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戦闘機

01_一式戦闘機
02_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争中の軍用機で最も有名な機体は海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」と陸軍の一式戦闘機、通称「隼」の2機種であろう。この2機種、実は使用しているエンジンも同じであれば設計思想も同じで非常に似通った機体なのである。同時期に開発され、またほぼ同時期に改良されたこの2機種の性能を比較してみたい。

 

ゼロ戦 VS 隼 〜概要〜

 

 

 

性能(零戦21型 隼儀拭

全幅 零戦 12.00m
   隼 11.44m
全長 零戦 9.05m
   隼 8.83m
全高 零戦 3.53m
   隼 3.31m
自重 零戦 1,754kg
   隼 1,580kg
最大速度 零戦 533km/h(高度4,700m)
   隼 495km/h(高度4000m)
上昇力 零戦 5,000mまで5分55秒
   隼 5,000mまで5分30秒
上昇限度 零戦 10,008m
   隼 11,750m
エンジン出力 零戦 950馬
   隼 950馬力
航続距離 零戦 2,222km(増槽装備時 3,502km)
   隼 1,146km(増槽装備時 2,600km)
武装 零戦 20mm機機銃2挺、7.7mm機銃2挺 60kg爆弾2発
   隼 12.7mm機関砲2門 100kg爆弾2発
設計開発 零戦 三菱
   隼 中島飛行機

 

開発

03_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 海軍の傑作艦上戦闘機九六式艦戦の後継機として零式艦上戦闘機の開発が始まったのは1937年10月であった。設計主務者は九六式艦戦と同じく堀越二郎。高速化してきた先進国の航空機の進歩に合わせて速度の向上と航続距離の延長、さらには九六式艦戦並の運動性能までも要求するという不可能に近い要求であった。零戦の計画から2ヶ月後である1937年12月、陸軍も九七式戦闘機の後継機の開発がスタートした。無茶な性能要求は陸軍も同様であり、傑作戦闘機九七式戦闘機よりも40km/h以上の速度、1.6倍の航続距離、そして同等の格闘戦能力が要求された。これに対して中島飛行機は小山悌技師を設計主務者として開発をスタートする。

 試作機の完成は陸軍のキ43(のちの一式戦闘機隼)の方が早く、開発指示から1年後の1938年12月には試作1号機が完成した。これに対して十二試艦戦(のちの零戦)は3ヶ月後の1939年3月に試作1号機が完成する。どちらも戦闘機としては初の飛行時に脚が機体内に収納される引込脚、密閉型風防が採用された。エンジンは海軍が瑞星、陸軍は1939年に中島飛行機で開発されたハ25発動機(海軍名「栄」)であった。但し、零戦のエンジンは増加試作機の3号機以降は栄発動機に変更されている。

 

性能

04_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 飛行性能に関しては、キ43は機体が大型化した割には最高速度は495km/hと九七式戦闘機の470km/hより25km/h速いだけであり、航続距離は向上したものの旋回性能では九七式戦闘機に劣っていた。このため発動機をハ25の改良型であるハ105に換装した性能向上型を開発するということで採用は見送られた。

 これに対して零戦は同様に機体は大型化、旋回性能は低下したものの最高速度は533km/hと九六式艦戦を大きく上回っていた。武装は当初キ43は7.7mm機銃2挺のみであったのに対して零戦は20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺と強力であった。陸軍でも当初から12.7mm機関砲を搭載する計画はあったが、12.7mm機関砲の信頼性が今ひとつ担保されないため7.7mm機銃2挺という仕様になったのであった。のちに7.7mm機銃と12.7mm機関砲装備の儀寝機△気蕕12.7mm機関砲2門装備の儀進困開発されている。照準器は零戦のOPL光学照準器に対して隼は旧式の眼鏡型照準器を採用している。

 

零戦21型と隼儀神能比較

 最高速度が零戦の533km/hに対して隼の495km/h、機体設計はどちらも軽量化を重視したため機体強度は低く、零戦、隼共に空中分解事故を起こしている。上昇力は5000mまでの上昇時間が零戦の5分55秒に対して隼が5分30秒と優っている。上昇限度も零戦の10,008mに対して隼は11,750mと隼の方が上である。しかし、それ以外の性能では航続距離が零戦の2,222kmに対して隼の1146kmと半分程度で武装も零戦の20mm機銃2挺と7.7mm機銃2挺に対して、隼は儀進困任12.7mm機関砲2門と貧弱である。さらに照準器は零戦の光学式照準器に比べ、隼の眼鏡型照準器は照準する際に視界が狭くなり不利である。

 

陸海軍戦闘機性能コンテスト

 1941年1月、恒例の陸海軍戦闘機性能コンテストが開催された。これは陸海軍が会し陸海軍の戦闘機の性能比較をするというもので、1941年は海軍が零戦11型、陸軍が一式戦闘機隼儀燭鮖臆辰気擦拭この結果、カタログスペックでは、速度や航続距離は零戦、旋回性能、上昇力では一式戦闘機が優っている筈なのだが、上昇力を含め、すべての点において零戦の性能が優っていたという。これは海軍と陸軍の性能測定環境の違いであり、陸軍は海軍よりも有利な状況で測定した結果であったとみられている。

 

制式採用

05_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、日本は泥沼の日中戦争に突入しており、海軍は九六式陸上攻撃機によって重慶爆撃を行っていたが、九六式艦戦の航続距離では九六陸攻の護衛をすることは出来ず、損害が増していた。これに対して海軍は長大な航続距離を持つ零戦で九六陸攻を護衛するために制式採用される前に零戦を実戦に送り込んだ。制式採用は1941年7月である。これに対して隼は前述の通り陸軍ではあまり評価されておらず、中島飛行機も制式採用を諦めていたが、シンガポール攻略の可能性が検討され始めた結果、陸軍戦闘機の中では航続距離が長い一式戦闘機隼が制式採用されることとなった。零戦の制式採用から1年後のことであった。

 このような経緯から、太平洋戦争開戦時には零戦は南雲機動部隊、第三航空隊、台南航空隊等の第一線部隊にはほぼ配備されていたのに対して、隼が配備されていたのは飛行第59戦隊と第64戦隊の2個飛行戦隊のみであった。以降、零戦、隼共に陸海軍の主力戦闘機として量産されていくが、陸軍が1942年3月に隼の存在を愛称「隼」と共に公表したのに対して、海軍は1943年に至るまで零戦の存在を秘匿し続けた。このため当時日本国内では、零戦よりも隼の方が圧倒的に有名であった。

 

改良型の比較

06_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

隼況燭販軅32・22型

 太平洋戦争中盤になるとどちらの機体も旧式化が顕著となり、零戦、隼共にバージョンアップが行われた。隼が儀燭ら況拭↓祁燭伐良されていく。隼況燭亮腓焚良点はエンジンをハ115(海軍名栄21型)、プロペラを2翅から3翅に変更、主翼翼端を30cm短縮し、隼の弱点である機体強度を改良している。この結果、最高速度は515km/hとなったものの、重量の増加から翼面荷重が124kg/平方メートルとなり水平面の旋回性能が低下、上昇力も儀燭5,000mまで5分30秒から5分49秒、上昇限度も11,750mから11,215mと低下している。試作機は1942年2月に完成、1943年1月頃から実戦配備された。

 この隼況燭試作されるおよそ半年前の1941年7月、零戦32型が初飛行をした。この32型は隼況燭汎瑛佑縫┘鵐献鵑魃21型(陸軍名ハ115)に変更、主翼翼端を50cm短縮している。この改良により航続距離は大幅に減少したものの最高速度は545km/hに向上、上昇力も向上しているが、隼況深舁磴鮹蚕未靴燭燭疇瑛与緤震未寮回性能は低下している。この32型は1942年6月あたりから実戦配備されている。さらに1942年秋には主翼を21型と同様の長さに戻し、燃料タンクを増設した22型が完成。最高速度は541km/hと若干低下したものの、航続距離は歴代零戦中最長となった。隼況親瑛諭1943年1月に実戦配備されている。

 隼況燭販軅32型・22型の比較でも、最高速度が隼況燭515km/hに対して零戦22型でも541km/hと圧倒しており、やはり零戦に軍配が上がるようだ

 

隼祁燭販軅52型

 1943年末、陸軍は中島飛行機に対して隼祁燭寮澤廚鯑蘯─1944年3月に正式に製作命令がでた。主な改良点はエンジンを水メタノール噴射式のハ115競┘鵐献鵑法排気管を推進式単排気管に変更、操縦席前後に厚さ13mmの防弾鋼板が設置されたことである。試作機は1944年12月に初飛行、最高速度は568km/h、航続距離も2,100km、上昇力も5,000mまで5分19秒、上昇限度も11,400mと隼史上最高の数値が出た。量産機になると性能が低下したものの550km/hとそれまでの隼に比べると30km/h以上の高速を発揮している。

 零戦52型は、1943年8月に制式採用された零戦22型の改良型で主翼翼端を再び50cm短縮、32型のように角型ではなく、丸型に成形された。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管は推進式単排気管に変更している。この結果、最高速度は565km/hと零戦中最高速度を記録、最も遅い零戦52型丙でも540km/hを発揮している。上昇限度は11,740mで上昇力は6,000mまで7分1秒、航続距離は1,550kmであった。

 試作機の完成した時期が零戦の1943年夏に対して、隼祁燭1944年12月初飛行は1年半近くの開きがあり、単純な比較は無理があるかもしれないが、この頃になると流石に零戦も改良の限界を迎えたようである。上昇限度以外の性能は、おおむね隼祁燭寮能が零戦を上回っている。この隼祁燭砲覆辰独擦禄蕕瓩椴軅錣鯆兇┐燭箸い┐襦

 

そもそもだねぇ。。。

 

 しかしここで忘れてはならないのは海軍が制空戦闘機をここまで零戦一本で戦ったのに対して、陸軍は1943年には三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風が制式採用、実戦に投入されていることだ。三式戦闘機は1941年12月に試作1号機が初飛行、最高速度が591km/hという高い性能を発揮した。1942年12月には飛行第68戦隊に配備が始まり1943年3月に完了、同年ラバウルに進出している。

 四式戦闘機疾風は1943年3月に完成、4月に初飛行、1944年8月には実戦に投入されている。最高速度は655km/h、上昇力は5,000mまで5分弱、航続距離は2,500kmと圧倒的である。隼対零戦という視点だけでみれば零戦がほぼ圧倒しているものの、陸海軍の戦闘機という視点で見た場合、零戦32型が登場した時点ですでに陸軍は三式戦闘機を完成させており、最高速度だけでも零戦32型の545km/hに対して三式戦闘機の591km/hは圧倒的である。さらに零戦52型に対して四式戦闘機の655km/hとはすでに比較にすらならない。海軍も末期には紫電改を開発するものの生産数は400機程度と圧倒的に少ない。海軍は零戦の高性能に頼り過ぎてしまったようだ。

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

最強の零戦54型丙

 

 1940年に11型が制式採用されて以来、21型、32型、22型、52型、53型、62型、63型とアホみたいにバリエーション展開をしてきた零戦。すでに二番煎じというレベルではなく、柳の下のどじょうも3〜4匹は居たもののさすがに53型、62型くらいになるとかつての駿馬零戦もポンコツ感が増してきた。この最大の理由はエンジンで、零戦開発当時は小型で高出力であった栄エンジンも戦争後期の重武装、重装甲型にシフトしつつある戦闘機を引っ張るには力不足であった。特にこの問題が顕著だったのが62型で、急降下爆撃機型に各部が強化された零戦を飛ばすには非力に過ぎ、最高速度が52型に比べて20km/h以上低下するという事態になってしまった。こうなるともう栄エンジンの性能が限界であることは誰の目にも明らかであった。

 

そもそも金星が好きなの!

02_栄二一型
(栄21型 画像はwikipediaより転載)

 

 1944年11月、海軍は零戦の次期改良型に栄以外を使用することを許可した。これは、上記の理由も少しはあったのかもしれないが、最大の理由は、エンジンの生産関係の問題であったようだ。この時期、栄エンジン生産工場を中島飛行機から石川島へ変更したことにより栄の生産低下が予想されたからのようだ。しかし、これによって、とうとう零戦も新型エンジンを搭載することができるようになったのだった。

 実は零戦のエンジンは当初から栄エンジン一択であった訳ではない。零戦の試作時点で候補に挙がっていたエンジンは、三菱製の瑞星13型と金星46型の二つで、栄エンジンは計画段階では完成していなかった。そして、この二つのエンジンはそれぞれ特徴があり、瑞星は小型であるが非力、金星は大馬力であるが大型であった。設計主務者の堀越技師としては将来性を考えて出力の大きい金星46型を選びたかったが、戦闘機といえば小型の九六式艦戦サイズが当然と思っている搭乗員と海軍。九六戦に比べるとバカでかい零戦に、さらにデカいエンジンを積んでしまっては海軍に採用されないかもしれない。そう考えた末に堀越技師は妥協することにしたようだ。結局、金星は諦めて小型で非力な780馬力瑞星13型を採用、さらに量産機では新しく完成した栄12型エンジンに変更されたという経緯があった(堀越P99)。つまり設計主務者の堀越技師は当初から金星エンジンを搭載したかったのだ。

 

 

最強の零戦完成じゃー!

03_零戦52型丙
(零戦52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

 この金星エンジン採用の要望はマリアナ沖海戦の直後1944年7月に52型丙の開発命令が出た時にも行われた。この時期になるともうすでに栄21型エンジンは性能の限界に達しており、さらに重武装、重装甲を要求された零戦52型丙を栄21型は余裕を持って飛ばすだけの力はなくなっていた。そこで三菱側は零戦のエンジンを栄から金星へと変更を要望した。しかし海軍は、エンジンの換装ともなると大幅に時間がかかるためという理由で却下したのだ。

 その却下から僅か4ヶ月後の1944年11月。海軍によりエンジンの換装も可能にした零戦の改造試作の指示が出された。この結果、三菱設計陣はエンジンを三菱製ハイパワーな金星62型に換装。さらに軽量化のため胴体内13mm機銃の廃止、胴体内燃料タンク以外は防弾版を廃止して自動消火装置に変更する等重量軽減が図られた。エンジンの変更に合わせてカウリングを再設計、プロペラも3翅3.15mのハミルトン定速プロペラに変更された。燃料タンクは胴体内140L1個、翼内215L、外翼内40Lが左右2個で合計650Lに150L増槽を左右翼下に設置可能であった。この燃料搭載量は21型520L、32型480L、22型580L、52型570L、52型、62型の500Lと比べて圧倒的に多く、全零戦中最高である。

 武装は、九九式2号20mm機銃4型2挺(携行弾数各125発)、三式13mm機銃2挺(携行弾数各240発)、性格の違う2種類の機銃を装備するという非合理さは改善されなかったものの、少なくとも52型丙よりは1挺減らして軽量化。爆弾は60kgまでは左右翼下に各1発、500kg、250kg爆弾は胴体下に搭載できるようになっている。これらの変更に伴い重量は軽量化を意識したにもかかわらず零戦中最高重量である3,155kgとなったが、1,560馬力を発揮する金星62型エンジンのおかげで最高速度は海軍資料では572km/h、三菱資料では563km/h、6,000mまでの上昇速度は、海軍資料では6分50秒、三菱資料では6分58秒、上昇限度は海軍資料で11,200m、三菱資料で10,780m、航続距離は全速30分プラス巡航2.5時間となっている。

 

最初から堀越技師の言う通りにしていれば。。。(ボソッ)

04_零戦52型甲
(零戦52型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 最高速度では海軍資料でいえば零戦中最高速、三菱側の資料を基にしてもそれまで最速であった52型と同等であり、上昇力に関しては間違いなく全零戦中最高である。制式採用後には64型と呼ばれる予定であったこの最強の零戦54型丙は、1945年4月下旬に試作1号機が完成、その後2号機も完成したが、この試作機2機のみで量産されることはなかった。量産される前に終戦となってしまったからである。前述のように栄から金星への換装は十二試艦戦当時から要望されていたもので、実は、堀越技師が最も作りたかった零戦の改良型であったという(堀越P356)。

 海軍は航空機に対して過大な要求を行う傾向にあった。零戦のように成功した機体もあったが、万能を要求するあまりに「どっちつかず」の二式陸偵(後の月光)のような機体も生み出してしまった。「仮に」という話をしても仕方がないが、仮に海軍が堀越技師に全てを任せ最初から通して十二試艦戦のエンジンを金星46型にして、以降、金星のバージョンアップ毎に機体を改良していけば、実はこの零戦54型丙、もっと早くに量産、実戦投入が可能であったのだ。少なくとも技術的には可能であった。ホント残念。トホホ。。。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史 5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 堀越二郎「零戦主任設計者の回想(二)」『零戦よもやま物語』 光人社 1995年

 

 

 


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01_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

零戦62、63型とは

 

爆撃戦闘機隊

 「足の速い零戦を爆装させていち早く敵空母群に攻撃をかけ、飛行甲板を使用不能にする」という考えはどうも1943年頃には生まれていたようだ。この戦法を訓練するために、ミッドウェー海戦後に誕生した新生第3艦隊の空母瑞鶴戦闘機隊の中にA攻撃隊という飛行隊が編成された。この飛行隊は2個小隊8名の隊員から成っており、隊長は海兵67期の小林保平大尉、第2小隊長は操練38期のベテラン岡部健二上飛曹が任命された。このA攻撃隊は1943年春頃から爆撃訓練を始めたようであったが、ほぼ勘頼りの爆撃訓練は危険と隣り合わせであった。

 爆弾を命中させるには目標上空1,000mから30°の角度で緩降下、体当たり寸前で爆弾を投下して離脱するというアクロバティックな技であった(杉野P474)。この訓練は内地から始まり、トラック島でも標的艦矢風を使って行われた。トラック島では接近しすぎた1機が標的艦矢風に衝突、搭乗員が死亡してしまうという悲劇も起こった(杉野P474、谷水P48)。それほど危険な攻撃だったのである。しかしこのA攻撃隊を含む瑞鶴戦闘機隊は「ろ」号作戦によりラバウルに進出。実戦で緩降下爆撃を行う機会はなかったようである。

 

そもそも強度がたりないのでね

 大々的に実戦で使用されたのは「あ」号作戦で、第一航空艦隊の戦闘機234機中、零戦21型83機を爆装出撃した(零戦P136)。これは当時の艦上爆撃機彗星が大型高速化していたために軽空母からの発着艦が出来ないことに対する対策という意味もあったようだが、そもそも徹底した軽量化で強度が弱く、何度も空中分解事故を起こしている零戦21型でこの爆撃を行うのは無謀であった。現にベテラン艦攻搭乗員である肥田真幸大尉や梅林上飛曹も零戦に搭乗した際の急降下で翼面に皺が寄っていることやフラッター等を問題としている(肥田P208、梅林P267)。さらに爆弾搭載用の金具の空気抵抗も大きかった。このため、速度や航続距離が低下した他、爆弾投下装置の不具合でそもそも爆弾が投下できないという致命的な問題も発生した。

 

 

機体とエンジンのバージョンを表しているのだ!

02_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

 こうした経験を基にして開発されたのが戦闘爆撃機型零戦の62型又は63型である。「いや、62型と63型ってどっちなのさ?」と思われるかもしれない。ここでこの「62型又は63型」という妙な呼び方について説明しよう。

 零戦62型又は63型、略符号A6M7。海軍航空機の型名の規則については何度も書いているが、簡単に説明したい。○○型というのは一桁目がエンジンのバージョン、二桁目が機体のバージョンである。零戦は11→21→32→22→52→53型と来ているが、21型ではエンジンは変わらないが機体の構造が変更されたため二桁目のみが「2」となり、32型では機体もエンジンも変更されたため「21」から「32」に変更されている。このような法則で52型、53型まで来て、今回の62又は63型となったのだ。

 

エンジン替えてみた(*´∀`*)エヘ!

03_栄31型甲
(栄31型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦62又は63型という変な呼び方を書いているのは、要するにエンジンで「すったもんだ」があったのだ。零戦のエンジンは有名な栄エンジンである。初代が栄12型で、これは11型、21型に搭載されていたエンジンである。そこに二速過給器を装備した栄21型エンジンが完成、32型以降の零戦は全てこのエンジンを搭載した。

 そこに水メタノール噴射式の栄31型エンジンが完成、これは試験的に52型に取り付けられ、53型として試作された。そして海軍はこの新型栄31型エンジンを次期零戦に装備しようと決めた。つまり52型の機体もエンジンも変更するので63型だ。しかし悲しいかな、当時の日本の基礎工業力は貧弱であった。やっと水メタノール噴射式のエンジンを製作したもののうまく作動しない。作動も不完全で馬力も栄21型と大して変わらず、整備だけは煩雑になったという良い所が一つもない状態であった。

 「いやいやさすがにこのエンジンは使えないでしょ」ということで、栄21型に戻すのかと思ったらそうではない。栄31型エンジンから水メタノール噴射装置を廃した栄31型甲エンジンを新たに製作。これを次期零戦に装着した。「いやいやちょっと待てよ。栄31型エンジンの最大の特徴である水メタノール噴射装置を廃してしまったら、ただの栄21型なのでは???」。考えてみれば当然の論理展開である。「だったらもう62型でいいんじゃね?」という感じで栄31型甲を搭載した次期零戦は62型と呼ばれるようになったのではないかと推測されている(秋本P68)。但し、水メタノール噴射装置を装備した栄31型エンジンを搭載した63型も極少数が生産されたようだが、ほとんどが62型であったようだ。

 

 

機体も替えてみた (・ω<)エヘ!

04_零戦63型
(画像はwikipediaより転載)

 

 まあ、エンジンはともかく機体はどこがどう変わったのだろうか。もっとも変わったのは強度だ。零戦は代々機体の強度が低いのが個性といえる。しかしこれは急降下爆撃機仕様としては当然致命傷になるため、何よりも強度を高める改良が行われた。外観上はそんなに変わらないが、外板や隔壁が分厚くなった。そして胴体下に埋め込み式の爆弾投下装置が設けられた。

 この改良によって増槽が装着できなくなってしまったために、増槽を翼下に装着できるように変更された。この増槽は150Lを左右に1個ずつ搭載できる。合計で300L。それまでの零戦の胴体下の増槽が300〜330Lだったのでほぼ同量の燃料を搭載することが可能となった。他にもエンジンを変更したことでエンジンカバーであるカウリングの設計変更も行われている。

 この改良により62型の最高速度は、543km/h(52型は565km/h)となり、高度6,000mまでの上昇時間は7分58秒(52型は7分01秒)、実用上昇限度は10,180m(52型は11,740m)と全ての点で52型を下回っていた。ただ一つだけ52型を上回っていたのは重量で、52型の2,733kgに対して、3,150kgと大幅に上回っていた。武装は翼内に九九式2号20mm機銃2挺(携行弾数各125発)、翼内と機種に13mm機銃3挺(携行弾数各240発)を装備、爆弾は500kg爆弾までが搭載可能であった。

 

もう無理っス!(´;ω;`)ウゥゥ

 この零戦62型、実戦でもスペック通りの性能を発揮したようで、極めて鈍重で戦闘には不向きな機体であったという(土方P225)。さらには新型の栄31型エンジンも信頼性が低くエンジントラブルも多かったようである(土方P246)。同じ部隊にいた安倍正治一飛曹は63型で飛行中、エンジンが止まりそうになっているし(安倍P225)、零戦63型を空輸した草間大尉も同様にエンジンが止まりそうになっている(草間P396)。

 62型の生産は、1945年5月から始まり終戦まで行われ、総生産数は約490機と推定される(秋本P66)。結局、この零戦62型、63型が量産された零戦の最後となった。日中戦争当時の新鋭機も太平洋戦争末期になるとさすがに限界が見えてきた。原因はエンジンの馬力不足で、傑作エンジン栄にが零戦の高性能の源となり、栄の限界が零戦の限界となった。そしてこれが日本の基礎技術力、工業力の限界であったのかもしれない。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 杉野計雄「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』 光人社 2000年
  4. 零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』 原書房 1987年
  5. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  6. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年
  7. 土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』 光人社 2004年
  8. 安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』 光人社 1995年
  9. 草間薫「幻の零戦・六三型丙」『零戦、かく戦えり!』 文芸春秋 2004年

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52189130.html

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 


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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


ミリタリーランキング

01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 


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01_キ102
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ102とは、キ45(二式複戦屠龍)をベースとして開発された高性能双発機で複座型の襲撃機タイプ、単座の高高度戦闘機タイプが存在した。制式採用はされていなかったが実戦部隊にも配属された。高高度戦闘機タイプは実戦でB29撃墜も記録されている。

 

戦闘・襲撃機 キ102 〜概要〜

 

性能(乙型)

全幅 15.57m
全長 11.45m
全高 3.70m
自重 4,950kg
最大速度 580km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで6分54秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,500馬力
航続距離 2,000km
武装 57mm機関砲1門、20mm機関砲2門、12.7mm旋回機関砲1門
爆装 500kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   50kg爆弾4発または
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 

キ96として設計開始

 キ96は、1942年8月、キ45(二式複戦屠龍)の性能向上型としてキ45兇箸靴椴Ψ海ら川崎航空機に開発が指示された。これに対して川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。4ヶ月後の12月に計画番号がキ96に変更されている。

 このキ96は防空を目的とした双発戦闘機であり、操縦席はキ45兇醗曚覆蠱浦族修気譴拭1943年6月に設計完了。9月には試作1号機が完成.主翼はキ66試作急降下爆撃機のものを翼面積を増大させた上でそのまま流用、翼面荷重は176.4km/屬箸覆辰拭H動機はハ33/62(1,500馬力)で、プロペラは直径3mハミルトン定速式3翅が採用された。武装は前方固定方として機首に37mm機関砲(ホ203)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門を装備している。

 性能は、試作1号機は最高速度600km/h(高度6,000m)。上昇時間が5,000mまで6分。実用上昇限度11,500m。高度10,000mまで17分という新記録を樹立したが、双発戦闘機であっため単発戦闘機のような軽快さがなかったため不採用となった。

 

キ102に変更

 1943年4月、キ96を複座襲撃機に改修することが命ぜられた。さらに6月には、B29迎撃用の高高度戦闘機に改修が命じられる。これらは、高高度戦闘機型をキ102甲、襲撃機型はキ102乙と命名され、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始。1944年1月には設計完了。同年3月試作1号機が完成した。同月キ102丙夜間戦闘機型の試作命令も発令されている。キ102丙は1945年5月に設計完了したが6月28日の空襲で製作中の試作機は破損、そのまま終戦となった。

 

乙型(基本型)

 キ102乙(襲撃機型)は、エンジンにハ112供1,500馬力)を採用。機首に57mm機関砲(ホ401。携行弾数16発)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5。携行弾数各200発。)2門、後席には12.7mm旋回機関砲(ホ103)爆弾架には500kg爆弾1発、または250kg爆弾2発、50kg爆弾4発を搭載することが出来る。最大速度は580km/h(高度6,000m)、上昇時間は5,000mまで6分4秒、実用上昇限度は10,000m、航続距離2,000kmであった。215機が製作され25機が甲型に改造されている。

 

甲型

 甲型はエンジンを排気タービン付きハ112競襪亡港、機首の前方固定砲を37mm機関砲(ホ204。携行弾数35発)1門に変更された以外は乙型と同じであった。1944年11月、B29の空襲激化のため緊急生産指令が出て乙型の内25機が甲型に改修され、15機が陸軍に納入された。性能は上昇限度が10,000m、高度10,000mで最大速度580km/hを出すことが可能であり、高度10,000mまでの上昇時間は18分であった。しかし排気タービン過給器の故障は続出した。

 

丙型(未完成)

 丙型はキ102の夜間戦闘機型であり、夜間における離着陸、高空性能を向上させるため翼面積が増大され、それに伴い機体を安定させるため胴体後部を延長した。風防は操縦席と同乗者の風防を分離、中間に45度の角度で30mm機関砲(ホ155)2門を搭載。胴体下面の20mm機関砲(ホ5)は残されたが、機首砲、後席の旋回砲は廃止された。エンジンはハ112競襪如▲譟璽澄爾療觝椶睛縦蠅気譴討い拭性能は高度10,000mで600km/h、上昇時間は10,000mまで18分、実用上昇限度は13,500m、航続距離は2,200kmになる計画であった。

 

キ108

 1943年4月、陸軍は川崎航空機に対して与圧気密室付き高高度戦闘機キ108の開発を指示、同年8月、川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発に着手した。土井技師はキ102の機体をベースに与圧化することを計画。1944年5月には設計が完了した。7月にはキ102の機体を改修した試作1号機が完成する。胴体を大改修した結果、胴体の全長と全幅は増大した。エンジンはハ112兇鮖藩僉I霑は機首に37mm機関砲(ホ203)、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門搭載予定であったが試作機は、実験機的な性格であったため、実際には搭載されなかった。

 性能は最大速度が高度6,000mで580km/h、高度10,000mで610km/h、上昇時間が高度5,000mまで9分、8,000mまで12分20秒、10,000mまで16〜17分、実用上昇限度は13,500m、航続距離が1,800kmであった。

 

キ108改

 1944年8月、高高度性能を向上させるため翼面積を増大させたキ108改が計画、1945年1月に設計完了。1945年3月には試作1号機が完成する。試作機は2機製造された。エンジンはハ112兇派霑は搭載されていなかった。1945年6月22日と26日の空襲で破壊、試作1号機のみ終戦時残存。

 

生産数

 試作機3機、増加試作機20機。総生産数は215機である。内25機が甲型に改造されている。

 

戦歴

 試作機であるものの215機が生産されたキ102は、一部「五式複戦」とも呼ばれた。襲撃機型である乙型は計爆撃機部隊である飛行第3戦隊、45戦隊、75戦隊に配備された他、1945年6月頃からは戦闘機隊である飛行第28戦隊へも配属、夜間戦闘機として活躍している。高高度戦闘機型である甲型も1942年10月に新設された航空審査部の黒江保彦少佐の手により複数回出撃、1945年3月25日の迎撃戦ではB29の撃墜に成功している。

 

まとめ

 

 キ102はキ45の改良型キ96として計画がスタート、キ96は双発戦闘機として十分な性能を発揮したものの当時の陸軍では高高度迎撃という必要性は認識されていなかったため制式採用はされなかった。仮に制式採用されていたとすれば効率的に量産化が行われ本土防空戦ではB29相手に健闘していたことが予想される。キ102は、悲運といえば悲運な航空機であった。

 

 

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01_飛燕甲
(画像は飛燕甲 wikipediaより転載)

 

 キ88は機首に37mm機関砲を装備した単発戦闘機であった。これはハ140エンジンを2基串型に配置したキ64のエンジンの前方エンジンを取り除き、そのスペースに37mm機関砲1門、20mm機関砲2門を装備する予定の機体であった。陸軍の機種統合整理の対象となり1943年に計画終了となった。

 

局地戦闘機 キ88 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.40m
全長 10.20m
全高 4.00m
自重 2,950kg
最大速度 600km/h(高度6000m)
上昇力 5000mまで6分30秒
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,250馬力
航続距離 1,200km
武装 37mm機関砲1門、20mm機関砲(ホ5)2門
設計・開発 土井武夫 川崎飛行機

 

背景から開発まで

 三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師が高速戦闘機キ64の設計中にキ64の2基のエンジンの前方を廃止し、そこに37mm機関砲を装備すれば、対爆撃機用の重武装の単座戦闘機を造ることができるのではないかというアイデアを思い付いたのが計画の始まりであった。

 

開発

 キ64大口径砲搭載のアイデアに目を付けた陸軍は1942年8月にこの研究を採用、キ88局地防空戦闘機の名称で試作を指示した。予定では、試作機2機と増加試作機10機を製作するつもりであったという。これに対して川崎航空機は1943年6月に設計を完了した。同年9月には主翼と胴体が完成、10月より組み立てに入る予定であったが、陸軍の航空機開発の機種統合整理によって計画は中止された。この中止の背景には、当時完成間近であった四式戦闘機の性能が良かったこと、キ88と同様のレイアウトを持った米国製戦闘機P39の性能が芳しくなかったことがあったと言われている。

 現在はモックアップ審査用の写真のみが残されているが、シルエットは三式戦闘機飛燕に似ており、エンジンはハ140特(1500馬力)の使用を予定、武装は機首に37mm砲1門、20mm機関砲2門を機首部分に集中配置する予定であった。

 

バリエーション

 キ88のエンジンを排気タービン過給器付きのハ140甲に換装したキ88改が計画されており、キ88の増加試作機完成後、3機の試作機の製造が予定されていた。

 

生産数

 未完成、計画のみ。

 

まとめ

 

 キ88は陸軍の機種統合整理の対象となり試作機完成直前に計画が中止された機体であった。計画が中止された背景には使用予定であったハ140エンジンの生産は滞っており、完成したエンジンも不調が続いていたことも挙げれられている。このため仮に計画が実現していたとしても活躍できたかどうかは疑わしい。

 

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01_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ60は太平洋戦争開戦前に開発された液冷重戦闘機で、三式戦闘機飛燕とは「姉妹機」に当たる。最高速度は560km/hを記録、運動性能も比較的良好であったが同時に開発されていた三式戦闘機飛燕が高性能を発揮したため試作機のみの製作となった。試作機は実戦部隊に配備されている。

 

重戦闘機 キ60 〜概要〜

 

性能

全幅 9.78m
全長 8.40m
全高 2.75m
自重 2,150kg
最大速度 560km/h(高度4,500m)
上昇力 5,000mまで6分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,100馬力
航続距離 - km
武装 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門(3号機のみは12.7mm機関砲4門)
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1939年1月、液冷エンジン搭載航空機の製造にかけては日本では一日の長のある川崎航空機はドイツのダイムラー社との間で液冷エンジンDB601のライセンスを取得、このエンジンを使用する航空機の開発を計画した。

 

開発

02_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月、川崎航空機は陸軍に液冷エンジンを使用する重戦闘機と軽戦闘機の開発計画を提出、翌2月には、川崎は陸軍より重戦闘機キ60、軽戦闘機キ61(のちの三式戦闘機飛燕)の開発が指示された。川崎は、土井武夫技師を設計主務者として以前に不採用となったキ28試作戦闘機を元に開発を開始した。設計は12月に完了、1941年3月には1号機が完成、続いて2〜3号機も完成した。

 キ60は、極力空気抵抗を減らすように設計され、スライド式風防、短縮式内側引込脚、引込式尾輪等の新技術が取り込まれた。翼面荷重(機体重量を翼面積で割った数値)は172kg/屬氾時としてはかなり大きな数値であった。これは零戦、一式戦闘機隼が100kg/崛宛紂二式単戦鐘馗でも157kg/屬任△襪海箸鮃佑┐襪箸修旅發気判るであろう。つまりは「速度は速いが運動性能は低い」機体であった。

 飛行性能は、最大速度560km/h、5,000mまでの上昇時間が6分、実用上昇限度が10,000mであった。重戦闘機キ44(のちの二式単戦鐘馗)やドイツのBf109E(1941年に日本陸軍に3機輸入されている)と模擬空戦を行った比較した場合、性能は対等若しくは優位にあったが、同時に製作していたキ61(のちの三式戦闘機飛燕)が高性能を発揮したため試作機のみで生産は中止された。武装は1、2号機が胴体内に12.7mm機関砲2門、翼内に20mm機関砲2門を装備、3号機は胴体12.7mm機関砲2門、翼内に12.7mm機関砲2門である。

 

生産数

 3機のみ。2機は実戦部隊に配備された後に大破。1機は終戦時まで残存した。

 

戦歴

 試作のみで終わったキ60であるが、1号機と12.7mm機関砲4門を装備した3号機は独立飛行47戦隊に配備された。独立飛行47戦隊は開戦直前の1941年11月に編成された部隊で南方作戦で出現が予想されたスピットファイア戦闘機に対抗するために急遽、制式採用前のキ44(二式単戦鐘馗)増加試作機9機で編成された部隊である。愛称は「かわせみ部隊」または「新撰組」と呼ばれ、戦隊名の「47」は赤穂四十七士に因むと言われている。配備されたキ60はどちらも事故により破損、実戦には投入されていない。

 

まとめ

 

 キ60は川崎航空機が開発した重戦闘機であったが、当初の計画ではキ60を中間機と位置付け、キ60の性能をみた上で改めて本格的な重戦闘機の開発をするというものであった。このため当初から試験機的な性格が強かった戦闘機であった。

 

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01_雷電
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

  閃電は単発双胴推進式という珍しい形の局地戦闘機として計画された。計算上の最高速度は759km/hとされており、仮に完成していたとすれば日本ではトップクラスの高速機であっただろう。設計は三菱によって行われていたが、戦局の悪化に伴って計画は中止された。

 

局地戦闘機 閃電 〜概要〜

 

<性能(計算値)>

全幅 12.5m
全長 12.5m
重量 正規状態4886kg、過荷重5255kg
最高速度 759km/h
上昇時間 8000mまで10分
実用上昇限度 12000m
航続距離 -
武装 30mm機関砲1挺、20mm機関砲2挺

 

概要

 閃電は1942年度の試作局地戦闘機として計画されたもので、その計画は1939年に開発が計画された十四試局地戦闘機、後の雷電の後継機としてであった。海軍の性能要求は最大速度が高度8000mで703km/h、巡航速度高度3000mで463km/h、着陸速度148km/h、上昇力高度8000mまで15分、実用上昇限度11000m、航続力2時間プラス全力30分、武装は30mm機関砲1門、20mm機関砲2門というものであった。

 機体は特殊な単発双胴推進式という形式のもので、米国陸軍の戦闘機P38の形状に酷似しているものの推進器はコックピット後方に推進式(後ろにプロペラが付いている形状)となっているためエンジン、プロペラは1基のみである。この形式の機体のメリットとしては機首にプロペラを設置する必要がないため搭乗員の視界を広く確保できること、機種に機銃の集中装備が可能であること等が挙げられる。反面、空冷式発動機の場合、エンジンの冷却に問題が生じること、機体の強度や振動に配慮が必要なこと等が問題として挙げられる。

 三菱はこの計画に大変な熱意を示し、零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師を設計主務者として開発を開始したものの、計画されていたスケジュールとしては1942年末に発注、1943年末に1号機完成、1944年秋に審査完了というものであった。このように全体的な計画自体が無謀であったことや、単発双胴推進式という前例のない形式であったため開発は難航、当初心配されていた空冷エンジンの冷却問題こそ起こらなかったが、プロペラ後流による振動問題やその他の問題が多発、戦局の急速な悪化に伴って実用化の可能性の低い本機は1944年10月に開発の中止が決定した。

 

性能

 エンジンは当時、三菱が開発し、烈風にも搭載されたハ-43エンジン(2200馬力)を搭載する計画で、三菱が試算した計算値では、最高速度759.3km/h、巡航速度500km/h、上昇時間は高度8000mまで10分、実用上昇限度12000mとなっていた。

 

生産数

 0機

 

まとめ

 

 レシプロ機の速度は800km/h前後が限界と言われている。高速になればなるほど空気の流入が少なくなりエンジンの性能低下を起こすのが理由で、その限界値が800km/h前後であるという。閃電は完成こそしなかったものの、航空技術に関して欧米に後れを取っていた日本航空界の挑戦であった。

 機体も古い形に拘らず、三菱技術陣は、日本全体の基礎技術力の低さや戦争の悪化による物資不足、軍部の無理な要求等、不利な条件が重なる中、与えられた環境で最大限の努力をしたといえる。これら当時の航空機業界の挑戦には目をみはるものがある。

 

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01_烈風
(画像はwikipediaより転載)

 

艦上戦闘機烈風 〜概要〜

 

 

 烈風は零戦の後継機であるが、開発に紆余曲折があり、結局、試作機が7機のみ完成したに過ぎない。しかし最高速度627km/h、空戦性能も高く、操縦も比較的容易という当時の日本の航空機では卓越した高性能を発揮した機体であった。早期に実戦配備されていれば戦局にも大きな影響を与えたとも言われる。

 

<性能>

全幅 14m
全長 10.995m
翼面積 30.86
自重 3110kg
全備重量 4410kg
最高速度 627.8km/h
上昇時間 6000mまで6分7秒
実用上昇限度 10900m
武装 翼内に九九式2号20mm機銃5型2挺(内側)、三式13mm機銃2挺(外側)
   または九九式2号20mm機銃5型4挺
爆装 60kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 1939年実用機試製四ヵ年計画に三菱十六試艦上戦闘機として初めて計画、1940年末に三菱に試作が内示される。しかし三菱は零戦の改造と十四試局戦(雷電)の開発で手一杯な上に適当な発動機がないことを理由に開発は見送ることとなった。その後、さらに構想を練り直し、1942年4月、十七試艦上戦闘機(A7M1)として計画が再開することとなる。通常、後継機の開発は3年強程度の間隔を置いているが、烈風の場合は5年以上の間隔があり、かなり期間が開いてしまった。

 

開発

 1942年7月6日、十七試艦戦試製烈風の計画要求書が交付された。内容は最高速度638km/h、上昇力6000mまで6分以下、格闘戦性能は零戦と同等以上という厳しいものであった。この要求に対して三菱は零戦の設計で有名な堀越二郎技師を設計主務者として開発を開始、堀越技師は多少大型にはなるが、自社で試作中のMK9Aエンジン(2200馬力)の使用を主張するも海軍は傑作エンジンである誉発動機(1850馬力)の採用を決定した。これがのちの烈風に暗い影を残すこととなる。

 1944年4月19日、試製烈風1号機が完成する。エンジンは誉22型(2000馬力)で空戦性能は高かったが、速度は最高でも574km/h程度までしか出ず、上昇力も6000mまで10分以上と今ひとつの性能であった。これに対して三菱は当初要望していたMK9Aエンジンへ換装した試作機の製作を希望、海軍も換装した機体をA7M2とするとして試作を認めた。その結果、1944年10月初旬、烈風6号機を改造したA7M2試作1号機が完成した。

 

発動機の変更

 元々、発動機換装の可能性を考慮して製作された烈風は重心位置の調整のための部分を再設計した程度で全体の設計にはほとんど影響がなく、再設計も全長が11mm短縮された程度であった。1944年10月13日初飛行をした結果、最大速度は624km/h、6000mまでの上昇時間も6分5秒と大幅に性能が向上した。空戦性能も自動空戦フラップを装備した結果良好であり、試験を担当した空技廠からの意見書には、上記の特徴に加え、操縦が容易である程度未熟な搭乗員でも充分活用できるとした上で、至急生産を開始することを要望していた。

 しかし、当初からMK9Aエンジンを選考から外してしまったためエンジンの生産が行われていなかった上、空襲の影響も甚大であり、生産は遅々として進まなかった。1945年6月、A7M2は烈風11型として制式採用されたが、量産1号機の完成寸前に終戦となった。

 

試製烈風改(計画のみ)

 1944年2月、烈風を高高度用局地戦闘機に改造することが決定した。これはエンジンを過給機付きのMK9A(ハ-43 11型)に変更し(この時点での烈風は誉エンジン搭載予定であった)、武装を30mm固定機銃4挺または6挺(2挺は斜め銃)。最大速度は10200mで633.4km/h、10000mまでの上昇時間が18分15秒とし、1号機の完成時期は1945年3月とされた。

 これはかなりの大改造を必要としており、実現不可能な要求であったものの、1944年11月基礎設計が終わり、12月全面的に了承された。武装は五式30mm固定機銃4挺で携行弾数は60発、過荷重では73発(75発説もあり)であった。防弾装備は風防前面と後方に防弾ガラス、後方に防弾鋼板、燃料タンクには防弾ゴム、消火装置も装備する予定であった。

 計画では全長11.964m、自重3955kg、全備重量5732kg、最大速度が高度10300mで648.2km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで15分30秒となっていた。しかし過給機付きMK9Aをしてもパワーが足りないことが想定され、実現できた可能性は低い。

 

試製烈風性能向上型

 これはエンジンを三速過給機付きハ-43・51型に換装して、武装も20mm機銃6挺に強化、防弾性能も向上させる予定であった。試作1号機の完成が1945年12月であったが、その前に終戦となった。

 計画では最高速度が642.6km/h、上昇時間が6000mまで7分30秒、10000mまで13分6秒、実用上昇限度が11300m、航続力が巡航2.6時間プラス全力30分となっていた。照準器は四式射爆照準器3型を装備した。3型は対大型機撃墜用である。

 防弾装備は風防前後に防弾ガラスを装備し、胴体内タンクは防弾式、翼内タンクは自動消火装置を設置した。この烈風性能向上型は実現性が高く関係者の期待を集めていた。

 

二十試甲戦闘機(陸風)

 卓越した空力的特性を持った烈風改の機体を若干改良してエンジンをハ-44・21型(二段三速過給機装備)とすることで比較的簡単に次期甲戦ができるというのが狙いであった。エンジンは大型であったが、烈風の機体設計には余裕があったため大きな改造をしなくても搭載可能であると考えられていた。

 最大速度は高度10000mで657km/h以上、上昇力は10000mまで15分以内、空戦性能はA7M2程度という要求であった。1946年に烈風性能向上型が実戦配備され、数年活躍した後、1947年初めから実戦配備するという予定であった。

 

評価

 烈風に関しては、空技廠でテストパイロットを担当した小福田中佐は、視界の良さ、操縦の容易さを絶賛しており、戦後の手記にもういちど操縦して思いっきり飛んでみたいと書くほどの高評価であった。これに対して同じく烈風の試験飛行を行った志賀淑雄少佐は全く逆の評価を下している。

 烈風の乗り心地の良さは認めるものの、とにかく機体が大きく、キレがなくて大味、被弾面積が大きすぎて話にならないと酷評した上で、このような無茶な性能要求をした海軍を批判している。さらには烈風は実戦に間に合わなくてよかったとまで言い切っている。

 テストパイロット2人が真逆の意見となってしまった理由は、恐らく、志賀少佐が烈風に搭乗した日は、1944年5月31日とある。記録が正しければ、この烈風は前月に初飛行をした誉エンジン搭載の「低性能モデル」A7M1で、小福田中佐が搭乗した烈風はA7M2であった可能性が高い。志賀少佐が仮にエンジンをMK9Aに換装した「高性能モデル」A7M2に登場していれば評価も変わったのかもしれない。

 

生産数

 烈風の生産数は試作の7機のみである。試作機のため各機で若干細部が異なっていた。烈風改は部品の一部が完成した程度、以降の型は計画のみで実現していない。現存機なし。

 

まとめ

 

 烈風に関しては上記評価でも書いたように賛否が分かれる機体である。理由の一つとしては全幅14mと艦攻並の大きさであることが挙げられる。これは海軍の無理な性能要求に応えた結果でもあるが、小福田中佐は設計者堀越二郎が将来の拡張性も考慮した結果ではないかとも推測している。

 もしそうだとすれば、零戦がギリギリの機体設計であったため、技術の進歩に対して拡張性がなく小改造を繰り返したことを考慮したのかもしれない。同時期に開発されたスピットファイアやBf109は改良を繰り返し終戦まで一流の性能を維持し続けた。

 烈風には計画のみであったが様々なバリエーションが予定されており、計画のほとんどはエンジンを大型のものに換装することが予定されていたが、機体は若干の改良で済むと想定されていた。これは烈風の機体設計に余裕があったためであり、仮に堀越が拡張性を意識していたとすれば、正に先見の明であったといえる。

 

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01_震電
(画像はwikipediaより転載)

 

局地戦闘機震電 〜概要〜

 

 震電は太平洋戦争中に九州飛行機によって開発、生産された局地戦闘機である。当時としては珍しい主翼が機体重心より後ろにあるエンテ型と呼ばれる構造になっており、空力的に優れた構造である反面、空冷エンジンの冷却が困難なこと等のデメリットがあった。震電は終戦までに2機が試作され1機が生産ラインに乗っていた。終戦時に破壊されてしまったが、これらの部品を組み合わせて形だけはまともにした1機が現存している。以下は貴重な震電の動画。

 

 

 震電の貴重な動画。かなり画像は荒いが、2回撮影が行われておりフィルムを繋いでいるようだ。滑走した震電のプロペラが曲がっているので、最初の1分40秒位までは1945年7月下旬の撮影で、その後の飛行しているのは翌8月のものであろう。

 

性能

全幅 11.114m
全長 9.76m
正規全備重量 4950kg
最高速度 750km
武装 30mm機関砲4門
爆装 60kgまたは30塲弾4発

 

エンテ式航空機のメリット

 震電は、戦争後半に計画され終戦間際に初飛行をした局地戦闘機で、当時は世界でも珍しいエンテ型(前翼式)戦闘機である。前翼式とは機体前部に小さい前翼をつけ、機体後部に主翼を配置し、エンジンを機体後方に配置するという構造である。エンテ型のメリットは機首に大口径砲を集中装備できること、空力的に優れていること、視界が良好なことが挙げられる。デメリットとしては空冷エンジンを装備した場合、冷却が困難なこと、非常時にパイロットが脱出する際、後部のプロペラに接触してしまう可能性があることがある。

 

開発

 震電の開発は、1944年6月5日、計画要求書が決定されたことに始まる。同時に名称を十八試局地戦闘機震電と決定される。1944年7月、第一次木型審査、9月第二次木型審査、10月風洞実験開始、1945年3月零号機完成、6月10日過ぎ、雑餉隈製作所で1号機完成。7月完成審査という驚異的なスピードで開発された。

 震電の特徴である前翼式は胴体内が有効活用できる半面、外側に点検パネルが多く配置されるため、外皮だけで自重を支える応力外皮構造とするのが難しいため、内側にプレート・ガーダーのような構造を設ける方法が採用された。この構造を採用したことにより生産性、整備性が大幅に向上する結果となった。

 

エンジンと武装

 エンジンは2030馬力「ハ-43・42型」を使用。プロペラは六翅プロペラが採用されたが、4号機以降は四翅プロペラに変更される予定だった。震電はエンジンの位置の変更やプレス機による外板成型、など生産性を考慮した構造になっている。燃料タンクは胴体内に400Lのタンク1個、翼内に200Lのタンク2個が22mmのゴムで防弾されていた。

 さらに翼下面に200Lの落下タンク2個を装備。武装は1945年5月に制式採用された5式30mm固定機銃1型を装備した。5式30mm固定機銃1型は全長2.092m、重量71kg、初速770m/秒、発射速度毎分530発で零戦などに装備された99式2号銃と比較すると重量はほぼ2倍、初速は若干速めであり、発射速度は同等程度である。

 

大きくなった翼面荷重

 震電は速度に特化したため格闘戦性能を上げるための自動空戦フラップの採用は見送られた。翼面荷重も215kgと零戦21型の約2倍になっている。翼面荷重とは機体の重量を翼面積で割ったもので数値が大きくなればなるほど機体重量が重く、翼が小さいことになるので速度は出るが、小回りは効かなくなる。逆に数値が小さくなればなるほど機体重量が軽く翼が大きいことになるので小回りが利くようになるが空気抵抗が大きくなってしまうため速度は落ちる。

 1945年7月下旬、震電は初飛行の日を迎える。しかし離陸直前、プロペラが接地してしまいこの日は飛行中止になってしまう。翌月である1945年8月3日、2号機のプロペラと交換して初飛行。さらに6日、8日と飛行テストが行われた。

 

生産数

 総飛行時間45分、試験で出した最高速度は295km。総生産数1機。ほぼ完成していた2号機が存在する。終戦後、1号機は破壊されるが米国の意向により修復するが飛行可能な状態とはならなかった。現存1機。

 

まとめ

 

 震電は独特の形状から架空戦記やアニメ、漫画の題材になり易く現在もで有名な機体である。画期的な機体ではあったがいかにも時期が遅すぎた。しかし当時の日本の航空技術の到達点として評価することのできる機体である。

 

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01_紫電改
(画像はwikipediaより転載)

 

 紫電改は零戦と並んで戦後最も有名な戦闘機と言っていいだろう。当時、最高のエンジンである誉エンジンを使用した海軍の万能機は同エンジン搭載の陸軍四式戦闘機と並んで日本軍用機史に有終の美を飾った。

 

紫電改 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.99m
全長 9.376m
正規全備重量 3800kg
最高速度 644km/h
航続距離 2392km
武装 20mm機銃4挺、60kg爆弾4発又は250kg爆弾2発

 

開発

 太平洋戦争時の戦闘機で零戦と並んで知名度の高いのがこの紫電改である。紫電改は紫電11型をベースにしたことから紫電改と呼ばれているが、主翼以外はほぼ新規の設計である。太平洋戦争末期に完成し343空で集中運用したことから有名になった。

 紫電を紫電改に改良するという計画は、1943年1月5日、仮称一号局戦兵装強化第三案としてスタートした。紫電の初飛行が1942年12月31日、脚を収納しての初飛行が1943年1月1日なので紫電完成直後に紫電改計画はスタートしたことになる。

 

初飛行まで

 2ヶ月後の1943年3月15日には、仮称一号局地戦闘機改として試作命令が出され、1943年8月1日、試作機の製作開始。この時期に「試製紫電改」と名称を改める。1943年12月31日に試製紫電改が完成、1944年1月1日に初飛行する。やはり母体があったことが作業の省略を可能にしたのだろう。試作命令が出てから初飛行まではわずか9ヶ月である。

 

紫電の視界不良を改良

 主な改良点であるが、まず、中翼から低翼に変更される。胴体は再設計された。胴体の幅は紫電に比べ切り詰められ長さは40cm延長された上、胴体断面形が丸型からおむすび型に変更された。これにより低翼と合わせて視界不良が解消された。

 この視界不良というのはパイロットがコックピットから下方を見た時を想像したもらいたい。中翼であることによって視界不良になるというのは容易に想像できるが、丸型の胴体も同様に下方の視界を妨害しているのだ。コックピットを頂点とする滑らかな三角形にすることで下方の視界を確保した。

 コックピットでいえば、キャノピーは上面の縦通材が廃止されている。脚は低翼化に伴って二段階式引込脚から普通の引込脚に変更。さらに脚の長さが短縮された。これによって100kg以上の重量軽減になった。その他垂直尾翼、水平尾翼にも変更が加えられているが、主翼はほぼ紫電のままである。

 

その他変更点

 武装は20mm機銃4機(九九式2号4型)で4挺とも翼内に収納された。装弾数は内側銃が200発、外側銃が250発である。機首の7.7mm機銃が廃止されたことによって機首の機銃口も廃止された。爆弾搭載量は60kgまたは250kg爆弾2発である。

 主翼はほぼそのまま紫電のものが使用されたのは前述の通りであるが、他にも、紫電や紫電の母体となった水上戦闘機強風で評判の良かった自動空戦フラップや腕比変更装置などはそのまま受け継がれた。部品点数は紫電に比べて大幅に減少しており、部品総数が紫電66000個に対して紫電改は43000個と65%に減少している。これにより生産性の向上が図られた。

 

生産

02_紫電改
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年4月4日、試製紫電改1号機が海軍に引き渡され、1944年7月には量産機の生産を開始している。紫電21型として制式採用されたのが1945年1月なので、紫電改は制式採用前に生産が開始されたことになる。

 生産数と各型の特徴であるが、紫電改は試作機が8機製作されている。量産された機体の内、29号機までは試製紫電改と全く同一である。30号機(51号機説もあり)以降99号機までの70機は20mm機銃が3度上向きに取り付けられている。

 

紫電21型

 初期の生産型。試作機を含み99機が生産された。

 

紫電21甲型

 1945年2月頃から紫電21甲型が生産される。紫電21甲型は爆撃兵装を改修しており、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発搭載可能である。101号機からは垂直尾翼が縮小された。これが200機製造された。100号機のみは試製紫電改と同型の垂直尾翼である。

 

紫電31型(紫電改一)

 201号機以降は紫電31型(紫電改一)に代わる。31型は、機種に三式13mm固定機銃4型を2挺追加。爆弾懸吊装備も電気投下式に変更された。これらの改造によって重心が変わってしまったため発動機架を前方に150mm延長されている。

 

紫電31型(紫電改二)

 この紫電31型は艦上戦闘機化もされた(紫電改二)。この紫電改二は、1944年11月中旬に空母信濃で着艦テストが行われている。

 

紫電32型(紫電改三)

紫電31型のエンジンを低圧燃料噴射式の誉23型に変更したのが紫電32型(紫電改三)である。2機のみ生産された。これも艦上機化されている(紫電改四)。艦上機型はどちらも2機程度生産されたようだ。

 

紫電25型(紫電改五)

 紫電21甲型のエンジンを2200馬力のハ43・11型に変更したのが紫電25型(紫電改五)で、大型化したため機首の13mm機銃は廃止された。生産数は不明。複座型も製作された。これは、紫電21型を複座にしたもので仮称紫電練習戦闘機と呼ばれた。複座になった以外は21型と変更点はない。その他計画のみであるが、エンジンを二段三速過給機付きの誉44型に換装する計画や鋼製化計画もあった。

 

生産数

 生産数は川西飛行機鳴尾工場で362機、同姫路工場で44機、さらに昭和飛行機2機、愛知2機、佐世保の21航空廠で1機、三菱で9機が生産された。合計420機(試作機8機が含まれているかは不明)。戦後3機が米国に輸送された。この3機と1978年に海底から引き揚げられた21型1機の計4機が現存している。

 

戦歴

 真珠湾攻撃時の航空参謀源田實大佐は太平洋戦争末期、最新鋭戦闘機紫電改を配備した精鋭部隊を編成することで制空権を奪回するという構想を抱いていた。この構想により内地では紫電改を集中配備することを予定した部隊343空の編成が始まっていた。のちに「剣」部隊と言われた343空の最初の部隊である戦闘301飛行隊が横須賀で訓練を開始したのは1944年11月下旬であった。

 当初は紫電で訓練を続けていた戦闘301飛行隊であったが、まもなく紫電改が1機到着、訓練を開始した。紫電改の初陣は1944年12月10日で、偵察に現れたB29を戦闘301飛行隊に配備されたたった1機の紫電改が迎撃したものの、B29を捕捉することは出来なかった。12月10日には、343空に戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊が加えられ松山基地で343空が誕生した。

 紫電改はこの時期、343空以外にも横空、横空審査部、空技廠、筑波空にも少数が配備されている。1945年2月16、17日の米機動部隊艦載機による関東空襲の際、これらの紫電改が空戦に参加、特に17日の空戦では海軍のエースパイロット武藤金義少尉がオレンジ塗装の試作機の紫電改で迎撃、衆目の中、12機編隊に単機で突入、内4機を撃墜するという戦果を挙げている。

 1945年2月に入ると343空も紫電改への改編が進み、戦闘301、戦闘701、戦闘403の順で紫電改が配備されていった。この結果、3月1日には3隊合わせて83機の紫電改を装備するに至ったものの可動機は21機に過ぎなかった。343空の初陣は3月13日で、この日会敵することはなかったものの、3月19日には米艦載機の呉方面空襲に際して54機が出撃、敵機撃墜52機を報告した(実際は10機)。これに対して紫電改は12機が被撃墜、4機が大破した。

 4月になると米軍の沖縄上陸が開始されたため、343空も沖縄航空戦に参加するため鹿屋に進出、さらに第一国分基地から松山、大村と進出して制空、迎撃戦に活躍した。5月、6月になると紫電改の消耗に対して機材の補充が間に合わず、出撃を抑制する兵力温存方針が採られるようになった。その後もたびたび出撃したものの、8月に入り終戦となった。

 

まとめ

 

 紫電改の活躍で最も有名なのが、源田實大佐指揮の343空が行った1945年3月19日の空戦であろう。この空戦で敵機52機撃墜(諸説あり)という偉業を達成するが、後年の調査によれば実際に撃墜したのは戦闘機10機のみである。

 これに対して343空の損害は戦闘機16機であり、空戦の結果としては負けているのだが、この時期としては大戦果と言って良かった。その後は紫電改を集中運用した343空も次第に戦力を消耗していく。戦後、紫電改の知名度が高かったのは、この343空での集中運用が理由であろう。だからといって紫電改自体も決して性能が悪かった訳ではない。陸軍の四式戦闘機と並んで第二次世界大戦中の万能戦闘機の一つに数えられている名機である。

 

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01_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式戦闘機は川崎航空機が1935年に開発した陸軍主力戦闘機で初期の日中戦争で活躍した複葉機である。複葉機としては究極の高性能であり、最高速度は400km/hと海軍の九五式艦戦を50km/h近く上回り、九六式艦戦とほぼ同じ速度であったが、複葉機の時代は終わり単翼機が主流となっていく中で最後の複葉戦闘機となった。

 

九五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(二型)

全幅 10.02m
全長 7.55m
全高 3.3m
自重 1,360kg
最大速度 400km/h
上昇力 5,000mまで5分00秒
上昇限度 11,500m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,100km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)
設計・開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1934年9月陸軍は川崎航空機にキ‐10、中島飛行機にキ‐11の試作を命じた。特に川崎航空機は九三式単軽爆撃機の発動機不調、九二式戦闘機の後継機として開発したキ-5の不採用により経営状態が悪化していたためこのキ-10にかける熱意は凄まじかった。そして初の日本人スタッフのみでの設計の機体であった。

 

開発

02_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年9月、試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始、わずか6ヶ月後の1935年3月には試作1号機が完成した。前作では斬新な逆ガル翼の機体であったが、今回は保守的に複葉機となった。エンジンはドイツBMW製エンジンを独自に改良した800馬力ハ-9兇鮑陵僉金属製の骨組みに羽布を張った構造となった。

 1935年7月には、中島飛行機に製作が命じられたキ-11と共に比較審査が行われた。この結果、キ-10は最高速度400km/hとキ-11に15km/hほど劣っていたが、上昇力、運動性能、操縦性は断然優っていたため1935年9月に陸軍の次期主力戦闘機はキ-10に内定、11月に制式採用された。生産は12月から始まり、同時に2型の設計もスタートした。

 

二型

 1935年12月に設計がスタートした。一型は高性能ではあったが安定性に問題があり、その問題を解消するのと同時に格闘戦性能を向上させるというのが二型の目的であった。試作機は1936年11月に完成、優秀な成績で審査をクリア制式採用され、1937年6月より生産が開始された。これに伴って1型の生産は1937年10月で打ち切られている。

 一型に比べ二型は翼面積が増大し、同時に重量も増大したが、翼面積が増大したため翼面荷重は減少している。最大速度、上昇速度、航続距離は1型とほとんど変わりはないが、実用上昇限度が11,500mと向上、当初の狙いであった安定性も向上した。

 

1型性能向上第2案型(キ10-飢)

 第1案型が制式採用され2型となったのとは別に第2案型も製造されていた。設計開始は1936年4月で10月に試作機が完成している。これは翼断面型や冷却器、脚支柱等の変更を行ったもので、これにより最大速度が420km/hと1型よりも20km/h向上していたが、2型が成功したために1機生産されたのみで終わった。

 

1型性能向上第3案型(キ10-恐)

 1937年3月、1型第1案(2型)のエンジン、冷却器、脚、風防を改修した第3案の設計が開始され、同年11月に試作1号機が完成した。これはエンジンを850馬力ハ9恐気亡港し、風防を川崎航空機初の密閉式風防に変更されたものであった。性能は2型と大きく変わらないが、最大速度は440km/hと2型よりもさらに20km/h向上した。同時に安定性、運動性能も向上している。複葉戦闘機としては究極の機体ではあったが、当時、はるかに高性能であったキ-27(のちの九七式戦闘機)が制式採用されたため2機が試作されたのみである。

 

生産数

 総生産数は、1型試作機4機、量産機300機、2型試作機1機、量産機280機、性能向上機第2案型1機、第三案型2機の合計588機である。

 

戦歴

 制式採用された翌年の1936年になると九五式戦闘機はいよいよ実戦部隊に配備されることとなった。配備された部隊は第4、6、8、9、16飛行連隊である。1937年7月に盧溝橋事件が勃発すると満洲に展開していた関東軍所属の第16飛行連隊が中国大陸に進出、9月にはダグラスO-38観測機と空戦になり4機を撃墜、日本陸軍初の撃墜を記録した。

 続いて内地で編成された臨時航空団が中国大陸に進出、九五式戦闘機を装備している飛行第2大隊(定数24機)、第8大隊(定数24機)、独立第9中隊(定数12機)も航空団と共に奉天に進出、順次華北戦線に参加していった。戦線が華北から華中に広がるにつれ陸軍航空隊も華中戦線に参加、九五式戦闘機装備の独立飛行第10中隊が最初に上海に進出したのち、南京攻略戦に活躍する。その後も防空や地上部隊との直協任務に活躍するが1938年7月には九七式戦闘機に改変された。

 一方、第8大隊は1937年12月に南京に進出、翌年にかけて各種作戦に参加している他、第2大隊も河南省彰徳(現在の安陽市)に進出、3月の第一次帰徳空戦では第1中隊(隊長加藤建夫)が「七度重なる感状」の最初の感状を授与されている。1938年夏になると陸軍航空隊はこれまでの連隊編成から戦隊編成に改変、第2大隊と独立第9中隊が合流して飛行第64戦隊が誕生している。この中隊は後に「加藤隼戦闘隊」として有名になる部隊である。改編時には第2中隊、第3中隊が九五式戦闘機を装備していたが、1938年中に全部隊が九七式戦闘機に改変されており、他の戦隊も順次新型の九七式戦闘機に改変されていった。

 

まとめ

 

 九五式戦闘機は、1936年に制式採用、日中戦争初期に活躍したが、時代は単翼機に移り変わったため日本陸軍最後の複葉戦闘機となった。しかし、最高速度は400km/hと海軍の九六式艦戦量産型とほぼ変わらない高速を発揮した究極の複葉戦闘機であった。

 

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01_紫電一一甲型
(画像はwikipediaより転載)

 

局地戦闘機紫電 〜概要〜

 

 圧倒的に高性能であった水上戦闘機強風。そのフロートを外し陸上機化したのが紫電である。零戦以上の高性能を発揮したものの中翼による視界不良、二段階引込脚の不良、さらにはエンジン不良が続き目立った活躍は出来なかった。しかし紫電はこれらの点を改良され海軍最強の戦闘機紫電改へと生まれ変わる。

 

性能

全幅 11.99m
全長 8.885m
全備重量 3.9kg
最高速度 583km/h
実用上昇限度 12500m
航続距離 2545km
武装 7.7mm機銃2挺、20mm機銃2挺
爆装 60kg爆弾4発または250kg爆弾2発

 

開発

 1941年暮れ、川西飛行機が製作中の新鋭水上戦闘機、十五試水戦の陸上機化が海軍によって許可された。十五試水戦とはのちの水上戦闘機強風で陸上機化された陸上戦闘機はのちに紫電と呼ばれることになる。紫電はその後改良が加えられ太平洋戦争末期の万能戦闘機となっていく。

 当時、製作中であった十五試水戦を陸上機化する目的は時間と費用の節約であった。フロートを脚に変更するだけでそのまま陸上機として高性能を発揮するだろうという目論みであったが、強風を陸上機化するにあたり、強風が搭載していた火星13型エンジンを誉エンジンに変更することになり、結局は胴体の一部以外は再設計されることになった。

 強風を陸上機化するにあたり、当然、脚を取り付ける必要があるが、強風は空気抵抗や水面から主翼を離す目的から胴体の中央部に主翼を取り付ける中翼になっていることから長い脚が必要であった。戦闘機以外であれば長い脚は主翼内に収納できるので長くても問題にはならないが、戦闘機の場合、翼内に機銃があるため脚を収納するスペースが取れない。

 そこで考え出されたのが、二段階式引込脚であった。これは紫電の脚柱を伸縮する脚柱とし、脚柱が縮んだところで脚を翼内に収納するという方法であった。構造が複雑になったため、脚の収納には時間がかかるようになった。脚の収納時間は零戦が12秒、紫電の改良型である紫電改が9秒であるのに対して紫電は収納するまでに1〜2分かかった。後に20秒程度に短縮されたが、複雑な構造のために不具合が相次いだ。

 

生産

 1942年4月15日、川西飛行機は紫電の試作機の製作に着手した。因みに、この時期は、母体である十五試水戦の1号機が完成直前の時期でもあった。紫電は、戦時中であったためか僅か8ヶ月で試作機を完成させ、1942年12月31日に脚を出した状態で初飛行。翌日の1943年1月1日には脚を引き込めて飛行することに成功した。

 1943年7月には海軍に領収され審査が開始され、1943年8月10日試製紫電という名称が与えられた。最大速度は574kmと零戦よりは高速であったが、当初の想定の648kmは大幅に下回ってしまった。さらに左を向く癖、視界不良、工作不良、エンジン不調、前述の脚の故障の多発等、多くの問題を抱えていたが局地戦闘機の実用化を急いでいた海軍は生産しながら欠点を改修していくということで量産を開始した。

 1944年10月、試製紫電は、紫電11型として制式採用された。試作機は、増加試作機合わせて8機が製造されている。エンジンは初期が誉11型(1820馬力)、後期が誉21型(1990馬力)といわれている。初期の型はオイルクーラーがカウリング内に収められていたが、後期の増加試作機ではカウリング前面下部にオイルクーラー用の空気取入口が設けられている。

 武装は機首に7.7mm固定機銃、主翼下部ポッド内に20mm機銃(九九式1号3型。装弾数100発)が搭載されている。紫電11型にはいくつかのバリエーションがあるが基本的に兵装の違いだけである。まず、紫電11型であるが、紫電11型は誉21型エンジンを装備、推力式単排気管。空気取入口がカウリング前面下部に設けられていたが形は試作機と異なる。1944年8月には生産終了となった。

 

紫電11甲型(紫電甲)

 続いて紫電11甲型(紫電甲)は機首の7.7mm機銃が撤去され、20mm機銃4挺に増加。ポッド内に2挺、翼内に2挺九九式2号3型装弾数100発)となる。機種の7.7mm機銃口はのそまま残された。紫電11甲型は、1944年9〜11月まで製造された。

 

紫電11乙型(紫電乙)

 紫電11乙型(紫電乙)は1944年12月から生産が開始された改良型で、20mm機銃4挺(99式2号3型ベルト給弾式)をすべて翼内に収納した。装弾数は内側銃が100発。外側銃が200発となった。照準器もこれまでの九八式射爆照準器に代わって4式射爆照準器が搭載された。さらに250kg爆弾が搭載できるようになり、機体も水平尾翼翼端を角型に整形した。

 

紫電11丙型(紫電丙)

 紫電11丙型(紫電丙)は、戦闘爆撃機として使用するための実験機で九七式爆弾懸吊鈎改一を4個取り付けたもの。60kg爆弾4発、または250kg爆弾2発搭載可能。珍しいものとしては、紫電マルJ型というのがある。これは、11丙型の胴体下面に500kg跳飛爆弾懸吊装置と火薬ロケット推進装置を取り付けたもので、火薬ロケットで加速した上で超高速で跳飛爆撃を行おうというものだったが試作のみに終わった。

 

生産数

 総生産数は1007機。各型ごとの生産数は不明だが、ほとんどが11甲型と11乙型であった。終戦時の残存機数も不明。数機が試験のためアメリカに持って行かれた。現存機はなし。

 

戦歴

 最初に紫電が装備されたのは1943年に開隊した341空であるが、紫電の供給が遅れたため実際に紫電を受領したのは1944年1月18日であった。その後は徐々に紫電の配備が進み、7月10日には戦闘401飛行隊、戦闘402飛行隊の二個飛行隊編成となった。続いて紫電装備予定部隊として343空が開隊したが、紫電の生産が間に合わずわずか1機を受領したのみであった。その他紫電を装備していた部隊は横須賀で編成された戦闘701飛行隊がある。

 唯一紫電を装備した航空隊であった341空は1944年8月には台湾に進出、戦闘401、402飛行隊合わせた保有数は定数を上回る119機に達したものの可動機はわずか65機であった。紫電の実戦参加は10月12日の台湾沖航空戦であった。台湾高雄基地に進出していた紫電隊は上空哨戒中に米戦闘機群と遭遇、10機撃墜を報告するも紫電隊も14機を失う大打撃を受けた。その2日後の14日には戦闘402飛行隊の紫電が制空隊として米機動部隊攻撃に参加している。

 10月23日には、341空は紫電36機を以って比島に進出したものの翌24日の空戦で11機を失い、未帰還機、被弾機を除いた戦力はわずか4機に減少してしまった。11月に入ると同じく紫電を装備している戦闘701飛行隊が341空に編入、戦闘701飛行隊は比較的練度の高い隊員で編成されていたこともあり活躍したものの12月中旬には可動機4機となってしまった。その後13機が補充されたものの米空軍機の銃撃で全滅、修理した紫電4機を以って攻撃を行ったものの数日で全機を失った。

 内地では新たに343空が編成、戦闘301飛行隊に紫電3〜4機が配備されている他、210空が紫電を装備、名古屋に襲来したB-29を迎撃している。さらに210空は徳島基地に進出、関西方面での迎撃戦に活躍した。一方、343空には戦闘407飛行隊、戦闘701飛行隊が編入、これらの部隊にも紫電が供給されている。

 1945年3月に入ると紫電を装備する210空紫電隊も九州出水に進出、601空指揮下に入り、601空に配備された紫電と共に防空戦に参加している。変わったところでは偵察11飛行隊にも8機の紫電が配備されておりその俊足を生かした強行偵察や戦果確認、索敵等に活躍している。

 関東では、横空、横空審査部、空技廠、筑波空、谷田部空にも紫電が配備されており、筑波空、谷田部空、210空の紫電を統合、戦闘403飛行隊が編成されており、しばしば迎撃戦に参加している。

 

まとめ

 

 紫電は海軍期待の新鋭機として登場した。零戦に比べ高性能なものの二段階引込脚の不調に悩まされた。さらには中翼であったために前下方の視界不良もあり目立った活躍をすることは無かった。厳しい表現をすれば紫電は失敗作であったと言っていいかもしれない。しかし上記の欠点を改良されて完成した紫電二一型、通称紫電改は海軍戦闘機中、最高の性能を発揮した。紫電は紫電改への橋渡し役であったといっていい。

 

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01_月光
(画像はwikipediaより転載)

 

夜間戦闘機月光 〜概要〜

 

 当初は、長大な航続距離を誇る陸上攻撃機の援護のために生まれた長距離戦闘機が月光の母体であったが、性能が海軍の要求を満たさず不採用となったが、二式陸偵として生まれ変わり、さらには夜間戦闘機月光として再び生まれ変わったという数奇な運命を辿った航空機である。

 

<性能>

全幅 16.98m
全長 12.18m
重量 4.852トン
最高速度 504km/h
上昇時間 5000mまで9分35秒
実用上昇限度 9320m
航続距離 2542km 過重3745km
武装 斜め銃3〜4挺
   250kg爆弾2発

 

開発

 月光は、1938年6月、仮称十三試双発三座戦闘機兼爆撃機として腹案が三菱と中島に内示されたのが始まりであった。当時、三菱は零戦や九六戦の設計等に忙しく引き受けられず、昭和13年10月、中島飛行機に対して十三試双発三座戦闘機の開発を内示した。

 1939年3月、正式に試作を指示したが、要求内容は過大なもので、速度は、当時開発中の零戦以上、航続距離は運用中の九六陸攻並、その上旋回性能が良好なこととされた。海軍の要求は常に過大であったが、この月光は特に著しかった。

 1939年12月第一次実物大模型審査、1941年3月26日1号機完成。5月2日初飛行、8月16日海軍に領収された。この十三試双発三座戦闘機にはリモコン銃座、海軍初の空戦フラップ、双発エンジンのプロペラを左右反転させることでトルクの相殺を狙った左右逆転式を採用する等革新的な機能を満載した機体であった。

 

二式陸偵として採用

 しかし完成した十三試双発三座戦闘機は、航続距離以外では軍の要求をほぼ満たすことが出来ず、さらには故障が続出したため不採用となってしまった。不採用となった十三試双発三座戦闘機であったが、海軍は太平洋戦争開戦後、陸上偵察機の必要性を痛感しており、試作2機と増加試作機7機を陸上偵察機として採用することを決め、1942年7月二式陸上偵察機として制式採用した。二式陸偵となった十三試双発三座戦闘機は、エンジンの左右逆転式は廃止、リモコン銃座、20mm固定銃も撤去した上で機首には前下方を見るための窓が装備され、燃料タンクは防弾式となった。

 

斜め銃装備で復活

 この大幅に改良された二式陸偵は南方戦線に投入されるが、ここでB-17の来襲に手を焼いていた251空司令小園少佐は胴体中央部に斜め上を向けた20mm機銃を取り付け、これで大型機と並行して飛行したまま攻撃を行うのちの「斜め銃」を考案した。

 この改造案は採用され、改修された3機の内2機が1943年5月、激戦地ラバウルに投入された。この改造は大成功であり、ラバウルで運用された斜め銃装備の二式陸偵は大きな戦果を挙げた。この結果、1943年8月23日、二式陸偵の後席と旋回銃は廃止し、さらに前上方と前下方向きに九九式2号3型20mm機銃を合計4挺装備したものを夜間戦闘機月光11型として制式採用された。

 

月光11甲型

 1943年11月、前下方向きの斜め銃を廃止し、前上方向きの九九式2号3型20mm機銃2挺の後方に九九式2号4型20mm機銃を装備したもの。月光23型ともいう。

 

生産数

 十三試双発三座戦闘機、二式陸偵を含め477機が生産された。

 

戦歴

 1942年、台南空に二式陸偵が配備された。1943年5月に251空(台南空)再進出した際、二式陸偵に斜め銃を装備した機体が戦果を挙げた。このため夜間戦闘機月光として制式採用された本機は、9月1日、夜間戦闘機専門部隊となった251空で活躍していたが1944年2月には本隊がトラック島に撤収、4月には残留部隊もトラック島に撤収した。

 251空に次いで381空も月光を装備、中部太平洋に進出している。さらに1943年10月には海軍初の夜間戦闘機航空隊である321空(鵄部隊)が開隊、1944年2月から中部太平洋に展開したが、同年7月、伝統の251空、初の夜戦部隊321空は解隊することとなった。そして251空残存隊員は153空に転入、比島航空戦に活躍している他、141空も月光装備の部隊で比島で活躍している。一方、381空戦闘902飛行隊の月光隊は蘭印方面に展開、1945年4月には内地に帰還している。

 本土防空では203空が月光を装備、1944年4月には当時の日本最北端である占守島片岡基地へ進出しており、11月には北東空戦闘851飛行隊の月光4機が択捉島に進出している。さらに台湾には133空、台湾空が月光を装備している他、首都防空の302空、呉防空の332空、大村の352空がそれぞれ月光を装備している。

 

まとめ

 

 海軍の過大な要求により不採用となった十三試双発三座戦闘機は、二式陸偵、さらには夜間戦闘機月光として復活した。月光は対大型機邀撃戦に比類ない活躍をした。特に本土防空戦ではB-29迎撃用として活躍することとなる。東京大空襲では、倉本十三上飛曹が操縦する月光が一夜にしてB-29、5機を撃墜するという驚異的な戦果を挙げたこともあった。

 航空戦では誤認戦果が付き物であるが、この対大型機相手の空戦は、敵機に並行して攻撃するため戦果の確認の確実性が高かったことや地上からの確認が取れた場合が多かったので、誤認戦果は比較的少なかったと言われている。この月光の活躍が無ければ空襲の被害はさらに悲惨なものになっていただろう。

 

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01_キ87
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ87は中島飛行機が最後に製作した高高度迎撃用の重戦闘機である。成層圏での運用を想定した究極の戦闘機であった。1945年に試作機が1機完成し、5回飛行を行ったが不具合が続発した。計画通りであれば最高速度700km/h超、高度1万メートルでの空戦が可能なP47サンダーボルトに匹敵する航空機となる予定であった。

 

試作高高度戦闘機 キ87 〜概要〜

 

性能(推定値)

全幅 13.423m
全長 11.82m
全高 4.49m
自重 4,383kg
最大速度 689km/h
上昇力 -
上昇限度 12,855m
エンジン出力 2,450馬力
航続距離 1,600kmプラス空戦30分、余裕1時間
武装 20mm機関砲(ホ5)2門、30mm機関砲(ホ155)2門
設計開発 中島飛行機

 

開発

  

 1942年11月、陸軍は中島飛行機に高高度近距離戦闘機キ87の試作を指示した。陸軍の要望は、最高速度700km/h、上昇限度13,000m、高度10,000m以上での空戦を行うことを目的とした戦闘機で、米国製戦闘機P47サンダーボルトに対抗するための機体であった。

 この指示を受け、中島飛行機はこれまで一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風等を手掛けたベテラン設計者である小山悌技師を設計主務者として開発を開始したが、他の機体の設計が優先されたため作業が遅れ、設計が完了したのは1944年11月、3ヶ月後の1945年2月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行を行った。

 高高度で空戦を行うための発動機は2400馬力排気タービン過給器付き発動機ハ44-12ルに決定した。これは中島飛行機初の国産発動機寿エンジンを18気筒化したもので1942年7月に試作開始、終戦までに23台が製造された発動機であった。この強力な発動機に対応するためのプロペラはラチェ改と呼ばれる電気式定速四翅プロペラで直径は3.6mという巨大なものであった。

 本機の外観上の特徴ともいえる排気タービンは陸軍側は胴体下面に搭載することを要望していたが、中島飛行機側は被弾した時の燃料漏れによる火災を防ぐために胴体側面を主張した結果、胴体右側面に装備することとなったが、6号機以降は陸軍の要望通りに胴体下面に移される予定であった。

 武装は20mm砲(ホ5)2門と30mm砲(ホ155)2門が搭載された。高高度迎撃機ではあったが、250kg爆弾を1発搭載することが出来る。防弾装置は風防前面に70mmの防弾ガラス、座席背後の防弾鋼板は16mmであった。これら武装や燃料タンクで翼に余剰スペースが無くなってしまったため、脚は90度回転後方引込式を採用した。これは複雑な機構であったため不具合が多かった。

 上記の装備を搭載した本機の重量は自重が4,383kgと凄まじく、これは一式戦闘機隼3機分に相当する。このため翼面荷重も235kg/屬叛┐泙犬、海軍の局地戦闘機震電の210kg/屬気┐眈絏鵑辰討い拭1945年4月より5回試験飛行が行われたが、発動機不調、排気タービン過熱、脚収納装置の不具合等不具合が続いた。尚、この5回の飛行中は大事を取って脚を収納せずに行った。

 

バリエーション(計画のみ)

 キ87の低中高度戦闘機型で武装を20mm機関砲6門とし、排気タービンを廃止したキ87乙、発動機をハ47に換装したキ87兇計画されていた。

 

生産数

 当初は試作機3機、増加試作機7機の計10機が1945年4月には完成させる予定であったが、結局、試作機が1機造られたのみである。戦後、米軍に接収され1945年11月に米本土に送られたが、同地での飛行記録は残っていない。

 

まとめ

 

 キ87は中島飛行機が最後に製作した自重4,383kg、翼面荷重235kg/屬竜霏臉鐺機であった。成層圏での戦闘を想定した機体であったが、日本の基礎工業力が低かった上に物資不足や部品の品質劣化もあり設計通りの性能を発揮することはなかった。仮に完成していたとすればB-29にとって最大の脅威となったであろう。

 

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01_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 日中戦争の戦訓により大型機迎撃用の戦闘機である局地戦闘機が必要とされた。その要求に応えるべく開発されたのが局地戦闘機雷電である。雷電は大型の火星エンジンを装備したため前方視認性が悪く「殺人機」とまで呼ばれたパイロットには不評であったが、米軍の公式評価をして「大型爆撃機に対してすべての日本軍戦闘機の中で最強」と言わしめた戦闘機でもあった。

 

局地戦闘機雷電 〜概要〜

 

 

性能

全幅10.8m
全長9.695m
全備重量 3507kg
最高速度 596.3km/h
航続距離 1898km
武装 20mm機銃4挺 30kgまたは60kg爆弾2発

 

開発

02_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機の開発計画は太平洋戦争前から始まった。1939年9月、海軍は、十四試局地戦闘機の計画要求書を内示。内示は三菱と中島飛行に対して行われたが、中島飛行機は、のちの月光や深山開発で忙殺されていたため辞退。三菱が受けることとなった。

 海軍からの内示を受けた三菱重工は堀越二郎を設計主務者として開発を開始、海軍の要求が高速戦闘機であったことから当時、日本では最強の航空機用エンジンであった火星エンジンを使用することが決定する。しかし、大型の火星13型エンジンを採用したため胴体は紡錘形になり、抵抗を減らすため風防も胴体上面にそのままつながる形式のものが採用された。

 そして胴体を紡錘形にしたためエンジンとプロペラの距離を離した延長軸を採用する。これがのちの振動問題につながっていく。雷電では新しい試みとして、生産性の向上を考慮して分割構造を採用。溶接部品を減らし工作の簡易化と部品点数の減少を図ったりもしている。

 

延長に次ぐ延長

 1940年12月第一次実大模型審査が行われ、さらに1941年1月第二次実大模型審査が行われた。順調に行けば、試作1号機の完成は1940年末の予定であったが、その後、何度か予定が延長され、結局、試作機が完成したのは、1942年2月であった。

 1942年3月21日、十四試局戦初飛行。1942年6月〜7月にかけて官試乗。周防元成大尉が担当している。周防大尉は海兵62期出身で15機を撃墜した実戦派である。試乗の結果、安定性、操縦性には全く問題はなかったが、視界不良や上昇力の不足、さらに予定していた速度が時速594kmであったのに対し、574kmしか出なかったりと海軍側の期待に応えるものではなかった。

 

十四試局戦改計画へ移行

 その結果を受けて、十四試局戦開発計画は、十四試局戦改計画に移行された。この十四試局戦改計画とは、十四試局戦のエンジンを水メタノール噴射式の火星23甲型に換装するというもので、十四試局戦の性能向上型として昭和16年7月に開発が決定していた計画であった。

 水メタノール噴射式とは、高オクタン価のガソリン入手が難しい日本の国情に合わせたもので、エンジンに水とメタノールの混合液を噴射することによってエンジンの出力を20〜30%増大させることを狙ったものであった。

 

試製雷電完成

 十四試局戦改は、1942年10月に完成。試製雷電と呼ばれた。そして1942年10月13日初飛行したが、激しく黒煙が吹き上がることや振動が激しいなどの不調を修正するのに時間がかかってしまい、雷電11型として生産が開始されたのは1943年9月であった。

 雷電11型は、155機生産されたが生産開始後翼内タンクに自動消火装置が設置された他、中期後期型からは翼内銃の角度を3.5〜4.5度上向きに取り付けられた。生産開始後約1年の1944年10月に制式採用される。試作機は8機製作されている。

 

雷電21型

 総生産数は500機前後であるが、雷電には多くのバリエーションが存在する。まず、雷電21型であるが、1942年10月十四試局戦改一、または試製雷電改として開発が開始され、1943年10月12日1号機初飛行。胴体の7.7mm機銃を廃し翼内銃をベルト給弾式九九式1号4型(装弾数190発)2挺と九九式2号4型2挺(装弾数210発)に強化。胴体内タンクをゴム被覆防弾タンクに改良。風防前面に厚さ50mmの防弾ガラスが追加された。

 最大速度594km、上昇力は6000mまで5分50秒から6分14秒。三菱で280機、厚木の高座海軍工廠で数十機製作された。この21型の機銃を4挺ともに九九式2号4型に変更、爆弾4発搭載可能としたのが、21甲型である。

 

雷電23型

 23型は21型の発動機を火星26型に換装したもの。武装は21型と同じ。この23型の武装を21甲型と同じにしたものが23甲型で、21型の風防の高さを50cm、幅を80cm増やし風防前方の胴体上面の両側が削られた視界改善対策実施型が31型である。武装は21型と同じ。最大速度590kmで数十機が生産された。31型の武装を21甲型と同じくしたのが31甲型。

 

雷電32型

 32型は排気タービン過給機を装備したものでカウリング前面の開口部が広げられている。武装は翼内銃2挺として風防後方に20mm斜め銃2挺が追加された。1944年1月に開発が指示され三菱と空技廠で2機ずつ、第21空技廠でも製作された。

 三菱製のものは1944年8月4日に完成、9月24日初飛行。最高速度が583kmと期待したほどではなかったため製作は打ち切られ三菱と空技廠の計4機は厚木の302空に引き渡された。この他、1944年末から20年初めにかけて第21空技廠で十数機の雷電が排気タービン過給機装着型として352空に供給されたが実用には至らなかったという。

 

雷電33型

 33型はエンジンを火星26型、または26甲型に変更したもの。31型同様の視界向上策を施した。先行試作機は11型の2機をベースに製作され1944年5月20日に初飛行した。最大速度が614kmと海軍戦闘機の最高性能を記録、武装は21型と同じ。21甲型と同じ武装にした33甲型も製造された。生産数は30数機。その他試験的に2式30mm機銃を2挺搭載したものや部隊で改造された斜め銃が装備されたものなどがある。どちらも302空で使用された。

 

雷電バリエーションまとめ

 雷電はあまりにもバリエーションが多く、複雑であるが、簡単に分類すると試作機が2種類、十四試局戦、十四試局戦改があり、量産機としては、11型、21型、23型、31型、32型、33型の6種類があり、さらに量産機では、32型以外の5機種には武装強化型の甲型が存在する。

 

生産数

 最終生産数は三菱が470機で他にも高座工廠や日本建鉄でも少数が製造された。ほとんどが21型である。

 

戦歴

03_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機雷電を運用する部隊として1943年10月1日、381空が編成された。同月中には新鋭機雷電が装備されたもののその配備数は月末に至っても5〜6機という有様であった。1944年1月、381空はボルネオ島バリクパパンに進出するが、同月、雷電が空中分解事故を起こしたため零戦隊のみが進出、雷電隊の進出は見送られた。

 この381空は4月には、零戦隊を戦闘311飛行隊、雷電隊が戦闘602飛行隊、月光隊が戦闘902飛行隊の3個飛行隊編成に変更、雷電装備の戦闘602飛行隊の外地への初進出は1944年9月頃で、セレベス島ケンダリー基地に9機の雷電が配備、実戦にも参加している。

 1943年11月5日には、横須賀で301空が編成、12月中には雷電が配備されたが機数はわずか4機で内、3機が十四試局戦改であった。1944年3月4日には301空も零戦隊は戦闘306飛行隊、雷電隊が線t脳601飛行隊に変更されている。この301空は編成完了後、最前線ラバウルに進出することが予定されていたが結局間に合わず、戦闘601飛行隊も機種を零戦に変更したため301空は実戦で雷電を使用することはなかった。

 

本土空襲と雷電

 戦略爆撃機の本土空襲の可能性が現実味を帯びるようになった1944年3月1日、首都防空を主任務とした302空が木更津で開隊、8月1日には岩国で呉防空を目的とした332空が開隊した。8月10日には佐世保、大村、長崎地区の防空を担当する352空が開隊、この部隊での雷電の実戦参加は、10月25日の大村地区空襲での迎撃戦で8機の雷電が出撃している。

 一方、本拠地を厚木に移動した302空は3分隊で編成、1、2分隊が雷電装備、3分隊が零戦という構成であった。配備されていた雷電は合計40機にも達したが11月に至っても可動機はわずか10機に過ぎなかった。この時期には米空軍第21コマンドによる東京空襲も開始、302空雷電隊も12月3日には迎撃戦に参加、初戦果を記録している。

 当初はB29単独での空襲であったが、1945年2月以降は戦闘機が随伴、さらには米海軍第58任務部隊による本土空襲作戦であるジャンボリー作戦の開始と合わせて雷電による小型機の迎撃戦も行われることとなった。4月には沖縄航空戦の拠点となっている九州地区への空襲が激化、これに対応するため302空、332空、352空の雷電隊が同方面に集結、「竜巻部隊」を自称するこれら雷電隊が防空任務に当たっている。

 その他、輸送部隊である1001空、210空、上海方面では256空(後に951空に吸収)でも少数の雷電が配備されている。

 

まとめ

 

 日中戦争の戦訓により開発された局地戦闘機雷電は、振動問題の解決等に時間がかかり活躍するのは太平洋戦争後半になってしまった。実戦配備後も視界の悪さや離着陸の難しさから殺人機という不名誉なあだ名を付けられるにいたった。しかし高速、重武装の雷電は連合国軍からは恐れられた。米軍の公式評価では雷電は大型機に対した全ての日本軍機の中で最強であったとされている。

 

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01_キ83
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ83とは大戦末期に試作機が完成した双発複座戦闘機であった。構造は極めてユニークで一見双発単座戦闘機のように見えるが、後席が胴体内にある機体であった。高空性能、速度ともにずば抜けており、特に速度は762km/hと日本機の最速記録であった。試作機4機が完成したが3機は事故と空襲で消失、終戦時には1機のみが残存した。

 

試作遠距離戦闘機 キ-83 〜概要〜

 

性能

全幅 15.50m
全長 12.50m
全高 4.60m
全備重量 9,430kg
上昇力 10000mまで10分30秒
上昇限度 12,660m
最大速度 686km/h(高度8000m)
エンジン出力 1930馬力×2基
航続距離 3,500km(増槽装備時)
武装 30mm機関砲(ホ5)2門
   20mm機関砲(ホ203)2門
   50kg爆弾2発または250kg爆弾2発 設計開発 三菱

 

背景から開発まで

 日中戦争において戦闘機による掩護を受けられなかった日本軍の爆撃機はしばしば甚大な損害を受けた。これを受けて爆撃機に随伴できる長距離戦闘機の開発が指向されたのと同時に当時活躍していた戦略偵察機である百式司令部偵察機の後継機の必要性もあり、陸軍は百式司偵を開発した三菱1社に対して特命で試作命令が発せられた。

 

開発

 1941年5月23日、三菱に対して爆撃機掩護用の長距離戦闘機の開発が指示された。この指示の設計基礎要求は、行動半径1500kmプラス2時間の余裕、最高速度は680km/h以上、将来の目標として720km/h以上という苛烈さで、さらには燃料タンクの防弾、搭乗員保護用の防弾版の設置等、非常に厳しい要求であった。これに対して三菱は設計主務者を久保富夫技師として作業を進め1942年4月に実物大模型を完成させたが、現場サイドから戦闘機は小型であるべきであるという強硬な意見が出されたため作業は混乱した。

 以降、陸軍と三菱の間で仕様の決定に手間取り、最終的に仕様が決定したのは1943年7月であった。決定した仕様は、双発複座戦闘機であること、最大速度800km/h以上(高度10000m)、実用上昇限度13000m、武装は前方に30mm機関砲3門、20mm機関砲2または4門、そしてエンジンはハ211を使用するというもので、行動半径こそ1046kmプラス2時間と緩和されたが、それ以外の要求はさらに過酷になっていた。

 これを受けて三菱側は設計を進め、1944年10月には試作1号機が完成した。発動機は海軍の試作艦上戦闘機”烈風”にも搭載された三菱製ハ211ル(海軍名)である。これは同社製14気筒金星エンジンを18気筒化した上に排気タービン過給器を装着したものであった。これにより高度9500mでも1720馬力を発揮することが可能であった。

 機体は百式司偵を彷彿とさせる流線形の非常に美しいフォルムで、風防は操縦席のみ涙滴型風防を装備、後席は胴体内に収められている。後席の視界は上面、左右面に窓により確保されている。操縦席と後席の間には巨大な燃料タンクがあり、連絡は通話装置を使用して行われる予定であった。防弾装置としては操縦席後方には厚さ12mmの防弾鋼板を装備、往路で使用する翼内燃料タンクには防弾装置は設けられなかったものの、胴体内燃料タンクは16〜30mmの防弾ゴムで覆われていた。

 武装は30mm機関砲(ホ155)が機首上段に2門(弾数各80または100発)、20mm機関砲(ホ5)が機首下段に2門(弾数各160または200発)が装備された。全体的にコンパクトに収められた機体であったが、自重は重く、翼面荷重は262.5km/屬醗貅粟鐺機の2.6倍にも達していた。

 1944年11月より飛行試験に入ったが、性能は全体的に良好であり、速度は高度8000mで686.2km/hを発揮した。この結果を受けて翌年1月に試作2号機、3月に3号機、4月に4号機が完成した。1、2号機には排気タービンと中間冷却器が装備されたが3、4号機はタービン関係以外の試験を促進するため単排気管となった。

 しかし同年3月、2号機のテスト飛行中に風防が飛散、これが操縦者に当たり搭乗員は殉職、機体は墜落大破した。さらに3、4号機は6月25日の各務原への空襲で大破消失、1号機のみ当時大本営が建造中であった長野県松本市へ移動し、引き続き試験が行われていたが終戦となった。戦後は米軍の手により試験が行われた際には762km/h(高度7000m)を発揮、日本機としては最速記録であった。

 

司偵型(計画のみ)

 当初はキ83乙、その後キ95と称された機体で司令部偵察機用に武装を撤去し機首に偵察席を設置する予定であったが、後に計画が変更され20mm機関砲を装備することとなった。これとは別に襲撃機型のキ103も計画されていた。

 

生産数

 合計で4機の試作機が完成した。2号機は試験飛行中の事故で墜落、3、4号機は空襲で大破。終戦時には1号機のみが残存していた。この一号機は戦後、再整備の後に米軍の手に引き渡され、米軍のテストパイロットヘンリー中尉の手でテストが行われた。この際に高度7,000mで最高速度762km/hと日本戦闘機最速を記録している。

 

まとめ

 

 キ83は最高速度762km/hという高速に加え、排気タービンによる高い高空性能と長大な航続距離を持った戦闘機で仮に量産されていたとすれば百式司偵に続く司令部偵察機や本土防空戦においてB-29迎撃機として活躍したことが想像される。大戦末期に三菱が作り出した究極の戦闘機であった。

 

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01_キ64
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ64は外観は陸軍の三式戦闘機キ-61と酷似しているが、胴体一体化したファストバック式風防ではなく涙滴型風防であったこと、機体正面にラジエーターが無い「ロケット」のような外観をしている。1機のみ製造されたが、試験飛行では690km/hを記録する高速戦闘機であった。しかし技術が先端に過ぎ実用化されることなく終戦となった。

 

試作高速戦闘機 キ64 〜概要〜

 

性能

全幅 13.50m
全長 11.03m
全高 4.25m
全備重量 5,100kg
上昇力 5000mまで5分00秒
上昇限度 12,000m
最大速度 690km/h(高度5000m)
エンジン出力 2200馬力
航続距離 1000km(予定)
武装 20mm機関砲2〜4門(計画)
設計開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1930年代後半、先進国の戦闘機開発の最先端は2000馬力級エンジンに達しつつあった。1938年には英国でネイピアセイバーエンジンが2000馬力を記録、翌年には米国でP&WR2800ダブルワスプが同じく2000馬力エンジンを開発していた。日本でもこれらに影響を受けた人々によって高速戦闘機の開発がスタートすることになった。

 高速戦闘機の開発は日本では川崎航空機が自主開発をしており、これに注目した陸軍航空研究所が主導して正式に試作機として発注したものであった。川崎航空機では単発並の機体前面投影面積で双発のパワーを発揮することができるため、エンジンを2基連結して2000馬力を発揮するエンジンを計画していた。

 この計画が実行に移されることになったのは日本がドイツ製DB601Aエンジンのライセンスを購入したことによる。このエンジンはプロペラ軸内砲の装備を前提としていたため、串型に連結するには好都合であったからだ。

 

開発

 1940年8月、キ64として開発が川崎航空機に指示された。川崎航空機では三式戦闘機の主務者であった土井武夫を主務者として1940年11月から研究を開始、1941年10月実物大模型を完成させた。陸軍の計画では1942年3月に1号機が完成、12月には審査を終える予定であったが、実際には新技術導入のために時間を要し、1号機が完成したのは1943年12月であった。

 機体はほぼキ-61であったが、胴体と一体化したファストバック式風防は通常の涙滴型風防に変更された。主翼は空気抵抗を減らすために翼面の凹凸を極小化したLB層流翼が採用された。これは同時期に川崎が試作していた研三からフィードバックされたものであった。

 エンジンはハ-40を2基串型に組み合わせた構造のハ-201(陸海軍統合名称「ハ-72・11型」)で、出力は2350馬力に達した。二重反転プロペラを採用しており、エンジンは操縦席を挟んだ形で設置された。前方のエンジンで後方のプロペラ、後方のエンジンで前方のプロペラを駆動するようになっていた。プロペラピッチは前方が固定ピッチ式、後方が可変ピッチ式であった。これは日本において定速可変ピッチ機構が開発出来なかったためであった。このためピッチの合わない前後のプロペラを調整しながら作動させなければならなかった。

 エンジンの冷却は翼表面蒸気冷却器を採用した。これは従来のラジエーターを廃した上で冷却水を高温高圧状態で発動機内を流し、一旦水蒸気化した上で翼面で冷却し水に戻し再び発動機内を循環させるというシステムであった。このシステムの採用によりラジエーターによる空気抵抗が無くなったことにより約40km/hの速度向上が期待されていた。

 初飛行は1943年12月で、以降5回にわたって飛行試験が行われたが、5回目の飛行中、翼表面蒸気冷却器が不調となり異常に高温化した。これにより後方発動機から発火、空中火災となり緊急着陸をした。この際、脚を破損してしまった。飛行試験でのデータは、最高速度が高度5000mで690km/h、同高度までの上昇時間が5分30秒、、実用上昇限度が12000mであった。

 試作1号機はプロペラを前後共にVDM電気可変ピッチプロペラに変更するためにエンジンの改修とプロペラの設計が進められていたが、そのまま終戦となった。

 

ハ-321エンジン搭載型

 エンジンをハ-140(ハ‐40を水メタノール噴射式に改良したエンジン)を2基串型に組み合わせたハ‐321エンジン(陸海軍統合名称「ハ‐72・21型」)を搭載した型が計画されていた。このハ‐321搭載型の計画上の最高速度は750km/hで1943年12月に1号機完成、1944年10月には審査完了が予定されていた。

 

生産数

試作機が1機のみ完成。戦後米軍が調査した。

 

まとめ

 

 あまりにも最先端の技術を追求したキ64であったが、日本の基礎工業力がその技術を実現するレベルになかったのが惜しまれる。戦後に本機を調査した米軍の報告によれば、本機の設計、機体構造は良好、翼表面蒸気冷却器は米国設計者にとって興味深いものであったとしている。キ64の機体はキ61(飛燕)の機体をベースにしている。このことからもキ61の機体設計が余裕のある機体設計であったことが分かる。設計者の土井武夫技師は戦後もYS11の設計に関与、他のベテランが嫌がる電装系を担当する等、ひたすら挑戦し続ける人生であった。

 

 


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01_二式水戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式水上戦闘機は、開発中であった十五試水上戦闘機(のちの強風)の開発に時間がかかるため急遽、海軍の主力戦闘機零戦にフロートを付けた水上戦闘機で、極めてつなぎの色彩の濃い戦闘機であった。しかし最高速度こそ零戦には劣るものの運動性能は零戦に優ったとも言われている最も活躍した水上戦闘機である。

 

二式水上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.5m
全長 10.24m
全備重量 1922kg
最大速度 437km/h
航続距離 1150km
上昇限度 10500m
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 二式水上戦闘機、略して二式水戦は世界で最初に量産された水上戦闘機である。後継機として強風が量産されるがこの二機種のみが人類史上量産された水上戦闘機である。つまりは水上戦闘機を量産したのは世界で日本のみだ。この背景には計画当時、将来に南方侵攻作戦が予想されていたことがある。南方の飛行場の無い地域でも作戦可能なことから水上機が有用と考えられ、さらに日中戦争で水上機がしばしば敵戦闘機、攻撃機を撃墜している実績があったことから水上戦闘機の生産が決定された。

 この計画によって開発が決まったのが十五試水上戦闘機のちの強風である。しかし計画は始まったものの、この十五試水上戦闘機が近々開始が予想される南方侵攻作戦に間に合う可能性は皆無に近かった。そこで考え出されたのが新鋭戦闘機零戦を水上戦闘機化するという案であった。三菱製である零戦の水上機化ということであれば、本来なら三菱に設計を依頼するところであるが、三菱は零戦や一式陸攻の生産に忙殺されていた。そこで小型水上機開発の経験が豊富な中島飛行機に命じて零戦11型をベースに水上戦闘機化させたのが二式水上戦闘機である。

 

開発

 

 以上の経緯から1941年初頭に仮称一号水上戦闘機として中島飛行機に試作が命ぜられた。中島飛行機では三竹忍技師を設計主務者として作業を開始。1941年12月に試作1号機を完成させた。零戦からの主な改良点は主脚、尾輪、着艦フックとこれらに関係する装置の廃止、同時に各収納穴を廃止して平滑に整形した。さらに胴体下面に全金属製のフロートを取り付け、両翼端下面に補助フロートを取り付けた。フロートの影響により尾部を再設計し、垂直尾翼の大型化、方向舵下方に安定鰭を追加した。

 これにより全長が8.1cm増大し10.131mとなり、全高が4.305m(零戦は3.509m)となった。自重は226kg増大したが脚や着艦フック関係の装備を廃止したために増大量は比較的少なかった。初飛行は1941年12月8日、初飛行するが、すでに正式採用されている機体がベースとなっているためテストは順調に進められた。最高速度が零戦11型の533kmから435km、航続距離が2222kmから1782kmと大幅に低下したが、巡航速度、上昇力共に零戦と大きくは異ならなかった。

 1942年7月6日、二式水上戦闘機として正式採用され、1943年9月に生産が終了するまで327機が製作された。当初は重整備のために還納されてくる零戦を改造する方針であったが水上機として設計されていない零戦の機体は開口部が多く無理であることが判明したために新造することになったという。二式水戦の実用化のめどがついたことにより、1942年5月下旬、海軍初の飛行艇専門部隊横浜航空隊に水戦隊が編成された。さらに東港空の水戦隊が7月9日に編制され、8月には特設水上機母艦神川丸水戦隊、14空水戦隊が編成された。

 

実戦参加

 編成を終えた横浜空水戦隊12機は1942年5月26日、特設水上機母艦聖川丸で横須賀を出港、6月3日にラバウルに到着した。水戦隊の初の実戦は6月5日のラバウル上空哨戒である。初の戦闘は1942年6月10日、5機の二式水戦が5機の敵機と空戦になったが戦果は不明である。7月4日、佐藤理一郎大尉に率いられた先遣隊7機がツラギに進出、23日さらに4機が進出した。先遣隊7機は、7月10日に来襲したB-24を迎撃、1機を撃墜、水戦隊の初戦果を記録するが、最近の研究によると実際はこの地域にB-24は進出していなかったようだ。

 

生産数

 その後も二式水戦は北方、中部太平洋、本土防空に活躍し続ける。前述のように総生産数は327機であるが、終戦時に残存していた二式水戦は合計24機のみである。内訳は、河和に11機、天草に3機、香取に2機、ペナンに2機、鹿島、北浦、館山、大津、今宿、佐世保に各1機であった。現存する機体はない。

 

まとめ

 

 二式水上戦闘機は世界で初めて量産され実戦で使用された水上戦闘機である。速力こそ零戦に及ばなかったものの、低速になった分、空戦性能はオリジナルの零戦すら上回ったという。中には38機を撃墜したという河口猛飛曹長というエースパイロットもいたというが詳しくは分からない。水上戦闘機という特殊な機種は、島嶼の奪還戦となった太平洋戦争では日本軍の飛行場設営能力の不足と相まって重宝された。しかし新鋭の連合国軍戦闘機と互する性能はなかった。二式水戦は、零戦以上に日本の限界を可視化した機体であったのかもしれない。

 

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01_強風
(画像はwikipediaより転載)

 

水上戦闘機強風 〜概要〜

 

性能

全幅 12m
全長 10.58m
最大離陸重量 3.5kg
最大速度 488.9km/h
航続距離 4.8時間
実用上昇限度 10560m
武装 7.7mm機銃2挺、20mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 水上戦闘機は日中戦争で水上機の空戦能力に有用性が認められたことと対米戦が南方侵攻作戦が中心になることを想定して開発が進められた機種で、他国では試作機は造られたものの、量産化したのは日本だけだ。この量産化水上戦闘機で最高性能を発揮したのが水上戦闘機強風11型である。

 強風は上記の必要性から1940年9月に飛行艇を中心に製造していた川西飛行機(現在の新明和工業)に試作が命ぜられた。他の海軍機同様、試作機の性能要求は厳しく、水上戦闘機でありながら最高速度574kmが要求された。当時の新鋭戦闘機である零戦ですら533kmであることからもその要求の厳しさが分かるだろう。

 

開発

02_強風の原型機の2重反転プロペラ
(画像はwikipediaより転載)

 

 菊原技師を中心とする川西飛行機の設計チームはその性能要求に応えるべく、エンジンには、当時の日本では最高出力である1450馬力火星エンジンを採用、機体は大出力ではあるが、大型の火星エンジンを使用するために紡錘形の空気抵抗の少ない胴体が採用された。さらに空気抵抗を減らすためと出来るだけ水面から翼を遠ざけるために胴体の中央部に主翼を付ける中翼式を採用した。この結果、1942年4月に十五試水戦の試作1号機が完成する。この試作1号機には火星14型エンジンが採用され、二重反転プロペラが採用された。

 1942年5月6日に初飛行をするが、二重反転プロペラは、振動が多く、さらに構造が複雑になり生産や整備に手間がかかることや重量がかさむため採用は見送られ、2号機以降は一般的な三翅プロペラが採用され、同時にエンジンも火星14型エンジンから火星13型エンジンに変更された。

 最大速度、上昇力、航続距離共に現行の二式水戦に勝っていたが、格闘戦能力のみは傑作機零戦を母体とした二式水戦には敵わなかった。このため技術陣は、Gに応じて自動的にフラップが出入りし、常に最適のフラップ角度をとるようにした自動空戦フラップを開発。強風に標準装備された。さらに航空機の特性として高速時には舵の効きは敏感であるが、低速時には操作量が増大するという操縦性の悪さを解消するために腕比変更装置も採用された。これは強風が最初のようである。

 強風は最高速度489kmと性能要求の574kmには遠く及ばなかったものの、航続距離1980km、上昇限度10560mと水上戦闘機としては高い性能を発揮した。そもそもの性能要求が無茶過ぎなのだ。武装は翼内に20mm砲2門(九九式二号三型)、機首に7.7mm機銃2門を装備する。

 

強風の生産

03_強風
(画像はwikipediaより転載)

 

 試作機は8機製造され、3機が1942年末に海軍に引き渡された。1号機は火星14型エンジンに二重反転プロペラを装備したが、2号機以降は火星13型エンジン三翅プロペラを装備している。因みに2号機は試験中に転覆沈没している。3号機以降は、主フロートの主支柱が太くなっているのが特徴である。

 1943年8月10日(12月という資料もあり)、強風11型として正式採用され、1943年1〜12月までに89機が生産された。強風11型の総生産数は、この量産型89機と試作機8機の合計97機である。昭和18年に残りの試作機5機を含む65機が海軍に納入され、さらに1944年1月〜3月の間に残り29機が引き渡されている。この強風は初期生産型と後期生産型では若干の違いがある。

 

初期型と後期型

 初期生産型は集合式排気管で気化器空気取入口はカウリング内、スピナは先端のとがったものを使用しているが、後期型は排気管が推力式単排気管でカウリングとスピナが再設計され、カウリングは深く、全面上部に空気取入口が設けられた。スピナは直径と長さが小さくなり形も丸っこいものに変わった。カウリングが深くなったため機首の7.7mm機銃の発射口とカウリング前端との距離が広がっている。

 

22型(計画のみ)

 強風の派生型として、紫電21型(紫電改)を水上機としてフィードバックさせた強風22型の開発計画があったとされており、さらに後継機として川西十八試水戦という機体の開発が考えられていたが実現しなかった。

 

戦歴

 最初に強風が実戦配備されたのは1943年12月頃で、ニューギニア島西方セラム島南西に位置するアンボン島に展開していた934空水戦隊に配備され、翌月の1944年1月には甲木清実飛曹長操縦の強風がB-24を撃墜、強風の初撃墜を記録している。マレー半島ではペナン島に展開する936空の強風が1945年1月にB-29と交戦、翌月にも再び交戦している。さらに3月3日には第一南遣艦隊付属水上機隊の強風がB-24と交戦、ほぼ撃墜確実であったといわれている。他にも横空、鹿島空が水戦搭乗員教育のため強風を配備、さらに佐世保空、呉空、大津空、小松島空、宿毛空、901空、931空に配備されている。

 

生産数

 強風は、97機が生産された。終戦まで残存したのは31機で、内訳は、河和に22機、佐世保に5機、今宿に4機が残存した。現存しているのは戦後アメリカに接収された4機の内、3機のみである。

 

まとめ

 

 強風は太平洋戦争開戦前に計画され戦争後期に実戦配備された機体であった。しかし強風が実戦配備された頃には、南方侵攻作戦はとっくに終了しており水上戦闘機の出番は無かった。それでも南方資源地帯での防空戦や本土防空戦に使用された。甲木清実飛曹長のB24撃墜を始め若干の戦果を挙げた。F6Fヘルキャットを撃墜したことすらあったらしい。フロートを付けた「重い」機体は戦争後期の連合国軍新鋭機を撃墜するのは至難の業であった。しかし、陸上機型に改良された紫電、紫電改は海軍の決戦機として大活躍することになる。

 


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01_五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを液冷から空冷のハ-112兇吠儿垢靴慎‖里任△襦このため機体は三式戦闘機の機体と大きな違いはないが、途中から風防が胴体一体型のファストバック式風防から涙滴型風防に変更されている。最高速度こそは三式戦闘機に劣っているが、運動性能や離着陸性能は優れていた。生産数は400機前後と少ないが、最優秀戦闘機の一つといえる。

 

五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.0m
全長 8.92m
全高 3.75m
全備重量 3,495kg
上昇力 5000mまで6分00秒
最大速度 580km/h
エンジン出力 1500馬力
航続距離 5時間30分/2200km(増槽装備時)
武装 20mm機関砲(ホ5)2門(弾数各200発)
   12.7mm機関砲(ホ103)2門(弾数各250発)
設計開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 陸軍が1943年に制式採用した初の液冷エンジン戦闘機飛燕であったが、液冷エンジンの不調に泣かされた航空機であった。このエンジンは、ドイツ製DB601エンジンの製造ライセンスを取得し国産化したものでハ-40(海軍名「熱田」。統合名称「ハ-60」)と呼ばれている。

 高性能エンジンではあったが、DB601エンジンは、本家のドイツでも生産に手を焼く程の難物であり、当時の日本の基礎工業力、技術力ではこのエンジンを生産できる水準には達していなかった。さらに戦争が開始されると熟練工は徴兵されて、代わりに素人の徴用工、動員学徒、挺身隊等が生産を担ったため工作精度が大幅に低下し、生産が遅れた上、信頼性の低いエンジンとなってしまった。

 三式戦闘機況燭任呂海離-40をさらに改良したハ-140を採用したが、ハ-40以上に工場での生産は滞っていた。これに対して三式戦闘機況燭竜‖里寮源困録覆鵑任い燭燭瓠工場にはいわゆる「首無し機」が溢れかえることになった(儀燭亮麑気靴眤減澆靴討い襦)。このため陸軍航空本部は1944年10月、況燭離┘鵐献鵑鬟-140から空冷のハ-112供奮し殻勝峩眄62型」)への換装に踏み切り、名称をキ-100として正式に試作命令を出した。

 

開発

02_五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 実は三式戦闘機の空冷化の研究は以前から行われていた。これは1943年4月に三式戦闘機で編成された飛行第68戦隊がラバウルに進出した際、液冷エンジンの不調に悩まされたことにより始まったものであった。このためキ-100の設計は順調に進み、試作命令から2ヶ月後の1944年12月には設計完了、1945年2月には試作1号機が完成、同月初飛行した。

 性能は最高速度が三式戦闘機の600km/h超から580km/hに低下、急降下性能も劣ったが、翼面荷重が190kg/屬ら175kg/屬妨詐したため離着陸性能、運動性能がが向上した。この設計変更での一番の問題はハ-112競┘鵐献鵑粒扱造三式戦闘機の胴体よりも大きいことで、これを埋めるために推力式単排気管を並べて段差を埋め、さらには大型のフィレットを被せることで解決した。

 武装は計画では、胴体内に20mm機関砲(ホ5)2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲(ホ103)2門(弾数各250発)を装備する予定であったが、生産段階では翼内砲は廃止され20mm機関砲のみが搭載された。照準器は三式射爆照準器で、250kg爆弾2発を搭載することができた。風防は当初は胴体と一体化したファストバック式風防であったが、途中から涙滴型風防に変更された。

 

 エンジンを排気タービン付きのハ-112競襪亡港した高高度性能を向上させたタイプで、1945年2月に設計開始、4月には設計が完了、5月に1号機が完成した。性能は、高度6000mまでは儀燭諒が10km/h程優っていたが、8000mでは況燭585km/hと15km/h優越し、10000mでは最高速度565km/hを発揮、儀燭30km/h以上上回った。

 上昇時間は高度5000mまでが儀燭6分00秒であるのに対して6分40秒、10000mまでの上昇が儀20分に対して況燭18分で到達することが出来た。これに対して航続距離は儀燭鉾罎拊擦、増槽なしで3時間、増槽付きで5時間30分と儀燭鉾罎30分短かった。

 エンジンに泣いた日本航空機にしては珍しくこの況浸邵邉,魯┘鵐献鵐肇薀屮襪少なく、量産されていればかなりの活躍をした可能性がある。しかし、9月から生産が開始される予定であったが、終戦となり試作機が3機生産されるにとどまった。

 

生産数

 生産数は合計390機(または398機以上)であった。終戦時には台湾に展開していた飛行第17戦隊が11機の五式戦を保有、終戦後に台湾空軍に引き渡された。さらに中部方面に展開していた飛行第5戦隊が25機、小牧基地に展開していた飛行第111戦隊が約90機の五式戦闘機を保有していたことが判明している。

 

戦歴

 最初に五式戦闘機が配備されたのは飛行第18戦隊で1945年3月に五式戦の未修教育を受けた後、五式戦が配備、同年4月7日に初空戦を行った。4月22日、明野教導飛行師団に配備された五式戦も空戦に参加、P51相手に奮戦している。東京では調布の244戦隊が五式戦へ改変、5月17日には沖縄航空戦へ参加するため九州へ向かった。同じく5月には歴戦の59戦隊が五式戦に改変、芦屋に進出、月末には清洲に展開していた5戦隊もそれまでの二式複戦に代わり五式戦を受領している。

 1945年6月5日には、明野教導飛行師団の五式戦が岐阜上空で爆撃終了後帰途についた敵機を迎撃、11機に及ぶ撃墜戦果を挙げている(連合軍側資料)。6月中旬には5戦隊も戦列に参加、中部方面の防空戦に活躍した。同月、17戦隊がそれまで装備していた三式戦を19戦隊に引き渡して五式戦に改変、さらに7月18日には新しく明野教導飛行師団第一教導飛行隊を基幹として111戦隊、常陸教導飛行師団教導飛行隊を基幹とした112戦隊が編成、どちらの戦隊にも五式戦が配備された。

 これらの戦隊はその後も本土防空戦に活躍、少なくない戦果を挙げたものの衆寡敵せず、8月14日に行った244戦隊の迎撃戦が五式戦最後の戦いとなった。

 

まとめ

 

 五式戦闘機は三式戦闘機の液冷エンジン不調若しくは不足から誕生した高性能戦闘機であった。信頼性の高い空冷エンジンを使用することで信頼性が高くなり、速度が遅くなった分、運動性能は上がり空中戦で活躍した。第二次大戦時の最強戦闘機と言われたP51マスタングにも十分に対抗できる戦闘機であったといわれている。

 

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01_疾風
(画像は四式戦闘機疾風 wikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦時に製造された木製戦闘機としてはイギリスのモスキート戦闘機が有名であるが、日本でも四式戦闘機疾風を木製化したキ-106が製造された。生産数はわずか10機で性能は四式戦闘機には遠く及ばなかったが一部が実戦部隊である北海道に展開する54戦隊で運用された。

 

キ-106 〜概要〜

 

性能

※武装一号機の要目

全幅 11.24m
全長 9.92m
全高 3.38m
全備重量 3175kg
上昇力 5000mまで7分30秒
最大速度 580km/h
エンジン出力 2000馬力
航続距離 - km(増槽装備時)
武装 胴体に20亠ヾ慄2門、翼内に12.7亠ヾ慄2門
開発 品川信次郎 / 立川飛行機

 

開発

 1943年9月、立川飛行機に中島飛行機製キ-84木製化の試作の内示があり、同年12月に正式に試作指示が出た。1号機は1944年9月に完成した。設計にあたったのは品川信次郎技師で、キ-84の構造が胴体分割構造で主翼と胴体は一体であったが、キ-106は胴体が一体構造主翼は胴体翼と外翼に分割されていた。つまりは主翼の根元部分は胴体と一体化おり、その先に別付けで外翼を装着した形である。

 材質は胴体、主翼共に全木製で主要部分には強化木と積層材が使用されていた。金属に比べ強度が不足するため翼厚は全体に約10%程増大されていた。外観上は重量バランスの変化に対応するため機首が延長された他、脚カバーの形状がキ-84と異なっている。

 初飛行は1944年10月で最高速度はキ-84の624km/hに対して、580km/hと大幅に低下しており、さらに5000mまでの上昇力はキ-84の6分26秒に対して7分30秒と1分以上も低下した。その他着陸速度、離着陸滑走距離、空戦性能全てにおいてキ-84よりも低下していたが、安定性と操縦性は同等であった。組み立て時に使用した接着剤に問題があったようで、試験中に主翼下面外板が剥離・脱落するという事故があった。

 これらの結果を踏まえ、キ-106は錬成用機、試作中止機、研究機と扱いが二転三転した上で生産されるようになったが、やはり強度上、実用機として使用するには問題があったようだ。武装軽減型である況拭∧座練習機型などが計画されていた。

 生産は立川飛行機、王子製紙、呉羽紡績の3社で行われ、王子製紙江別工場で製作されたものは1945年6月に初飛行した。2号機は8月に福生まで800km以上の飛行を行っている。生産された10機の内、4機は北海道の飛行第54戦隊で運用された。戦後に試作2号機と生産1号機が米国に運ばれている。

 

生産数

 立川飛行機で4機、王子製紙江別工場(苫小牧工場とも)で3機、呉羽紡績富山工場で3機の合計10機が生産された。さらに組み立て済みが2機、荷重試験機が2機製作されたている。

 

 

戦歴

 

 

まとめ

 

 キ-106は重量増加のため飛行性能は四式戦闘機に大きく劣ってしまったが、それでも最高速度は580km/hと当時の海軍の主力戦闘機零戦52型の560km/hに比べて優速ではあった。1994年に王子製紙江別工場があった早苗別川畔から設計図が発見されている。機体の一部の主翼骨組みと落下タンク、主車輪が現存している。

 

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01_疾風
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式戦闘機は1944年(皇紀2604年)に採用された重戦闘機である。試作名称はキ-84で通称は「疾風」連合軍コードネームは「フランク」である。当時芸術品とまで言われたハ-45エンジンを搭載した陸軍唯一の航空機であり、大東亜決戦機と呼ばれ、陸軍の期待を一身に背負った傑作機である。

 

四式戦闘機 疾風 〜概要〜

 

 

性能(一型甲)

全幅 9.92m
全長 11.24m
全高 3.38m
全備重量 3890kg
上昇力 5000mまで5分弱
最大速度 655km/h
エンジン出力 2000馬力
航続距離 2500km(2920km)(増槽装備時)
武装 20mm機関砲2門(弾数各150発)、12.7mm機関砲(弾数350発)


開発 小山悌 / 中島飛行機

 

背景から開発まで(ハ-45エンジン)

02_ハ45
(画像はwikipediaより転載)

 

 ハ-45エンジン(海軍名「誉」)は、中島飛行機が開発した2000馬力級エンジンで、ハ-25(海軍名「栄」)を基に開発したエンジンであった。1940年9月に試作指示、1941年3月に試作品が完成、1942年9月に海軍に「誉」エンジンとして制式採用された。同年12月より大量生産が行われた。

 ベースとなった栄は最高出力1150馬力の14気筒エンジンであったが、これを18気筒に増やした上で過給機の強化、エンジン回転数の増大、高オクタン燃料の採用、水メタノール噴射等を行った。さらに軽量・コンパクト化のためクランクケースを特殊鋼鋳造品にする等した結果、外径1180mm、重量830kgという驚異的な小型エンジンが完成した。

 同時に誉エンジンはあまりにも技術的に先端を追求した結果、構造は複雑精密になり、戦争後期の熟練工不足や物資の欠乏によって本来の能力を発揮することが出来なかった。あまりの精密さ故に芸術品と呼ばれた「奇跡」のエンジンは、同時に「悲劇」のエンジンでもあった。

 

開発

 キ-84開発計画が内示されたのは1941年12月であったが、太平洋戦争開戦後ということもあって1年以内に試作機が完成することを要求するという無茶ぶりであった。さすがに試作機の完成は無理であったが、何と、これに対して中島飛行機は設計主務者小山悌技師を中心に陸軍機担当のスタッフを総動員して1942年11月には設計を完了させた。内示からわずか11ヶ月であった。

 試作機は4ヶ月後の1943年3月に完成、4月に初飛行した。6月には2号機も完成する。8月には第一次増加試作機の内、3機も完成した。試作されたキ-84は性能試験中、最高速度631km/hを記録している。当初の計画では試作機が3機、増加試作機が5機の予定であったが、実際に製作された試作遺は2機で、増加試作機は合計125機(第一次83機、第二次42機)という膨大な数であった。これは短期間の内に審査を完了し、円滑な実用化と部隊装備を可能にし、工場側の生産を早めるためである。1944年3月に第一次増加試作機83機が完成、第二次増加試作機も4月までに40機が完成、6月で全ての増加試作機の生産を完了した。

 

キ-84試作機・増加試作機

 2機の試作機と初期の増加試作機は、方向舵下部が後方に突出した形になっており、エンジンの排気管は推力式集合排気管を装備していた。これらは後期型以降は量産型と同形に改められ、排気管も推力式単排気管に変更されている。推力式単排気管とは日本の後期の戦闘機等によく見られるエンジンと機体のつなぎ目にある排気口が複数後方に向かっているタイプのもので、この形式にするだけで速度が10〜20km/h速くなる。これはロケット効果であると言われているが、排気流による機体上面の整流効果が速力増大につながったとも言われている。

 

キ-84甲・乙・丙・丁型

 初期の量産型で武装は胴体内に一式12.7mm固定機関砲(ホ103)2門を装備、翼内に20mm固定機関砲(ホ5)を2門装備した型。弾数はホ103が各350発、ホ5が各150発である。因みにホ103は航空機に左右並べて搭載するため弾薬を左側から装填する甲型、右側から装填する乙型があった。キ-84の場合は左が甲型、右が乙型である。

 乙型は胴体砲、翼内砲ともに20mm機関砲(ホ5)を装備した機体である。この乙型には甲部胴体、水平安定板、翼端等を木製化したキ-84供兵隻改)と呼ばれる機体もあった。

丙型は胴体内に20mm機関砲(ホ5)2門、翼内に30mm機関砲(ホ105)を搭載した型で1門搭載型と2門搭載型があったがどちらも試作のみで終わった。

 丁型は夜戦型で操縦席後方に45度の角度で20mm機関砲(ホ5)を装着したもので1944年9月にに完成したが、結局2機が改造されたのみであった。

 

キ-106

 キ-84の主要部分を木製化したもので、1943年9月22日、立川飛行機に試作が内示、12月には正式に試作指示が出た。主に品川信次郎技師が設計を担当した。1944年9月に試作機が完成した。材料の変更に伴い機体構造は大きく変わった他、垂直尾翼、脚カバー等の形状が変更された。自重はキ-84に比べて約477kg、全備重量は260kg増加した。

 1944年10月初飛行。最大速度はキ-84を下回る580km/h、5000mまでの上昇時間は7分30秒とキ-84量産型に比べ2分30秒以上遅くなった。武装は試作機が胴体内に12.7mm砲、翼内に20mm砲を搭載していた(量産型では逆)。試作機が4機、量産機が6機生産された。内4機は北海道の54戦隊で運用された。戦後2機が米国に運ばれている。

 

キ-116

 キ-116はエンジンを信頼性が高く余裕のある設計であったハ-112兇亡港したもので1945年3月満洲飛行機に試作指示が出された。同年7月に試作機が完成した。同エンジンはハ-45に比べ190kgも軽かったため、重心位置の変更を行いプロペラも3翅に変更した。自重でキ-84よりも500kgの軽量化に成功し、全備重量も3250kgで翼面荷重も155kg/屬板磴抑えられたバランスの良い機体であった。ソ連の進攻によって機体、設計図共に関係者の手により処分された。

 

その他実験機

 キ-84サ号機は、キ-84の高高度性能実験機でエンジンのシリンダー内に水メタノールの代わりに酸素を噴射するようにした実験機である。高度9000mで速度が約50km/h向上したが実用化前に終戦となった。

 

設計・計画のみ

 キ-84靴惑啜ぅ拭璽咼鷁甬覺鑄佞のハ-45ルを装備する予定であったが計画のみに終わった。キ-84Rは二段三速過給器付きハ-45・44エンジンを搭載した高高度性能の向上を狙った型でプロペラも直径3.5mのものに変更される予定であったがこちらも計画のみで終わった。キ-84Nは1945年6月に開発が決定した性能向上型でキ-84Pはエンジンを2500馬力ハ-44・13型に換装、高高度迎撃機とする予定であった。キ-117はエンジンをハ-44・13型に換装、主翼を1.5屬砲靴臣羚眦拈鐺機となる予定であった。

 

生産数

 各型含めおよそ3500機が製造された。

 

配属部隊

 疾風が最初に装備された部隊は飛行第22戦隊で、1944年3月に編成された。飛行隊長は歴戦の岩橋譲三少佐で搭乗員には熟練者が多く在籍している。8月には錬成が完了したため大陸打通作戦の一環である湘桂作戦に参加するため中国大陸に進出、連日の空戦に活躍した。同じく1944年3月上旬には一足遅れで第1戦隊、第11戦隊が疾風への改編、4月28日には第51戦隊、第52戦隊、5月には第71戦隊、第72戦隊、第73戦隊が新たに編成されたが、70番台の戦隊に疾風が供給されたのは7月であった。

 1944年7月に入ると中国大陸に展開している第85戦隊も二式単戦から疾風に改変、9月より供給されている。他にも新たに第101戦隊、第102戦隊、第103戦隊、第104戦隊、第200戦隊が編成を開始、これらの部隊は10月から年末にかけて疾風を受領している。これら疾風装備の部隊は9月には比島に進出、10月には少数(10機)ではあるが台湾沖航空戦に参加、海軍攻撃機の護衛を務めたが、最も疾風が投入されたのは比島戦である。

 比島には疾風装備の戦隊の内、9月に51戦隊と52戦隊が最初に進出、10月には11戦隊、1戦隊、22戦隊、200戦隊が進出した。11月になるとさらに第21飛行団の71戦隊、72戦隊、73戦隊が進出するなど85戦隊と100番台の戦隊以外の全ての戦隊が参加しているが、1945年初頭には多くの戦隊が消耗し逐次比島を去っていった。1945年3月になると米軍は沖縄に上陸、九州に展開していた疾風装備の第100飛行団所属101戦隊、102戦隊、103戦隊が沖縄航空戦に参加している。

 内地では47戦隊、112戦隊、246戦隊、第1錬成飛行隊、常陸教導飛行師団、陸軍審査部等が疾風を装備、他にも台湾では29戦隊と24戦隊が疾風を受領、ビルマ仏印方面では50戦隊、中国大陸では9戦隊、25戦隊、前述の85戦隊、満洲方面では104戦隊が疾風を受領している。

 

まとめ

 

 四式戦闘機疾風は陸軍唯一のハ-45エンジン搭載機である。海軍が早い段階からハ-45(海軍名「誉」)エンジンに目を付けたのに対して陸軍は四式戦闘機が唯一の採用というのが面白い。稼働率の低さという問題はあったものの、武装、速度、空戦性能、防弾性能共に平均以上の能力で、第二次世界大戦の万能戦闘機の一つに数えらえている。最高速度は660km/hであるが、戦後米軍の試験では最高速度は687km/hに達したという。著名な海軍のパイロット坂井三郎は著書において最高の戦闘機ベスト3中3位にこの四式戦闘機を挙げている(1位はP51マスタング、2位は零戦)。傑作機中の傑作機である。

 

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01_飛燕
(画像はwikipediaより転載)

 

 三式戦闘機は日本では珍しい液冷エンジン搭載の戦闘機である。陸軍の軽・重戦闘機という区分に疑問を持った設計者が完成させた中戦ともいわれる機体は日本の航空機には珍しく頑丈であった。最高速度は590km/hであるが、況寝では610km/h、成層圏でも編隊飛行が可能であった。しかし信頼性の低い液冷エンジンを採用したためエンジンの不調に悩まされることとなった。

 

三式戦闘機 飛燕 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.0m
全長 8.94m
全高 3.70m
全備重量 3,470kg
上昇力 5000mまで7分00秒
最大速度 560km/h
エンジン出力 1175馬力
航続距離 1800km(増槽装備時)
武装 20mm機関砲2門(携行弾数120発)、12.7mm機関砲2門(携行弾数250発)
   250kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 三式戦闘機が登場するまで、日本陸軍の戦闘機は空冷エンジンを装備していた。空冷エンジンは液冷に比べ空気抵抗があるものの、取り扱い易さや信頼性においては上回っていたからである。しかしドイツの新型戦闘機Bf-109が液冷エンジンで高性能を発揮したことから陸軍は液冷エンジンに興味を示し、Bf-109が搭載していたDB601エンジンをハ-40としてライセンス生産することとなった。

 

開発

 1940年2月、陸軍は当時の戦闘機の基本方針である軽・重戦闘機の2本立ての計画から川崎航空機にハ-40発動機を使用した重戦闘機キ-60と軽戦闘機キ-61の試作が指示された。これが後の三式戦闘機飛燕である。設計は1940年12月に開始されるが、主任設計者の土井技師はこの区分に疑問を持ち、軽重の区分にとらわれない戦闘機の開発を志向した。

 1941年12月、1号機が完成する。同月初飛行に成功した。試作機は3機製造され、さらに9機の増加試作機が製造された。この増加試作機のテスト結果は、最高速度が高度6000mで591km/h、上昇時間が10000mまで17分14秒、実用上昇限度11600mと良好であり、その他の性能も全てが満足行くものであった。1942年8月から量産が開始され、1943年6月に三式戦闘機として制式採用された。

 パーツ毎に一体構造で作られた機体は非常に頑丈であった。降下限界速度も850km/hと高く、三式戦闘機では一度も空中分解事故は起こらなかったと言われている。武装は7.7mm機銃2挺と12.7mm砲2門、または12.7mm砲4門で運動性能を示す翼面荷重(機体重量を翼面積で割ったもの)は147.5kg/屬任△辰拭これは抜群の運動性能を誇った一式戦闘機隼が102kg/屐⇔軅21型が108kg/屬任△襪里鉾罎戮襪搬腓いが高速重戦闘機キ-44鐘馗の翼面荷重は171kg/屬茲蠅肋さい数値である。因みにこれらは全て当時の諸外国の戦闘機に比べると低い方ではある。

 

三式戦闘機儀

04_飛燕丁
(画像は三式戦闘機儀拭wikipediaより転載)

 

 儀森辰蓮∈能蕕領婿叉,1942年8月に1号機が完成している。武装は機首胴体内に12.7mm砲(ホ103)2門、翼内に7.7mm機銃(89式)2挺である。燃料タンクはゴムに覆われ防火装置となっている。儀寝気詫稙睨い12.7mm砲(ホ103)に変更し、12.7mm砲4門となった。胴体内燃料タンクは廃止、以降、三式戦闘機の搭載燃料は500Ⅼになった。

儀進困詫稙睨い鬟泪Ε供151/20・20mm砲に換装したタイプで1943年9〜1944年7月まで生産された。総生産数は388機(400機説あり)で現地で改修されたものもある。儀臣は胴体砲を20mm砲(ホ5)に換装したタイプで胴体燃料タンクも95Lではあるが復活した。潤滑油タンクの設計を変更したため全長が8.94mと20cm長くなった。この改造の結果、重量は250kg、最大速度は30km/h低下した。1944年1月から1945年1月までに1358機が生産された。

 

 性能向上型である況燭1942年4月に設計が開始される。1943年3月には設計完了、同年8月に試作1号機が完成した。エンジンは1500馬力のハ-140で、全長は9.16mと丁型よりも40cm程延長され、翼面積も22崛大し、垂直尾翼も大型化された。武装は胴体に20mm砲(ホ5)2門、翼内に12.7mm砲(ホ103)2門であったが期待した性能が出せる見込みがなかったため、試作機3機、増加試作機8機が製作された段階で計画は打ち切られた。

 

況寝

05_五式戦
(画像は五式戦闘機 wikipediaより転載)

 

 況寝は、況燭瞭溝里縫-140エンジンを搭載、儀臣の主翼を取り付け、部分的な改修を施した機体で1944年4月に完成した。総重量は2825kgで最高速度は高度6000mで610km/h、10000mでも544km/hを出すことが出来たことから三式二型として制式採用され、1944年9月から生産を開始し終戦までに374機が生産された。この内99機は完成したが、ハ-140の生産が遅れたため275機はエンジンの生産待ちの状態になってしまった。このため空冷式エンジンであるハ-112(海軍名「金星」)を装着した五式戦闘機(キ-100)となった。前期型は通常の三式戦闘機の風防であるが、後期型は水滴風防を採用している。

 

その他

 儀燭1機が翼面蒸気冷却実験機に改修されている他、儀臣の翼内砲を30mm砲2門とした実験機も存在する。

 

生産数

 三式戦闘機飛燕の総生産数はかなり異説がありはっきりしないが、総生産数は2844〜2888機前後である。儀燭蝋膩2746機で、試作機が3機、増加試作機が9機、儀森辰388機、乙が591〜603機、丙が388機(400説あり)、丁が1358機で、況燭倭加試作機30機、量産機が100機程度である。さらには五式戦闘機に改修された機体が275機あり、これらを含めた合計は3150機前後であるといわれている。

 

配属部隊

 1942年4月18日、未だ制式採用前の飛燕は水戸飛行場で試作機として試験中であった。そこにドーリットル少佐率いるB-25が来襲、緊急出動して迎撃したというのが飛燕の初陣であった。2機の飛燕が迎撃に出撃したものの1機は敵機を発見することなく帰還、もう1機は敵機を発見、攻撃をかけたもののそれまでの試験で燃料を使い果たしていたため致命傷を与えることができなかった。

 最初に飛燕が配属された部隊は68戦隊で1942年12月に改変を開始、翌1943年3月に完了した。この68戦隊は空母春日丸(のちの大鷹)に搭載されトラック島に到着、そこから空路ラバウルに進出している。次に飛燕が配備されたのは78戦隊でこちらは1943年4月〜6月にかけて改変を行い、7月には78戦隊もニューギニアに進出している。同時期に東京調布の244戦隊も飛燕が配備された。

 1944年になると17戦隊が飛燕を装備してフィリピンに進出、続いて19戦隊も同じくフィリピンに進出した。他には18戦隊、55戦隊、56戦隊、59戦隊、105戦隊、第7錬成部隊、独立23中隊、さらには明野、水戸等の教導団でも飛燕を装備、特攻機としても使用されている。

 

まとめ

 

 三式戦闘機は日本では数少ない液冷エンジン搭載の戦闘機である。このためエンジン不調に泣かされたが、機体は頑丈で一度も空中分解事故を起こすことは無かった。生産されたのは儀燭ほとんどであるが、戦争後期に完成した況寝は生産数こそは少なかったものの高度10000mの成層圏で544km/hというB-29と同等の速度を出すことが出来た。これは日本の戦闘機としては稀有なことであった。

 


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01_屠龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 二式複戦屠龍は攻撃機の長距離掩護、制空戦闘を目的に開発された日本初の双発複座戦闘機である。開発は難航したものの完成した屠龍は傑作機として評価が高い。太平洋戦争初期から終戦まで活躍した。特に本土防空戦ではB29相手に活躍した。

 

二式複戦 屠龍 〜概要〜

 

 

性能 キ-45改甲

全幅 15.07m
全長 11.0m
全高 - m
全備重量 5270kg
上昇力 5000mまで7分00秒
航続距離 1500km
出力 1080馬力は102エンジン2基
最大速度 540km/h(547km/hとも)
武装 20mm機関砲2門
   12.7mm機関砲2門
   7.92mm旋回銃1挺

 

背景から開発まで

 1930年代になると先進各国は双発複座戦闘機の開発に乗り出していた。理由は複座戦闘機ではれば後席の旋回機銃によって戦闘をすることができ、さらには航法にも有利ということであった。その上双発であれば速度、航続距離が飛躍的に高まり爆装することで軽爆撃機としても使用できるというメリットからであった。

 日本も同時期に複座戦闘機、1937年には双発複座戦闘機の開発が開始された。これはキ-38と呼ばれる制空、攻撃機の援護、対地攻撃を目的とした機体であった。研究は中島、川崎、三菱の3社に指示され、川崎のみが作業を進めることとなる。

 結局、この計画は中止され、キ-45開発へと発展することとなる。この計画中止の背景には陸軍が新しい双発複座戦闘機の方針を確立していなかったからだと推測されている。

 

開発(キ-45)

 川崎に対して開発が命じられたキ-45は1938年1月に設計に着手する。性能要求は主に掩護、制空戦闘機としてであった。形式は双発単葉複座で最高速度は540km/h、武装は固定機関砲1門、固定機関銃2挺、旋回機関銃1挺であった。これらの要求を踏まえた上で設計を開始、1939年1月に日本初の双発複座戦闘機であるキ-45試作1号機が完成する。

 完成したキ-45は流線形の胴体に翼の先端に行くほど幅が狭まる楕円テーパー翼を採用し、エンジンはコンパクトな790馬力空冷9気筒エンジンハ-20乙を採用した。脚は引込式ではあるが、搭乗員が手動で行うもので、武装は胴体下に20mm機関砲1門、機首に7.7mm機銃2挺、後方に7.7mm旋回銃1挺を装備していた。照準器は眼鏡式である。

 完成したキ-45試作機は不調の連続でテストは難航した。特にエンジンの不調は深刻であったため、1940年4月にハ-20乙エンジンは不採用となり、ハ-25エンジン(海軍名「栄」)が採用されることとなった。この栄エンジンは1933年に設計開始、1934年に完成したエンジンでこの時点ではすでに海軍の九七式艦攻で実用化されていたエンジンであった。

 このエンジンを装着したキ-45はハ-20乙が最高速度480km/hであったのに対して520km/hと好成績を出した。このため増加試作機8機も全てハ-25に換装されたが、実用機としては不満があるということで1940年10月不採用となった。そして第二次性能向上機としてキ-45改の開発が開始された。

 

開発(キ-45改)

 1940年10月、キ-45改の試作及び生産命令が発せられた。この時点で川崎側はキ-45には見切りをつけ、新たに採用された九九式双軽(キ-48)をベースにキ-45改の開発を開始した。これは1941年5月に設計完了、同年6月に試作1号機が完成した。

 このキ-45改はエンジンに1080馬力ハ-102(海軍名「瑞星21型」)を使用、機体はキ-45よりも若干大型化した。テストされたキ-45改は最高速度が540km/hとキ-45を20km/h上回り、上昇力、航続力等あらゆる点で申し分ない高性能を発揮、1942年2月に二式複座戦闘機として制式採用された。制式採用の前月の1942年1月から川崎航空機岐阜工場、明石工場で量産機の生産が開始された。

 

キ-45改甲

02_屠龍甲
(画像はwikipediaより転載)

 

 初期の量産機である。機首に12.7mm砲(ホ103)2門、胴体右下に試製20mm固定機関砲(ホ3)1門、後席に7.92mm(九八式)旋回機関銃1挺を装備している。ホ3はフランス製ホチキス20mm対空機関砲を改造したもの、九八式旋回機関銃はドイツ製MG15機関銃を国産化したものである。さらに操縦席と後席の間に2門の12.7mm砲(ホ103)を上向砲(いわゆる斜め銃)として装備した夜間戦闘機仕様のキ-45改甲丁装備機と呼ばれる機体もあった。

 

キ-45改乙

 

 乙は、甲の装備はそのままで胴体下の20mm機関砲を九四式37mm戦車砲1門に換装したタイプである。1943年1月から6月までおよそ20機が換装された。この九四式37mm戦車砲は九五式軽戦車の主砲として開発されたもので連射機能はなく搭乗員が手動で装填した。初速は575m/s 、発射速度2発/分、最大射程7000mで100mで25mmの鋼板を撃ち抜くことができる。 後期型は主翼付け根に増槽架兼爆弾架が設置された。

 

キ-45改丙(二式複戦改、二式襲撃機)

03_屠龍丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 機首に37mm砲(ホ203)、胴体下に20mm砲、後席には7.92mm九八式旋回機関銃を装備したもの。陸軍航空工廠において1943年3月に設計開始、同年5月に試作1号機が改修された。外観上の特徴は銃身が機首から突出している。同年10月までに65機が改修された。その後、川崎航空機でも生産された。この型は機首を延長して砲身がカバーされている。ホ203は全長1.53m、重量89kg、セミオートで装弾数16発、初速576m/s 、射程900mである。二式複戦改、二式襲撃機とも呼ばれていた。

 

キ-45改丁

04_屠龍丁
(画像はwikipediaより転載)

 

 丙に12.7mm砲(ホ5)2門を上向砲として搭載した夜間戦闘機型。砲は操縦席と後席の中間に設置された。キ-45改中、最も活躍した最強のキ-45改である。

 

その他改良型

 

ホ204装備機

 機種に37mm砲(ホ204)を搭載した機体。1943年1月に1機のみ試作。ホ204は1943年9月に完成した砲で米国ブローニング社の37mm機関砲を改造したもの。

 

ホ401装備機

 機首に57mm砲(ホ401)を搭載した機体。1機のみ試作。砲身が2.4mに達するため機首を1m延長した。ホ401は1944年に日本特殊鋼株式会社製で開発された砲で、セミオートで発射速度は50発/分(30発とも)、初速565m/s であった。

 

ホ301装備機(戊型)

 胴体下部に40mm機関砲(ホ301)を搭載し、レーダー(タキ2号)を搭載した試作機。ホ301はは陸軍航空技術研究所によって開発されたロケット弾を発射する機関砲である。全長1.5m、重量40kg、初速220m/s 、発射速度400発/分。

 

その他改修機

 1944年12月に電波暗視器装備機が陸軍航空工廠で1機のみ試作。1945年3月にはビーコン装備機が陸軍航空工廠で1機のみ試作。1944年3月には高高度飛行用装備実験機が陸軍航空工廠で1機のみ試作された。高高度飛行を可能とするため高高度用の改良を加えたハ-102特エンジンを装備したが成功しなかった。他にも1942年8月にはエンジンをハ-112に換装、翼面積を増大したキ-45改兇計画されていた。

 

生産数

 キ-45は試作機3機、増加試作機8機の11機。キ-45改(屠龍)は、試作機3機、川崎航空機岐阜工場で320機、明石工場で1367機の合計1690機が生産された(1704機説あり)。

 

配属部隊

 1942年1月上旬、当時ハノイに展開していた独立飛行第84中隊が9機の屠龍を受領、これが最初に屠龍を受領した部隊である。この中隊は同年10月に1戦隊から人員を補充、21戦隊となった。次に受領したのは5戦隊で同年3月から配備が開始されている。その後4戦隊、13戦隊も屠龍を受領、5戦隊と共に全面的に屠龍に改変した。

 1943年にはB-17の重装甲を破壊するために37mm砲を装備した改造型が完成、本機で独立中隊を編成、特別攻撃隊と名付けられた同隊がラバウルに進出しているが目立った戦果はなかった。1944年2月には屠龍を襲撃機型に改造した二式複戦改が45戦隊に配備されていた他、27戦隊も同機を装備していた。

 本土防空戦では初期の九州への空襲に4戦隊が対応、大きな戦果を挙げた。関東地区では53戦隊が屠龍を装備防空戦闘に活躍している。中部地区は南方から帰還した5戦隊が担当、斜め銃を装備してB-29迎撃に活躍したが1944年5月末に五式戦に改変された。他にも満洲では25中隊が終戦までソ連軍機甲師団相手に健闘している。

 

まとめ

 

 長距離掩護、または制空戦闘機として開発された日本初の双発複座戦闘機屠龍は戦争後期には37mm砲を装備した対爆撃機用戦闘機として活躍する。この屠龍を駆って撃墜不可能と言われたB-29爆撃機を多数撃墜した樫出勇大尉等の活躍も有名である。

 

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01_零戦
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 零式艦上戦闘機、通称零戦は、堀越二郎技師の設計による三菱製の艦上戦闘機で1939年4月に初飛行、1940年9月13日に初空戦を行った。特徴は圧倒的な運動性能と20mm機銃という強力な火力で日中戦争から太平洋戦争初期には威力を発揮した。太平洋戦争開戦以降も幾度か改良が行われつつ終戦まで使用され続けた。生産は中島飛行機でも行われ、総生産数は10000機以上にも上る。これは日本の航空機生産史上最高である。

 

零式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(五二型)

全幅 11.0m
全長 9.121m
全高 3.57m
全備重量 2.733kg
上昇力 6000mまで7分01秒
航続距離 全力30分+2560km(増槽装備時)
出力 1130馬力
最大速度 565km/h
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺

 

背景から開発まで

 1937年10月5日、三菱と中島飛行機に海軍の次期艦上戦闘機計画要求書が交付された。この要求書では次期艦上戦闘機は格闘戦性能は九六戦と同等にして速度、上昇力、航続距離を大幅に向上させるという不可能に近い要求であった。このため中島飛行機は試作を断念。三菱のみが十二年試作艦上戦闘機製作を行うこととなった。

 

開発

 当時、設計するにあたって使用できるエンジンは三菱製の780馬力瑞星と1000馬力の金星の2基しか存在しなかった。瑞星はコンパクトではあったが馬力が弱く、逆に金星は大型であったが高馬力であった。これらを選考した結果、非力ではあるが、コンパクトな瑞星が選定された。

 エンジンの馬力が弱いことから設計には特に重量軽減と空気抵抗を極力少なくすることに注意が払われた。このため軽量で強度の高い超々ジュラルミン、沈頭鋲の採用、海軍戦闘機初の引込脚や世界初の水滴型増槽も採用された。

 これらの斬新な技術を取り入れた十二試艦戦は1939年3月に試作1号機が完成、同年4月に初飛行が行われた。1939年9月海軍に領収され、2号機も翌月に領収されている。これら2機の試作機のエンジンは瑞星であったが、1939年中頃に中島飛行機において瑞星よりも軽量小型である栄エンジンが完成したことからエンジンを栄エンジンに換装することとなった。

 栄への換装は増加試作機1号機である通算3号機から行われた。換装の結果、最高速度が533km/hに達する等高性能を発揮したが、1940年3月11日、奥山益美工手(操練21期)が操縦する試作2号機が空中分解事故を起こしてしまう。これは急降下時におけるフラッター異常であり、早速改修工事が行われた。この事故の約3ヶ月後の7月21日、前線からの要望により制式採用前の十二試艦戦15機が前線に送られた。同月24日、零式一号艦上戦闘機一型として制式採用された。

 

零戦11型

02_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

 1939年3月16日、零戦試作1号機が完成した。同年4月1日、初飛行。これが世界初の零戦で量産型と異なりエンジンが瑞星という780馬力という非力なエンジンであった。量産型に比べて胴体が30センチほど短い。この2機の内、2号機は事故で失われている。エンジンを940馬力栄12型に換装した11型は1939年12月28日に初飛行、1940年7月24日正式採用された。この11型は総数64機(wikipediaでは60機)生産されており、太平洋戦争初期まで使用されていたようだ。着艦フックは付いているものと付いていないものがあった。

 

零戦21型

03_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 この11型を改良したものが零戦21型で1940年12月4日正式採用された。この型は11型の翼端を折り畳めるようにしたもので三菱で740機、中島飛行機で2628機生産された。21型は1944年春まで中島飛行機によって生産が続けられ、太平洋戦争初期から終戦まで使用し続けられた。エースパイロットの坂井三郎氏曰く、21型こそが最高の零戦であるという。

 

零戦32型

04_零戦三二型
(画像は零戦32型 wikipediaより転載)

 

 この21型のエンジンを二速過給機付栄21型エンジンに換装し翼端の折畳部分を切断し角型に整形したのが32型でエンジンの換装により馬力が1130馬力に最高速度が541kmに増加したが発動機の燃料消費量の増大と燃料搭載量の減少で航続距離が減少した。さらに20mm機銃が99式1号2型に変更されて装弾数が60発から100発に増加した。1941年7月14日に初飛行、1942年春に実戦配備された。生産は三菱のみで行われ試作3機とは別に343機が生産された。これは前期型と後期型に分かれ後期型は燃料タンクが大型化されている。前期型が188機、後期型が152機生産されている。

 

零戦22型

05_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

 32型の航続距離の短さが問題となり改良されたのが22型で1942年に1号機完成、1943年1月29日に正式採用された。エンジンは栄21型を使用しているが燃料タンクは増設された。翼端も21型と同様の12mに戻される。この22型には甲という武装が変更されたモデルが存在する。甲型は99式1号の銃身を長くした99式2号3型に変更されている。22型はソロモン方面で活躍した。これも三菱製のみで560機が生産されている。

 

零戦52型

06_零戦五二型丙
(画像は零戦52型 wikipediaより転載)

 

 52型は昭和18年8月23日正式採用された。翼幅は32型と同様に11mに縮小したが、翼端は32型と異なり円形に整形された。発動機は栄21型であるが、排気管をロケット式排気管に変更したため馬力が1300馬力に増加。武装は22型甲と同様に99式2号3型で三菱でエンジンに消火装置の無い前期型と消火装置装備の後期型に分かれる。三菱で747機製造された。前期型が370機、後期型は377機である。同時に中島飛行機でも生産された生産数は3573機と言われている。52型の武装を変更したのが甲型で99式2号3型からベルト給弾式の4型に変更した。これによって携行弾数が125発になった。三菱で391機生産されている。中島製は不明。さらに甲型の右胴体銃を3式13mm固定機銃に変更した乙型が存在する。装弾数230発。三菱で470機生産された。中島製は不明。さらに両翼に13mm機銃増設、防弾強化をした重武装型の丙型がある。三菱184機(推定)、wikipeidaでは341機となっている。最高速度541km。

 

零戦53型、62/63型

 

 この52型丙のエンジンを栄31型に換装したのが53型丙で試作機のみ製作された。さらに戦闘爆撃機型の62型/63型も生産されている。62型も63型も同型である。最高速度543km。機体強度を強化、爆弾投下装置新設。栄31型エンジンを装備している機体と栄21型を装備している機体がある。  紆余曲折があったため呼び方が混乱している。三菱両社で約490機が生産されたと推定される。

 

零戦54/64型

 

 最後に製作されたのが54/64型丙で試作機が2機のみ製作された。エンジンを1500馬力金星エンジンに換装。最高速度は海軍側資料では572km。三菱側資料では563km。胴体銃は廃止され、翼内の20mm機銃、13mm機銃各2門となった。最後であり最強の零戦。

 

零式練戦11型

 

 その他、零式練戦11型が日立航空機272、21空廠で243機生産された。零式練戦は練習用の零戦で昭和18年に試作一号機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。複座式、翼端折畳廃止、固定武双は7.7mm機銃のみで20mm機銃はない。零式練戦22型も試作されたが、試作2機のみ。

 

配属部隊

 1940年7月、当時まだ制式採用前であった十二試艦戦15機が第12航空隊に配属されたのが最初である。その後11型として制式採用、9月13日には重慶上空で初空戦を行っている。同月14空にも零戦9機が配属、北部仏印進駐としてハノイに進出した。両航空隊は1941年9月に解隊するが、その間に対空砲火によって3機の零戦が撃墜されている。

 太平洋戦争開戦時に零戦を装備していた部隊は実験部隊でもある横空を除くと、空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴の戦闘機隊が126機、開戦と同時に比島攻撃を予定していた台南空と3空が各45機、さらには22航戦司令部戦闘機隊が27機であった。1942年2月になるとラバウルに進出した4空が9機(10機とも)の零戦を受領、同月より運用を開始した。

 さらに6空(のちの204空)と空母隼鷹、龍驤の戦闘機隊にも零戦が配備された。この空母に搭載された零戦は隼鷹戦闘機隊隊長の志賀淑雄少佐が半ば強引に配備させたものと言われている。1942年8月には二号零戦(のちの32型)がラバウルに進出した2空に配備されており、以降、零戦は各部隊に順次配備されていった。

 

まとめ

 

 同時期に同じく栄エンジン(陸軍名「ハ-25」)を使用した戦闘機一式戦闘機は愛称「隼」として当時から国民に親しまれていたが、実は零戦は戦中ほとんど国民には存在は知られていなかった。この零戦が一躍「ゼロ戦」として有名になるのは、戦後、零戦は著名なエースパイロット坂井三郎『大空のサムライ』のヒットによる。一躍有名になった「ゼロ戦」は現在でも知らない人はほとんどいない名機中の名機である。

 

 

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01_二式単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 通称「鐘馗」、米軍コードでは「トージョー」と呼ばれる。二式単戦キ-44は日本陸軍初の速度を重視した重戦闘機であり、試作機には時速626km/hにまで達したこともある高速機である。高速・重武装ではあったが、このため着陸は難しく当時の日本の搭乗員が好んだ格闘戦能力は低く搭乗員には今ひとつ不評な航空機であった。しかし設計者の一人糸川英夫は自身の設計した航空機の中でこの二式単戦鐘馗を最高傑作としている。名機である。

 

二式単戦 鐘馗 〜概要〜

 

 

性能(二型丙)

全幅 9.45m
全長 8.85m
全高 3.25m
出力 1450馬力
全備重量 2764kg
上昇力 5000mまで4分26秒
航続距離 1600km(増槽装備時)
最大速度 605km/h
武装 12.7mm砲(ホ103)4門(各携行弾数250発)

 

背景から開発まで

 重戦闘機とは日本陸軍の区分で海軍では当該区分は存在しない。1938年7月に陸軍の研究方針で初めて重戦闘機という区分が取り入れられた。当初の陸軍の重軽の区分は、軽戦闘機は格闘戦能力を重視したもの、重戦闘機は速度を重視するというものであった。

 この研究方針に沿って1938年下半期に中島飛行機に研究を開始させている。その後1939年6月に正式に試作が指示された。性能要求は高度4000mで最大速度600km/h以上、上昇時間5000mまで5分以内、行動半径600km、武装は7.7mm2挺、12.7mm2門というものであった。これは当時の列強各国の戦闘機の性能を考慮すると常識的な要求であったといえる。

 

開発

 航空機の開発はまずエンジンの選定から始まる。のちに二式単戦と呼ばれるキ-44が採用したエンジンは中島製1250馬力ハ-41エンジンであった。設計の特徴は当時の日本戦闘機の多くが格闘戦性能を重視したのに対してこのキ-44は翼面荷重を150kg/屬罰米戦性能よりも速度を重視したことにあった。

 高速重戦闘機ということで急降下速度850km/hにも対応できるように主翼付け根には多格子型応用外皮構造を採用した。これは主翼の付け根をさらに外皮によって補強するもので、これによりキ-44は一度も空中分解することがなかった。他にも離着陸や空戦時に威力を発揮する蝶型フラップも採用された。

 陸軍は防弾装備も重視しており、燃料タンクは被弾した際に発火を防ぐために積層ゴムによっておおわれていた。さらにキ-44は日本戦闘機としては初めて座席後部に搭乗員を守るための13mm鋼板が取り付けられていた。

 試作1号機は1940年8月(5月下旬説もあり)完成。1941年4月までに3号機までが完成した。1940年10月初飛行。同月より陸軍において審査が始まったが、キ-44は陸軍が提示した性能要求を下回っており評価は芳しいものではなかった。このため、カウルフラップ、カウリング、気化器の一部を改修した結果、試作5号機では当初550km/hだった最高速度も607km/hまで向上した。さらにはあらゆる隙間を目張りした状態では何と626km/hという当時の日本戦闘機では最高速度を記録している。

 この改修の結果、陸軍の二次審査では「対爆撃機邀撃用として使用できるが、対戦闘機用としては実用価値はない」という手厳しい評価であったが、1942年2月に制式採用された。

 

 

一型

 1942年2月の制式採用以前の同年1月に量産1号機は完成していた。エンジンはハ-41でプロペラは3翅定速プロペラ、スピナー先端には試作機には無かった始動用のフックが追加されていた。風防は試作3号機までは中央部が後方にスライドするものであったが、試作4号機以降、一型も後部が後方へスライドする方式に変更された。

 武装は7.7mm機銃(八九式7.7mm機銃)2挺、12.7mm砲(ホ103)2門で眼鏡式の照準器を使用する。最大速度は580km/h、5000mまでの上昇時間は5分54秒、全備重量は2.571kg、過荷重2886kg、翼面荷重は171.3kgであった。

 

二型

 1941年1月よりエンジンをさらに強力な1520馬力ハ-109エンジンに換装した二型の研究が開始された。一型の内5機のエンジンをハ-109に換装した二型試作機が1942年2月から5月までの間に製作された。同時並行してエンジン以外の各部にも改修をくわえた増加試作機も製作され、1942年6月に1号機が完成、1942年8月までに3機が完成した。

 二型はエンジンの出力増加に伴いプロペラが3m3翅の定速プロペラに変更、滑油冷却器はカウリング下部へ移された。また風防前面には40mm防弾ガラスが使用され、燃料タンクはゴム防弾式となった。これらの改修により、全備重量は2780kg、翼面荷重は185kg/屐着陸速度は145〜150km/hとなったが最高速度は600km/h、5000mまでの上昇時間も4分15秒と大幅に向上している。1942年12月に二式単戦二型として制式採用された。

 

二型甲

02_二式単戦甲
(画像は二式単戦二型甲 wikipediaより転載)

 

 武装の違いにより二型は甲乙丙の3タイプに分けられる。甲型は武装が胴体内に7.7mm機銃(八九式7.7mm機銃)2挺、主翼に12.7mm砲(ホ103)2門を装備した機体で照準器は眼鏡式であった。

 

二型乙

03_二式単戦乙
(画像は二式単戦二型乙 wikipediaより転載)

 

 二型乙は胴体内に12.7mm砲(ホ103)2門のみ搭載した型で主翼内には特別装備として40mmロケット砲であるホ301を1門ずつ搭載することができた。このホ301は、携行弾数は1門20発、2門で40発、簡単な構造で重量も軽かったが弾道が不安定であった。

 

二型丙

04_二式単戦丙
(画像は二式単戦二型丙 wikipediaより転載)

 

 丙型は最も多く生産された型で、胴体、主翼共に12.7mm砲(ホ103)を装備した機体で照準器も光学式に改良されている。5000mまでの上昇時間は4分26秒に短縮された。

 

三型

 エンジンを2000馬力ハ-145に換装、翼面積を19屬冒大、プロペラは4翅定速式にした型で1943年6月に1号機が完成したが当時、すでに傑作機キ-84(疾風)が完成していたため不採用となった。計画では20mm砲4門装備の甲型、20mm砲2門37mm砲(ホ203)2門装備の乙型が計画されていた。極少数が生産された。

 

その他改修型

 一型の1機はペ七P-1と呼ばれるエンジンを二重反転プロペラ用に改造したハ-41ペ試に換装した機体がある。

 

生産数

 試作機が1940年8月に完成してから1944年末に生産が終了するまで、一型が40機、二型甲が353機、二型乙が393機、二型丙が約440機、少数製作された三型を含めた総生産数は1225機である。

 

配属部隊

 二式単戦の最初の部隊が編成されたのは未だ制式採用前の1941年11月で開戦後に会敵が予想される英戦闘機スピッツファイアに対抗するために編成された独立飛行47中隊で、試作機と増加試作機合計9機が配属された。次に二式単戦を受領したのは満洲海浪に展開していた85戦隊と団山子の87戦隊で1942年末から1943年初頭にかけ二式単戦を受領、同時期に33戦隊も5機のみであるが二式単戦を受領した。

 1943年5月から7月にかけて9戦隊、70戦隊、246戦隊が受領、10月には先の独立飛行47中隊が戦隊に改変されている。1944年3月には満洲海林の29戦隊、年末には千葉県印旛の23戦隊が一式戦と二式単戦の混成部隊となっている。

 

まとめ

 

 当時としては最高速度が600km/h以上と高速であると同時に着陸速度も145〜150km/hと高速であった本機は海軍の雷電同様、現場からは「暴れ馬」「殺人機」と酷評されたが当時の空戦の流れである一撃離脱戦法に専念すれば十分に有効な戦闘機であった。空戦能力も連合軍機に引けは取らなかったものの本機を十分に活用できる状況になかったのは残念である。戦後の米軍の性能試験では本機を迎撃機としては最も傑出した機体としている。

 

 

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01_一式戦闘機隼
(画像はwikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦中最も生産された陸軍の戦闘機「隼」として有名な機体である。合計5751機の生産数は零戦に次いで日本軍用機史上2番目の多さ。太平洋戦争開戦から終戦まで使用され、戦後もアジア地域で使用されていた。

 

一式戦闘機隼〜概要〜

 

 

 

性能(一式一型)

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

背景から開発まで

 傑作機として有名な九七式戦闘機の後継機として計画された本機の基本方針は、「九七式戦闘機と同程度の旋回性能を保持しつつ他の性能を向上させる」というものであった。高速重戦闘機に移行しつつあった世界の趨勢とは異なり、格闘戦性能に重きを置いた要求であった。

 しかしだからといって速度では妥協はしたくない。航続力も欲しいということで性能要求は、速度は九七式戦闘機と比較して40km/h以上、航続力は1.6倍とする無茶な性能要求であった。

 

開発

 1937年12月、陸軍は、九七式戦闘機の後継機であるキ-43の開発を中島飛行機に指示した。試作機キ-43の設計は、設計主務者小山悌を中心に進められ、1938年12月末、試作1号機が完成した。初飛行は同年12月12日で、1939年2月に2号機、3月に3号機が立て続けに完成した。単翼で陸軍戦闘機初の引込脚を採用、風防も密閉式が採用された。照準器は旧来の筒状の望遠鏡式が採用され、プロペラは2翅、スロットルレバーはフランス式の手前に引くと増速するタイプのものであった。

 試作機の武装はドイツラインメタル社製MG17、またはこれを国産化した九八式7.9mm固定機関銃2丁であった。装弾数は各400発である。これら3機の試作機は各部に微妙な違いがあったが、1940年から1941年にかけて試作4号機以降と統一された。完成した試作機の性能はというと機体が大型化し重量も増加したため空戦性能では九七式戦闘機に及ばず、速度も期待していたほどではなかった。

 試作機3機についで増加試作機も10機が1939年11月から1940年9月にかけて製造された。試作機の不評を受けてこの増加試作機では、尾翼、風防等多くの部分で性能改善が行われた。この時にスロットルレバーも前方に押すと増速する方式に変更された。さらに機銃も八九式7.7mm固定機銃2挺に変更されたが、中島飛行機側は採用を半ば諦めていたようだ。

 変化が訪れたのは1940年の夏、シンガポール攻略を念頭に置いた遠距離戦闘機の必要性から航続距離の長いキ-43の採用が決定した。この結果、中島飛行機では1941年4月までに陸軍が要求したキ-43戦闘機40機を完成、1941年5月に一式戦闘機として制式採用された。

 制式採用された一式戦闘機は1942年3月に報道関係者に発表されたが、この時に報道係将校である西原勝少佐の発案で「隼」という愛称が考案され、以降、戦闘機隼として国民に親しまれた。因みにこれは愛称であり正式名称ではない。

 

一式一型

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

 最も初期に生産された一式戦闘機。発動機はハ‐25(海軍名「栄」)で950馬力、全幅11.44m、全長8.83m、重量1580kg、武装は八九式7.7mm固定銃または一式12.7mm固定機関砲2挺を機首内に装備できる。海軍の零戦と異なり、当初から防弾装備が装備されていた。7.7mm2挺を装備した機体は一型甲、右7.7mm、左12.7mmの機体は一型乙、12.7mm2挺の機体は一型丙と呼ばれる。

 武装に関しては威力からすると12.7mm機関砲2挺が好ましかったが、当時の12.7mm機関砲は信頼性が低かったため、実績のある7.7mm機銃2挺とした。後に12.7mm機関砲の信頼性が向上したため12.7mm機関砲2挺の丙型が誕生した。無線機は九六式飛三号無線機。

 

一式二型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 1975kg(資料により異なる)
出力 1130馬力
最大速度 515km/h(米軍テスト結果では558km/h)
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 キ-43が制式採用される前の1940年1月、速度及び上昇力向上を目的とした第二案の研究が始まった。これはエンジンをハ-25の改良型ハ‐105に変更し、機体を空気抵抗の少ない形に改良することであった。1940年5月にキ-43増加試作機1機に改修を実施、発動機はハ-105をさらに改良したハ-115(海軍名「栄21型」)を搭載した試作1号機が1942年2月に完成した。

 その後、5機の試作機と3機の増加試作機が製作され、1942年6月一式二型戦闘機として制式採用された。上記以外の改良点としてはプロペラが2翅から3翅に変更、主翼の両翼端を30cm切り詰め、主翼付け根部分の縦通材が強化された。さらに照準器は望遠鏡式から光学照準器である一式照準器に変更された。燃料タンクにも13mmのゴムで防弾化された。防弾タンクを装備した関係で搭載燃料は36L減少した。無線機は九九式飛三号無線機。

 生産は中島飛行機と立川飛行機で行われた。1942年11月に量産一号機が完成、1944年9月まで生産が続けられた。二型は大きく甲乙丙の3タイプに分けられるがこれは一般的に用いられている区分であり、陸軍の公式の呼称ではない。

 

二型甲

 甲型は最初の生産型。二型は一型に比べエンジンのパワーが向上したため潤滑油冷却器を装備しているが、初期生産型と後期生産型では冷却器の位置が異なる。排気管は集合排気管を使用。

 

二型乙

 排気管が推進力式排気管に変更された。初期生産機は集合排気管であったが、後期生産機は単排気管となった。それ以外にも冷却器の追加、増槽振れ止め、増槽取付位置の変更、頭部保護支柱の改修等の改良が行われた。二型乙型以降はタ弾、ト弾、ロ弾の搭載が可能となっている。1943年1月頃から実戦配備が開始されている。

 

一式三型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 - kg
出力 1130馬力
最大速度 568km/h
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 エンジンを水メタノール噴射式のハ-115供淵-35・32型)に換装した型。最大速度は試作機で568km/hに達し、量産機でも550km/hを維持していた。1943年末に試作が内示、1944年3月に試作指示が出され、1944年12月に制式採用された。

 水メタノール噴射式のエンジンを採用したことにより、胴体内に70Ⅼのメタノールタンクが新設された。さらに座席後方の3ヵ所に厚さ13mmの防弾鋼板が追加され、照準器も三式照準器に変更されている。これらの改良により三型は一式戦の使いやすさ、運動性能を維持しつつ、速度、上昇力、実用上昇限度、航続距離等が向上している。但し、エタノール噴射装置の不具合や整備員の不慣れにより稼働率は低下している。無線機は九九式飛三号無線機であるが、一部に性能向上型であるム4四式飛三号無線機を装備している。

 この三型の武装強化型として三型乙というのも計画された。これは武装を20mm機関砲に変更したもので、1944年末から製作を開始、1945年初頭に試作機が完成した。当初は翼下に20mm機関砲ポッドを装着する案も検討されたが、結局、機首12.7mm機関砲を20mm機関砲に変更することになった。このため三型乙は風防前面の胴体が大きく膨らんだものとなった。

 この改良により重心位置が変わったためエンジン架を200mm程延長しているが、この三型乙は重量過大のため不採用となった。

 

一式四型

 計画のみに終わったが、一式戦闘機にハ-45(海軍名「誉」)、ハ-33(海軍名「金星」)エンジンを装着するという案があった。しかし計画中に終戦となった。または航空本部の指示により中止されたとも言われている。因みに零戦は金星エンジンを装着した五四型が2機試作されている。

 

その他の改修機

ロケット弾搭載型

 試作のみで終わったが、二型の両翼下面にロ三ロケット弾各2発を搭載できるようにしたロケット弾搭載機が53機試作された。1943年11月に設計に着手、1944年3月に試作機が完成したが実用に適せずとして不採用となった。

 

対潜爆弾搭載型

 二型に対潜爆弾を搭載できるようにした型。1943年11月に設計に着手、1944年1月に試作機が完成した。懸吊架は木製で両翼に60kgまたは30塲弾を搭載することができる。合計3機が試作されたが試作のみに終わった。

 

着陸制動フック装着型

 陸軍が開発中であった陸上移動式着陸制動装置と射出装置に対応するように改造された型。1944年3月に設計に着手、9月までに50機が改修されている。

 

 マルサ装置搭載型

 マルサとは資料上は○の中にカタカナのサが入る。「サ」とは酸素を指すと思われる。高高度性能を強化するためにエンジンに液体酸素を供給することにより高性能を発揮することを企図したもの。試作機のみ製作された。

 

寒冷地用装備型

 エンジンの過冷却防止のためカウリング前面の開口部に脱着可能なシャッター付き空気制限板が用意されていた。主翼とプロペラの防氷装置も試作されたが試作のみ。

 

生産数

 一型は試作機が13機あり、量産機は1941年4月から1943年2月までの間に中島飛行機で703機、陸軍航空工廠で51機の合計767機、二型が試作機8機、量産機は1942年11月から1944年9月までの間に中島飛行機で2481機、立川飛行機で1342機の合計3831機、三型が試作機3機、量産機が立川飛行機のみで1143機の合計5751機である。

 

配属部隊

 この一式戦闘機を最初に装備した部隊は59戦隊で1941年6月に立川にて一式戦一型甲を約30機受領した。しかし強度的な不具合が続出、空中分解事故が起こるに至って再度立川に帰還、一型乙に改修した後、仏印に進駐している。同年8月には64戦隊が一式戦に改変、太平洋戦争開戦時には、59戦隊が21機、64戦隊が32機、合計53機の一式戦を装備していたのみであった。

 太平洋戦争開戦後は一式戦の配備も進み、33戦隊、50戦隊、教導飛行隊の204戦隊にも一式戦が装備されていった。1942年10月になるとビルマに展開していた64戦隊は一式戦2型に改変するために内地に帰還、1943年2月3日には同じくビルマに展開していた50戦隊もスラバヤに移動、陸軍輸送船あきつ丸で運ばれてきた一式戦2型を受領、同時に2型への改編が完了した64戦隊が再びビルマに進出した。遅れて11月頃には204戦隊も2型に改変された。

 南東方面では1942年12月18日、一式戦を装備した11戦隊がラバウルに到着、1943年1月9日には1戦隊もラバウルに進出した。5月には2型を装備した24戦隊がニューギニアに進出、8月には11戦隊の後退と共に59戦隊が進出、二式複戦装備の13戦隊や三式戦装備の68戦隊も11戦隊や24戦隊、59戦隊が残していった一式戦を装備していた他、63戦隊、77戦隊が一式戦を装備していた。

 以降、20戦隊、26戦隊、30戦隊、31戦隊等多くの部隊が一式戦闘機を装備、終戦まで活躍した。

 

 

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