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工作艦

01_工作艦明石
(画像はwikipediaより転載)

 

 工作艦明石は日本海軍で初めて工作艦として建造された艦であった。能力は非常に高く、当時は国内にすらなかった貴重なドイツ製工作機械を多数装備していた。太平洋戦争中は主に海軍の拠点であったトラック島において活躍。数えきれないほどの艦艇を修理した。1944年パラオにて大破着底、1954年解体された。

 

工作艦とは

 

 軍艦の構造が複雑化、鋼鉄化していくにつれて整備、修理に高度な工作機械、技術が必要になっていった。このような技術は造船所や工廠にあるため軍艦は定期整備にまたは戦闘で損傷した場合にはこれらの施設に入渠することが必要となっていった。

 しかし技術の進歩により作戦海域が広がっていくと整備や損傷のために整備修理能力を持った施設に戻るための時間的損失が問題となっていった。このため世界の海軍は艦艇に工作能力を持たせ、移動工廠とすることを考え始めた。その結果開発されたのが工作艦である。

 

工作艦 明石 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9000トン
 最大排水量 11036トン
 全長 158.5m
 全幅 20.564m
 吃水 6.29m
 機関出力 10065馬力
 最大速力 19.24ノット
 航続距離 8000海里/14ノット
 乗員 艦固定員 336名
    工作部  433名
 武装 12.7cm砲連装2基
    25mm連装機銃2基
 搭載艇 11m内火艇2隻
     9m内火艇1隻
     12m内火ランチ3隻
     12m伝馬船1隻
     6m通船1隻
     30t積運貨船1隻
 クレーン 中央部右舷23トン 1台
      前後マスト10トン 2台
      両舷5トン 2台
 同型艦 1隻

 

特徴

 日本海軍では工作艦の必要性は認められていたものの、予算的な問題で戦闘艦を優先して建造されていた。このため工作艦は艦齢の高い旧式艦に工作能力を付与し、工作艦として活動させていた。最初の工作艦は日清戦争で活躍した軍用船品川丸と元山丸で、さらに日露戦争では三池丸、関東等があった。数こそはあるものの日本海軍の工作艦の非力さはやはり問題となり、ついに新型の工作艦を開発することとなる。

 この工作艦建造は日本初であったため丹念に諸外国の工作艦が調査の対象とされた(特に参考にしたのは米海軍工作艦メデューサ)。調査は1933年頃より始まり、およそ3年後の1936年に基本計画がまとまった。この計画では新型工作艦は平時には海軍工廠の修理業務の代行、戦時には艦そのものが移動工廠として活動することが期待された。

 そしてその新型工作艦は「明石」と命名され、は1937年1月に起工、1939年7月に竣工する。完成した明石は上甲板中央に23トンを1基、10トンを2台、5トンを2台の計5基のデリック、クレーンを装備、搭載艇は本艦用5隻、工作部用7隻の12隻を持つ。

 艦内には17の工場があり、発電能力は戦艦大和に匹敵するものだった。工作機械も当時海軍工廠ですら配備していないドイツ製の工作機械なども含め、艦艇の修理、整備のために必要なあらゆる工作機械が配備されていた。さらに内部には溶鉱炉や溶接設備、木工所まであり部品の製造まで出来たという。このため米軍は明石を最重要攻撃目標に指定していたほどだった。

 

同型艦

明石(起工1937年1月、竣工1939年7月、1944年3月大破着底)

 

工作艦 明石 〜戦歴〜

02_工作艦明石
(画像はwikipediaより転載)

 

 竣工した明石は連合艦隊に所属、日中戦争で艦艇の修理に活躍する。1941年12月6日、明石は南洋委任統治領のパラオに移動、さらにフィリピンのダバオ、スラウェシ島のスターリング湾、モルッカ諸島のアンボン、シンガポール等で艦艇の修理や港湾施設の復旧に活躍した。1942年6月には第2艦隊第11航空戦隊所属でミッドウェー海戦に参加、その後、トラック泊地において同海戦で艦首を失うという大損害を受けた重巡最上に仮艦首を付ける工作を行っている。

 1942年8月11日には母港の呉に帰投するが、一週間後の8月18日には内地を離れ、23日にトラック島に到着した。これ以降明石はトラック泊地に停泊、主にソロモン海での戦闘で損傷した艦艇の修理に活躍する。この間に明石が修理した艦艇の数は数百隻に上る。

 1年以上にわたりトラック泊地に停泊して艦艇の修理を行っていた明石であったが、ソロモン諸島での海戦はすでに米軍が優勢となっており、1944年2月17日には後方基地であったトラック基地にすら米機動部隊の空襲を受けることとなった。明石もこの空襲によって命中弾を受けるが幸いにして不発弾であり損傷は軽微であった。

 1944年2月19〜20日、この空襲を受けて明石他連合艦隊の主力はトラック基地を脱出、さらに後方のパラオ基地に後退した。しかし3月30日、米海軍第58任務部隊はパラオを空襲。危険を察知した連合艦隊司令部は戦闘艦を優先して脱出させていたため、主力艦はすでに退避していたが取り残された明石やその他補助艦艇は空襲を受け、次々に攻撃されていった。ついに明石にも爆弾が命中。その後も次々に爆弾が命中した。消火活動の甲斐もなく明石は大破着底した。1944年5月除籍。

 明石の撃沈により連合艦隊は外地での艦艇修理の拠点を失ったため、新たに特設測量艦白沙を工作艦に変更、明石の代艦としたものの、工作艦として当初から設計された明石に工作能力は遠く及ばず、損傷艦の多くは内地または工廠のある港へ長時間かけて帰投する羽目になってしまった。これにより日本海軍が受けた損失は計り知れないものの、すでに戦争も日本は劣勢となっており、明石が活躍したとしても大勢を覆すことは出来なかった。

 パラオの空襲で大破着底した明石は1944年5月に除籍、大破よりちょうど10年後の1954年に解体された。明石は目覚ましい武勲こそはなかったが、戦闘により損傷した艦艇を後方拠点において修理し続けた。これにより日本海軍の戦闘力がどれほど高められたのかは想像に難くない。工作艦明石は、日本海軍の艦艇で唯一戦略に影響を与えた艦と言えなくもない。

 

工作艦 明石(模型)

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ No.566 日本海軍 工作艦 明石

 明石の模型では定番中の定番。模型業界の老舗アオシマの明石。価格も比較的安価で作り易い。私も製作したが作り易く、エッチングパーツを使用しなくても完成度は高い。

 

青島文化教材社 艦これプラモデルシリーズ No.35 艦娘 工作艦 明石

 上記明石と同じくアオシマ製の明石。こちらは艦娘バージョン。金型も新規製作という。通常版よりは若干高くなるが、より高い完成度を求める方はこちら。

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインディテールアップパーツシリーズ 日本海軍 工作艦 明石専用エッチングセット

 アオシマ製明石用のエッチングパーツセット。明石はクレーンが目立つのでエッチングパーツを使用すると外観が大きく変わる。

 

ピットロード スカイウェーブシリーズ 1/700 日本海軍 工作艦 明石 エッチングパーツ付き

 模型店発祥のピットロード製明石。こちらはエッチングパーツ付属のもの。上級者向け。

 

関連リンク

工作艦メデューサ

 

敷島級戦艦

 

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01_工作艦メデューサ
(画像はwikipediaより転載)

 

 工作艦メデューサは米海軍で初めて工作艦として建造された工作艦である。主に太平洋戦争で活躍した本艦は開戦後、真珠湾での復旧活動、南方での損傷艦艇の修理に活躍した。この工作艦メデューサの活動海域をみると当時の米軍が安全と認識した海域が良く分かる。

 

工作艦メデューサ 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 10620トン
 最大排水量 -トン
 全長 147.47m
 全幅 21.41m
 吃水 6.07m
 機関出力 7000馬力
 最大速力 16ノット
 航続距離 -
 乗員 499名
 武装 51口径12.7cm砲単装4基
    50口径7.6cm高角砲単装2基
 同型艦 1隻

 

特徴

 1924年に就役した工作艦メデューサは独力で水上艦艇の大規模修理を完遂する能力を持つ米海軍で初めて工作艦として設計された艦であった。艦内には鍛冶、ボイラー修理から溶接、旋盤等、艦底を修理するためのあらゆる工作機械が装備されていただけでなく、水上機の修理も行えるようになっており、さらには大型洗濯機や製パン設備、冷蔵庫なども持つ給糧艦的な艦でもあった。

 

同型艦

工作艦メデューサ(起工1920年1月、竣工1924年9月、解体1951年)

 

戦歴

02_工作艦メデューサ
(画像はwikipediaより転載)

 

 メデューサは竣工すると太平洋艦隊に配属、以降、太平洋戦争開戦までは主に輸送任務に従事した。太平洋戦争開戦時には真珠湾に停泊しており、日本海軍の真珠湾攻撃時には特殊潜航艇甲標的を撃沈する戦果を挙げている。攻撃終了後には工作艦としての修理任務に活躍した。以降、1942年3月までは真珠湾で復旧活動を行った。

 1942年4月、メデューサはニューヘブリディーズ、エファテ島に進出した。このエファテ島とは、ガダルカナル島東南約1000kmにある島で日本軍の根拠地であったラバウルからガダルカナル島までの距離に等しい。メデューサはここで1944年3月まで戦闘で損傷した艦艇の修理任務を遂行した。

 1944年3月メデューサはエファテ島を出航、ニューギニア、ガダルカナル島とソロモン海近海で修理任務を行った。日本海軍のラバウル航空基地は1944年2月にはほぼ全部隊が撤収を完了しており、本艦がソロモン海近海で作戦行動を行ったということはこの海域が後方地帯となったことを意味すると考えてよいだろう。

 以降、アドミラルティ諸島マヌス島を拠点として艦艇修理を担当、1945年1月にはニューギニア島ホーランディア(ニューギニア島中央北部パラオ諸島の南方)で艦艇修理を行った。1945年7月には再びマヌス島に進出終戦を向かえる。1946年11月退役、1947年除籍され1951年に解体された。

 

 

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