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その他航空機

01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

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01_三式指揮連絡機
(画像はwikipediaより転載)

 

 三式指揮連絡機は滑走路の整備されていない前線の不整地でも使用可能な短距離離着陸機であり、離陸距離はわずか58m、5m/s程度の風速があれば30mで離陸が可能であったといわれる。このため対潜哨戒機として改修され特種船あきつ丸の艦載機としても活躍した。それ以外にも使い勝手の良さから実施部隊でも重宝された隠れた傑作機である。

 

三式指揮連絡機 〜概要〜

 

性能

全幅 15.00m
全長 9.56m
全高 3.30m
全備重量 1,540kg
上昇力 4000mまで22分44秒
最大速度 178km/h
エンジン出力 280馬力
航続距離 750km
武装 7.92mm機銃1挺(弾数300発)、爆雷100kg1個(2個とも)、又は50kg2個
設計開発 益浦幸三 / 日本航空工業(日本国際航空工業)

 

背景から開発まで

 陸軍が連絡機という機種を考え始めたのは1937年頃であった。当初は地上部隊に対する直接強力という任務は考慮されておらず、飛行場間の連絡が想定されていた。そのため翌年の陸軍航空兵器研究方針では旧式機を利用することが検討されていた。1940年になると連絡機の要求は具体化していき、戦場の制限された飛行場で容易に離着陸ができること、行動時間は2〜3時間程度となった。さらに旧式機の利用と共に専用機の開発についても示唆していた。

 

開発

 指揮連絡機キ-76の開発が日本航空工業株式会社に内示されたのは1940年8月で、同時にドイツにSTOL(短距離離着陸)性能の優れたフィーゼラーFi156シュトルヒが発注された。1941年1月に正式に試作指示。益浦幸三技師を主務者として開発を開始した。1941年5月に試作1号機が完成、6月にはライバルであるシュトルヒも日本に到着した。

 シュトルヒに比べキ-76は一回り大型で発動機の馬力もシュトルヒ240馬力に対してキ-76は310馬力と上回っていた。性能もシュトルヒが離陸滑走距離100mに対してキ-76が68m、着陸滑走距離がシュトルヒ53mに対してキ-76が61m、最高速度はシュトルヒ165km/hに対してキ-76が178km/h、航続距離がシュトルヒ346kmに対して420km、実用上昇限度がシュトルヒ4350mに対してキ-76が5360mと着陸滑走距離以外は全ての点においてキ-76が優っていた。

 エンジンは日立製空冷二式280馬力エンジンでこれは310馬力エンジンをディチューンしたものである。武装は九八式7.92mm旋回機銃1挺(弾数300発)で、対潜哨戒型は胴体下面に50kg爆雷2発、または100kg爆雷1発を搭載した。太い胴体は操縦席からの視界の面では不利ではあったが、胴体側面まで回り込んだ大きな曲面窓は良好な視界を確保している。

 主翼は後方に折り畳むことが可能であり、前縁には固定スロット翼、後縁には大型ファウラーフラップが取り付けられていた。これにより失速速度は40km/hに抑えられ、風速5m/s程度の風があれば30mの距離での離陸が可能であった。但し、フラップを下げた状態では機体が不安定となり操縦は難しかったため実施部隊の一部では不評であった。

 1号機は1941年に完成したもののSTOL機は陸軍としては初めてであったため実用審査は長引き、三式指揮連絡機として制式採用されたのは1943年12月であった。制式採用と前後して、同年11月には三式指揮連絡機の艦載機としての特性に目を付けた陸軍は、艦上哨戒機への改修を発注、1943年12月から1944年6月まで下志津陸軍飛行学校銚子分校で乗員の訓練が行われた。これと同時に搭載予定の母艦あきつ丸では飛行甲板の拡張等の固定翼機の発着を可能にする工事が行われた。

 

生産数

 不明。

 

戦歴

 1944年7月25日、独立飛行第一中隊が編成、丙型特種船あきつ丸に乗船して対馬海峡での対潜哨戒に従事したのち、福岡県雁の巣飛行場に移動して対潜哨戒任務を実施した。同年12月から1945年2月まで東シナ海対潜哨戒任務に従事したのち再び雁の巣飛行場を拠点に対馬海峡の対潜哨戒任務に従事した。8月には朝鮮に移動金浦基地で終戦を迎えた。他にも捜索、指揮連絡、軽輸送にも活躍した。

 

まとめ

 

 戦闘機や爆撃機に比べ全く目立たない機種ではあったが、三式指揮連絡機は独創性があり、短距離離着陸性能が優れ利用価値は高かった。あまりの使い勝手の良さに「こんな便利でしかも優秀な機がなぜもっと早く実用化しなかったのか」とさえいわれたという。隠れた名機である。

 

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01_二式大艇
(画像は二式大艇 wikipediaより転載)

 

 蒼空は名前が示す通り、海軍の輸送飛行艇である。1944年に計画され1945年末に完成予定であったが、戦局の悪化と物資不足のために開発は中止された。森林資源に恵まれた日本の国情に合わせて全木製とする画期的な飛行艇であった。

 

超大型飛行艇蒼空〜概要〜

 

<性能(計画値)>

全幅48m
全長37.72m
翼面積290
全備重量45.5トン
航続距離3889.2km(または3704km)
最高速度370km/h

 

性能要求

 蒼空は、1944年1月海軍より試作が指示された。性能要求は以下の通り。

‥觝槊未鷲霑兵員80名、または大型重量貨物6トン(別の資料では5トン)
構造は極力木製とし、軽合金の使用を最小限度とすること。
9丗概離3704km(別の資料では3889.2km)
な匕親鶸雜瑳竿行可能なこと
デ確20000L
最高速度370km/h
艇首を上陸用舟艇のような開閉扉式にする。
艇内は上下二段とし、なるべく多くの兵員や物資を搭載できるようにする。

 

開発

 1943年暮れ海軍は川西航空機へ新規に大型輸送用飛行艇の開発を命じた。この海軍からの指示を受けて、1944年1月10日、川西航空機では竹内一郎技師を主務者として設計に着手。1944年3月から11月の間に3回モックアップ審査が行われた。蒼空は超大型であったため実物大模型は部分的にしか作られなかった。

 

計画中止

 1945年設計図が完成したが技術者行員不足、部品不足、原材料不足、空襲の激化によって、1945年8月1日正式に開発中止となった。構造は、木製モノコック構造で艇体内は二階建てで、二階に乗員室と輸送部隊士官室、一階に兵員室または重量物積載スペース、艇首には観音開きの大型ハッチを設ける予定であった。

 外板は厚さ8〜10mmの檜合板で、肋骨には硬化積層材、普通積層材を使用。喫水線以下の部分はセルロイド合板で外張りされる予定であった。エンジンは1850馬力火星22型の4発でプロペラも木製、月産10機ペースで量産を行う予定であった。

 

まとめ

 

 観音扉を輸送機に装備するというのは当時はない斬新なものであった。完成していれば超大型輸送艇として物資輸送に民間航空に活躍しただろうが、戦局の悪化はそれを許さなかった。エンジニアの夢、木製大型飛行艇蒼空は完成することなく終わった。この晴空開発で一番驚くことは海軍が1945年8月まで新型輸送機の開発を続けていたことであろう。もやは軍事物資や生活物資すらも入手困難な時期に新型輸送機を製作することにどれほどの意味があったのであろうか。謎である。

 


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99式機銃
(画像は九九式機銃。上が1号銃、下が2号銃 wikipediaより転載)

 

 九九式機銃とは、零戦など海軍航空機に搭載された機銃でそれまでの7.7mm機銃に比べて圧倒的な威力を誇った。零戦に初めて搭載され、以降の海軍戦闘機には必ずと言っていいほど搭載された機銃であった。大まかには初期の1号銃が短銃身、2号銃が長銃身と理解すると分かりやすい。

 

〜九九式機銃の概要〜

 

 九九式機銃は海軍航空機の主力機銃で口径20mmの陸軍では「砲」に該当するほどの大口径機銃であった。この九九式機銃は、スイスのエリコンFF型20mm機銃を国産化したもので、当初は恵式20mm機銃と呼ばれていた。1936年6月にエリコン社とライセンス契約が結ばれ、1937年には、大日本兵器株式会社でノックダウン生産(部品を輸入して組み立てること)を開始、1938年7月からライセンス生産を開始した。

 九九式機銃には、大きく分けて銃身の短い1号(銃身長812mm、全長1331mm)と銃身の長い2号(銃身長1252mm、全長1890mm)の2種類があり、1号銃には1〜4型、2号銃には2〜5型まである。銃は銃身が長いほど初速(弾丸のスピード)が速くなる。銃身長812mmの1号銃の初速が600m/秒であるのに対して440mm銃身長が延長された2号銃の初速は750m/秒となった。初速が早くなると同じ弾丸でも直進性が高くなる。

 

1号銃

 

1号銃1型、2型

 1号銃1型はスイス製のもので弾倉はドラム方式で装弾数60発。それを国産化したのが2型で同じくドラム弾倉で装弾数は60発、重量23kg、発射速度520発/分で1941年11月制式採用、1型は初期の零戦11型、21型等に搭載されている。

 

1号銃3型、4型

 3型は2型を空気装填油圧発射式にしたものでドラム弾倉を使用、装弾数は40発増えた100発となった。弾倉が大型化したため零戦等は弾倉部分は機体の一部を弾倉の大きさに合わせて変形させている。発射速度は520発/分。4型で給弾方式がドラム弾倉式からベルト給弾式に変更される。発射速度も速くなり550発/分となった。

 

2号銃

 

2号銃2型

 九九式2号銃はエリコンFFLを国産化したもので、1940年7月に試作に着手。9月には1号銃が完成し、1942年7月22日、2号銃2型として制式採用された。2号銃2型は弾倉式で装弾数は恐らく60発。少数のみ生産されたようだ。

 

2号銃3型

 2号銃3型は、ドラム弾倉式で装弾数100発。1号銃3型の長銃身モデルである。1号銃3型の発射速度が520発/分であるのに対して、2号銃3型では480発に減少した。重量33.5kg。2号銃4型はベルト給弾式で、重量38kg、発射速度500発/分である。

 

2号銃4型

 4型にはブローバックの退却長を短縮、強力なスプリングを使用して発射速度を向上させた発射速度増大型がある。この改良によって発射速度は620発/分となったが、反動も増大した。

 

2号銃5型

 2号銃5型はベルト給弾式で重量38.5kg。4型で行った発射速度増大の改良をさらに行い、発射速度は720発/分となった。

 

一八試20mm機銃

 日本特殊鋼の河村正弥博士が開発したもので、1943年5月から開発を開始、1945年5月に試作銃が完成している。要目は全長1.95m、重量45.5kg、初速900m/sで発射速度は700発/分であり、甲戦闘機陣風に搭載予定であったといわれている。

 

九九式機銃関係の書籍

 

零戦一代

田中悦太郎 著
サンケイ新聞出版局 (1966)

 日本海軍の機銃に関しては最も詳しい人といってよい田中悦太郎氏。氏が執筆した本書は日本海軍の機銃について詳しく書いてある。

 

日本軍用機航空戦全史〈第5巻〉大いなる零戦の栄光と苦闘

秋本実 著
グリーンアロー出版社 (1995/8/1)

 零戦の項目に九九式機銃について詳しく書いてある。その他航空機に関しても詳細されているのでおすすめの一冊。

 

まとめ

 

 零戦の特徴の一つにこの20mm九九式機銃が挙げられることがある。この機銃は特に地上銃撃において驚異的な威力を発揮した。当初は装弾数が55発と少なく銃身の短さからくる直進性の低さという問題はあったが、改良を重ねることで最後は200発にまで増強され、発射速度や直進性も向上した。日本海軍の戦闘機は開戦から終戦までこの機銃と共に戦ったのだ。

 

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東海
(画像はwikipediaより転載)

 

 哨戒機東海は1945年に制式採用された現在でいう対潜哨戒機である。最新鋭の磁気探知機と対潜爆弾を装備し、低速で長時間滞空することが可能であった。傑作機ではあったが、登場があまりにも遅い上に記録が少なく、実際の活躍は不明な部分が多い。

 

哨戒機東海〜概要〜

 

 

性能

全幅 16.0m
全長 12.085m
重量 −
最高速度 322.2km/h
上昇時間 2000mまで8分44秒
実用上昇限度 4490m 
航続距離 1342.7km〜2415km
武装 7.7mm機銃1挺
   三式1号探知機
   三式空六号無線電信機4型
   250kg対潜爆弾2発
開発 九州飛行機

 

背景から開発まで

 日本海軍で対潜哨戒機が初めて登場したのは資料上は1940年7月の『航空機機種及び性能標準』で、当初の対潜哨戒機は水陸両用機が想定されており、要望は対潜哨戒に適すること、対潜急降下爆撃が容易なことであった。航続距離は武装した状態で8時間以上であった。この性能標準の修正版に基づいて東海の計画はスタートした。

 

開発

 1941年に修正した『航空機機種及び性能標準』ではそれまで水陸両用機として計画されていた哨戒機は基本的に陸上機として開発するものの艦上機、水上機としても使用できるように考慮するということでまとまり、1942年9月のちの九州飛行機に十七試哨戒機の試作を内示した。哨戒速度は出来るだけ低速であること、航続時間は10時間以上、潜水艦発見と同時に急降下爆撃が出来ること等が要求された。これを受けて九州飛行機では10月より野尻康三技師を主務者として設計を開始した。

 1942年11月〜12月に木型審査が行われ、1943年2月にはさらに電波探信儀(レーダー)装備に適していることや実用高度を低く抑えること、機銃の強化、急降下爆撃の具体的な基準が追加された。1943年12月試作1号機が完成、以降、試作機、増加試作機合わせて9機が製造された。1944年4月から生産開始。1945年1月に東海11型として制式採用された。

 この東海で特徴的なのは座席配置で、搭乗員3名の座席は全て機首にあり、操縦員が前、偵察員が右後方、電信員が左後方というユニークなものだった。機体の特徴は急降下爆撃用に装備されたフラップで急降下時には最終速度を314.8km/hに落とすことが可能であり、エンジンは低出力だが信頼性の高い610馬力天風で低速で長時間滞空する東海にはうってつけのエンジンであった。

 その他対潜哨戒用として電探(レーダー。三式空六号無線電信機四型)、一式空三号無線帰投方位測定機、磁気探知機KMXを装備していた。

 

磁気探知機

 磁気探知機とは、潜水艦が発する地磁気の変化を捉えて海中にある潜水艦の所在を探知するもので、当時、世界で実用化していたのは日本だけだった。磁気探知機KMXは、1942年秋に研究に着手、1年後の1943年11月に制式採用されたもので、探知能力は3000トン級潜水艦であれば、直上160m、左右120m、1000トン級潜水艦であれば、直上120m、左右90mの範囲なら確実に探知が可能であった。KMXは、地磁気の変化を捉えると操作員の受聴器に独特の音が発生、同時に検流計の針が振れる。そして警報灯が点灯して機内にブザーが鳴り響き搭乗員に知らせるという仕組みになっていた。

 

東海の運用法

 水中の潜水艦の探知は可能ではあったが、探知範囲が非常に狭く、単機での捜索には限界があった。そこで東海は200m間隔で3〜5機の編隊を組み5〜10mの高度で飛行して潜水艦を探知するという方法を採用した。これは大きな効果があったといわれている。このKMXは他にも対潜哨戒目的に使用されていた九六陸攻にも搭載されていた。

 

東海11甲型

 東海の搭載機銃を20mm機銃にしたもので1945年2月に量産が発令された。

 

練習機型

 高性能陸爆銀河の練習用として改良されたのが東海練習機型で1945年7月に制式採用された。操縦席が並列複座になっていることから、外観上は機首側面に膨らみがあることで判別できる。

 

生産数

 生産数は1943年に7機、19年に88機、20年58機の合計153機である。終戦時には第三千歳空に13機、三沢2機、能代空5機、横須賀空8機、小松空5機、美保空15機、水島空1機、博多空12機、宮崎空1機の合計62機が残存していた。

 

配属部隊

 

 1944年4月に東海は生産開始、これに合わせて夏頃から東海搭乗員の訓練が開始された。訓練用の機体は横空飛行実験部にあった試作機でこれら3機が横空に引き渡されてまずは幹部搭乗員の訓練が開始、10月になると佐伯空に東海隊が編成、本格的な訓練が開始された。訓練された搭乗員、整備員と機体は901空、951空に派遣、海上護衛戦に活躍するようになる。

 記録上の最初の実戦参加は1944年12月で九州南西海面と五島列島周辺での対潜攻撃作戦であった。その後901空、951空の派遣隊が上海や済州島に展開、日本近海での対潜哨戒任務に従事している。

 

まとめ

 

 戦歴は不明な点が多いが、記録上初の実戦参加は1944年12月下旬であり、海上護衛戦に従事した。総生産数153機中91機が失われ、終戦時には62機が残存しており、消耗率は約60%と意外に高い。対潜哨戒機としては高性能であったが、低速であることや、実戦に投入されたのが戦争後期の制空権が無い状況下であったがめであろう。

 

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01_ふ号兵器
(画像はwikipediaより転載)

 

 風船爆弾。今でもたまにネタにされるこの兵器。日本軍が必死に作った和紙とこんにゃくで作ったお茶目な兵器で実際には2発程度しかアメリカに到達しなかった。トンデモ兵器の一つとして日本軍のポンコツ振りを良く表していると世間では思われているが、実際どうであったのだろう。日本が生んだ戦略兵器、風船爆弾とは。。。

 

ふ号兵器

 

性能

気球の直径:10.0 m
吊り紐の全長:15.0 m
ガスバルブ直径:40cm
総重量:205kg
搭載爆弾量:15kg×1 / 5kg×4
飛行高度:標準10,000m 最大12,000m
飛行能力:70時間
設計・開発 第九陸軍技術研究所

 

背景から開発まで

 日本の軍用気球の歴史は日露戦争に始まる。臨時に編成された気球隊が着弾観測、偵察において一応の成功を収めたことから1909年に長岡外史を初代会長として臨時軍用気球研究会が設置された。これは1919年に陸軍航空部の設立とともに廃止されるが、同時に軍用気球も航空機の発達に伴って衰退していく。

 観測兵器としては衰退した気球であったが、1930年代になると気球に爆弾を搭載して兵器として使用することや空挺作戦への利用という案が生まれてきた。この案は関東軍に持ち込まれ、陸軍登戸研究所において研究が行われることとなった。

 

開発

 1942年になると米本土爆撃を視野にいれた決戦兵器として注目されるようになり、1943年8月にはふ号兵器として研究命令が出た。気球の材料は何と和紙とこんにゃくで、これを日本からアメリカ大陸に向かって流れる偏西風(ジェット気流)に乗せ米本土を爆撃しようというものであった。気球は直径10m、重量200kgで15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発を搭載、自爆装置が装備されており、機関部には気圧計とバラストがあり気球の高度を調整するようになっていた。

 1944年2月には千葉県の一宮海岸で実験、9月8日には『ふ』号気球連隊が編成され、10月25日、陸軍参謀総長は、米本土攻撃作戦「寅号試射」を発令、11月3日初弾が発射された。作戦は1945年3月まで行われこの間に約9,300発の気球が放たれた。

 

大陸間攻撃兵器「ふ号兵器」

 世間では「ネタ」としか思われていないこのふ号兵器、実はトンデモ兵器どころか、とんでもない兵器なのである。とんでもないとはどういうことかというと、ふ号兵器はある意味、世界の軍事戦略の最先端を行った兵器であった。このふ号兵器という「戦略兵器」の存在を知った米軍はあらゆる手段を使用してその存在を小さく見せようとしたと言われている。

 何言ってるんだこいつは。と思われるかもしれない。だってふ号兵器っていったら和紙とこんにゃくで作った貧乏国の兵器じゃーん、おまけにアメリカまで届いていないし…。そう、届いていないというのは都市伝説だ。ふ号兵器は約9300個放たれてそのうち1000個(または300個)がアメリカ本土に到達している。

 

ふ号兵器が米国に到達する原理

 実際は、ふ号兵器のかなりの数が米国に到達しているのだ。ふ号兵器の構造は簡単に書くにはまず日本からアメリカに流れる偏西風があることを知らなければならない。この偏西風、日本からアメリカに流れる。逆はない。この偏西風を利用して風船を飛ばすのだが、アメリカに到着するまでに2日程度かかる。その間に昼夜で気温が変わる訳だ。

 気温が変わると風船の気圧が変わる。そうすると風船が偏西風から落ちてしまうので、高度が下がると自動的に積んである土嚢を落とすための装置が搭載されている。そしてまた偏西風に乗る。それを繰り返すことによりアメリカ本土まで到達するのである。

 アメリカ本土に到達すると自動的に爆弾等が吊ってあるフックが切れる。同時にふ号兵器自体も自爆する構造になっていた。以上のような原理でふ号兵器はアメリカ本土に損害を与えることができたのである。これの何がすごいのかというと、まずこれは偏西風の関係で日本からアメリカにしか攻撃できない。

 そして人的な損害が全くない。おまけに構造は単純であり、材料も和紙とこんにゃく、それと高度を判断する装置で出来てしまう。つまりは大量生産が可能である。このふ号兵器の主目的は米国民に恐怖心を与えることと森林火災を起こさせることであったが、同時にこのふ号兵器には炭疽菌、ペストの搭載が検討されていたことである。

 

米国が恐れた本当の理由

 このふ号兵器に細菌兵器を付けて飛ばせばどうなるか。アメリカがふ号兵器を小さくみせようとした理由も頷ける。結局、昭和天皇が細菌の搭載は許可しなかったため実行されることはなかったが、これが大規模に生産されたならばアメリカは対日戦略の変更を迫られていた可能性は相当高い。すなわち、このふ号兵器というのは戦略兵器であり、発想は大陸間弾道ミサイルと同じである。日本は和紙とこんにゃくで戦略兵器を開発したということができる。

 

まとめ

 

 仮にふ号兵器で細菌戦を行っていた場合、米国の対日戦略は大きく変わっただろう。恐らくそれは日本に有利な条件での講和等ではなく、徹底した日本殲滅作戦になった可能性は高い。そして戦後も日本にとっては細菌戦を行わなかった場合に比べて決して良いものとはならなかったであろう。

 

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01_一式貨物輸送機
(画像は一式貨物輸送機 wikipediaより転載)

 

 ロ式B型高高度研究機とは、陸軍が開発した高高度研究機である。名称がキ番号ではなく「ロ式B型」という妙な名称であるのは本機が「極秘」よりもさらに上の「特秘」扱いであったことによる。具体的に研究していた内容は成層圏を飛行する際に必要になる与圧室の研究であった。この分野の研究において日本は各国に後れを取っており開発が急がれていた。

 

ロ式B型高高度研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 19.96m
全長 11.76m
全高 3.46m
自重 5,157kg
最大速度 475km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで13分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,055馬力(ハ102)2基
航続距離 2,200km
乗員 6名(操縦員2名、実験員3〜4名)
武装  -
爆装  -
設計・開発 小川太一郎 / 東京帝国大学航空研究所

 

与圧室とは。。。

 地球を取り巻く大気層は、およそ高度11,000mまでを対流圏、50,000mまでを成層圏と呼ぶ。軍事上、成層圏飛行が有利なのは航空機の発見が困難であること、地上からの攻撃が困難であること等がある。このため各国では成層圏を飛行することが可能な高高度航空機の開発が研究されていた。

 高高度飛行を行う上での問題は、高度が高くなるにつれて酸素の量が減少することである。このため高高度を航空機が飛行するためには、機内を気密化して酸素を送り込み気圧を人間が生存できる気圧にする必要がある。さらに与圧することで機内と機外とでは圧力に差が生じる。与圧室を製造するためには機内の気密化して酸素を送り込むことと同時に圧力差に耐えうる強度が必要になる。

 

開発

 1938年、東京帝国大学航空研究所内に「航二研究会」と呼ばれる航空機による成層圏飛行に関する研究を行う研究会が発足した。リーダーは小川太一郎博士で陸軍からの資金協力も得ていた。この計画は「研二」とも呼ばれている。1940年になると航二研究会は実際に高高度研究機製作に動き出す。当時の日本の技術力ではいきなり成層圏を目指すのは難しかったため、中間機として高度8,000mから10,000mを常用高度とする中間機の開発を指向することとなった。

 基礎設計は東大航研で設計主務者はリーダーの小川太一郎博士で基礎設計は主に木村秀政所員が行った。細部の設計と機体の製作は立川飛行機が担当することとなった。しかしゼロから機体を製作していたのでは時間がかかり過ぎるため機体は現用機から流用することとした。その候補として挙がったのが、ロッキード14Yと三菱製九七式重爆であった。

 検討の結果、重量軽減が可能である点や立川飛行機でライセンス生産されている点が試験には有利である等という点からロッキードY14がベースとして選ばれた。設計は1940年8月から開始された。主な改造点としては、胴体は新規設計、発動機、プロペラの交換であった。同年秋には基礎設計が完了、立川飛行機によって細部の設計が行われた。1941年末に設計完了、試作機2機の製作が開始、1942年7月試作機の機体は2機ともほぼ完成する。

 機体は完成したものの日本初であった与圧室の開発が難航したため完全に試作機が完成したのは翌年1943年5月であった。6月には与圧装置は使用せずに高度3,000mまでの初飛行が行われ、9月1日には与圧装置を使用した飛行も行われた。1944年8月には2号機も完成、1944年10月9日には試験飛行において高度11,200mに到達、成層圏飛行に成功した。

 今回、全く新規に設計された胴体は円形断面で機首は段無しの流線形となった。窓は二重ガラスになっており、その間に温めた空気を送り込んで曇りなどを防いでいた。このためもあって操縦席からの視界の悪さは酷い物であったという。エンジンは1号機が二速過給器を搭載したハ102特(海軍名「瑞星21型」)で2号機はさらに高高度に対応したハ102超過給型が装備された。プロペラは直径3.2mでブレードは高高度で馬力を吸収するために幅広に設計された。

 

生産数

 2機が製作された。終戦まで残存していたが米軍によってスクラップにされた。

 

まとめ

 

 日本でロ式B型が試験されたいた頃、米国ではB29が実戦に投入されていた。このB29は完全な与圧室を持ち、搭乗員は機内では通常の飛行服での勤務が可能であった。実用上昇限度は13,000mを超え、総生産数は3,970機に達する。これに対して日本側は最高の頭脳を投入しても不完全な与圧室を備えた実験機が2機、それもベースは米国機というのが現実であった。技術が進歩するためにはそれを下支えする工業力が必要である。それは天才、秀才が設計したものを実際に生産することができる基礎技術力であり、一分野に秀でることではなく全分野の技術力の高さである。

 当時の日本は、飛行機を製造することはできても飛行機を作る機械は米国製であったり、ドイツから高性能の機銃を輸入してもプレス加工ができないために製造することができない、ライセンスを得ても同じ品質のものが造れない等の悲しい現実があった。日本には世界レベルの航空機設計者達が多くいた。しかし設計は一流であってもその設計を実物に変える力が不足していた。この「国力の差」を如実に表しているのがこのロ式B型研究機であろう。

 

 

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01_キ77
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ77長距離研究機とは、朝日新聞社が東大航研に製作を依頼、のちに陸軍も加わって開発された長距離飛行を目的とした実験機であった。戦時中であったため国際機関からの公認はされていないが、総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分という世界記録を達成している。これは1962年にB52爆撃機に抜かれるまでは世界最長飛行記録であった。2機が製作され、1機は日独連絡のためにシンガポールを離陸後行方不明となっている。

 

キ77長距離研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 29.43m
全長 15.30m
全高 3.85m
自重 7,237kg
最大速度 440km/h(高度4,600m)
上昇力 6,000mまで24分00秒
上昇限度 8,700m
エンジン出力 1,090馬力(ハ115特)2基
航続距離 18,000km(300km/hで滞空55時間)
乗員 6名
武装  -
爆装  -
設計・開発 木村秀政 / 東京帝国大学航空研究所

 

背景から開発まで

 キ77は、1939年に朝日新聞社が皇紀2600年記念に太平洋無着陸訪米親善飛行を行うために東京帝国大学航空研究所に専用の長距離航空機の設計を依頼したのが始まりである。皇紀とは明治時代に発案された日本独自の紀年法で神武天皇即位を元年とする。そこから計算して1940年は皇紀2600年ということになり、多くのイベントが企画された。キ77はその企画の一つとして発案されたものである。

 

開発

02_キ77
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年に東大航研に開発を依頼した機体は当初朝日新聞社の頭文字「A」をとって「A-26」と呼ばれていたが、やがて陸軍がこのA-26に目を付けて陸軍の試作機に加えた。これによって以降はキ77と呼ばれることとなる。このキ77の開発は基礎設計は東大航研、機体製作は立川飛行機、エンジンの製作は中島飛行機が行うこととなっていた。

 機体設計の幹事は木村秀政で、長距離飛行を可能にするために巡航速度を高くする必要があった。このため高翼面荷重の機体を製作するが、燃料が減るにつれて翼面荷重は低くなっていく。これを解決するために徐々に高度を上げていくという方法を採用している。これは現在の長距離飛行機の採用している方法と近いものであった。1940年3月に基礎設計開始、同年秋には基礎設計が完了した。以後の細部の設計は立川飛行機で行われたが、太平洋戦争開戦後に陸軍の命令により一時製作が中断するが、1942年4月に突如製作再開が命じられた。それどころか年末までに1号機を製作させよという急展開であった。この陸軍の変節は同月に米軍によって行われたドーリットル隊の空襲に対して一矢報いるためであったと言われている。

 この要求に対して製作陣は1942年9月に1号機を完成させたものの、あまりにも作業工程を切り詰めた突貫作業であったために各部の工作は粗悪になってしまっていた。それでも同年10月には地上運転、11月18日には初飛行に成功している。1943年4月には2号機も完成するが、こちらは時間的な余裕があったため丁寧な仕上げになっていた。試験飛行は1942年11月から1943年3月まで行われ、結果は良好であった。1943年4月には総合試験として東京からシンガポールまでの往復1万キロ以上の距離を53時間で無事に飛行した(無着陸ではない)。

 機体はセミモノコック構造で主翼は薄い層流翼を採用した。長距離飛行のために主翼はインテグラルタンク(翼がそのまま燃料タンクとなっている構造)を採用、さらに胴体にもいたるところに燃料タンクを設けた結果、燃料搭載量は12,202Lに達している(一式陸攻34型4,400L、二式大艇17,080L)。機内は、当初は与圧キャビン、次いで気密室が計画されたが当時の日本の技術力では製作することが難しかったため結局、酸素吸入マスクを使用することとなった。

 エンジンは中島製ハ115(1,170馬力。海軍名「栄21型」)2基でプロペラは直径3.8m3翅のハミルトン定速プロペラであった。

 

生産数

 1号機、2号機の合計2機。1号機は、戦後米軍の手によって米本土に運ばれたが途中、嵐により大破1949年頃にスクラップとなった。2号機はドイツとの戦時連絡飛行に使用されたが行方不明となった。

 

まとめ

 

 キ77は1944年7月2日午前9時47分満洲の新京を離陸、新京、白城、ハルビンを結ぶ一周865kmのコースを19回飛行、4日19時に新京に着陸した。総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分であった。これは戦時中であったため国際航空連盟未公認の記録であったが、当時の世界最長記録であった。2号機は、この長距離飛行能力でドイツに連絡に行かせるという暴挙のため失われている。

 

 

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01_研三
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ78高速研究機(研三)とは、陸軍が東大航研に依頼した高速実験機で製作は川崎航空機が行った。1939年に計画がスタートし、1943年12月には日本機最速の699.9km/hを記録した。この記録を超える機体は終戦まで登場しなかった。実験機は1機のみ製作され戦後進駐してきた米軍によってスクラップにされた。

 

キ78高速研究機(研三) 〜概要〜

 

 

性能

全幅 8.00m
全長 8.10m
全高 3.20m
自重 1,930kg
最大速度 699.9km/h(高度3,527m)
上昇力  -
上昇限度 8,000m(計画値)
エンジン出力 1,550馬力(DB601A改)1基
航続距離 600km(計画値)
乗員 1名
武装  -
爆装  -
設計・開発 山本峰雄 / 東京帝国大学航空研究所

 

開発

 1939年10月、陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将は、速度世界記録樹立を目標とした速度研究機の開発を東京帝国大学航空研究所所長和田小六に依頼した。当時、世界では航空機の速度世界記録が頻繁に更新されており、日本もその競争に参加しようということであるのだが、いきなり世界記録を目指すことは様々な問題があり難しかった。このため第一段階で700km/h級の中間機を製作、第二弾で800〜850km/h級の記録機を製作するという方針が立てられた。

 当時、東大航研では「研二」と呼ばれる高高度研究機の開発を行っており、高速機の研究は「研三」として進められた。1940年1月には研三委員会が組織され、設計は山本峰雄所員が中心となり、製作は川崎航空機で行われることが決定、1942年12月に1号機が完成、12月26日に初飛行に成功した。

 機体は空気力学的に理想的と考えられる数値を探し出した結果、三式戦闘機飛燕に似たシルエットの風防と排気管、冷却器以外には突起物のない美しい流線形の胴体となった。主翼は桁に新たに開発されたSSDと呼ばれる超超ジュラルミンが採用、高速実験機であることから離着陸に支障のない程度に翼面荷重は高く設定された。このため翼面荷重は220kg/屬販軅錣簇擦2倍に達する高翼面荷重の機体となった。それにしても降着速度はあまりにも高速で脚を損傷する可能性があるため着陸はエンジンを徐々に絞って着陸する推力着陸という手法が採用された。

 風防は重量軽減のため脱着式を採用、搭乗員が乗り込んだ後、機体にネジで固定された。エンジンはメッサーシュミットBf109に採用されたDB601エンジンの改良型で、エンジンの回転数増加、メタノール噴射等の改良を施すことで馬力が1,175馬力から1,550馬力に強化されていた。プロペラは直径2.85m3翅のラチエ電気可変ピッチ式プロペラである。

 研三は小改良を加えながら飛行試験を続け、1943年12月27日の第31回飛行試験では最高速度699.9km/hを記録した。これは当時の日本航空機の最速記録であり、終戦までこの記録を上回る機体は登場しなかった。当初の計画にあった2号機は戦局の悪化のため中止となっている。

 

生産数

 実験機が1機のみ。戦後米軍の手によってブルドーザーでスクラップにされた。

 

まとめ

 

 研三とは日本の航空機の限界に挑戦した実験機であった。もしかするとオクタン価の高い燃料を使用すればさらに高記録を発揮したのかもしれないが、戦後は飛行することなく米軍の手によって破壊されてしまう。日本航空機技術者が世界に挑戦しようとした記念碑的な航空機である。

 

 

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01_カ号観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 カ号観測機とは、日本陸軍が制式採用した唯一のオートジャイロで終戦までに98機が生産された。当初の目的は砲兵隊用の着弾観測機としてであったが、太平洋戦争開戦後は一部が対潜哨戒として使用されたがほとんど目立った戦果を挙げることはなかった。

 

カ号観測機 〜概要〜

 

 

性能(一型)

全幅 3.02m
全幅 10.60m
全高 3.10m
自重 750kg
最大速度 165km/h
上昇力  - m
上昇限度  - m
エンジン出力 240馬力(アルグスAs10C)
航続距離 360km
乗員 2名
爆装 60kg爆弾1発
設計・開発 小原五郎 / 萱場製作所

 

開発

02_カ号観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年11月、陸軍は砲兵隊の着弾観測の必要性から萱場製作所に観測用オートジャイロの開発を命じた。小原五郎技師を設計主務者として開発を開始、1941年4月にケレットKD-1を修理改造した1号機が完成、5月26日に多摩川飛行場で初飛行に成功、1942年11月までにさらに2機を完成した。これらは、カ号一型観測機として制式採用された。名称の「カ」とは回転翼の頭文字である(1944年に陸軍の作戦名「カ号作戦」と名称が重複したためオ号と改称)。因みに通常、陸軍の航空機には計画番号「キ」が付されるが、このカ号にキ番号が付されていないのは陸軍技術本部の要求により開発されたためである。

 機体は、鋼管製の骨組みに布張り、ローターは鋼管製の桁にベニヤ板を張った3翅ローターで機首の周辺にだけ軽金属の外板を使用した。エンジンは、1号機はジャコブスL-4MA-7、2号機3号機はアルグスAs10を機首に搭載しており、正面のプロペラは2翅固定ピッチである。しかしアルグスエンジンはトラブルが多発したため生産は20機で打ち切られ、以降は1号機と同じジャコブスエンジンを装備している。アルグスエンジン搭載型は一型、ジャコブスエンジン搭載型は二型と呼ばれている。

 ローターで揚力を発生させ、前方のプロペラで前進する方法で約30〜60mで離陸することが可能であり、エンジンが停止した状態でローターの揚力のみで着陸する「オートローテーション」も可能であった。1945年4月にはローターの先に火薬ロケットを取り付けた新型ローターの実験が行われたが実用化はされなかった。カ号は発動機、伝動装置等の製作が捗らず、終戦までに98機が生産されたのみであった。この内、10数機は空襲により被爆、30機はエンジンが付いていなかったため実際に運用されたのは50機前後である。

 

生産数

 98機が生産されたが、エンジンが未装着のものが約30機あったため実際に完成したといえるのは70機程度である。

 

まとめ

 

 オートジャイロとはヘリコプターのようにローターによって推進するのではなく、上方にローター、前方にプロペラという2種類の推進器によって飛行するという過渡期の航空機であった。同時期に米軍はヘリコプターを実用化させており、終戦と同時に軍用オートジャイロは日本から姿を消した。現在でもオートジャイロは主にスポーツ用として活躍している。

 

 

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