングタイガースによって運用されていた。

 このフライングタイガースによって運用されたP40は当初こそ日本空軍のドッグファイトに巻き込まれ苦戦するが、日本機に対して高速で頑丈、重武装であることからその特性を生かし有利に戦いを進めていった。日本が降伏するまでの6年間でフライングタイガースは297機の日本機を撃破、損害は4機のみであったという。実際の戦果や損害は分からないので何とも言えないが互角以上に戦っていたのは間違いないであろう。

 日本機との空戦は主に低高度、中高度の戦いであったため、有利に戦うことができたのだが、本機はそもそも中高度、低高度性能を重視して開発された機体であったため、日本機との戦いを有利に戦うことができたのだが、高高度性能では二速過給器を装備していなかったためドイツ空軍のBf109、Fw190に対しては苦戦することになった。しかし頑丈で信頼性が高かった本機は、戦場の多くの局面で多くの戦果を挙げている。本機で誕生したエースは200人にも達し、内20人は10機以上を撃墜した「ダブルエース」である。特にオーストラリア空軍のトップエースであるコールドウェル大佐は撃墜戦果27.5機の内22機をP40で撃墜している。

 対戦相手の日本軍でも10機程度が鹵獲され運用されていたようであるが、当時の整備兵は「野ざらしにしていても一発でエンジンがかかる」とその技術力の高さに舌を巻いている。同様にフィンランド空軍も一時期、鹵獲した機体を運用していたようである。頑丈さや信頼性の高さから戦後も運用され続け、戦闘機としての役目が終わった後も攻撃機として運用された。最後まで運用していたのはブラジル空軍で1954年に退役している。総生産数は13,738機である。

 

 

 

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P-39_Airacobra
(画像はwikipediaより転載)

 

P-39エアラコブラ

 

 

性能(P-39D)

全幅 10.36m
全長 9.21m
全高 3.6m
自重 2,853kg
最大速度 579km/h(高度4,600m)
上昇力 5,000mまで6分24秒
上昇限度  - m
エンジン出力 1,150馬力(アリソンV-1710-35)
航続距離 1,770km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 37mm機関砲1門(弾数15発)、12.7mm機銃2挺(弾数各200発)、7.62mm機銃4挺(弾数各500発)
爆装 225kg爆弾1発
初飛行 1938年4月6日
総生産数 9,558機
設計・開発 ベル社

 

概要

 P-39の最大の特徴はエンジンが胴体中央にあることである。このような特殊な設計になった理由としては37mm機関砲という大口径砲を搭載することにあった。この37mmという軽戦車並の大口径砲を搭載するためにはそれまでのようにプロペラとの同期で発射するには37mm砲の発射速度や搭載弾薬量の関係で難しかった。このため37mm砲を前方に配置、エンジンを胴体中央に配置した分けである。同時にこの設計をすることによってP-39はスマートな流線形の胴体を構成することができた。

 技術的な問題として、胴体中央にエンジンを搭載するということは機体先端にあるプロペラへの動力供給を延長したプロペラシャフトによって行うことになるが、P-39の場合は故障や不具合の問題はなかったようである。これはのちに日本の局地戦闘機雷電がプロペラシャフトを延長したことによる振動問題に悩まされたのと対照的である。

 1938年4月6日、試作機XP-39は初飛行を行った。本来、迎撃戦闘機として計画されていた本機は、排気タービンを装着しており、高度6,100mまで5分、さらに同高度で最高速度630km/hという高性能を発揮した。しかし陸軍は排気タービンを外し中高度戦闘機として設計すること指示、エンジンを一段一速過給器のV-1710-35エンジンに変更したためにメンテナンス性は良好となったものの性能は大幅に低下した。

 

 

問題山積

 武装は37mm砲1門と他に機首に12.7mm機銃を装備していたが、これらの武装により重量が増加した上にエンジンを胴体中央に配置するという独特の設計により、P-39は胴体内に燃料タンクを配置するスペースがなく、翼内とさらに投下式燃料タンクとなった。このため航続距離は低下している。

 その他、エンジンを胴体中央に配置したことにより、特に機銃弾を撃ち尽くした後、機体の重量バランスの変化によりスピンが起こりやすくなったことや、後方、上方からの攻撃に対しては脆弱であるという問題があった。逆に地上からの攻撃に対しては耐久性が向上している。

 P-39は1944年8月まで生産が続けられ、総生産数は9,558機である。しかし米陸軍での運用は少なく、半分近くである4,773機がレンドリース法に基いてソビエト連邦に供与された。その他英国も同機を取得しているが、これは37mm砲の代わりに20mm機銃、6基の7.7mm機銃を装備したモデルで675機を発注したものの、性能が不十分と判断し、英国では80機を運用したのみでその他200機はソビエト連邦に送られ、さらに200機はP-400として米軍で採用、一部はオーストラリア空軍で運用された。

 

 

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01_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式戦闘機とは、日本陸軍が1937年に制式採用した主力戦闘機で分類としては軽戦闘機になる。この軽戦闘機としての本機の性能は世界最高で世界の軽戦闘機の頂点を極めたといっていい。最高速度でも前年に制式採用された海軍の九六式艦上戦闘機を上回る究極の戦闘機であった。

 

九七式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.31m
全長 7.53m
全高 3.28m
自重 1,110kg
最大速度 470km/h(高度3,500m)
上昇力 5,000mまで5分22秒
上昇限度 12,250m
エンジン出力 610馬力(ハ1乙)1基
航続距離 627km
乗員 1名
武装 7.7mm機銃2挺(八九式固定機関銃弾数各500発)
爆装 25kg爆弾4発
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_九七式戦闘機甲型
(画像はwikipediaより転載)

 

 1935年12月、陸軍は中島、川崎、三菱の3社に九五式戦闘機に次ぐ、次期主力戦闘機の設計研究を命じ、4月には正式に指示が出された。当時、格闘戦を重視した軽戦闘機至上主義であった陸軍の性能要求は、九五式戦闘機と同等の運動性能を持つ上、最高速度が50km/h上回る戦闘機という困難な要求であった。1936年10月、試作1号機が完成、同月15日には初飛行を行った。1937年3月には各社の試作機を破って中島製キ27の採用が内定、12月(9月とも)には九七式戦闘機として制式採用された。

 機体はセミモノコック構造で空気力学的に優れており、徹底した軽量化も行われた。このため脚も構造が複雑で重量がかさむ引込脚ではなく固定脚としている。燃料タンクは翼内のみで通常の航空機のように胴体内には装備されなかった。これは被弾した際に搭乗員を守るための配慮で燃料タンクは主翼内胴体付近に装備され、操縦席床板は厚くして火のまわりを遅くしていた。

 このため航続距離は357〜850kmと短いためこれを補うために増加燃料タンクが翼下に各1個装備することができた。尚、陸軍の強い要望により胴体内燃料タンクを装備した試作機(キ27改)も製作されたが安全性に問題があるため不採用となっている。風防は密閉式涙滴型風防で、エンジンはハ1乙(海軍名「寿」。610馬力)1基でプロペラは直径2.9m金属製2翅固定ピッチ、武装は八九式固定機銃二型2挺(弾数各500発)のみである。

 この九七式戦闘機の構造で革新的であったのは、主翼を一体で製作してその上に胴体を乗せるという方法に変更したことであった。それまでの航空機は、胴体と中翼を一体で製作し、そこに外翼を取り付けるという方法であったが、これだと構造上重量がかさんでしまうという問題があった。それを上記の方法に変更することにより、重量軽減にもなり、さらには機体の強度を上げることも出来るという一石二鳥であった。しかし輸送には不便であったため、胴体は操縦席後方で分割できるようにしていた。この方法はのちに中島製戦闘機、三菱の零戦等でも使用され、現代のジェット機では定番となっている。

 

 

生産数

03_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 生産は中島飛行機で1937年12月から1942年(1940年とも)12月まで2,007機、立川飛行機で1938年から1939年8月まで60機、満洲飛行機で1939年から1942年まで1,315機が生産された。総生産数は3,382機(3,386機)である。

 

まとめ

 

 九七式戦闘機は当時最高性能を誇った戦闘機であった。軽快な運動性能はノモンハンで遺憾なく発揮された。このため世界の戦闘機開発で主流となりつつあった重戦闘機への開発が遅れるという弊害も生みだしてしまった。次期主力戦闘機でも同じく運動性能を重視したため速度も運動性能も今ひとつな一式戦闘機を生み出してしまう。成功体験が次の失敗を生み出してしまうという良い例である。

 

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02_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 高高度戦闘機キ94とは、立川飛行機が開発した高高度戦闘機で独特の形状をした儀燭肇ーソドックスな尾輪式単発単座の況燭ある。これは儀燭陸軍の意向により開発中止になり、オーソドックスな形状で再度試作指示が出たためであった。況燭禄戦直前に1号機が完成、初飛行前に終戦となったが、かなりの高性能が見込まれたことから登場の遅さが非常に悔やまれる機体である。

 

高高度戦闘機 キ94 〜概要〜

 

 

性能(キ94儀弉菽諭

全幅 15.00m
全長 13.05m
全高  - m
全備重量 8,800〜9,400kg
最大速度 780km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで9分56秒
上昇限度 14,000m
エンジン出力 2,200馬力(ハ211ル)2基
航続距離 4,520km
乗員 1名
武装 37mm機関砲2門、30mm機関砲2門
爆装 50kg爆弾2発または
設計・開発 長谷川龍雄 / 立川飛行場

 

性能(キ94況弉菽諭、┰説あり)

全幅 14.00m
全長 12.00m
全高 4.65m
自重 4,690kg
最大速度 712km/h(高度12,000m)
上昇力 10,000mまで17分38秒
上昇限度 14,100m
エンジン出力 2,500馬力(ハ44/12ル)1基
航続距離 1,538km
乗員 1名
武装 20mm機関砲2門(ホ5弾数各200発)、30mm機関砲2門(ホ155驚匿各100発)
設計・開発 長谷川龍雄 / 立川飛行機

 

開発

 

03_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 1943年6月、陸軍は立川飛行機に対して高高度戦闘機の試作を指示した。これに対して立川飛行機は長谷川龍雄技師を設計主務者として開発を開始、同年12月には実物大模型を完成させた。機体は串型双発双胴型で中央胴体の前後にエンジンとプロペラを装備、左右の胴体の後方にはそれぞれ垂直尾翼が付いていた。左右の胴体の後方にある水平尾翼はつながっており、一見、米軍のP38に似た形状に見える。

 高高度での運用に対応するために操縦席は与圧室となっており、エンジンはハ211ル(2,200馬力)を装備していた。これは三菱で開発された金星エンジンの改良型で高高度用に排気タービン過給器を装備していた。武装は37mm機関砲(ホ204)2門と30mm機関砲(ホ155)2門でホ204は側胴前端部にホ155は主翼内に搭載される予定であった。さらに最大500kgの爆弾を搭載することが可能であった。

 1944年8月に試作1号機を完成させる予定ではあったが、実物大模型審査の結果、発動機の装備方法が現実的ではないことや搭乗員の脱出が困難であること等から開発が中止された。

 

01_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 あまりにも独特な形状のため開発が中止となったキ94であるが、1944年3月、オーソドックスな尾輪式単発単座機として改めて開発が指示された。これもキ94であるが、通常は串型双胴双発型をキ94機改めて開発指示が出された型をキ94兇噺討个譴討い襦

 陸軍は、開発の遅れを取り戻すために当時中島飛行機で開発中であったキ87の設計を極力利用することを要求したが検討の結果、独自の設計を行うこととなり、1944年5月にはキ94気汎瑛佑膨甲川龍雄技師を設計主務者として開発を開始した。

 

 

 

 キ94兇皚儀親瑛諭▲┘鵐献鵑魯211ルでプロペラは直径4.00m4翅プロペラを装備、与圧室、排気タービン過給器を装備、胴体はセミモノコック構造を採用した。速度を重視した翼面荷重236.8kg/屬箸い高翼面荷重の機体でこれは当時の日本の単発戦闘機中最大のものであった。武装は30mm機関砲(ホ155)2門(弾数各100発)、20mm(ホ5)2門(弾数各200発)で主翼に装備された。

 予定では1945年2月には試作1号機が完成することになっていたが、作業の遅れにより7月20日、試作1号機が完成した。8月6日には地上運転が開始され、8月18日には初飛行の予定であったが終戦のため中止となった。

 

生産数

 キ94兇了邵邉,1機のみ完成した他、完成直前の2号機があった。

 

まとめ

 

 キ94は立川飛行機が16年振りに開発した戦闘機であった。立川飛行機は以前から与圧室の研究には一日の長があり、高高度戦闘機の製作には適していたといえる。高高度戦闘機はB29による空襲の可能性が高まるにつれて重要性が増し、陸海軍共に様々な機体が開発されたが、同じような機体があまりに多いことは大きな問題である。陸海軍が協力して機種を絞って開発を行っていれば高性能な機体が大量に実戦配備されたであろう。そうならなかったのが残念である。

 

 キ94と同じハ211ルを装備したキ83

 海軍の双胴高高度戦闘機

 

 

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01_tigercat
(画像はwikipediaより転載)

 

F7Fタイガーキャット

 

 

性能(F7F-3)

全幅 15.70m
全長 13.83m
全高 5.05m
自重 7,380kg(空虚重量)
最大速度 700km/h(高度6,767m)
上昇力 6,096mまで5分24秒
上昇限度 12,405m
エンジン出力 2,100馬力2基(P&W R-2800-34W)
航続距離 2,945km(300gal(1,136L)増槽装備時)
乗員 2名
武装 20mm機関砲4門(各200発)、12.7mm機銃4門(各300発)
爆装 胴体下907kg(2,000ポンド)爆弾1発または
   翼下450kg(1,000ポンド)爆弾2発
設計・開発 ロバート・L・ホール / グラマン社

 

概要

 世界史上類を見ないレシプロ双発艦上戦闘機である。双発戦闘機というのは米国でもP-38ライトニング等多くの成功作があるが、レシプロ艦上戦闘機というのはほとんど例がない。このF7Fを開発したのはグラマン社で、これは同社が以前に試作していたXF5Fの開発経験が生み出した機体といえる。

 機体は双発単胴で主翼は高翼に近い中翼で艦上戦闘機ならではで、上方に折りたたみが可能である。大型の機体であるが、当時計画されていた大型空母(のちのミッドウェイ級空母)に搭載されることが前提であったことも機体が大型化した理由の一つかもしれない。

 開発契約は1941年6月30日に結ばれ開発がスタート、1943年11月2日初飛行したが、現用のF4F、F6Fの生産を優先させたために第二次世界大戦には極少数機を除いて実戦参加はしていない。全幅15.70m、全長13.83m、総重量7トンの巨大な機体であり、武装も20mm機関砲4門、12.7mm機関砲4門という強力なものだった。このため着陸速度が速くなり空母への着艦には不利であった。

 その他、テールフック等にも問題があり、制式採用はされたものの夜間戦闘機として陸上基地から使用されたものがほとんどであった。第二次世界大戦中に初飛行したものの上記のように生産が後回しにされたために初の実戦参加は朝鮮戦争であった。生産は1946年11月まで行われ、運用は主に陸上基地から夜間戦闘機、偵察機としてのものだった。同盟国等に販売、供与されることなく米海軍、海兵隊のみの運用である。1954年に退役。

 

 

F7Fトムキャット?

 当初はタイガーキャットではなく、トムキャットと呼ばれていたがトムキャットとは英語のスラングで「女をあさる男」というような意味があり、さすがに駄目だということでタイガーキャットに変更された。但し、この名称はグラマン社がのちに開発する艦上戦闘機F-14では米海軍が公式に使用している。これは単純に時代が変わったのだろう。

 総生産数は364機でバリエーションは主にF7F-1〜4までの4タイプがある。F7F-1はプラット&ホイットニーR-2800 -22W星型ピストンエンジンを装備、40機弱が製造された。F7F-2は複座夜間戦闘機タイプで65機製造、F7F-3はP&WR-2800-34W星型エンジンと高高度での安定性確保のために大型化された垂直尾翼が特徴である。189機、複座夜間戦闘機タイプのF7F-3Nが60機製造されている。最終型のF7F-4は強度と安定性を高めた機体で空母での運用が認められたものの12機のみの製造で終了している。

 

 

 

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01_P38_Lightning
(画像はwikipediaより転載)

 

P-38ライトニング

 

性能

全幅 15.85m
全長 11.53m
全高 3.00m
自重 5,800kg
最大速度 667km/h(高度7,620m)
上昇力 1,448m / 分
上昇限度 13,400m
エンジン出力 1,475馬力(アリソンV-1710-111/113液冷エンジン)
航続距離 1,770km
翼面荷重 261kg / 立方メートル
乗員 1名
武装 20mm機関砲1門(弾数150発)、12.7mm機銃4挺(弾数各500発)
爆装 2,000ポンド(908kg)爆弾2発または
   500ポンド(227kg)爆弾4発または
   ロケットランチャー4基、5連装HVAR2基
設計・開発 クラレンス・レオナルド・ジョンソン / ロッキード社

 

開発

  1937年2月、米陸軍はドイツや日本の戦闘機に対抗できるような高速戦闘機の開発を各航空メーカーに命じた。これに対してベル・エアクラフト社はB-4(のちのP-39)、当時、旅客機専門メーカーであったロッキード社はモデル22を設計した。これがのちのXP-38である。

 この機体は高速を発揮するために双発、さらには双胴で双胴の中央に胴体がまた一つ入る三胴という特殊な形態をしていた。パイロットは中央の胴体前部に搭乗、左右の胴体は後方で昇降舵で繋がっていた。垂直尾翼は2枚である。エンジンは1,150馬力液冷式V型12気筒アリソンV-1710-29/17エンジンでトルクを打ち消すために左右反転するように設計されており、さらに高高度での戦闘用に排気タービン過給器を装備していた。

 形態上、プロペラに邪魔されることなく、コックピット前方に武装を集中できるため武装は強力で、25mm(23mm)機関砲1門、12.7mm機関銃4挺が搭載予定であった。設計はわずか1年半で完成、1939年1月27日に初飛行に成功した。細部に問題はあったものの性能は素晴らしく、米陸軍が要求した最高速度640km/hを35km/h上回る675km/hを達成した。これに満足した陸軍は同年9月にP-38として制式採用した。この際に武装は37mm機関砲1門、12.7mm機関銃4挺に変更されている。

 

 

類稀なる高性能機

 対ドイツ戦では爆撃機の護衛や戦闘爆撃機として使用され、双胴の悪魔と呼ばれていた。対日本戦でも初期の段階から投入され、外観的な特徴から「メザシ」または「ペロ八」等というあだ名が付けられていた。「ペロ八」というのは「ペロ(ペロ)っと食べられる(撃墜できる)P38(八)」という意味である。

 P-38は翼面荷重が261kg/立方メートルと重く、零戦の108kg/立方メートルの2.5倍であった。このため格闘戦に持ち込まれると弱く、日本のパイロットに簡単に撃墜されてしまった。このためペロ八と呼ばれていたのだが、これはP-38が太平洋戦域に投入された初期の話で中期以降は格闘戦を避け、一撃離脱戦法に変えたため日本軍にとって脅威となった。

 このP38はもっとも多くの日本機を撃墜したと言われており、事実、米軍のトップエースであるリチャード・ボング少佐(40機撃墜)、二位のマクガイア少佐(38機撃墜)等はどちらもP-38を使用している。航続距離も長大であり、この航続距離を生かして山本五十六連合艦隊司令長官の乗機を撃墜したこともあった。

 このように高性能機であったため、英空軍からも購入希望があったが、軍事機密である排気タービン過給器を取り外し、プロペラも左右同方向に回転するというかなり性能を落としたモンキーモデルを渡したため、結局、受取りを拒否されている。

 

実戦での運用

 1942年5月29日のアリューシャン列島で初めて運用が開始。初戦果は同年8月9日の九七式大艇の撃墜である。しかし以降P-38は太平洋戦域よりもヨーロッパ戦線に優先的に配備されており、1942年8月からヨーロッパ戦線に配備されたのに対して、本機が太平洋戦域に配備されたのは同年末であった。

 戦闘機としても高性能であったが、偵察機、夜間戦闘機としても優秀であり、ヨーロッパでの航空写真の90%がP-38写真偵察機型によるものである。

 実戦でのP-38は当初はエンジントラブルや急降下での振動等の問題が起こったが、エンジンの改良、プロペラの回転方向を外向きに変更することで徐々に信頼性の高い機体となっていった。第二次世界大戦のほぼ全期間で活躍、総生産数は10,037機である。

 米国参戦前の1941年9月から生産が始まり、終戦の年である1945年まで生産され続けた稀有な機体である。米陸軍では1949年で全機退役、イタリア空軍、ホンジュラス、ドミニカ共和国、中国等で運用された。最後まで運用していたのはホンジュラス空軍で1965年に最後のP-38が退役している。

 

 

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01_P-36C_Hawk
(画像はwikipediaより転載)

 

P36 ホーク

 

性能

全幅 11.38m
全長 8.69m
全高 2.57m
自重 2,072kg
最大速度 504km/h(高度3,050m)
上昇力 1,036m / 分
上昇限度 10,363m
エンジン出力 1,050馬力(P&W R1830-13 ツインワスプエンジン)
航続距離 1,706km
乗員 1名
武装 12,7mm機銃1挺、7.62mm機銃1挺
初飛行 1935年5月6日
総生産数 1,115機
設計・開発 ドノヴァン・リース・バーリン / カーチス・ライト社

 

概要

 P36は、全金属製で単葉、密閉式コックピット、引込脚を備えるという米陸軍初の近代的戦闘機であった。しかし、1935年5月の米陸軍次期主力戦闘機のトライアルでライバル機のP-35に敗れてしまう。しかしヨーロッパ情勢が悪化していることを考慮して米陸軍は、エンジンをP&W R1830に換装した上でP36を採用することに決定、1938年に制式採用。7月7日に210機の生産契約が結ばれた。これは平時における当時最大の発注であった。

 初飛行は1935年5月6日で、当時の常識として操縦席、燃料タンクの防弾は考慮されていない。主脚と共に尾輪も引込式であるが、主脚の引込脚の構造はボーイング社が開発したものである。主翼が大きく軽量であったため翼面荷重が低く、旋回性能、上昇性能で優れていた。総生産数はP36が215機、輸出用のホーク75が900機である。

 太平洋戦争開戦時にはすでに時代遅れと看做されていたが、1941年12月7日(米国時間)、日本軍の真珠湾攻撃の際にハワイに配備されていた5機のP36が出撃、1機を撃墜されたものの、零戦2機、九九式艦爆1機を撃墜したとしている。これが米軍での唯一の使用である。

 

 

諸外国での運用

 このP36は米軍ではほとんど使用されなかったが、諸外国に売却された。特に大量に購入したのはドイツの脅威を感じていたフランスでドイツに降伏するまでに316機のP36を受領、カーチスH75と命名、開戦後はドイツ軍相手に敢闘した。フランスの降伏後はこれらの内、229機は英国に逃亡、残存機はドイツ軍に接収された。

 英国では当初P36に関心を示したものの購入はしなかった。しかしドイツに降伏したフランスから脱出したP36、229機を保有することになった。これらの機体はモホークと命名され、インド、ビルマ、南アフリカの防衛で使用された。

 ノルウェーは19機を購入。ドイツの侵攻により13機が鹵獲されフィンランドに売却されている。フィンランドでは直接米国から購入したものでなないが、ドイツがフランス、ノルウェーで鹵獲した機体を44機ドイツから購入。対ソ戦において運用している。本機で12機以上を撃墜したエースも存在する。

 その他、中国、タイ、アルゼンチン等が購入しているがこれらは固定脚の廉価版である。アルゼンチンではこの固定脚のホーク750をライセンス生産、カーチス社の30機とライセンス生産の20機が存在する。武装は11.35mmマドセン機関銃1挺と7.65mmマドセン機関銃3挺でパイロンに14kg爆弾10発を搭載することが可能であった。もっとも最後まで運用され、1954年11月に退役している。

 さらにブラジルでは米軍より10機のP36Aを受領、イランには10機が納入されたが英国に鹵獲された他、ペルーは28機のP36が米国より受領、オランダでは24機を購入、本土がドイツに降伏したため蘭領インドネシアに送られ日本機と交戦している。ポルトガルも英国より12機を移管され運用している。

 

バリエーション

 初期生産型のP36A、ターボ過給機型の試作機P36B、エンジンをP&WR-1830-17(1,200馬力)に変更した機体、その他武装の違いにより数種類のバリエーションがある。

 

 

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01_XF5F_skyroket
(画像はwikipediaより転載)

 

グラマンXF5F

 

性能

全幅 12.8m
全長 9.80m
全高 3.45m
自重 3,630kg
最大速度 616km/h(高度6,096m)
上昇力 1,220m/分
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,200馬力(ライトXR-1820-40/-42空冷星型9気筒レシプロエンジン)
航続距離 1,800km
翼面荷重163kg/立方メートル 乗員 1名
武装 23mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門、または12.7mm機銃4門
爆装 75kg爆弾(165ポンド)2発または
   2.4kg空対空爆弾20発または
設計・開発 ロバート・L・ホール / グラマン社

 

概要

 グラマンの技師、ロバート・L・ホールによって設計された試作艦上戦闘機。エンジンは1,200馬力ライトXR-1820-40/-42空冷星型9気筒レシプロエンジンを2基装備、プロペラは三翅で、それぞれ逆回転する二基のエンジンによってトルクを打消し機体安定性を高めている。さらにエンジン間の距離を縮めることによりロール率を高める効果も期待された。

 1940年4月1日初飛行、双発エンジンで航続距離の長い上に最高速度は616km/hを発揮、独特の形状から注目を集めたが、構造の複雑さ、母艦での運用を考慮すると保守的な単座戦闘機に軍配が上がった。この時点ですでにF4Uコルセア戦闘機が最高速度650km/hを記録していたこともあり、制式採用されることはなく試作1機のみで終わった。

 

 

制式採用はされず

 グラマン社ではデータを採取するためのテスト機として運用されたが、1944年12月11日、主脚の故障で胴体着陸、機体は大破したため破棄された。改良型としては陸軍向けに艦上機の装備を取り外し排気タービン過給器付きライトR-1820-67/-69を装備、機種を流線形に成形したXP-50があったが、飛行中に過給器が爆発して墜落してしまった。

 XF5Fは制式採用されることはなかったが、この試作機から得られた経験は当時、グラマンが開発していた双発戦闘機XF7F-1タイガーキャットの設計に生かされた。海軍の宣伝に利用されたため知名度は高い。総飛行回数211回、総飛行時間155.7時間。米国ではコミック『ブラックホーク』の主人公の愛機として有名である。

 

 

 

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01_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機秋水とは、太平洋戦争末期に日本陸海軍によって計画されたロケット戦闘機である。開発は三菱重工でドイツのMe163の設計を元としているが、設計図の一部しか日本には届かなかったため独自開発の部分が多い。1号機は1945年7月に初飛行をしたが上昇中にエンジン停止、滑空の後に大破した。2回目の飛行を準備中に終戦となる。

 

局地戦闘機 秋水 〜概要〜

 

性能

全幅 9.5m
全長 5.95m
全高 2.7m
自重 1,445kg
最大速度 800km/h(高度10,000m)※(900km/h説もあり)
上昇力 10,000mまで3分30秒
上昇限度  - m
エンジン出力 推力1,500kg(特呂二号)
航続距離 高度10,000mまで全力上昇後、800km/hで1分15秒
乗員 1名
武装 30mm機銃2挺
設計・開発 高橋己治郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

02_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 ドイツで実用化されたロケット戦闘機Me163コメートの資料を遣独潜水艦によって入手した日本軍は、陸海軍共同で開発を開始することを決定した。設計方針の違いから意見が対立したものの結局、海軍名秋水、陸軍試作機番号キ200として三菱重工によって開発することとなった。

 1944年8月7日、陸海軍は三菱重工に対して試作機の開発を正式に指示した。これに対して三菱重工は高橋己治郎技師を設計主務者として開発を開始した。資料がドイツから届いたといっても届いた資料は簡単な図面と設計説明書等、ごくわずかであったが、1944年11月には設計完了、12月には試作1号機が完成した。

 形状はMe163とほとんど変わらなかったが、Me163が20mm機銃を搭載したのに対して秋水は30mm機銃を搭載したためもあって全体的に秋水よりも少しだけ大型化していた。主翼の桁、垂直尾翼は木製で胴体はジェラルミン製でセミモノコック構造、外板もジェラルミンを使用していた。

 降着装置は主車輪と尾輪、橇によって構成されており、離陸時には主車輪を使用、離陸完了と同時に投下、着陸時は橇を使用する構造になっていた。武装は30mm機銃であるが、同じ機銃であっても海軍は五式30mm機銃、陸軍は口径30mmホ155機関砲を搭載する計画であった。

 エンジンは特呂二号(海軍名「KR10」)で秋水の開発以前から研究されていたもので水素に水化ヒドラジンとメタノールの混合液を反応させ高温高速ガスを発生させるというものであった。開発の中心になったのは三菱の持田勇吉技師であったが、開発を主導していたのは陸軍で海軍空技廠の技術も必要という複雑な中での開発であった。試作機の完成と同時にエンジンも完成するはずであったが、未知の分野であり資料も乏しかったため開発が難航、完成は1945年6月になった。

 

 

練習用グライダー秋草

03_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 この秋水の搭乗員訓練用に実物と同じ大きさ、形状のグライダーも製作された。これは無尾翼滑空機秋草(MXY8。陸軍名「ク13」)で1944年12月26日に初飛行に成功している。この初飛行は高度3,000mまで航空機により曳航されたのち切り離されるというものでテストパイロットは秋水のテストパイロットでもある犬塚豊彦大尉で、犬塚大尉の操縦により無事に着陸に成功した。

 さらには重滑空機と呼ばれる実機から動力装置、タンク類、兵装等を取り除いた機体で2機が製作され陸海軍に各1機引き渡された。初飛行は、1945年1月8日に犬塚大尉の手によって行われた。高度1,700mまで曳航された後、滑空しながら無事に着陸した。陸軍でもク13(海軍名「秋草」)や重滑空機の試験を行っていたが、1945年8月10日、訓練中の事故により機体は大破、搭乗員は重傷を負った。

 秋水の初飛行は1945年7月7日で滑空機と同じく犬塚大尉の手によって行われたが、上昇中にエンジンが停止、飛行場に滑り込むことには成功したものの機体は大破、犬塚大尉は重傷、翌日に死亡した。原因は燃料を1/3に減らした状態で試験を行ったため、上昇中に機体の姿勢と加速の関係で燃料取り出し口に燃料が入らなくなってしまったことであった。この燃料を1/3に減らしたのは秋水部隊である312空司令柴田武雄大佐が傾倒していた新興宗教による「お告げ」が原因であったとも言われている。

 

キ202 秋水改(計画のみ)

 秋水(キ200)の航続時間延長型である。全体的に秋水よりも一回り大きく、エンジンは特呂三号液体燃料ロケットで最大飛行時間が秋水の6分36秒から10分28秒に増大していたが、実現さえることなく計画のみで終わった。他にも武装を30mm1挺、車輪を廃してカタパルト発射式としたJ8M2等も計画されていた。

 

生産数

 試作機が2機、量産機が5機完成していた。他にも10機がほぼ完成という状態であった。終戦時には5機が残存していた。内3機を米軍が接収、米国で1機のみが現存している。

 

まとめ

 

 秋水はそれまで別々に同じような性能の航空機を開発していた日本陸海軍が共同で開発した画期的な機体であった。しかし遅きに失した感はある。秋水は実用化されなかったものの、仮にされたとしても燃料の調達や整備、生産、秋水自体の安全性から見ても戦果は挙げられなかった可能性が高い。

 

 

 

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01_月光
(画像は夜間戦闘機月光 wikipediaより転載)

 

 夜間戦闘機 電光とは、太平洋戦争開戦後に愛知航空機によって開発されていた夜間戦闘機で日本では初めての夜間戦闘機として設計された機体であった。斜め銃としても機能する機首の可動式20mm機銃等の新機能や排気タービン過給器の装備により高高度での高性能が見込まれていたが、試作1号機の完成直前に空襲により被爆焼失、そのまま終戦となった。

 

夜間戦闘機 電光 〜概要〜

 

性能(誉24型装備機の計画値)

全幅 17.50m
全長 17.50m
全高 4.25m
自重 6,820kg
最大速度 690km/h(高度10,000m)
上昇力 6000mまで8分15秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,890馬力(誉24型)2基
航続距離 2,477km(巡航5時間、全力30分)
武装 30mm機銃1挺、20mm機銃4挺
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発
乗員 2名
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

開発

 1943年、海軍は愛知航空機に十八試丙戦闘機試製電光の開発が指示された。これは陸海軍で夜間戦闘機として開発された最初で最後の機体であった。愛知航空機には以前から内示が出ており、尾崎紀男技師を設計主務者として研究を行っていた。1943年11月には基礎設計を開始、1944年8月には実大模型審査が行われた。1945年8月には試作1号機が完成する予定で、2号機も疎開先の岐阜工場で組み立てを開始していた。

 電光は、自重6,820kg、全備重量が9,695kgという超大型戦闘機であった。これは同じく夜間戦闘機に改修された大型戦闘機の月光の自重が4,562kg、全備重量が7,527kgであることからその大きさが分かるであろう。そのため、エンジンは排気タービン過給器装備の誉24型(1,890馬力)2基で、プロペラは直径3.45m定速式4翅プロペラを採用された。翼面荷重が206kg/屬肪する本機は、離着陸時にも高揚力が必要なため、フラップには親子フラップを採用、補助翼の一部もフラップとして機能するようになっていた。さらに敵攻撃時の抵抗板もフラップ兼用となっていた。

 

武装

 武装は、機首中央に五式30mm機銃1挺(弾数100発)、その左右斜め下に九九式2号4型20mm機銃各1挺(弾数各200発)が装備された。中央の30mm機銃は固定式であるが、左右の20mm機銃は30度まで上向させることが可能で斜め銃として使用することが出来る。この操作は操縦席内の操作レバーによって行う。これらの機銃は操縦席内において20mm機銃のみの発射または30mm機銃、20mm機銃の同時発射が選択できるようになっていた。

 さらに偵察機の後方には20mm機銃(弾数各200発)2挺を装備した遠隔操管制銃塔が装備され、爆撃兵装は、250kg爆弾1発、または60kg爆弾4発が装備可能であった。夜間戦闘機に必須のレーダーは十八試空六号または十九試空電波探信儀2号11型が搭載予定であった。

 

予定されていた性能

 生産性の向上にも工夫が凝らしてあり、部品点数の最小化を始め、降着装置、油圧系統の部品は陸爆銀河の部品を流用することとなっていた。さらには資材節約のため可能な限り木材や鉄鋼を使用しておりフラップ、昇降舵、方向舵は何と布張りであった。

 それでも予定されていた性能は高く、最高速度は高度9,000mで668.6km/h、高度10,000mでは690km/h、巡航速度は高度4,000mで451km/h、上昇力は高度6,000mまで8分15秒、9,000mまでは13分、上昇限度は12,500m、航続力は2,477km(巡航5時間、全力30分)であった。

 

生産中止

 このような高性能を期待されていた電光であったが、海軍の試作機の整理統合において試作中止機の候補に挙がってしまう。しかしB29の空襲が予想されることから整理の対象から外されたものの、1944年12月7日には東海大地震により愛知航空機の工場が大被害を受けると同時にB29による名古屋地区の空襲も激化していった。

 1945年6月9日、愛知航空機に対する集中的な空襲があり、これによって完成寸前であった電光試作1号機は被爆焼失してしまった。さらに岐阜工場で製作されていた2号機も終戦直前に空襲により被爆焼失してしまった。

 

生産数

 試作機2機(未完成)

 

まとめ

 

 夜間戦闘機電光は太平洋戦争開戦後に開発が始められた航空機である。残念ながら試作機製作中に空襲により焼失してしまったが、この電光の特徴はその高性能もさることながら、高性能一点張りであった海軍機が生産効率まで考えて製作されたことであろう。さらに陸海軍が協力して当初からこのような効率的な生産を行っていれば、より多くの高性能機を前線に送ることが出来たであろう。

 

 

 

 

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01_F8Fベアキャット
(画像はwikipediaより転載)

 

F8Fベアキャット

 

 小型機に大馬力エンジンを装備するという新しいコンセプトのもとに開発されたレシプロ機である。F8F設計当時の第一線機であったF6Fヘルキャットは堅実な設計によりまとめられた高性能機であった。しかし機体は大型化してしまったため、小型の護衛空母からはカタパルトを使用しないと発艦できなくなってしまった。このためエンジンはF6Fヘルキャットと同じP&W R-2800エンジンを使用したが、機体はF6Fよりも小型化したのがF8Fである。

 この結果、完成したF8F-1は全長8.43m、全幅10.82m、全高4.17m、戦闘重量4,387kg、翼面荷重193.5kg/屐▲┘鵐献鵑P&W R-2800-34W最大2,750馬力で最高速度は689km/h(高度5,730m)に達する。F6F-3の全長10.24m、全幅13.06mと比べると全長で1.81m、全幅2.24mも短縮され、プロペラもF6Fの3.99m3翅に対して3.84m4翅と小型化された。このため日本海軍の零戦よりも小型の機体となった。上昇力は6,096mまで4分54秒と圧倒的であったが、上昇限度は10,607m、武装は12.7mm機銃4挺(各300発)に爆弾搭載量最大1,633kgと少ない。他にも軽量化のために燃料搭載量を減らしたため航続距離は1,778kmとなっている。主翼の折畳方法はF6Fのように複雑な方式ではなく、主翼の外側1/3を上方に跳ね上げるというシンプルな形式となった。

 1943年11月には機体設計が完了、1944年8月21日に初飛行をした。翌年1945年2月に米海軍に納入、VF-19に配備されたが実戦に参加する前に終戦となった。総生産数は1,265機で米海軍と一部の海兵隊航空隊に配備された。しかしこの時期になると戦闘機の趨勢はジェット機に代わりつつあり、これまでの主力戦闘機は戦闘爆撃機に任務を変えて運用されていったのに対して燃料や爆弾の搭載量が少ない本機には戦爆への道はなくジェット戦闘機に道を譲った。

 F8Fの初めての実戦参加は第一次インドシナ戦争で米軍からフランス軍に引き渡された約200機のF8Fが実戦で使用されている。さらにこの200機の内にインドシナ戦争を生き残った28機が南ベトナム空軍に提供された他、タイ空軍に129機供与されている。軽量化と小型化というコンセプトで設計された本機はジェット機の登場によって一気に陳腐化したもの、エアレースではその特性を生かして活躍している。850km/hというレシプロ機最速記録を持っているのも本機である。バリエーションとしては夜戦仕様を始め、機体細部を再設計したF8F-2等がある。

 

 

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01_F4U
(画像はF4U wikipediaより転載)

 

F4Uコルセア

 

 

 F4Uは太平洋戦争開戦前に開発された米海軍艦上戦闘機であまりの高性能から戦前に開発された機体でありながら1950年代まで米軍で使用され続けた。当時の戦闘機は3年ほどで旧式機とされていたことを考えると驚異的である。むろん最後は戦闘機としての運用ではなかったものの設計の優秀さが良く分かる。このF4Uは、当時の米海軍の主力戦闘機F2A(通称バッファロー)の後継機として開発が開始、計画当初から2,000馬力エンジンであるプラット&ホイットニーR-2800エンジンを使用する予定であった。

 初飛行は1940年5月29日で量産機の初飛行が1942年6月25日、量産機の初飛行まで2年以上かかったことになる。最初の型であるF4U-1は、全長10.16m、全幅12.49m、全高4.48m、全備重量5,461kg、翼面荷重187kg屐∈嚢眤度671km/h、上昇力は高度6,066mまで7分42秒、実用上昇限度11,278m、航続距離1,633km、武装は12.7mm機銃6挺、胴体下、翼下合計で907kg分の爆弾を搭載できる。高出力のエンジンに直径約4.06mの大型プロペラを装備したことにより主脚が長くなることが問題視された。この対策として逆ガル翼を採用する。結果、主脚が短くなり同時にパイロットからの視界が良好となった。高速の艦上戦闘機であるためか戦闘機には珍しくダイブブレーキを装備している。

 外観から分かる通り機体は頑丈で、コックピットは防弾版で囲まれており、燃料タンクには自動消火装置が装備されていた。しかし母艦機としては当初の型は致命的で、着陸時に液漏れや失速等の不具合があったため空母での運用は不適とされた。この結果、ほとんどが海兵隊に引き渡されることとなった。実戦配備は1943年からで、1943年2月12日、最初のF4U12機がガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に到着、二日後の2月14日に初空戦を行った。初戦では日本の海軍航空隊に酷い目に遭ったものの、その後は運用方法を改善、その高性能振りを発揮することとなった。F4Uは、その後も陸上基地での運用を行い、ラバウル航空戦を戦い抜いた。そして1945年になると前述の着艦の問題も解決、空母でも運用されるようになっていった。大戦機としてはP51と並んで最強のレシプロ機の一つと言われている。

 戦後は、主力戦闘機の座はジェット機に譲ったものの、何と1953年まで戦闘爆撃機として運用され続けた。1940年に初飛行をした戦闘機としては驚異的な寿命であろう。国外では英軍、フランス軍など数か国で運用された。米国同様、戦後も運用され続け、1979年にホンジュラス空軍から退役したことによりF4Uは全機退役した。長期間使用されたため、F4U-1からF4U-7まで数多くのバリエーションがある。総生産数12,571機。

 

 

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01_F6F
(画像はwikipediaより転載)

 

F6Fヘルキャット

 

 

 グラマン社製米海軍の艦上戦闘機で、開発は1938年3月から開始。1941年6月30日にはXF6F-1として海軍と正式に契約をした。同社製F4Fの後継機で、全長10.24m、全幅13.06m、全高4.39m、エンジンはプラット&ホイットニー(以下P&W)R-2800-10Wで最大で2,110馬力を発揮する。最高速度は599km/h(高度5,486m)で2,000馬力級エンジンの割には低速である。上昇力は6,096mまで7分、上昇限度は11,826m、航続距離2,157kmである。

 武装は12.7mm機関銃6挺(各400発)、2,000ポンド(907kg)爆弾1発、または翼下に1,000ポンド(454kg)爆弾2発を搭載できる。最大で1,800kgの搭載が可能で魚雷も搭載が可能である。F4Fの後継機として奇をてらわない設計であり、強固な構造と生産性を重視している。F4Fが中翼で主脚を胴体に収納したのに対してF6Fは低翼で翼内格納式である。このため前方視界は良好であるが、F4F同様後方視界は悪い。「グラマン鉄工所」と言われるほど頑強であり、防弾装備は総重量96kgにも達する。艦載機として空母内に大量に格納できるようにするためにF4Fと同様に翼を根元から折り畳むことができる。

 試作機はXF6F-1で1942年6月26日初飛行。さらにエンジンをターボチャージャー付R-2600-16に換装したXF6F-2が試作されたものの、1941年には米海軍はP&WR-2800エンジンを使用した試作機の設計を要求したため、同仕様に変更したXF6F-3の試作を開始、フラッター等の不具合はあったものの改善されF6F-3として制式採用された。夜間偵察機仕様、写真偵察機仕様等、多くの派生型があるが、最も多く生産されたのがF6F-5で、これは機体形状や防弾装備を変更したもので7,868機生産された。最後に開発されたのがXF6F-6で、これは最高速度671km/hを記録したものの、後継機F8Fベアキャットがすでに完成していたため量産されることはなかった。太平洋戦争終戦の年の1945年11月に生産終了、総生産数は12,257機である。

 初空戦は対日戦で1943年9月1日である。それ以降、運動性能の良さと頑強な機体、防御装備で日本空軍を圧倒していく。しかし太平洋戦争末期になると同じく米海軍で運用されていた戦闘機であるF4Uコルセアに更新されていった。基本性能の良さでF6Fを上回ると判断された結果であった。戦後は初代ブルーエンジェルスの乗機としても使用されている。第二次世界大戦で米軍が失ったF6Fは合計2,462機で、内訳は、空中戦で失われたのが270機、対空砲火によって撃墜されたのが553機、その他作戦行動中に341機、訓練等で1298機が失われている。米国以外では英国が1,263機を受領している他、フランス軍、ウルグアイ海軍でも使用されている。最後まで使用していたのはウルグアイ海軍で1960年まで使用されていた。

 

 

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01_天雷
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機天雷とは、中島飛行機によって開発された試作局地戦闘機で合計6機が製作された。対大型機迎撃用の双発単座戦闘機で1944年に完成したものの誉エンジンの品質低下による性能低下のため想定したほどの性能が発揮できず制式採用はされなかった。

 

局地戦闘機 天雷 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.50m
全高 3.51m
自重 5,000kg
最大速度 596km/h(高度5,600m)
上昇力 6,000mまで8分
上昇限度 9,000m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型)2基
航続距離 2,740km(増槽装備時)
武装 30mm機銃2挺、20mm機関砲機銃2挺
爆装 60kg爆弾2発
設計・開発 大野和男 中村勝治 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 1942年、海軍は戦闘爆撃機という新しい機種が新設された。この戦闘爆撃機とは攻撃機隊に随伴しての援護や制空を主任務とし、さらに強行偵察や爆撃も行える複座の陸上機であった。このため性能要求は、敵戦闘機以上の速度で敵戦闘機を撃滅できること、夜間戦闘の能力が要求されていた。この戦闘兼爆撃機は同年末、十七試戦闘兼爆撃機として中島飛行機と愛知飛行機に発注されており、1944年初頭に試作機が完成する予定であった。

 当初は戦闘兼爆撃機という機種でスタートした計画であったが、1942年頃には前線ではB17爆撃機の撃墜に苦慮するようになっており、さらにはそれを上回る重爆撃機B29の開発の情報も入ってきた。このため計画は戦闘兼爆撃機から昼間迎撃用の重武装、重装甲の双発単座戦闘機の開発に変更されることとなった。そして翌年の1943年1月、十七試戦闘機兼爆撃機は十八試局地戦闘機試製天雷(J5N1)として再スタートした。

 

開発

 開発命令を受けた中島飛行機は、中村勝治技師を設計主務者として開発を開始、2〜3ヶ月後には大野和男技師に交代しながら開発を継続、1943年9月17日には第一次模型審査、1944年5月には強度試験用の零号機、6月20日には試作1号機が完成した。

 エンジンは中島製誉21型(1,990馬力。陸海軍統合名称「ハ45/21型」)2基、全金属製モノコック構造で翼面荷重は零戦、隼の2倍以上の229.5kg/屬任△辰拭K秒徳置は操縦席前面に厚さ20mmの防弾鋼板、前方風防には厚さ70mmの防弾ガラス、燃料タンクにも防弾処理がされていた。武装は九九式2号4型20mm機銃2挺(弾数各200発)、30mm固定機銃(五式30mm固定機銃1型。弾数各100発)2挺、爆弾は60kg爆弾2発搭載可能であった。

 初飛行は1944年7月8日であったが、大方の期待に反して性能は計画値を下回った。最大速度は計算値では663km/h(高度6,500m)であったのに対して実際は596km/h(高度5,600m)、上昇時間は計算値では6,000mまで6分、8,000mまで9分27秒であったが、実際は6,000mまで8分、8,000mまで11分であった。さらには振動、油漏れとあったエンジン関係のトラブルも相次いだ。フラップとナセルの形状に問題があったこともあったが、原因の多くは、大量生産され、粗悪品が目立ち始めた誉21型エンジンによるものであった。

 想定以下の性能と戦局の悪化に伴い、一旦は整理の対象となったが、B29来襲の可能性が増したため開発を継続、1945年2月には試作6号機まで完成した。しかしここで製作が中止されてしまう。完成した6機の内、5、6号機は前方銃の弾倉を撤去して計測員席を設け複座化、斜め銃も装備して3号機と共に実用実験も行われた。

 

生産数

 試作機6機のみ製作された。1号機、5号機は試験中に脚故障で胴体着陸、2号機は11月25日試験中に着陸大破、4号機は空襲で被爆破損、終戦時にはどちらも30mm斜め銃2門を装備した単座型の3号機と複座型6号機のみが残っていた。戦後、米軍に接収され現在でも機体の一部が残っている。

 

まとめ

 

 天雷は対大型機迎撃の期待を一身に背負って開発されたのであったが、海軍お約束の欲張り性能要求があった上に、誉エンジンの能力低下により期待したほどの性能は発揮できなかった。仮に開発が成功していればB29迎撃に威力を発揮したことであろう。しかし当時の日本の基礎工業力の低さでは設計者がどんな名機を設計したところでそれを精確に製作できる能力はなかった。急速に勃興してきた国の悲しさであろう。

 

 

 

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01_F4F-3
(画像はF4F-3 wikipediaより転載)

 

グラマンF4Fワイルドキャット

 

 

  F4Fはグラマン社が開発した艦上戦闘機で、第二次世界大戦では前半は主力艦上戦闘機として、後半は護衛空母艦載機として全期間にわたって運用された傑作艦上戦闘機である。

 1935年、米海軍はグラマンF3F複葉機に代わる次期艦上戦闘機トライアルを行った。グラマン社は複葉機XF4F-1でこのトライアルに挑戦したものの、ライバルであるブルースター社は、全金属製単葉機F2Aを開発していた。これに対してグラマン社は複葉機であるF4F-1ではF2Aに勝てないと考え、完全に再設計、単葉のXF4F-2を開発した。初飛行は1937年9月2日で、トライアルの結果は速度ではわずかにXF4F-2が優っていたが機動性ではF2Aには及ばなかったため次期艦上戦闘機はF2Aに決定したものの、グラマン社は海軍の許可の下、継続してXF4-2の開発を続けた。そしてエンジンを新たにプラット&ホイットニーR-1830ツインワスプ二段二速過給機付きエンジンに変更、主翼のサイズも拡大するなどしたXF4-3を開発、性能でF2Aを上回ることに成功した。初飛行は1939年2月12日である。

 この時、次期艦上戦闘機に採用されたF2Aはブルースター社初の全金属戦闘機ということで生産が上手くいかず米軍への納入が滞っていたこともあり、1939年8月に海軍はXF4-3、78機の購入を決定した。1940年2月には米海軍に納入開始。1941年10月1日、F4F-3ワイルドキャットとして米海軍に制式採用された。このF4F-3は、全長8.76m、全幅11.58m、全高3.61mで離陸重量3,367kg、エンジンは1,200馬力プラット&ホイットニーR-1830-76 14気筒星型エンジンでプロペラは3翅定速プロペラであった。最高速度は533km/h、航続距離は1,360km、実用上昇限度は12,000m、翼面荷重139kgであった。武装は12.7mm機銃4挺で(1挺あたり450発)、45.4kg(100ポンド)爆弾2発、または燃料タンク2個を翼下に搭載可能であった。

 しかし空母艦載機として考えた場合、F4F-3はあまりにも大型であったため主翼を折り畳める機能を求める声が大きかった。このためF4F-3に主翼を折り畳める機能を搭載、エンジンもR-1830-86ツインワスプエンジン(1,200馬力)に変更、機銃も4挺から6挺(1挺あたり240発)に変更したF4F-4を開発。この機体は1941年4月14日に初飛行に成功している。しかし主翼の折畳装置に加え、機銃を2挺増設したために重量が増加、最高速度は512km/hに低下、上昇力も低下してしまった。さらに機銃の装弾数が1挺あたり450発から240発に減少、射撃の振動も酷くなったことからパイロットからは嫌われたようである。

 1943年になると、グラマンはF4Fの後継機であるF6Fヘルキャットの生産に専念するためにF4Fの生産を終了したが、F4F自体は小型の護衛空母に搭載するための艦載機としては十分な性能を持っていると判断されたため生産は継続されることとなった。但し、生産はグラマン社ではなく、ゼネラルモータース/イースタンエアクラフトで行われることとなり、その際に仕様も変更、評判の悪かった機銃も4挺に戻し、翼下にはロケット弾6発を搭載可能にした。これはFM-1と呼ばれるが、さらにその後、エンジンも1,350馬力R-1820-56に変更、それに合わせて機体も設計を変更したFM-2が開発された。FM-1/2の総生産数は5,280機である。

 F4Fは総生産数が7,860機に達した傑作機あったため、写真偵察用F4F-3P、F4F-7、水上機モデルのF4F-3S、エンジンを換装したF4F-5等多くのバリエーションがある。さらに米国以外でも英国海軍航空隊がマートレットとして採用している他、カナダ海軍も少数機を採用している。

 

 

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01_F2A
(画像はF2A wikipediaより転載)

 

F2Aバッファロー戦闘機

 

 F2A戦闘機とは米国ブルースター社によって製造された全金属単葉戦闘機であった。一般に「バッファロー戦闘機」と呼ばれる。1936年6月に米海軍により発注、1937年12月2日初飛行。1938年6月11日、F2A-1として米海軍に制式採用された。1939年7月には爆撃能力が付与されたエンジン出力増加の改良型のF2A-2が海軍に制式採用、1941年7月には操縦席の防弾版と自動防漏燃料タンクを装備したF2A-3が制式採用されたものの、重量の増加によって運動性能が大きく低下している。

 性能は、最終型のF2A-3で全長8.03m、全高3.66m、全幅10.67m、全備重量3,200kg、翼面荷重164.9kg/屐∈嚢眤度が517km/h、航続距離1,553km、上昇限度10,100m、エンジンは1,200馬力のライトXR-1820-40サイクロンエンジンを搭載している。武装は機首と翼内にそれぞれ12.7mm機銃2挺を装備している。1939年12月8日には、空母サラトガに所属する海軍第3戦闘航空隊(VF-3)に10機が初めて配備された他、1941年12月には第221海兵航空団(VMF-221)にF2A-3 20機が配備、ミッドウェー島防衛に活躍している。しかし全金属製戦闘機の製造経験を持たないブルースター社の製造は遅れ、その間に製造遅延対策のために採用されたグラマン社のF4Fの実戦配備方が進んでしまい、実質的にはF4Fが主力戦闘機となってしまった。さらに敵対国である日本の零戦や一式戦闘機隼に対してほぼ全ての性能で劣っていたこともあり、1942年以降は前線から引き揚げられているために米軍では目立った活躍はしていない。

 米軍以外では、英国や英連邦を構成するオーストラリア軍、ニュージーランド軍、さらにオランダがF2A陸上型をB-339、B-439の名称で購入した。英国では1939年に制式採用、クレタ島に配備されたものの、ドイツ機に太刀打ちできず極東に配備、さらにオーストラリア、ニュージーランド、オランダでも同じく極東地域に配備されている。太平洋戦争開戦後は、当初こそは善戦したものの、低性能、低稼働率から被害が続出、開戦早々に壊滅的な打撃を受けたため第一線からは引退したが、1943年11月まで一部地域の後方で運用された。

 このような中で、唯一活躍したのがフィンランドに輸出された44機で、1940年春にフィンランドに到着。旧式装備ばかりのフィンランド軍にとってはB-239(F2A-1)でも十分に高性能であり、ソビエト空軍に対してB-239 19機の損失に対して477機を撃墜、さらに別の部隊では15機の損失に対して459機を撃墜するという圧倒的な戦果を挙げている。このB-239も第二次世界大戦終了までには消耗を続け、終戦時にはわずか8機のB-239が残っているのみであった。しかし内5機は戦後も運用を続け、1948年9月まで現役であった。総生産数は517機である。現存している機体はフィンランドの中央航空博物館にある1機のみである。

 

 

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01_烈風
(画像は十七試艦戦烈風 wikipediaより転載)

 

 一八試甲戦闘機 陣風とは、海軍が計画した対戦闘機用戦闘機で川西航空機が設計開発を行った。同時期に開発中であった烈風に比べ高高度性能を重視しており、要求性能はほぼ全ての点で烈風を上回っている「全部乗せ」戦闘機であった。開発中のエンジンが完成することを前提に開発が進んでいたがエンジンの完成の目途が立たず開発は中止された。

 

一八試甲戦闘機 陣風 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.50m
全長 10,118m
全高 4.130m
自重 3,500kg
最大速度 685km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで13分20秒
上昇限度 13,600m
エンジン出力 2,100馬力
航続距離 2,055km
武装 20mm機銃(または30mm機銃)2挺、13mm機銃2挺または
   20mm機銃6挺
設計・開発 川西航空機

 

戦闘機を甲戦、乙戦、丙戦に分類

 海軍の戦闘機分類は、艦上戦闘機、局地戦闘機、長距離戦闘機、さらには陸上戦闘機等に分かれていたが、1943年になるとこれらの分類の統合整理が行われ、対戦闘機戦闘を主任務とする「甲戦闘機」、対爆撃機戦闘を主任務とした乙戦闘機、夜間戦闘を主任務とした丙戦闘機の3種類に分類された。対戦闘機戦闘を主任務とする甲戦闘機は、これまでの艦戦、長距離戦闘機が該当し、空戦性能に重点を置き、使用高度4,000mから10,000m、武装は20mm機銃2門、13mm機銃2挺程度と設定されていた。

 かつての局地戦闘機に相当する乙戦闘機は、速度と上昇力に重点が置かれ、使用高度は7,000mから10,000mと高高度での使用を想定していた。武装も対大型機用に重武装であり、20mm機銃2挺、30mm機銃2挺以上としていた。丙戦闘機は夜間行動能力が重視され、高高度性能、安定性、航続力が求められ複座式とされた。1943年以降、海軍はこれらを基準として戦闘機の開発を進めていった。

 

開発

 1943年夏、海軍は、十八試甲戦闘機試製陣風(J6K1)の名称で川西航空機に開発を命じた。この性能要求は凄まじく、最大速度は666.7km/h(高度10,000m)、高度10,000mまでの上昇時間13分以内、航続距離が2,315km、武装が20mm機銃2挺、13mm機銃2挺でさらには防弾装備までが要求されていた。この性能要求は当時、開発中であった十七試艦戦烈風を全ての面で凌ぐものであり、米国で開発中であったF8Fベアキャットの性能すら超えていた。

 しかしこの性能要求を満たせるエンジンは当時の日本にはなく、可能性があるとすれば中島飛行機が開発中であったハ45/42(海軍名「誉42型」)であった。このエンジンは2,100馬力で酸素噴射装置により高度10,000mで1,600馬力を出すことが可能であったものの、このエンジンはまだ開発中であり、酸素噴射装置に関しては実験段階であり、実用化にはほど遠かった。

 これに対して川西航空機は、第二設計課が設計を担当。1943年末に計画の概要が完成、1944年2月には基礎設計を終えた。全幅12.50m、全長10.118m、自重3,500kg、翼面荷重163.5kgの単座戦闘機で、全幅、全長共に零戦よりも1mほど大きいコンパクトな全体的にはオーソドックスな形の機体に設計されていた。主翼は、烈風と同様に主翼には上反角が付けられており、エンジンは上記誉42型、プロペラは直径3.5m4翅プロペラが採用されていた。

 武装は左右翼内のプロペラ圏外に設けられた九九式2号機銃(または五式30mm機銃)2挺、三式13mm機銃2挺、または30mm機銃2挺、三式13mm機銃2挺であった。この三式13mm機銃というのは日中戦争時に中国で鹵獲した米国のブローニングM2機銃をベースにした機銃で1943年9月11日に三式13mm固定機銃1型として制式採用されたものだ。要するに米国製機銃をパクったものだ。その後、九九式2号機銃はのちに最新の一八試20mm機銃に変更、1944年3月には計画が変更され、13mm機銃は廃止、20mm機銃6挺(携行弾数各200発)に増強することとなった。さらに両翼下に250kg爆弾2発、または60kg爆弾4発を搭載可能であった。

 性能は、最大速度が高度10,000mで685.2km/h、着陸速度が130.6km/h、高度10,000mまでの上昇時間が13分20秒、実用上昇限度は13,600m、航続時間が高度4,000mで5時間であった。1944年6月2日には実物大木型審査が行われたが、実在しないエンジン、機銃を使用することを前提とした本機は完成の可能性が低く、同年7月8日に開発中止が決定した。

 

生産数

 計画のみ

 

まとめ

 

 陣風は計画のみの戦闘機であり、完成していれば米国のF8Fすら凌ぐ究極の戦闘機となっていた。全て海軍にとって理想的な計算の下に計画が立てられていたが、実際は、設計の基本となるエンジンすら完成していなかった。「完成していれば世界最強の戦闘機だった」ということは稀に言われるが、完成していないのだからこのような言葉は無意味である。兵器に限らずその他の製品も実現してこそ意味のあるものだ。特に戦時に於いては尚更である。実現できない兵器を賛美しても仕方がないし、このような実現不可能な計画に多くの資材や労力が消費されたことを忘れてはならない。陸海軍問わず、実現可能性の非常に低い計画が他にも多く立案されたが、それに注がれたリソースはすさまじいものであった。

 

 

 

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01_一式戦闘機
02_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争中の軍用機で最も有名な機体は海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」と陸軍の一式戦闘機、通称「隼」の2機種であろう。この2機種、実は使用しているエンジンも同じであれば設計思想も同じで非常に似通った機体なのである。同時期に開発され、またほぼ同時期に改良されたこの2機種の性能を比較してみたい。

 

ゼロ戦 VS 隼 〜概要〜

 

 

 

性能(零戦21型 隼儀拭

全幅 零戦 12.00m
   隼 11.44m
全長 零戦 9.05m
   隼 8.83m
全高 零戦 3.53m
   隼 3.31m
自重 零戦 1,754kg
   隼 1,580kg
最大速度 零戦 533km/h(高度4,700m)
   隼 495km/h(高度4000m)
上昇力 零戦 5,000mまで5分55秒
   隼 5,000mまで5分30秒
上昇限度 零戦 10,008m
   隼 11,750m
エンジン出力 零戦 950馬
   隼 950馬力
航続距離 零戦 2,222km(増槽装備時 3,502km)
   隼 1,146km(増槽装備時 2,600km)
武装 零戦 20mm機機銃2挺、7.7mm機銃2挺 60kg爆弾2発
   隼 12.7mm機関砲2門 100kg爆弾2発
設計開発 零戦 三菱
   隼 中島飛行機

 

開発

03_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 海軍の傑作艦上戦闘機九六式艦戦の後継機として零式艦上戦闘機の開発が始まったのは1937年10月であった。設計主務者は九六式艦戦と同じく堀越二郎。高速化してきた先進国の航空機の進歩に合わせて速度の向上と航続距離の延長、さらには九六式艦戦並の運動性能までも要求するという不可能に近い要求であった。零戦の計画から2ヶ月後である1937年12月、陸軍も九七式戦闘機の後継機の開発がスタートした。無茶な性能要求は陸軍も同様であり、傑作戦闘機九七式戦闘機よりも40km/h以上の速度、1.6倍の航続距離、そして同等の格闘戦能力が要求された。これに対して中島飛行機は小山悌技師を設計主務者として開発をスタートする。

 試作機の完成は陸軍のキ43(のちの一式戦闘機隼)の方が早く、開発指示から1年後の1938年12月には試作1号機が完成した。これに対して十二試艦戦(のちの零戦)は3ヶ月後の1939年3月に試作1号機が完成する。どちらも戦闘機としては初の飛行時に脚が機体内に収納される引込脚、密閉型風防が採用された。エンジンは海軍が瑞星、陸軍は1939年に中島飛行機で開発されたハ25発動機(海軍名「栄」)であった。但し、零戦のエンジンは増加試作機の3号機以降は栄発動機に変更されている。

 

性能

04_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 飛行性能に関しては、キ43は機体が大型化した割には最高速度は495km/hと九七式戦闘機の470km/hより25km/h速いだけであり、航続距離は向上したものの旋回性能では九七式戦闘機に劣っていた。このため発動機をハ25の改良型であるハ105に換装した性能向上型を開発するということで採用は見送られた。

 これに対して零戦は同様に機体は大型化、旋回性能は低下したものの最高速度は533km/hと九六式艦戦を大きく上回っていた。武装は当初キ43は7.7mm機銃2挺のみであったのに対して零戦は20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺と強力であった。陸軍でも当初から12.7mm機関砲を搭載する計画はあったが、12.7mm機関砲の信頼性が今ひとつ担保されないため7.7mm機銃2挺という仕様になったのであった。のちに7.7mm機銃と12.7mm機関砲装備の儀寝機△気蕕12.7mm機関砲2門装備の儀進困開発されている。照準器は零戦のOPL光学照準器に対して隼は旧式の眼鏡型照準器を採用している。

 

零戦21型と隼儀神能比較

 最高速度が零戦の533km/hに対して隼の495km/h、機体設計はどちらも軽量化を重視したため機体強度は低く、零戦、隼共に空中分解事故を起こしている。上昇力は5000mまでの上昇時間が零戦の5分55秒に対して隼が5分30秒と優っている。上昇限度も零戦の10,008mに対して隼は11,750mと隼の方が上である。しかし、それ以外の性能では航続距離が零戦の2,222kmに対して隼の1146kmと半分程度で武装も零戦の20mm機銃2挺と7.7mm機銃2挺に対して、隼は儀進困任12.7mm機関砲2門と貧弱である。さらに照準器は零戦の光学式照準器に比べ、隼の眼鏡型照準器は照準する際に視界が狭くなり不利である。

 

陸海軍戦闘機性能コンテスト

 1941年1月、恒例の陸海軍戦闘機性能コンテストが開催された。これは陸海軍が会し陸海軍の戦闘機の性能比較をするというもので、1941年は海軍が零戦11型、陸軍が一式戦闘機隼儀燭鮖臆辰気擦拭この結果、カタログスペックでは、速度や航続距離は零戦、旋回性能、上昇力では一式戦闘機が優っている筈なのだが、上昇力を含め、すべての点において零戦の性能が優っていたという。これは海軍と陸軍の性能測定環境の違いであり、陸軍は海軍よりも有利な状況で測定した結果であったとみられている。

 

制式採用

05_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、日本は泥沼の日中戦争に突入しており、海軍は九六式陸上攻撃機によって重慶爆撃を行っていたが、九六式艦戦の航続距離では九六陸攻の護衛をすることは出来ず、損害が増していた。これに対して海軍は長大な航続距離を持つ零戦で九六陸攻を護衛するために制式採用される前に零戦を実戦に送り込んだ。制式採用は1941年7月である。これに対して隼は前述の通り陸軍ではあまり評価されておらず、中島飛行機も制式採用を諦めていたが、シンガポール攻略の可能性が検討され始めた結果、陸軍戦闘機の中では航続距離が長い一式戦闘機隼が制式採用されることとなった。零戦の制式採用から1年後のことであった。

 このような経緯から、太平洋戦争開戦時には零戦は南雲機動部隊、第三航空隊、台南航空隊等の第一線部隊にはほぼ配備されていたのに対して、隼が配備されていたのは飛行第59戦隊と第64戦隊の2個飛行戦隊のみであった。以降、零戦、隼共に陸海軍の主力戦闘機として量産されていくが、陸軍が1942年3月に隼の存在を愛称「隼」と共に公表したのに対して、海軍は1943年に至るまで零戦の存在を秘匿し続けた。このため当時日本国内では、零戦よりも隼の方が圧倒的に有名であった。

 

改良型の比較

06_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

隼況燭販軅32・22型

 太平洋戦争中盤になるとどちらの機体も旧式化が顕著となり、零戦、隼共にバージョンアップが行われた。隼が儀燭ら況拭↓祁燭伐良されていく。隼況燭亮腓焚良点はエンジンをハ115(海軍名栄21型)、プロペラを2翅から3翅に変更、主翼翼端を30cm短縮し、隼の弱点である機体強度を改良している。この結果、最高速度は515km/hとなったものの、重量の増加から翼面荷重が124kg/平方メートルとなり水平面の旋回性能が低下、上昇力も儀燭5,000mまで5分30秒から5分49秒、上昇限度も11,750mから11,215mと低下している。試作機は1942年2月に完成、1943年1月頃から実戦配備された。

 この隼況燭試作されるおよそ半年前の1941年7月、零戦32型が初飛行をした。この32型は隼況燭汎瑛佑縫┘鵐献鵑魃21型(陸軍名ハ115)に変更、主翼翼端を50cm短縮している。この改良により航続距離は大幅に減少したものの最高速度は545km/hに向上、上昇力も向上しているが、隼況深舁磴鮹蚕未靴燭燭疇瑛与緤震未寮回性能は低下している。この32型は1942年6月あたりから実戦配備されている。さらに1942年秋には主翼を21型と同様の長さに戻し、燃料タンクを増設した22型が完成。最高速度は541km/hと若干低下したものの、航続距離は歴代零戦中最長となった。隼況親瑛諭1943年1月に実戦配備されている。

 隼況燭販軅32型・22型の比較でも、最高速度が隼況燭515km/hに対して零戦22型でも541km/hと圧倒しており、やはり零戦に軍配が上がるようだ

 

隼祁燭販軅52型

 1943年末、陸軍は中島飛行機に対して隼祁燭寮澤廚鯑蘯─1944年3月に正式に製作命令がでた。主な改良点はエンジンを水メタノール噴射式のハ115競┘鵐献鵑法排気管を推進式単排気管に変更、操縦席前後に厚さ13mmの防弾鋼板が設置されたことである。試作機は1944年12月に初飛行、最高速度は568km/h、航続距離も2,100km、上昇力も5,000mまで5分19秒、上昇限度も11,400mと隼史上最高の数値が出た。量産機になると性能が低下したものの550km/hとそれまでの隼に比べると30km/h以上の高速を発揮している。

 零戦52型は、1943年8月に制式採用された零戦22型の改良型で主翼翼端を再び50cm短縮、32型のように角型ではなく、丸型に成形された。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管は推進式単排気管に変更している。この結果、最高速度は565km/hと零戦中最高速度を記録、最も遅い零戦52型丙でも540km/hを発揮している。上昇限度は11,740mで上昇力は6,000mまで7分1秒、航続距離は1,550kmであった。

 試作機の完成した時期が零戦の1943年夏に対して、隼祁燭1944年12月初飛行は1年半近くの開きがあり、単純な比較は無理があるかもしれないが、この頃になると流石に零戦も改良の限界を迎えたようである。上昇限度以外の性能は、おおむね隼祁燭寮能が零戦を上回っている。この隼祁燭砲覆辰独擦禄蕕瓩椴軅錣鯆兇┐燭箸い┐襦

 

そもそもだねぇ。。。

 

 しかしここで忘れてはならないのは海軍が制空戦闘機をここまで零戦一本で戦ったのに対して、陸軍は1943年には三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風が制式採用、実戦に投入されていることだ。三式戦闘機は1941年12月に試作1号機が初飛行、最高速度が591km/hという高い性能を発揮した。1942年12月には飛行第68戦隊に配備が始まり1943年3月に完了、同年ラバウルに進出している。

 四式戦闘機疾風は1943年3月に完成、4月に初飛行、1944年8月には実戦に投入されている。最高速度は655km/h、上昇力は5,000mまで5分弱、航続距離は2,500kmと圧倒的である。隼対零戦という視点だけでみれば零戦がほぼ圧倒しているものの、陸海軍の戦闘機という視点で見た場合、零戦32型が登場した時点ですでに陸軍は三式戦闘機を完成させており、最高速度だけでも零戦32型の545km/hに対して三式戦闘機の591km/hは圧倒的である。さらに零戦52型に対して四式戦闘機の655km/hとはすでに比較にすらならない。海軍も末期には紫電改を開発するものの生産数は400機程度と圧倒的に少ない。海軍は零戦の高性能に頼り過ぎてしまったようだ。

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

最強の零戦54型丙

 

 1940年に11型が制式採用されて以来、21型、32型、22型、52型、53型、62型、63型とアホみたいにバリエーション展開をしてきた零戦。すでに二番煎じというレベルではなく、柳の下のどじょうも3〜4匹は居たもののさすがに53型、62型くらいになるとかつての駿馬零戦もポンコツ感が増してきた。この最大の理由はエンジンで、零戦開発当時は小型で高出力であった栄エンジンも戦争後期の重武装、重装甲型にシフトしつつある戦闘機を引っ張るには力不足であった。特にこの問題が顕著だったのが62型で、急降下爆撃機型に各部が強化された零戦を飛ばすには非力に過ぎ、最高速度が52型に比べて20km/h以上低下するという事態になってしまった。こうなるともう栄エンジンの性能が限界であることは誰の目にも明らかであった。

 

そもそも金星が好きなの!

02_栄二一型
(栄21型 画像はwikipediaより転載)

 

 1944年11月、海軍は零戦の次期改良型に栄以外を使用することを許可した。これは、上記の理由も少しはあったのかもしれないが、最大の理由は、エンジンの生産関係の問題であったようだ。この時期、栄エンジン生産工場を中島飛行機から石川島へ変更したことにより栄の生産低下が予想されたからのようだ。しかし、これによって、とうとう零戦も新型エンジンを搭載することができるようになったのだった。

 実は零戦のエンジンは当初から栄エンジン一択であった訳ではない。零戦の試作時点で候補に挙がっていたエンジンは、三菱製の瑞星13型と金星46型の二つで、栄エンジンは計画段階では完成していなかった。そして、この二つのエンジンはそれぞれ特徴があり、瑞星は小型であるが非力、金星は大馬力であるが大型であった。設計主務者の堀越技師としては将来性を考えて出力の大きい金星46型を選びたかったが、戦闘機といえば小型の九六式艦戦サイズが当然と思っている搭乗員と海軍。九六戦に比べるとバカでかい零戦に、さらにデカいエンジンを積んでしまっては海軍に採用されないかもしれない。そう考えた末に堀越技師は妥協することにしたようだ。結局、金星は諦めて小型で非力な780馬力瑞星13型を採用、さらに量産機では新しく完成した栄12型エンジンに変更されたという経緯があった(堀越P99)。つまり設計主務者の堀越技師は当初から金星エンジンを搭載したかったのだ。

 

 

最強の零戦完成じゃー!

03_零戦52型丙
(零戦52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

 この金星エンジン採用の要望はマリアナ沖海戦の直後1944年7月に52型丙の開発命令が出た時にも行われた。この時期になるともうすでに栄21型エンジンは性能の限界に達しており、さらに重武装、重装甲を要求された零戦52型丙を栄21型は余裕を持って飛ばすだけの力はなくなっていた。そこで三菱側は零戦のエンジンを栄から金星へと変更を要望した。しかし海軍は、エンジンの換装ともなると大幅に時間がかかるためという理由で却下したのだ。

 その却下から僅か4ヶ月後の1944年11月。海軍によりエンジンの換装も可能にした零戦の改造試作の指示が出された。この結果、三菱設計陣はエンジンを三菱製ハイパワーな金星62型に換装。さらに軽量化のため胴体内13mm機銃の廃止、胴体内燃料タンク以外は防弾版を廃止して自動消火装置に変更する等重量軽減が図られた。エンジンの変更に合わせてカウリングを再設計、プロペラも3翅3.15mのハミルトン定速プロペラに変更された。燃料タンクは胴体内140L1個、翼内215L、外翼内40Lが左右2個で合計650Lに150L増槽を左右翼下に設置可能であった。この燃料搭載量は21型520L、32型480L、22型580L、52型570L、52型、62型の500Lと比べて圧倒的に多く、全零戦中最高である。

 武装は、九九式2号20mm機銃4型2挺(携行弾数各125発)、三式13mm機銃2挺(携行弾数各240発)、性格の違う2種類の機銃を装備するという非合理さは改善されなかったものの、少なくとも52型丙よりは1挺減らして軽量化。爆弾は60kgまでは左右翼下に各1発、500kg、250kg爆弾は胴体下に搭載できるようになっている。これらの変更に伴い重量は軽量化を意識したにもかかわらず零戦中最高重量である3,155kgとなったが、1,560馬力を発揮する金星62型エンジンのおかげで最高速度は海軍資料では572km/h、三菱資料では563km/h、6,000mまでの上昇速度は、海軍資料では6分50秒、三菱資料では6分58秒、上昇限度は海軍資料で11,200m、三菱資料で10,780m、航続距離は全速30分プラス巡航2.5時間となっている。

 

最初から堀越技師の言う通りにしていれば。。。(ボソッ)

04_零戦52型甲
(零戦52型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 最高速度では海軍資料でいえば零戦中最高速、三菱側の資料を基にしてもそれまで最速であった52型と同等であり、上昇力に関しては間違いなく全零戦中最高である。制式採用後には64型と呼ばれる予定であったこの最強の零戦54型丙は、1945年4月下旬に試作1号機が完成、その後2号機も完成したが、この試作機2機のみで量産されることはなかった。量産される前に終戦となってしまったからである。前述のように栄から金星への換装は十二試艦戦当時から要望されていたもので、実は、堀越技師が最も作りたかった零戦の改良型であったという(堀越P356)。

 海軍は航空機に対して過大な要求を行う傾向にあった。零戦のように成功した機体もあったが、万能を要求するあまりに「どっちつかず」の二式陸偵(後の月光)のような機体も生み出してしまった。「仮に」という話をしても仕方がないが、仮に海軍が堀越技師に全てを任せ最初から通して十二試艦戦のエンジンを金星46型にして、以降、金星のバージョンアップ毎に機体を改良していけば、実はこの零戦54型丙、もっと早くに量産、実戦投入が可能であったのだ。少なくとも技術的には可能であった。ホント残念。トホホ。。。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史 5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 堀越二郎「零戦主任設計者の回想(二)」『零戦よもやま物語』 光人社 1995年

 

 

 


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01_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

零戦62、63型とは

 

爆撃戦闘機隊

 「足の速い零戦を爆装させていち早く敵空母群に攻撃をかけ、飛行甲板を使用不能にする」という考えはどうも1943年頃には生まれていたようだ。この戦法を訓練するために、ミッドウェー海戦後に誕生した新生第3艦隊の空母瑞鶴戦闘機隊の中にA攻撃隊という飛行隊が編成された。この飛行隊は2個小隊8名の隊員から成っており、隊長は海兵67期の小林保平大尉、第2小隊長は操練38期のベテラン岡部健二上飛曹が任命された。このA攻撃隊は1943年春頃から爆撃訓練を始めたようであったが、ほぼ勘頼りの爆撃訓練は危険と隣り合わせであった。

 爆弾を命中させるには目標上空1,000mから30°の角度で緩降下、体当たり寸前で爆弾を投下して離脱するというアクロバティックな技であった(杉野P474)。この訓練は内地から始まり、トラック島でも標的艦矢風を使って行われた。トラック島では接近しすぎた1機が標的艦矢風に衝突、搭乗員が死亡してしまうという悲劇も起こった(杉野P474、谷水P48)。それほど危険な攻撃だったのである。しかしこのA攻撃隊を含む瑞鶴戦闘機隊は「ろ」号作戦によりラバウルに進出。実戦で緩降下爆撃を行う機会はなかったようである。

 

そもそも強度がたりないのでね

 大々的に実戦で使用されたのは「あ」号作戦で、第一航空艦隊の戦闘機234機中、零戦21型83機を爆装出撃した(零戦P136)。これは当時の艦上爆撃機彗星が大型高速化していたために軽空母からの発着艦が出来ないことに対する対策という意味もあったようだが、そもそも徹底した軽量化で強度が弱く、何度も空中分解事故を起こしている零戦21型でこの爆撃を行うのは無謀であった。現にベテラン艦攻搭乗員である肥田真幸大尉や梅林上飛曹も零戦に搭乗した際の急降下で翼面に皺が寄っていることやフラッター等を問題としている(肥田P208、梅林P267)。さらに爆弾搭載用の金具の空気抵抗も大きかった。このため、速度や航続距離が低下した他、爆弾投下装置の不具合でそもそも爆弾が投下できないという致命的な問題も発生した。

 

 

機体とエンジンのバージョンを表しているのだ!

02_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

 こうした経験を基にして開発されたのが戦闘爆撃機型零戦の62型又は63型である。「いや、62型と63型ってどっちなのさ?」と思われるかもしれない。ここでこの「62型又は63型」という妙な呼び方について説明しよう。

 零戦62型又は63型、略符号A6M7。海軍航空機の型名の規則については何度も書いているが、簡単に説明したい。○○型というのは一桁目がエンジンのバージョン、二桁目が機体のバージョンである。零戦は11→21→32→22→52→53型と来ているが、21型ではエンジンは変わらないが機体の構造が変更されたため二桁目のみが「2」となり、32型では機体もエンジンも変更されたため「21」から「32」に変更されている。このような法則で52型、53型まで来て、今回の62又は63型となったのだ。

 

エンジン替えてみた(*´∀`*)エヘ!

03_栄31型甲
(栄31型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦62又は63型という変な呼び方を書いているのは、要するにエンジンで「すったもんだ」があったのだ。零戦のエンジンは有名な栄エンジンである。初代が栄12型で、これは11型、21型に搭載されていたエンジンである。そこに二速過給器を装備した栄21型エンジンが完成、32型以降の零戦は全てこのエンジンを搭載した。

 そこに水メタノール噴射式の栄31型エンジンが完成、これは試験的に52型に取り付けられ、53型として試作された。そして海軍はこの新型栄31型エンジンを次期零戦に装備しようと決めた。つまり52型の機体もエンジンも変更するので63型だ。しかし悲しいかな、当時の日本の基礎工業力は貧弱であった。やっと水メタノール噴射式のエンジンを製作したもののうまく作動しない。作動も不完全で馬力も栄21型と大して変わらず、整備だけは煩雑になったという良い所が一つもない状態であった。

 「いやいやさすがにこのエンジンは使えないでしょ」ということで、栄21型に戻すのかと思ったらそうではない。栄31型エンジンから水メタノール噴射装置を廃した栄31型甲エンジンを新たに製作。これを次期零戦に装着した。「いやいやちょっと待てよ。栄31型エンジンの最大の特徴である水メタノール噴射装置を廃してしまったら、ただの栄21型なのでは???」。考えてみれば当然の論理展開である。「だったらもう62型でいいんじゃね?」という感じで栄31型甲を搭載した次期零戦は62型と呼ばれるようになったのではないかと推測されている(秋本P68)。但し、水メタノール噴射装置を装備した栄31型エンジンを搭載した63型も極少数が生産されたようだが、ほとんどが62型であったようだ。

 

 

機体も替えてみた (・ω<)エヘ!

04_零戦63型
(画像はwikipediaより転載)

 

 まあ、エンジンはともかく機体はどこがどう変わったのだろうか。もっとも変わったのは強度だ。零戦は代々機体の強度が低いのが個性といえる。しかしこれは急降下爆撃機仕様としては当然致命傷になるため、何よりも強度を高める改良が行われた。外観上はそんなに変わらないが、外板や隔壁が分厚くなった。そして胴体下に埋め込み式の爆弾投下装置が設けられた。

 この改良によって増槽が装着できなくなってしまったために、増槽を翼下に装着できるように変更された。この増槽は150Lを左右に1個ずつ搭載できる。合計で300L。それまでの零戦の胴体下の増槽が300〜330Lだったのでほぼ同量の燃料を搭載することが可能となった。他にもエンジンを変更したことでエンジンカバーであるカウリングの設計変更も行われている。

 この改良により62型の最高速度は、543km/h(52型は565km/h)となり、高度6,000mまでの上昇時間は7分58秒(52型は7分01秒)、実用上昇限度は10,180m(52型は11,740m)と全ての点で52型を下回っていた。ただ一つだけ52型を上回っていたのは重量で、52型の2,733kgに対して、3,150kgと大幅に上回っていた。武装は翼内に九九式2号20mm機銃2挺(携行弾数各125発)、翼内と機種に13mm機銃3挺(携行弾数各240発)を装備、爆弾は500kg爆弾までが搭載可能であった。

 

もう無理っス!(´;ω;`)ウゥゥ

 この零戦62型、実戦でもスペック通りの性能を発揮したようで、極めて鈍重で戦闘には不向きな機体であったという(土方P225)。さらには新型の栄31型エンジンも信頼性が低くエンジントラブルも多かったようである(土方P246)。同じ部隊にいた安倍正治一飛曹は63型で飛行中、エンジンが止まりそうになっているし(安倍P225)、零戦63型を空輸した草間大尉も同様にエンジンが止まりそうになっている(草間P396)。

 62型の生産は、1945年5月から始まり終戦まで行われ、総生産数は約490機と推定される(秋本P66)。結局、この零戦62型、63型が量産された零戦の最後となった。日中戦争当時の新鋭機も太平洋戦争末期になるとさすがに限界が見えてきた。原因はエンジンの馬力不足で、傑作エンジン栄にが零戦の高性能の源となり、栄の限界が零戦の限界となった。そしてこれが日本の基礎技術力、工業力の限界であったのかもしれない。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 杉野計雄「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』 光人社 2000年
  4. 零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』 原書房 1987年
  5. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  6. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年
  7. 土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』 光人社 2004年
  8. 安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』 光人社 1995年
  9. 草間薫「幻の零戦・六三型丙」『零戦、かく戦えり!』 文芸春秋 2004年

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52189130.html

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 

 


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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 

 


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01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 

 


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01_キ102
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ102とは、キ45(二式複戦屠龍)をベースとして開発された高性能双発機で複座型の襲撃機タイプ、単座の高高度戦闘機タイプが存在した。制式採用はされていなかったが実戦部隊にも配属された。高高度戦闘機タイプは実戦でB29撃墜も記録されている。

 

戦闘・襲撃機 キ102 〜概要〜

 

性能(乙型)

全幅 15.57m
全長 11.45m
全高 3.70m
自重 4,950kg
最大速度 580km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで6分54秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,500馬力
航続距離 2,000km
武装 57mm機関砲1門、20mm機関砲2門、12.7mm旋回機関砲1門
爆装 500kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   50kg爆弾4発または
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 

キ96として設計開始

 キ96は、1942年8月、キ45(二式複戦屠龍)の性能向上型としてキ45兇箸靴椴Ψ海ら川崎航空機に開発が指示された。これに対して川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。4ヶ月後の12月に計画番号がキ96に変更されている。

 このキ96は防空を目的とした双発戦闘機であり、操縦席はキ45兇醗曚覆蠱浦族修気譴拭1943年6月に設計完了。9月には試作1号機が完成.主翼はキ66試作急降下爆撃機のものを翼面積を増大させた上でそのまま流用、翼面荷重は176.4km/屬箸覆辰拭H動機はハ33/62(1,500馬力)で、プロペラは直径3mハミルトン定速式3翅が採用された。武装は前方固定方として機首に37mm機関砲(ホ203)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門を装備している。

 性能は、試作1号機は最高速度600km/h(高度6,000m)。上昇時間が5,000mまで6分。実用上昇限度11,500m。高度10,000mまで17分という新記録を樹立したが、双発戦闘機であっため単発戦闘機のような軽快さがなかったため不採用となった。

 

キ102に変更

 1943年4月、キ96を複座襲撃機に改修することが命ぜられた。さらに6月には、B29迎撃用の高高度戦闘機に改修が命じられる。これらは、高高度戦闘機型をキ102甲、襲撃機型はキ102乙と命名され、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始。1944年1月には設計完了。同年3月試作1号機が完成した。同月キ102丙夜間戦闘機型の試作命令も発令されている。キ102丙は1945年5月に設計完了したが6月28日の空襲で製作中の試作機は破損、そのまま終戦となった。

 

乙型(基本型)

 キ102乙(襲撃機型)は、エンジンにハ112供1,500馬力)を採用。機首に57mm機関砲(ホ401。携行弾数16発)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5。携行弾数各200発。)2門、後席には12.7mm旋回機関砲(ホ103)爆弾架には500kg爆弾1発、または250kg爆弾2発、50kg爆弾4発を搭載することが出来る。最大速度は580km/h(高度6,000m)、上昇時間は5,000mまで6分4秒、実用上昇限度は10,000m、航続距離2,000kmであった。215機が製作され25機が甲型に改造されている。

 

甲型

 甲型はエンジンを排気タービン付きハ112競襪亡港、機首の前方固定砲を37mm機関砲(ホ204。携行弾数35発)1門に変更された以外は乙型と同じであった。1944年11月、B29の空襲激化のため緊急生産指令が出て乙型の内25機が甲型に改修され、15機が陸軍に納入された。性能は上昇限度が10,000m、高度10,000mで最大速度580km/hを出すことが可能であり、高度10,000mまでの上昇時間は18分であった。しかし排気タービン過給器の故障は続出した。

 

丙型(未完成)

 丙型はキ102の夜間戦闘機型であり、夜間における離着陸、高空性能を向上させるため翼面積が増大され、それに伴い機体を安定させるため胴体後部を延長した。風防は操縦席と同乗者の風防を分離、中間に45度の角度で30mm機関砲(ホ155)2門を搭載。胴体下面の20mm機関砲(ホ5)は残されたが、機首砲、後席の旋回砲は廃止された。エンジンはハ112競襪如▲譟璽澄爾療觝椶睛縦蠅気譴討い拭性能は高度10,000mで600km/h、上昇時間は10,000mまで18分、実用上昇限度は13,500m、航続距離は2,200kmになる計画であった。

 

キ108

 1943年4月、陸軍は川崎航空機に対して与圧気密室付き高高度戦闘機キ108の開発を指示、同年8月、川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発に着手した。土井技師はキ102の機体をベースに与圧化することを計画。1944年5月には設計が完了した。7月にはキ102の機体を改修した試作1号機が完成する。胴体を大改修した結果、胴体の全長と全幅は増大した。エンジンはハ112兇鮖藩僉I霑は機首に37mm機関砲(ホ203)、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門搭載予定であったが試作機は、実験機的な性格であったため、実際には搭載されなかった。

 性能は最大速度が高度6,000mで580km/h、高度10,000mで610km/h、上昇時間が高度5,000mまで9分、8,000mまで12分20秒、10,000mまで16〜17分、実用上昇限度は13,500m、航続距離が1,800kmであった。

 

キ108改

 1944年8月、高高度性能を向上させるため翼面積を増大させたキ108改が計画、1945年1月に設計完了。1945年3月には試作1号機が完成する。試作機は2機製造された。エンジンはハ112兇派霑は搭載されていなかった。1945年6月22日と26日の空襲で破壊、試作1号機のみ終戦時残存。

 

生産数

 試作機3機、増加試作機20機。総生産数は215機である。内25機が甲型に改造されている。

 

戦歴

 試作機であるものの215機が生産されたキ102は、一部「五式複戦」とも呼ばれた。襲撃機型である乙型は計爆撃機部隊である飛行第3戦隊、45戦隊、75戦隊に配備された他、1945年6月頃からは戦闘機隊である飛行第28戦隊へも配属、夜間戦闘機として活躍している。高高度戦闘機型である甲型も1942年10月に新設された航空審査部の黒江保彦少佐の手により複数回出撃、1945年3月25日の迎撃戦ではB29の撃墜に成功している。

 

まとめ

 

 キ102はキ45の改良型キ96として計画がスタート、キ96は双発戦闘機として十分な性能を発揮したものの当時の陸軍では高高度迎撃という必要性は認識されていなかったため制式採用はされなかった。仮に制式採用されていたとすれば効率的に量産化が行われ本土防空戦ではB29相手に健闘していたことが予想される。キ102は、悲運といえば悲運な航空機であった。

 

 

 

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01_飛燕甲
(画像は飛燕甲 wikipediaより転載)

 

 キ88は機首に37mm機関砲を装備した単発戦闘機であった。これはハ140エンジンを2基串型に配置したキ64のエンジンの前方エンジンを取り除き、そのスペースに37mm機関砲1門、20mm機関砲2門を装備する予定の機体であった。陸軍の機種統合整理の対象となり1943年に計画終了となった。

 

局地戦闘機 キ88 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.40m
全長 10.20m
全高 4.00m
自重 2,950kg
最大速度 600km/h(高度6000m)
上昇力 5000mまで6分30秒
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,250馬力
航続距離 1,200km
武装 37mm機関砲1門、20mm機関砲(ホ5)2門
設計・開発 土井武夫 川崎飛行機

 

背景から開発まで

 三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師が高速戦闘機キ64の設計中にキ64の2基のエンジンの前方を廃止し、そこに37mm機関砲を装備すれば、対爆撃機用の重武装の単座戦闘機を造ることができるのではないかというアイデアを思い付いたのが計画の始まりであった。

 

開発

 キ64大口径砲搭載のアイデアに目を付けた陸軍は1942年8月にこの研究を採用、キ88局地防空戦闘機の名称で試作を指示した。予定では、試作機2機と増加試作機10機を製作するつもりであったという。これに対して川崎航空機は1943年6月に設計を完了した。同年9月には主翼と胴体が完成、10月より組み立てに入る予定であったが、陸軍の航空機開発の機種統合整理によって計画は中止された。この中止の背景には、当時完成間近であった四式戦闘機の性能が良かったこと、キ88と同様のレイアウトを持った米国製戦闘機P39の性能が芳しくなかったことがあったと言われている。

 現在はモックアップ審査用の写真のみが残されているが、シルエットは三式戦闘機飛燕に似ており、エンジンはハ140特(1500馬力)の使用を予定、武装は機首に37mm砲1門、20mm機関砲2門を機首部分に集中配置する予定であった。

 

バリエーション

 キ88のエンジンを排気タービン過給器付きのハ140甲に換装したキ88改が計画されており、キ88の増加試作機完成後、3機の試作機の製造が予定されていた。

 

生産数

 未完成、計画のみ。

 

まとめ

 

 キ88は陸軍の機種統合整理の対象となり試作機完成直前に計画が中止された機体であった。計画が中止された背景には使用予定であったハ140エンジンの生産は滞っており、完成したエンジンも不調が続いていたことも挙げれられている。このため仮に計画が実現していたとしても活躍できたかどうかは疑わしい。

 

 

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01_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ60は太平洋戦争開戦前に開発された液冷重戦闘機で、三式戦闘機飛燕とは「姉妹機」に当たる。最高速度は560km/hを記録、運動性能も比較的良好であったが同時に開発されていた三式戦闘機飛燕が高性能を発揮したため試作機のみの製作となった。試作機は実戦部隊に配備されている。

 

重戦闘機 キ60 〜概要〜

 

性能

全幅 9.78m
全長 8.40m
全高 2.75m
自重 2,150kg
最大速度 560km/h(高度4,500m)
上昇力 5,000mまで6分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,100馬力
航続距離 - km
武装 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門(3号機のみは12.7mm機関砲4門)
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1939年1月、液冷エンジン搭載航空機の製造にかけては日本では一日の長のある川崎航空機はドイツのダイムラー社との間で液冷エンジンDB601のライセンスを取得、このエンジンを使用する航空機の開発を計画した。

 

開発

02_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月、川崎航空機は陸軍に液冷エンジンを使用する重戦闘機と軽戦闘機の開発計画を提出、翌2月には、川崎は陸軍より重戦闘機キ60、軽戦闘機キ61(のちの三式戦闘機飛燕)の開発が指示された。川崎は、土井武夫技師を設計主務者として以前に不採用となったキ28試作戦闘機を元に開発を開始した。設計は12月に完了、1941年3月には1号機が完成、続いて2〜3号機も完成した。

 キ60は、極力空気抵抗を減らすように設計され、スライド式風防、短縮式内側引込脚、引込式尾輪等の新技術が取り込まれた。翼面荷重(機体重量を翼面積で割った数値)は172kg/屬氾時としてはかなり大きな数値であった。これは零戦、一式戦闘機隼が100kg/崛宛紂二式単戦鐘馗でも157kg/屬任△襪海箸鮃佑┐襪箸修旅發気判るであろう。つまりは「速度は速いが運動性能は低い」機体であった。

 飛行性能は、最大速度560km/h、5,000mまでの上昇時間が6分、実用上昇限度が10,000mであった。重戦闘機キ44(のちの二式単戦鐘馗)やドイツのBf109E(1941年に日本陸軍に3機輸入されている)と模擬空戦を行った比較した場合、性能は対等若しくは優位にあったが、同時に製作していたキ61(のちの三式戦闘機飛燕)が高性能を発揮したため試作機のみで生産は中止された。武装は1、2号機が胴体内に12.7mm機関砲2門、翼内に20mm機関砲2門を装備、3号機は胴体12.7mm機関砲2門、翼内に12.7mm機関砲2門である。

 

生産数

 3機のみ。2機は実戦部隊に配備された後に大破。1機は終戦時まで残存した。

 

戦歴

 試作のみで終わったキ60であるが、1号機と12.7mm機関砲4門を装備した3号機は独立飛行47戦隊に配備された。独立飛行47戦隊は開戦直前の1941年11月に編成された部隊で南方作戦で出現が予想されたスピットファイア戦闘機に対抗するために急遽、制式採用前のキ44(二式単戦鐘馗)増加試作機9機で編成された部隊である。愛称は「かわせみ部隊」または「新撰組」と呼ばれ、戦隊名の「47」は赤穂四十七士に因むと言われている。配備されたキ60はどちらも事故により破損、実戦には投入されていない。

 

まとめ

 

 キ60は川崎航空機が開発した重戦闘機であったが、当初の計画ではキ60を中間機と位置付け、キ60の性能をみた上で改めて本格的な重戦闘機の開発をするというものであった。このため当初から試験機的な性格が強かった戦闘機であった。

 

 

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01_雷電
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

  閃電は単発双胴推進式という珍しい形の局地戦闘機として計画された。計算上の最高速度は759km/hとされており、仮に完成していたとすれば日本ではトップクラスの高速機であっただろう。設計は三菱によって行われていたが、戦局の悪化に伴って計画は中止された。

 

局地戦闘機 閃電 〜概要〜

 

<性能(計算値)>

全幅 12.5m
全長 12.5m
重量 正規状態4886kg、過荷重5255kg
最高速度 759km/h
上昇時間 8000mまで10分
実用上昇限度 12000m
航続距離 -
武装 30mm機関砲1挺、20mm機関砲2挺

 

概要

 閃電は1942年度の試作局地戦闘機として計画されたもので、その計画は1939年に開発が計画された十四試局地戦闘機、後の雷電の後継機としてであった。海軍の性能要求は最大速度が高度8000mで703km/h、巡航速度高度3000mで463km/h、着陸速度148km/h、上昇力高度8000mまで15分、実用上昇限度11000m、航続力2時間プラス全力30分、武装は30mm機関砲1門、20mm機関砲2門というものであった。

 機体は特殊な単発双胴推進式という形式のもので、米国陸軍の戦闘機P38の形状に酷似しているものの推進器はコックピット後方に推進式(後ろにプロペラが付いている形状)となっているためエンジン、プロペラは1基のみである。この形式の機体のメリットとしては機首にプロペラを設置する必要がないため搭乗員の視界を広く確保できること、機種に機銃の集中装備が可能であること等が挙げられる。反面、空冷式発動機の場合、エンジンの冷却に問題が生じること、機体の強度や振動に配慮が必要なこと等が問題として挙げられる。

 三菱はこの計画に大変な熱意を示し、零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師を設計主務者として開発を開始したものの、計画されていたスケジュールとしては1942年末に発注、1943年末に1号機完成、1944年秋に審査完了というものであった。このように全体的な計画自体が無謀であったことや、単発双胴推進式という前例のない形式であったため開発は難航、当初心配されていた空冷エンジンの冷却問題こそ起こらなかったが、プロペラ後流による振動問題やその他の問題が多発、戦局の急速な悪化に伴って実用化の可能性の低い本機は1944年10月に開発の中止が決定した。

 

性能

 エンジンは当時、三菱が開発し、烈風にも搭載されたハ-43エンジン(2200馬力)を搭載する計画で、三菱が試算した計算値では、最高速度759.3km/h、巡航速度500km/h、上昇時間は高度8000mまで10分、実用上昇限度12000mとなっていた。

 

生産数

 0機

 

まとめ

 

 レシプロ機の速度は800km/h前後が限界と言われている。高速になればなるほど空気の流入が少なくなりエンジンの性能低下を起こすのが理由で、その限界値が800km/h前後であるという。閃電は完成こそしなかったものの、航空技術に関して欧米に後れを取っていた日本航空界の挑戦であった。

 機体も古い形に拘らず、三菱技術陣は、日本全体の基礎技術力の低さや戦争の悪化による物資不足、軍部の無理な要求等、不利な条件が重なる中、与えられた環境で最大限の努力をしたといえる。これら当時の航空機業界の挑戦には目をみはるものがある。

 

 

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01_烈風
(画像はwikipediaより転載)

 

艦上戦闘機烈風 〜概要〜

 

 

 烈風は零戦の後継機であるが、開発に紆余曲折があり、結局、試作機が7機のみ完成したに過ぎない。しかし最高速度627km/h、空戦性能も高く、操縦も比較的容易という当時の日本の航空機では卓越した高性能を発揮した機体であった。早期に実戦配備されていれば戦局にも大きな影響を与えたとも言われる。

 

<性能>

全幅 14m
全長 10.995m
翼面積 30.86
自重 3110kg
全備重量 4410kg
最高速度 627.8km/h
上昇時間 6000mまで6分7秒
実用上昇限度 10900m
武装 翼内に九九式2号20mm機銃5型2挺(内側)、三式13mm機銃2挺(外側)
   または九九式2号20mm機銃5型4挺
爆装 60kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 1939年実用機試製四ヵ年計画に三菱十六試艦上戦闘機として初めて計画、1940年末に三菱に試作が内示される。しかし三菱は零戦の改造と十四試局戦(雷電)の開発で手一杯な上に適当な発動機がないことを理由に開発は見送ることとなった。その後、さらに構想を練り直し、1942年4月、十七試艦上戦闘機(A7M1)として計画が再開することとなる。通常、後継機の開発は3年強程度の間隔を置いているが、烈風の場合は5年以上の間隔があり、かなり期間が開いてしまった。

 

開発

 1942年7月6日、十七試艦戦試製烈風の計画要求書が交付された。内容は最高速度638km/h、上昇力6000mまで6分以下、格闘戦性能は零戦と同等以上という厳しいものであった。この要求に対して三菱は零戦の設計で有名な堀越二郎技師を設計主務者として開発を開始、堀越技師は多少大型にはなるが、自社で試作中のMK9Aエンジン(2200馬力)の使用を主張するも海軍は傑作エンジンである誉発動機(1850馬力)の採用を決定した。これがのちの烈風に暗い影を残すこととなる。

 1944年4月19日、試製烈風1号機が完成する。エンジンは誉22型(2000馬力)で空戦性能は高かったが、速度は最高でも574km/h程度までしか出ず、上昇力も6000mまで10分以上と今ひとつの性能であった。これに対して三菱は当初要望していたMK9Aエンジンへ換装した試作機の製作を希望、海軍も換装した機体をA7M2とするとして試作を認めた。その結果、1944年10月初旬、烈風6号機を改造したA7M2試作1号機が完成した。

 

発動機の変更

 元々、発動機換装の可能性を考慮して製作された烈風は重心位置の調整のための部分を再設計した程度で全体の設計にはほとんど影響がなく、再設計も全長が11mm短縮された程度であった。1944年10月13日初飛行をした結果、最大速度は624km/h、6000mまでの上昇時間も6分5秒と大幅に性能が向上した。空戦性能も自動空戦フラップを装備した結果良好であり、試験を担当した空技廠からの意見書には、上記の特徴に加え、操縦が容易である程度未熟な搭乗員でも充分活用できるとした上で、至急生産を開始することを要望していた。

 しかし、当初からMK9Aエンジンを選考から外してしまったためエンジンの生産が行われていなかった上、空襲の影響も甚大であり、生産は遅々として進まなかった。1945年6月、A7M2は烈風11型として制式採用されたが、量産1号機の完成寸前に終戦となった。

 

試製烈風改(計画のみ)

 1944年2月、烈風を高高度用局地戦闘機に改造することが決定した。これはエンジンを過給機付きのMK9A(ハ-43 11型)に変更し(この時点での烈風は誉エンジン搭載予定であった)、武装を30mm固定機銃4挺または6挺(2挺は斜め銃)。最大速度は10200mで633.4km/h、10000mまでの上昇時間が18分15秒とし、1号機の完成時期は1945年3月とされた。

 これはかなりの大改造を必要としており、実現不可能な要求であったものの、1944年11月基礎設計が終わり、12月全面的に了承された。武装は五式30mm固定機銃4挺で携行弾数は60発、過荷重では73発(75発説もあり)であった。防弾装備は風防前面と後方に防弾ガラス、後方に防弾鋼板、燃料タンクには防弾ゴム、消火装置も装備する予定であった。

 計画では全長11.964m、自重3955kg、全備重量5732kg、最大速度が高度10300mで648.2km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで15分30秒となっていた。しかし過給機付きMK9Aをしてもパワーが足りないことが想定され、実現できた可能性は低い。

 

試製烈風性能向上型

 これはエンジンを三速過給機付きハ-43・51型に換装して、武装も20mm機銃6挺に強化、防弾性能も向上させる予定であった。試作1号機の完成が1945年12月であったが、その前に終戦となった。

 計画では最高速度が642.6km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで13分6秒、実用上昇限度が11300m、航続力が巡航2.6時間プラス全力30分となっていた。照準器は四式射爆照準器3型を装備した。3型は対大型機撃墜用である。

 防弾装備は風防前後に防弾ガラスを装備し、胴体内タンクは防弾式、翼内タンクは自動消火装置を設置した。この烈風性能向上型は実現性が高く関係者の期待を集めていた。

 

二十試甲戦闘機(陸風)

 卓越した空力的特性を持った烈風改の機体を若干改良してエンジンをハ-44・21型(二段三速過給機装備)とすることで比較的簡単に次期甲戦ができるというのが狙いであった。エンジンは大型であったが、烈風の機体設計には余裕があったため大きな改造をしなくても搭載可能であると考えられていた。

 最大速度は高度10000mで657km/h以上、上昇力は10000mまで15分以内、空戦性能はA7M2程度という要求であった。1946年に烈風性能向上型が実戦配備され、数年活躍した後、1947年初めから実戦配備するという予定であった。

 

評価

 烈風に関しては、空技廠でテストパイロットを担当した小福田中佐は、視界の良さ、操縦の容易さを絶賛しており、戦後の手記にもういちど操縦して思いっきり飛んでみたいと書くほどの高評価であった。これに対して同じく烈風の試験飛行を行った志賀淑雄少佐は全く逆の評価を下している。

 烈風の乗り心地の良さは認めるものの、とにかく機体が大きく、キレがなくて大味、被弾面積が大きすぎて話にならないと酷評した上で、このような無茶な性能要求をした海軍を批判している。さらには烈風は実戦に間に合わなくてよかったとまで言い切っている。

 テストパイロット2人が真逆の意見となってしまった理由は、恐らく、志賀少佐が烈風に搭乗した日は、1944年5月31日とある。記録が正しければ、この烈風は前月に初飛行をした誉エンジン搭載の「低性能モデル」A7M1で、小福田中佐が搭乗した烈風はA7M2であった可能性が高い。志賀少佐が仮にエンジンをMK9Aに換装した「高性能モデル」A7M2に登場していれば評価も変わったのかもしれない。

 

生産数

 烈風の生産数は試作の7機のみである。試作機のため各機で若干細部が異なっていた。烈風改は部品の一部が完成した程度、以降の型は計画のみで実現していない。現存機なし。

 

まとめ

 

 烈風に関しては上記評価でも書いたように賛否が分かれる機体である。理由の一つとしては全幅14mと艦攻並の大きさであることが挙げられる。これは海軍の無理な性能要求に応えた結果でもあるが、小福田中佐は設計者堀越二郎が将来の拡張性も考慮した結果ではないかとも推測している。

 もしそうだとすれば、零戦がギリギリの機体設計であったため、技術の進歩に対して拡張性がなく小改造を繰り返したことを考慮したのかもしれない。同時期に開発されたスピットファイアやBf109は改良を繰り返し終戦まで一流の性能を維持し続けた。

 烈風には計画のみであったが様々なバリエーションが予定されており、計画のほとんどはエンジンを大型のものに換装することが予定されていたが、機体は若干の改良で済むと想定されていた。これは烈風の機体設計に余裕があったためであり、仮に堀越が拡張性を意識していたとすれば、正に先見の明であったといえる。

 

 

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