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巡洋艦

08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

はじめに

 

 装甲巡洋艦とは、巡洋艦が重軽に分類される前に存在していた区分で、戦艦に比べて軽量、高速である巡洋艦をある程度重装甲とした艦種である。妙にふわっとしているが、艦種分類はその時代と国によって異なっており、明確に定義することは難しい。大雑把に書くと、戦艦には及ばないにしても格下の艦相手には十分な装甲を持ち、速力も戦艦よりも若干上回るというようなもので、要するに準戦艦と考えて良い。

 日本海軍では、1899年から1911年まで12隻の装甲巡洋艦が建造されており、この内、8隻が日露戦争に参加した。当然のことながら、これらの艦艇の存在がなければ日露戦争で日本海軍が歴史的勝利を収めることはなかった。そしてこれらの装甲巡洋艦たちは、日露戦争後も多くの任務に就き、中には太平洋戦争終戦まで戦った艦もあった。今回は、この日露戦争に参加した装甲巡洋艦8隻の戦歴とその後について簡単にみてみたい。

 

 

春日型装甲巡洋艦

 

春日(第1艦隊第1戦隊)

※以下カッコ内は日露戦争時の所属

02_春日
(画像は春日 wikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦春日は、1902年3月、イタリア国アンサルド社にてアルゼンチン海軍装甲巡洋艦リッヴァダヴィダとして起工、1903年に日本海軍が購入し艦名を春日と変更した。1904年1月竣工、2月には横須賀に回航される。排水量は7,700トンで全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員562名である。兵装は、25.4cm(40口径)単装砲1門、20.3cm(45口径)連装砲2門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門で、さらに45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する

 1904年2月に日露戦争が勃発すると、4月には旅順口攻撃、8月に黄海海戦に参加したのち、翌年5月、日本海海戦に参加した。そして終戦直前の7月には樺太占領作戦にも参加している。そして第一次世界大戦が勃発すると南シナ海、インド洋で活躍するも1917年、1918年に2度の座礁事故に遭う。1921年9月には一等海防艦に類別変更、海防艦としてシベリア出兵の支援任務に活躍する。1925年には類別海防艦のまま横須賀鎮守府警備艦兼練習艦となった。太平洋戦争開戦後の1942年7月1日、特務艦に類別変更。終戦間際の1945年7月18日、空襲を受け大破着底、1948年に引き上げられ解体された。

 装甲巡洋艦春日は日露戦争、第一次世界大戦をくぐり抜け、太平洋戦争では軍艦籍を除かれたものの練習艦として終戦直前まで活躍した。歴代艦長には岡田啓介、米内光政というのちの総理大臣もいる

 

日進(第1艦隊第1戦隊)

03_日進
(画像は日進 wikipediaより転載)

 日進は春日型装甲巡洋艦の2番艦で、春日同様にイタリア国アンサルド社で建造、アルゼンチン海軍から買い取った艦である。春日とほぼ同時期の1902年3月起工、1904年1月に就役している。排水量は7,700で全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員は568名で兵装は、20.3cm(45口径)連装砲4門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門に45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 1904年2月に日本に回航された後、4月には日露戦争旅順口攻撃に参加、その後、黄海海戦、日本海海戦に参加した後、終戦直前には樺太占領作戦にも参加する。日露戦争後の1912年、乗員による火薬庫放火により弾薬庫が爆発する。第一次世界大戦では太平洋、東南アジア海域の警備、地中海派遣艦隊として活躍した。1921年9月、一等海防艦に類別変更、翌年のシベリア出兵では警備を担当する。1935年4月に除籍、廃艦となる。廃艦後は標的艦として使用、同年10月9日に実験弾が1発命中、想定では1発では沈まないはずであったが老朽化のためそのまま沈没してしまった。その後引き揚げられ解体された。

 この艦には日露戦争時、少尉候補生だった山本五十六が乗艦していたり、アルゼンチン海軍の観戦武官も乗艦していたという艦であった。同型艦春日とは異なり廃艦となり沈没するという寂しい最後であった。

 

出雲(第2艦隊第2戦隊)

04_出雲
(画像は出雲 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦の1番艦である。1898年5月に英国アームストロング社で起工、1900年9月に竣工すると同年12月に日本へ回航された。排水量9,750トン、全長122m、全幅21m、最大速度20ノットで乗員672名、兵装は20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。日露戦争ではロシアのウラジオ艦隊に対抗するため対馬海峡に展開、蔚山沖海戦、日本海海戦には第二艦隊旗艦として参加、日本海海戦では東郷司令長官の命令を無視。結果、「世紀のパーフェクトゲーム」に貢献した。

 戦後は第一艦隊旗艦、第一次世界大戦では遣米艦隊旗艦、続いて第二特務艦隊旗艦とし地中海に派遣、連合国の船団護衛に活躍した。1920年代初頭に一等海防艦に類別変更、その後練習艦、海防艦として活躍するが、1932年2月、日中関係の悪化によって中国方面の艦隊を統率する第三艦隊の旗艦となる。その後さらに第四艦隊も加えた支那方面艦隊の旗艦となる。その後、支那方面艦隊は規模を縮小され、第三艦隊は第一遣支艦隊と改名、引き続き同艦隊旗艦を務める。

 1942年7月、海防艦の定義変更(占守型海防艦等が順次完成していた)により、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、竣工42年目にして再び巡洋艦となった。1943年8月20日、出雲は内地に帰還、練習艦として運用。1945年7月24日、米軍の空襲により至近弾を受け大破着底、1947年に引き上げられ解体された。艦歴の多くを旗艦として生きた稀有な艦であった。

 

磐手(第2艦隊第2戦隊)

05_磐手
(画像は磐手 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦2番艦。出雲よりも6ヶ月遅い1898年11月、英国アームストロング社にて起工、1901年3月に竣工、同年5月に日本に回航された。排水量9,750トン、全長132m、全幅21m、最大速度21ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基、45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 日露戦争では1番艦出雲と第二艦隊第二戦隊を編成、蔚山沖海戦や日本海海戦に活躍した。戦後は出雲と同様に1920年代初頭に海防艦に類別変更、他の艦に比して居住性が良かったため練習艦として使用された。1942年7月1日、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、1945年7月26日、米軍の呉軍港空襲により沈没、戦後引き揚げられた後解体された。歴代艦長にはのちに総理大臣となった米内光政、猛将で知られる角田覚治、潜水艦隊司令長官として有名な醍醐忠重などがいる。

 

 

吾妻(第2艦隊第2戦隊所属)

05_吾妻
(画像は吾妻 wikipediaより転載)

 

 基本的に英国の艦船を購入していた日本海軍には珍しいフランス製装甲巡洋艦である。1898年にフランス国ロワール社にて起工、1900年7月に竣工した。排水量9,326トンで同時期の英国製装甲巡洋艦出雲型に比べ若干少ないもののほぼ同じである。しかし全長は出雲型132mに対して136mと4mも長く、逆に全幅は18mと出雲型に比べ3m細かった。つまり出雲型に比べ、前後に長く、細い艦艇であった。最大速度は20ノットと出雲型に比べて1ノット劣る。乗員は644名で兵装は、兵装20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、 47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備している。

 日露戦争では第二艦隊に編入、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。戦後は一時期練習艦となるも第一次世界大戦では第一特務艦隊に編入された。他の装甲巡洋艦と同様に1921年9月1日に一等海防艦に類別変更、舞鶴で練習艦として運用される。どうも機関部に不調があったようで1927年には定繋練習艦、1942年7月には練習特務艦に類別変更された。さらに第二次世界大戦中の1943年9月には備砲を撤去、1944年2月15日に除籍、鉄資源の回収のため1945年に解体された。

 

八雲(第2艦隊第2戦隊所属)

07_八雲
(画像は八雲 wikipediaより転載)

 

 こちらもかなり珍しいドイツ製装甲巡洋艦である。1898年9月ドイツで起工、1900年6月に就役した。排水量9,695トン、全長124.7m、全幅 19.6mと同時期の装甲巡洋艦に比して全長が短い。最大速度は20.5ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に所属、黄海海戦、日本海海戦に参加、終戦直前には第三艦隊旗艦として樺太占領作戦にも参加している。その後は他の装甲巡洋艦と同様に練習艦として活躍したのち、1932年には海防艦に類別変更された。1942年7月1日には海防艦から再び一等海防艦に類別変更、太平洋戦争にも参加している。1945年5月には主砲が撤去され、12.7cm連装高角砲が設置、同年7月の呉空襲にも遭遇したが、奇跡的に中破状態で生き残った。自力航行可能であったため戦後は特別輸送船(復員船)として活躍、1946年7月に解体された。復員船としても活躍した唯一の日露戦争参加装甲巡洋艦。さすが鉄鋼の国ドイツ製といったところだろうか。

 

浅間(第2艦隊第2戦隊)

08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

 

 日露戦争参加装甲巡洋艦中最も古い艦である。1896年10月、英国アームストロング社にて起工、1899年3月竣工した。同月英国を出航、5月に日本に到着した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 1900年に義和団の乱で出撃。日露間の関係が悪化する中で1903年に連合艦隊が編成されると浅間は第二艦隊第二戦隊に編入された。日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦に参加している。戦後は練習艦になったのち、第一次世界大戦では太平洋上のドイツ領攻略に参加している他、北米西海岸での哨戒任務に就いている。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、1942年7月1日には帝国海軍籍から削除、練習特務艦となった。他の装甲巡洋艦が一等巡洋艦に類別変更されたのに対して浅間が除籍されたのは、1935年10月に起こった座礁事故による竜骨損傷や老朽化が原因と言われている。

 軍艦籍から除籍されたのちは主砲、副砲も撤去され砲塔跡に校舎も設置された。1945年11月30日に除籍、1947年に解体された。日露戦争では日本海海戦に参加するも戦闘初期に舵が故障し集中砲火を浴びてしまった他、1915年にはメキシコで座礁、1935年には広島湾でまた座礁してしまう。今ひとつ運の無い艦だったようだが、とにもかくにも太平洋戦争終戦まで生き残った。

 

常磐(第2艦隊第2戦隊所属)

09_常磐
(画像は常磐 wikipediaより転載)

 

 1897年1月英国アームストロング社にて起工、1899年5月に就役した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に編入、旅順港攻撃、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。1914年8月第二艦隊第四戦隊に編入、第一次世界大戦にも参加した。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、翌1922年9月には敷設艦に類別変更、1923年4月までに敷設艦に改装された。そのまま敷設艦として活躍を続け、1941年12月8日の太平洋戦争開戦もマーシャル諸島クェゼリン環礁で迎えた。1942年2月の米機動部隊の空襲により被弾、3月に佐世保に帰還、修理完了ののち、再びマーシャル諸島に進出している。

 1943年6月に内地に帰還、7月には大湊を根拠地として本土近海での機雷敷設任務に活躍した。1945年8月9日、大湊空襲により被弾、浸水したが沈没には至らなかった。しかし終戦を迎え、乗員が去っていくなかで排水作業が不可能となり擱座した状態で終戦を迎えた。1946年〜1947年にかけて解体された。常磐は日露戦争から太平洋戦争までを戦った数少ない装甲巡洋艦であった。

 

 

おわりに

 

 日露戦争に参加した装甲巡洋艦は全部で8隻、内、7隻が太平洋戦争開戦まで存在していた。ほとんどは練習艦となっていたものの、出雲のように旗艦として活動していた艦や八雲や常磐のように実戦に参加していた艦も存在する。これらの艦はあまり知られてはいないものの、装甲巡洋艦という類別から外れたのちも各種任務にまい進した日本海軍の縁の下の力持ちであった。

 

 

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01_青葉
(画像はwikipediaより転載)

 

 重巡洋艦青葉とは青葉型巡洋艦の1番艦である。1927年に就役、太平洋戦争では開戦当初より攻略作戦支援に活躍する。1942年のサボ島沖海戦では米艦隊の砲撃の直撃を受け大破、修理が完了した1943年には進出早々B17の爆撃により大破、修理完了後の1944年には潜水艦の雷撃により大破、1945年には米艦載機の空襲により大破している。毎年大破され続けたが、終戦時には大破着底した状態で残存。1946年に解体された。

 

重巡洋艦 青葉 〜概要〜

 

性能(改装後)

 通常排水量 9,000トン
 全長 185.17m
 全幅 17.56m
 吃水 5.66m
 機関出力 10万2,000馬力
 最大速力 33.43ノット
 航続距離 8,223海里/14ノット
 乗員 657名
 武装 50口径20cm砲連装3基
    45口径12cm砲単装4基
    25mm連装機銃4基
    13mm連装機銃2基
    61cm連装魚雷発射管2基
 装甲 舷側 76mm
    甲板 32-35mm
    主砲 25mm
 同型艦 2隻

 

特徴

 艦名は京都府と福井県の境に位置する青葉山から命名された。前級の古鷹型とほぼ同型であるが、主砲が古鷹型の20cm単装砲6基に対して20cm連装砲3基となっている。1937年には佐世保海軍工廠において近代化改修を行っており、これにより主砲が20.3cm砲となり排水量も増加している。

 

同型艦

1番艦 青葉(起工1924年2月4日、竣工1927年9月20日)
2番艦 衣笠(起工1924年1月23日、竣工1927年9月30日)

 

重巡洋艦 青葉 〜戦歴〜

02_青葉
(画像はwikipediaより転載)

 

青葉就役

 1927年9月20日、日本海軍の青葉型重巡洋艦のネームシップ巡洋艦青葉が就役した。青葉型は一応、前級の古鷹型重巡洋艦を改良したものとなっているが実質はほとんど同型艦である。古鷹型との最大の違いは古鷹型が20cm単装砲6門であったのに対して青葉型は20cm連装砲3基であった点であるが、その後の近代化改修によってどちらも20.3cm連装砲に換装されている。

 そのため基本的には古鷹型と青葉型はほぼ同型艦と言って良い。編成でも古鷹型の古鷹、加古と青葉型の青葉、衣笠の4隻は多くの場合戦隊を編成して一緒に行動していた。青葉がすごいのはその生涯に亘っての損害の受け方が尋常ではないからである。最初の損害は1936年の事故で、夜間航行中の青葉に僚艦の衣笠が船尾に衝突してしまった。要するに「カマを掘られた」訳だが、この時の損傷は軽微だったようである。

 

太平洋戦争開戦

 1941年、太平洋戦争が開戦すると重巡青葉はグアム島攻略、ウェーク島攻略に活躍する。1942年4月にはポートモレスビー攻略作戦に参加した後、一旦、本土に戻り整備を受ける。7月には再びソロモン方面に出撃、8月には第一次ソロモン海戦に参加する。この海戦では青葉は小火災が発生した程度であったが、海戦後に潜水艦によって「ほぼ姉妹艦」の加古が撃沈されてしまう。

 

サボ島沖海戦で大破

 1942年10月には五藤在知少将指揮の下、第六戦隊の旗艦となり、僚艦衣笠、古鷹と共にサボ島沖海戦に参加する。サボ島沖海戦では米艦隊を味方艦隊と誤認、「ワレアオバ」の信号を米艦隊に対して送り続けた。その直後、米艦隊が発射した初弾が青葉艦橋に命中する。

 この攻撃により五藤存知少将を含む79名が戦死する。因みに五藤少将は山内一豊の重臣五藤吉兵衛の子孫である。大河ドラマ『功名が辻』では武田鉄矢氏が演じていた。艦橋以外にも砲弾が命中して青葉は大破する。辛うじて撃沈は免れたが、「ほぼ姉妹艦」の古鷹は撃沈されてしまう。これによって青葉の4姉妹は青葉型のみとなってしまった。

 満身創痍の青葉はトラック泊地に帰投する。トラック泊地には、8月に工作艦明石が進出しているので明石による応急修理を受けたのであろう。10月下旬には内地帰投。呉海軍工廠で本格的な修理と改修を受ける。この青葉が内地で修理中に姉妹艦衣笠が第三次ソロモン海戦で撃沈されている。これによってとうとう青葉の姉妹艦は皆無となった。

 

1943年カビエン進出直後に爆撃で大破

 1943年2月、修理が完了し再びトラック泊地に進出。さらに4月にはカビエンに進出するがそこでB-17の投下した爆弾が青葉に命中。青葉は大破し曳航されてトラック泊地に戻ることになる。そこでまたまた工作艦明石の応急修理を受けたのち、1943年8月呉に到着。12月、修理が完了した青葉はシンガポールに進出し輸送任務に従事、1944年2月からインド洋での通商破壊戦に参加する。

 

1944年潜水艦の攻撃で大破、1945年空襲で大破

 1944年6月には渾作戦に参加するが、ここで潜水艦の雷撃により大破。マニラで応急修理を受けて5ノットの速力で辛うじて呉軍港に帰投する。呉に戻ったが損害があまりにも大きいために修理を諦め放置される。そして1945年7月の呉軍港空襲にて大破着底したまま終戦を迎え、翌年11月解体された。

 

まとめ

 

 青葉の戦歴は、1942年10月、サボ島沖海戦で大破。1943年4月、B-17の爆撃で大破。1944年6月、潜水艦の雷撃で大破。1945年7月、呉軍港空襲で大破と太平洋戦争開戦以来、毎年一回、定例行事のように大破してきた重巡青葉はとうとう太平洋戦争を生き抜いた。これを幸運艦と言っていいのかは微妙である。

 

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01_浅間
(画像はwikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦浅間級は日露戦争前に就役、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争に参加する。特に2番艦常磐は太平洋戦争においても敷設艦として第一線で活躍、大破しつつも撃沈されることなく終戦を迎えたという殊勲艦であった。両艦共に戦後解体処分されている。

 

装甲巡洋艦 浅間級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9700トン
 最大排水量 -トン
 全長 134.72m
 全幅 20.45m
 吃水 7.4m
 機関出力 18000馬力
 最大速力 21.5ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 661名
 武装 45口径20.3cm砲連装2基
    40口径15cm砲単装14基
    40口径8cm砲単装12基
    4.7cm砲単装8基
    45.7cm水上発射管1門
    同水中発射管4門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1番艦浅間は1899年に竣工した。艦首に衝角を装備した最後期の軍艦である。主砲は20.3cm連装砲で前後に1基ずつという当時の一般的なレイアウトであった。主砲の射程距離は18000mで発射速度は2発/分である。最大仰角は30°、俯角5°、揚弾は電動で各砲120発の砲弾が搭載されていた。装甲はハーヴェイ鋼で喫水線を中心に配置されている。

 

同型艦

浅間(起工1896年10月、竣工1899年3月)
常磐(起工1897年1月、竣工1899年5月)

 

装甲巡洋艦 浅間級 〜戦歴〜

02_常磐
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦浅間は1897年10月に就役、一等巡洋艦に類別される。1900年には義和団の乱鎮圧に出撃、日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦で活躍した。第一次世界大戦では巡洋艦出雲、戦艦肥前と共にアメリカ西海岸での哨戒任務についた。その際にメキシコで座礁事故を起こしている。1921年9月、一等海防艦に類別変更。1935年10月には瀬戸内海で再び座礁。この座礁での損傷により練習艦となった。1945年11月除籍、1947年に解体された。

 2番艦常磐は1899年5月に竣工、同年7月に就役する。1900年、姉妹艦浅間と共に義和団の乱の鎮圧に出撃、日露戦争でも活躍する。第一次世界大戦では青島攻略に参加、1921年9月一等海防艦に類別変更。1922年から1923年にかけて敷設艦に改造された。その後、日中戦争にも参加、太平洋戦争開戦後はマーシャル諸島に展開、1943年6月、本土に帰投。日本近海で機雷敷設や訓練に従事する。1945年8月、大湊で米軍機の空襲を受け大破した状態で終戦を迎える。1945年11月除籍、1946年解体される。

 

装甲巡洋艦 浅間級(模型)

 

1/700 日本海軍一等巡洋艦 浅間

 義和団の乱鎮圧から日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争と活躍した浅間級巡洋艦の1番艦浅間の模型、1/700スケールモデル。

 

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01_巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦出雲級は日露戦争開戦前に竣工、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争で活躍した40年以上の艦歴を持つ巡洋艦である。特に1番艦出雲は日露戦争以後も第一線で活躍することが多く、日中戦争、太平洋戦争においても艦隊旗艦を務めたという驚異の戦歴を持っている。

 

装甲巡洋艦 出雲級 〜概要〜

 

性能(竣工時)

 通常排水量 9773トン
 最大排水量 -トン
 全長 123m
 全幅 20.9m
 吃水 7.4m
 機関出力 14500馬力
 最大速力 20.8ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 648名
 武装 45口径20.3cm砲連装2基
    40口径15.2cm砲単装14基
    40口径8cm砲単装12基
    47mm機砲8基
    45.7cm水中発射管4門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 10.2cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

02_巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 未だ自国で巡洋艦を建造する能力を持たなかった日本がイギリスのアームストロング社に発注した装甲巡洋艦である。艦首には当時、まだ効能があるとされていた衝角(体当たりして敵艦を撃沈するための角)が水面下に装備されており、これも当時有効とされていた魚雷発射管も装備されていた。

 機関は石炭を使用するレシプロ機関であったが、1930年代前半から中盤までに老朽化のため石油石炭混合機関に変更されている。装甲は同時代の巡洋艦に比べて強固で材質は当時最新のクルップ鋼が使用されている。

 主砲は45口径20.3cm砲で射程距離18000m、2発/分の発射速度がある。出雲級は艦歴が長いために武装も時期によって異なっている。当初は上記の武装であったが、1924年には8cm速射砲と47mm機砲、魚雷管の一部が撤去された代わりに8cm単装高角砲が1基搭載され、1945年には主砲と副砲の一部が撤去され、40口径12.7cm高角連装砲2基、単装4基(磐手は3基)、13.2mm単装機銃2門が装備された。

 

同型艦

出雲(起工1898年5月、竣工1900年9月、除籍1945年11月)
磐手(起工1898年11月、竣工1901年3月、除籍1945年11月)

 

装甲巡洋艦 出雲級 〜戦歴〜

03_巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦出雲は1900年9月に竣工した。日露戦争では蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。第一次世界大戦では当初はアメリカ西海岸海域での船団護衛などに活躍、さらに第二特務艦隊旗艦として地中海マルタ島に派遣され、船団護衛に活躍した。

 戦後は練習艦として運用され、1922年には巡洋艦から海防艦に類別変更された。1932年には艦隊旗艦としての機能を充実させるために作戦室が増設され、1934年には水上偵察機が搭載されるようになった。1937年には第三艦隊旗艦として上海に展開、太平洋戦争開戦後も中国で作戦行動を続けた。1942年7月には再び類別変更が行われ一等巡洋艦となる。1943年内地に帰投、練習艦として運用される。1945年7月の呉軍港空襲で転覆、着底、1947年に解体される。

 2番艦磐手も1番艦出雲と同様に日露戦争では蔚山沖海戦、日本海海戦に参加、1921年に海防艦に類別変更、主に練習艦として活躍する。1942年には出雲と同様に一等巡洋艦に類別変更、1945年7月に呉軍港空襲で沈没、戦後に解体された。

 

装甲巡洋艦 出雲級(模型)

 

1/700 日本海軍一等巡洋艦 出雲

 1/700スケールの出雲。定番のスケールのため他の艦船との比較が容易。完成度も比較的評判の良いモデルなのでおすすめ。

 

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