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艦船

01_戦艦ドヴィエナザット・アポストロフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ドヴィエナザット・アポストロフは1892年に就役した黒海艦隊用の沿岸防御型戦艦である。戦艦ポチョムキンの反乱の鎮圧作戦に参加した以外には目立った活躍は無い。1931年に解体されている。

 

戦艦 ドヴィエナザット・アポストロフ 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 8709トン
 最大排水量 -トン
 全長 104.24m
 全幅 18.29m
 吃水 8.38m
 機関出力 8750馬力
 最大速力 15.7ノット
 航続距離 4000海里/10ノット
 乗員 611名
 武装 30口径30.5cm砲連装1基
    22.8cm砲単装4基
    15.2cm砲単装8基
    4.7cm砲単装10基
    3.7cm砲単装8基
    38.1cm水上発射管5基(ニコライは6基)
 装甲 舷側 35.6cm
    甲板 -cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 戦艦インペラトール・アレキサンドル2世級に次いで建造された艦で、艦名はロシア語で十二使徒という意味。前級の主砲が連装1基であったのに対して2基装備したデザインに優れた戦艦であった。主砲は蒸気機関により動作する。装填機構が船体に固定されていたために砲弾装填時には砲を中央線上に向ける必要があった。このために主砲の発射速度は1発/4分と遅い。主砲に天蓋はない。

 

同型艦

(起工1888年2月、竣工1892年12月)

 

戦歴

02_戦艦ドヴィエナザット・アポストロフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ドヴィエナザット・アポストロフは1892年に就役したが、特に大きな作戦に参加することはなかった。1905年に戦艦ポチョムキンに反乱が起こると鎮圧に出動するが失敗している。1911年武装解除され、1912年に宿泊船に改造された。1918年まで機能していたが、1931年に解体された。

 

 

 

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01_戦艦インペラートル・アレキサンドル2世
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦インペラートル・アレキサンドル2世級はロシア海軍初の近代戦艦である。姉妹艦にはインペラートル・ニコライ1世があり、バルチック艦隊に配属され、日本海海戦で日本軍に鹵獲された。以降、二等戦艦壱岐となり、1915年に標的艦として撃沈されている。

 

戦艦インペラートル・アレキサンドル2世級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9500トン
 最大排水量 -トン
 全長 105.53m
 全幅 20.42m
 吃水 7.87m
 機関出力 8500馬力
 最大速力 15.3ノット
 航続距離 4000海里/10ノット
 乗員 611名
 武装 30口径30.5cm砲連装1基
    22.8cm砲単装4基
    15.2cm砲単装8基
    4.7cm砲単装10基
    3.7cm砲単装8基
    38.1cm水上発射管5基(ニコライは6門)
 装甲 舷側 35.6cm
    甲板 -cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 本級はドイツ海軍のザクセン級装甲艦に対抗する目的で建造されたバルチック艦隊用小型戦艦である。姉妹艦は2隻あり、主砲や装甲等が若干異なる。主砲は連装1基で天蓋が付いているが、破片を防ぐ程度の能力しかない。砲弾の揚弾、装填は水圧によって行われる。発射速度は1発/5分である。

 

同型艦

インペラートル・アレキサンドル2世(起工1885年7月、竣工1891年6月)
インペラートル・ニコライ1世(起工1886年8月、竣工1891年7月)

 

戦艦インペラトール・アレキサンドル2世級の活躍

 

1番艦インペラトール・アレキサンドル2世

02_戦艦インペラートル・アレキサンドル2世
(画像はwikipediaより転載)

 

 1891年に竣工したインペラートル・アレキサンドル2世は、バルト艦隊に配属。1896年8月には地中海艦隊に配属、さらには1897年からはマルタ島に移動、国際艦隊に参加した。1901年9月にはバルチック艦隊の拠点であるクロンシュタットに帰還した。1902年から1904年にフランスで改装を受け武装が強化されたが、1907年には練習艦となり、1917年5月にはザリャ・スヴォボデ(ロシアのカザフスタン近郊の地名)と改称される。1922年スクラップとして売却された。

 

2番艦インペラートル・ニコライ1世

03_戦艦インペラートル・ニコライ1世
(画像はwikipediaより転載)

 

 姉妹艦のインペラートル・ニコライ1世は1891年、バルト艦隊に配属、1893年には大西洋を横断してアメリカに行った。その後、その後、アレキサンドル2世と同様に国際艦隊に所属、太平洋に回航された。日清戦争後の1895年4月には長崎に寄港している。1898年4月には大規模な改修を受けている。1905年1月には第三太平洋艦隊旗艦としてバルチック艦隊に配属、日本海海戦で日本海軍に降伏した。

 

二等戦艦壱岐

 日本海軍によって鹵獲された戦艦インペラートル・ニコライ1世は、二等戦艦壱岐と改名し、横須賀鎮守府籍となるが、同年12月には一等海防艦に類別変更された。1915年5月退役、10月には標的艦として戦艦金剛、比叡の砲撃により撃沈される。

 

 

 

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01_戦艦トライアンフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦スイフトシュア級はチリ海軍がイギリスに発注した戦艦であったが、チリが財政難に陥り購入を放棄したことからイギリスが購入したという複雑な経過を経てイギリス海軍に編入された戦艦であった。性格的には高速戦艦、二等戦艦に該当する。

 

戦艦スイフトシュア級 〜概要〜

 

性能

02_戦艦スイフトシュア
(画像は戦艦スイフトシュア wikipediaより転載)

 

 通常排水量 11800トン
 最大排水量 -トン
 全長 146.2m
 全幅 21.6m
 吃水 7.7m
 機関出力 1万2500馬力
 最大速力 19ノット
 航続距離 6210海里/10ノット
 乗員 800名
 武装 25.4cm砲連装2基
    19cm砲連装14基
    14ポンド砲単装14基
    7.6cm砲単装2基
    5.7cm砲単装4基
    45cm水中発射管2門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 7.6cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 本級は本来、チリ海軍向けに建造された戦艦であった。しかし日露戦争においてロシアが海軍力を増強しており、本級をロシアが購入するのを防ぐためにイギリス海軍が購入したという経緯がある。本級の特徴は排水量11800トン、主砲25.4cm、最高速度19ノットという軽装、高速の戦艦である。このためイギリス海軍で使用されたいた他の戦艦と性格が異なっており、艦隊運用面で支障をきたした。結果的に単独で運用されることが多かった。

 

同型艦

スイフトシュア(起工1902年2月、就役1904年6月)
トライアンフ(起工1902年2月、就役1904年6月)

 

戦歴

03_戦艦トライアンフ
(画像は戦艦トライアンフ wikipediaより転載)

 

 本級は完成すると2隻とも本国艦隊、そして海峡艦隊に配属された。1909年には地中海艦隊に異動、1912年にはどちらも本国艦隊に復帰した。1913年にスイフトシュアは東インド基地、トライアンフは香港基地にそれぞれ配属された。

 1914年、第一次世界大戦が始まるとスイフトシュアはインド洋に展開、その後スエズ運河の防衛に活躍した。トライアンフは中国においてドイツ領青島の攻撃に参加した。その後、地中海に異動するが、1915年5月ドイツ海軍UボートU-21の雷撃で撃沈される。スイフトシュアはガリポリの戦いに参加した後、練習艦、標的艦となり1920年にはスクラップとして売却された。

 

まとめ

 

 本級は独特な経過を経てイギリス海軍に所属したため、他の戦艦との共同運用が難しく、海外で運用されることが多かった。経過においては日本海軍の二等戦艦になる可能性もあったが、結局、イギリス海軍が購入した軽装甲、高速戦艦であった。

 

 

 

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01_戦艦ラッセル
(画像はwikipediaより転載)

 

 ダンカン級戦艦はロシア海軍が建造していた高速戦艦ペレスヴェート級に対抗する目的で開発された高速戦艦である。フォーミダブル級を基にして軽装甲、軽武装で高速化した結果、最高速度が1ノット増加し、イギリス海軍随一の高速戦艦となる。

 

戦艦ダンカン級 〜概要〜

 

性能

02_戦艦ダンカン
(画像は戦艦ダンカン wikipediaより転載)

 

 通常排水量 13270トン
 最大排水量 -トン
 全長 131.7m
 全幅 23m
 吃水 7.6m
 機関出力 1万8000馬力
 最大速力 19ノット
 航続距離 6070海里/10ノット
 乗員 720名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    45口径15.2cm砲単装12基
    7.6cm砲単装10基
    4.7cm砲単装6基
    45cm水中発射管4門
 装甲 舷側 17.8cm
    甲板 7.6cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 6隻

 

特徴

03_戦艦コーンウォーリス
(画像は戦艦コーンウォーリス wikipediaより転載)

 

 ロシア海軍が建造中の高速戦艦ペレスヴェート級に対抗する目的で建造が決定したのが本級である。本級はフォーミダブル級を基に装甲を薄くし、武装も副砲を16基から10基へと減らすことで軽量化を図った高速戦艦である。これによりフォーミダブル級よりも1000トンの排水量の減量に成功した。さらに機関も主缶を20基に増加した結果、機関出力で3000馬力、速力で1ノットフォーミダブル級よりも優越することとなった。

 

同型艦

04_戦艦エクスマス
(画像は戦艦エクスマス wikipediaより転載)

 

ラッセル(起工1899年3月、竣工1903年2月)
エクスマス(起工1899年8月、竣工1903年5月)
モンターギュー(起工1899年11月、竣工1903年7月)
ダンカン(起工1899年7月、竣工1903年10月)
アルベマール(起工1900年1月、竣工1903年11月)
コーンウォーリス(起工1899年7月、竣工1904年2月)

 

戦歴

05_戦艦ラッセル
(画像は戦艦ラッセル wikipediaより転載)

 

 本級は完成すると地中海艦隊に配属され、以降、本国艦隊、海峡艦隊、大西洋艦隊に所属した。1906年には戦艦モンターギューが事故により沈没したが、他の姉妹艦はそれぞれに任務を遂行していった。1914年に第一次世界大戦が始まると、本級は、海上警備、陸上砲撃等に活躍した。ガリポリの戦いが始まると本級も参加、オスマン帝国の要塞に攻撃を行った。

 1916年4月にラッセル、1917年1月にコーンウォリスがドイツ海軍のUボートにより撃沈された。残った3隻は大戦後半には目立った活躍をすることはなく、第一次世界大戦終了後の1920年に全艦解体された。

 

まとめ

 

06_戦艦アルベマール
(画像は戦艦アルベマール wikipediaより転載)

 

 本級は高速戦艦として設計された戦艦であったが、高速化のために装甲、武装を軽量化したために第一次世界大戦では装甲の脆弱性に悩まされた。しかし、最高速度は19ノット、コーンウォールに至っては20ノット近くも出すことができた。事故で1隻、大戦で2隻が失われ、6隻中退役できたのは3隻という歴戦艦であった。

 

 

 

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01_戦艦ブルワーク
(画像はwikipediaより転載)

 

 ロンドン級戦艦は前級フォーミダブル級戦艦として扱われることもあるほぼ同型艦である。違いは装甲の長さのみで、ロンドン級の4番艦、5番艦は排水量、ボイラーが異なるために別級として扱われることもある。ドレットノート級戦艦登場前の最後期の戦艦といえる。

 

戦艦ロンドン級 〜概要〜

 

性能

02_戦艦ロンドン
(画像は戦艦ロンドン wikipediaより転載)

 

 通常排水量 14500トン
 最大排水量 -トン
 全長 131.6m
 全幅 22.9m
 吃水 7.9m
 機関出力 1万5000馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 5550海里/10ノット
 乗員 714名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    45口径15.2cm砲単装12基
    7.6cm砲単装16基
    4.7cm砲単装6基
    45cm水中発射管4門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 6.4cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 5隻

 

特徴

03_戦艦ブルワーク
(画像は戦艦ブルワーク wikipediaより転載)

 

 前級のフォーミダブル級とはほぼ同型艦といっていい。違いは水線装甲帯を前方に延長し、前部乾舷の装甲が強化されたことのみである。本級は、ロンドン、ブルワーク、ヴェネラブル、クイーン、プリンス・オブ・ウェールズの5隻が竣工したが、クイーン、プリンス・オブ・ウェールズはボイラーが異なり排水量が若干少ないため別級として扱われることもある。

 

戦歴

04_戦艦ヴェネラブル
(画像は戦艦ヴェネラブル wikipediaより転載)

 

 これら5隻の戦艦は竣工すると地中海艦隊に所属、以降、本国艦隊、海峡艦隊、大西洋艦隊に随時派遣された。第一次世界大戦時には旧式化しており、主力艦とはならなかったが輸送船団護衛や上陸支援、陸上砲台攻撃に活躍した。ブルワークが事故で沈没した以外は、1916年から順次退役、1920年にはスクラップとして売却、1922年には全艦が解体された。

 

同型艦

05_戦艦クイーン
(画像は戦艦クイーン wikipediaより転載)

 

ロンドン(起工1898年12月、竣工1902年6月)
ブルワーク(起工1899年3月、竣工1902年3月)
ヴェネラブル(起工1899年1月、竣工1902年11月)
クイーン(起工1901年3月、竣工1904年3月)
プリンス・オブ・ウェールズ(起工1901年3月、竣工1904年3月)

 

まとめ

 

06_戦艦プリンス・オブ・ウェールズ
(画像は戦艦プリンス・オブ・ウェールズ wikipediaより転載)

 

 1900年前後は戦艦の黄金時代といっていい。技術革新が進み、戦艦が新造されては旧式化していった。戦艦の寿命も10年程度というのが平均的であろう。後の戦艦に比べると圧倒的に短い。1906年にドレットノート級戦艦が登場したことにより陳腐化に拍車がかかったことも大きい。本級も第一次世界大戦には参加したもののもやは主力艦とはなり得ず支援業務に活躍して退役していった。

 

 

 

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01_戦艦イレジスティブル
(画像はwikipediaより転載)

 

 日露戦争前に日本海軍に販売した敷島級戦艦は当時世界最高の高性能を誇る戦艦であった。これはイギリス海軍が装備する戦艦の性能よりも勝っていた。このことに脅威を感じたイギリス海軍は敷島級に対抗する性能の戦艦の建造を計画、その結果誕生したのがこのフォーミダブル級戦艦である。

 

戦艦フォーミダブル級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 14500トン
 最大排水量 -トン
 全長 131.6m
 全幅 22.9m
 吃水 7.9m
 機関出力 1万5000馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 5100海里/10ノット
 乗員 780名
 武装 40口径30.5cm砲連装2基
    45口径15.2cm砲単装12基
    7.6cm砲単装16基
    4.7cm砲単装6基
    45cm水中発射管4門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 7.6cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 3隻

 

特徴

 日本が購入したイギリス戦艦敷島級の性能がイギリス戦艦を上回っていることに脅威を感じたイギリス海軍が建造した対敷島級戦艦。装甲厚はマジェスティック級戦艦と同じだが、マジェスティック級戦艦がハーヴェイ鋼をしようしていたのに対してより高性能なクルップ鋼を使用しており、3割程耐弾性が強化された。さらに舷側の装甲も艦首から艦尾まで覆っている。

 主砲もマジェスティック級戦艦と同口径ではあるが砲身が延長されマジェスティック級戦艦が40口径だったのに対して本級は45口径となっており、初速、射程、精度共に向上している。推進機関も前級であるカノーパス級の13500馬力に対して15000馬力と強化されており、装甲の強化によって排水量は増したが速度はカノーパス級と同程度を維持している。

 

同型艦

フォーミダブル(起工1898年3月、竣工1901年9月)
レジスティブル(起工1898年4月、竣工1901年10月)
インプラカブル(起工1898年7月、竣工1901年7月)

 

戦艦フォーミダブル級の活躍

 

1番艦フォーミダブル

02_戦艦フォーミダブル
(画像はwikipediaより転載)

 

 1901年9月に完成したフォーミダブルは地中海艦隊に所属。1904年から1905年まで補修が行われる。1908年4月から海峡艦隊に所属、1908年に一時退役し、改修が行われる。1909年4月、本国艦隊所属、5月には大西洋艦隊に異動する。

 第一次世界大戦が始まるとフォーミダブルは海峡艦隊に所属、輸送艦隊の護衛に活躍する。護衛の任務をダンカン級戦艦と後退したフォーミダブルはポーランド沖で演習の後、駆逐艦の護衛を受けずに活動していたためドイツ潜水艦U-24の雷撃を受け1915年1月1日に沈没する。

 

2番艦レジスティブル

03_戦艦イレジスティブル
(画像はwikipediaより転載)

 

 竣工したレジスティブルは地中海艦隊に就役する。1902年3月には濃霧の中で商船と接触事故を起こし船体に大きな損傷を受けた。1907年10月から1908年2月まで改修を受ける。1908年4月には海峡艦隊に所属、1910年6月から改修を受ける。改修後の1911年2月、本国艦隊に所属する。

 第一次世界大戦が始まると海上警備、上陸支援等に活躍する。1915年2月にはオスマン帝国の要塞攻撃に参加、1915年3月に機雷に触雷沈没する。

 

3番艦インプラカブル

04_戦艦インプラカブル
(画像はwikipediaより転載)

 

 1901年に竣工した戦艦インプラカブルは地中海に配備される。1902年、1903年から1904年、1905年に補修を受ける。この補修により測距儀と射撃統制装置が追加された。このためマストの形状が変更されている。1905年と1906年にの二度にわたってボイラーの事故が起こっている。このため1908年にはドッグで補修工事を受けている。補修修了後は大西洋艦隊、本国艦隊に所属した。

 第一次世界大戦が始まると他の同型艦と同様に海上警備、上陸支援等に活躍する。1915年1月にはオスマン帝国の要塞攻撃に参加、その後、各種任務に就いたのちに1916年イギリス本国に帰還する。1917年には練習艦となり1919年退役、1922年に解体された。

 

まとめ

 

 フォーミダブル級戦艦は次に建造されるロンドン級戦艦5隻と合わせてフォーミダブル級と呼ばれることもあるが、本稿では別級とした。1906年にドレットノート級戦艦が登場する直前に建造された最後期に属する前弩級戦艦であった。第一次世界大戦時には主力艦とはなり得なかったが、各種支援業務に活躍、本級3隻中2隻が撃沈されるという損害を受けている。

 

 

 

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01_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦であった。主砲は後の戦艦のように中心線に一列に並ぶ形式ではなく、前後に2基、左右舷側に2基ずつの合計6基が設置されるという形式であった。艦首の形状も1番艦河内が垂直艦首、2番艦摂津がクリッパー型と異なっていた。6基ある主砲も前後の2基と左右舷側の4基の口径(砲身の長さ)が異なっている等、過渡期的な性格の戦艦といえる。むしろ河内級は戦艦としてよりも標的艦としての活躍の方が有名であろう。

 

戦艦 河内級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 20800トン
 最大排水量 -トン
 全長 152.4m
 全幅 25.7m
 吃水 8.2m
 機関出力 2万5000馬力
 最大速力 20ノット
 航続距離 -海里/ -ノット
 乗員 999名
 武装 50口径30.5cm砲連装2基
    45口径30.5cm砲連装4基
    45口径15.2cm砲単装10基
    40口径12cm砲単装8基
    40口径7.6cm砲単装16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 30.5cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1906年のドレットノート級戦艦の竣工の翌年に発注された日本初の弩級戦艦がこの河内級である。本級は薩摩型戦艦2番艦安芸の改良型といえるものであるが、全長は安芸よりも10mほど長く、排水量も1000トンほど増加している。日本の戦艦としては初めて三脚檣を採用したのも外観上の特徴である。

 本級の一番の特徴は30.5cm連装砲6基を装備した弩級戦艦であることだ。連装砲は前後に2基、左右舷側に2基ずつ配置されている。これにより各方位に対して最低でも3基以上で砲撃することができるようになっているが、弱点としては前後にある2基が50口径の長砲身であるのに対して舷側の4基は45口径で若干砲身が短くなっていることである。これにより射程距離、破壊力が異なり運用上不利であった。これは当時の軍令部長東郷平八郎元帥の意見によって決まったともいわれている。実際の運用では火薬の量を調整することにより運用上の不利を解消したようである。

 主機は前級の1番艦薩摩がレシプロ機関、2番艦安芸がタービン機関であるのに対して、本級では1、2番艦ともに、さらに改良されたタービン機関のみの装備である。速力は20ノットと弩級戦艦よりも若干劣りはするがほぼ同レベルであったが、1番艦河内は垂直艦首であったため凌波性に難があった。装甲はハーヴェイ鋼よりも高性能のクルップ鋼を使用しており防御力も十分であった。

 

同型艦

1番艦河内(起工1909年4月、竣工1912年3月)
2番艦摂津(起工1909年1月、竣工1912年7月)

 

戦艦河内級の活躍

 

1番艦河内

02_戦艦河内
(画像はwikipediaより転載)

 

 前述のように1番艦河内と2番艦摂津の一番大きな違いは艦首の形状である。摂津がクリッパー型の艦首であるのに対して河内は垂直艦首だった。クリッパー型とは艦首が海面に対して少し「前のめり」形状をしている型で、これにより凌波性を高めることができるが、艦首をクリッパー型に変更すると決定した時にはすでに河内の工事は進行していたため修正することができなかった。

 河内は竣工すると直ちに第一艦隊に編入され旗艦となった。第一次世界大戦には姉妹艦摂津と共に海上の警備に従事するが特に目立った活躍はない。1917年予備艦となり、1918年に現役に復帰するが、同年7月徳島湾を航行中に火薬庫の爆発により沈没。9月に除籍となる。

 

2番艦摂津

03_戦艦摂津
(画像はwikipediaより転載)

 

 1912年に竣工した2番艦摂津は、1番艦河内と同様に第一次世界大戦に海上警備に従事した以外には目立った活躍はしていない。1922年に締結されたワシントン軍縮条約では未成艦は廃棄されることが決定していたが、当時、建造中(実際はほぼ未成艦)の長門型戦艦2番艦陸奥を既成艦として認める代償として摂津が退役、標的艦となった。

 

第一次改装

 1923年10月制式に標的艦となった摂津は、武装を全廃、当初は標的艦を曳航する曳航艦として任務にあたった。1936年無線操縦技術が確立されると摂津は無線操縦の所謂「ラジコン戦艦」となり、同時に演習弾の命中にも耐えられるように装甲が強化された。16基あったボイラーも4基の重油専用ボイラーに変更することとなり、「ラジコン戦艦」としての自動燃焼装置も装備された。これにより速力が20ノットから16ノットに低下している。この時に摂津の煙突は3本から2本になっている。

 

第二次改装

 1939年から1940年にかけて第二次改装を実施する。この改装は航空攻撃に対応することを主眼に改装された。まずは航空攻撃に対する操艦の訓練も行えるように上部装甲を強化、ボイラーも増強され速力も17.4ノットにまで増加された。

 この改装により摂津が航空攻撃に対する艦の操艦訓練も行えるようになったことが、航空攻撃に対する日本海軍の操艦技術の向上に大きく貢献することとなる。太平洋戦争が始まると摂津は南シナ海、フィリピン、台湾等に進出し、機動部隊の空母に偽装して符号を発信した。太平洋戦争中も標的艦として活躍し続けたが1945年7月の呉軍港空襲により大破着底、1945年11月除籍される。

 

まとめ

 

 河内級戦艦は日本初の弩級戦艦ではあるが、速度も弩級戦艦に比べ若干遅く、主砲の口径も2種類存在するなど、若干難のある戦艦であった。本級の一番の活躍は戦艦としての職責を解かれ標的艦として活躍したことであっただろう。標的艦に改装された摂津は「ラジコン戦艦」として日本海軍の戦闘技術の向上に大きな貢献をしのだった。

 

関連リンク

前級薩摩級戦艦

 

 

 

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01_戦艦ヴェンジャンス
(画像はwikipediaより転載)

 

 カノーパス級戦艦は日清戦争に勝利し、新たな脅威となった日本に対抗するために建造された戦艦である。合計6隻建造され、建造後は多くが中国基地に配属された。しかし日英同盟の締結により日本の脅威がなくなると順次帰還していく。

 

戦艦カノーパス級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 13150トン
 最大排水量 -トン
 全長 128.5m
 全幅 22.6m
 吃水 8m
 機関出力 1万3500馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 5320海里/10ノット
 乗員 682名
 武装 35口径30.5cm砲連装2基
    40口径15.2cm砲単装12基
    7.6cm砲単装10基
    4.7cm砲単装6基
    4.5cm水中発射管4門
 装甲 舷側 15.2cm
    甲板 5.1cm
    主砲 20.3cm
 同型艦 6隻

 

特徴

 本級は、日清戦争に勝利し実力を付け始めた日本に対抗するために建造された戦艦である。1899年から1902年にかけて竣工し極東方面に配備された他、本国艦隊、地中海艦隊、大西洋艦隊、海峡艦隊に配備された。

 あくまでも日本戦艦を主眼においたため、日本戦艦が比較的軽装甲であったことから防御装甲は軽減され速力の強化が図られた。装甲には最新のクルップ鋼を使用、装甲厚を減少させ防御力を高めることに成功している。

 エンジンはレシプロ機関であるが水管缶を採用したことにより前級であるマジェスティック級戦艦よりも10%以上出力が増強された。前級よりも1ノット速力で優っている。

 

5番艦アルビオンの進水式の動画

 

同型艦

カノーパス(起工1897年1月、竣工1897年10月)
オーシャン(起工1897年12月、竣工1900年2月)
ゴライアス(起工1897年1月、竣工1900年3月)
グローリー(起工1896年12月、竣工1900年10月)
アルビオン(起工1896年12月、竣工1901年6月)
ヴェンジャンス(起工1898年8月、竣工1902年4月)

 

戦艦カノーパス級の活躍

 

1番艦カノーパス

02_戦艦カノーパス
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦カノーパスは就役すると地中海艦隊に配属される。その後、1905年には東アジアに配属されるが、日英同盟の締結により日本の脅威が無くなると、大西洋艦隊、海峡艦隊、本国艦隊等に配属された。

 第一次世界大戦が始まると南米に派遣されフォークランドの戦いを始め、いくつかの戦闘に参加した。1915年初頭には地中海に派遣され、オスマン帝国の沿岸要塞への攻撃に参加している。その後カノーパスは1916年4月に退役、1918年には宿泊船に改造されたが1920年には解体された。

 

2番艦オーシャン

03_戦艦オーシャン
(画像はwikipediaより転載)

 

 オーシャンは1900年2月に就役すると地中海艦隊に配属。1901年1月には中国基地に配属された後、1905年に海峡艦隊に所属する。予備役に編入された後、1908年から1910年まで再度地中海艦隊に配属される。1910年からは本国艦隊に所属。第一次世界大戦が始まると東インド諸島基地に配属され船団護衛に活躍した。1914年にはエジプトに派遣されスエズ運河防衛に従事する。1915年3月にはオスマン帝国の要塞攻撃に参加するが機雷に触雷して沈没した。

 

3番艦ゴライアス

04_戦艦ゴライアス
(画像はwikipediaより転載)

 

 ゴライアスは1900年3月に就役するとそのまま中国基地に配属された。1903年地中海艦隊所属、1906年海峡艦隊所属、1907年本国艦隊に所属。数度地中海に派遣された後、1909年には予備役に編入される。第一次世界大戦が始まると現役に復帰し、船団護衛、上陸支援等に活躍したが、1915年5月にオスマン帝国の駆逐艦の攻撃により撃沈された。

 

4番艦グローリー

05_戦艦グローリー
(画像はwikipediaより転載)

 

 グローリーは1900年11月に就役、1901年から1905年まで中国基地に配属された。1905年後半にはイギリスに戻り海峡艦隊、本国艦隊に所属する。1907年の階層の後、地中海艦隊に所属、1909年4月予備役に編入。1914年に第一次世界大戦が始まると現役に復帰した。

 第一次世界大戦では北米、西インド諸島の基地に配属され艦隊旗艦を務めた。1915年6月には再び地中海艦隊に所属、各種戦闘、支援業務に参加する。1919年退役。1920年に名称をクレセントに変更され、1922年に解体された。

 

5番艦アルビオン

06_戦艦アルビオン
(画像はwikipediaより転載)

 

 アルビオンはテムズ鉄工所で1896年6月に進水するが、この時にアルビオンが起こした波により34人が死亡する事故が発生する。アルビオンはカノーパス級の戦艦の中で最も初期に起工した艦の一つであったが、機械の納入の遅れ、さらには装備機器の欠陥のために竣工は1902年と遅れてしまった。

 1901年6月に竣工するとそのまま香港に派遣され中国基地の旗艦となった。しばらくは中国基地で活動を続けたが、1905年日英同盟の締結により本国に帰還。海峡艦隊に所属するが、戦艦ダンカンと衝突事故を起こすが、幸い損害はなかった。。1906年4月にはオーバーホールを受ける。1907年にはポーツマスの本国艦隊に所属する。

 第一次世界大戦が始まるとアルビオンは各種作戦に参加、1915年にはオスマン帝国の海岸砲台の砲撃により損傷、マルタ島で修理を受ける。その後も船団護衛等に活躍した。1918年10月退役、1919年8月宿泊艦となり、1920年1月に解体された。

 

6番艦ヴェンジャンス

07_戦艦ヴェンジャンス
(画像はwikipediaより転載)

 

 1902年4月に就役すると中国基地に配備される。日英同盟の締結により日本の脅威がなくなるとヨーロッパに戻る。1905年より改装を受ける。1906年より1908年まで海峡艦隊に所属。その後本国艦隊に異動、練習艦として活躍する。第一次世界大戦が勃発するとヴェンジャンスは海峡艦隊に所属し上陸支援等に活躍する。第一線での任務は少なく、主に警備官、支援艦として活躍する。1915年1月オスマン帝国の要塞攻撃に参加、その後も各種支援攻撃に参加する。1915年7月機関不具合のため一時退役、修理が行われた後、1915年より再び各種支援戦闘を行う。1917年2月退役、1922年スクラップとして解体された。

 

まとめ

 

 カノーパス級戦艦は日清戦争で勝利した日本に対する警戒から建造された対日戦艦といえるものであった。そのため日本へ売却した敷島級戦艦の特性を設計に反映していた。しかし日英同盟の締結によりその任を解かれ、第一次世界大戦では二線級の戦艦として各種活動に従事した。逆に考えれば条約一つが戦艦6隻分以上の効力を発揮したといえる。

 

 

 

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01_戦艦マジェスティック
(画像はwikipediaより転載)

 

 マジェスティック級戦艦はイギリス海軍防衛条例の一環として1895〜1898年にかけて建造された歴史上最大数を誇る戦艦クラスである。当時は戦艦の黄金時代で同時に戦艦が大きく進化した時代でもあった。ド級戦艦の登場により旧式化したものの第一次世界大戦にも参戦した歴戦の艦である。

 

戦艦 マジェスティック級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 14560トン
 最大排水量 -トン
 全長 128.3m
 全幅 22.9m
 吃水 8.2m
 機関出力 1万2000馬力
 最大速力 17ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 672名
 武装 35口径30.5cm砲連装2基
    40口径15.2cm砲単装12基
    7.6cm砲単装16基
    4cm砲単装12基
    4.5cm水上発射管1基
    同水中発射管4門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 10.2cm
    主砲 25.4cm
 同型艦 9隻

 

特徴

 マジェスティック級戦艦は、世界初の近代戦艦、ロイヤルサブリン級をさらに改良、強化された艦である。主砲はロイヤルサブリン級の34.3cm砲に対して30.5cm砲と口径は小さくなったが砲身長がロイヤルサブリン級の30口径に対して35口径と延長、さらに黒色火薬から無煙火薬を使用することにより貫通力が増大した。さらに砲門数も10門から12門にアップされている。動力も水圧式動力装置を使用、天蓋もある完全密閉式砲塔を採用しているためロイヤルサブリン級に比して防御力も高い。

 装甲はロイヤルサブリン級のニッケル鋼に対してより能力の高いハーヴェイ鋼を使用したことから装甲厚はロイヤルサブリン級の半分でありながらより高い防弾性能を持っている。推進機関はレシプロ機関ではあるが、石炭重油混合燃焼方式で速力、航続力共にロイヤルサブリン級よりも向上している。本艦は同型艦が9隻建造されており、これは戦艦の同型艦建造数としては最多である。

 

同型艦

マジェスティック(1894年2月起工、1895年12月竣工)
マグニフィセント(1893年12月起工、1895年12月竣工)
プリンス・ジョージ(1894年9月起工、1896年11月竣工)
ヴィクトリアス(1894年5月起工、1896年11月竣工)
ジュピター(1894年4月起工、1897年5月竣工)
マース(1894年6月起工、1897年6月竣工)
シーザー(1895年3月起工、1898年1月竣工)
ハンニバル(1894年5月起工、1898年4月竣工)
イラストリアス(1895年3月起工、1898年4月竣工)

 

戦艦マジェスティック級の活躍

 

02_戦艦シーザー
(画像はwikipediaより転載)

 

 マジェスティック級は1番艦マジェスティックが1895年暮れに竣工したのを皮切りに1898年までに9隻が竣工する。竣工後はイギリス海軍の主力として海峡艦隊、地中海艦隊、さらには中国基地でも活躍した。1906年にはドレットノート級戦艦の登場によりそれ以前に建造された戦艦は一気に陳腐化するが、その後もイギリス海軍に在籍し続ける。

 1912年には同型艦の多くは予備役に編入されるが、1914年に第一次世界大戦にイギリスが参戦すると現役に復帰した。1番艦マジェスティックはドイツ海軍のUボートの雷撃により撃沈されたが、他の同型艦は1915年以降、主力艦の位置から外れたものの補助艦艇として活躍し続けた。

 しかし1918年にジュピター、1919年4月にはイラストリアスが除籍される。シーザーも1920年まで現役でいたが、同年に除籍、解体処分された。その他の同型艦も1921年までに全てが除籍、解体処分された。

 

まとめ

 

 マジェスティック級戦艦は前級のロイヤルサブリン級戦艦を改良、主砲塔を密閉式、さらには無煙火薬の使用など革新的な改良がされた戦艦であったが、この時代の他の戦艦と同様にドレットノート級戦艦の登場により歴史から姿を消すこととなった。しかしマジェスティック級戦艦は日本の敷島型戦艦にも大きな影響を与えた記念碑的な艦である。

 

関連リンク

前級ロイヤルサブリン級戦艦

 

次級カノーパス級戦艦

 

次級敷島級戦艦

 

 

 

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01_レナウン級二等戦艦
(画像はwikipediaより転載)

 

 一等戦艦の開発が遅れたため急遽建造された艦であったが、ハーヴェイ鋼の使用や後に一般的となる副砲の装甲内設置等斬新な設計がされた艦であった。最高速度も公試では18.75ノットという驚異的な速度を記録した高性能戦艦である。

 

戦艦 レナウン級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12350トン
 最大排水量 -トン
 全長 124.4m
 全幅 22m
 吃水 8.2m
 機関出力 1万2000馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 6400海里/10ノット
 乗員 674名
 武装 40口径25.4cm砲連装2基
    40口径15.2cm砲単装12基
    口径5.7cm砲単装16基
    口径4cm砲単装12基
    4.5cm水上発射管1基
    同水中発射管4門
 装甲 舷側 20.3cm
    甲板 7.6cm
    主砲 15.2cm
 同型艦 1隻

 

特徴

 30.5cm砲搭載戦艦の開発が遅れていたため急遽センチュリオン級の改良型として建造されたのが本級である。イギリス海軍の二等戦艦とは排水量12000トン以下、主砲が25.4cm砲程度のもので前級のセンチュリオン級と本級が該当する。

 本級もセンチュリオン級と同様に25.4cm砲を搭載しているが、センチュリオン級の砲身が30口径だったのに対して本級は40口径と延長されている。さらに初の試みとして副砲を全て装甲内に設置していたことで、その副砲を当時としては強力なハーヴェイ鋼の装甲で護っていた。

 本級に搭載されたエンジンは予想を超える高性能を発揮し、公試での最高速度は18.75ノットに達した。建造は1隻のみであったが、数々の新機軸が盛り込まれた艦で即席で作られた二等戦艦というような艦ではない。前述のように二等戦艦は前級のセンチュリオン級と本級で最後となった。

 

同型艦

1番艦レナウン

 

建造

 レナウンは1893年2月に起工、1897年1月に就役した。

 

戦艦レナウン級の活躍

 

1番艦レナウン

02_レナウン級二等戦艦
(画像はwikipediaより転載)

 

 レナウンは1897年に就役すると北米、西インド諸島方面の艦隊旗艦として活躍しました。1899年5月に改修を受けた後、地中海艦隊に移動、1900年2月には再び簡単な改修を行っている。度々イギリス王室の御召艦として活躍した。1906年5月に予備役に編入された。

 予備役編入後も御召艦として活躍したが、1913年退役、1914年スクラップとして売却された。

 

まとめ

 

 戦艦レナウンは二等戦艦というマイナーな艦種ではあったが、高速、高性能であったため、イギリス海軍の著名な提督であるフィッシャー提督には気に入られていたという。この高性能二等戦艦レナウンの名は後に巡洋戦艦として受け継がれる。

 

 

 

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01_BB-1戦艦インディアナ
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦インディアナ級はアメリカ海軍初の近代戦艦であった。性能に特に斬新な点はないものの同時代の戦艦並みの能力を有し、米西戦争で有名な閉塞作戦やシベリア出兵等にも参加した。本級の内1隻は日本において解体処分されている。

 

戦艦 インディアナ級 〜概要〜

 

 

性能

 通常排水量 10288トン
 最大排水量 -トン
 全長 107m
 全幅 21.1m
 吃水 7.3m
 機関出力 9000馬力
 最大速力 15ノット
 航続距離 5640海里/10ノット
 乗員 473名
 武装 35口径33cm砲連装2基
    35口径20.3cm砲連装4基
    40口径15.2cm砲単装4基
    5.7cm砲単装20基
    45cm水上発射管6基
 装甲 舷側 45.7cm
    甲板 7.6cm
    主砲 43.2cm
 同型艦 3隻

 

特徴

 アメリカ海軍初の近代戦艦であるインディアナ級は、乾舷(甲板と水面の距離)が低く、耐波性に難があり、外洋での運用は出来なかったため、3番艦オレゴンが太平洋を渡りフィリピン、中国近海まで進出した以外は、主に沿岸防備用に運用された。しかし装甲は45.7cm、火力も33cm連装砲とイギリス戦艦ロイヤルサブリン級とほぼ同等の能力を有した。同型艦は3隻建造されている。

 

同型艦

1番艦インディアナ
2番艦マサチューセッツ
3番艦オレゴン

 

建造

 1番艦インディアナは1891年5月に起工、2番艦マサチューセッツは1891年6月、3番艦オレゴンは1891年11月に起工されている。1番艦インディアナは1895年11月に就役、2番艦マサチューセッツは1896年6月、3番艦オレゴンは1896年7月に就役した。

 

戦艦 インディアナ級の活躍

 

1番艦インディアナ

02_BB-1戦艦インディアナ
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦インディアナは1898年、米西戦争が始まると北大西洋艦隊の一員として参加、姉妹艦、オレゴンと共にキューバ作戦に参加した。戦後は練習艦として運用されるが1903年に退役する。1906年には再び練習艦として運用、1914年に再び退役する。1917年に三度就役するが、1919年に標的艦として海没した。

 

2番艦マサチューセッツ

03_BB-2戦艦マサチューセッツ
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦マサチューセッツは、1896年に就役、米西戦争に参加した後は北大西洋艦隊所属艦として活躍、その後練習艦となった。1914年5月退役したが、1917年6月に再び練習艦として就役、1919年3月除籍、標的艦として使用された後に水没。スクラップとして売却しようとしたが買い手が付かず1956年、フロリダ州の資産となった。

 

3番艦オレゴン

04_BB-3戦艦オレゴン
(画像はwikipediaより転載)

 

 3番艦オレゴンは、1898年に米西戦争に参加した。その後は太平洋方面で警備艦として活動した後、フィリピンに派遣され、さらには義和団の乱においては中国のウソンに展開した。1901年5月オーバーホールのため米本土に帰還する。1903年3月、再び極東に派遣されたが、1906年に退役する。1911年に再就役したが目立った活躍は無く1914年に予備役編入。1917年、現役に復帰し、シベリア出兵に参加した後、1919年10月退役した。退役後は博物館艦となるが、1941年スクラップとして売却、船体はのちに海軍に返還され、1944年のグアム戦では艀(はしけ)として利用された。1956年3月売却され日本において廃棄される。

 

まとめ

 

 戦艦インディアナは主に米西戦争で活躍した戦艦だった。乾舷が低く大洋での航海には不向きであったがフィリピンや中国にも派遣されている。特に3番艦は極東方面にしばしば派遣され、戦後に日本において解体されている。何かと日本と関係の深い艦であった。

 

01_戦艦安芸
(画像はwikipediaより転載)

 

 薩摩級戦艦は日本初の国産戦艦である。初の戦艦でありながら世界最大の戦艦であり、最新のタービン機関を搭載した画期的な戦艦であった。第一次世界大戦に参加した他は目立った活躍はしていないが、日本戦艦史に残る名艦であるといえる。

 

戦艦 薩摩級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 19372トン(安芸は19800トン)
 最大排水量 -トン
 全長 137.2m(安芸は140.2m)
 全幅 25.5m
 吃水 8.4m
 機関出力 1万7300馬力(安芸は2万5000馬力)
 最大速力 18.3ノット(安芸は20ノット)
 航続距離 -
 乗員 887名(安芸は931名)
 武装 45口径30.5cm砲連装2基
    45口径25.4cm砲連装6基
    40口径12cm砲単装12基
    45口径15.2cm砲単装8基(安芸のみ)
    40口径7.6cm砲単装8基(安芸は16基)
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 50.8cm
    主砲 233.7cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 本級は日本初の国産戦艦である。それまで装甲巡洋艦建造の経験はあったものの戦艦の建造経験はなかったが、香取級よりも高性能な戦艦を目指して日本独自の設計で建造された。旧来の戦艦を増産するのではなく独自設計でより高性能を目指した意欲作であった。

 当初の計画では艦の中心線上に主砲連装4基を搭載するという弩級戦艦を先取りする案もあったが、最初の国産戦艦ということもあり従来通りの前後に2基という設計で落ち着いた。主砲の数こそは従来通りであったが、中間砲は45口径25.4cm連装砲を6基とかなり強力な配置となっている。中間砲は威力こそ主砲に劣るものの発射速度では主砲を上回り、状況によっては弩級戦艦をも凌駕する能力を持ったものであった。

 このため排水量は2万トン近くなり、建造時点では世界最大の戦艦となった。さらに2番艦安芸では最新のタービン機関を搭載するという初の国産戦艦としてはかなり挑戦的な艦であった。同型艦で速力が異なるという点を承知の上で新技術に挑む意欲と同時に当時の日本の焦りが感じられなくもない。

 

 

同型艦

 1番艦薩摩
 2番艦安芸

 

建造

 1番艦薩摩は1905年5月に起工、2番艦安芸は1906年3月に起工した。1番艦薩摩は1910年3月、2番艦安芸は1年後の1911年3月に竣工した。

 

戦艦薩摩級の活躍

 

1番艦薩摩

02_戦艦薩摩
(画像はwikipediaより転載)

 

 主砲の増設を諦める代わりに中間砲を増設した本級だが、当初は発射速度に難があった。改良を繰り返され、後には発射速度も速くなり弩級戦艦に匹敵する砲戦能力になったと言われている。1910年竣工と同時に第一艦隊に就役、第一次世界大戦では第二南遣支隊に編入され、太平洋のドイツ領攻略作戦に活躍した。1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦、除籍となる。1924年9月には標的艦として沈没した。

 

2番艦安芸

03_戦艦安芸
(画像はwikipediaより転載)

 

 安芸は1番艦薩摩の同型艦とされているが、実際には様々な違いがある。副砲の口径が延長されていること等もあるが、最大の違いは薩摩がレシプロ機関であるのに対して、安芸がタービン機関であることであろう。これにより最大出力が薩摩1万7300馬力に対して安芸2万5000馬力と大幅に増加している。最大速度も薩摩18.5ノットに対して安芸が20ノットと大きな違いが出ている。外観上の違いは煙突の数で薩摩が2本に対して安芸は3本である。

 1911年3月に竣工した安芸は、第一次世界大戦に参加したのち、1919年には大改装を受け、数度御召艦として活躍したが、1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦となった。1924年9月標的艦として戦艦長門、陸奥の砲撃により沈没。艦はこれにより沈没したが、安芸の砲身のみは兵庫県西宮市の鳴尾八幡神社で戦没者を祀る慰霊塔として現存している。

 

04_戦艦安芸砲身
(画像は鳴尾八幡神社に現存する戦艦安芸の砲身 wikipediaより転載)

 

まとめ

 

 薩摩型戦艦は日本海海戦の前々日に起工、日露戦後に就役しワシントン軍縮条約により廃艦となった目立たない戦艦であった。しかし日本初の国産戦艦であった。本級には初の国産戦艦でありながら世界最大の戦艦であったことを始め、最新のタービン機関を採用する等、当時の技術者の数々の意欲的な挑戦がみられる日本戦艦の記念碑的な艦であった。

 

 

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01_BB-61戦艦アイオワ
(画像はwikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦のアメリカ参戦は真珠湾攻撃によって始まった。これによって米戦艦部隊は壊滅的打撃を受け、以後、空母中心の戦術に変更せざる得なくなったと言われているが実際には米国は戦中も戦艦の建造を続けて10隻もの新鋭戦艦を戦場に送り込んでいる。今回はこの10隻の戦艦についてみてみたい。

 

太平洋戦争での戦艦の活躍

 

 アメリカの第二次世界大戦は真珠湾攻撃によって始まった。この空母機動部隊が海の王者戦艦を壊滅状態にしたという空前の事件により、米国は航空機の威力を知り戦艦中心から空母中心に代えていったと言われる。この分析は正しいとはいえない。何故ならばアメリカは開戦後も戦艦の建造を続け、新鋭戦艦を10隻も戦場に送り込んでいるからだ。

 さらには真珠湾攻撃で大破着底した旧式戦艦すらも改装を行現役に復帰させている。確かに海戦の主役は航空機と空母に移り始めてはいたが、太平洋戦争初期から中期までは戦艦同士の砲撃戦も行われる等、依然として戦艦の存在は重視されていた。特に戦艦ノースカロライナ級や戦艦サウスダコタ級は戦争中期に南太平洋戦域に派遣され海戦によりかなりの戦果を挙げている。

 

ノースカロライナ級戦艦

03_BB-56戦艦ワシントン
(画像はwikipediaより転載)

 

性能

 通常排水量 35000トン
 最大排水量 44638トン
 全長 222.3m
 全幅 33m
 吃水 10m
 機関出力 12万1000馬力
 最大速力 28ノット
 航続距離 15000海里/15ノット
 乗員 1880名
 武装 45口径40.6cm砲3連装3基
    12.7cm両用砲2連装10基
    28mm機関砲4連装4基
 装甲 舷側30.5cm
    甲板14cm
    主砲30.5cm
 同型艦 2隻

 

 ロンドン海軍軍縮条約では戦艦の主砲は35.6cm以内と決められていたが、1937年にこの条約が失効したことにより各国は制限のない状態での新型戦艦の開発が可能となった。但し、本級が計画された段階ではロンドン海軍軍縮条約が延長されるかどうかは不明であり、35.6cm砲搭載艦として計画されたものを条約の失効により40.6cm砲搭載艦として設計し直したという経緯がある。

 主砲こそは40.6cm砲を搭載したものの、装甲が35.6cm砲用のものであり、40.6cm砲に対しては防御力が不足することが本級の弱点であった。さらにスクリューが動くと艦に大きな振動が起こるという問題点があった。この問題は結局は解決するも、解決するまでに数年を要した。

 本級は就役後、欧州戦域に派遣されたりしたが、海戦で敵戦闘艦と戦火を交えることはなかったが、太平洋戦域に派遣されると第二次ソロモン海戦を手始めに多くの海戦に参加することとなる。特に2番艦ワシントンは第三次ソロモン海戦で日本海軍の戦艦霧島に主砲9発を命中させ撃沈するという戦果を挙げた。

 

 

 

サウスダコタ級戦艦

02_BB-60アラバマ
(画像はwikipediaより転載)

 

性能

 基準排水量 35000トン
全長 207.4m
全幅 33m
吃水 10.3m
機関出力 13000hp
最大速度 27ノット
航続距離 15000海里/15ノット
乗員 1793名
武装 45口径40.6cm砲 3連装3基
   12.7cm両用砲 2連装10基
   28mm機関砲4連装7基
   20mm機関砲 35基
装甲 舷側31cm 甲板14.6cm 主砲45.7cm 
同型艦 4隻

 

 ノースカロライナ級戦艦が計画変更によって40.6cm砲を搭載したのと異なり、サウスダコタ級戦艦は当初から40.6cm砲搭載が予定されていた。このため装甲も前級に比べて厚く、よりバランスのとれたものとなった。全長は前級に比べて15mも短くなった代わりに軽量化された分は装甲の強化に充てられた。外観上は全長が短くなった分、「ずんぐり」した形状になっていることと前級では煙突が2本であったものが1本になっているのが特徴である。

 本級もノースカロライナ級戦艦と同様、戦艦同士の砲撃戦を経験している。1番艦サウスダコタ、2番艦インディアナ級は太平洋戦域に派遣され日本海軍と激戦を展開、3番艦マサチューセッツは大西洋戦域に派遣され、フランス海軍戦艦ジャン・バールと戦火を交えている。この際、マサチューセッツはフランス駆逐艦2隻を撃沈するという戦果を挙げている。

 

 

アイオワ級戦艦

04_BB-62戦艦ニュージャージー
(画像はwikipediaより転載)

 

性能

基準排水量 45000トン
最大排水量 59000トン
全長 270.6m
全幅 33m
機関出力 21万2000馬力
最大速度 33ノット
乗員 1921名
武装 50口径40.6cm3連装3基
   12.7cm連装砲10基
   40mm機関砲4連装15基
   20mm機関砲単装20基
装甲 舷側30.7cm
   甲板15.2cm
   主砲43.1cm

同型艦 4隻

 

 ノースカロライナ級戦艦、サウスダコタ級戦艦とは全く別次元の戦艦がこのアイオワ級である。前級の排水量が3万5000トンであったのに対してアイオワ級は4万5000豚、最大排水量では5万9000トン、全長もサウスダコタ級戦艦に対して60m以上も長いアメリカ海軍史上最強の戦艦であった。大型化はしたものの最大速度は新戦艦中最速の33ノット、主砲はサウスダコタ級戦艦と同じ40.6cm砲であったが、口径が50口径となりさらに強力になった。つまりは全てにおいて別次元の戦艦であったのだ。

 アイオワ級は1943年に就役すると当時最強であったドイツ戦艦テルピッツに唯一対抗できる戦艦として大西洋に派遣されるが、しばらくして太平洋戦域に移動することになる。以降、同級は戦艦同士の海戦はなかったものの、艦砲射撃に威力を発揮した。

 戦後も予備役と現役復帰を繰り返し、朝鮮戦争、ベトナム戦争に活躍する。1980年代に600隻艦隊構想により現役復帰した際には近代化改装を行い、最新の電子機器を装備した上に巡航ミサイルトマホーク、対艦ミサイルハープーン、CIWSなどが装備された世界で唯一の「ハイテク戦艦」であった。改装後はレバノン紛争、湾岸戦争に活躍した世界最後の戦艦である。

 

 

まとめ

 

 太平洋戦争は一般に航空機と空母の戦争であったと言われる。しかし実際にはまだまだ戦艦の能力に頼っていた部分は多く、特に前半から中盤に至るまでは戦艦がその主砲の威力を発揮する場は多くあった。後半になるとその機会はほぼ無くなったが、それでもレイテ沖海戦では戦艦同士の砲撃戦が行われている。

 

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01_戦艦香取
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦香取級は敷島級の後継にあたる戦艦であるが、就役が日露戦後であったためあまり知られていない戦艦であるが、完成当初は世界最強、最新鋭の戦艦であった。海戦を一度も行うことなくワシントン軍縮条約により廃艦となった。

 

戦艦香取級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 15950トン(鹿島16400トン)
 最大排水量 -トン
 全長 139m(鹿島143.3m)
 全幅 23.8m(鹿島)
 吃水 8.2m(鹿島8.1m)
 機関出力 1万6000馬力(鹿島1万5600馬力)
 最大速力 18.5ノット
 航続距離 10000海里/10ノット
 乗員 864名
 武装 45口径30.5cm砲連装2基
    45口径25.4cm単装砲4基
    15.2cm単装砲12基
    7.6cm単装砲16基
    45cm水中発射管5門
 装甲 舷側 22.9cm
    甲板 7.6cm
    主砲 -cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 日露戦争開戦前の1904年に起工された艦で風雲急を告げる日露関係に備える目的で発注された戦艦であったが、日露戦争には間に合わず戦後に竣工した。要目は当時イギリスが建造中のキング・エドワード7世級に準じているが、砲数では香取級の方が若干上回っている。

主砲は敷島級と同じ30.5cm砲であったが、敷島級の40口径に対して45口径となり、副砲も長砲身化されたので遥かに強力になっている。因みに「口径」とは砲身長を表す用語で、45口径とは砲身の長さが砲内の直径×45の長さであることを意味する。

 2隻揃うまでの期間を短縮するために1番艦香取はヴィッカーズ社、2番艦鹿島はアームストロング社と別々の会社に発注されたため、砲口径等の主要部分以外の仕様はかなり異なっている。1906年8月に日本に引き渡された際は世界最強の戦艦であったが、わずか4ヶ月後に戦艦の革命とも言えるドレットノート級が完成してしまったため一気に旧式戦艦となってしまった。

 

建造

 1番艦香取は1904年4月にヴィッカーズ社で起工、2番艦鹿島は1904年2月にアームストロング社で起工された。竣工は1番艦が1906年5月20日、2番艦鹿島が1906年5月23日である。一応、同型艦ということになっているが全長等仕様が大きく異なるので別の級と考えた方が良いかもしれない。

 

 

戦艦香取級の活躍

 

1番艦香取

02_戦艦香取
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦香取は、1906年5月に竣工、8月に日本に到着する。日露戦争により2隻の主力艦を失った日本海軍にとっては待望の新戦艦であった。竣工した時点で日露戦争は終結していたため戦闘参加はないが、艦隊旗艦を務め、度々御召艦として大正天皇や後の昭和天皇の行啓に活躍した。

 1914年、第一次世界大戦が始まると中部太平洋に進出、ドイツ領であったサイパン島を占領した。1916年には大改修が行われ、1921年には後の昭和天皇の渡欧に際し、御召艦として再びイギリスに戻った。1923年9月ワシントン軍縮条約により廃艦。

 

2番艦鹿島

03_戦艦鹿島
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦鹿島は1906年5月竣工、香取と同様、戦闘での活躍はなく、しばしば御召艦として活躍する。1915年に大改修が行われ、1918年にはシベリア出兵に参加、上陸支援に従事した。1921年には1番艦香取と共に遣欧艦隊を編成、イギリスに戻る。1923年9月ワシントン軍縮条約により廃艦。主砲は陸上砲台へと転用された。

 

まとめ

 

 香取級は日露戦争後に竣工したため目立った戦歴はない。完成後わずか4ヶ月にして革命的戦艦ドレットノート級が完成してしまったため一気に陳腐化してしまった。しかし、日露戦争で主力艦を失った日本海軍にとっては待望の戦艦であり、廃艦までの約20年間日本の海の護りとして活躍した。

 

関連リンク

前級敷島級戦艦

 

 

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ポケット戦艦ドイッチュラント01
(画像はwikipediaより転載)

 

 このドイッチェラント級は通称「ポケット戦艦」と呼ばれているが正式には装甲艦、その後は重巡洋艦と類別されているので戦艦ではない。しかし戦艦並みの28cm砲と巡洋艦並みの速力を持った本級は連合国側から恐れられた。

 

ポケット戦艦 ドイッチュラント級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量11700トン
 最大排水量 -トン
 全長 186m
 全幅 20.7m
 吃水 7.25m
 機関出力 5万5400馬力
 最大速力 26ノット
 航続距離 10000海里/20ノット
 乗員 619名
 武装 52口径28cm砲3連装2基
    15cm砲2連装8基
    8.8cm高角砲単装3基
    50cm4連装水上発射管2基
 装甲 舷側6cm
    甲板4cm
    主砲14cm
 同型艦 3隻

 

特徴

 巡洋艦より火力で優り、戦艦には速力で優っていた本級は誕生と同時に「ポケット戦艦」と呼ばれ注目を集めた。無論、「ポケット戦艦」というのは正式名称ではなく、正式名称は装甲艦、重巡洋艦である。本級はベルサイユ条約によって課せられた排水量10000トン以下、主砲28cm以下という制限枠内に収まるように開発された。主任務を通商破壊とし、最良の設計を行ったことが本級が傑作となった要因である。

 本級は長大な航続距離を出すために燃料消費の少ないディーゼル機関とし、最新型の28cm3連装砲を2基搭載した。さらに3番艦アドミラル・グラーフ・シュペー号には世界初の艦上レーダーが搭載された。船体は重量軽減のため90%を電気溶接で行ったのも本級の特徴である。

 

建造

 1番艦ドイッチェラントは1929年2月、2番艦アドミラル・シェーアは1931年6月、3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーは1932年10月に起工された。就役は1番艦が1933年4月、2番艦が1934年11月、3番艦が1936年1月に就役している。

 

 

ポケット戦艦 ドイッチュラント級の活躍

 

1番艦ドイッチュラント(のちリュッツォウ)

ポケット戦艦ドイッチュラント
(画像はwikipediaより転載)

 

 1933年4月に就役した1番艦ドイッチェラントは、スペイン内戦時にスペイン沖に1936年から1939年の間7回にわたって派遣された。1937年5月、共和国政府軍の爆撃機の攻撃により31名が死亡する。第二次世界大戦開戦前の1939年8月、ドイッチェラントはドイツから出航、通商破壊実施のため大西洋に進出し、開戦後は通称破壊作戦に従事した。開戦後、ドイッチェラント(ドイツ語で「ドイツ」の意)は、失われた場合のマイナス要因を考慮し、ヒトラーの命により、名称を「リュッツォウ」に変更された。

 1940年4月にはヴェーザー演習作戦(ノルウェー侵攻作戦)に参加、ノルウェー軍の要塞からの砲撃により15cm砲弾3発を被弾した。ドイツ本土への帰還途中、イギリス潜水艦スピアフィッシュの雷撃により艦尾部を破損、その修理は1941年春までかかった。1941年6月、リュッツォウは再び雷撃を受け、キール軍港へ帰還した。その後も様々な作戦に参加したが、1945年4月にはイギリス軍の大型爆弾トールボーイの至近弾を受け港で着底、5月に放棄された。

 1946年には浮揚されソビエト海軍に編入されたのち、1947年7月標的艦として沈没した。

 

2番艦アドミラル・シェーア

ポケット戦艦アドミラル・シェーア
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦アドミラル・シェーアは、1934年に就役、最初の任務はスペイン内戦への派遣であり、1936年から1938年6月末まで8回スペインに派遣されている。第二次世界大戦開戦後の1939年9月出撃前に爆撃を受けるが爆弾は不発であった。1940年の初頭にはオーバーホールと共に司令塔の改装を行った。この時に艦種を装甲艦から重巡洋艦に変更されている。

 アドミラル・シェーアは訓練の後、1940年10月以降、通商破壊戦に活躍する。1941年2月からはインド洋に進出通商破壊戦を行った。4月ドイツ本土へ帰還、整備の後、1941年9月にはバルト海に進出して各種作戦に従事、1942年8月には本土へ帰還、12月にはオーバーホールを受けた。その後は出撃する機会はほとんどなく訓練を続けた。

 1944年になると退却中のドイツ軍の支援等に従事、1945年4月にキールの造船所内でイギリス軍の空襲により撃沈された。

 

3番艦アドミラル・グラーフ・シュペー

ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー
(画像はwikipediaより転載)

 

 1936年1月6日に就役し、数ヶ月に及ぶ完熟訓練を大西洋で行った後、1937年5月20日にジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した。第二次世界大戦開戦に先立って、シュペーは大西洋に進出、開戦以後は通商破壊作戦に従事した。

 1939年12月重巡洋艦エクゼター、軽巡洋艦エイジャックス、軽巡洋艦アキリーズに捕捉され、ラプラタ沖海戦が勃発、大損害を受けたため中立国であるウルグアイのモンテビデオ港に艦を退避、のちに港外で自沈した。

 

ポケット戦艦 ドイッチュラント級(模型)

 

1/700 ドイツ海軍 ポケット戦艦 アドミラル グラーフ シュペー 1937年

 映画化もされたアドミラル・グラーフ・シュペー号の模型。シュペー号は1936年1月に就役、第二次世界大戦開戦後、イギリス艦隊に包囲され、乗組員を助けるために自沈してしまう。わずか3ヶ月の活躍であったが印象は強い。

 

まとめ

 

 ポケット戦艦という特殊な名称を与えられたドイッチェラント級は、第二次世界大戦前半には通商破壊戦に活躍するものの中盤以降は多くの地域でドイツが制空権を失ってしまったため目立った活動をすることが出来なかったが、明確な目的の下に無駄なく建造された傑作艦であった。

 

関連リンク

次級シャルンホルスト級戦艦

 

 

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戦艦初瀬01
(画像はwikipediaより転載)

 

 敷島級戦艦はイギリスアームストロング社等で建造された当時としては最新鋭、世界最強の戦艦であった。この戦艦4隻を中心に日本海軍は日露戦争を戦い抜き、日本海海戦で大勝利を挙げることとなる。殊勲のクラスである。

 

戦艦敷島級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 14850トン
 最大排水量 -トン
 全長 133.5m
 全幅 23m
 吃水 8.3m
 機関出力 1万4500馬力
 最大速力 18ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 836名
 武装 30.5cm2連装2基
    15.2cm単装砲14基
    7.6cm単装砲20基
    4.7cm単装砲12基
    45cm水上魚雷発射管1基
    水上発射管4基
 装甲 舷側22.9cm
    甲板10.2cm
    主砲25.4cm
 同型艦 4隻

 

特徴

 敷島型は日清戦争直後の1896年、1897年の日本海軍の予算により計画された戦艦である。イギリスのアームストロング社により建造された本級はマジェスティック級戦艦の改良型として設計され、1897年より起工、1900年より順次竣工し日本海軍の戦力を一挙に強化した。

 主砲と副砲は前級の富士級と同じだが主砲の装填機構は改良され、主砲塔がどの方向を向いていても砲弾の装填が可能となったため、主砲の発射速度が大幅に向上した。副砲は左右側面に7基ずつ、合計14基が設置され強力な火力を誇った。

 装甲はマジェスティック級戦艦と同じくハーヴェイ鋼を使用、さらに4番艦三笠にはより強力なクルップ鋼を使用している。このように同クラスの戦艦といっても本級4隻はそれぞれ仕様が若干異なっており、全長、排水量ともに4隻ともまちまちである。推進機関は直立3連成式レシプロ蒸気機関を2基搭載、2軸推進である。主缶は最新式のベルヴィール缶を採用25基装備していた。このため機関出力は前級よりもアップし、前級が14000馬力であったが、敷島、初瀬は1万4500馬力、朝日、三笠は1万5000馬力となった。

 

建造

 同型艦は4隻建造され、1番艦敷島は1897年3月、2番艦朝日は1897年8月、3番艦初瀬は1898年1月、4番艦三笠は1899年1月に起工している。1900年1月に1番艦敷島が竣工、7月には2番艦朝日が竣工している。1901年に入って3番艦初瀬が1月に竣工、4番艦三笠が最も遅く1902年3月に竣工した。

 

 

戦艦敷島級の活躍

 

1番艦敷島

戦艦敷島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1900年1月に竣工した1番艦は敷島と命名され、4月には日本に到着した。1904年からは連合艦隊として日露戦争に参戦、旅順口攻撃から旅順港閉塞作戦に参加、1905年5月には日本海海戦に参加している。1920年の尼港事件では、沿海州沿岸警備に従事した。

 1921年一等海防艦に類別変更、1923年軍艦籍を除籍され武装を撤去、練習特務艦となる。1925年からは佐世保に定繋、1945年11月除籍、1947年解体された。1911年には大佐時代の鈴木貫太郎が艦長を務めた。

 

2番艦朝日

戦艦朝日
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦朝日は1900年7月に竣工した。1番艦が1月に竣工したのに対して2番艦が7月と遅いのは公試の帰りに座礁する事故があったためである。このため本来は4月頃に竣工する予定であったのが7月になった。竣工当日に出航、10月に日本に到着した。1904年に日露戦争が始まると朝日も参戦、旅順口攻撃から日本海海戦まで主要な海戦に参加した。黄海海戦では爆発事故が起こり主砲の一部が使用不能になった。

 1905年12月一等戦艦から戦艦に類別変更された。第一次世界大戦では第三艦隊第五戦隊旗艦としてウラジオストク警備に従事した。1921年9月一等海防艦に類別変更される。1923年には兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。同年4月軍艦籍より除籍された。

 1925年には潜水艦救難設備が設置されたため、機関部に改装を行い以降一本煙突となり、呉に常駐し潜水艦事故に備えた。1937年5月、救難設備を撤去し工作艦へと改装され8月には類別を工作艦に変更された。朝日は工作艦に変更された後、日中戦争中の中国へ進出修理作業に従事した。1939年11月上海方面根拠地隊旗艦となる。1940年11月日本本土へ帰還。連合艦隊所属となる。

 太平洋戦争開戦後は南方作戦に従事。1942年3月、新鋭工作艦明石と共にシンガポール進出、損傷艦の修理に活躍する。5月駆潜艇1隻を伴って日本本土に帰還途中、米潜水艦サーモンにより撃沈された。1942年6月除籍。

 

3番艦初瀬

戦艦初瀬
(画像はwikipediaより転載)

 

 3番艦初瀬は1901年1月に竣工、4月に日本に到着した。1904年に日露戦争が始まると主力艦として参戦。旅順口攻撃に参加する。旅順港閉塞作戦中の5月に機雷に触雷沈没する。初瀬沈没は、国民の動揺を防ぐために1年以上秘匿され、日本海海戦勝利後の1905年6月に公表された。1905年6月除籍。

 

4番艦三笠

戦艦三笠01
(画像はwikipediaより転載)

 

 4番艦三笠は1902年3月竣工、5月に日本に到着した。1903年、連合艦隊が編成されると旗艦となった。1904年より日露戦争に参戦。主要な海戦に参加する。8月の黄海海戦では砲身内で砲弾が爆発事故を起こし、12月に日本本土に帰還修理を行った。1905年5月には日本海海戦に旗艦として参加、集中砲火を浴び死傷者113名を出す。

 1905年9月佐世保港内で後部弾薬庫爆発事故のため沈没、339名の死者を出す。1906年8月浮揚され1908年4月工事完了、第一艦隊旗艦となる。1912年10月前部火薬庫で火災が発生している。1914年8月第一次世界大戦勃発により日本海での警備行動を行う。1918年から1921年までシベリア出兵支援を行う。1921年9月一等海防艦に類別変更される。9月ウラジオストク港外で座礁、ウラジオストクで修理を行い帰投した。

 1923年関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであったウラジオストク沖での破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底した。9月除籍。解体される予定であったが記念艦として保存が決定、戦隊の外周部に大量の砂が投入されるとともに下甲板にコンクリートが注入される。

 記念艦となった三笠は太平洋戦争中の空襲の被害からは免れたものの、戦後大規模な盗難に遭い現在保存されている三笠のほとんどの部分は戦後に復元されたものである。現存する世界で唯一の前弩級戦艦である。

 

戦艦敷島級(模型)

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 敷島 レジン&メタルキット

 敷島級のネームシップ。日露戦争で活躍したのち太平洋戦争終結後解体されるまで海軍に在籍していた長命の艦。戦後は解体され新生日本への材料を供給した。

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 朝日 レジン&メタルキット

 太平洋戦争時に唯一実戦任務についていた敷島級の艦。連合艦隊の貴重な工作艦として太平洋戦争初戦期に活躍。1942年米潜水艦サーモンにより撃沈されてしまう。

 

フォーサイト シールズモデルズ 1/500 日本海軍 戦艦 初瀬 レジン&メタルキット

 新鋭戦艦として期待されながらも日露戦争初期に触雷して沈没した悲劇の艦。日本海海戦後に事実が公表されたアームストロング社製の新鋭戦艦。

 

ハセガワ 1/350 日本海軍 戦艦 三笠 日本海海戦 プラモデル

 唯一現存する敷島級戦艦。1902年の竣工から1923年まで現役を務める。様々な被弾、事故に遭い2度も沈没しながら現存している艦。

 

まとめ

 

 敷島級戦艦は全てイギリスで建造された当時の最新鋭戦艦であった。日露戦争、特に日本海海戦では主力艦としてロシア艦隊を迎撃、一方的な大戦果を挙げた。戦争直後にドレットノート級戦艦が就役、瞬く間に旧式戦艦となってしまった。

 

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前級富士級戦艦

 

 

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01_戦艦バーフラー
(画像はwikipediaより転載)

 

 本級は日本ではバーフラー級と呼称されるが、竣工はセンチュリオンの方が早いのでセンチュリオン級と呼ぶべきである。本級は前級ロイヤルサブリン級に対して二等戦艦と呼ぶべきものであるが、砲塔も密閉式を採用、機動力でもロイヤルサブリン級を凌いでいた。

 

戦艦 センチュリオン級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 10500トン
 最大排水量 -トン
 全長 109.5m
 全幅 21.3m
 吃水 7.8m
 機関出力 1万3000馬力
 最大速力 18.5ノット
 航続距離 5230海里/10ノット
 乗員 620名
 武装 30口径25.4cm砲連装2基
    12cm砲単装10基
    5.7cm砲単装8基
    4.7cm砲単装12基
    45cm水上発射管5基
    同水中発射管2門
 装甲 舷側 30.5cm
    甲板 6.4cm
    主砲 15.2cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1889年の海軍防衛条例によって建造された戦艦である。海軍防衛条例とはイギリスの海軍力増強政策で圧倒的優勢にあるイギリス海軍の優勢を維持し続けるために2位、3位の国の海軍力を合わせた以上の海軍力を維持するという強烈なものである。

 この条例により建造されたセンチュリオン級は2隻で主に中国の沿岸警備用として設計されたため小型であり、前級のロイヤルサブリン級の小型版といっていい。主砲は25.4cm連装砲2基とロイヤルサブリン級の34.3cm砲に比べれば小型ではあるが、ロイヤルサブリン級では装填時に砲身を艦の中心線に合わせる必要があったが本級ではどの方向に砲を向けていても装填が可能である。

 本級は砲塔もロイヤルサブリン級がオープントップ式であったのに対して密閉式であり、建造の目的が海外での運用を前提としていたため、航続距離も長く、推進機関も大型戦艦並みであったことから最高速力は18.5ノットとロイヤルサブリン級よりも2ノットも優っていた。

 

同型艦

1番艦センチュリオン
2番艦バーフラー

 

 

建造

 1番艦センチュリオン、2番艦バーフラーともに1892年8月に起工、1番艦センチュリオンは1894年2月、2番艦バーフラーは1894年6月に就役した。

 

戦艦センチュリオン級の活躍

 

1番艦センチュリオン

02_戦艦センチュリオン
(画像はwikipediaより転載)

 

 1894年に就役したセンチュリオンは中国基地に配備、義和団の乱の鎮圧支援等に活躍する。1901年に帰国、改装を受け副砲をより強力な15.2cm砲に換装された。改装後、再び中国に展開したが、1909年除籍、1910年にスクラップとして売却された。

 

2番艦バーフラー

03_戦艦バーフラー
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦バーフラーは就役後、地中海艦隊に配備され、その後中国で義和団の乱等の鎮圧支援に活躍するが、1904年には予備役編入、1909年除籍、1910年にスクラップとして売却された。

 

戦艦センチュリオン級(模型)

 

コンブリック 1/700 イギリス海軍 弩級戦艦 センチュリオン エッチングパーツ付き 1912年 レジンキット

 1番艦センチュリオンは中国義和団の乱鎮圧支援に活躍、前級ロイヤルサブリン級の7割程度の排水量であったが、ロイヤルサブリン級を凌ぐ高い機動力と航続距離により海外でより活躍した。

 

まとめ

 

 センチュリオン級は二等戦艦に分類される小型戦艦である。しかし一等戦艦を凌ぐ高速と長大な航続力により海外での作戦行動には有効な艦であった。当時は戦艦も技術革新の時代であり、高速、高性能な本級もわずか16年で廃艦となった。

 

関連リンク

前級ロイヤルサブリン級級戦艦

 

次級レナウン級戦艦

 

 

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01_戦艦ロイヤルサブリン
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦ロイヤルサブリン級は世界初の近代戦艦と言われている。砲塔こそオープントップ式で被弾には弱いものの20年以上に亘ってイギリスの本土、権益を守り続けた。本級の改良型が富士級として日本海軍に購入され、日本海海戦において活躍することとなる。

 

戦艦 ロイヤルサブリン級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 14150トン
 最大排水量 -トン
 全長 125m
 全幅 22.9m
 吃水 8.4m
 機関出力 1万1000馬力
 最大速力 16.5ノット
 航続距離 4720海里/10ノット
 乗員 712名
 武装 30口径34.3cm砲連装2基
    40口径15.2cm砲単装10基
    5.7cm砲単装16基
    4.7cm口径砲単装12基
    45cm水上発射管5基
    同水中発射管2門
 装甲 舷側 45.7cm
    甲板 10.2cm
    主砲 43.2cm
 同型艦 8隻

 

特徴

 1889年、イギリス海軍は海軍の大拡張計画を立案した。その計画の第1弾として建造されたのが本級である。レシプロ機関2基、2軸推進により最高速度16.5ノットという高速走行を可能とした。手法は32口径13.5インチ砲で最大射程は最大仰角13.5°で10,930m、910mの距離で71cmの鋼板を撃ち抜く威力があった。のちには新型の火薬により射程距離は11,540mにまで延長された。

 砲塔はオープントップ式(屋根がない)を採用していたが、仰角を大きくとる事ができ、発射ガスの除去にも有利であった反面、砲弾の装填時には砲塔を装填位置に戻す必要があることや、なにより防御力が貧弱なのが致命的な弱点であった。

 装甲はニッケル鋼であるが、舷側の装甲帯は船体全体の2/3にわたって施されていた。8隻が建造されたがフッドのみは密閉式砲塔を採用したため重量増加により乾舷が低くなってしまい近代以前の艦に分類されることがある。準同型艦といえる。

 

同型艦

1番艦ロイヤル・サブリン
2番艦エンプレスオブインディア
3番艦フッド
4番艦レパルス
5番艦ロイヤル・オーク
6番艦レゾリューション
7番艦ラミリーズ
8番艦リベンジ

 

建造

 1番艦であるロイヤルサブリンが1889年9月に起工したのを最初に全8隻が1889年9月から189年2月までに起工された。就役はロイヤルサブリンが一番早く1892年5月、以降、1894年6月までに全艦が就役した。

 

 

戦艦ロイヤルサブリン級の活躍

 

 就役後、本級はイギリス海峡防衛のため設置されていた海峡艦隊、本国艦隊、地中海艦隊に配属された。しかしドレットノート級の登場により一気に陳腐化、予備艦に格下げされた。そして、まず1911年7月にレパルスが解体され、1912年にはエンプレスオブインディアが標的艦として撃沈、1913年10月にロイヤルサブリンとラミリーズがスクラップとして解体、1914年1月にロイヤルオークも解体、同年4月レゾリューションがスクラップ用に売却、フッドも1914年には潜水艦侵入阻止のためポートランド湾に沈められた。

 一時期は記念艦として保管されていたリヴェンジも1919年11月に解体処分となった。本級は他国に多大な影響をもたらし戦艦建造の模範となった記念すべき艦であった。

 

まとめ

 

 本級は近代戦艦の第一号と言われている。装甲材こそは古いものの、重厚な装甲と16.5ノットの高速で20年以上活躍する。しかし1906年のドレットノート級戦艦の登場により旧式化していった。特にフッド以外、砲塔がオープントップ式であったため被弾に弱く寿命を早めた。しかし本級の改良型である富士級は日本海軍に購入され日露戦争で大活躍をすることとなる。

 

関連リンク

次級富士級戦艦

 

前級マジェスティック級戦艦

次級センチュリオン級戦艦

 

 

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戦艦富士01
(画像はwikipediaより転載)

 

 富士級戦艦はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で、日本初の近代戦艦であり、当時の新鋭戦艦であった。同型艦は2隻で日露戦争で活躍する。戦艦富士は日露戦後も運用され、推進器を撤去されながらも練習艦として太平洋戦争終戦まで使われ続けた。

 

戦艦富士級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12533トン
 最大排水量 -トン
 全長 114m
 全幅 22.3m
 吃水 8.1m
 機関出力 1万3500馬力
 最大速力 18.3ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 726名
 武装 30.5cm砲2連装2基
    15.2cm単装砲10基
    4.7cm単装砲24基
    45cm水上発射管1基
    45cm水中発射管4基
 装甲 舷側45,7cm
    甲板6.3cm
    主砲-cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1880年代に仮想敵国であった清国に対抗するために日本がイギリスに発注した戦艦である。1番艦富士はテームズ鉄工所、2番艦八島はアームストロング社のエルジック造船所で1894年に起工した。本級はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で排水量は若干少ないものの性能面では優れていた。

 ロイヤル・サブリン級の主砲が30口径34cm連装砲で天蓋の無いオープントップ式であったのに対して本級は新型のアームストロング式40口径30.5cm連装砲が装甲砲塔内に搭載されていた。砲塔の旋回、俯仰は水圧駆動、砲弾の昇降は電動駆動で行われた。発射速度は1発/1.5分であり、斉射後は砲塔を艦の中心線に合わせないと次弾を装填できないという弱点もあった。

 主缶は石炭専焼缶を10基搭載、2軸推進により18.3ノットの速力を出すことが出来た。富士と八島はほぼ同じ設計であったが船体サイズはわずかに富士の方が大きく艦尾舵の装着部の形状、機械室・缶室の通気筒の大きさなども異なっている。

 

建造

 1番艦富士は1894年8月にテームズ鉄工所で起工、1897年8月に竣工した。2番艦八島は1894年9月に起工、1897年9月に竣工した。1番艦富士は竣工に先立って領収、竣工後直ちに日本に回航され10月末に横須賀到着する。八島も9月にイギリスを出発、11月末に横須賀に到着した。

 

 

戦艦富士級の活躍

 

1番艦富士

戦艦富士
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年10月末に日本に到着した富士は11月に警備艦、12月に常備艦隊に編入される。1898年3月には一等戦艦に類別された。1903年、連合艦隊に配属される(当時の連合艦隊は常設ではなかった)。1904年に日露戦争が始まると富士は主力艦として旅順口攻撃を始め、黄海海戦、日本海海戦に活躍する。

 1912年、一等海防艦に指定され、類別上戦艦ではなくなる。翌年の1913年には練習艦に指定、1922年9月には軍艦籍から除籍、運送艦、さらに12月には練習特務艦となった。その後ワシントン軍縮条約に基づき装甲を撤去、運用術練習艦となった。1923年の関東大震災では救護活動に活躍する。

 1926年には横須賀に係留され定繋練習艦となる。1934年には推進器を撤去、海軍公開学校が創設されると航海学校保管艦となり浮校舎となった。1945年7月連合国軍の空襲により被爆着底する。1945年11月除籍、1948年5月に解体された。

 

2番艦八島

戦艦八島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年11月に日本に到着した八島は、1898年3月には一等戦艦に類別、1903年、連合艦隊に配属される。1904年日露戦争が始まると旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦に参加するが、1904年5月旅順港沖合を航行中、機雷に触雷し総員退艦の後転覆沈没した。

 日本海軍は国民の動揺を防ぐために事実を1年以上も秘匿、日本海海戦直後の1905年6月に喪失を公表する。1905年6月軍艦籍より除籍。

 

戦艦富士級(模型)

 

1/700 日本海軍戦艦 富士

シールズモデルズ

 富士級戦艦の1番艦。イギリス製戦艦で日露戦争では主力艦の1隻として日本海海戦を始めとする各種作戦に参加する。戦後は練習艦となり、太平洋戦争終戦まで使われ続けた名艦である。

 

まとめ

 

 富士級戦艦は当時の日本が宮廷費の削減、公務員の俸給1割減までして購入した新鋭戦艦であった。日露戦争で活躍したが、初戦期に八島は触雷により失われてしまう。しかし富士はその後も活躍を続け日本海海戦の勝利に貢献する。当時の日本を背負った戦艦であった。

 

関連リンク

前級ロイヤルサブリン級戦艦

 

次級敷島級戦艦

 

 

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BB-55戦艦ノースカロライナ
(画像はwikipediaより転載)

 

 ノースカロライナ級はアメリカがロンドン海軍軍縮条約が無効になった後、最初に建造した戦艦である。太平洋戦争では新鋭戦艦として参加、ソロモン海戦では戦艦同士の砲撃戦を行い戦艦霧島を撃沈する戦果を挙げた名艦である。

 

戦艦ノースカロライナ級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 35000トン
 最大排水量 44638トン
 全長 222.3m
 全幅 33m
 吃水 10m
 機関出力 12万1000馬力
 最大速力 28ノット
 航続距離 15000海里/15ノット
 乗員 1880名
 武装 45口径40.6cm砲3連装3基
    12.7cm両用砲2連装10基
    28mm機関砲4連装4基
 装甲 舷側30.5cm
    甲板14cm
    主砲30.5cm
 同型艦 2隻

 

 

特徴

 ロンドン海軍軍縮条約の無効により最初にアメリカで建造されたのがこのノースカロライナ級戦艦である。全長は前級よりも32mも長くなり、米戦艦独特の籠マストが廃止されている。主砲は当初は35.6cm(14インチ)4連装砲の搭載を予定していたが、より強力なマーク45口径40.6cm(16インチ)3連装砲に変更され、砲塔の配置も従来の前後均等ではなく前部に2基、後部に1基の配置となった。

 これはロンドン海軍軍縮条約に定められたエスカレーター条項によるもので、仮に1937年4月1日までに第二次ロンドン海軍軍縮条約に調印しない国があれば、諸々の制限を緩和するというもので、戦艦に関しては排水量45,000トン以下、主砲16インチ(40.6cm)以下に緩和される規定であった。次級のサウスダコタ級戦艦でも本級と同じマーク困鯏觝椶靴討い襪、こちらは当初からマーク困鯏觝椶垢詬縦蠅農澤廚気譴討い襦戦争後期には対空防御用として40mm4連装砲が15基追加された。

 本級の特徴としては主機に蒸気タービンを採用したことで前級であるコロラド級の2万8900馬力を大幅に上回る12万1000馬力を出すことが可能となった。これにより速力が前級の21ノットから28ノットへと大幅に向上している。本級の問題点としては主砲が変更になったため装甲が35.6cm砲用のものであり、ある程度の余裕を持たせた設計ではあったものの、40.6cm砲に対しての防御力は十分とは言えなかった。

 

建造

 1番艦ノースカロライナは1937年8月に発注され、1937年10月に起工、1940年6月に進水、1941年4月に就役している。2番艦ワシントンは1937年8月に1番艦と共に発注され、1938年6月に起工、1940年6月に進水、1941年5月15日に就役している。

 

戦艦ノースカロライナ級の活躍

 

1番艦ノースカロライナ

BB-55戦艦ノースカロライナ01
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦ノースカロライナは1937年10月に起工され、1941年4月に就役したが、試運転の際、推進器の振動による不具合が発生、実戦投入可能な状態になるまでに数年を要した。1942年3月、姉妹艦ワシントンと共に大西洋に配備され、イギリス艦隊の支援及び、対ソ物資輸送船団の護衛に当たった。6月にはパナマ運河を通過し太平洋に転戦、8月にガダルカナル島上陸支援、第二次ソロモン海戦に参加する。

 1942年9月には日本海軍の潜水艦伊号19潜の発射した魚雷が命中爆発するが、被弾後も24ノットでの航行が可能であり、米軍のダメージコントロールの巧みさと本級の堅牢さが証明された。その後自力で真珠湾に寄港修理を受けた。11月には戦列に復帰、空母の直衛を行う。

 1943年3月、真珠湾に寄港、新型の射撃管制装置及びレーダーが装備された。以後、ギルバート諸島、マーシャル諸島、クェゼリン環礁、サイパン島攻撃等に参加。1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加する。その後、フィリピン、硫黄島、沖縄攻撃に参加の後、終戦を迎える。

 戦後は兵員の輸送任務に従事した。1945年10月には米本土に帰還し、オーバーホールを受ける。その後は練習艦として活躍するが、1947年6月退役、予備役に編入される。1961年6月除籍。1962年より記念館として保存された。1986年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

 

2番艦ワシントン

BB-56戦艦ワシントン
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦ワシントンは、1938年6月に起工、1941年5月に就役した。本艦も1番艦ノースカロライナと同様、振動問題に悩まされ、スクリューの修理、交換、乗組員の訓練を行っているうちに太平洋戦争開戦を迎えた。開戦後は1番艦ノースカロライナと共に第6戦艦戦隊を編成し、1942年3月には大西洋に向かった。

 大西洋ではイギリス艦隊の支援及び、対ソ物資輸送船団の護衛に当たった。7月にはワシントンは米本土に帰還、オーバーホールを受ける。1942年8月ワシントンは太平洋に転戦、12月には第三次ソロモン海戦では日本艦隊に単艦で突入、戦艦霧島を撃沈した。

 その後、タラワ、クェゼリン環礁、メジュロ珊瑚礁、サイパン島攻撃に参加、1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加、日本艦隊を追撃するも戦闘をする機会はなかった。1944年9月にはパラオ攻撃、フィリピン攻撃に参加した後、レイテ沖海戦に参加する。1945年2月には硫黄島攻略に参加、4月には沖縄への艦砲射撃を行う。1945年6月には米本土に帰還する。1947年6月に予備役に編入、1960年6月除籍、1961年5月に解隊処分された。

 

戦艦ノースカロライナ級(模型)

 

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ アメリカ海軍 戦艦 ノースカロライナ

 ノースカロライナ級戦艦の1番艦。大西洋、太平洋と暴れまわった。太平洋戦争では第二次ソロモン海戦に参加する。魚雷により被弾するも堅牢な艦体のため撃沈は免れた。歴戦の艦。

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ アメリカ海軍 戦艦 ワシントン

 ノースカロライナ級戦艦2番艦。第三次ソロモン海戦で日本艦隊に単艦で突入、戦艦霧島を撃沈した殊勲艦。その後の戦闘も生き抜いたが、戦後は残念ながら解体されてしまう。

 

まとめ

 

 戦艦ノースカロライナ級は、太平洋戦争初期から中期の日米の戦力が比較的拮抗している時期に投入された新鋭戦艦であった。そのため日本艦隊の攻撃による被弾も多かったが2隻とも無事に終戦を迎えた。2番艦ワシントンは解体されてしまったが、1番艦ノースカロライナは現在記念館として保存されている。

 

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次級サウスダコタ級戦艦

 

 

 

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BB-57戦艦サウスダコタ01
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦後も活躍したアイオワ級戦艦ほどの知名度はないが、第二次世界大戦、特に太平洋戦争では最も激しく戦った戦艦の一つである。第二次世界大戦時の最新鋭艦であり、米海軍所属の戦艦では数少ない戦艦同士の砲撃戦を経験したクラスだ。

 

戦艦サウスダコタ級 〜概要〜

 

性能

 基準排水量 35000トン
全長 207.4m
全幅 33m
吃水 10.3m
機関出力 13000hp
最大速度 27ノット
航続距離 15000海里/15ノット
乗員 1793名
武装 45口径40.6cm(16インチ)砲 3連装3基
   12.7cm両用砲 2連装10基
   28mm機関砲4連装7基
   20mm機関砲 35基
装甲 舷側31cm 甲板14.6cm 主砲45.7cm 
同型艦 4隻

 

特徴

 ノースカロライナ級の改良型として建造された本級は、当初は35.6cm(14インチ)砲搭載を予定していたノースカロライナ級とは異なり、計画当初から40.6cm(16インチ)砲を搭載していたのが特徴である。これはロンドン海軍軍縮条約中の「エスカレーター条項」に沿ったもので、もしも参加国が条約を破った場合、参加国は16インチを搭載する戦艦の建造が可能となっていた。本級の設計を開始したのが1937年3月で、日本の条約脱退以降であったために16インチ砲搭載での設計が可能になったのである(日本の条約脱退は1936年12月)。

 排水量は35000トンでノースカロライナ級と同等だが、搭載の16インチ砲の直撃に耐えるための側面装甲がかなりの重量になってしまうために全長を15mほど短くしている。これによって装甲の面積を縮小化および艦体の軽量化が達成されたことにより、310mmの重装甲を施すことが出来た。しかし16インチ砲直撃弾の貫通を防止するために必要な装甲厚は390mmなので不足分は19度の傾斜角をつけることで解決している。

 全幅は33mとノースカロライナ級戦艦と同じためサウスダコタ級戦艦はノースカロライナ級戦艦に比べてずんぐりとした艦形となっている。これらの設計により心配されていた速度であるが、機関の増強により27ノットでの走行が可能となっている。但し、ずんぐり形状の艦体は高速を出しにくく、特に艦首部の浮力低下が問題となった。戦争後半に艦首部に40mm4連装機関砲を装備するようになってからは凌波性は絶望的に低下している。

 全長の短縮と重装甲化で居住性は悪くなった。因みにノースカロライナ級戦艦とサウスダコタ級戦艦の外観上の特徴は煙突の数でノースカロライナ級戦艦が2本であるのに対してサウスダコタ級戦艦は1本煙突である。

 

建造

 サウスダコタ級は1番艦サウスダコタ、2番艦インディアナ、3番艦マサチューセッツ、4番艦アラバマの4隻が建造された。1〜3番艦までは1938年12月に発注、4番艦のみ1939年4月に発注されている。起工は、1番艦サウスダコタが1939年7月、2番艦インディアナが1939年11月、3番艦マサチューセッツがは、1939年7月に起工、4番艦アラバマが1940年2月である。

 

戦艦サウスダコタ級の活躍

 

1番艦サウスダコタ

BB-57戦艦サウスダコタ
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年3月には1番艦サウスダコタが就役、7月26日まで2ヶ月弱の訓練を終え、東海岸のフィラデルフィア海軍工廠を出航、パナマ運河を通過し太平洋に配備された。最初の実戦は1942年10月の南太平洋海戦で日本機の攻撃により250kg爆弾の直撃を受けている。11月にはノースカロライナ級戦艦ワシントンと共に第三次ソロモン海戦に参加、激戦の中、大小27発被弾している。その内徹甲弾は1発だけで3番砲塔下に命中した。

 ニューカレドニアに待機していた工作艦プロメテウスの修理を受けた戦艦サウスダコタは本土に帰還、完全修理とオーバーホールの後、1943年4月より大西洋で作戦行動を行った。8月には米本土に帰還、9月より再び太平洋に移動、11月にはギルバート諸島攻撃、1944年1月にはマーシャル諸島の攻撃に活躍する。その後、マリアナ諸島の攻略戦に参加、6月にはマリアナ沖海戦に参加、日本海軍の彗星艦爆より250kg爆弾の直撃を受ける。

 サウスダコタは米本土に帰還、修理の後、フィリピン、香港、沖縄攻撃に参加した。7〜8月には日本本土を砲撃、終戦を迎えた。1946年6月には大西洋予備役艦隊所属、1947年1月予備役編入、1962年6月に除籍され、スクラップとして売却された。

 

2番艦インディアナ

BB-58戦艦インディアナ
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦インディアナは、1942年4月に就役、1942年11月1番艦サウスダコタの代わりに空母エンタープライズに合流、ソロモン諸島進攻支援の後、1943年10月真珠湾に帰還。1943年11月にはタラワ、クェゼリン環礁砲撃に参加。1944年2月修理のため真珠湾に後退した。4月には第58任務部隊に合流。トラック島攻撃、ポナペ島砲撃、マリアナ諸島攻略に参加した。6月にはマリアナ沖海戦に参加、至近弾を受けるも大損害には至らなかった。8月にはフィリピン攻略に参加した後、一旦米本土に帰還する。

 1945年1月再び第58任務部隊に合流、沖縄攻撃、本土への艦砲射撃を行い終戦を迎える。1946年9月に予備役編入され、1947年9月退役。その後、太平洋予備艦隊配属となり、1962年1月除籍、スクラップとして売却された。

 

3番艦マサチューセッツ

BB-59戦艦マサチューセッツ
(画像はwikipediaより転載)

 

 3番艦マサチューセッツは1942年5月に就役、10月には地中海に向かい、西部方面任務群と合流する。11月にはフランス海軍戦艦ジャン・バールの砲撃を受け反撃、フランス駆逐艦2隻を撃沈した。同月、米本土に帰還する。その後、太平洋戦線に配属され、1943年12月よりナウル、クェゼリン環礁等の砲撃、上陸支援に参加した後、1944年5月米本土に帰還する。

 1944年10月フィリピン攻撃、1945年には沖縄戦に参加、本土砲撃を行い終戦を迎える。1947年3月に退役、1962年6月に除籍された。除籍後はバトルシップ・コーヴに博物館艦として保存されている。

 

4番艦アラバマ

BB-60戦艦アラバマ

(画像はwikipediaより転載)

 

 4番艦アラバマは1942年8月就役、訓練、検査を行った。1943年5月1番艦サウスダコタと共に船団護衛を目的としてイギリスに配備された。1943年11月、太平洋戦線に配属、ギルバート、マーシャル諸島攻撃に参加、1944年6月にはマリアナ、パラオ諸島攻撃、10月にはフィリピン攻撃に参加した。1945年には沖縄、日本本土攻撃に参加して終戦を迎えた。1947年退役、太平洋予備艦隊配属。1962年除籍、記念館としてアラバマ州モービル湾に展示された。

 

戦艦 サウスダコタ級(模型)

 

ハセガワ 1/700 アメリカ海軍 戦艦 サウスダコタ スーパーディテール プラモデル

 サウスダコタ級戦艦の中で最も多くの修羅場をくぐり抜けてきた1番艦サウスダコタ。南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、マリアナ沖海戦と30発近い砲弾と爆弾を受けながらも生き抜いた歴戦の艦。

 

トランペッター 1/700 米海軍 サウスダコタ級 戦艦 BB-59 マサチューセッツ

 地中海ではフランス戦艦と交戦し沈黙させた他、駆逐艦2隻を撃沈。その後は太平洋戦線で艦砲射撃に活躍した3番艦マサチューセッツ。現存するサウスダコタ級の1隻。

 

トランペッター 1/700 米海軍 サウスダコタ級 戦艦 BB-60 アラバマ

 上陸支援、艦砲射撃に活躍したサウスダコタ級4番艦。太平洋に地中海にと広い地域で活躍した。サウスダコタ級現存艦の内の1隻。

 

まとめ

 

 戦艦サウスダコタ級はロンドン海軍軍縮条約以降に建造された戦艦で第二次世界大戦時には新鋭戦艦として多くの戦場で武勲を挙げた。特に1番艦サウスダコタは、第三次ソロモン海戦で日本海軍の金剛型戦艦と激しい砲戦を行っている。米海軍で最も激しく戦った戦艦の1隻といえるだろう。

 

関連リンク

前級ノースカロライナ級戦艦

 

次級アイオワ級戦艦

 

 

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戦艦ミズーリ03
(画像はwikipediaより転載)

 

 アイオワ級戦艦は1940年に起工、1943年に就役したアメリカ海軍最強の戦艦であり、1992年に退役するまで活躍した最後の戦艦である。最後はCIWSやトマホーク等のハイテク兵器で武装された究極の戦艦となった。この海の王者は他の戦艦にない強烈な個性を発揮している。

 

アイオワ級戦艦 〜概要〜

 

性能

基準排水量 45000トン
最大排水量 59000トン
全長 270.6m
全幅 33m
機関出力 21万2000馬力
最大速度 33ノット
乗員 1921名
武装 50口径40.6cm3連装3基
   12.7cm連装砲10基
   40mm機関砲4連装15基
   20mm機関砲単装20基
装甲 舷側30.7cm
   甲板15.2cm
   主砲43.1cm

 

建造

 1936年、ロンドン海軍軍縮条約を日本は脱退した。これにより英米仏の三か国は条約にあるエスカレータ条項を発動する。この条項は、第二次ロンドン海軍軍縮条約に調印しない国があった場合、諸々の制限を緩和するというもので、これにより戦艦の保有枠も拡大、戦艦自体の制限も排水量35,000トンから45,000トンに、主砲も14インチから16インチに拡大した。英米仏はこの新しい制限内で大型戦艦の建造を始めることになった。時に仮想敵国である日本が大型戦艦を開発しているとみなしていた米国はそれに対抗するための戦艦を計画する。

 計画の排水量は条約の上限ギリギリの45,000トン、全長270m、艦首水面下にはバルパス・バウが設けられ凌波性を高めた。全長は最長になったもののパナマ運河を通過することが考慮された結果、全幅は33mに抑えられたスマートな艦形となっている。主砲は条約の上限である40.5cm(16インチ)3連装砲となっており、前級サウスダコタ級と同じであるが、口径(砲身の長さ)が45口径から50口径に延長され火力が向上している。さらに副砲として12.7cm連装砲を10基、40mm4連装砲を15基装備し高い防空能力を持っている。

 速力は、空母部隊に随伴することを念頭に、主機は4基の蒸気タービンで前級の13万馬力に対して21万2000馬力と大幅に強化され、最大速度が33ノットと前級よりも6ノット増加した。

 

同型艦

 1940年6月27日に1番艦アイオワが起工、同年9月16日に2番艦ニュージャージーが起工する。1941年1月6日には3番艦ミズーリ、25日には4番艦ウィスコンシンが順次起工した。1943年2月22日1番艦アイオワが就役、5月23日には2番艦ニュージャージーが就役する。1944年4月16日には4番艦ウィスコンシンが就役、6月11日には3番艦ミズーリが就役した。さらに5番艦、6番艦も計画されたが、5番艦イリノイは1945年8月12日に建造中止、6番艦ケンタッキーは戦後も建造が続けられたが1947年2月に建造中止となった。

 

アイオワ級戦艦の戦歴

 

第二次世界大戦

 1番艦アイオワは当初、ドイツ戦艦テルピッツに対抗するため大西洋に派遣されるが、1944年1月太平洋に転戦、2番艦ニュージャージーと共にクェゼリン、エニウェトク環礁、トラック島、サイパン島、グアム島攻撃に参加した。1944年12月からは4番艦ウィスコンシンが戦列に加わり、フィリピン、台湾、沖縄攻撃に参加した。3番艦ミズーリも1944年2月の硫黄島攻略戦に参加、北海道室蘭攻撃、沖縄攻撃に参加している。

 第二次世界大戦が集結すると1番艦アイオワは1948年9月まで作戦活動に従事、1949年3月24日には予備役となった。2番艦ニュージャージーは1948年6月に予備役。4番艦ウィスコンシンも1948年1月1日に予備役に編入され、3番艦ミズーリのみが現役であった。

 

朝鮮戦争

 1950年に行った朝鮮戦争が始まると全艦が戦列に加わり艦砲射撃を行った。朝鮮戦争後もしばらくは現役であったが、1番艦アイオワは1958年2月に予備役編入、2番艦ニュージャージーは1957年8月、3番艦ミズーリは1955年2月、4番艦ウィスコンシンも1958年4月には予備役に編入され、同型艦は全艦第一線から姿を消した。

 

ベトナム戦争

 1968年、ベトナム戦争が激しくなるとアイオワ級戦艦は2番艦ニュージャージーのみが現役に復帰、半年間に亘ってベトナムに艦砲射撃を行ったが、1969年12月再び予備役に編入となる。

 

600隻艦隊構想

 ベトナム戦争後、縮小していた米海軍であったが、1981年、ソビエト海軍の膨張に脅威を感じた結果、優位を確保すべく海上戦力の大再編を行った。この結果、アイオワ級は4隻とも現役に復帰することとなる。

 1番艦アイオワは1984年4月、2番艦ニュージャージーは1982年12月、3番艦ミズーリは1986年5月、4番艦ウィスコンシンは1988年10月に現役に復帰した。この際、アイオワ級は近代化改修が行われ、ハープーン対艦ミサイル、巡航ミサイルトマホーク、CIWS等が新たに装備された。

 2番艦ニュージャージーは、近代化改修後、レバノン内戦に参加、主砲による艦砲射撃を行ったが、1990年代始めにソビエトが崩壊したため軍事予算の削減が行われたため1番艦アイオワは1990年10月、2番艦ニュージャージーは1991年2月に予備役に編入される。

 

湾岸戦争・退役

 1991年1月、湾岸戦争が始まると未だ現役にあった3番艦ミズーリと4番艦ウィスコンシンはペルシャ湾に展開、イラク軍陣地にトマホークと主砲による攻撃を行った。これがアイオワ級の最後の戦闘であった。

 湾岸戦争後の1991年9月、4番艦ウィスコンシンが予備役編入、1992年3月3番艦ミズーリが退役した。これによりアイオワ級全艦が現役を離れた。現在は4艦共に博物館として公開されている。

 

まとめ

 

 日本人だとどうしても戦艦といえば「戦艦大和」となってしまう。しかし合理性の国、アメリカで開発された戦艦というのは興味をそそる。その合理性の国が最後まで戦艦を運用した国だというのも面白い。戦艦という古武士が近代装備の鎧を纏った姿も魅力的である。アイオワ級の魅力は尽きない。

 

前級サウスダコタ級級戦艦

 

 

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08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

はじめに

 

 装甲巡洋艦とは、巡洋艦が重軽に分類される前に存在していた区分で、戦艦に比べて軽量、高速である巡洋艦をある程度重装甲とした艦種である。妙にふわっとしているが、艦種分類はその時代と国によって異なっており、明確に定義することは難しい。大雑把に書くと、戦艦には及ばないにしても格下の艦相手には十分な装甲を持ち、速力も戦艦よりも若干上回るというようなもので、要するに準戦艦と考えて良い。

 日本海軍では、1899年から1911年まで12隻の装甲巡洋艦が建造されており、この内、8隻が日露戦争に参加した。当然のことながら、これらの艦艇の存在がなければ日露戦争で日本海軍が歴史的勝利を収めることはなかった。そしてこれらの装甲巡洋艦たちは、日露戦争後も多くの任務に就き、中には太平洋戦争終戦まで戦った艦もあった。今回は、この日露戦争に参加した装甲巡洋艦8隻の戦歴とその後について簡単にみてみたい。

 

 

春日型装甲巡洋艦

 

春日(第1艦隊第1戦隊)

※以下カッコ内は日露戦争時の所属

02_春日
(画像は春日 wikipediaより転載)

 

 装甲巡洋艦春日は、1902年3月、イタリア国アンサルド社にてアルゼンチン海軍装甲巡洋艦リッヴァダヴィダとして起工、1903年に日本海軍が購入し艦名を春日と変更した。1904年1月竣工、2月には横須賀に回航される。排水量は7,700トンで全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員562名である。兵装は、25.4cm(40口径)単装砲1門、20.3cm(45口径)連装砲2門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門で、さらに45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する

 1904年2月に日露戦争が勃発すると、4月には旅順口攻撃、8月に黄海海戦に参加したのち、翌年5月、日本海海戦に参加した。そして終戦直前の7月には樺太占領作戦にも参加している。そして第一次世界大戦が勃発すると南シナ海、インド洋で活躍するも1917年、1918年に2度の座礁事故に遭う。1921年9月には一等海防艦に類別変更、海防艦としてシベリア出兵の支援任務に活躍する。1925年には類別海防艦のまま横須賀鎮守府警備艦兼練習艦となった。太平洋戦争開戦後の1942年7月1日、特務艦に類別変更。終戦間際の1945年7月18日、空襲を受け大破着底、1948年に引き上げられ解体された。

 装甲巡洋艦春日は日露戦争、第一次世界大戦をくぐり抜け、太平洋戦争では軍艦籍を除かれたものの練習艦として終戦直前まで活躍した。歴代艦長には岡田啓介、米内光政というのちの総理大臣もいる

 

日進(第1艦隊第1戦隊)

03_日進
(画像は日進 wikipediaより転載)

 日進は春日型装甲巡洋艦の2番艦で、春日同様にイタリア国アンサルド社で建造、アルゼンチン海軍から買い取った艦である。春日とほぼ同時期の1902年3月起工、1904年1月に就役している。排水量は7,700で全長105m、全幅18.7m、最大速度20ノット、乗員は568名で兵装は、20.3cm(45口径)連装砲4門、15.2cm(40口径)単装砲14門、7.6cm(40口径)単装砲8門に45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 1904年2月に日本に回航された後、4月には日露戦争旅順口攻撃に参加、その後、黄海海戦、日本海海戦に参加した後、終戦直前には樺太占領作戦にも参加する。日露戦争後の1912年、乗員による火薬庫放火により弾薬庫が爆発する。第一次世界大戦では太平洋、東南アジア海域の警備、地中海派遣艦隊として活躍した。1921年9月、一等海防艦に類別変更、翌年のシベリア出兵では警備を担当する。1935年4月に除籍、廃艦となる。廃艦後は標的艦として使用、同年10月9日に実験弾が1発命中、想定では1発では沈まないはずであったが老朽化のためそのまま沈没してしまった。その後引き揚げられ解体された。

 この艦には日露戦争時、少尉候補生だった山本五十六が乗艦していたり、アルゼンチン海軍の観戦武官も乗艦していたという艦であった。同型艦春日とは異なり廃艦となり沈没するという寂しい最後であった。

 

出雲(第2艦隊第2戦隊)

04_出雲
(画像は出雲 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦の1番艦である。1898年5月に英国アームストロング社で起工、1900年9月に竣工すると同年12月に日本へ回航された。排水量9,750トン、全長122m、全幅21m、最大速度20ノットで乗員672名、兵装は20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。日露戦争ではロシアのウラジオ艦隊に対抗するため対馬海峡に展開、蔚山沖海戦、日本海海戦には第二艦隊旗艦として参加、日本海海戦では東郷司令長官の命令を無視。結果、「世紀のパーフェクトゲーム」に貢献した。

 戦後は第一艦隊旗艦、第一次世界大戦では遣米艦隊旗艦、続いて第二特務艦隊旗艦とし地中海に派遣、連合国の船団護衛に活躍した。1920年代初頭に一等海防艦に類別変更、その後練習艦、海防艦として活躍するが、1932年2月、日中関係の悪化によって中国方面の艦隊を統率する第三艦隊の旗艦となる。その後さらに第四艦隊も加えた支那方面艦隊の旗艦となる。その後、支那方面艦隊は規模を縮小され、第三艦隊は第一遣支艦隊と改名、引き続き同艦隊旗艦を務める。

 1942年7月、海防艦の定義変更(占守型海防艦等が順次完成していた)により、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、竣工42年目にして再び巡洋艦となった。1943年8月20日、出雲は内地に帰還、練習艦として運用。1945年7月24日、米軍の空襲により至近弾を受け大破着底、1947年に引き上げられ解体された。艦歴の多くを旗艦として生きた稀有な艦であった。

 

磐手(第2艦隊第2戦隊)

05_磐手
(画像は磐手 wikipediaより転載)

 

 出雲型装甲巡洋艦2番艦。出雲よりも6ヶ月遅い1898年11月、英国アームストロング社にて起工、1901年3月に竣工、同年5月に日本に回航された。排水量9,750トン、全長132m、全幅21m、最大速度21ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm連装砲塔2基、15.2cm単装速射砲14門、8cm単装速射砲12門、47mm機砲8基、45.7cm水中魚雷発射管単装4門を装備する。

 日露戦争では1番艦出雲と第二艦隊第二戦隊を編成、蔚山沖海戦や日本海海戦に活躍した。戦後は出雲と同様に1920年代初頭に海防艦に類別変更、他の艦に比して居住性が良かったため練習艦として使用された。1942年7月1日、海防艦から一等巡洋艦に類別変更、1945年7月26日、米軍の呉軍港空襲により沈没、戦後引き揚げられた後解体された。歴代艦長にはのちに総理大臣となった米内光政、猛将で知られる角田覚治、潜水艦隊司令長官として有名な醍醐忠重などがいる。

 

 

吾妻(第2艦隊第2戦隊所属)

05_吾妻
(画像は吾妻 wikipediaより転載)

 

 基本的に英国の艦船を購入していた日本海軍には珍しいフランス製装甲巡洋艦である。1898年にフランス国ロワール社にて起工、1900年7月に竣工した。排水量9,326トンで同時期の英国製装甲巡洋艦出雲型に比べ若干少ないもののほぼ同じである。しかし全長は出雲型132mに対して136mと4mも長く、逆に全幅は18mと出雲型に比べ3m細かった。つまり出雲型に比べ、前後に長く、細い艦艇であった。最大速度は20ノットと出雲型に比べて1ノット劣る。乗員は644名で兵装は、兵装20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、 47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備している。

 日露戦争では第二艦隊に編入、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。戦後は一時期練習艦となるも第一次世界大戦では第一特務艦隊に編入された。他の装甲巡洋艦と同様に1921年9月1日に一等海防艦に類別変更、舞鶴で練習艦として運用される。どうも機関部に不調があったようで1927年には定繋練習艦、1942年7月には練習特務艦に類別変更された。さらに第二次世界大戦中の1943年9月には備砲を撤去、1944年2月15日に除籍、鉄資源の回収のため1945年に解体された。

 

八雲(第2艦隊第2戦隊所属)

07_八雲
(画像は八雲 wikipediaより転載)

 

 こちらもかなり珍しいドイツ製装甲巡洋艦である。1898年9月ドイツで起工、1900年6月に就役した。排水量9,695トン、全長124.7m、全幅 19.6mと同時期の装甲巡洋艦に比して全長が短い。最大速度は20.5ノット、乗員648名である。兵装は、20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、47mm単装砲12基、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に所属、黄海海戦、日本海海戦に参加、終戦直前には第三艦隊旗艦として樺太占領作戦にも参加している。その後は他の装甲巡洋艦と同様に練習艦として活躍したのち、1932年には海防艦に類別変更された。1942年7月1日には海防艦から再び一等海防艦に類別変更、太平洋戦争にも参加している。1945年5月には主砲が撤去され、12.7cm連装高角砲が設置、同年7月の呉空襲にも遭遇したが、奇跡的に中破状態で生き残った。自力航行可能であったため戦後は特別輸送船(復員船)として活躍、1946年7月に解体された。復員船としても活躍した唯一の日露戦争参加装甲巡洋艦。さすが鉄鋼の国ドイツ製といったところだろうか。

 

浅間(第2艦隊第2戦隊)

08_浅間
(画像は浅間 wikipediaより転載)

 

 日露戦争参加装甲巡洋艦中最も古い艦である。1896年10月、英国アームストロング社にて起工、1899年3月竣工した。同月英国を出航、5月に日本に到着した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 1900年に義和団の乱で出撃。日露間の関係が悪化する中で1903年に連合艦隊が編成されると浅間は第二艦隊第二戦隊に編入された。日露戦争では仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦に参加している。戦後は練習艦になったのち、第一次世界大戦では太平洋上のドイツ領攻略に参加している他、北米西海岸での哨戒任務に就いている。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、1942年7月1日には帝国海軍籍から削除、練習特務艦となった。他の装甲巡洋艦が一等巡洋艦に類別変更されたのに対して浅間が除籍されたのは、1935年10月に起こった座礁事故による竜骨損傷や老朽化が原因と言われている。

 軍艦籍から除籍されたのちは主砲、副砲も撤去され砲塔跡に校舎も設置された。1945年11月30日に除籍、1947年に解体された。日露戦争では日本海海戦に参加するも戦闘初期に舵が故障し集中砲火を浴びてしまった他、1915年にはメキシコで座礁、1935年には広島湾でまた座礁してしまう。今ひとつ運の無い艦だったようだが、とにもかくにも太平洋戦争終戦まで生き残った。

 

常磐(第2艦隊第2戦隊所属)

09_常磐
(画像は常磐 wikipediaより転載)

 

 1897年1月英国アームストロング社にて起工、1899年5月に就役した。排水量9,700トン、全長135m、全幅20.5m、最高速度21.5ノット、乗員726名である。兵装は20.3cm(45口径)連装砲2基、15.2cm(45口径)単装速射砲14基、8cm(40口径)単装速射砲12基、4.7cm単装速射砲砲8門、45.7cm水上魚雷発射管単装1基、同水中魚雷発射管単装4基を装備する。

 日露戦争では第二艦隊第二戦隊に編入、旅順港攻撃、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。1914年8月第二艦隊第四戦隊に編入、第一次世界大戦にも参加した。1921年9月1日、一等海防艦に類別変更、翌1922年9月には敷設艦に類別変更、1923年4月までに敷設艦に改装された。そのまま敷設艦として活躍を続け、1941年12月8日の太平洋戦争開戦もマーシャル諸島クェゼリン環礁で迎えた。1942年2月の米機動部隊の空襲により被弾、3月に佐世保に帰還、修理完了ののち、再びマーシャル諸島に進出している。

 1943年6月に内地に帰還、7月には大湊を根拠地として本土近海での機雷敷設任務に活躍した。1945年8月9日、大湊空襲により被弾、浸水したが沈没には至らなかった。しかし終戦を迎え、乗員が去っていくなかで排水作業が不可能となり擱座した状態で終戦を迎えた。1946年〜1947年にかけて解体された。常磐は日露戦争から太平洋戦争までを戦った数少ない装甲巡洋艦であった。

 

 

おわりに

 

 日露戦争に参加した装甲巡洋艦は全部で8隻、内、7隻が太平洋戦争開戦まで存在していた。ほとんどは練習艦となっていたものの、出雲のように旗艦として活動していた艦や八雲や常磐のように実戦に参加していた艦も存在する。これらの艦はあまり知られてはいないものの、装甲巡洋艦という類別から外れたのちも各種任務にまい進した日本海軍の縁の下の力持ちであった。

 

 

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01_淡路
(画像は淡路 wikipediaより転載)

 

要約

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の設計を大幅に改良して誕生した海防艦である。択捉型の建造途中に設計が完了したため設計が反映できる艦から択捉型から御蔵型に変更された。大きな変更点は主砲に対空砲が装備されたこと、爆雷投射機が2基になり爆雷搭載量が36個から120個に増加されたこと、船体の構造が耐寒、耐氷仕様でなくなり構造が簡略化されたこと、船体が択捉型よりも1m延長したこと等がある。燃料搭載量を200トンから120トンに減らしたため航続距離は減少した。8隻が竣工、5隻が戦没している。

 

御蔵型海防艦

 

02_御蔵
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

建造

03_能美
(画像は wikipediaより転載)

 

 1941年、戦時計画により海防艦30隻の建造が始まった。これが択捉型でこの択捉型は、改占守型と呼べるようなもので個艦としては性能が良いものの量産に向かない占守型に小規模な改良を加えた程度のものだった。しかし太平洋戦争が始まると実戦部隊からのフィートバックがあり、設計を大幅に変更。新たに乙型海防艦と呼ばれる海防艦を設計した。以降、建造予定の択捉型も順次、この乙型海防艦に設計変更することとなった。その結果、30隻中、択捉型は14隻のみとなり、残りは乙型海防艦として建造されることとなった。この乙型海防艦こそが御蔵型である。

 それまでの占守型、択捉型は主に北方警備用に設計された艦であったため、北方警備用としては申し分ないものであったが、対空火器、対潜火器が貧弱で船団護衛等には向かず、また戦時設計ではない上に質の高い艦を持つことで欧米との数の格差を埋めようとする個艦優越主義の下に設計された艦であるため工期が非常に長く量産には向かない艦であった。御蔵型は初めてこれらの問題点を大掛かりに修正した艦であった。

 

 

御蔵型の特徴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 主な修正点としては、占守・択捉型海防艦で使用されていた旧式駆逐艦の主砲を転用した三年式45口径12センチ単装平射砲から45口径12センチ高角砲連装1基(A型改三)、単装1基に変更、爆雷投射機も択捉型が九四式爆雷投射機1基に対して御蔵型は倍の2基を搭載している。爆雷数も占守型が18個、択捉型が36個であったのに対して120個と一挙に3倍以上の搭載数となった。それまでの海防艦が高角砲を持っていないという致命的な欠点が本級より改善されている。その他、25mm連装機銃2基、掃海具等は択捉型と同じである。

 船体もそれまで北方で運用するために必要であった耐氷、耐寒機能も排除され、上甲板の上部構造の全通も廃している等、簡略化された構造になっている。全長は120個の爆雷を搭載するために1m延長延長され、建造には電気溶接も多用された。しかし燃料搭載量は択捉型200トンに対して120トンに減少されてしまった。これにより航続距離が択捉型が16ノットで8,000海里であるのに対して同ノットで5,000海里と3,000海里減少しているが戦時設計の海防艦としては十分な航続距離であると言って良い。

 これらの設計変更の結果、御蔵型は基準排水量は70トン増加して940トンとなり、航続距離こそは減少したものの、主砲は対空射撃可能となり爆雷搭載量は3倍以上となった。船体部の工事工数は占守型よりも40%、択捉型よりも20%減少しており、実際の建造期間も占守型の平均建造期間が271.8日となり、占守型の587.5日、択捉型の326.9日に比べると占守型の46%、択捉型の83%の工期で完成している。一応、択捉型の約8割で完成しているものの量産性はまだ高いとは言えず、さらに設計を簡略化した改乙型海防艦日振、鵜来型へと繋がっていく。

 

 

戦歴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 1943年10月30日に竣工した御蔵は、それまでの択捉型と同様に翌月には海上護衛総司令部に所属、船団護衛に活躍するが、1945年3月28日戦闘中に亡失、5月25日除籍となった。2番艦三宅は太平洋戦争を生き抜き、戦後復員船として活躍、役目を終え1948年7月2日に解体された。3番艦淡路は1944年1月25日に竣工、船団護衛に活躍するも同年6月2日、米潜ギターロの雷撃により沈没してしまう。僅か4ヶ月強の活躍であった。4番艦能美も1944年2月28日に竣工、船団護衛に活躍するが1945年4月14日米潜ティランテの雷撃により沈没した。1番艦御蔵と同日の5月25日に除籍される。

 5番艦倉橋は、2月19日竣工。船団護衛に活躍し終戦を迎える。戦後は6番艦屋代と共に掃海任務に就いた後、1947年9月賠償艦として英国へ引き渡されるが、当時の英国は同様の護衛艦が余っていたため1948年1月に解体された。6番艦屋代も船団護衛に活躍した後に終戦を迎える。前述の掃海任務に就いたのち1947年8月賠償艦として中華民国に引き渡される。艦名雪峰として活躍、1950年正安に改名、1963年に除籍解体された。

 7番艦千振は1944年4月3日竣工、レイテ沖海戦では燃料補給部隊を護衛、11月7日、マニラ湾にて僚艦と共に米潜グロウラーを撃沈するが、翌年1月12日、米雷撃機の空爆により撃沈。3月10日除籍となる。8番艦草垣は1944年5月31日に竣工するも8月7日、3番艦淡路を撃沈した米潜ギターロの雷撃により沈没、10月10日除籍となる。約2ヶ月の短い活躍であった。

 

まとめ

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の建造中に設計が完成し、間に合った艦から御蔵型に変更されていった。船体は簡略化したが、装備は択捉型を大きく上回っていた。合計で8隻が竣工したが、内5隻が戦火の中で失われ、終戦時に残存していたのは僅か3隻のみであった。船団護衛に東奔西走した海防艦、その戦いの激しさはこの数字からも明らかである。

 

関連リンク

前級択捉型海防艦

 

 

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01_択捉
(画像は wikipediaより転載)

 

要約

 

 択捉型海防艦は太平洋戦争開戦前に計画、開戦後に建造された海防艦で基本設計は占守型海防艦と同じであり、違いは船首と舵の形状、爆雷搭載数が増えたこと等である。短期間の工期で建造するための設計の簡略化は不十分であったが、それでも占守型の56%の工期で建造、戦中に14隻が竣工、南方での船団護衛に活躍したが、8隻が戦没している。戦後生き残った数隻は中華民国や人民解放軍に編入されて戦後も活躍した。

 

択捉型海防艦

 

02_佐渡
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

船団護衛用海防艦

 1941年、日米開戦の可能性が濃厚になる中で日本海軍は戦時体制に徐々に移行している。この中で計画されたのがマル急計画と呼ばれる戦時建造計画であった。この計画には、米英国と戦争が開始された場合に必須となる南方地帯からの物資輸送を護衛するための護衛用海防艦30隻の建造が含まれていた。これが択捉型海防艦であった。主に南方での運用を前提にしていた海防艦であり、戦時大量生産を考慮すべきであったのだが、時間の制約上、新規に設計することはなく、占守型海防艦の設計をほぼそのまま受け継いだものであった。このため公式には択捉型海防艦は占守型海防艦として分類されている。

 

択捉型海防艦の性能

 占守型との違いは、舵を半平衡舵から平衡舵に変更して大型化していることや艦首を直線に近い形状にして簡略化等である。その他も出来るだけ簡略化を図り、生産性を向上させている。武装は占守型と大きく変わらず、主砲は旧式駆逐艦の物を再利用した三年式45口径12センチ単装平射砲3門で、この砲は旧式な上、仰角が+33°と対空射撃には向かない砲であった。対空用の武装としては25mm連装機銃2基、さらに対潜用に九四式爆雷投射機1基を装備していた。爆雷数のみは占守型の18個に対して倍の36個を搭載している。タービンは占守型と同じ22号10型ディーゼル機関2基2軸で最大速度19.7ノット、航続距離も16ノットで8,000海里と占守型と同等の性能を持っている。燃料搭載量は占守型よりも20トン少ない200トンである。レーダーやソナーは装備に間に合った艦は新造時から搭載している。

 戦時を意識して計画された艦ではあったが、元になった占守型は軍縮条約によって保有量において不利となった日本海軍が個艦の性能を米英に比して高性能とすることで量の不利を補おうとする個艦優越主義の下に設計された艦なので個艦としての能力は高いものの、大量生産には向かない設計であった。このため建造計画30隻の内、16隻は、のちに乙型、改乙型の設計が完了するとそれぞれの型に設計が変更されていき、結局、択捉型として完成したのは14隻のみであった。

 

 

建造

03_満珠
(画像は wikipediaより転載)

 

 この択捉型14隻の内、起工したのは2番艦松輪が最初で1942年2月20日に起工、続けて3、4番艦が2月中に、1番艦も翌3月には起工した。1943年3月23日に2番艦松輪が最初に竣工したのを皮切りに13隻が1943年中に竣工している。一番最後の択捉型は14番艦笠戸で、1943年8月10日起工、1944年2月27日に竣工している。全14隻の平均工期は326.9日で最短が14番艦笠戸の201日、最長が1番艦択捉の418日である。戦時急造と呼べるレベルの工期ではないが、それでも占守型の平均工期587.5日に比べれば択捉型は占守型の約55.6%の工期で完成している。無論、占守型が平時の建造で択捉型が戦時中の建造であることもあるので一概に比較はできないがそれなりの数字といえる。

 

戦中、戦後の活躍

 起工から約1年の1943年3月に2番艦松輪が竣工、同月中にさらに2隻、5月に2隻、6月に1隻、7月に2隻と順次竣工していった。1944年2月に竣工した14番艦笠戸まで合計14隻の択捉型海防艦は占守型が主に北方警備に使用されたのに対して南方の船団護衛に使用された。そのため損害も多く、終戦までに全14隻中8隻が戦没、1隻大破、1隻は修理中で終戦時に稼働状態にあったのはわずか4隻のみであった。

 択捉型海防艦で終戦を迎えたのは合計6隻で、4隻が稼働状態、1隻が大破状態。1隻が香港で修理中であった。大湊で大破状態であった14番艦笠戸はそのまま修理されることなく1948年に解体。稼働状態にあった4隻は戦後復員船として多くの日本人を内地に帰した後、戦時賠償艦として連合国に引き渡された。この4隻の内、1番艦択捉、10番艦福江はそれぞれ米国と英国に引き渡されたものの、これらの国では使用されることもなくどちらも1947年中に解体されている。残り2隻は中華民国に引き渡され、4番艦隠岐が「固安」、7番艦対馬が「臨安」として中華民国海軍に編入された。さらに終戦時修理中であった12番艦満珠も中華民国が海防巡艦七号として押収された。

 中華民国に押収された択捉型海防艦の内、臨安(対馬)は、中華民国海軍の艦艇として人民解放軍相手に活躍したのち退役、1963年に解体された。固安(隠岐)は1949年2月に人民解放軍に鹵獲され、機雷敷設艦「長白」として南海艦隊に編入、1982年に除籍された。海防巡艦七号(満珠)は1949年に人民解放軍に鹵獲され、1954年に「南寧」として南海艦隊に編入、1979年に退役した。

 

まとめ

 

 択捉型海防艦は、占守型と異なり主に南方での船団護衛に使用された。このためほぼ同型艦でありながら主に北方警備に使用された占守型が太平洋戦争終戦までに4隻中、1隻が撃沈されたのみであったが、択捉型は14隻中8隻を失い、稼働状態にあるのはわずか4隻という満身創痍の状態であった。対潜護衛を第一目的に設計された択捉型は、戦没艦8隻中6隻が潜水艦による雷撃での戦没であったことは皮肉であった。日本と米国の国力、技術力の差が如実に表れてしまった結果であったといえる。

 

関連リンク

前級占守型海防艦

 

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01_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

要約

 

 占守型海防艦とは日本海軍が主に北方での漁船の警備、救難のために建造した排水量860トンの小型艦艇である。北方での活動を想定していたため、船体は耐氷構造で、解氷装置、暖房等が充実していた。速度は19ノットと遅いもののディーゼル機関の採用により航続距離は長く燃費の良い艦であった。高性能であったが、武装は旧式駆逐艦から転用した12センチ平射砲、爆雷数も少なく、何よりも造船工数が多く、量産には不向きな艦であった。4隻中3隻が終戦を迎え、1隻が賠償艦としてソビエトに引き渡された。

 

占守型海防艦

 

02_国後
(画像は国後 wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。

 この流れが変わったのが1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結であった。この条約は列強各国の補助艦艇の建造を制限するためのもので、この条約の結果、それまでのワシントン海軍軍縮条約では対象外であった空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦に至るまで軍縮の対象となった。しかしこの条約では排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦は対象外とされた。つまりは無限に建造することが可能なのだ。

 

 

北方警備用艦艇

 では、この無制限の枠をどう使うのか。日本海軍が考えたのは、北方警備用艦艇の建造であった。当時の日本の国土は北は南樺太、占守島を北端とする千島列島が含まれており、この海域の豊富な漁業資源を求めて多くの日本漁船が操業していた。この日本漁船の警備や事故時の救助等をするために速度は遅くとも航続距離が長く耐氷性に優れた艦艇が必要とされていたが、日本海軍には適当な艦が存在しなかった。このため海軍は駆逐艦を派遣して代用としていたのだ。

 しかし駆逐艦とは本来艦隊戦闘を行うための艦種であり、速度は速く小回りが利くように設計されている。武装も魚雷を装備する等重武装であるが、こと漁船の警備、救助等にはオーバースペックであり、むしろ高速、重武装故の燃費の悪さや北方の極寒海域で活動するための専用装備を持っていない点がマイナスポイントであった。

 北方警備用の専用艦艇を開発することは上記の点からメリットがあったのは言うまでもないが、ロンドン海軍軍縮条約によって保有数が制限された駆逐艦を北方警備から本来の任務に戻すということも重要な目的であった。このため海軍はロンドン海軍軍縮条約が締結された翌年の1931年から北方警備用艦の建造を計画するが、予算不足のため実現するには至らなかった。

 

新型海防艦完成

03_八丈
(画像は八丈 wikipediaより転載)

 

 初めて建造計画が承認されたのが、1937年の第三次補充計画でこれにより警備用小型艦艇の建造が決定した。この小型艦艇は海防艦に類別され翌年の1938年に建造開始、のちに占守型海防艦と命名された。排水量は860トンであるが、計画の排水量は1200トンとされた。これは同計画で計画されていた戦艦大和を秘匿するためのもので大和の排水量65000トンを同計画で建造される様々な艦艇に割り振ったためである。

 前述のように北方警備を主目的に設計された艦であるため舷側は高く、船体は耐氷構造となっている。暖房設備は充実しており、艦内は露天甲板に出ることなく移動することが可能であった。当時の日本の艦艇の建造方針である個艦優越主義の下に設計された艦であるため艦自体のスペックは高かったが、大量生産向きではなく、造船工数は9万と後の丙型海防艦の4倍近い工数を必要とした。

 機関は燃費の良い22号10型ディーゼル機関を採用、2基2軸で出力4,050馬力、速力19.7ノットと駆逐艦の70%程度の速力しかないものの、航続距離は16ノットで8,000海里と同じ7弉茲之造された陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里よりも遥かに長大なものであった。搭載している燃料が占守型220トンに対して陽炎型622トンであることからも占守型の燃費の良さが良く分かる。因みにこの22号10型ディーゼル機関は飛行艇母艦秋津洲、潜水空母伊号13型等に採用されている。

 武装は主砲に三年式45口径12センチ単装平射砲3基を装備したが、これは予算の都合上、旧式駆逐艦の「おさがり」であった。大正3年に開発されたこの砲は手動式で射程距離15,000mであるが、仰角が+33°であり、航空機に対しては無力であった。占守型はのちにソナーやレーダーも追加で装備されていくが、この主砲が換装されることはなかった。北方警備が主目的ではあったが、掃海や艦船の護衛等も任務としているため、25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機1基、爆雷18個、掃海具を装備している。

 そしてこの占守型海防艦に対しては軍艦籍が与えられた。この「軍艦」とは日本海軍の軍制上の用語であり、一般に言う軍艦とは異なる。簡単に説明すると、日本海軍の艦艇には軍艦とそれ以外の艦艇があり、軍艦の方がランクは上であった。このため軍艦の艦首には菊の御紋と呼ばれる金色の菊のエンブレムが取り付けられた。軍艦籍を与えられている艦種は、主に戦艦、空母、巡洋艦等の大型艦艇であり、駆逐艦、潜水艦等には与えられていなかった。

 900トンに満たない占守型海防艦に対して軍艦籍を与えられた理由は、海防艦の主目的が北方海域で活動する日本漁船の警護や救難が任務であったからだ。これらの任務の遂行上、ソビエト連邦の艦船等とやり取りする必要性があることが想定されたため、通常の艦艇よりも上のランクの軍艦籍が与えられたのだった。

 

占守型海防艦の活躍

04_石垣
(画像は石垣 wikipediaより転載)

 

 同型艦は占守、国後、八丈、石垣の4隻で、1番艦占守が1938年11月に起工、続いて国後が1939年3月、八丈、石垣が同8月に起工している。2年弱の建造期間を経て1940年6月30日に占守が竣工、続いて国後が同年10月3日、4番艦石垣が1941年2月15日、遅れて3番艦八丈が同年3月31日に竣工している。

 1940年、6月30日、最初に竣工した1番艦占守は、舞鶴鎮守府に本籍を置き(つまり舞鶴が占守の母港)、第二遣支艦隊、南遣艦隊に配属され、主に南シナ海方面で作戦に当たった。1940年から1941年初頭に次々と竣工した占守型も全て本籍は舞鶴で、2番艦国後、4番艦石垣は竣工後すぐに大湊要港部部隊に編入、3番艦八丈は占守と共に第二遣支艦隊、南遣艦隊と異動したのち、1941年10月には国後、石垣と共に大湊要港部部隊に編入された。ここで占守以外の3艦は本来の目的である北方警備の任に就いた。

 太平洋戦争が始まると2番艦以降は引き続き北方警備の任に就き、1番艦占守のみは南方作戦に活躍した。1942年7月1日には、類別等級が改正、海防艦が軍艦籍から除籍され、ただの海防艦となった。1944年7月10日、4番艦石垣が米潜水艦により撃沈され北方警備の占守型は2隻のみとなったが、1945年1月には占守が大湊警備府に配属、再び姉妹艦3隻が北方の警備、救難等に活躍、終戦を迎えた。

 戦後は空襲で被弾した八丈はそのまま舞鶴で放置、1番艦占守、2番艦国後の2隻は復員船として復員業務に当たったが、国後は静岡県御前崎付近で座礁、そのまま放棄された。八丈は1948年に解体されたが、無事に生き残った占守は戦後に賠償艦としてソビエトに引き渡され、ソビエト太平洋艦隊に編入された。1953年には通報艦、1957年には工作艦に類別変更され運用されたのち1959年5月に退役、解体された。

 

まとめ

 

 戦前の個艦優越主義の下に設計された艦であったため大量生産には向かず、造船工数も丙型海防艦の24000に対して90000と圧倒的に多かった。そして主砲も平射砲で対空射撃は出来ず、爆雷も18個と貧弱であった。しかしこれらの装備は、平時の漁船警護、救難活動等を主な目的として想定していたためであり、個艦としては高性能な艦艇であった。幸運にも戦前に竣工した艦でありながら終戦時には4隻中3隻が残存していたという幸運な型でもあった。

 

 

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01_奄美
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 海防艦とは沿岸防衛用の旧式艦の総称であったが、のちには護衛任務を主任務とする800〜900トンクラスの小型艦艇の名称へと代わっていく。初の新造海防艦は占守型でこれは北方警備を想定したものであった。その後、太平洋戦争が近づくにつれ構造が簡略化され、大量生産されていく。全型合計で178隻が建造され、戦時中は船団の護衛等に活躍、一部は戦後、海上保安庁の巡視船として活躍している。最後の海防艦が現役を退いたのは1966年で戦時の簡略化した設計であったとはいえ、20年以上も現役でいられるほど完成度の高い艦であった。

 

日本海軍の海防艦

 

巡洋艦出雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍の海防艦とは、本来、沿岸防衛用に使用される軍艦の総称で、英語のCoast Defence shipの邦訳であった。艦種自体は明治時代から存在しており、旧式化した戦艦や巡洋艦、さらには砲艦等の小型艦艇や鹵獲した艦艇等もまとめて「海防艦」と称されていた。つまりは第一線の任務には使用できないものの後方の沿岸防衛用やその他の補助任務には使用可能な艦艇で日本海海戦で旗艦を務めた戦艦三笠や朝日、敷島、富士等の日露戦争時の主力戦艦、出雲や磐手等の巡洋艦も第一線引退後は海防艦として類別登録されていた時期もあった。

 

 

新造海防艦

 

 海防艦とは二線級の旧式艦が指定されるものであったため、当然新型艦等が建造されるはずもなかったが、1930年代に入ると事態は一変する。それはロンドン海軍軍縮条約の締結であった。ロンドン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦以降、列強各国の軍事費が財政を圧迫していることから締結された軍縮条約で、1922年のワシントン海軍軍縮条約が主力艦の保有量を制限したのに対して、1930年のロンドン海軍軍縮条約は当時は補助艦扱いであった空母、巡洋艦やそれ以下の小型艦艇の保有量を制限した条約であった。

 この条約により駆逐艦、潜水艦までが制限の対象になったものの、2000トン以下の小型艦艇は対象外とされた。つまりは2000トン以下であればいくらでも建造できるということになり、駆逐艦の保有量まで規制された各国の海軍にとってはいわゆる「抜け道」で、特に規制された駆逐艦の代用艦として2000トン以下の艦艇の建造に各国は注目することとなった。因みにこの対象外とされる基準はトン数以外にも速度が20ノット以内、砲は6.1インチ砲4門以内である。つまりは排水量2000トンで最高速度20ノット、6.1インチ砲4門搭載の艦艇は条約の制限を受けないということである。

 

占守型海防艦

 

02_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

 この条約の締結を受けて日本海軍は早速上記の制限内での艦艇の建造を計画した。特に必要性が高かったのが北方警備用の艦艇でそれまで駆逐艦で「代用」していたものの、高出力、軽構造の駆逐艦は北方の波浪や氷結には弱く、専用艦の開発が求められていた。このため早速、新型艦の建造が計画されたものの、不況の折でもあり、中々予算が通らなかった。結局、1937年度になってやっと新型艦の建造費が承認された。

 この時建造された新型艦が日本海軍史上初めて新造された「海防艦」占守型であった。当時の日本の最北端の島名を与えられた占守型は、まさに北方での漁船の遭難、救出、警備や居留民の保護を主任務と想定して開発された艦艇で排水量はわずか860トンという小型艦であった。しかし防寒装備や氷結防止装置、耐流氷構造を備え、任務上、長期間の行動が可能なように設計されていた。さらには南方での任務も可能にするため通風能力も強力なものであった。この新型海防艦に関しては公表される際、それまでの海防艦の常識とあまりにも排水量が違うために担当者が、本級の排水量860トンを8600トンと書き換えてしまい、それがそのままそれが発表されてしまったというエピソードもあったようだ。

 このように様々な機能を装備された占守型は当時の日本海軍の主流を占めていた思想で、高性能の艦艇を少数建造するという個艦優越主義の影響もあり、精密で複雑な設計となってしまった。このため次級以降は段々と簡略化されていくこととなる。占守型はネームシップ占守が1938年に起工、1940年6月30日に竣工、さらに2番艦国後、3番艦八丈、4番艦石垣も1941年4月までに竣工した。これら占守型は1番艦占守のみ開戦後も南方で任務に就いたが、他の3艦は本来の目的通り、主に北方で活動している。この占守型4隻の内、1隻が米潜水艦の雷撃により撃沈されたものの、他3隻は終戦まで生き残り、1番艦占守は戦時賠償艦としてソビエト連邦に引き渡し、他の二艦は戦後解体された。

 占守型は建造当初は軍艦として艦首に菊の御紋を持ち、艦長は中佐・大佐が充てられていたが、1942年7月の艦艇類別等級の改正により、海防艦は、軍艦籍から排除され、新たに一艦種として海防艦が規定されたため、海防艦の艦首の菊の御紋は外されることとなった。

 

 

択捉型、御蔵型海防艦

 

03_択捉
(画像は択捉 wikipediaより転載)

 

 太平洋戦争開戦が意識され出した1941年4月、日本海軍は戦時建造計画を策定する。この計画には新たに海防艦択捉型30隻の建造が計画されていた。この択捉型の設計は一部簡略化されているものの基本設計は占守型を踏襲していたため占守型の精密で複雑な設計はほとんど変更されることはなかった。占守型との主な相違点は爆雷搭載数が18個から36個に増加されたこと、旋回性能を向上させるために舵を大型化したこと、艦首の構造を簡略化したことである。

 この択捉型が建造されているさ中、海軍は新たに海防艦の対空兵装と爆雷搭載数の増加、誘爆防止装置を装備した乙型海防艦の開発が決定される。このため択捉型30隻中、変更が間に合った11番艦御蔵から合計8隻が乙型海防艦に変更、海防艦御蔵型となった。そして合計で択捉型14隻、御蔵型8隻が竣工した。これら海防艦は当初は乙型と分類されていたが、のちに丙型、丁型海防艦が建造されると甲型海防艦に分類変更される。

 

 

日振型、鵜来型海防艦

 

05_昭南
(画像は能美 wikipediaより転載)

 

 乙型海防艦が建造されている中、さらに戦時型として大幅に構造を簡略化した改乙型の設計が完了した。このため乙型海防艦の内、残り8隻は戦時型の設計が反映された改乙型として建造されたが、この内3隻は日振型、5隻は鵜来型と呼ばれている。これらは、兵装の違いによって日振型と鵜来型に分かれる。日振型は爆雷投射機こそは旧来の九四式爆雷投射機であるが掃海具を備えている型で、これに対して鵜来型は最新の三式爆雷投射機を装備しているが、掃海具を装備しておらず、重爆雷投射兵装艦といえる。端的に書けば日振型は掃海能力、鵜来型は重爆雷能力を持つことが特徴である。

 開戦前の建造計画で日振型3隻、鵜来型5隻が完成、さらにその後の二度の建造計画で新たに日振型6隻、鵜来型15隻が追加された。これらを合わせると建造された改乙型海防艦は日振型9隻、鵜来型20隻である。そしてこの改乙型海防艦も択捉型、御蔵型同様、丙型、丁型海防艦の建造により甲型海防艦に分類変更された。

 この改乙型は、大量生産を意識して設計されたため、船体はの大部分を平面をして艤装も簡略化された。このため造船工数は大幅に減少、占守型の僅か35%の工数で建造できるようになったが、同時に建造時点で開発されていた新兵器(レーダー、ソナー等)は全て採用、戦後も1960年代まで海上保安庁の巡視船として使用されていることからしても、一概に「安かろう悪かろう」の艦とは言えない。

 

 

丙型、丁型海防艦

 

07_第17号
(画像は第17号 wikipediaより転載)

 

 ブロック工法の採用や設計の簡略化により造船工数は3万強と占守型の35%程度にまで削減された大量生産型の改乙型であったが、戦局は厳しくさらなる大量生産が求められた。このためさらに徹底した簡略化が図られたのが丙型、丁型海防艦である。丙型、丁型海防艦の設計にあたっては、それまでの海防艦、戦時標準船の設計で培ったノウハウを全て採用、さらに作り易くするため船体を鵜来型の940トンから800トンと小型化、最高速度も16ノット程度と割り切って設計された。

 数百隻単位の大量生産が計画されたが、ディーゼル機関が必要数を満たせないため、蒸気タービン機関の艦も建造された。ディーゼル機関装備の艦を丙型(第一号型海防艦)、蒸気タービン機関装備の艦は丁型(第二号海防艦)と呼ばれる。一切の無駄を省いたため居住性は最悪、最高速度も丙型が16.5ノット、丁型が17.5ノットと低速で、丁型に至っては海軍初の単軸推進となった。しかし兵装は12センチ高角砲2門と三式爆雷投射機に爆雷120個とそれなりに強力なものであった。

 この結果、造船工数は2万4000と改乙型よりもさらに削減、4ヶ月で建造することを目標としたが、3ヶ月で完成した艦も多い。最短は75日である。総生産数は丙型が56隻、丁型が67隻であるが、損害も多く、丙型は26隻、丁型は25隻が撃沈されている。

 

 

おわりに

 

 最初に新造された海防艦は占守型でその設計を踏襲した択捉型、さらに御蔵型と続く。その後、大量生産向けに設計された日振型、鵜来型が続き、さらに簡略化された丙型、丁型と続く。総生産数は占守型4隻、択捉型14隻、御蔵型8隻、日振型9隻、鵜来型20隻、丙型56隻、丁型67隻である。この内、終戦まで生き残ったのは占守型3隻、択捉型5隻、御蔵型3隻、日振型4隻、鵜来型17隻、丙型30隻、丁型42隻である。終戦時残存艦の多くは戦時賠償として戦勝国に譲渡されたが、日振型、鵜来型の内数隻は戦後、海上保安庁の巡視船として活躍している。

 

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01_工作艦明石
(画像はwikipediaより転載)

 

 工作艦明石は日本海軍で初めて工作艦として建造された艦であった。能力は非常に高く、当時は国内にすらなかった貴重なドイツ製工作機械を多数装備していた。太平洋戦争中は主に海軍の拠点であったトラック島において活躍。数えきれないほどの艦艇を修理した。1944年パラオにて大破着底、1954年解体された。

 

工作艦とは

 

 軍艦の構造が複雑化、鋼鉄化していくにつれて整備、修理に高度な工作機械、技術が必要になっていった。このような技術は造船所や工廠にあるため軍艦は定期整備にまたは戦闘で損傷した場合にはこれらの施設に入渠することが必要となっていった。

 しかし技術の進歩により作戦海域が広がっていくと整備や損傷のために整備修理能力を持った施設に戻るための時間的損失が問題となっていった。このため世界の海軍は艦艇に工作能力を持たせ、移動工廠とすることを考え始めた。その結果開発されたのが工作艦である。

 

工作艦 明石 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 9000トン
 最大排水量 11036トン
 全長 158.5m
 全幅 20.564m
 吃水 6.29m
 機関出力 10065馬力
 最大速力 19.24ノット
 航続距離 8000海里/14ノット
 乗員 艦固定員 336名
    工作部  433名
 武装 12.7cm砲連装2基
    25mm連装機銃2基
 搭載艇 11m内火艇2隻
     9m内火艇1隻
     12m内火ランチ3隻
     12m伝馬船1隻
     6m通船1隻
     30t積運貨船1隻
 クレーン 中央部右舷23トン 1台
      前後マスト10トン 2台
      両舷5トン 2台
 同型艦 1隻

 

特徴

 日本海軍では工作艦の必要性は認められていたものの、予算的な問題で戦闘艦を優先して建造されていた。このため工作艦は艦齢の高い旧式艦に工作能力を付与し、工作艦として活動させていた。最初の工作艦は日清戦争で活躍した軍用船品川丸と元山丸で、さらに日露戦争では三池丸、関東等があった。数こそはあるものの日本海軍の工作艦の非力さはやはり問題となり、ついに新型の工作艦を開発することとなる。

 この工作艦建造は日本初であったため丹念に諸外国の工作艦が調査の対象とされた(特に参考にしたのは米海軍工作艦メデューサ)。調査は1933年頃より始まり、およそ3年後の1936年に基本計画がまとまった。この計画では新型工作艦は平時には海軍工廠の修理業務の代行、戦時には艦そのものが移動工廠として活動することが期待された。

 そしてその新型工作艦は「明石」と命名され、は1937年1月に起工、1939年7月に竣工する。完成した明石は上甲板中央に23トンを1基、10トンを2台、5トンを2台の計5基のデリック、クレーンを装備、搭載艇は本艦用5隻、工作部用7隻の12隻を持つ。

 艦内には17の工場があり、発電能力は戦艦大和に匹敵するものだった。工作機械も当時海軍工廠ですら配備していないドイツ製の工作機械なども含め、艦艇の修理、整備のために必要なあらゆる工作機械が配備されていた。さらに内部には溶鉱炉や溶接設備、木工所まであり部品の製造まで出来たという。このため米軍は明石を最重要攻撃目標に指定していたほどだった。

 

同型艦

明石(起工1937年1月、竣工1939年7月、1944年3月大破着底)

 

工作艦 明石 〜戦歴〜

02_工作艦明石
(画像はwikipediaより転載)

 

 竣工した明石は連合艦隊に所属、日中戦争で艦艇の修理に活躍する。1941年12月6日、明石は南洋委任統治領のパラオに移動、さらにフィリピンのダバオ、スラウェシ島のスターリング湾、モルッカ諸島のアンボン、シンガポール等で艦艇の修理や港湾施設の復旧に活躍した。1942年6月には第2艦隊第11航空戦隊所属でミッドウェー海戦に参加、その後、トラック泊地において同海戦で艦首を失うという大損害を受けた重巡最上に仮艦首を付ける工作を行っている。

 1942年8月11日には母港の呉に帰投するが、一週間後の8月18日には内地を離れ、23日にトラック島に到着した。これ以降明石はトラック泊地に停泊、主にソロモン海での戦闘で損傷した艦艇の修理に活躍する。この間に明石が修理した艦艇の数は数百隻に上る。

 1年以上にわたりトラック泊地に停泊して艦艇の修理を行っていた明石であったが、ソロモン諸島での海戦はすでに米軍が優勢となっており、1944年2月17日には後方基地であったトラック基地にすら米機動部隊の空襲を受けることとなった。明石もこの空襲によって命中弾を受けるが幸いにして不発弾であり損傷は軽微であった。

 1944年2月19〜20日、この空襲を受けて明石他連合艦隊の主力はトラック基地を脱出、さらに後方のパラオ基地に後退した。しかし3月30日、米海軍第58任務部隊はパラオを空襲。危険を察知した連合艦隊司令部は戦闘艦を優先して脱出させていたため、主力艦はすでに退避していたが取り残された明石やその他補助艦艇は空襲を受け、次々に攻撃されていった。ついに明石にも爆弾が命中。その後も次々に爆弾が命中した。消火活動の甲斐もなく明石は大破着底した。1944年5月除籍。

 明石の撃沈により連合艦隊は外地での艦艇修理の拠点を失ったため、新たに特設測量艦白沙を工作艦に変更、明石の代艦としたものの、工作艦として当初から設計された明石に工作能力は遠く及ばず、損傷艦の多くは内地または工廠のある港へ長時間かけて帰投する羽目になってしまった。これにより日本海軍が受けた損失は計り知れないものの、すでに戦争も日本は劣勢となっており、明石が活躍したとしても大勢を覆すことは出来なかった。

 パラオの空襲で大破着底した明石は1944年5月に除籍、大破よりちょうど10年後の1954年に解体された。明石は目覚ましい武勲こそはなかったが、戦闘により損傷した艦艇を後方拠点において修理し続けた。これにより日本海軍の戦闘力がどれほど高められたのかは想像に難くない。工作艦明石は、日本海軍の艦艇で唯一戦略に影響を与えた艦と言えなくもない。

 

工作艦 明石(模型)

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ No.566 日本海軍 工作艦 明石

 明石の模型では定番中の定番。模型業界の老舗アオシマの明石。価格も比較的安価で作り易い。私も製作したが作り易く、エッチングパーツを使用しなくても完成度は高い。

 

青島文化教材社 艦これプラモデルシリーズ No.35 艦娘 工作艦 明石

 上記明石と同じくアオシマ製の明石。こちらは艦娘バージョン。金型も新規製作という。通常版よりは若干高くなるが、より高い完成度を求める方はこちら。

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインディテールアップパーツシリーズ 日本海軍 工作艦 明石専用エッチングセット

 アオシマ製明石用のエッチングパーツセット。明石はクレーンが目立つのでエッチングパーツを使用すると外観が大きく変わる。

 

ピットロード スカイウェーブシリーズ 1/700 日本海軍 工作艦 明石 エッチングパーツ付き

 模型店発祥のピットロード製明石。こちらはエッチングパーツ付属のもの。上級者向け。

 

関連リンク

工作艦メデューサ

 

敷島級戦艦

 

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戦艦シャルンホルスト01
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦艦シャルンホルスト級はポケット戦艦ドイッチュラント級の4番艦、5番艦として計画されたが大型艦に計画を変更されて完成した艦である。第二次世界大戦時にはドイツ海軍の主力として活躍、英空母撃沈の戦果もあげた殊勲艦である。

 

戦艦 シャルンホルスト級 〜概要〜

 

 

性能

 通常排水量 31850トン
 最大排水量 35540トン
 全長 229.8m
 全幅 30m
 吃水 9.91m
 機関出力 16万馬力
 最大速力 31ノット
 航続距離 10000海里/17ノット
 乗員 1669名
 武装 54.5口径28cm砲3連装3基
    15cm砲2連装6基
    10.5cm高角砲2連装7基
    37mm高角機関砲2連装8基
    20mm高角機関砲単装10基
    水偵4機
 装甲 舷側35cm
    甲板10.5cm
    主砲36cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 シャルンホルスト級は当初はドイッチュラント級の4番艦、5番艦として建造される予定であったが、フランスがダンケルク級を起工したためより大型の戦艦として設計変更が行われた。主砲はドイッチュラント級と同様の28cm砲であったが、54.5口径の新型に変更された上に前部に3連装2基、後部に同1基を設置しており、さらには38cm連装砲への改修も計画されていた。さらにこの時代の戦艦にしては珍しく53.3cm水上魚雷発射管も装備している。

 主機もディーゼルから超高圧タービンに変更、31ノットの高速を発揮した。当初、シャルンホルスト級の艦首は旧来の垂直に近い形のものであったため、高速航行により波しぶきが艦橋にまで到達してしまい、漏水等の被害が発生したため艦首の形状をアトランティック・バウに改修されたが、凌波性の問題は根本的に解決することはなく、シャルンホルスト級の慢性的な欠点となった。装甲は、計画が度々変更されたためか意外に弱く舷側の大部分は4.5cmの装甲厚しかなかった。

 

建造

 1番艦シャルンホルストは1935年6月に起工、2番艦グナイゼナウは1935年5月に起工した。就役は、1番艦シャルンホルストが1939年1月、2番艦グナイゼナウが1938年5月である。

 

戦歴

 

戦艦シャルンホルスト
(画像はwikipediaより転載)

 

 1930年6月30日に起工されいているが一時建造中止となり、1935年6月15日に建造再開している。1939年1月に竣工したが、公試時に艦首が波をかぶるという不具合が発生、このため6月には艦首形状を変更したが、今度は錨鎖口から波が甲板に吹き上げたので、前部砲塔は浸水により電気系統が故障することがしばしばであった。

 1939年11月、改修作業の終了したシャルンホルストは同型艦のグナイゼナウ、軽巡洋艦ケルン、駆逐艦9隻と共にアイスランドとフェロー諸島のパトロールに出撃した。この出撃の目的は南大西洋で活躍していたポケット戦艦シュペー号を攻撃するための連合軍の戦力を分散することが目的であった。同月、イギリス仮装巡洋艦を捕捉、戦闘状態に入り同艦を撃沈し帰投した。1940年2月、ノルトマルク作戦に参加。4月にはノルウェー侵攻作戦、ヴェーゼル演習作戦の支援部隊として活躍した。

 4月8日には英戦艦レナウンと交戦、グナイゼナウは2発の命中弾を受けた。このためシャルンホルスト、グナイゼナウ共に要修理となりドッグ入りする。6月4日には修理を終え出撃、6月8日には2隻の駆逐艦に護衛されている英空母グローリアスと交戦状態に入った。この戦闘で戦艦シャルンホルストは24200mでグローリアスに砲弾を命中させるという海戦史上最長の砲撃命中記録を出す。グローリアスは撃沈したもののシャルンホルストも護衛駆逐艦の雷撃により被弾、大損害を受ける。その後も航空攻撃を受けつつも辛うじてキール軍港に入港し修理を受けた。

 1941年1月22日、大西洋での通商破壊作戦であるベルリン作戦に参加、合計49,000トンを撃沈するという戦果を挙げた。3月にはフランスのブレスト軍港に入港ここで修理を受ける。4月には、数度の航空攻撃を受け、戦艦グナイゼナウは大損害を受ける。7月には損害の無かったシャルンホルストは修理後の試験と訓練のためラ・パリスに移動するが、ここで英空軍による攻撃で損害を受けたのち、再びブレストに移動する。一方、グナイゼナウは修理と共に改装を受けている。

 1942年1月、修理の済んだシャルンホルストと修理及び改装が終了したグナイゼナウはケルベロス作戦により英仏海峡を強行突破、2月13日にはヴェルヘルムハーフェンに入港、その後キール軍港にて修理を受けたが、グナイゼナウは2月の空襲により大破してしまった。損害の無かったシャルンホルストは1943年3月にノルウェーへ展開、9月には連合軍施設の砲撃を実施、無事に帰還したが、12月、イギリス輸送船団攻撃のため出撃、護衛の英戦艦デューク・オブ・ヨーク以下の英艦隊と交戦、撃沈された。1968名中生存者は僅か36名であった。

 一方大損害を受けたグナイゼナウに対しては大改修が決定、戦艦ビスマルクと同口径の主砲の搭載も計画されていたが、1943年1月のヒトラーの大型艦廃棄命令により廃艦が決定。砲塔は陸揚げされ要塞砲として活用、艦は水上貯蔵庫、防空シェルターとして使用された。1945年3月、ソ連軍の接近によりゴーテンハーフェン湾口に曳航され閉塞船として沈められた。1951年9月、サルベージ会社により浮揚後、スクラップとして解体された。

 グナイゼナウから陸揚げされた副砲はその後もデンマーク軍の要塞砲として使用され続けた。1984年に予備役編入されたが、以降も毎年訓練で発射され続けた。2000年、最後の射撃ののち博物館となる。

 

まとめ

 

 シャルンホルスト級はドイツ海軍の主力艦として第二次世界大戦を戦い抜いた。シャルンホルストは海戦により撃沈されてしまうが、グナイゼナウはヒトラーの大型艦廃棄命令により自沈、閉塞船となる奇妙な最期を遂げた。確かにこの時期に大型艦の必要性は低下しており合理的な判断だったといえるかもしれない。

 

関連リンク

前級ドイッチュラント級戦艦

 

 

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01_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 航空母艦 赤城とは、天城型巡洋戦艦の2番艦であったが、ワシントン条約により空母へ改装された。当初は三段空母であったが、のちに全通式空母に改装、これらの変遷を経たために艦内の構造は複雑、居住性は最悪であった。太平洋戦争では第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃を始め太平洋、インド洋を転戦、1942年6月にミッドウェー海戦で撃沈された。

 

航空母艦 赤城 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 36.500トン
 全長 260.67m
 全幅 31.32m
 吃水 8.71m
 機関出力 13万3,000馬力
 最大速力 31.2ノット
 航続距離 8,200海里/16ノット
 乗員 1,630名
 武装 20cm単装砲6基
    12cm連装高角砲6基
    25mm連装機銃14基
 搭載機 常用66機、補用25機  同型艦 1隻

 

特徴

02_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 日本海軍が計画した八八艦隊の1隻として建造された天城型巡洋戦艦の2番艦であったが、ワシントン条約の締結によって同艦型は廃棄が決定、3番艦、4番艦は廃棄されたものの、1番艦天城、2番艦赤城は空母に改装することによって保有が認められたため空母への改修が行われた。1番艦天城は関東大震災により廃艦となってしまうが、赤城は1927年3月に空母として竣工した。

 当初は上下に飛行甲板、中段に艦橋、重巡並みの20cm連装砲2基を備えた三段空母であったが、構造があまりにも意味不明のため1935年11月から1938年8月まで約3年間かけて全通式空母に改装された。この時に世界の空母でも珍しく艦橋が飛行甲板上左側に設置されている(普通は右側)。

 改装前には2本あった煙突も1本にまとめられ航空機の着艦に影響を与えないように下向きに設置、海面に向けて煙を吐き出す形式となった。このため煙突のある右舷居住区は煙突の排気が流れ込んだ。当初、巡洋戦艦として設計され、三段空母に変更、さらに全通式空母へ変更されるという変遷をたどったため、艦内の構造は複雑であった。

 

同型艦

赤城(起工1920年12月6日、竣工1927年3月25日)

 

航空母艦 赤城 〜戦歴〜

03_赤城
(画像はwikipediaより転載)

 

 全通式空母に改装された赤城は、1939年1月に第一航空戦隊旗艦として日中戦争に出撃、海南島攻略戦に参加している。1941年4月には第一航空艦隊に編入。12月に開戦した太平洋戦争では、第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃に参加、1942年1月にはラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃を行う。4月にはセイロン沖海戦に参加、6月のミッドウェー海戦にも旗艦として参加撃沈された。

 

まとめ

 

 ミッドウェー海戦において赤城が撃沈された時、艦長の青木泰二郎大佐は赤城と運命を共にしようとするが説得されて退艦した。このため帰国すると即日予備役に編入、即座に召集され閑職に回される。青木大佐は太平洋戦争を生き抜き、1962年に他界する。

 

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