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搭乗員

赤松貞明
(画像はwikipediaより転載)

 

 赤松貞明中尉は、太平洋戦争全期間で活躍した主要な搭乗員達が10代後半から20代前半で開戦を迎えていたのに対して、戦闘機搭乗員としては薹(とう)が立った31歳であり、彼らの教官クラスの教官クラスと言っていいほどの搭乗員である。それだけに腕は確かであり、豪放磊落で多彩なエピソードを持っている海軍航空隊の中でも有名な男だった。総撃墜数は27機前後と推定され、内11機が日中戦争での戦果である(秦P183)。総飛行時間6000時間。武道の達人でもあった。

 

赤松貞明の経歴

 

そこそこ詳しい経歴

 1910年7月高知県生まれ。1928年6月佐世保海兵団入団。1931年3月第17期操縦練習生(操練)を卒業した後、赤城、龍驤、加賀乗組を経て横須賀、大村各航空隊に配属される。1937年12月には、13空に配属され、中支戦線に出動。1938年9月に蒼竜乗組。太平洋戦争開戦時は、台湾の第3航空隊に所属していた。開戦後は、3空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、1942年5月本土に帰還する。内地で教員勤務の後、1943年7月331空に異動した。カルカッタ攻撃等で活躍したのち本土に帰還。1944年3月に開隊した302空に異動、終戦まで302空隊員として本土防空戦に活躍した(秦P183、サカイダP86)。

 ものの本には、赤松貞明中尉は「戦闘機隊の古豪」とあるが、まさに古豪という言葉ばぴったりの人物だ。明治生まれで操練17期出身。太平洋戦争で名を馳せた著名なパイロットでは、岩本徹三中尉が操練34期、坂井三郎中尉が38期、原田要中尉が35期と出身期が桁違いに若い。これらの搭乗員の年齢と比べても6歳も年長である。

 赤松中尉が卒業した操練とは基本的に水兵から選抜された隊員が航空機搭乗員として訓練を受けるコースで、赤松貞明が操練を修了したのは1931年、岩本徹三などが操練を終了したのは1936年から1937年なので5年以上の経験の差がある。5年というと大したことが無いように感じるかもしれないが、異常に体力と精神力を使うパイロットの4年というのは通常の人とは異なる。

 

 

日本ニュース254号 5:01熱弁をふるっているおじさんが赤松中尉

 

撃墜350機の超超超エース!

 赤松中尉は日中戦争で11機を撃墜。日中戦争ではトップクラスの撃墜数だ。一番は岩本徹三の14機であるが、赤松自身は自身の手記では日中戦争時の撃墜数を242〜243機と主張している。これは記録に残っていると書いてあるが無論記録には残っていない。そして太平洋戦争まで含めると赤松自身の主張する撃墜数は何と350機である。これもまたタイトルには「撃墜350機の世界記録」と書いてあるが(赤松P105)、後半になると撃墜340機に変わってしまっている(赤松P131)。

 まぁ、人間細かい事に拘ってはいけない。海軍航空隊にその人ありと言われた赤松中尉である。撃墜数が10機程度違うことなどはどうでもよいのだ。この350機撃墜も恐らく、世界最高記録であるドイツ空軍のエース、エーリッヒハルトマンの352機撃墜を意識したものだろう。事実かどうかなどもこの際小さな問題だ。しかし残念ながら、赤松中尉は、太平洋戦争では撃墜スコアを伸ばすのが困難だったようだ。理由は初戦は味方が多すぎ、後半は味方があまりにも少なすぎたからだという。結果、赤松中尉の太平洋戦争での撃墜数はわずか百数十機程度であったという(赤松P106)。

 

大言壮語実行型

02_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 この話だけをみると赤松貞明中尉とはただのインチキ野郎じゃねーのか?という話になるがそうではない。そもそも坂井三郎中尉によると、撃墜王になるタイプの多くは、有言実行型であり、時として大言壮語実行型ですらあるという(∈箘P162)。実際、トップエースの一人で、撃墜216機を主張する搭乗員、岩本徹三中尉も「腕も立ったが口も達者だった」と小町定飛曹長に言われるほど大言壮語だった(川崎P272)。撃墜王の全てが大言壮語型だった訳ではないが、彼らは多くの戦場に立ったベテラン搭乗員であることには違いない。大言壮語している人が必ず実力が無いとは限らないのだ。そもそも、洋の東西問わず、豪傑なんて嘘と過剰な自己アピールだらけだ。

 赤松中尉もその例に漏れず、大袈裟に自己アピールするのだが、その空戦の腕となると尋常ではない。太平洋戦争開戦時にすでに31歳となっており、激しく体力を使う搭乗員としてはすでに旬が過ぎているはずなのだが、開戦当初から第一線で活躍、1945年5月29日には、あの万能戦闘機P51マスタングの75機編隊にこれまた格闘戦に不向きと言われる迎撃機雷電を駆りたった一人で突入、第45戦闘飛行隊のルーファス・ムーア少尉機を撃墜(サカイダP88)、さらに同年7月には同じく雷電を駆ってF6Fヘルキャットを撃墜している等(〆箘P252)、数々の武勲を挙げている実力の人なのだ。この尋常ならざる飛行機の操縦技術に関しては、戦後、赤松中尉が操縦する飛行機に同乗した横山正男上飛曹はその操縦技術の高さに舌を巻いている(横山P211)。

 

 

ベテランの空中戦

03_P51D
(画像はwikipediaより転載)

 

 ベテランの空戦とはドッグファイトをやって敵機を撃墜するのではなく、それらを高空から見守り、傷付いたり、不調を来した敵機を攻撃すると言われているが(久山P124)、赤松中尉の空戦がまさにそれで後輩の零戦搭乗員坂井中尉に「空中戦で生き残り、勝ち抜くためには敵編隊の端の一番弱い奴から叩いていくのが理想と語っている(〆箘P252)。同様のことを横山上飛曹にも語っているので(横山P210)、これが赤松中尉の戦い方であると考えて良い。

 因みに上記の空戦法はトップエースの一人と言われる岩本徹三中尉も行っており、岩本中尉もこの戦法でトップエースと呼ばれるようになったようだ。しかし、この空戦法、みんなが上空に待機していたらダメな訳で、誰かドッグファイトを行う「損な役」が必要となってくるような気がする。と思っていたら、同じくトップエースの一人である西澤廣義飛曹長はまともにドッグファイトをやるタイプのようで、やはり岩本中尉の戦法が気に入らなかったらしく、岩本徹三中尉に食ってかかったこともあったようだ(神立P199、角田P358)。

 

 

雷電大好き!

04_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、赤松中尉は変人であっただけに航空機の好みもまた変わっていたようだ。赤松中尉がこよなく愛した航空機は、零戦でも紫電改でもなく、「殺人機」とまで呼ばれた局地戦闘機雷電であった。この雷電は、1944年1月頃から実戦に配備された航空機で、大型機の迎撃を主任務とするインターセプター(迎撃機)であった(伊藤P244)。二式大艇や一式陸攻等の大型機が使用する大型の火星エンジンを機首に搭載しているため高速で馬力はあるものの旋回性能は悪く、「雷電国を滅ぼす」とまで毛嫌いされており(‐福田P218)、上記の岩本中尉も雷電に対しては厳しい評価を下している(岩本P251)。

 ベテラン搭乗員に嫌われた理由は、上記の特性以外に大型のエンジンを搭載したために視界が悪く、特に着陸時に非常な注意が必要であったこともある。しかし赤松中尉はこの雷電がお気に入りだったようで、赤松中尉は、世の中にこんな傑作機はないとほれ込んでいたようだ(⊂福田P194)、さらに坂井中尉に対しても「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と語っており(〆箘P252)、雷電に相当ほれ込んでいたようだ。この雷電でP51の75機編隊に突入してP51を撃墜したり、格闘戦能力が優れたF6Fヘルキャットとドッグファイトをやり撃墜したというのだから驚きである。坂井中尉に言わせれば、雷電でヘルキャットと互角に渡り合える戦闘機パイロットは赤松中尉の他にいないだろうとのことだ(〆箘P252)。

 

 

こんなエピソードも。。。

05_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 但し、操縦、空戦以外では部下の結婚式に泥酔して全裸で乱入、踊り狂ったりとかなりの傑物だったようだ(亀井P85)。武道等にも卓越しており、柔道、相撲、水泳、剣道等合わせて11段の猛者であった(亀井P86。坂井中尉の記憶では15段。〆箘P251)。いわゆる豪傑型の人物で、後年、坂井三郎中尉がヘンリーサカイダ氏の取材に対して「とんでもない気分屋で、変人で、すぐに暴力を振るった」と語っていたようだが(サカイダP86)、その後、歳を重ねるごとに人格を増し、部下からも尊敬畏敬される存在となったという(∈箘P124)。

 そしてこれは全くの余談であるが、赤松中尉はけっこうな「おデブさん」であったようだ(肥田P42)。「太っている」というのは明確な基準がある訳ではないので何とも言えないが、部下であった亀井中尉も赤松中尉は太っていたと書いているので当時の感覚としては「おデブさん」であったのだろう(亀井P85)。「おデブさん」戦闘機搭乗員は他にも10機以上を撃墜した艦隊戦闘機隊のエース菊池哲生上飛曹等がいるので空戦に体形はあまり関係ないのだろう。

 

 

終戦時は徹底抗戦

 赤松中尉が所属した302空は、首都防空をに担う部隊として活躍したが、この部隊は、終戦後に戦争継続を主張、降伏を拒否したことでも有名である。302空司令の小園安名大佐は熱血漢で有名であり、開戦時は台南空副長、251空司令等を歴任している実戦派である。指揮官として以外にも斜め銃と呼ばれる機体の上方に30度程度の角度で付きだした機銃を考案したりと大きな業績のある人物であるが、熱血が災いして終戦時はちょっとした騒ぎとなった。

 結局、終戦後の抗戦は未遂に終わったが、赤松中尉も同様に徹底抗戦を主張していたようだ。302空は終戦後各地に戦争継続のビラを撒いたりしていたが、赤松中尉もまた愛機雷電に乗り、横須賀航空隊に戦争継続を訴えに来たという(坂井P35)。8月22日にはトラックに武器弾薬、食糧を満載して木曽山中に立てこもるというようなことも計画していたらしい(横山P245)。冷静に考えればトラック数台分の武器弾薬で抗戦したところで無駄なのであるが、こういった行動に出る心理というのは当時の人でなければ分からないのだろう。

 

 

プロフェッショナルの戦後

 これらの計画は実行されなかったようであるが、軍隊やパイロットが性に合っていた赤松中尉の戦後は不遇だったようだ。飛行機を奪われた赤松中尉は、アルコール依存症となり、戦友たちが資金を出し合って贈った軽飛行機も酒代捻出のため手放した。戦友たちにも見放され、高知県の小さな喫茶店の店主となったのち、1980年肺炎で死去した(秦P183)。70歳という死ぬには少し若すぎる年齢であったが、専門家、プロフェッショナルとは人生を全てその道に賭けた人であり、全て賭けたのだからその道から外れれば何もない。真のプロフェッショナルであったともいえる。

 

参考文献

  1. 秦郁彦『日本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社1975年
  2. ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年
  3. 赤松貞明「日本撃墜王」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー1巻今日の話題社1967年
  4. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓拗崔娘1996年
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭找軸講談社2002年
  6. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 横山正男『あこがれの予科練』旺史社2002年
  9. 伊藤進「雷電”空中殺法”厚木空の不屈の闘魂」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  10. ‐福田晧文「私の運命をかえた「愛児」雷電と共に」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  11. ⊂福田晧文『指揮官空戦記』光人社1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  14. 角田和男『零戦特攻』1994年
  15. 亀井勉『空母零戦隊』今日の話題社1979年
  16. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』光人社1999年

 

 

 


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01_彩雲
(画像は彩雲 wikipediaより転載)

 

「じゃない」人達の戦い

 

偵察員とは

 偵察員とは、斥候として敵地奥深くに潜入して敵情を掴んで帰ってくるという斥候兵。。。ではなく、海軍航空機搭乗員の区分の一つである。海軍の航空機搭乗員には操縦と偵察という二種類があって操縦とは当然、機体の操縦を担当する人、要するに操縦員。そして偵察とは搭乗員でありながら、誰もが憧れる航空機操縦員「じゃない」搭乗員のことをさすのだ。

 

やはりみんな操縦員になりたい?

02_零観
(画像は零観 wikipediaより転載)

 

 日本海軍の航空機には、大きく、戦闘機、艦上攻撃機、艦上爆撃機、艦上・陸上偵察機、陸上攻撃機、水上偵察機等々、多彩な航空機があるが、この中で戦闘機以外の航空機はほとんどの場合2人以上が登場している。2人の内、1人はもちろん操縦員だ。では、操縦員「じゃない」人達は一体何をしているのだろうか。この記事では、これら花形でない裏方搭乗員についてチャラっと書いてみたいと思う。

 上記の機種の内、まずは二人乗りの艦上爆撃機と艦上偵察機・陸上偵察機について考えてみよう。二人乗りの場合、基本どちらかが操縦員だ。どちらも操縦員でない場合何らかのトラブルが発生していると思っていい。そこで、二人乗りの場合、一人が操縦員だとするともう一人は海軍では偵察員と呼ばれている。この偵察員の仕事は基本的に「航法」である。

 「航法」とは何かというと、これはGPSなどという便利なものが無かった当時、船乗りがコンパス片手に大海原を進んだように航空機も目的地に着くには自分の機位を測定して目的地までの方向を示さなければならない。これが航法だ。偵察員の主な任務はこの航法を行うことであったのだ。まあ、普通に考えれば分かるだろうが、この偵察員という仕事、相当に地味な仕事である。大空を飛翔することを夢見て難関の搭乗員養成コースを突破した挙句、「はい、お前偵察員ね」ではたまらない。乙種予科練9期で偵察員に振り分けられた藤代氏はトイレの中でガチで泣いたそうだ(藤代P60)。

 

泣く理由も分かるさ。。。

03_予科練
(画像は予科練生 wikipediaより転載)

 

 「いやいや、その程度で泣くなよ〜」と思うあなたに当時の海軍で航空機搭乗員になる方法を説明しよう。まず、海軍兵学校を出て士官として航空機搭乗員になること、そして予科練、さらには操縦・偵察練習生というものがある。まず海軍兵学校、予科練であるが、これは全国のトップクラスの中学生が受験した挙句の競争率が数十倍の超難関。そして現役の海軍兵が志願する操縦・偵察練習生にしても競争率は同程度の凄まじいものであった。つまり、どのコースを選ぶにしても航空兵になるのは相当な狭き門であったのだ。

 その狭き門を自由自在に大空を飛び回ることを夢見て猛勉強して突破。その挙句に誰かに操縦してもらって後ろで機体の位置を何だか分かんない機材で測定してる偵察員に振り分けられては、前述の藤代氏の気持ちも分からないではない。そもそも機体の位置の測定なんて要するに座学なのだ。「何なら俺にも出来んじゃねぇ?ふふん!」と思ったあなた。そんなに簡単なものではないのだ。

 

三種類の航法

04_六分儀
(画像は六分儀 wikipediaより転載)

 

 航法には基本的に地文航法、天測航法、推測航法という3種類の航法がある。地文航法とは名前の通り、地上の地形を目印に飛ぶ航法で陸地上空を飛ぶ陸軍機は主にこの航法を使用した。そして天測航法。これは六分儀という特殊な機器を使用して天体と水平線の角度を計算、現在位置を割り出すというものだ。しかしこれは星が出ていないと使えないので主に大型機の偵察員が行っていたという。そして最も難解なのは推測航法である。

 この推測航法とは要するにデータのみで現在地を測定するという方法である。地上からは分からないかもしれないが、航空機というのは絶えず風に流されている。その風に逆らって目的の方向に進んでいくのだ。風は正面からも吹くし、横からも斜めからも吹く。そのたびに機体は少しずつ位置がずれていく。偵察員はその風の方向と風速を計算しながら機体を目的地に誘導するのだ。仮にこの計算を間違えると目標物の無い洋上、そのまま海中にドッボーン!である。

 

偵察員とはスペシャリストなのだ!

05_零式水偵
(画像は零式水偵 wikipediaより転載)

 

 これらからも分かるように偵察員というのは、相当高度な知識と経験が必要であり、一朝一夕に出来上がるものではない。前述のトイレで号泣した藤代氏は300海里で誤差1海里程度であったという。これはkmに直すと555.6kmを飛行してその誤差が僅か2km弱であったということだ。555.6kmとは東京、青森間に匹敵する距離だ。これを何の目標物のない洋上を方位と風向、風速のみで飛行するというのはどれだけ困難なのか分かるというものだ。さらに偵察員はモールス信号等にも精通していなければならない。

 さらに急降下爆撃機の偵察員ともなると、敵艦めがけて急降下している最中にもその角度と速度を冷静に計算して操縦員に伝える。この情報に誤差があると当然爆弾は命中しない。45°や60°位の角度で急降下している機内で角度と風向、風速等を計算するというのは頭脳と共に相当な冷静さも必要だろう(山川P46)。敵機に追尾されながらも敵機の銃口の方向を操縦員に伝え射撃の瞬間に操縦員に機体を「滑らせる」方向を指示、低速の水偵でありながらF6Fヘルキャットの追撃を振り切った凄腕偵察員もいる(本間P187)さらに艦上・陸上攻撃機ともなると偵察員が爆撃手でもあるのでこれらの爆撃手兼偵察員は爆撃技術も必要であった。

 

 

プロ偵察員

06_二式艦偵
(画像は二式艦偵 wikipediaより転載)

 

 この偵察員の中でも「ザ・偵察員」とも呼べるのが田中三也氏である。著者は生粋の偵察員と言って良いだろう。高度な航法技術と共に特修科偵察術練習生を修了、偵察員としてのエリート教育を受けた隊員である。この特修科偵察術練習生とは海軍の技術教育の三段階、普通科、高等科、特修科の最上位に位置する課程で、本来は偵察術課程というのは存在しなかったが、ミッドウェー海戦での偵察の重要性から新たに設置された課程であった。この課程は二期のみで終了となったため田中氏は数少ない卒業者といえる。

 この課程に選ばれたのは実戦経験豊富なベテランばかりで、これら優秀な実戦経験者をさらに鍛えて戦力を向上させようという海軍の方針であった。田中氏も南太平洋海戦で米機動部隊を最初に発見したという殊勲者であった。この課程でさらに技術を学んだ田中氏は、偵察においても敵戦闘機の網を突破するために高高度で侵入して目標上空で急降下、写真撮影をしてそのまま飛び去ってしまうという荒業をやってのけたり、同士討ちを避ける敵の心理を利用して敵艦隊の真ん中を低空で飛行して切り抜ける等、強烈である。戦争後半には傑作偵察機彩雲を駆って偵察任務に活躍している。とにかくスゲーのだ。

 

 

参考文献

  1. 藤代護『海軍下駄ばき空戦記』光人社NF文庫2001年
  2. 山川新作『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録』光人社NF文庫1994年
  3. 本間猛『予科練の空』光人社NF文庫2002年
  4. 田中三也『彩雲のかなたへ』光人社NF文庫2016年

 

 

 


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岩本徹三01
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 岩本徹三とは、日本海軍航空隊の搭乗員であり、日中戦争から太平洋戦争までほぼ第一線で戦い抜いた搭乗員である。1916年に樺太で生まれ、1934年17歳で呉海兵団に入団。その後航空機搭乗員として日中戦争、太平洋戦争で活躍する。大言壮語型の人間で腕は超一流、下級士官でありながら特攻反対を公言するなど勇気のある発言をしている。日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流の搭乗員であることは間違いない。

 

岩本徹三の経歴

 

 

日中戦争

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 1916年6月14日、岩本徹三は樺太に生まれる。警察官であった父の転勤で、岩本一家は北海道札幌に転居、しばらくして島根県益田と転居する。1934年6月1日、岩本は親に無断で海軍の入団試験を受験、見事合格して呉海兵団に四等航空兵として入団する。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊。空母龍驤の艦上整備員を経て、1936年4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。同年12月26日、第34期操縦練習生終了後、一等航空兵として佐伯空に配属。1937年7月大村空に配属され、1938年2月2日、中国に展開する第13航空隊(第12航空隊とも)に配属された。

 岩本の回顧録は、ここからスタートしている。同時期に同じ部隊に所属していた同年兵の田中國義少尉は後年、インタビューでその当時の搭乗員のレベルの高さを「あのころはすごいパイロットがそろってました 〜中略〜 あとから来た岩本徹三なんて食卓番ですよ。」と語っている。(神立P86)。実際、回顧録でも一番下っ端の岩本は、食卓番として奮闘して、主計科に「ギンバイ」をしに行ったこと等が書いてある。当時岩本は、一等兵であったが、他の部隊の下っ端は三等兵であったので岩本は優先的に「獲物」をもらうことが出来たようだ(岩本P36)。

 因みに「ギンバイ」とは海軍の言葉で、食糧を主計科から貰ってくることをいう。もちろん違反であるが、そこはある程度大目に見られていたようだ。岩本は食卓番も「商売繁盛の料理屋のコック」等と前向きに楽しんでいたようである。後に零戦虎徹を自称する岩本はこの日に4機撃墜、1機不確実の初戦果を申告している。

 1938年3月31日、第12航空隊に異動、そこでも戦果を重ねた後、1938年9月14日、佐伯航空隊付を命じられ内地に帰還するまでに14機の撃墜を申告した。これは日中戦争における海軍航空隊での最多撃墜で、後に岩本はこの武勲によって功五級金鵄勲章を受けている。しかし、これには異論も多いようだ(神立P88)。因みにその他、日中戦争での海軍多撃墜搭乗員としては黒岩利雄、古賀清澄の13機撃墜、田中國義の12機撃墜等がいる。

 

 

母艦戦闘機隊へ

03_南太平洋海戦
(画像は翔鶴から発進する零戦 wikipediaより転載)

 

 内地に帰還した岩本は、1940年4月母艦搭乗員になるために空母龍驤で母艦訓練に参加、そして1941年4月には第1航空艦隊(一航艦)第3航空戦隊(三航戦)空母瑞鳳戦闘機隊に配属、さらに1941年9月1日、第5航空戦隊(五航戦)が編成されると、岩本達瑞鳳戦闘機隊員は五航戦に編入、10月4日、空母瑞鶴乗組となった。11月26日、空母瑞鶴を含む南雲機動部隊は択捉島単冠湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を敢行した。岩本は真珠湾攻撃の攻撃隊には参加できず、母艦の直掩隊に回される。岩本は攻撃隊に参加できないことを残念がるものの、「艦隊上空での空戦も悪くない」と気持ちを切り替えている(岩本P59)。あくまでも前向きな性格だ。この時に直掩隊に回された搭乗員は後に活躍する原田要中尉、小町定飛曹長、岡部健二少尉等がいる。

 1942年に入ると五航艦は内南洋からラバウル攻略に参加、2月には内地に帰還した後、4月にはインド洋作戦、5月には珊瑚海海戦に艦隊直掩隊として参加している。8月には瑞鶴を降りて内地の大村空で教員配置となる。第一線に未練のあった岩本は、この教員配置を拒否したものの上官の岡嶋清熊大尉に説得され受諾。ここで3ヶ月教員配置に就いた後、11月2日、横須賀航空隊に異動、翌年2月上旬には追浜航空隊に異動している。

 

激戦のラバウルへ

04_ブイン基地
(画像はブイン基地 wikipediaより転載)

 

 1943年3月2日、新編の第281航空隊に配属、同年5月には幌筵島武蔵基地に進出、キスカ島に進出予定であったが、7月には日本軍はキスカ島から撤収。さらに冬季に入ったため10月25日には館山に移動したものの同月、281空派遣隊のラバウルに進出が決定する。11月10日、春田虎二郎中尉以下16名の281空搭乗員は、当時旧式化していた零戦21型に搭乗、一式陸攻の誘導により発進、14日には全員がラバウルに進出した。

 岩本達281空派遣隊は、11月14日付で201空に編入、12月15日には204空に異動している。この頃(回顧録では12日)から岩本はマラリアとデング熱の症状が発生、12月下旬から1944年1月13日までほぼ空戦に参加していないことから病気療養をしていたと推定されている(梅本P13,35)。1月に入ると204空がトラック島に後退したため253空へ異動、253空がトラックに後退する2月20日までラバウル航空戦に活躍した。実は、岩本がラバウル航空戦に参加したのはわずか3ヶ月強であったが、その間、連日のように出撃しており、世間の3ヶ月とは重さが違う。実際、回顧録には

 

「私たち搭乗員も一種の変人になってしまった。 〜中略〜 私たちの生活は無我無心、敵の来るたびに機械的に飛び上がり、去れば降りて来る。ただそれを繰り返すだけである。も早娯楽を求める気持ちもない。同僚の死もさして気にならない。ただ頭にあるのは自分はいつ死ぬかということだけである。腹の底から笑うことなどはない。
(岩本P160)

 

 とあるように精神的にも相当過酷な状態であった。

 1944年2月、253空はトラック島に後退する。岩本も「搭乗員の墓場」と言われたラバウルから奇跡的に生還することが出来た。1943年11月中旬から僅か3ヶ月であったが、前述の岩本の手記にもあるように「一種の変人」になってしまうほどの命がけの3ヶ月であった。岩本はこの間の自身の撃墜数を142機としている。

 

 

中部太平洋から比島へ

05_神風特別攻撃隊
(画像は出撃する特攻隊 wikipediaより転載)

 

 1944年2月にトラック島に後退した後もトラック島防空戦に活躍、6月14日には機材受領のために内地に帰還する。機材受領後にトラック島に戻る予定であったが、サイパン島の戦いが始まり、空路が遮断されてしまったためトラック島復帰は中止となった。その後、8月には呉防空を担う332空に異動、若年搭乗員、特に少尉クラスの指導を任された。ここで岩本は初めて局地戦闘機雷電に搭乗しているが、スピードは出るが重い飛行機で運動性は悪く、大型機相手なら良いが戦闘機相手では零戦以下、大したものではないと評している(岩本P251)。

 9月には252空戦闘316飛行隊に異動するが、戦闘316飛行隊の分隊長はラバウルで共に戦った春田大尉であった。ここでも岩本は若年搭乗員の錬成を担当するが、10月には台湾沖航空戦に参加するため台湾に移動する。移動先の台湾高雄基地では、突然現れた参謀に高雄基地の指揮下に入れと命令されるが「初めての爆撃で少し頭がおかしくなっているのだろう」と一刀両断したものの(岩本P259)、その後進出したフィリピンでも岩本に対して指揮権の無い現地の参謀に特攻機の空輸を命令される。岩本は断っているが、この時期は現地も相当混乱していたのであろう。

 

本土防空戦

06_零戦52型丙
(画像は零戦52型丙 wikipediaより転載)

 

 岩本は輸送機によりフィリピンから内地に帰還、11月には戦闘311飛行隊に異動する。1945年2月には米第58任務部隊によるジャンボリー作戦の迎撃戦に活躍した後、九州の国分基地に進出した。そして3月中旬に戦闘303飛行隊に異動、空母瑞鶴時代の隊長であった岡嶋清熊少佐の下で再び戦うこととなった。この戦闘303飛行隊とはかつてトップエースの一人と言われる西澤廣義も所属していた飛行隊でこの時点で海軍航空隊中、最も練度の高い搭乗員を集めた部隊であった。戦闘303飛行隊は数少ない練度の高い制空部隊として終戦まで特攻機の援護や撃激戦に活躍した。

 岩本も戦闘303飛行隊の一員として沖縄航空戦に参加、4月には沖縄特攻作戦に出撃した戦艦大和の救援に向かったが、到着した時にはすでに大和の姿はなかったという。4月下旬になると菊水四号作戦が発令、岩本も特攻機の援護に出撃したが、岩本小隊はF4Uコルセア戦闘機8機と不利な体勢から空戦に入り、岩本機は胴体、翼に数十発被弾した。幸い致命部をそれていたため墜落することはなかったが、機体の性能の違いと敵に有利な状態から空戦を仕掛けられてしまったことから岩本もついに体当たりを決意するもやぶれかぶれの戦法で危機を脱することができた。

 この時の被弾は相当なもので風防は飛び散り、計器盤はメチャメチャに壊れていた。幸いエンジンは回っていたため何とか基地に帰還することができた。帰還後、調べてみると被弾30数発、落下傘バントの金具に弾丸が一発命中しており、それがなかったら岩本自身に弾丸が命中していたかもしれない。この空戦の様子を見ていた味方機は岩本機が撃墜されて戦死したと判断、二階級特進の手続きをしていたという。この岩本の被弾は相当な衝撃だったようで、同じ部隊に所属していた土方敏夫、安倍正治も手記にこのことを書いている(土方P248、安倍P213)。

 そして6月には岩国基地で編成された天雷特別攻撃隊の教員配置、終戦を迎える。終戦から数日後は茫然としていたという。終戦から数日後、軍用自転車にウイスキーを一本を積んで故郷に帰った。終戦後は公職追放となり日本開拓公社に入社、北海道に行くが、体調を崩して島根に戻った。その後も畑仕事や養鶏、菓子問屋勤め等、職を転々とした後、1952年増田大和紡績工場に就職する。

 しかし一年後の1953年には盲腸炎を発症、誤診の結果、腹部手術を3回、さらに背中も4〜5回手術した上に、最後は脇の下を麻酔なしで手術、あばら骨を二本とるという大手術を受けた。そして病名もはっきりしないまま1955年5月20日、38歳の若さで他界した。

 

 

岩本徹三という男

 

07_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

【撃墜数】ホントに216機も落としたの?

 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で単独撃墜202機、協同撃墜、地上撃破まで含めると合計254機、さらに日中戦争で14機と凄まじい数字となっている。さすがにこれが実際の撃墜数である可能性は低く、戦史研究家の秦郁彦は岩本の撃墜数を80機前後と推定されている(秦P174)。そして前述のように日中戦争の14機撃墜という数字についても異論がある。

 空中戦での敵機の撃墜は非常に困難である。丙飛16期出身の今泉利光は「アメリカの戦闘機を50機も60機も墜としたかのような話が伝わっているのであれば、それは誰かがつくった「戦後の嘘」である。なぜなら、速度と機銃そして機数の関係からして物理的に不可能だからである」と断言している(久山P132)。さらに戦史研究家の梅本弘の研究でも明らかなように、空戦での撃墜判定はかなり誤認が多く、何十機も撃墜戦果を報告していたが実際には1機も撃墜出来てなかったというようなこともある。著名な搭乗員である坂井三郎もまた「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語っているように(梅本P4)、ラバウル航空戦に関しても日米共に撃墜の誤認は多い。特に彼我の損害を比較すると日本側の誤認戦果が多い上に岩本の253空時代の戦闘行動調書に記載されている撃墜数が21機であるということから考えると、岩本主張するほど実際には撃墜してはいないのではないだろうか。

 無論、岩本はラバウル時代には201空、204空、253空と転々としているので、他の部隊では大量撃墜している可能性もあるが、ラバウルの熾烈な航空戦を岩本と一緒に戦った小町定も岩本については「空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていた」と語っており(川崎P272)、撃墜数についても、暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を指摘しているが(川崎P244)、そこらへんが事実なのであろう。

 

 

「ズルくても落とせばいい!?」岩本の空戦法

 

 岩本は緻密な計算の上で自身の戦法を編み出し、他人が非難を気にせずに実績を作り周囲を納得させるというタイプだったようで、ドッグファイトに参加せずに高度を取って上空を遊弋し、敵機を発見するや急降下、50m程度まで接近して後方より一撃した後、下方に抜け、上昇する際にまた別の敵機に下方より一撃した後、上空に戻るというような方法を多用していた。さらに他の搭乗員の攻撃によって傷付いた敵機を撃墜したり、空戦が終わって帰る敵機を付け狙い油断しているところを撃墜する「送り狼」戦法など、「卑怯」な戦法を好んだ。

 これについては、ラバウルの253空時代に同じ部隊にいた小町定飛曹長や日本のトップエースである西澤廣義が直接、岩本本人に「ズルい」と文句を言っているが、岩本は「そんなこと言っても、生きて帰せばまた空襲に来るんだぜ」と全く意に介さなかったという(神立P199、角田P358)。しかし口だけでなく、空戦の腕は相当であったらしく、前述の土方も岩本を「田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評しており(土方P226)、当時若手搭乗員であった阿部三郎もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述しているように(阿部P224)、口だけではなく空戦技術も相当なものであり、その名は海軍航空隊では有名だったようだ(久山P65)。

 

 

「意外と几帳面!?」岩本徹三の性格

 

08_零戦コックピット
(画像は零戦コックピット wikipediaより転載)

 

 このように書くと岩本は相当な暴れん坊であったと思われるかもしれないが、実はそうでもなかったようだ。元航空自衛隊のパイロットである服部省吾は岩本の著書を読んで「岩本徹三は人一倍素直に、そして真面目に訓練に取り組んでいたのではないか」と印象を語っている(服部P53)。実際、大雑把であったり、暴れん坊であったというような感じではなく、同年兵で主に母艦搭乗員として活躍した原田要によると、「岩本は性格は繊細で非常に緻密であり、そして要領がよく戦況把握が上手であった。」と言っている(原田P58,59)。さらに同じ部隊に所属していた安倍正治も岩本の印象を物静かであったと語っている(安倍P212)。

 しかし性格は強かったようで、夫人の岩本幸子による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである(岩本P316)。岩本の性格は、真面目で几帳面、繊細で緻密、そして自分の信じたことを押し通す気の強さがあったようである。実際、253空時代に航空機受領で内地に帰った際、他部隊士官になぜ早く前線に行かぬのかと罵倒された際にも今までの実績と現状を説明した後に「トラック基地司令の命令以外に他所轄の者よりとやかく言われることはないと思います。」とはっきり言っている(岩本P247)。この性格の強さは特攻を求められた時も同様で周りの搭乗員が特攻に反対できずにいる中、上官に対してハッキリと「否」と言ったという(角田P340)。

 岩本は気が強い上に「ズルい」戦法を使うため周りからは煙たがれていたと思われがちであるが、空戦ではチームワークを大切にしており、岩本と一緒に編隊を組んだ瀧澤は後年、岩本は、やさしくてよく気を使ってくれるため、若手搭乗員には人気があったと語っている(瀧澤P203)。

 これは余談であるが、岩本は飛行場に迷い込んでいた皮膚病の犬を可愛がり、この犬を膝の上に乗せたまま邀撃に上がったこともあったという(阿部P224)。戦闘303飛行隊時代にも「ウルフ」と名付けたシェパードを買っていたと言われており(安倍P213)、動物が好きであったようだ。

 

 

おわりに

 

 岩本徹三は日中戦争から太平洋戦争終戦まで多くを第一線で戦い続けた稀有な搭乗員である。1944年、253空がトラック島に後退した時点での飛行時間も8,000時間と事実だとすれば相当なレベルである。撃墜数に関しては疑わしいものの、その空戦技術は非常に合理的であり、一対一の空戦でもかなりの技量を持っていたことは確かだ。周りの空気に流されず、特攻には明確に反対意見を述べ、自分の正しいと思った戦い方は誰に批判されようともこれを貫いた岩本徹三という人間はやはり立派であったといえる。

 

参考文献

  1. 岩本徹三『零戦撃墜王』今日の話題社1972年
  2. /昔尚紀『零戦最後の証言』1999年
  3. 秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社1975年
  4. ’瀚楾亜愕し確軅鐶盞眥得鏥3』大日本絵画2013年
  5. 土方敏夫『海軍予備学生空戦記』光人社2004年
  6. 安倍正治「我が胸中にのこる零戦撃墜王の素顔」『空戦に青春を賭けた男たち』2013年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 服部省吾「「一撃離脱」に徹した零戦撃墜王の合理的な戦い方」『歴史街道 岩本徹三と零戦』2009年8月号
  9. 原田要『零戦 老兵の回想』2011年
  10. ⊃昔尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  11. 角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版1990年
  14. 瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻1996年
  15. 梅本弘『ビルマ航空戦』上2002年

 

 


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坂井三郎01
(画像はwikipediaより転載)

 

 零戦搭乗員で最も有名なのは坂井三郎ということに関しては誰もが納得するところだろう。著書は大ベストセラーで戦記ファンでなくともその名は知っているという人も多い。

 坂井氏は1916年佐賀県生まれ、第38期操縦練習生課程を首席で卒業、その後日中戦争、太平洋戦争に戦闘機搭乗員として従軍する。1942年8月7日にガダルカナル上空で右目を負傷、瀕死の状態で帰還する。以後、負傷が回復してからも視力は低下しており、内地での教員配置が多かった。戦争後半に横須賀航空隊が硫黄島に進出した際に坂井氏も戦闘に参加する。

 

真の勇者は寡黙?

 

 坂井氏の参加した攻撃は特攻であったが、坂井氏と数名の搭乗員は司令の命令を無視して反撃、硫黄島に帰還した。以後、343空や横須賀航空隊勤務を経て終戦。戦後は自身の体験を書いた『大空のサムライ』が大ヒットしたが、天下一家の会という今でいうねずみ講に参加して仲間の搭乗員を勧誘したり、大言壮語する癖があったようで搭乗員仲間からは敬遠されていたという。

 搭乗員以外の人でも日本人が嫌う自己宣伝がうまかったりするので、現在でもファンが多いが、同時に結構嫌っている人も多い。某サイトのレビューには「本物の勇者は寡黙なものだ」などとの批判的レビューも目にするが、本当にそうだろうか。零戦搭乗員で言えばトップエースといわれる岩本徹三中尉は小町定氏から大風呂敷だったと指摘されているし(川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』)、小高登貫氏も戦史家ヘンリーサカイダ氏に誇大であると指摘されている(ヘンリーサカイダ『源田の剣 改訂増補版』)。

 岩本徹三中尉は大風呂敷であった反面、緻密で几帳面であったことが指摘されており、こまめに日記をつけていたことがそれを証明している。実戦の技術にしても当時の岩本徹三中尉を知る多くの搭乗員から尊敬を受けていた。同様に小高登貫上飛曹も戦中派搭乗員でありながら、当時小隊長であった本田稔氏をして「腕は良かった」と言わしめており(井上和彦『最後のゼロファイター』)、大言壮語、大風呂敷だからといって勇者ではないとはいえない。

 因みにアメリカ軍史上最多の狙撃記録を持つクリス・カイル氏もかなりの自己アピールぶりで(クリスカイル『アメリカン・スナイパー』)著書は自信に満ち溢れている。本書はアメリカで「売れる」ように書いたため敢えて自己アピールを強くしたのかもしれないが、「本物の勇者=寡黙」とは一概にはいえないであろう。

 

実力のある男

 

 坂井三郎中尉も同様で、撃墜数は不明であるが(これはどの搭乗員にもいえる)、操縦練習生時代には首席であり恩賜の銀時計も拝領している。さらに日中戦争から太平洋戦争初期にかけての航空戦に活躍したことは紛れもない事実である。1942年8月7日の空戦で負傷して後送されているが、戦史研究家ヘンリーサカイダ氏によると米軍の戦闘報告書から、この日、坂井三郎一飛曹は1機を確実に撃墜していることは確実であるという。決して口先だけの男ではない。

 坂井氏を批判する零戦搭乗員達も勇者であれば坂井氏もまた勇者だ。坂井氏の本を読むとところどころに記憶違いがあったり、事実誤認(悪く言えば嘘)があったりするが、私はこれも勝負師の性質なのだろうと思う。勇者といってもいろんなタイプの人がいていいと思う。この件に関しては神立尚紀『祖父たちの零戦』と『父、坂井三郎-「大空のサムライ」が娘に遺した生き方-』を読むと両方の主張が分っていい。

 

坂井三郎氏の関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。

 

坂井スマート道子『父、坂井三郎』

坂井スマート道子 著
潮書房光人新社 (2019/7/23)

 坂井三郎氏の娘、坂井スマート道子氏から見た坂井三郎。奥さんの連れ子と自身の子を一切差別することなく育てた坂井氏。義理の息子が「坂井」姓を名乗るようになるが、御子息は喜んでいたという。道子氏が学生運動に熱を上げている時に一喝したこと、外に出た時は前後左右「上下」を確認しろと教えていたことなど搭乗員らしく面白い。「アメリカ人は楽しいぞ」と言っていた坂井氏、道子氏はアメリカ軍人と結婚しており、アメリカ人とは気質があったようだ。誰も知らなかった坂井三郎の姿がある。

 

まとめ

 

 上掲2冊を読むと人というのは一面だけではないということが良く分かる。大言壮語する人もいれば戦後も沈黙を貫く人もいる。その表面的な事象だけで善悪を判断してしまうというのはいささか早計であろう。人というのは十人十色で様々な側面を持っている。決まった枠にはめて分類できるものではないことが分る。どちらも良書である。

 


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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

酒井等飛曹長の略歴

 

 1941年10月、甲種予科練9期生として採用、1943年1月には飛練30期に進み、大分空で戦闘機の延長教育を受けた。同年11月から2ヶ月間、厚木空で零戦の搭乗訓練を受けた後、ラバウルに展開する253空に派遣された。その後204空に異動した後、内地に帰還、352空に配属された。

 

知られざる撃墜13機のエース

 

 酒井飛曹長は甲種予科練9期の出身である。甲種予科練とは搭乗員の不足が問題視されたために1937年5月に新設された制度でそれまでの予科練の応募資格が高等小学校卒または中学2年を修了した15歳から17歳までの男子であったのに対して、甲種は16歳から19歳までの中学校3年半以上修了であった。この制度の成立によってそれまでの予科練は乙種と呼ばれることとなった。

 甲種は、中学校で1年以上余計に勉強しているため予科練の訓練課程が乙種よりも短く、乙種が2年半であった教育期間は甲種では1年半であり、昇進も乙種に比べて早かった。しかし乙種の合格者の多くは中学校2年以上を修了しており、実質的な学力は同等であったことや「乙」という名称を与えられたこと、戦後の学歴認定でも不利があったこと等から甲乙間の対立の原因ともなった。

 この甲種はのちに大量の特攻要員を送り出すことになるのだが、酒井飛曹長が採用された甲種9期はのちの13期等に比べればまだまだ「少数精鋭」の時代であった。戦闘機専修の同期は81名(酒井飛曹長の記憶では60名)で半数が母艦航空隊、半数が基地航空隊に振り分けられたという。半数が母艦というのはかなり特異に感じられるが、1943年秋という時期は、い号作戦、ろ号作戦で多くの母艦搭乗員を失っており、母艦戦力の拡充が重要視されたのであろう。

 酒井飛曹長は基地組の組長として同期を統率、大分空で九六艦戦での延長教育を修了後、零戦搭乗の訓練を受けるために厚木空に配属された。この厚木空とはのちの302空とは異なる練習航空隊で1943年4月に編成、のちに203空となった部隊である。ここで2ヶ月間零戦の搭乗訓練を受けた酒井飛曹長は何とそのまま激戦地ラバウルに送られることとなった。

 酒井飛曹長が配属された部隊は253空で1942年9月以来ラバウルに展開するベテラン部隊である。酒井飛曹長が配属された1943年暮れという時期はラバウル航空戦も末期となり、海軍航空隊はほぼ防戦一方になっていた時期で、岩本徹三中尉、小町定飛曹長等が活躍していた時期でもある。

 このような激戦地に訓練を終えたばかりの酒井飛曹長以下10数名が着任するが、253空がラバウルからトラック島に後退、連日の空戦を続ける中で生き残った同期は酒井飛曹長含め、わずか4名となってしまった。しかしこの4名の内2名もその後の戦闘で戦死しており終戦を迎えることが出来たのは2名のみであった。この激戦地から生き残ることができた酒井飛曹長は253空と同じくトラック島に後退した204空に異動、さらに佐世保の352空付として内地に帰還した。

 352空とは1944年8月に編成された防空を主任務とする部隊で主に佐世保等の防空を管轄していた部隊であった。352空に配属された酒井飛曹長は本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。総撃墜数13機といわれている。

 

酒井等飛曹長の関係書籍

 

ああ”予科練”―甲種飛行予科練習生の記録

福本 和也 著
講談社 (1967/1/1)

 甲種予科練の記録で三部から成り、第一部が予科練の歴史、第二部が予科練の生活、第三部が甲種予科練出身者の手記である。この手記には甲飛2期から14期までの多彩な元搭乗員が寄稿している。ほとんど世間では知られていない撃墜王である酒井等氏が寄稿しているのも魅力。

 

まとめ

 

 甲飛9期の戦闘機専修者は81名(酒井等氏の記憶では60名)で終戦まで生き残った隊員はわずか21名であった(『海軍戦闘機隊史』より)。訓練終了時には戦局はすでに劣勢になっており、そのまま最前線に送られた隊員も多い。そのため1944年の一年間で戦死者60名中44名の隊員が戦死している。生き残った隊員の中には紫電改で編成された防空戦闘機隊343空に配属された隊員も多い。命がけで得た技術や経験が本土防空戦に必要とされたのだろう。

 

 

 


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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

半田亘理中尉の略歴

 

 1911年8月22日福岡県に生まれる。1928年海軍に入団。5年間の軍艦勤務後の1933年3月操練19期を卒業した。その後、空母龍驤、大村空、横空を経て、1937年8月支那事変勃発とともに空母加賀に乗り組み、中国戦線で活躍した。1938年6月15空に異動、11月本土に帰還した。1940年11月空曹長に進級して除隊したが即日召集。1942年2月台南空に配属、ニューギニア、ラバウルで活躍したが、肺結核の悪化により同年末本土へ送還された。6年に及ぶ闘病生活の甲斐もなく1948年戦病死した。

 

戦闘機の職人、半田中尉

 

 半田亘理中尉は、操練19期で同期には343空で活躍した磯崎千利大尉がいる。同期は7名で1名が日中戦争で戦死、1名は開戦劈頭の真珠湾攻撃で戦死、1名がソロモンで戦死している。半田中尉は海軍に入隊以後、5年間にわたり艦隊勤務に就いたのち、1932年10月に操練19期に採用、半年間の訓練を受けた後戦闘機搭乗員となった。

 空母龍驤乗組み、大村空、横空を経て1937年8月に空母加賀乗組みとなり日中戦争に参戦する。1938年6月には新たに編成された15空に異動する。15空とは1938年6月25日に編成された部隊で空母蒼龍の艦載機が主体となって編成された艦戦、艦爆、艦攻の混成部隊であった。戦闘機隊飛行隊長は有名な南郷茂章大尉で同年12月1日には解隊した短命な飛行隊であった。

 半田中尉は同隊に11月まで所属、その後は内地に異動した。それまでの日中戦争での総撃墜数は6機といわれている。1940年11月には空曹長に進級、除隊したが、即日召集。土浦空で教員を務めた。太平洋戦争開戦後の1942年2月、蘭印方面に展開する台南空に異動、4月には台南空の一員としてバラウルに進出した。5月4日にはP39エアコブラを単独撃墜してベテランの腕の冴えを見せている(この撃墜は連合国の戦闘行動調書によって確認されている)。

 しかし9日後の13日には、著名な搭乗員である坂井三郎一飛曹の列機である本田敏秋三飛曹を一時的に自分の列機として借り受け出撃したが、本田三飛曹は空戦で戦死してしまった。これは後年に至っても悔やんでいたようで死の床でも本田三飛曹を失ってしまったことについて語っていたという。その半田飛曹長はその後肺結核が悪化、1942年末には内地に送還され、闘病生活の後、1948年に戦病死した。総撃墜数は13機といわれている。

 

半田亘理中尉の関係書籍

 

大空のサムライ (光人社NF文庫)

坂井三郎 著
潮書房光人新社 (2003/5/14)

 最も著名な海軍戦闘機搭乗員であるといっても過言ではない。操練38期卒業のベテラン搭乗員の坂井三郎氏。日中戦争から太平洋戦争で活躍した。何かと批判も多い著者であるが、操練を優秀者として卒業、初期の台南空の快進撃で活躍したことは事実である。ゴーストライターが執筆しているため若干夢想的な文体であるが、読み物としては秀逸。世界中で翻訳され多くの人に影響を与えた。

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 生粋の海軍戦闘機搭乗員であった半田飛曹長は海軍戦闘機隊秘伝の秘技「ひねり込み」も会得していた。内地での勤務に就いていた際、当時、若手搭乗員であった田中國義一空兵が「ひねり込み」の方法を半田一飛曹に訊いたところ、「まだ教えても分かるまい」と教えなかった。そして後年台南空で再会した田中一飛曹が半田飛曹長に再度「ひねり込み」について訊いたところ「教えることは何もないよ」と結局教えてくれなかったという。海軍戦闘機隊では、他の搭乗員も「自分の技は教えない」という職人気質な部分があったようでこのようなエピソードは非常に興味深い。

 

 

 


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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

山本旭中尉の略歴

 

 1913年6月13日静岡県に生まれる。1933年横須賀海兵団に入団、1934年7月操練24期を卒業。館山、大湊空を経て1935年11月空母鳳翔乗組。日中戦争の勃発により中国大陸に進出した。1937年12月、内地に帰還、霞空に配属された。1939年10月12空付。再び中国戦線に出動した。1940年7月、内地に帰還、大分空で教員配置となった後、空母加賀乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。真珠湾攻撃を始め、加賀戦闘機隊員として多くの作戦に参加、ミッドウェー海戦では母艦上空直掩で活躍した。1942年7月瑞鳳乗組。南太平洋海戦に参加した。1943年3月に瑞鶴戦闘機隊員としてラバウルに進出。5月、内地に帰還。横空に配属された。1944年6月八幡空襲部隊の一員として硫黄島に進出。11月24日のB-29迎撃戦の際、千葉県八街で被弾脱出したが、落下傘が開かず墜落戦死した。

 

海軍航空の花道を歩いた男

 

 山本旭中尉は操練24期で同期には片翼帰還で有名な樫村寛一飛曹長がいる。同期は9名で卒業までに2名が事故死している。さらに空母加賀に配属された1名が事故死と1/3が事故で亡くなっているクラスである。戦争では1名が日中戦争で戦死、2名が太平洋戦争で戦死しており、太平洋戦争終戦を迎えることが出来たのは3名である。

 操練を卒業した山本中尉は館山、大湊空を経て1935年11月、世界初の空母鳳翔乗組となった。日中戦争が勃発すると鳳翔は僚艦龍驤と共に第三艦隊に編入、上海沖に展開して陸戦部隊の支援を行った。8月19日には山本三空曹は上海上空において敵戦闘機の初撃墜を報告。その後も戦果を重ねた。この山本三空曹の殊勲に対して鳳翔艦長草鹿龍之介大佐より「鷲鳥之疾至於殷折」の褒状が授与された。同年12月には内地に帰還、霞空で教員配置に就いたが、1939年10月、12空付となり再び中国大陸に進出、1940年7月、内地に帰還して大分空の教員配置に就いた。

 1941年10月空母加賀乗組となり太平洋戦争の開戦を迎えた。開戦劈頭の真珠湾攻撃では遊覧飛行を楽しむ民間機を軍用機と誤り撃墜、これが真珠湾攻撃の撃墜第一号となってしまった。撃墜第一号を記録した山本一飛曹は帰ってから上官に怒られ、「大東亜戦争の撃墜第一号を記録したのに、帰ったらおこられたよ」とぼやいていたという。その後もダーウィン攻撃、ミッドウェー海戦等で活躍した。ミッドウェー海戦では上空直掩を担当したが、母艦が被弾していたため空母飛龍に着艦、友永雷撃隊の直掩を務めた。

 1942年7月に空母瑞鳳に異動、南太平洋海戦に参加した。11月には飛曹長に昇進、1943年3月から4月までラバウルに派遣され、激烈なソロモン航空戦に活躍した。5月には内地に異動、横空に配属された。1944年6月には横須賀から移動することのなかった横空が八幡空襲部隊としてついに硫黄島に進出、米機動部隊攻撃をかけたが山本少尉は硫黄島での艦砲射撃で負傷してしまった。この海軍の殿堂と呼ばれた横空の練度の高い隊員で結成された八幡空襲部隊には山本飛曹長を始め、坂井三郎飛曹長、武藤金義飛曹長、志賀正美上飛曹、宮崎勇上飛曹等、そうそうたるベテラン搭乗員が参加していた。

 内地にて負傷が回復した山本少尉は11月24日、B-29迎撃に出撃、千葉県八街上空で被弾脱出したが解傘せずに墜落戦死した。総撃墜数は15機といわれている。

 

山本旭中尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 山本中尉は操練24期、日中戦争勃発以前に搭乗員として十分な訓練を受け、日中戦争で実戦経験を積んだクラスであった。同期の多くが事故死しているのは当時の航空機の信頼性の問題なのかもしれない。太平洋戦争開戦後は母艦戦闘機隊員として特に練度が高いことで有名であった1航戦に配属され、陸上基地勤務では海軍航空の殿堂と言われた横空に在籍していた。海軍航空の表街道を歩いた山本中尉であったが、戦争末期に落下傘が解傘せずに墜落ししてしまう。搭乗員という職業は危険と背中合わせであった。

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52010224.html

 

 


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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

古賀清澄少尉の略歴

 

 1910年6月30日福岡県に生まれる。1927年佐世保海兵団に入団。信号兵を経て1930年5月操練16期に採用、翌年5月に卒業した。大村空を経て横空に配属、1934年度、1936年度に航空優秀章を授与された。1937年7月の日中戦争勃発により13空に配属され、8月に上海基地に進出、初空戦の9月19日から12月までの約3ヶ月半の間に戦闘機11機、重爆2機の撃墜を報告した。この武功に対して12月末支那方面艦隊司令長官より個人感状が授与、空曹長に特進した。1938年9月15日、横空で夜間飛行演習中にサーチライトに幻惑されて墜落、翌日に死亡した。

 

古賀清澄少尉

 

 古賀少尉は操練16期で同期は7名で1名が他機種に転科している。訓練は1930年5月から1931年5月と1年間にわたり行われた。16期以前も以後も訓練期間は半年から長くても9ヶ月位なので異例の長い訓練期間であった。同時期に予科練制度が創設されており、後に乙1期といわれる1期生が入隊している。この時期の士官搭乗員を育成する飛行学生は20期、21期で太平洋戦争時に航空隊司令を務めた舟木忠夫大佐、八木勝利大佐等が訓練を受けている。

 同時期に訓練を受けた士官が太平洋戦争時には司令官クラスであったからも分かるように操練16期というのはかなり古いクラスで日中戦争勃発時にはすでにベテラン搭乗員であった。因みに一期下には著名な搭乗員赤松貞明中尉がいる(同年兵で誕生日も1ヶ月違い)。古賀一空曹は日中戦争が始まると同時に13空に配属、上海に進出した。この第13航空隊とは、日中戦争勃発に伴い海軍が大陸進出のために臨時に編成した部隊で戦闘機、攻撃機、爆撃機等から成る混成部隊であった。

 盧溝橋事件事件からわずか4日後の1937年7月11日に大村基地で編成、当時の最新鋭機であった九六艦戦(12機)、九六艦爆(6機)、九六艦攻(12機)で編成されていた。9月には上海進出命令が下り9月19日以降、中華民国政府の首都南京攻撃を繰り返し行った。古賀一空曹も本空戦に参加、初陣ながら2機撃墜を報告している。この空戦では日本側は古賀一空曹の戦果も含め27機撃墜、不確実撃墜6機を報告しているが、中華民国側の資料では実際に撃墜されたのは11機である。

 以降も出撃を繰り返しわずか3ヶ月間に戦闘機11機、重爆2機の13機の撃墜を報告している。この戦果により12月31日、支那方面艦隊司令長官より異例の生存者個人感状が授与され、空曹長に特別昇進した。1938年9月15日、横空に配属されていた古賀空曹長は夜間飛行演習中にサーチライトに幻惑されて墜落、重傷を負い病院に収容されたが翌16日に絶命した。

 

古賀清澄少尉の関係書籍

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、水上機のエース河村一郎、甲木清美など独自に調査している。コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。

 

まとめ

 

 古賀清澄少尉が修了した操練16期の戦死者はほとんどいない。唯一の戦死者は太平洋戦争で岡本泰蔵中尉で瑞鶴戦闘機隊員として1943年4月11日のオロ湾攻撃で戦死しているのみである。日中戦争前半で活躍した古賀少尉は撃墜数でいえば日本初の「エースパイロット」ということになるようだ。ただ、日中戦争での戦果も誤認戦果が多く、撃墜数自体も搭乗員の技量の算定基準とはいえない。しかし多撃墜者として個人感状を受けているということは古賀少尉の技量が高く評価されていたのは間違いないであろう。

 

 

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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

黒岩利雄空曹長の略歴

 

 1908年12月25日福岡県に生まれる。1926年海兵団に入団。1928年12月操練13期を卒業。1932年1月第1次上海事変の際、生田大尉の2番機として日本陸海軍初の敵機撃墜を達成した。1938年春12空に配属、中国戦線で13機の撃墜を報告した。1939年除隊して予備役入。その後、大日本航空に入社して航空輸送任務に就いたが、1944年8月26日マレー半島沖で行方不明となり、戦死と認定された。

 

黒岩空曹長と日本初の敵機撃墜

 

 黒岩空曹長は操練13期。同期の戦闘機専修者は5名(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』では8名)である。本ブログで戦闘機専修者の同期の数を参考にしているのは主に『海軍戦闘機隊史』であるが、ここまで差が出るのは珍しい。『海軍戦闘機隊史』は名簿を製作する際、『日本海軍戦闘機隊』を参考にしているが、何等かの理由で3名を除いたようだ。理由は不明であるが、この時期は未だ専修機種がはっきりと分かれておらず、そこらへんに原因があるのかもしれない。

 この操練13期というクラスは1928年3月から飛行訓練を開始して12月に終了している。盧溝橋事件の9年前、太平洋戦争開戦の13年前というかなり古いクラスである。そのため多くの同期は太平洋戦争時には搭乗員としての「旬」を過ぎており、太平洋戦争で戦死したのは黒岩他1名のみである(ラバウル航空戦で戦死)。

 黒岩空曹長は操練13期を1928年12月に卒業、1932年1月に第一次上海事変が勃発した時には空母加賀戦闘機隊員として上海事変に出撃、2月22日には生田乃木次大尉の2番機として戦闘に参加(三番機も同期の武雄一夫一空兵)、三機の連携により、3番機が後上方から攻撃、2番機の黒岩一空兵は後下方から攻撃した。これらは有効弾とはならなかったが、これらの機動により動きを封じられた敵機は生田大尉の攻撃により撃墜された。これが日本陸海軍で初めての「敵機撃墜」であった。搭乗員は米国人の義勇飛行家ロバート・ショートで、彼が6機の日本機の中に単機で突入したのは避難民を満載した列車を日本軍の攻撃から守るためであったとも言われている。

 それはともかく日本初の敵機撃墜に協力した黒岩一空兵は、1938年春には12空に配属、わずか3ヶ月で13機の撃墜を報告した。これは日中戦争での日本海軍の撃墜数第2位であった(一位は岩本徹三三空曹の14機)。1939年、31歳の時に空曹長で除隊、予備役に入った後に大日本航空に入社した。この大日本航空とは1938年に設立された国営航空会社で1945年の終戦まで日本の航空業務を独占していた。

 黒岩操縦士は大日本航空でも航空輸送業務に就いていたが、1944年8月26日マレー半島方面で行方不明、戦死と認定された。総撃墜数は13機といわれており、そのすべてが日中戦争での戦果である。

 

黒岩利雄空曹長の関係書籍

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 操練9期の超ベテラン青木與氏、日本初の敵機撃墜の本人である生田乃木次氏へのインタビュー等の貴重な生の声を収録している。他にも鈴木實中佐、進藤三郎中佐、羽切松雄中尉、原田要中尉、角田和男少尉、岩井勉中尉、小町定飛曹長、大原亮治飛曹長等の海軍戦闘機搭乗員へのインタby-がある。本書でインタビューに答えている方々は現在では全て他界されているため証言は非常に貴重である。

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 黒岩空曹長は豪放磊落な人柄だったようで、日中戦争当時、若手士官として赴任してきた志賀少佐に「童貞ですか」等と訊いて性教育までしてくれたようである。同期では岩城万蔵氏(最終階級不明)が唯一実戦部隊である飛鷹戦闘機隊隊員として1944年1月に末期のラバウル航空戦で戦死している。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

羽切松雄中尉の略歴

 

 1913年11月10日静岡県に生まれる。1932年横須賀海兵団に入団。1935年2月操練28期に採用された。8月に操練を卒業、館山空で戦闘機の延長教育を受けたのち、11月大湊空に配属、1937年10月には空母蒼龍に配属された。1938年5月には蒼龍飛行機体は中国大陸に進出、羽切三空曹は初めて実戦を経験する。1939年12月横空に異動、十二試艦戦の試験に参加。1940年8月には12空付となり、零戦隊初出撃に参加した。1941年7月筑波空教員として内地に帰還。1942年8月横空に再配属されるが、1943年7月には204空に配属、ソロモン方面に進出したが、9月24日のブイン上空の空戦で重傷を負い本土に帰還、横空に配属され、終戦まで試験と防空任務に活躍した。

 

新型機の実用試験と実戦に活躍した横空の主

 

 羽切松雄中尉は操練28期出身で同期の戦闘機専修者は14名であった。しかし戦闘機不要論の影響を受けて3名が陸攻に転科させられてしまったため11名が戦闘機に進んだ。太平洋戦争終戦を迎えれれたのは4名で、3名が事故死、3名がラバウル、不明が1名である。

 操練を卒業した羽切中尉は館山で戦闘機搭乗員としての延長教育を受けたのち、大湊空に配属された。この大湊空は耐雪、耐寒訓練を行う海軍唯一の航空隊で羽切中尉は各種試験に参加することとなった。1937年10月には空母蒼龍に配属、名指揮官で有名な横山保大尉の2番機となった。

 1938年5月には蒼龍戦闘機隊は南京に進出、羽切中尉は初めて実戦を経験する。約1年半の戦地勤務ののち1939年12月には内地に帰還、横空付となる。ここで羽切中尉は十二試艦戦の性能試験を担当することになる。この十二試艦戦とはのちの零戦である。1940年8月には12空に異動、再び戦地勤務となる。

 零戦と共に進出した羽切中尉は零戦と共に漢口に進出、8月19日の零戦初出撃に参加した。この羽切中尉の経歴の中で強烈なのが「敵飛行場強行着陸」である。これは10月4日に東山市郎空曹長、中瀬正幸一空曹、大石英男二空曹が行ったもので敵飛行場に強行着陸、直接放火しようというもので効果はほとんどなかったが、この敵中着陸は新聞で大きく報道されることとなった。

 その後も多くの空戦に参加した羽切中尉であったが、1941年7月、筑波空教員として内地に帰還した。1942年7月には飛曹長に昇進、准士官学生として准士官の基礎を学んだ後、8月には再び横空に配属された。ここで再び零戦や雷電等の各種実用実験に参加したが、零戦の荷重実験の際、8.6Gの重圧に耐えたのは脅威である。

 その羽切中尉1943年7月、204空付きを命じられラバウルに進出する。ここで羽切中尉は初めて太平洋戦争での実戦を経験する。この204空で2ヶ月間、中隊長として連日のように出撃、空戦に活躍したが、9月23日ブイン上空の空戦で右肩を被弾、重傷を負い内地に送還された。再起は不可能といわれたが、羽切中尉は驚異的な精神力でリハビリを実施、なんと半年で実戦部隊に復帰した。その後は横空で実用実験と防空任務にあたっていたが、1945年4月12日、B-29迎撃で右膝を負傷、療養中に終戦を迎えた。

 戦後は故郷の青年団長となり犯罪集団と化した青年団をまとめ上げた。これは戦場で死線を超えた羽切中尉にのみ出来た仕事であったといえる。それがきっかけとなり市議に当選、市議を4期務めた。1967年には自民党より立候補、静岡県議員となった。1983年には選挙で落選、以降は政治家を引退、1991年までトラック協会会長を務めた。前立腺がんにより1997年1月15日他界。総撃墜数は単独15機、協同撃墜10機といわれている。

 

羽切松雄中尉の関係書籍

 

大空の決戦―零戦搭乗員空戦録 (文春文庫)

羽切松雄 著
文藝春秋 (2000/12/1)

 零戦の実用実験から携わったベテラン搭乗員の羽切氏。零戦の初出撃にも参加、太平洋戦争では激戦地ラバウルで准士官でありながら中隊長として列機を率いて活躍した。本土防空戦でもB-29相手に激闘。敵飛行場強行着陸や8.6Gの重力に耐えた強心臓の持ち主。1997年に他界。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 海軍の戦闘機搭乗員へのインタビュー集。インタビュアーは神立尚紀氏。神立氏独自の人間関係から出来たといえる本でそれぞれの搭乗員の魅力をよく引き出している。登場する搭乗員は日本で初めて敵機撃墜を記録した生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男の各氏。

 

まとめ

 

 操練28期の戦闘機専修者11名の内、太平洋戦争開戦前に戦死した隊員は3名、1名は不明であるが、開戦後に戦死した隊員の内3名がソロモン方面での戦死であった。羽切中尉もソロモン方面で重傷を負っており、操練28期は太平洋戦争での戦死者がソロモン方面の3名のみであることからもソロモン方面の戦闘がどれほど過酷であったのかが分かるであろう。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

大森茂高少尉の略歴

 

 1916年1月15日山梨県に生まれる。1933年5月海軍に入団。1936年9月操練33期卒業。1938年2月13空に配属。日中戦争に参加する。3月12空に異動。12月赤城乗組ののち、筑波空、大湊空を経て、鳳翔乗組で太平洋戦争開戦を迎える。1942年5月赤城乗組。6月ミッドウェー海戦に参加。その後翔鶴乗組。南太平洋海戦には母艦上空直掩の任務に就いたが、米艦爆が翔鶴へ投弾するのを防ぐために体当たりして戦死した。戦死後全軍布告、二階級特進で特務少尉となった。

 

母艦戦闘機隊一筋に生きた男

 

 大森茂高少尉は操練33期出身で戦闘機専修の同期はわずか6名である。この時期は少数精鋭教育の時代ではあったが、6名の内、2名が転科しているので、当時流行していた戦闘機不要論の影響があったのかもしれない。この戦闘機不要論とは海軍の場合、九六陸攻が当時の主力戦闘機九〇式艦戦を上回る高速を発揮したため、陸攻だけで十分であり戦闘機は不要であると短絡的に考えた海軍の一部高級士官が唱えた論である。

 無論、九〇式艦戦と九六陸攻は世代が全く違うため新鋭機の性能が圧倒しているのは当たり前であった。当時の航空機は3年で旧式となるほどの発達期であり、6年の差は大きかった。その後、九六陸攻の速度を上回る九六艦戦の完成や実戦で戦闘機の援護の無い攻撃機に大損害が出たためこの論は消え去ったが、一時的にしろ戦闘機搭乗員を削減したことは後々大きく影響することとなる。

 操練33期は1936年2月から訓練を開始、同年9月に終了している。この前後のクラスは日中戦争開始前に十分な訓練を受け、その後日中戦争で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時には中堅搭乗員として活躍したクラスで著名な搭乗員である武藤金義少尉(32期)、岩本徹三中尉(34期)、原田要中尉(35期)坂井三郎中尉(38期)等、太平洋戦争全般において中核となったクラスであった。それだけに戦闘機不要論の影響は大きかったといえる。

 訓練課程を修了した大森少尉は1938年2月に中国大陸に展開する13空に配属、同月には初めての実戦を経験する。翌月には12空に異動、引き続き中国大陸で活躍した。12月には空母赤城乗組を経て筑波空、大湊空と陸上基地勤務を経て空母鳳翔戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた。この鳳翔は太平洋戦争開戦時には二線級の空母であったが、旧式であるために飛行甲板が狭く、離着艦に高い技量が必要とさえる。それ故、大森少尉のような熟練者が任命されたのかもしれない。

 1942年5月、空母赤城に異動となる。翌月にはミッドウェー海戦に参加、大森少尉はミッドウェー島攻撃隊の直掩として出撃、帰還後は直掩機として防空任務に就いた。防空任務では6機撃墜を報告したものの母艦は被弾し炎上、唯一健在であった空母飛龍に着艦して引き続き防空任務に努めたが飛龍も撃沈されたため海上に不時着、救助された。

 内地に帰還後、翔鶴戦闘機隊に配属される。1938年末以来、一時期の陸上基地勤務を除けば母艦一筋である。8月、瑞鶴、瑞鳳と共に第一航空戦隊を編成した翔鶴はソロモン海に向け出撃、同月24日には第二次ソロモン海戦に参加する。さらに10月26日には南太平洋海戦に参加、大森少尉(当時一飛曹)も参加、母艦上空直掩任務に就いた。母艦上空での空戦では5機の撃墜を報告したが、米艦爆の内1機が投弾体勢に入っていたが、大森少尉は攻撃が不可能と判断すると米艦爆に体当たりして戦死した。

 この海戦において翔鶴は大破したものの撃沈は免れた。この大森少尉の行為に対して海軍は全軍に布告、二階級特進として特務少尉に任じた(戦死時は一飛曹)。この二階級特進であるが、戦死してしまって階級が上がることに意味がないのではないかと思われるかもしれないが、これは多少異なる。

 もちろん本人は戦死してしまっているので全く意味がないのであるが、大森少尉の遺族は「少尉」の軍人恩給をもらうことが出来る。全軍布告は単なる名誉であるが、二階級特進は遺族に対する恩給の金額が上がるため戦死者の遺族にとっては生活の助けになるという側面もある。総撃墜数は13機といわれている。

 

大森茂高少尉の関係書籍

 

まとめ

 

 操練33期は6名であったが、2名が他機種に転科、のちに1名が戦闘機に転科しているため5名であった。この内、太平洋戦争終戦を迎えられたのは1名のみで、1名は日中戦争で、3名が太平洋戦争で戦死している。この内1名は1945年8月9日で終戦のわずか6日前であった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

近藤政市少尉の略歴

 

 1917年11月5日愛媛県に生まれる。1935年7月27期操練を卒業。大村空を経て1936年11月空母龍驤乗組で日中戦争が勃発した。1938年加賀乗組。6月には15空に異動、11月内地に帰還した。1939年10月には12空に配属され再び中国大陸に出動した。1942年7月には瑞鳳乗組、南太平洋海戦に参加した。11月隼鷹に移動、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等に参加。1943年5月には一時的に内地へ帰還したが、7月2日にはブイン基地進出。ベララベラ攻撃にて負傷を負ったため内地に送還された。1年3ヶ月に及ぶ入院生活を終えて203空戦闘303飛行隊に配属されたが、実戦に出ないまま終戦を迎えた。

 

母艦戦闘機隊を渡り歩いた男

 

 近藤政市は操練27期出身で同期は12名、訓練は1935年1月から同年7月まで行われた。当時は日中戦争も始まっておらず、海軍の搭乗員養成は少数精鋭の教育であった。3名が事故死しており、1名が日中戦争で戦死、4名が太平洋戦争で戦死、内3名がソロモン方面での戦死で、終戦を迎えることが出来たのは4名のみであった。25%が事故で亡くなっていることからも分かるように、この時代の航空機はまだまだ危険な乗り物であった。

 わずか17歳で操練を修了した近藤一空兵は大村空を出た後、1936年11月空母龍驤乗組みとなる。母艦航空隊に配属されたことからも操縦に適性があったのだろう。この龍驤乗組時に日中戦争の勃発が勃発する。のちに3空零戦隊を率いてポートダーウィン進攻に活躍する鈴木實中尉の2番機として1937年8月には早くも撃墜2機を報告。さらに1938年には空母加賀に異動、蝶野二郎一空曹の3番機を務めた。その後、15空に異動したのち同年11月に内地に帰還した。

 内地では恐らく教員配置に就いていたものと思われるが、1939年10月、12空付として再び中国大陸に進出した。1942年7月には再び母艦戦闘機隊搭乗員として瑞鳳戦闘機隊に配属、日高盛康大尉の指揮の下、河原政秋飛曹長(操練26期)の2番機として10月26日には南太平洋海戦に参加している。この海戦で瑞鳳戦闘機隊は味方攻撃隊を護衛中にエンタープライズの攻撃隊とすれ違ったため、日高大尉率いる戦闘機隊が攻撃隊の護衛を放棄してエンタープライズ攻撃隊に対して攻撃を開始した。

 この攻撃が正否が後々問題となるのだが、近藤一飛曹もこの空戦に参加している。翌月には空母隼鷹乗組となり、第3次ソロモン海戦、「い」号作戦等、母艦搭乗員としてソロモン航空戦に参加している。1943年5月には一時的に内地に帰還するも同年7月には最前線基地のブインに進出、べララベラ攻撃において空戦中に左足に重傷を負い、そのまま本土に送還された。

 この療養は1年3ヶ月に及び、太平洋戦争後期には203空戦闘303飛行隊に復帰したものの、実戦に出ることなく終戦を迎えた。総撃墜数は13機といわれているが実数は不明、2007年5月12日に89歳で他界した。

 

近藤政市少尉の関係書籍

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 ゼロファイター列伝を文庫化したもので著者独自の人脈によって、それまで口を閉ざしていた戦闘機搭乗員達のインタビューを収録。登場する搭乗員は、三上一禧、田中國義、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、吉田勝義、山田良市(敬称略)である。特に日高盛康氏、志賀淑雄氏、三上一禧氏は沈黙を貫いていた方々であり、インタビューは非常に貴重である。日高盛康氏は近藤政市少尉が瑞鳳戦闘機隊時代の隊長である。

 

まとめ

 

 操練は海軍在隊者から搭乗員を選抜する課程でのちに予科練に統合されるが、在隊者から選抜されるために同期であっても経歴や階級には違いがあった。近藤少尉は17歳というほぼ最短で操練に合格したため操練20期台ではあるが、年齢的には操練34期の岩本徹三中尉、35期の原田要中尉、38期の坂井三郎中尉よりも若いし階級も下であった。しかし戦闘機搭乗員としての実戦を経験したのは早い。操練は年齢や階級と経験が一致しない場合がままある。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

松村百人少尉の略歴

 

 1915年9月21日山口県に生まれる。1934年海軍に入隊。整備兵を経て航空兵となる。1935年11月29期操練卒業。日中戦争勃発と共に12空隊員として上海に進出。12月13空付。1938年3月12空付。1939年1月赤城乗組、ついで岩国空、大分空の教員を経て1942年7月6空に配属された。8月にラバウルに進出、1943年4月飛曹長進級、内地に帰還、岩国空、鈴鹿空、神ノ池空で教員配置。1944年8月、601空戦闘161飛行隊に異動。10月24、25日にはエンガノ沖海戦に参加、母艦が撃沈されたため不時着、駆逐艦初月に救助されるも初月が撃沈されてしまったため行方不明、戦死と認定された。

 

2度の母艦戦闘機隊勤務

 

 松村百人少尉は操練29期出身で太平洋戦争時にはベテラン中のベテランであった。操練は大雑把に書くと、太平洋戦争開戦時には30期が中堅、40期以降は若手と考えると分かりやすい。10期、20期台は超ベテランクラスで30期台の搭乗員の教員クラスである。松村少尉は20期の最後のクラスで太平洋戦争開戦時には中堅クラスと考えて良い。

 操練29期は11名で1935年5月から訓練が始まり、同年11月に修了している。日中戦争勃発時には技量、経験共に完全な状態であったといえる。一般には日中戦争の空戦は日本軍の一方的勝利と思われがちであるが、中華民国空軍の搭乗員の技量も決して低い訳ではなかった。現に操練29期は日中戦争において約半数の5名が戦死している。

 松村上飛曹は日中戦争勃発時から参加、日中戦争で不確実含め10機の撃墜を報告している。日中戦争の撃墜数のトップが岩本徹三上飛曹の14機なので撃墜数でいえばかなり上位であるが、撃墜数自体、誤認が非常に多いためあまり当てにはならない。ともかく手練れの搭乗員であったことは間違いないであろう。松村上飛曹は中国大陸に展開する12空、13空と渡り歩き、1939年1月には空母赤城戦闘機隊に配属された。

 太平洋戦争開戦は内地での教員勤務で迎えるが、1942年7月には6空に配属された。6空はミッドウェー島進出予定の航空隊であったが、ミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため内地での再編成の後、8月にはラバウルに進出した。以降、6空は後に204空と改称されてからもラバウル航空戦の中核となって戦い続けた部隊で1944年初頭までラバウルに展開、空戦に活躍した部隊である。

 松村上飛曹は米軍がガダルカナル島に上陸した8月にラバウルに進出して以降、ガダルカナル島進攻やブイン基地での迎撃戦等に活躍する。1943年4月には飛曹長昇進、内地での教員配置を命じられた。「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで7ヶ月以上戦い生き残ったというのは奇跡的である。内地に帰還した松村上飛曹は岩国空、鈴鹿空、神ノ池空と1年以上教員配置についていたが、1944年8月再び実戦部隊に配属された。配属された部隊は601空戦闘161飛行隊で隊長は海兵67期のベテラン士官小林保平大尉であった。601空には他にも後輩にあたる岩井勉中尉や中仮屋国盛少尉等のベテランも在籍していた。

 因みに母艦航空隊は一回母艦に乗った後、陸上航空隊に勤務した後に母艦に戻るという「出戻り」は基本的にほとんどないため非常に珍しい事例である。この時点での601空はマリアナ沖海戦で部隊がほぼ壊滅、再建中であったが、10月には捷号作戦の発動により出撃、24、25日のエンガノ岬沖海戦では、松村飛曹長は母艦の上空直掩に活躍するが、母艦瑞鶴が撃沈されてしまったため海面に不時着、駆逐艦初月に救助された。

 しかしこの初月も米艦隊に包囲され撃沈、同様に救助された小林保平大尉と共に行方不明、戦死と認定された。総撃墜数は13機といわれており、その内約半数は日中戦争での戦果である。歴戦の搭乗員であった松村飛曹長は航空戦ではなく救助された駆逐艦の撃沈で戦死するというその最期は、日本海軍のトップエースといわれた西澤廣義飛曹長の最期と被らなくもない。

 

まとめ

 

 操練29期は11名、日中戦争で5名が戦死、太平洋戦争でさらに4名が戦死した。終戦を迎えられたのは2名のみで日中戦争、太平洋戦争での搭乗員の犠牲がどれだけ激しかったのかが分かる。特徴的なのは半数が日中戦争で戦死していることである。日中戦争も決して楽な戦いではなかったのである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

 

 1919年10月5日香川県に生まれる。1936年佐世保海兵団入団。磐手、千歳、長良乗組の後、1939年10月航海学校に入校。1940年5月砲艦熱海乗組。ののち1940年11月予科練丙2期に採用、土浦空での訓練課程を経て百里原空で飛練12期訓練を受ける。1941年11月、修了と同時に横空配属。1942年10月252空に配属。11月9日ラバウルに進出した。1943年2月252空の移動と共に内南洋方面に移動。11月末から1944年1月末までマロエラップ島で迎撃戦に従事した。2月には内地へ帰還。4月には空地分離で戦闘302飛行隊所属となる。6月には八幡空襲部隊第2陣として硫黄島進出。10月には比島に進出した。11月飛曹長進級。1945年1月343空戦闘301飛行隊に配属、本土防空戦に活躍しつつ終戦を迎えた。

 

宮崎勇少尉の激闘

 

 宮崎勇少尉は広島県呉出身で父親は呉海軍工廠に勤めていた。のちに片翼帰還で有名になる樫村寛一少尉と同じ、広島県丸山中学を中退、1936年6月1日佐世保海兵団に入団した。11月に基礎教程が終わり練習艦磐手に配属、乗員として遠洋航海にも参加している。その後も水上機母艦千歳、軽巡長良と艦隊勤務を経て1939年10月海軍航海学校に入校したのち、1940年砲艦熱海乗組となる。

 1940年、砲艦熱海艦内で丙種予科練2期生の採用試験を受験した。この時、試験中に問題が分からないで悩んでいると部屋に先任将校と通信長が入ってきて、「解答」を雑談し始めたという。結果、満点で合格。宮崎一水が上官から可愛がられていたのが分かる。1940年11月、宮崎三曹は適性検査にも合格、予科練丙飛2期に採用された。

 その後、飛練12期生として百里原空で訓練を受け、さらに艦爆専修として宇佐空で訓練を受けた後、戦闘機に転じ横空へ異動した。そこでは同じ中学の先輩、「片翼帰還の樫村」から1年にも及ぶ猛烈な指導を受けることとなる。この樫村飛曹長の列機として訓練を受けていた1942年4月18日、ドーリットル隊の本土爆撃を迎撃に参加している。

 この時、米空母の接近の報を受けて離陸したものの米機がまさか双発爆撃機だとは思わず、陸軍の双発戦闘機が飛行しているとの情報もあり、B-25爆撃機を取り逃がしている。このことは後年になっても悔しがっていたというが、これは樫村飛曹長や宮崎三飛曹の失態というよりも日本の防空体制の脆弱性の問題であろう。

 

252空に異動、最前線のラバウルへ

 1942年10月、宮崎二飛曹に木更津で編成中の252空へ異動、11月9日ラバウルに進出した。到着3日後の11月12日に初出撃、以降連日の航空戦に参加、12月14日、1943年1月17日には被弾不時着、鱶や鰐のいる海を泳ぎ生還している。1943年2月には252空は中部太平洋に移動、宮崎上飛曹もウェーク島に進出した(のちマロエラップ)。10月6日にはウェーク島に米機動部隊が来襲、増援としてマロエラップを出撃、初めてF6Fと空戦を行った。

 この空戦で宮崎上飛曹以下3名は自機の位置を喪失、太平洋上空に孤立してしまった。その後、敵機動部隊を発見、機動部隊上空を「味方機のように」旋回、敵攻撃隊が帰っていた方向に飛行してウェーク島に着陸するという奇跡的な生還を果たしている。11月24日、25日にはマキンに上陸した米軍を爆撃するために一部を爆装化した零戦隊で出撃、大損害を受けた。

 これら一連の戦闘で252空は壊滅、残存搭乗員は1944年2月5日、マロエラップを脱出、トラック島からサイパンへ行き、そこから二式大艇で内地に帰還した。内地に帰還した宮崎上飛曹始め252空残存隊員達は部隊の再建を開始する。4月には空地分離のため252空残存搭乗員は戦闘302飛行隊に所属することとなる。米軍のマリアナ進攻によりあ号作戦が発動されると252空も横空を中心に編成された八幡空襲部隊に参加、第二陣として6月25日に硫黄島に進出した。この米機動部隊相手の空戦で252空はまたもや壊滅、再度内地で再編を行うこととなった。この空戦の後、宮崎上飛曹は海面に浮かぶ無数の墜落跡を見て恐怖を覚えたという。

 

比島進出から343空、そして終戦

 1944年10月、252空は比島に進出、252空にもいよいよ特攻隊への「志願」が行われた。特攻への覚悟を決めていた宮崎上飛曹であったが、突如、岩本徹三少尉、斎藤三郎少尉とともに内地への飛行機受領命令が出た。恐らくこれは貴重な熟練搭乗員を救出するための命令であったのであろう。内地に戻った宮崎上飛曹は11月に飛曹長に昇進、1945年1月、新たに編成中の343空戦闘301飛行隊に配属された。

 この343空は最新鋭機紫電改を装備、松山上空で大戦果を挙げるが、この頃から宮崎飛曹長は航空神経症に悩まされる。その後は大きな空戦に参加することもなく長崎県大村で終戦を迎えた。終戦後は郵便自動車の運転手、雇われ社長を経て酒店の経営を行っていたが、戦後も航空神経症の後遺症と原爆からの被爆の影響で大病に悩まされることとなった。総撃墜機数は13機といわれている。

 

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。全体的には、宮崎勇少尉の記録としては『帰って来た紫電改』よりも本書の方が詳しい。

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。

 

まとめ

 

 丙飛2期の戦闘機専修者は37名、その他艦爆、艦攻からの転科者を含めると65名の戦闘機搭乗員がいた。内、終戦を迎えることができたのはわずか12名である。その半数近くはソロモン・ラバウルの航空戦に散っていった。この中で生き残った宮崎少尉であったが、航空神経症の後遺症や戦中に受けた原爆の放射能の被爆により白血球異常、1966年には失明、回復したものの1976年には航空神経症の後遺症と思われる硬膜下血腫に倒れた。一命はとりとめたものの、晩年まで戦争の恐怖に苛まれていた。

 

 

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 川戸正治郎上飛曹は1926年生まれ。太平洋戦争中盤から実戦に参加した戦中派パイロットである。配属された時点では飛行時間は300時間程度であったが、持ち前の敢闘精神を発揮して最終的には19機もの敵機を撃墜した名パイロットである。

 

川戸正治郎上飛曹の経歴

 

略歴

 1926年京都府生まれ。1942年5月舞鶴海兵団入団。丙12期予科練に採用される。1943年7月28期飛練修了。10月10日ラバウルに展開する253空に着任した。1944年2月20日にはラバウルに展開する戦闘機隊はトラック島に撤退するが、川戸上飛兵はラバウルに残留。「ラバウル製零戦」で戦闘を続ける。1944年7月、253空解隊により105空付。1945年3月9日、連合国軍駆逐艦の対空砲火によって被撃墜。ジャングルで生活中に捕虜となり、1945年12月帰還した。

 

わずか18歳でラバウル航空戦の洗礼を受ける

 川戸一飛兵がラバウルに着任した時は飛行時間300時間のわずか18歳の若者であった。普通、当時の戦闘機搭乗員は1000時間前後の飛行時間で一人前と言われていたようなので300時間というのは余りにも少ない。そして派遣された先は最大の激戦地ラバウルであった。

 しかし川戸一飛兵は相当負けず嫌いだったようで、果敢な戦闘により戦果を挙げていく。正に戦闘機向きの性格であったようで体当たり攻撃も数回に及んだ。味方艦艇に救助された際、「大丈夫か?」との問いに対して「慣れてますから」とあくまでも負けず嫌いの性格であった。

 

本隊撤退後もラバウル残留

 1944年2月20日には岩本徹三、小町定等の歴戦の搭乗員達はトラック島に後退するが、川戸上飛兵はラバウルに残留した。これは負傷していたのが原因かもしれない。残留者には予科練7期のベテラン福本繁夫飛曹長もいる。  ラバウルに残留した川戸上飛兵はゲリラ的な戦闘を継続するが、1945年3月9日、敵駆逐艦を発見、攻撃中に対空砲火により被弾し撃墜され、しばらくジャングルで生活していたが豪州軍の捕虜となり戦後内地に帰還した。

 

2月6日の体当たり

 上記の体当たりの内、1944年2月6日のB-24への体当たりに関しては、岩本徹三の記録に「何中隊の何番機か、味方の一機は、あまり急角度で攻撃をかけたので、そのまま敵機の主翼にぶつかり、瞬時に空中分解してジャングルの中に散っていった。」(岩本徹三『零戦撃墜王』)との記載があり、日付が異なっているが梅本氏はこの「味方の一機」を川戸機と推測している(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。それはそれとして、今回は何と、川戸上飛曹のインタビューがyoutubeに上がっている。

 

 

戦後の川戸氏

 川戸氏は戦後、航空自衛隊で再びパイロットとなるが、1976年小型セスナで太平洋を横断、35時間かけてアメリカに到着する。その後アメリカに定住したようだ。2001年11月17日大腸がんにより死去。享年76歳であった。

 

川戸問題

 概略は上記の通りである。川戸上飛曹はいわゆる「川戸問題」で戦史ファンには有名だ。この「川戸問題」とは何かというと、アメリカ海兵隊の撃墜28機のエース、ボイントンを撃墜したのは川戸上飛曹か否かということで日米双方の関係者、研究者の間で大騒ぎとなった論争であった。  細かいことは秦郁彦『第二次大戦航空史話』〈下〉に詳しいがここでは触れない。

 この川戸上飛曹、秦氏の本によるとアメリカではかなりネガティブな印象を持たれているようだ。これらの原因の一つは、どうも予科練の後輩の一人がネガティブな情報を広めたもののようだ。秦氏の本にある元零戦搭乗員が川戸上飛曹の悪口(?)を言っていたというのもその後輩の一人の仕業だという。この川戸上飛曹、誤解を受けやすい性格であるが、元ベテランパイロット曰く、腕は良く、男の中の男だそうだ。

 余談になるが、この川戸上飛曹が撃墜したとされるボイントンも『海兵隊コルセア空戦記』という自伝を上梓している。零戦隊と戦った側の記録として価値がある。ボイントン大佐は撃墜され日本軍の捕虜となるが、その時の日本人を「戦場から遠くなるほど攻撃的」というように観察している。

 

川戸正治郎上飛曹関係書籍

 

川戸正治郎 体当たり空戦記―ラバウルの空に18歳の青春を賭けた痛快空戦記

 川戸正治郎氏の自著。今では若干入手困難となっているが、海軍入隊から戦時中のことが詳しく書いてある貴重な本。

 

太平洋戦争ドキュメンタリー〈第3巻〉炎の翼 (1968年)

関根精次ほか 著
今日の話題社 (1968)

 戦後しばらくして出された川戸氏の手記『零戦ラバウルに在り』

 

伝承 零戦空戦記〈2〉ソロモンから天王山の闘いまで (光人社NF文庫)

 本書中に川戸氏の手記「私が経験した”真昼の決闘”」が収録されている。その他の手記も零戦のパイロット達の記録なのでおすすめ。

 

まとめ

 

 川戸正治郎上飛曹は太平洋戦争のさなか、満足な訓練も受けずにラバウルに派遣された。しかし持前の敢闘精神で戦果を重ね、最終的には19機を撃墜した。その19機の中には米海兵隊の撃墜王ボイントンも含まれていると言われているが真相は誰にも分からない。しかし戦後も安定した公務員の地位に満足せずセスナで太平洋を横断したあくまでもアクティブな男であった。

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

柴垣博飛長の略歴

 

 1924年12月9日新潟県に生まれる。1942年5月海兵団に入団。8月丙飛12期生として岩国空に入り、飛練28期を経て1943年7月卒業、同年秋201空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月204空に異動、1月22日に戦死する。

 

十分な訓練を受けられずに戦線に投入される搭乗員

 

 柴垣博飛長は、丙飛12期で同期には川戸正治郎上飛曹、市岡又男上飛曹等がいる。太平洋戦争開戦後に採用されたクラスで本当の「戦中派搭乗員」といえる。搭乗員育成はすでに大量育成となっており、戦前のように一人の教員が少数の訓練生を教える方式ではなくなっている。このため十分な訓練を受けられずに戦地に送られることとなり、多くの戦死者を出すこととなる。

 丙飛12期が訓練を修了した1943年秋の航空戦の主戦場はラバウルであったが、すでに日本軍は迎撃戦が主体となっており、勝敗ははっきりしていた。海軍の搭乗員から「搭乗員の墓場」といわれたソロモン・ラバウル航空戦の中でも特に激しい空戦が行われたのがこの時期のラバウル航空戦であった。柴垣飛長を含む丙飛12期の新人搭乗員はこの後期のラバウル航空戦に十分な訓練を受けることなく投入されたのであった。

 このような状況の中でも丙飛12期の若年搭乗員達は奮闘、市岡又男上飛曹や川戸正治郎上飛曹等は二桁に及ぶ撃墜戦果を報告するものもあった。むろん撃墜戦果はほとんどが誤認であり、実際の数は不明であるが、周りを納得させるだけの技量は身に付けていたのであろう。柴垣飛長も11月7日の空戦で初戦果を報告、1944年1月22日の空戦で戦死してしまうが、それまでに13機の撃墜を報告している。

 

柴垣博飛長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

まとめ

 

 後期のラバウル航空戦は特に凄惨であった。休暇は十分に与えられず搭乗員が一人また一人と戦死していく地獄の戦場であった。丙飛12期の隊員達はこのような中でも技量を磨いていった。しかし戦死した者も多く、海軍航空隊の主要部隊がラバウルを後退するまでの数ヶ月間に20名以上の隊員が戦死している。さらに丙飛12期の隊員達の試練は続き、むしろ主戦場がラバウルから中部太平洋に移ったのちに丙飛12期の隊員のほとんどは戦死していく。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

遠藤桝秋一飛曹の略歴

 

 1920年12月20日福島県に生まれる。1938年6月乙種予科練9期として採用、1940年11月に予科練修了、同月艦爆搭乗員として飛練10期に入隊する。1941年11月飛練10期を卒業と同時に1942年2月まで佐世保空出水派遣隊で戦闘機転換教育を受けた後、2月に台南空に配属された。4月にはラバウル、そしてラエに進出して連日の航空戦に活躍。11月には台南空は再編成のため内地に帰還、1943年5月に251空と改称した台南空隊員として再度ラバウルに進出したが、6月7日の空戦で敵機に体当たりして戦死した。

 

台南空のベテラン遠藤一飛曹

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙種予科練9期の出身で同期の戦闘機専修者は23名、さらに艦爆専修者10名と陸攻専修者9名が戦闘機に転科したため戦闘機専修者は最終的には42名であった。太平洋戦争の初期から活躍したクラスで羽藤一志二飛曹、大石芳男中尉、上原定夫飛曹長等著名な搭乗員が多いものの戦死も多かった。開戦一年目の1942年末までには同期の内ほぼ半数にあたる19名が戦死している。1943年には7名、1944年にも7名が戦死、1945年には3名が戦死している。無事に終戦を迎えたのは6名のみであった。

 1941年10月、遠藤一飛曹は艦爆専修者として宇佐空で飛練10期を修了後、翌月より佐世保空出水派遣隊にて戦闘機への機種転換訓練を受ける。1942年2月、訓練終了と同時に当時にバリ島に進出した台南空に合流した。4月1日、台南空は25航空戦隊に編入されラバウル進出を命じられた。4月16日、遠藤一飛曹も台南空隊員としてラバウルに進出、連日の航空戦に活躍した。

 1942年11月になると笹井醇一少佐、坂井三郎一飛曹等、名だたる搭乗員を失った台南空は戦力を再編成するために内地に帰還することとなり、生き残っていた遠藤一飛曹も台南空の貴重な実戦経験者として愛知県豊橋で部隊の再編制にあたった。

 1943年5月、再編成が完了した251空(1942年11月1日に改称)は、5月7日にラバウルに到着、10日には遠藤一飛曹を含む飛行隊も零戦で島伝いに飛行してラバウルに到着した。再びラバウル航空戦に活躍した遠藤一飛曹だったが、1943年6月7日の空戦で第44戦闘飛行隊のヘンリー・マトスン中尉の操縦するP-40と反航で撃ち合った後、衝突して戦死した。

 総撃墜数は14機といわれている。連合軍の損害から算出した遠藤一飛曹のニューギニア航空戦期の戦果が3.1機であり、最後に衝突した1機を含めると4.1機の撃墜ということになる。但し、この3.1機は編隊空戦の結果挙げた戦果を空戦参加者全員で分けた数値の合計なのでより多く撃墜している可能性も全く撃墜していない可能性もある。撃墜数などはただの数字であることを理解しておいてほしい。

 

遠藤桝秋一飛曹の関係書籍

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。

 

本間猛『予科練の空』

本間猛 著
光人社 (2002/11/1)

 本間猛氏は予科練乙種9期。太平洋戦争で最も活躍したクラスだ。それだけに死亡率も異常に高い。同期は191名。その内167名は戦死、さらに生き残った24名もほとんどが戦傷を受けている。五体満足で終戦を迎えた同期はわずか3〜4名であった。

まとめ

 

 遠藤桝秋一飛曹は乙飛9期の出身で戦闘機専修者42名中終戦を迎えたのはわずか6名であった。他機種に行った同期を含めても全191名中167名が戦死、生き残った同期中戦傷を受けなかった者はわずか3〜4名であったという。遠藤桝秋一飛曹は開戦直後から台南空に所属、251空に再編成されてラバウルに再進出した時に生き残っていた貴重な台南空時代の隊員であったが、僅か1ヶ月後にはラバウルの空に散ってしまった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

高橋健一飛曹長の略歴

 

 1924年5月5日長野県に生まれる。1940年乙13期予科練入隊。1943年3月飛練26期を修了。名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属。9月末204空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月末204空がトラック島へ後退したため253空へ異動、引き続きラバウル航空戦に活躍した。2月中旬253空とともにトラックへ後退。1944年6月、潜水艦で本土へ帰還。7月には戦闘308飛行隊に配属。221空に編入され、10月には捷号作戦に参加。比島で連日の空戦に活躍した。1945年1月内地に帰還、筑波空の教員として終戦を迎えた。

 

地獄のラバウルから生還

 

 高橋健一は乙飛13期出身で同期の戦闘機専修者は49名で同期には柴山積善飛曹長がいる。終戦までに38名が戦死、11名が終戦を迎えることができた。死亡率71%である。高橋飛曹長は1940年6月に予科練に入隊、1942年4月に修了している。予科練は当初は3年間であったが、戦局の悪化から短縮され、高橋飛曹長の期では2年に短縮されていた。

 4月に予科練を修了、5月からは飛練26期に進んだ。このクラスは丙飛10期と合同で行われており、「トッカン兵曹」として有名な小高登貫上飛曹も共に訓練を受けていた。ここで基礎的な操縦を学んだ高橋飛曹長は、名古屋空で延長教育を受け、厚木空に配属、さらに数ヶ月後にはラバウルに展開する204空へと配属された。厚木空は1943年4月に開隊した艦隊搭乗員の錬成部隊なので当初は艦隊搭乗員として採用されていた可能性もある(前述の小高上飛曹も艦隊搭乗員として訓練を受けた後、202空に配属されている)。

 1943年9月末、「搭乗員の墓場」ラバウルに送り込まれ、連日の航空戦に活躍する。この時期のラバウル航空戦では日本軍はすでに守勢にまわっており少数の兵力で米軍の大兵力を相手にしていた。訓練を終えて間もない高橋二飛曹を含む乙飛13期の隊員たちはわずか3ヶ月で6名が戦死している。この中で高橋二飛曹は連日の航空戦に活躍した。12月17日には荻谷信男上飛曹の3番機として出撃、P39エアコブラ1機撃墜を報告したが、この日撃墜されたP39はない。

 1944年1月末には204空がトラック島に後退したため、高橋飛曹長は同じくラバウルに展開する253空に転入、2月中旬まで連日の空戦に参加したが、253空もトラック島に後退に伴い、高橋一飛曹もトラック島に後退した。6月19日の米機動部隊のサイパン攻撃に対抗するため253空も零戦隊をサイパンに向かわせた。この時、高橋一飛曹は指揮官岡本晴年少佐の2番機として参加するが、グアム島着陸寸前に敵機の攻撃を受けた。辛うじて着陸、生還した。

 生還した高橋一飛曹は陸攻でトラックに戻り、そこから潜水艦で内地に帰還した。7月、221空戦闘308飛行隊に配属、10月には捷号作戦参加のために比島に進出、連日の空戦に参加、1945年1月には内地に帰還して筑波空教員として終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれている。

 

高橋健一飛曹長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記2: 昭和18年8月-11月、ブイン防空戦と、前期ラバウル防空戦

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中2巻では1943年8月から11月までのラバウル航空戦を描く。

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 高橋飛曹長と同じ時期に同じ部隊で戦った小町定飛曹長へのインタビュー本で、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。小町氏はラバウル航空戦当時、若手搭乗員に分類される方であったが、部下からの人気は高く、列機の位置を巡って部下同士が喧嘩になったこともあったという人望のある人物で、この小町氏の経験と魅力を著者の川崎氏は上手に引き出すことに成功している。

 戦後のパイロットの自著や手記によって撃墜50機、60機撃墜等、多くの撃墜数を自称しているパイロットに関してほとんどは部隊の戦果を自分の戦果と混同してしまっているという指摘などは実際に戦った元搭乗員の指摘としては非常に説得的である。

 

まとめ

 

 高橋飛曹長は1924年生まれ、激戦のラバウルに派遣された時はまだ19歳であった。この時期にはすでに搭乗員が不足しており、高橋飛曹長ら訓練が終わったばかりの若年搭乗員すらも最前線のラバウルに投入される状態であった。このため乙13期の隊員はわずか半年の間に13名がラバウルで戦死している。その後も中部太平洋、ボルネオ島、比島と激戦地で戦い続け、1944年1年間の間にさらに20名の同期が戦死している。さらに沖縄航空戦、本土防空戦でも3名が戦死。その他戦死、事故死を含め、結局、終戦を迎えられたのは49名中11名のみであった。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

吉田素綱飛曹長の略歴

 

 1918年1月1日岡山県に生まれる。1935年6月呉海兵団に入団。機関兵として長鯨乗組、翌年整備兵に移り、さらに1939年1月44期操練を卒業。大分空での延長教育ののち大村空、さらに9月12空に配属される。中支戦線で活躍したのち1940年7月内地に帰還、横空に配属された。1942年2月4空に配属、空戦に活躍するも3月末に負傷した。4月台南空に異動。8月7日の米艦載機との空戦で行方不明、戦死と認定された。

 

ガ島初空戦の悲劇

 

 吉田素綱飛曹長は操練44期、同期の戦闘機専修者は17名で母艦戦闘機隊で活躍した斎藤三郎少尉、金丸健男少尉、山中忠男少尉等がいる。同期17名中、太平洋戦争開戦前に事故で1名失った他、太平洋戦争開戦1年で半数の8名が戦死している。その後、ラバウルで2名、比島で1名が戦死、太平洋戦争終戦までに11名が戦死、5名のみが終戦を迎えることが出来た。生存率は29%である。

 吉田飛曹長は呉海兵団を卒業した後、潜水母艦長鯨で機関兵を務めた。さらに整備兵となったが、1938年6月操練44期に採用。8ヶ月の訓練を受けた後、大分空で延長教育を受け戦闘機搭乗員となった。その後大村空を経て1939年9月には中支に展開する12空に配属、実戦を経験する。約1年間の戦地勤務の後、1940年7月には内地に帰還、横空に配属された。

 1942年2月、1年半に及ぶ内地勤務から4空配属となりラバウルに進出した。ラバウルでは進出早々B-17の撃墜を報告している。しかし3月末にニューブリテン島上空の空戦で負傷、1ヶ月の療養生活を強いられた後、4月には吉田一飛曹を含む4空隊員22名は台南空に編入された。台南空での初出撃は17日で以降、ニューギニア方面の空戦に連日のように参加している。5月8日にはガイ・アルヴァ・ホーキンス少尉が操縦するP-39を単独撃墜、その後も戦果を重ねた。台南空異動後の連合軍の戦闘報告書から判明している戦果はこの1機を含む約1.9機(1.879機)である。

 1942年8月7日、ガダルカナル島上陸を開始した米軍を撃滅すべく4空の一式陸攻27機が出撃、その援護をするため台南空の零戦隊18機も発進した。ラバウルからガダルカナル島は1,037km、零戦でも片道3時間20分に及ぶ長距離進攻であった。ガダルカナル島上空に到達した日本海軍航空隊は空母エンタープライズ、サラトガのF4F戦闘機隊の攻撃を受け空戦が始まった。

 この空戦で台南空零戦隊は43機の撃墜を報告おり、例によって過大な報告となっているが、米軍側の戦果報告によると実際10機のF4Fが撃墜され、さらに1機のSBD艦爆が台南空の零戦隊によって撃墜されている。零戦隊の大勝利と言って良い戦いであったが、この空戦で吉田一飛曹は未帰還、戦死と認定された。それまでの吉田一飛曹の戦果は、日本側の資料では総撃墜数は単独12機、不確実1機、共同撃墜3機であり、連合軍側の資料からは台南空所属時の戦果1.9機のみが判明している。

 

吉田素綱飛曹長の関係書籍

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 日本、連合軍双方の戦果報告書や日記、手記等を基にガダルカナル島航空戦を再現している。過大になりがちな空戦の戦果を可能な限り特定している大変な労作。本書はガダルカナル島航空戦の最初期である米軍のガ島上陸前から1942年10月までの空戦を克明に描いている。あまり知られていない水上機隊の活躍について詳しく描かれているのも魅力。吉田一飛曹が戦死した8月7日の空戦についても克明に描いている。

 

まとめ

 

 1942年8月7日の空戦は台南空の零戦隊の一方的勝利として有名である。実際の双方の損害を比較してみても日本側の損害が戦闘機2機、陸攻4機に対して、米軍は戦闘機10機、艦爆1機を失っているため数の上でも日本側の勝利といえる。しかし戦死者数を比較すると米軍の搭乗員がほぼ救出されており、実際の戦死者が4名であるのに対して、日本側は吉田一飛曹を含め31名を失っている。戦死者を比較した場合、この空戦の勝者がどちらであるのかは明確である。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

谷口正夫少尉の略歴

 

 1919年1月7日福岡県に生まれ、1936年海軍に入団。1940年7月51期操練を卒業、1941年4月赤城乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。ハワイ、ダーウィン、コロンボ攻撃、ミッドウェー海戦後、翔鶴乗組に転じ、第2次ソロモン、南太平洋両海戦に参加した。11月大村空に異動、1943年7月新編の331空に異動、12月5日のカルカッタ攻撃に参加。12月201空に配属されてラバウルに進出。1944年1月末、トラック島に後退する。2月17日米艦載機のトラック空襲撃激戦、3月戦闘305飛行隊に異動、3月30日のペリリュー迎撃戦に参加、比島に転進、10月23日マニラ上空の空戦で重傷を負って本土へ送還されて終戦を迎えた。

 

1航艦を渡り歩いた男

 

 谷口正夫少尉は、操練51期出身で、同期の戦闘機専修者はわずか6名、翌期の52期に至っては戦闘機専修者ゼロと戦闘機無用論の影響なのかそれとも教育を50期と同時に開始したことが関係しているのか、戦闘機専修者が極端に少なくなっている。操練51期は訓練開始早々に1名を事故死で失い5名が卒業している。内2名が終戦まで生き残った。

 谷口少尉は実用機課程修了し、1941年4月には空母赤城乗組となった。この母艦搭乗員とは優秀者を中心に選抜されるものなので谷口少尉の操縦は一定以上に評価されていたのだろう。1941年12月空母赤城戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた谷口少尉は、真珠湾攻撃、ポートダーウィン攻撃、コロンボ攻撃に参加、1942年4月9日のトリンコマリ攻撃では初撃墜を報告している。1942年6月のミッドウェー海戦では機動部隊の上空直掩に従事したが母艦赤城が撃沈されたため駆逐艦に救助されて本土に帰還している。

 1942年7月には空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳により新しく編成された第1航空戦隊に翔鶴戦闘機隊員として配属、8月の第二次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に参加した。11月には大村空教員として内地に帰還、しばらく教員配置に就くが、1943年7月には新たに編成された331空に配属された。この331空は艦戦と艦攻の混成部隊で戦闘機隊の隊長は台南空で有名を馳せた新郷英城少佐で、隊員には操練17期のベテラン赤松貞明中尉、岡野博飛曹長、中谷芳市飛曹長等が在籍している。

 この331空隊員として谷口少尉は8月にはスマトラ島北部のサバン島に進出、12月には海軍中攻隊、陸軍航空隊と共同でインドのカルカッタを空襲した。その後、谷口少尉はラバウルに展開する201空に異動、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに進出する。この時のラバウル航空戦はすでに末期の様相を呈しており、劣勢であった中、谷口少尉は連日の航空戦に健闘した。

 1944年1月、1ヶ月あまりの空戦の後、201空はサイパン島に後退、機材は全てラバウルに残してきたため内地で零戦23機を受領して2月11日には零戦がサイパンに到着した。谷口飛曹長は内8機を指揮、ラバウルへ先発するためにトラック島に進出したが、2月17日のトラック島空襲に遭遇、谷口飛曹長も果敢に迎撃戦を戦ったものの零戦全機を失った。

 3月4日の改編により201空戦闘305飛行隊に編成替えとなった谷口飛曹長を含む戦闘305飛行隊は、その後、グアム島を経てペリリュー島に移動したものの3月30日に米機動部隊の攻撃を受ける。谷口飛曹長も激撃したものの衆寡敵せず未帰還機9機、大破9機不時着2機と201空20機の全機が使用不能となってしまった。このため201空は再建のためダバオに後退した。

 5月中旬、内地から新たに春田虎二郎大尉率いる戦闘306飛行隊を迎え2個飛行隊編成となった201空はセブ島を拠点に迎撃戦を展開するが、谷口飛曹長は10月23日マニラ上空の空戦で被弾不時着し、重傷を負ったため本土へ送還されたのち療養中に終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれているが実数は不明である。

 

まとめ

 

 谷口少尉は延長教育修了後、数ヶ月で第1航空戦隊所属の赤城の母艦搭乗員として選抜されている。当時の1航戦は各航戦の中でもトップクラスに熟練者の多い部隊であった。ここに選抜されていることからも谷口少尉の技量の評価が高かったことが窺える。母艦搭乗員を歴任、インド、南方と戦い抜いた谷口少尉は、負傷をしつつも終戦まで戦い抜いた。同期で終戦まで生き残った隊員は他に河野茂少尉のみで2005年に他界している。

 

 

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山崎市郎平一飛曹の略歴

 




 1920年5月5日東京府に生まれる。1937年横須賀海兵団に入団。1940年3月54期操練に採用、1941年5月大分空で実用機課程修了。5月26日横空配属。1942年2月1日4空に配属されラバウル進出。4月1日台南空に異動、8月に負傷し本土へ送還。1943年5月251空隊員として再度ラバウルに進出。7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死。

 




奇跡の生還を果たした男

 




 山崎一飛曹は操練54期出身で同期には岡野博飛曹長がいる。戦闘機専修の同期は21名で終戦までに19名が戦死している。戦死率90%以上である。山崎一飛曹は大分空での実用機課程修了後、横須賀航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年2月にはトラック島で新設された4空に配属、4空隊員としてラバウルに進出、そして3月にはラエに進出した。


 1942年3月22日、RAAF(オーストラリア空軍)航空隊がラエ基地に奇襲攻撃をかけた。在地の零戦10数機は全て被弾。出撃できるのは2機のみとなり、山崎一飛曹と菊地敬司三飛曹が迎撃したが、菊地三飛曹はハドソン爆撃機の銃撃により戦死、単機で追跡した山崎一飛曹も銃撃により被弾、不時着している。山崎一飛曹は乗機の零戦に火をかけた後、丸太船を製作しラエに向かうマーカム川を下り始めた。


 2日目に原住民の集落に到着、食べ物や反物を与えることを条件にラエ基地まで送ってもらった。この時、山崎一飛曹は、原住民との約束を反故にすることなく誠実に約束を果たしている。3週間の休養を与えらえれた山崎一飛曹は4月12日に復帰するが、5月17日のポートモレスビー上空空戦で負傷、8月26日にはミルン湾攻撃後の着陸事故で重傷を負ってしまう。


 この重傷により山崎一飛曹はブナで休養後、本土に送還され本格的な治療を受けることとなる。それから数ヶ月後の11月中旬、台南空も消耗した戦力を再建するため内地に帰還。豊橋基地において部隊の再建に取り掛かった。1943年5月再建が完了した251空は再びラバウルに進出。治療・療養を終えた山崎一飛曹も貴重な実戦経験者として再度ラバウルに進出した。


 再度ラバウルに進出した山崎一飛曹は連日の航空戦に活躍したものの7月4日のレンドバ島攻撃時の空戦でコロンバンガラ島に不時着、かつて奇跡の生還を果たした山崎一飛曹はついに帰ってくることはなかった。総撃墜数は14機といわれる。撃墜数を判定することは非常に困難であるが、連合軍の戦闘報告を調べた資料では台南空所属時のニューギニア航空戦での戦果は3.3機といわれている。

 




山崎市郎平一飛曹の関係書籍

 




ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』






ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著

大日本絵画 (2016/2/1)





 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。


 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。山崎一飛曹の生還について詳しく書いてある。

 




零戦よもやま物語 零戦アラカルト






柳田邦男 豊田穣他 著

潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月





 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。台南空時代の同僚石川清治飛曹長による山崎一飛曹の思い出が寄稿されている。

 




まとめ

 




 山崎一飛曹は何度も負傷しているが当然、負傷しているということは連日の戦闘を戦っていたということである。撃墜された際には機体を羅針儀を外した後、機体を焼却。その後筏を自作し帰還するという冷静で合理的な対応をしており、さらに原住民への約束を誠実に果している。冷静かつ誠実な人物であった。

 









 




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尾関行治少尉の略歴

 

  1918年2月2日愛知県に生まれる。1935年呉海兵団入団。1936年1月32期操練に採用。7月大村空に配属。1937年12月12空に配属、中支戦線に出動する。1938年10月内地に帰還、佐伯空、大村空、元山空を経て、1941年9月3空に配属、太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に参加した後、1942年4月、内地に帰還、6空に配属された。6月には6空隊員としてダッチハーバー攻撃に参加、同年末204空隊員としてブイン基地に進出、ソロモン航空戦に活躍する。1943年5月内地に帰還して厚木空に配属、1944年2月203空戦闘304飛行隊に異動、10月捷号作戦の発動によりフィリピンに進出、10月24日(15日)米機動部隊攻撃で未帰還となり戦死と認定された。

 

海軍の至宝と呼ばれた男

 

 尾関行治少尉は操練32期出身で同期の戦闘機専修者は9名と少数精鋭の時代である。同期には「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義少尉、末田利行飛曹長等がいる。この32期は太平洋戦争終戦までに全員が戦死しており、生存率0%である。尾関少尉は操練修了後大村空、さらには1937年12月、中国戦線にある12空に配属、そこから1年余りを戦地で過ごした。1938年10月には内地に帰還。教員配置に就いたのち、1941年9月には新編の3空に配属、太平洋戦争の開戦を迎えた。

 開戦後は比島蘭印航空撃滅戦に参加、多くの空戦に参加した後、1942年4月内地に帰還、新たに編成された6空に配属された。6月には空母隼鷹に便乗、ミッドウェー作戦の一環であるダッチハーバー攻撃に参加したが、ミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅したため本土に帰還した。同年末、204空と改称された6空は南東方面に進出、ブーゲンビル島ブイン基地に展開して連日の空戦を戦った。

 1943年3月にはい号作戦のためラバウルに進出してきた同年兵の母艦戦闘機隊員岩井勉飛曹長と再会、「今まで一人として内地へ帰された者はいない」と壮絶な現実を告げている。このソロモン方面は航空隊員にとって「搭乗員の墓場」と呼ばれた場所で連日の戦闘の緊張感のためか温和であった尾関上飛曹は部下に鉄拳制裁を行ったりもしている。これに対して鉄拳制裁を受けた島川正明飛曹長は、のちに下士官となって受けた鉄拳制裁に対して不快感を語っている。

 1943年5月には尾関飛曹長は幸運にも内地に帰還、厚木空に配属された。この厚木空は後の302空と異なる錬成部隊で1944年2月には203空と改称されている。203空所属となった尾関上飛曹は名指揮官岡嶋清熊少佐率いる戦闘304飛行隊に配属、3月末には千歳基地、4月には北千島に進出して防空任務についた。

 10月になると捷号作戦の発動により、尾関飛曹長は戦闘304飛行隊の一員として南九州から台湾と進出。フィリピン島バンバン基地に進出した。この移動の最中、南九州で同年兵の乙飛5期の角田飛曹長に会いに行っている。この時には海軍航空隊の多くが比島に移動していたため、他にも西澤廣義飛曹長、岩本徹三飛曹長、母艦戦闘機隊の斎藤三郎飛曹長、長田延義飛曹長等の名うての搭乗員が角田飛曹長のところに集まった。

 その後、台湾、フィリピンと進出した尾関飛曹長は1944年10月米機動部隊攻撃に出撃未帰還となった。戦死日は15日とも24日とも言われている。総撃墜数は14機以上と言われており、6空時代に部下であった杉野計雄飛曹長は温和な人柄であったと後に語っている。さらに上官であった志賀淑雄少佐は尾関飛曹長について「上海事変、支那事変、大東亜戦争において比島上空で未帰還となるまで、烈々たる闘志と非常なる技量を持って、撃墜に撃墜を重ねた男。典型的な戦闘機乗りなりき」と評価していた。

 

尾関行治少尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

空母零戦隊―海軍戦闘機操縦10年の記録 (1979年) (太平洋戦争ノンフィクション)

 乙飛6期出身の母艦戦闘機隊で活躍した搭乗員岩井勉中尉の海軍生活10年の記録。岩井中尉は零戦の初空戦に参加した搭乗員で戦後も生き残った数少ない搭乗員。日中戦争、太平洋戦争と戦ったがその間に一度も被弾しなかったという腕と運を持ち合わせている。

 

まとめ

 

 尾関行治少尉は同期である武藤金義少尉と共に海軍の至宝と呼ばれたほどの名うての搭乗員であった。碁の名人であり、後々まで杉野計雄飛曹長は碁を見るたびに尾関少尉を思い出すという。この操練32期は多くの名人級の搭乗員を排出したが、1944年末までに武藤少尉以外は全て戦死している。その武藤少尉も終戦直前の7月24日、豊後水道での空戦で帰らぬ人となった。

 

 

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吉野俐少尉の略歴

 

 1918年2月21日千葉県に生まれる。1934年6月乙飛5期として採用される。1937年8月卒業後、1938年3月霞空での練習機課程(飛練)終了後、佐伯空で戦闘機専修教育を受ける。同年9月16日実戦部隊である大村空に配属、12空、蒼龍乗組となる。1940年10月千歳空配属で太平洋戦争開戦を迎えた。1942年2月4空に異動、ラバウル基地に進出、3月ラエ基地に進出した。4月台南空に異動。6月9日空戦中行方不明となり戦死と認定された。

 

初期のニューギニア航空戦に参加した吉野少尉

 

 吉野少尉は乙飛5期で同期の戦闘機専修者は17名で角田和男少尉、杉尾茂雄少尉、中瀬正幸少尉等著名な搭乗員が多い。太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け、多くは日中戦争で実戦経験を積み太平洋戦争開戦を迎えた最も脂の乗り切ったクラスである。同時に戦死も多く、太平洋戦争開戦1年で17名中9名が戦死している。終戦まで生き残ったのはわずか4名という生存率23%のクラスであった。

 予科練を修了した吉野少尉は霞空で練習機課程を修了、その後佐伯空で戦闘機搭乗員としての専門教育を受ける。さらに実戦部隊でもある大村空において当時の新鋭機九六艦戦の訓練を受けた。2ヶ月程の訓練ののち、吉野少尉は同期の中瀬少尉と共に12空に配属(資料によって異なる。)、さらには母艦戦闘機隊員として蒼龍戦闘機隊を経て、1940年10月、新設された千歳空に配属。ここで太平洋戦争開戦を迎える。

 開戦数ヶ月は平穏な内南洋防空任務についていたが、1942年2月4空付きとなり、のちに「搭乗員の墓場」といわれる南東方面(ソロモン、ラバウル)に派遣された。3月にはラエ基地に進出、4月には台南空に編入された。台南空隊員としての初出撃は4月2日で6日には同方面で初撃墜を記録する。この空戦では吉野上飛曹は小隊長として参加、撃墜2機、2番機の丹二飛曹が撃墜1機を報告しているが、この空戦で実際に撃墜された機体は2機のみである。どちらが撃墜したのかは不明であるが、海軍航空隊の空戦方法から小隊長に戦果が集中するのが通常であるため2機は吉野飛曹長の戦果である可能性は高い。

 さらに4月11日にはガス・キッチンズ少尉の操縦するA-24を単独撃墜、その後もしばしば戦果を挙げるものの6月9日、クーラン・J・ジョーンズ少尉操縦のP-39によって撃墜された。総撃墜数は15機といわれている。戦後、連合軍の戦果報告書での損害を突き合わせた結果では、吉野少尉の台南空時代の戦果は3.4機となっている。このクーラン・J・ジョーンズ少尉はのちにエースとなり、戦後、台南空時代の吉野少尉の同僚である坂井三郎氏と会っている。

 

吉野俐少尉の関係書籍

 

角田和男『修羅の翼』

角田和男 著
光人社NF文庫 2008/9/1

 著者は他のパイロットと違い大空への憧れというのは全くなかったという。家計の負担にならないように志願したのが予科練だった。日中戦争、太平洋戦争と戦ったパイロットだが、戦争後期には特攻隊に編入されてしまう。ベテランであっても特攻隊に編入されることがあったのだ。

 著者は日記を付けていたらしく、さらに執筆時には事実関係を確認しつつ執筆したという本書の内容はかなり詳しい。ゴーストライターを使わずに自身の手で書き上げた本書の重厚さは読むとすぐに分かる。分厚い本であるがとにかくおすすめだ。吉野俐少尉と同期の角田氏による著作。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。吉野俐少尉の台南空時代の空戦の模様や最後の空戦についても言及されている。

 

まとめ

 

 吉野俐少尉は日中戦争で実戦経験を積んだ後、太平洋戦争に中堅搭乗員として参加。初期のニューギニア航空戦に参加した。若い搭乗員であったが、腕は非常に良く連合軍の戦闘行動報告書から調べられた撃墜戦果でも台南空屈指の戦果を挙げている。しかし6月9日、連合軍機の待ち伏せに散っていった。

 

 

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田中民穂飛曹長の経歴

 

 1923年10月3日長崎県に生まれる。1939年6月乙種予科練11期に入隊。1941年9月予科練卒業後11月より23期飛練課程に入る。1942年9月同課程を卒業。1943年6月261空に配属された。1944年2月末サイパン進出、メレヨン島、ハルマヘラ島、ヤップ島、グアム島と転戦する。サイパン島陥落後、メレヨン島、パラオ経由でセブ島に移動、201空に異動、1945年1月内地に帰還、252空、203空と異動、本土防空戦、沖縄航空戦に参加後終戦を迎えた。戦後は全日空の操縦士として活躍した。

 

田中飛曹長と虎部隊

 

 田中民穂飛曹長は、乙飛11期出身。乙飛とは乙種予科練の略である。予科練とは「海軍飛行予科練習生」の略称で14歳以上の10代の少年を搭乗員として育成する目的で1929年に発足した制度で、1937年には新たに甲種予科練が設置されたため、それまでの予科練は乙種予科練と呼ばれるようになった。田中飛曹長はこの乙種の11期で同期の戦闘機専修者は67名。内、55名が戦死している。生存率17%であった。

 乙11期の飛練は21期と23期の二期に分けられており、21期は甲飛6期、丙飛4期と共に1942年7月、23期は丙飛6期と共に9月に飛練を修了している。多くの隊員は、訓練終了後すぐに戦地に送られており、10月には乙11期の2名が南方で戦死している。田中飛曹長はすぐに戦地に送られることなく、1943年6月には新設の261空に配属されている。

 261空は別名「虎」部隊とも称された部隊で第1航空艦隊に所属していた。この第1航空艦隊とは、海上機動戦力である第1機動部隊と基地航空隊の第1航空艦隊という二つの強力な航空部隊を創設、中部太平洋に進出してきた米機動部隊を挟撃するという源田大佐の発案の下に編成された決戦部隊で261空は第1航空艦隊の中核をなす戦闘機部隊であった。

 鹿児島基地に着任した田中飛曹長はそこから猛訓練に突入、1944年2月には東山市郎少尉の分隊の一員としてサイパン島に進出した。3月30日、米機動部隊がパラオに来襲、これを攻撃するため彗星艦爆を装備する523空が出撃、261空も援護として攻撃に参加したが、米機動部隊を発見することはできずペリリュー島に着陸したが、翌日の朝ペリリュー島は米機動部隊艦載機の総攻撃を受ける。

 この総攻撃に対して261空は迎撃戦を展開するが、出撃28機中20機を失うという大損害を受けてしまった。田中飛曹長もこの迎撃戦に参加、これが田中飛曹長の初出撃となった。4月になるとメレヨン島への大型爆撃機の来襲が頻繁となったため261空は交代でメレヨン島防空の任に就いた。このメレヨン島での防空戦で田中飛曹長は撃墜2機を報告している。

 6月6日には指宿大尉指揮の下、ダバオ南方にあるハルマヘラ島に進出、ついでヤップ島、グアム島と転戦する。7月15日までグアム島からサイパン島への艦船攻撃を繰り返した田中飛曹長であったが、グアム島への米軍上陸当日に上陸地点を爆撃後、メレヨン島へ脱出したのちパラオを経てセブ島に到着した。到着後、201空に異動となり(261空は7月10日で解隊している)特攻隊の直掩等に活躍した。

 1945年1月には1年に及ぶ激しい戦地勤務を終え内地に帰還、252空、203空と異動しつつ本土防空戦、沖縄航空戦に活躍、終戦を迎えた。戦後も旅客機パイロットとして活躍しており、総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 田中飛曹長の出身期である乙11期の多くは訓練後、南東方面に送られ多くが戦死している。1943年までに同期67名中30名が戦死、内20名以上がラバウル方面での戦死である。1944年2月には海軍航空隊はラバウルから後退が、以降、中部太平洋、フィリピンと乙11期の隊員達は戦い続けた。1945年に入ることには生き残った37名中15名が戦死しており、終戦までにさらに10名が戦死した。終戦時まで生き残ったのは田中飛曹長を含めわずか12名で生存率は17%という激しいものであった。

 

 

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03_南太平洋海戦の翔鶴零戦隊
(画像はwikipediaより転載)

 

南義美少尉の経歴

 

 1915年12月15日香川県に生まれる。1933年海軍に入団、1935年11月30期操練を卒業、大村空を経て1937年7月13空(ついで12空)に配属された。二年間の戦地勤務後の1938年9月には内地に帰還、佐伯空、大分空、飛龍、瑞鳳乗組を経て1941年10月翔鶴に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年6月大村空で教員配置に就くが、1944年2月601空に異動、再び母艦戦闘機隊員として新造空母大鳳に配属される。マリアナ沖海戦後、653空に異動。レイテ沖海戦に参加するが、11月25日、神風特攻隊笠置隊員として米機動部隊に突入、戦死した。

 

母艦戦闘機隊のベテラン南大尉

 

 南義美大尉は、操練30期出身で同期の戦闘機専修者は14名で内、5名が終戦まで生き残った。同期には南大尉を除き、いわゆる「撃墜王」と呼ばれる搭乗員はいないが、太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受けて日中戦争で多くの実戦を経験した上で25歳前後と搭乗員としては最も脂の乗り切った時期に太平洋戦争開戦を迎えたクラスである。

 南大尉は日中戦争前に操練、大村空での延長教育を修了、戦闘機搭乗員となった。1937年7月の盧溝橋事件勃発前後に13空に配属され上海戦線に出動、1938年9月に内地に帰還するまで1年以上にわたって中国戦線で戦い続けた。同年5月には漢口攻撃に出撃、空戦中にエンジンに被弾、機銃も全て撃ち尽くし帰投中であったが、中華民国空軍のE16戦闘機が近寄ってきて、漢口の方を指し「戻れ」と指示され怒った南兵曹は体当たりを敢行、片翼飛行を続けて不時着救助された。

 4ヶ月後の9月に1年以上に及ぶ戦地勤務を終え内地に帰還。教員配置の後、母艦乗組となる。以降、南大尉は1944年に特攻隊員として戦死するまで母艦戦闘機隊隊員として活躍する。最初に配置された空母は飛龍で、続いて瑞鳳、さらに翔鶴乗組として太平洋戦争開戦を迎えた。開戦後、南上飛曹は翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃、インド洋海戦、珊瑚海海戦に参加、1942年6月には内地で教員配置となる。しばらくの教員配置の後、1944年2月、601空に配属、久々の実戦部隊に戻る。

 601空とはそれまでの第一航空戦隊の空母翔鶴、瑞鶴、大鳳の3隻の航空隊で編成された部隊で空母と航空隊を分離させる制度変更によって生まれた部隊であった。南大尉はこの中の大鳳乗組となる。南飛曹長が開戦時に乗組んだ空母翔鶴ではないものの、また再び同じ部隊に配属となったこととなる。所謂「古巣に戻った」ということであろう。

 この601空隊員として6月には史上最大の空母決戦であったマリアナ沖海戦に参加、多くの熟練搭乗員が戦死する中、南飛曹長は無事生還したが、母艦の大鳳は撃沈されてしまった。本土に戻った南飛曹長は653空に異動となる。この部隊も空母と分離してはいるが、母艦航空隊である。

 この653空隊員として南飛曹長はレイテ沖海戦に参加したが、11月25日、神風特別攻撃隊笠置隊員として爆装した零戦で米機動部隊に突入戦死した。日中戦争当初から実戦経験を積み太平洋戦争全期間にわたって特別な技量を必要とする母艦搭乗員のベテランは爆弾を抱いて敵艦隊に突っ込むという非情な最期を遂げることとなった。戦死後二階級特進して海軍大尉となったが、のちの本土防空戦で「宝石よりも貴重」といわれた熟練搭乗員の惜しすぎる最期であった。

 

南義美少尉の関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。田中国義少尉のインタビューで南大尉について触れられている。

 

まとめ

 

 熟練搭乗員が特攻で戦死することはしばしばあった。しかしそれは直掩機としての任務であり爆装機ではないことがほとんどであった。無論直掩機でも何段にも防御体制を敷いている上に重厚な対空兵器を持つ米艦隊に突入するのは死ぬ可能性の非常に高いものであった。

 しかし爆装機は「必死」である。この作戦に対して岩本徹三中尉や岡部健二中尉等、性格の強い搭乗員は敢然と反対を表明、自身の特攻希望にもはっきりと「否」と表明していた。これに対して誰からも好かれる大人しい性格だったといわれる南大尉。終戦時に生き残った両中尉と特攻死した南大尉、ここに性格の違いがあったのかもしれないが、今となっては誰も分からない。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

周防元成少佐の経歴

 

 1912年12月14日鳥取県に生まれる。1934年海兵62期を卒業。艦隊勤務を経て1937年9月第28期飛行学生教程を終了。佐伯空、横空での延長教育を受けたのち、1938年2月12空に配属。15空に転じた直後、霞空、大分空教官を経て、1939年10月14空分隊長として再び支那戦線に出動。11月元山空に異動、1940年4月空技廠のテストパイロットとなった。1942年12月252空飛行隊長となりソロモン航空戦に活躍した。1943年2月内南洋に転進。1944年3月本土に帰還後は元山空、築城空の飛行長として終戦を迎えた。

 

物静かで沈着な周防少佐

 

 周防元成少佐は、海兵62期で同期には志賀淑雄少佐、納富健次郎大尉、飯田房太大尉等がいる。航空機搭乗員となった同期は37名で内、8名が戦闘機搭乗員となった。一般に士官は安全なところで指揮を執り、下士官兵は消耗品として使われるというようなイメージがあるが、実際にはこの海兵62期の8名の内、終戦まで生き残ったのはわずか2名、それも太平洋戦争開戦までに日中戦争で4名、真珠湾攻撃で1名が戦死している。1941年12月9日の時点で海兵62期戦闘機専修者は3名となっている。

 海軍兵学校を卒業した周防中尉は艦隊勤務ののち、1936年12月より28期飛行学生として採用、搭乗員としての訓練を受けた。1937年9月に訓練を修了後、佐伯空、横空で延長教育を受けたのち、1938年2月には早速12空の士官搭乗員として日中戦争に参加している。一時期内地で教官となったが1939年10月には再び14空分隊長として中国戦線に出動した。

 1940年10月には仏印ハノイに進出、11月には元山空に異動する。ここまでに周防大尉は撃墜11機を報告しており、これは士官搭乗員中の最高撃墜数であった。1941年4月には空技廠に配属、零戦や雷電等の新鋭機の実用実験に携わる。1942年12月には252空飛行隊長としてに発令されたため、「搭乗員の墓場」ソロモン航空戦に参加する。後任の空技廠飛行実験部員には同期の志賀大尉であった。この時、周防大尉の2番機を務めた宮崎勇上飛曹は、周防大尉の印象を「物静かで沈着、それでいて、あたたかい雰囲気を感じる人だった」と語っている

 2ヶ月余りソロモン航空戦の激戦を戦った後、1943年2月、252空は内南洋に転進に伴って内南洋に移動、周防大尉はタロア、のちにウェーク島に移動した。11月24日には、周防大尉は爆装零戦19機を以って、敵占領直後のマキン島銃爆撃に出撃したが、途中の洋上でF6Fヘルキャットの大群に奇襲を受け混戦となった結果、未帰還機10機の犠牲を出し、周防大尉自身も被弾している。さらに25日にも24機の爆装零戦を以って同様の攻撃を実施したが、同様にF6Fとの混戦となり、攻撃は失敗、7機の未帰還機を出してしまった。この空戦で日本側は撃墜11機を報告したが、実際には1機が撃墜されたのみである。

 零戦は戦闘機であるため爆装してしまうと本来の性能を発揮することができない。この2回の作戦は零戦の本来の使用法ではない方法で使用したため戦果は無く、損害のみが増大していた。にもかかわらず内南洋方面部隊司令部からは「26日も実施せよ」という命令が届いた。このため温和な周防大尉も堪忍袋の緒が切れ、俺たちを何と考えとるんだ!机の上だけで計画をたてておる奴には、何も分かっちゃおらん。今から殴り込みに行ってくる!」と単身司令部に乗り込んでいったという。多くの部下を失った周防大尉の怒りが爆発したのだった

 内南洋の航空戦で252空はほぼ壊滅、生存搭乗員達は1944年春に本土に帰還した。周防大尉も本土に帰還後、5月には少佐に昇進、元山空飛行長、築城空飛行長として終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入隊、航空幕僚監部運用課長を経て、1960年8月実験航空隊司令、1964年1月空将補、3月第二航空団司令兼千歳基地司令、1965年3月航空自衛隊第五術科学校校長、1966年2月には保安管制気象団司令を歴任、1967年11月空将で退官した。1981年他界。総撃墜数は日中戦争で11機、太平洋戦争で4機の合計15機といわれている。

 

周防元成少佐の関係書籍

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。宮崎飛曹長は、菅波政治大尉戦死後、周防大尉の部下として長く一緒に戦っている。

 

まとめ

 

 海軍戦闘機搭乗員は、下士官兵に比べて士官は昇進して地上勤務や内地勤務に移動することが多く、消耗品として使い捨てられることは少なかった。しかしこれはあくまでも「下士官兵と比較して」の話であり、士官搭乗員が決して安全だった訳ではない。事実、海兵62期の戦闘機専修の士官8名の内、6名が終戦までに命を落としている。当たり前であるが、士官も兵士も命がけだったのである。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

渋川茂飛曹長の略歴

 

 1923年8月12日大阪府生まれ。1940年海軍に入団。丙飛6期に採用され航空兵となる。1942年9月23期飛練を卒業。同年12月253空に配属。1943年はじめカビエンに進出。1943年5月サイパンに後退。9月上旬再度ラバウルに進出した。11月1日トロキナ岬艦船攻撃にて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。回復後、筑波空に配属され終戦を迎えた。

 

死亡率91%。壮絶な丙飛6期

 

 渋川飛曹長は丙飛6期出身、丙飛6期は1941年8月から訓練を開始、太平洋戦争開戦後の1942年9月に飛練を終えたクラスであった。大量育成であり、十分な訓練を受けたとは言い難いクラスではあったが、多くが「搭乗員の墓場」といわれた南東方面(ソロモン・ラバウル等)に送られた。丙飛6期の戦闘機専修者は66名で内、多くの隊員が1943年初頭頃から前線に出ていったが、1943年の1年間だけで38名が戦死しており、その内、判明しているだけで23名が南東方面である。

 1943年を生き抜いた28名も1944年の内に15名が戦死、1945年8月までに残った13名の内7名が戦死している。結局、終戦を無事に迎えることができたのは66名中わずか6名であった。戦死率91%、生存率はわずか9%という壮絶なクラスであった。

 渋川飛曹長も飛練修了数ヶ月後には南東方面に展開する253空に配属、1943年初頭にはニューアイルランド島北端のカビエンに進出、ソロモン・ニューギニア方面の航空戦に参加した。1943年5月には一時サイパンに後退、休養したのち、9月上旬には再度ラバウルに進出した。進出後も連日のように航空戦に参加したが、11月1日の第二次トロキナ岬艦船攻撃に艦爆7機の直掩として高沢謙吉中尉式の零戦42機(253空は13機)の一員として出動、後方から射たれて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。内地帰還後は筑波空で教員配置ののち終戦を迎えた。総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 丙飛6期の死亡率の高さは驚愕であるが、この時期の前後のクラスも同様の高い死亡率である。日本機、特に海軍機は防弾性能を軽視しており、さらには救助体制も連合軍程積極的ではないため、空戦で撃墜されると戦死してしまうことが多かった。さらに人材の不足から一度前線に出ると出ずっぱりとなることが多く、空戦経験が豊富になると今度は重宝されてしまい、結局「死ななきゃ内地には帰れない」状態となってしまった。このため育成に10年はかかると言われている貴重な搭乗員を多く失っていった。この中を渋川飛曹長は生き残り終戦を迎えることとなる。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

中仮谷国盛少尉の略歴

 

 1920年鹿児島県に生まれる。1937年6月乙8期予科練生として入隊、1940年3月飛練課程を卒業し、大分、大村、鹿屋空を経て、1941年4月12空に配属、日中戦争に参加した。9月3空に異動して太平洋戦争開戦を迎えた。1943年5月大村空の教員として内地へ帰還、1944年5月飛曹長進級と同時に653空に転属、6月にマリアナ沖海戦、さらに10月には捷号作戦の発動によりフィリピンに進出した。11月中旬内地に帰還後、601空戦闘310飛行隊に編入、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 

3空、母艦戦闘機隊と渡り歩く

 

 中仮谷少尉は、1920年生まれで太平洋戦争開戦時は21歳と若かったものの、日中戦争では空戦を経験しており、中堅搭乗員として十分な実戦経験を積んでいた。中仮谷少尉が採用されたのは予科練の乙飛8期で1937年6月から訓練を開始、1940年3月に修了している。同期の戦闘機専修は11名であった。

 このクラスの戦闘機専修者は太平洋戦争で多くが戦死し、終戦時には15名(3名が戦闘機へ転科)中3名のみとなっていた。中仮谷少尉は他の戦闘機専修者と同様に大分空、大村空と延長教育を受けたのち1941年4月には漢口に展開している12空に配属、初空戦を経験している。同年9月には新しく編成された3空に異動、太平洋戦争開戦を迎える。開戦後は比島・蘭印航空撃滅戦に参加、チモール島クーパン基地に進出した後には、ポートダーウィン攻撃に活躍している。1943年5月、2年半に及んだ戦地での生活を終え、大村空の教員として内地に帰還した。

 この頃の大村空には磯崎千利少尉、坂井三郎飛曹長、南義美飛曹長、小町定一飛曹等、歴戦の搭乗員が教育を担当していたものの膨大な数の練習生を相手にしていたため決して楽ではなかったであろう。約1年間の教員配置の後、中仮屋上飛曹は空母千歳、千代田、瑞鳳戦闘機隊で編成された653空に異動、翌月にはマリアナ沖海戦に参加する。

 マリアナ沖で大打撃を受けたものの653空は他の航空隊に比べ損害が少なかったため653空を中心に艦隊航空隊が再編されることとなったが、戦局はそれを許さず台湾沖航空戦、比島航空戦でその戦力を消耗させることとなった。中仮谷飛曹長も同航空隊隊員としてエンガノ岬沖海戦に直掩隊として参加、第2小隊長として共同で11機のF6F撃墜を報告している。フィリピンに進出した10月28日にはドラッグ飛行場攻撃でF6F撃墜1、協同撃墜1機を報告、11月3日のタクロバン飛行場制圧でもP38 1機撃墜を報告している等、数多くの戦闘に参加したが、11月中旬には戦力を消耗し尽くしたため内地へ帰還している。

 中仮谷飛曹長は内地帰還後、601空戦闘310飛行隊に異動する。601空は母艦航空隊であったが、エンガノ沖海戦で壊滅、新たに再建された部隊であった。再建された601空は香取穎男隊長の下、岩国基地で訓練に励んでいたが、1945年2月には艦艇を全廃することが決定、601空も母艦航空隊から基地航空隊へと転換した。同月16日、米艦載機の関東地区来襲のため関東に移動中空戦となり、翌日も迎撃戦を展開している。

 3月になると鹿児島県国分基地に進出、中仮谷少尉も同地に進出、本土防空戦、沖縄航空戦に活躍するが、5月には百里原基地に引き揚げた。その後はしばしば迎撃戦に活躍したものの戦力を温存したまま終戦を迎えた。総撃墜数は16機といわれているが例によって実数は不明である。

 

中仮谷国盛少尉の関係書籍

 

艦隊航空隊〈2 激闘編〉

艦隊航空隊
斎藤三朗 著
今日の話題社 (1987/2/1)

 艦隊航空隊に所属していた搭乗員達の手記を集めたもので、主に太平洋戦争後半の出来事を中心に収録している。執筆者は、斎藤三朗少尉、小平好直、東富士喜、池田速雄、白浜芳次郎、石坂光雄、永田徹郎で永田氏以外は戦闘機搭乗員である。執筆者の内、白浜芳次郎飛曹長、同じ乙8期の東富士喜少尉は中仮谷少尉と同じ部隊でマリアナ沖海戦に参加している。

 

艦隊航空隊〈3 決戦編〉

杉山 利一他 著
今日の話題社 (1986/11/1)

 艦隊航空隊末期の記録。601空司令杉山利一大佐他、艦隊航空隊に所属した隊員達による手記。中仮谷少尉と同じ部隊に在籍した隊員達が多く執筆している。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。本書でインタビューを受けている鈴木實中佐は12空、3空での中仮谷少尉の上官でポートダーウィン攻撃についても詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 中仮谷少尉が修了した乙飛8期は太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け日中戦争で実戦経験を積んだ乙種予科練最後のクラスであったといえるが、それでも生存者は15名中3名と凄まじい状態であった。中仮谷少尉の経歴で特徴的なのは日中戦争以来の長い航空隊生活の中で南東方面(ラバウル・ソロモン)に一度も行っていないことであろう。しかし、だからといって中仮谷少尉は決して「楽」だった訳ではなく、米軍から「七面鳥撃ち」とまで言われ、一方的敗北を喫したマリアナ沖海戦、特攻隊まで出さざるを得ななった戦争後期の比島航空戦にも参加している多くの戦場を経験したベテラン搭乗員である。

 

 

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01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

高塚寅一少尉の略歴

 

 高塚寅一 少尉 撃墜数16機  1914年静岡県生まれ。1933年11月22期操練を卒業。12空所属。1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。1941年10月飛曹長に進級して除隊後、直ちに招集され、台南空に配属される。1942年6月ラバウルに進出。9月13日ガダルカナル島上空の空戦にて未帰還となる。

 

 

空戦での撃墜の困難さ

 

 高塚飛曹長は操練22期出身で1928年6月から11月まで半年間操縦の訓練を受けた。同期には8機撃墜といわれる江島友一少尉がいる。戦闘機専修者は7名で太平洋戦争では3名が戦死しており、3名が終戦を迎えることができた。高塚一空曹は12空隊員として日中戦争に参戦、1940年9月13日の零戦初空戦にも参加している。

 この空戦で高塚一空曹は白根中尉率いる第2中隊第2小隊長として参加したが、空戦前に増槽落下後、燃料コックの切り換えを忘れ燃料を噴きながら空戦に突入、2番機の三上一禧三空曹に合図されて気付くというトラブルもあった。

 空戦では1機に命中弾を与え空中分解するのを確認した後、機体を引き起こしたが、その際に引込脚のロックがはずれ主脚が飛び出してしまった。このため着陸の際に機体が転覆大破してしまったが、高塚一飛曹は無事であった。この空戦では日本側は27機を撃墜、高塚一空曹も3機を撃墜したことになっているが、実際の中国軍の損害は13機で個人戦果も新聞社が適当に割り振ったものである。

 様々なトラブルがありながらも12空で活躍した高塚一空曹であったが、1941年に飛曹長に昇進すると同時に除隊してしまったが、すぐに招集された。台南空に配属された高塚飛曹長は1942年6月初旬にラバウル・ラエに展開する台南空に着任、6月13日に久しぶりの実戦に参加、19日にはB-17との空戦を行った。7月26日にはB-25 2機を共同で撃墜、29日にはA-24 4機を共同で撃墜した。8月2日にはP-39と交戦、1機撃墜を報告したが、この空戦で実際に撃墜されたP-39は1機のみで撃墜を主張している隊員は6名いるため実際には誰が撃墜したのかは不明である。

 8月4日にはラビ飛行場の強行偵察では地上銃撃の後にP-40と空戦となり1機撃墜を報告しているが、この空戦で連合軍側に空戦による被撃墜はなかった。米軍がガダルカナル島に上陸した8月7日の空戦では空中火災を起こしたものの無事に帰還することができた。8月21日には高塚飛曹長含む台南空零戦隊6機がF4F4機と交戦、高塚飛曹長は1機撃墜、1機不確実撃墜を報告しているがこれも連合軍側には空戦での被撃墜はなかった。

 9月13日には陸軍の河口支隊のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪還を目的とした作戦に連動して成功した場合に強行着陸するため陸軍の参謀を載せた陸偵の援護として出撃するが、高塚飛曹長を含む台南空零戦隊9機はガ島上空で26機のF4Fと空戦となり、高塚飛曹長及び高塚小隊全員が未帰還となった。

 

高塚寅一少尉関係書籍

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。高塚一空曹の9月13日の空戦での活躍についても描かれている。

 

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著
大日本絵画 (2016/2/1)

 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。

 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。

 高塚飛曹長が予備役から招集され台南空に着任した直後からの活躍が詳しく書かれている。

 

梅本弘『ガ島航空戦』上

 本書は私にとっての名著『海軍零戦隊撃墜戦記』を上梓した梅本氏の著作である。本書の特徴は著者が日米豪英等のあらゆる史料から航空戦の実態を再現していることだ。これは想像通りかなりのハードな作業だ。相当な時間がかかったと推測される。『海軍零戦隊撃墜戦記』は宮崎駿氏おススメの本で、有名なラバウル航空戦の後半部分を史料を元にして再現したものだ。後半部分というのは私の憧れ、岩本徹三飛曹長が活躍した時期の前後だ。本書はそのラバウル航空戦の初期の戦いについて記している。高塚飛曹長に関してはソロモン航空戦の時の活躍が描かれている。

 

まとめ

 

 高塚飛曹長の撃墜数は16機ということになっているが、実際の数となると、分かっているのは零戦初空戦時の1機の他は、7月26日、29日の協同撃墜、8月2日のP-40の撃墜である。これらの撃墜数を協同撃墜として欧米式にカウントすると1.15機で高塚飛曹長の総撃墜数は2.15機ということになる。他にも日中戦争での撃墜やその他把握できなかった空戦もあるかもしれないので断定はできないが、「口だけの男ではない」と言われた老練な搭乗員高塚飛曹長をもってしても撃墜とはこれほど困難なものなのである。

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

中島文吉飛曹長の経歴

 

 1918年富山県生まれ。1936年9月33期操練を卒業後、鹿屋空へ配属された。1938年3月13空、7月15空に異動。1941年9月3空に配属され太平洋戦争開戦を迎える。3空隊員として比島・蘭印航空撃滅戦に参加。1942年11月252空に転じてラバウルに進出。1943年2月マーシャル群島に転進した。年10月6日、米機動部隊のウェーク島来襲に対して増援のため出撃、米艦載機の奇襲により乱戦となり未帰還となった。

 

中島飛曹長の太平洋戦争

 

 操練33期の戦闘機専修者は5名と少ない。これは戦前の少数精鋭教育のためである。同期には翔鶴戦闘機隊で活躍した大森茂高少尉がいる。前後のクラスでは32期に「空の宮本武蔵」と呼ばれた武藤金義少尉、34期には「零戦虎徹」を自称した岩本徹三少尉がいる。中島文吉飛曹長は17歳で戦闘機搭乗員となったため太平洋戦争開戦時には23歳と年齢的には若いが、日中戦争には勃発時から防空任務に就いているなど経験が多い。

 太平洋戦争開戦時には3空に所属しているが、この3空は練度の高い隊員が非常に多かった部隊で新米搭乗員でも飛行時間が1000時間を超えていたといわれている。3空は開戦後、フィリピンのクラーク基地攻撃を手始めに台南空と共に開戦当初の比島・蘭印航空撃滅戦を行った。中島一飛曹も3空隊員として幾多の空戦に参加している。

 1942年11月、中島上飛曹は252空に転出する。この252空は現在の北朝鮮で編成された戦闘機陸攻混成部隊であった元山航空隊から戦闘機隊を抽出して編成された部隊で同年9月に館山で編成され、11月にはラバウルに進出する。搭乗員にはベテランの武藤金義上飛曹、宮崎勇一飛曹等が在籍していた。中島文吉上飛曹も252空の一員として空母大鷹によってラバウルに進出、翌年の2月に内南洋に進出するまで数ヶ月にわたって熾烈なソロモン・ラバウル航空戦に参加する。

 進出早々の11月14日、飛行隊長菅波政治大尉率いる252空零戦隊6機は輸送船団掩護に出撃、第1小隊は菅波大尉が直率、中島上飛曹は第2小隊の小隊長として出撃した。全機無事に戦闘は終了したものの菅波大尉は戦果確認に戻ってしまう。中島飛曹長は菅波大尉に同行しようとしたが菅波大尉に制止されてしまい、それでも律儀な中島上飛曹は菅波大尉に付いていこうとすると菅波大尉は強い調子で制止したため断念した。その後菅波大尉が戻ってくることはなかった。

 ラバウル進出後、わずか5日で飛行隊長を失った252空であったが、後任には士官でありながら個人撃墜11機の記録を持つと言われている周防元成大尉が着任、数ヶ月にわたって連日のように上空哨戒や戦闘に活躍することとなる。しかし1943年2月になると中部太平洋の緊張が高くなり始めたため252空はラバウルから後退、部隊を二分して1隊をウェーク島、1隊をマーシャル諸島に配置したが、中島上飛曹はマーシャル諸島に展開することとなった。

 1943年10月6日、ウェーク島が米機動部隊に襲撃されたためマーシャル諸島に展開していた252空に出撃命令が発令された。中島上飛曹も増援隊の一員として第2小隊2番機として出撃したが、途中、F6Fヘルキャットの襲撃により空戦に突入、中島上飛曹は未帰還となった。尚、この空戦がF6Fが日本軍と行った最初の空戦であったようだ。総撃墜数は16機といわれている。

 

中島文吉飛曹長関係書籍

 

宮崎勇『還って来た紫電改』

 総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。

 

まとめ

 

 操練33期の戦闘機専修者はわずか5名、のちの搭乗員不足の状況を考えるとお寒い限りであったが、航空機はあくまでも海戦の補助戦力であったため致し方ないといえる。この5名の内、終戦まで生き残ったのは普川秀夫少尉ただ一人で他の4名は日中戦争、南太平洋海戦、終戦間際の九州で散っている。生存率は20%である。

 

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