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航空機

01_スピットファイア
(画像はwikipediaより転載)

 

ポートダーウィン空襲

 

ジークは右上方に急旋回をして攻撃を回避したあとあと(ママ)降下した。私もそのあとを追って急降下を行ない、300ヤード(274.3メートル)付近から3分の2秒の連射を行なった。そのままでは攻撃を受けることが予期されていたため、右に急旋回する回避行動をとったのち、ジークの動きを見るために左に旋回した。さらにそのジークを追って急降下を続けると、5,000フィート(1,524メートル)付近で敵機から白い煙が上がり始め、相手はそのまま地上に墜落炎上した。
クリステンアレキサンダー『キラーと呼ばれた男』P215

 

オーストラリア空軍のトップエース、コールドウェル大佐

 これは1943年6月30日、日本海軍航空隊とオーストラリア空軍の戦闘に参加したオーストラリア空軍のエースパイロット、コールドウェル大佐が日本の戦闘機ジーク(零戦)を撃墜した記録である。コールドウェル大佐とは、オーストラリア空軍史上最高の敵機を撃墜したエースで総撃墜数は27.5機にもなる。1910年シドニーで生まれた。30歳の時に年齢を偽り空軍に入隊、翌年少尉に任官した。天性の才能があったようでわずか157時間の飛行時間で実戦に参加、1ヶ月半後にはドイツ空軍のBf109を撃墜して初戦果を挙げた。

 オーストラリア空軍は実力主義であったようで、実績を挙げたコールドウェル少尉はトントン拍子に出世、わずか4年で第11航空団司令に任命され、階級も中佐となる(秦P97)。英国の名機スピットファイアで編成されたこの飛行隊はポートダーウィンに展開、日本空軍と対峙することになる。

 これに対する日本空軍戦闘機隊は、主に海軍の202空で太平洋戦争開戦と同時に台南空と共に比島で航空撃滅戦を展開、南方作戦を終了した後、チモール島に展開していた部隊である。台南空以上にベテランが揃えられていた部隊で赤松貞明中尉や横山保中佐等が在籍していた部隊でもある。海軍航空隊の中でも特にベテランが多い精鋭部隊であった。6月30日の空襲時の202空の指揮官は鈴木實少佐でこれまた日中戦争以来のベテランであった。爆撃機隊は主に陸攻部隊である753空で、一時的に陸軍の戦闘機隊である飛行第59戦隊、爆撃機隊である61戦隊も参加している。

 この空戦の結果、スピットファイア隊は6機が撃墜されたものの、敵戦闘機3機、爆撃機4機を撃墜、不確実撃墜4機を報告している。6機の損失を出したものの、7機(資料によっては8機)を撃墜しているのでスピットファイア隊としては互角の戦いであったといってよい。コールドウェル大佐自身はこの空戦で零戦1機を撃墜し撃墜数は26.5機となった。

 

 

日本側から見てみると。。。

 ここで日本側からこの空戦を見てみたい。6月30日の空襲の目標は内陸に位置するブロックスクリーク基地で、ここには米軍の新鋭爆撃機B24が大量に配備されていた。航続距離3,540kmという性能を誇るB24を地上で破壊するのが作戦の目的である。しかしブロックスクリークは内陸に位置するため攻撃には非常な危険が伴う。このため戦闘機隊の指揮官鈴木實中佐は、6月30日の出撃に関しては特に熟練搭乗員を選んでいた。日本海軍の搭乗員は下士官が一番練度が高い。今回の編成は下士官と下士官からの叩き上げである准士官のみで編成され、唯一の士官である鈴木中佐が指揮官となるという特異な編成で行われた(神立P247)。

 鈴木隊長に率いられた202空零戦隊27機と754空の一式陸攻24機は一路ブロックスクリークに向かう。これに対してコールドウェル大佐率いるスピットファイア38機が激撃に上がった。ここに空戦の火ぶたが切って落とされた。この空戦は予想通りの激烈な空戦となり、百戦錬磨の指揮官である鈴木中佐ですら自分の身を守るのが精いっぱいであったようだ。空戦が終わり基地に帰還してみると出撃27機中帰還したのは25機であった。しかししばらくするともう2機も帰還。全機無事に帰還したのだった。しかも陸攻隊にも2名が機上戦死したものの撃墜された機は無かった。

 

 

撃墜された零戦は1機もない

 そう、実は冒頭のあの精緻な空戦の様子。間違いなのだ。6月30日の空戦では日本側に損害は1機もない。故にあの煙を噴きながら地上に激突した零戦というのは存在しないのだ。しかしこれはコールドウェル大佐が問題なのではない。コールドウェル大佐率いるスピットファイア隊の空戦技術が高かったことは当の鈴木中佐も認めているし、コールドウェル大佐の撃墜戦果も確認されたているものも多い。この空戦では日本側もスピットファイア13機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜したのは先ほども書いたように6機のみだ。

 よく「何十機撃墜のエース」というようなものがあるが、実際には本当に撃墜していたのかは誰にも分からない。台南空のエースパイロットである坂井三郎氏に言わせると「戦果報告というのは、まずそのほとんどが誤認」だそうだ(梅本P2)。実際、坂井氏が参加した1942年8月7日の空戦では台南空と米海軍戦闘機隊が激突した結果、台南空は撃墜40機を報告したものの実際撃墜したのは12機であった。戦果が3倍以上に膨らんでいるのだ。当時の台南空の精鋭を以てしてもこれほどの誤認戦果が出るのだ。

 そして彼我の搭乗員の練度が低下してくる上に混戦となってくる太平洋戦争後期の空戦では戦果報告と実際の戦果の差はさらに激しくなる。1943年7月17日、つまりは今回のブロックスクリーク攻撃の翌月行われたブイン基地での迎撃戦では海軍航空隊は45機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜していたのは6機、同年11月11日に行われたラバウル迎撃戦では海軍航空隊は71機の撃墜を報告しているものの実際に撃墜したのは7機のみであった(⊃P305,306)。これは報告と実数の極端な乖離があったものを抽出したのだが、それ以外の空戦をみても、平均的に戦果は3倍程度は膨らんでしまうようだ。空戦での戦果確認というのはそれほど難しいものなのだ。

 

 

コールドウェル大佐は零戦を1機も撃墜したことがない?

 コールドウェル大佐が生涯で撃墜した航空機は合計で27.5機。28.5機という資料もあるようだが、27.5機というのが正解のようだ(クリステンP327)。この中でコールドウェル大佐は7機の日本機を撃墜している。その内訳は、零戦4機、一式戦闘機1機、九七式艦攻1機、百式司偵1機で、日時を書くと1943年3月2日に零戦1機、九七式艦攻1機撃墜、5月2日に零戦2機撃墜、6月20日に一式戦闘機1機撃墜、6月30日に零戦1機撃墜、8月17日に百式司偵1機の撃墜を報告している。

 実はこの戦果の内、零戦4機撃墜は全て誤認である。6月30日については前述したが、3月2日、5月2日の空戦でも零戦隊は全機帰還しており、日本側に損害の報告はない。そして6月20日の空戦の一式戦闘機1機の撃墜であるが、これは対戦した陸軍の59戦隊に一式戦闘機1機の未帰還が報告されているのでこれが該当するとも思われるが(秦P383)、オーストラリア空軍はこの空戦で零戦5機(一式戦闘機を零戦と誤認している)の撃墜を報告しているので実際にこの一式戦闘機を撃墜したのが誰なのかは不明である。

 8月17日の百式司偵1機は、202空の田中富彦飛曹長、河原眞治上飛曹機で撃墜が確認されている。以上を総合するとコールドウェル大佐の日本軍に対する戦果は、百式司偵1機、九七式艦攻1機の合計2機、さらに一式戦闘機1機を撃墜した可能性があるというところだろう。ただ、3月2日の九七式艦攻であるが、これはオーストラリア空軍の情報将校がパイロットの証言を集めて九七式艦攻と「判断」しているだけなので、実際にはどこの部隊のどの飛行機なのかは謎である。

 

 

ともあれ。。。

 実戦は命がけである。空戦で相手の撃墜を確認している余裕はない。特に第二次世界大戦では編隊空戦が主流となり、混戦となる場合が多い。日中戦争での零戦初空戦のような最新鋭機を使った一方的な戦いにおいてでも実際の戦果が13機撃墜であるのに対して27機撃墜を報告している。故にコールドウェル大佐の撃墜数が実数と異なることによってコールドウェル大佐が「偽物」である訳ではない。彼は飛行時間も1,200時間近く、隊長としても人望を集めた優秀なパイロットであったのだ。

 「敵機を撃墜」といってもその中には人間が乗っている。敵機を撃墜するということは多くの場合、中の人間を殺戮することでもある。コールドウェル大佐は、現役時代にこれらのことに対して割り切っており、無関心を決め込んでいた。兵隊としては当然のことだ。さらにコールドウェル大佐はパラシュートで脱出した敵パイロットも射殺するという冷酷さを示した。この結果、付いたニックネームは「殺し屋」で、当初は自称もしていたニックネームであったが、晩年になると毛嫌いするようになっていく(クリステンP20)。徐々に「殺戮をした」ことに対して無関心ではいられなくなってきたのだ。

 さらに最晩年になると撃墜した搭乗員の遺族からの面会も拒否(遺族は許している)、撃墜した敵パイロットの話になると涙声になっていたという。オーストラリア空軍のトップエースコールドウェル大佐の「スコア」は実際にはもっと少ない。少なくとも零戦4機の撃墜は完全な誤認だ。英雄を求める人々にとっては残念なことであろうが、故コールドウェル大佐にとっては朗報かもしれない。自身が撃墜、すなわち殺戮したと思っていたのは間違いで、敵パイロットは死んでいなかったのだ。

 

参考文献

  1. クリステン・アレキサンダー『キラーと呼ばれた男』 津雲 2011年
  2. /前衂А愨2次大戦世界の戦闘機隊付・エース列伝』 酣燈社 1987年
  3. 神立尚紀『祖父たちの零戦』講談社 2013年
  4. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』1巻 大日本絵画 2011年
  5. ⊃前衂А愼本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1975年
  6. 秦郁彦『日本陸軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1973年

 

 

 


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01_深山
(画像は深山 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 キ91とは、日本が計画した富嶽に次ぐ超大型爆撃機である。全幅はB29を上回る巨人機であった。計画値通りであれば性能もB29に匹敵するものであったが、戦局の悪化により超重爆の必要性はなくなり開発中止となった。

 

超重爆撃機 キ91 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 48.0m
全長 33.0m
全高 10,0m
自重 5,800kg
最大速度 580km/h(高度10,000m)
上昇力 8,000mまで20分30秒
上昇限度 13,500m
エンジン出力 2,500馬力4基
航続距離 10,000km(爆弾無し)
武装 20mm連装機関砲4門、20mm4連装機関砲1門
爆装 最大8,000kg
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 1943年5月、陸軍は、川崎航空機に対して超重爆撃機キ91の試作を命じた。キ91の性能要求は、最大速度が高度10,000mで580km/h、航続距離は爆弾4,000kgを搭載して9,000km、武装は20mm機関砲12門、爆弾の最大搭載量8,000kgという空前のものであった。試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として6月から基礎研究を開始、10月には設計が開始された。高度10,000mでの高性能を実現するためには、与圧キャビン、排気タービン過給器が必要であったが、これは同時期に川崎航空機で試験中であったキ108(キ102戦闘機の高高度戦闘機タイプ)が与圧キャビンを採用予定であることから、キ108で実験を行ったのちキ91で実用化するという方針に決まった。

 計画では、キ91は、全幅48.0m、全長33.0m、全高10.0m、重量5,800kgというB29を超える大きさであり、中島飛行機で設計中の超大型爆撃機富嶽に次ぐ大きさであった。エンジンはハ214ル(陸海軍統合名称ハ42/21型 2,500馬力)で、プロペラは直径4.4m4翅の超大型プロペラであった。武装も強力で、機首、前下方、後上方、後下方には20mm連装機関砲、尾部には20mm4連装機関砲の合計12門の20mm機関砲を予定していた。爆弾搭載量は8,000kgとB29の9,000kgには及ばないものの日本の爆撃機では最大のものであった。1944年4月と5月にモックアップ審査が行われ結果は良好であったようだが、空襲の激化、材料の欠乏、ハ241ルエンジンの開発遅延等から1945年2月に開発中止が決定した。予定では1946年6月に試作1号機、1947年3月に2号機が完成する予定であった。

 

生産数

 計画のみ。

 

まとめ

 

 当時の日本には基礎技術力が圧倒的に不足していた。与圧室を作る技術、強力なエンジンを作る技術のどちらも欧米に比べて未熟であった。さらに、仮にキ91が完成していたとしても、当時の日本にはこの超重爆を量産する資源も生産能力もなかった。そして生産能力があったとしても米国の防空システムを突破することは難しかったであろう。B29ですら貧弱な防空システムと高高度性能の低い日本機相手に1割以上の損害を出していたことを考えると、高性能の米国戦闘機に対して優位に戦える可能性は低い。つまるところキ19が実戦に投入され戦果を挙げる可能性はゼロであったと言っていい。まさしく当時の日本の国力を超えた巨人機であったといえる。この機体を開発する資源やコストをもう少し有効に使用することは出来なかったのかと悔やまれる。しかし米国ですら開発に手間取った巨人機を開発しようとした技術者の挑戦のみは評価されてもいいだろう。

 

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01_一式戦闘機
02_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争中の軍用機で最も有名な機体は海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」と陸軍の一式戦闘機、通称「隼」の2機種であろう。この2機種、実は使用しているエンジンも同じであれば設計思想も同じで非常に似通った機体なのである。同時期に開発され、またほぼ同時期に改良されたこの2機種の性能を比較してみたい。

 

ゼロ戦 VS 隼 〜概要〜

 

 

 

性能(零戦21型 隼儀拭

全幅 零戦 12.00m
   隼 11.44m
全長 零戦 9.05m
   隼 8.83m
全高 零戦 3.53m
   隼 3.31m
自重 零戦 1,754kg
   隼 1,580kg
最大速度 零戦 533km/h(高度4,700m)
   隼 495km/h(高度4000m)
上昇力 零戦 5,000mまで5分55秒
   隼 5,000mまで5分30秒
上昇限度 零戦 10,008m
   隼 11,750m
エンジン出力 零戦 950馬
   隼 950馬力
航続距離 零戦 2,222km(増槽装備時 3,502km)
   隼 1,146km(増槽装備時 2,600km)
武装 零戦 20mm機機銃2挺、7.7mm機銃2挺 60kg爆弾2発
   隼 12.7mm機関砲2門 100kg爆弾2発
設計開発 零戦 三菱
   隼 中島飛行機

 

開発

03_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 海軍の傑作艦上戦闘機九六式艦戦の後継機として零式艦上戦闘機の開発が始まったのは1937年10月であった。設計主務者は九六式艦戦と同じく堀越二郎。高速化してきた先進国の航空機の進歩に合わせて速度の向上と航続距離の延長、さらには九六式艦戦並の運動性能までも要求するという不可能に近い要求であった。零戦の計画から2ヶ月後である1937年12月、陸軍も九七式戦闘機の後継機の開発がスタートした。無茶な性能要求は陸軍も同様であり、傑作戦闘機九七式戦闘機よりも40km/h以上の速度、1.6倍の航続距離、そして同等の格闘戦能力が要求された。これに対して中島飛行機は小山悌技師を設計主務者として開発をスタートする。

 試作機の完成は陸軍のキ43(のちの一式戦闘機隼)の方が早く、開発指示から1年後の1938年12月には試作1号機が完成した。これに対して十二試艦戦(のちの零戦)は3ヶ月後の1939年3月に試作1号機が完成する。どちらも戦闘機としては初の飛行時に脚が機体内に収納される引込脚、密閉型風防が採用された。エンジンは海軍が瑞星、陸軍は1939年に中島飛行機で開発されたハ25発動機(海軍名「栄」)であった。但し、零戦のエンジンは増加試作機の3号機以降は栄発動機に変更されている。

 

性能

04_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 飛行性能に関しては、キ43は機体が大型化した割には最高速度は495km/hと九七式戦闘機の470km/hより25km/h速いだけであり、航続距離は向上したものの旋回性能では九七式戦闘機に劣っていた。このため発動機をハ25の改良型であるハ105に換装した性能向上型を開発するということで採用は見送られた。

 これに対して零戦は同様に機体は大型化、旋回性能は低下したものの最高速度は533km/hと九六式艦戦を大きく上回っていた。武装は当初キ43は7.7mm機銃2挺のみであったのに対して零戦は20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺と強力であった。陸軍でも当初から12.7mm機関砲を搭載する計画はあったが、12.7mm機関砲の信頼性が今ひとつ担保されないため7.7mm機銃2挺という仕様になったのであった。のちに7.7mm機銃と12.7mm機関砲装備の儀寝機△気蕕12.7mm機関砲2門装備の儀進困開発されている。照準器は零戦のOPL光学照準器に対して隼は旧式の眼鏡型照準器を採用している。

 

零戦21型と隼儀神能比較

 最高速度が零戦の533km/hに対して隼の495km/h、機体設計はどちらも軽量化を重視したため機体強度は低く、零戦、隼共に空中分解事故を起こしている。上昇力は5000mまでの上昇時間が零戦の5分55秒に対して隼が5分30秒と優っている。上昇限度も零戦の10,008mに対して隼は11,750mと隼の方が上である。しかし、それ以外の性能では航続距離が零戦の2,222kmに対して隼の1146kmと半分程度で武装も零戦の20mm機銃2挺と7.7mm機銃2挺に対して、隼は儀進困任12.7mm機関砲2門と貧弱である。さらに照準器は零戦の光学式照準器に比べ、隼の眼鏡型照準器は照準する際に視界が狭くなり不利である。

 

陸海軍戦闘機性能コンテスト

 1941年1月、恒例の陸海軍戦闘機性能コンテストが開催された。これは陸海軍が会し陸海軍の戦闘機の性能比較をするというもので、1941年は海軍が零戦11型、陸軍が一式戦闘機隼儀燭鮖臆辰気擦拭この結果、カタログスペックでは、速度や航続距離は零戦、旋回性能、上昇力では一式戦闘機が優っている筈なのだが、上昇力を含め、すべての点において零戦の性能が優っていたという。これは海軍と陸軍の性能測定環境の違いであり、陸軍は海軍よりも有利な状況で測定した結果であったとみられている。

 

制式採用

05_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、日本は泥沼の日中戦争に突入しており、海軍は九六式陸上攻撃機によって重慶爆撃を行っていたが、九六式艦戦の航続距離では九六陸攻の護衛をすることは出来ず、損害が増していた。これに対して海軍は長大な航続距離を持つ零戦で九六陸攻を護衛するために制式採用される前に零戦を実戦に送り込んだ。制式採用は1941年7月である。これに対して隼は前述の通り陸軍ではあまり評価されておらず、中島飛行機も制式採用を諦めていたが、シンガポール攻略の可能性が検討され始めた結果、陸軍戦闘機の中では航続距離が長い一式戦闘機隼が制式採用されることとなった。零戦の制式採用から1年後のことであった。

 このような経緯から、太平洋戦争開戦時には零戦は南雲機動部隊、第三航空隊、台南航空隊等の第一線部隊にはほぼ配備されていたのに対して、隼が配備されていたのは飛行第59戦隊と第64戦隊の2個飛行戦隊のみであった。以降、零戦、隼共に陸海軍の主力戦闘機として量産されていくが、陸軍が1942年3月に隼の存在を愛称「隼」と共に公表したのに対して、海軍は1943年に至るまで零戦の存在を秘匿し続けた。このため当時日本国内では、零戦よりも隼の方が圧倒的に有名であった。

 

改良型の比較

06_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

隼況燭販軅32・22型

 太平洋戦争中盤になるとどちらの機体も旧式化が顕著となり、零戦、隼共にバージョンアップが行われた。隼が儀燭ら況拭↓祁燭伐良されていく。隼況燭亮腓焚良点はエンジンをハ115(海軍名栄21型)、プロペラを2翅から3翅に変更、主翼翼端を30cm短縮し、隼の弱点である機体強度を改良している。この結果、最高速度は515km/hとなったものの、重量の増加から翼面荷重が124kg/平方メートルとなり水平面の旋回性能が低下、上昇力も儀燭5,000mまで5分30秒から5分49秒、上昇限度も11,750mから11,215mと低下している。試作機は1942年2月に完成、1943年1月頃から実戦配備された。

 この隼況燭試作されるおよそ半年前の1941年7月、零戦32型が初飛行をした。この32型は隼況燭汎瑛佑縫┘鵐献鵑魃21型(陸軍名ハ115)に変更、主翼翼端を50cm短縮している。この改良により航続距離は大幅に減少したものの最高速度は545km/hに向上、上昇力も向上しているが、隼況深舁磴鮹蚕未靴燭燭疇瑛与緤震未寮回性能は低下している。この32型は1942年6月あたりから実戦配備されている。さらに1942年秋には主翼を21型と同様の長さに戻し、燃料タンクを増設した22型が完成。最高速度は541km/hと若干低下したものの、航続距離は歴代零戦中最長となった。隼況親瑛諭1943年1月に実戦配備されている。

 隼況燭販軅32型・22型の比較でも、最高速度が隼況燭515km/hに対して零戦22型でも541km/hと圧倒しており、やはり零戦に軍配が上がるようだ

 

隼祁燭販軅52型

 1943年末、陸軍は中島飛行機に対して隼祁燭寮澤廚鯑蘯─1944年3月に正式に製作命令がでた。主な改良点はエンジンを水メタノール噴射式のハ115競┘鵐献鵑法排気管を推進式単排気管に変更、操縦席前後に厚さ13mmの防弾鋼板が設置されたことである。試作機は1944年12月に初飛行、最高速度は568km/h、航続距離も2,100km、上昇力も5,000mまで5分19秒、上昇限度も11,400mと隼史上最高の数値が出た。量産機になると性能が低下したものの550km/hとそれまでの隼に比べると30km/h以上の高速を発揮している。

 零戦52型は、1943年8月に制式採用された零戦22型の改良型で主翼翼端を再び50cm短縮、32型のように角型ではなく、丸型に成形された。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管は推進式単排気管に変更している。この結果、最高速度は565km/hと零戦中最高速度を記録、最も遅い零戦52型丙でも540km/hを発揮している。上昇限度は11,740mで上昇力は6,000mまで7分1秒、航続距離は1,550kmであった。

 試作機の完成した時期が零戦の1943年夏に対して、隼祁燭1944年12月初飛行は1年半近くの開きがあり、単純な比較は無理があるかもしれないが、この頃になると流石に零戦も改良の限界を迎えたようである。上昇限度以外の性能は、おおむね隼祁燭寮能が零戦を上回っている。この隼祁燭砲覆辰独擦禄蕕瓩椴軅錣鯆兇┐燭箸い┐襦

 

そもそもだねぇ。。。

 

 しかしここで忘れてはならないのは海軍が制空戦闘機をここまで零戦一本で戦ったのに対して、陸軍は1943年には三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風が制式採用、実戦に投入されていることだ。三式戦闘機は1941年12月に試作1号機が初飛行、最高速度が591km/hという高い性能を発揮した。1942年12月には飛行第68戦隊に配備が始まり1943年3月に完了、同年ラバウルに進出している。

 四式戦闘機疾風は1943年3月に完成、4月に初飛行、1944年8月には実戦に投入されている。最高速度は655km/h、上昇力は5,000mまで5分弱、航続距離は2,500kmと圧倒的である。隼対零戦という視点だけでみれば零戦がほぼ圧倒しているものの、陸海軍の戦闘機という視点で見た場合、零戦32型が登場した時点ですでに陸軍は三式戦闘機を完成させており、最高速度だけでも零戦32型の545km/hに対して三式戦闘機の591km/hは圧倒的である。さらに零戦52型に対して四式戦闘機の655km/hとはすでに比較にすらならない。海軍も末期には紫電改を開発するものの生産数は400機程度と圧倒的に少ない。海軍は零戦の高性能に頼り過ぎてしまったようだ。

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

最強の零戦54型丙

 

 1940年に11型が制式採用されて以来、21型、32型、22型、52型、53型、62型、63型とアホみたいにバリエーション展開をしてきた零戦。すでに二番煎じというレベルではなく、柳の下のどじょうも3〜4匹は居たもののさすがに53型、62型くらいになるとかつての駿馬零戦もポンコツ感が増してきた。この最大の理由はエンジンで、零戦開発当時は小型で高出力であった栄エンジンも戦争後期の重武装、重装甲型にシフトしつつある戦闘機を引っ張るには力不足であった。特にこの問題が顕著だったのが62型で、急降下爆撃機型に各部が強化された零戦を飛ばすには非力に過ぎ、最高速度が52型に比べて20km/h以上低下するという事態になってしまった。こうなるともう栄エンジンの性能が限界であることは誰の目にも明らかであった。

 

そもそも金星が好きなの!

02_栄二一型
(栄21型 画像はwikipediaより転載)

 

 1944年11月、海軍は零戦の次期改良型に栄以外を使用することを許可した。これは、上記の理由も少しはあったのかもしれないが、最大の理由は、エンジンの生産関係の問題であったようだ。この時期、栄エンジン生産工場を中島飛行機から石川島へ変更したことにより栄の生産低下が予想されたからのようだ。しかし、これによって、とうとう零戦も新型エンジンを搭載することができるようになったのだった。

 実は零戦のエンジンは当初から栄エンジン一択であった訳ではない。零戦の試作時点で候補に挙がっていたエンジンは、三菱製の瑞星13型と金星46型の二つで、栄エンジンは計画段階では完成していなかった。そして、この二つのエンジンはそれぞれ特徴があり、瑞星は小型であるが非力、金星は大馬力であるが大型であった。設計主務者の堀越技師としては将来性を考えて出力の大きい金星46型を選びたかったが、戦闘機といえば小型の九六式艦戦サイズが当然と思っている搭乗員と海軍。九六戦に比べるとバカでかい零戦に、さらにデカいエンジンを積んでしまっては海軍に採用されないかもしれない。そう考えた末に堀越技師は妥協することにしたようだ。結局、金星は諦めて小型で非力な780馬力瑞星13型を採用、さらに量産機では新しく完成した栄12型エンジンに変更されたという経緯があった(堀越P99)。つまり設計主務者の堀越技師は当初から金星エンジンを搭載したかったのだ。

 

 

最強の零戦完成じゃー!

03_零戦52型丙
(零戦52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

 この金星エンジン採用の要望はマリアナ沖海戦の直後1944年7月に52型丙の開発命令が出た時にも行われた。この時期になるともうすでに栄21型エンジンは性能の限界に達しており、さらに重武装、重装甲を要求された零戦52型丙を栄21型は余裕を持って飛ばすだけの力はなくなっていた。そこで三菱側は零戦のエンジンを栄から金星へと変更を要望した。しかし海軍は、エンジンの換装ともなると大幅に時間がかかるためという理由で却下したのだ。

 その却下から僅か4ヶ月後の1944年11月。海軍によりエンジンの換装も可能にした零戦の改造試作の指示が出された。この結果、三菱設計陣はエンジンを三菱製ハイパワーな金星62型に換装。さらに軽量化のため胴体内13mm機銃の廃止、胴体内燃料タンク以外は防弾版を廃止して自動消火装置に変更する等重量軽減が図られた。エンジンの変更に合わせてカウリングを再設計、プロペラも3翅3.15mのハミルトン定速プロペラに変更された。燃料タンクは胴体内140L1個、翼内215L、外翼内40Lが左右2個で合計650Lに150L増槽を左右翼下に設置可能であった。この燃料搭載量は21型520L、32型480L、22型580L、52型570L、52型、62型の500Lと比べて圧倒的に多く、全零戦中最高である。

 武装は、九九式2号20mm機銃4型2挺(携行弾数各125発)、三式13mm機銃2挺(携行弾数各240発)、性格の違う2種類の機銃を装備するという非合理さは改善されなかったものの、少なくとも52型丙よりは1挺減らして軽量化。爆弾は60kgまでは左右翼下に各1発、500kg、250kg爆弾は胴体下に搭載できるようになっている。これらの変更に伴い重量は軽量化を意識したにもかかわらず零戦中最高重量である3,155kgとなったが、1,560馬力を発揮する金星62型エンジンのおかげで最高速度は海軍資料では572km/h、三菱資料では563km/h、6,000mまでの上昇速度は、海軍資料では6分50秒、三菱資料では6分58秒、上昇限度は海軍資料で11,200m、三菱資料で10,780m、航続距離は全速30分プラス巡航2.5時間となっている。

 

最初から堀越技師の言う通りにしていれば。。。(ボソッ)

04_零戦52型甲
(零戦52型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 最高速度では海軍資料でいえば零戦中最高速、三菱側の資料を基にしてもそれまで最速であった52型と同等であり、上昇力に関しては間違いなく全零戦中最高である。制式採用後には64型と呼ばれる予定であったこの最強の零戦54型丙は、1945年4月下旬に試作1号機が完成、その後2号機も完成したが、この試作機2機のみで量産されることはなかった。量産される前に終戦となってしまったからである。前述のように栄から金星への換装は十二試艦戦当時から要望されていたもので、実は、堀越技師が最も作りたかった零戦の改良型であったという(堀越P356)。

 海軍は航空機に対して過大な要求を行う傾向にあった。零戦のように成功した機体もあったが、万能を要求するあまりに「どっちつかず」の二式陸偵(後の月光)のような機体も生み出してしまった。「仮に」という話をしても仕方がないが、仮に海軍が堀越技師に全てを任せ最初から通して十二試艦戦のエンジンを金星46型にして、以降、金星のバージョンアップ毎に機体を改良していけば、実はこの零戦54型丙、もっと早くに量産、実戦投入が可能であったのだ。少なくとも技術的には可能であった。ホント残念。トホホ。。。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史 5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 堀越二郎「零戦主任設計者の回想(二)」『零戦よもやま物語』 光人社 1995年

 

 

 


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01_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

零戦62、63型とは

 

爆撃戦闘機隊

 「足の速い零戦を爆装させていち早く敵空母群に攻撃をかけ、飛行甲板を使用不能にする」という考えはどうも1943年頃には生まれていたようだ。この戦法を訓練するために、ミッドウェー海戦後に誕生した新生第3艦隊の空母瑞鶴戦闘機隊の中にA攻撃隊という飛行隊が編成された。この飛行隊は2個小隊8名の隊員から成っており、隊長は海兵67期の小林保平大尉、第2小隊長は操練38期のベテラン岡部健二上飛曹が任命された。このA攻撃隊は1943年春頃から爆撃訓練を始めたようであったが、ほぼ勘頼りの爆撃訓練は危険と隣り合わせであった。

 爆弾を命中させるには目標上空1,000mから30°の角度で緩降下、体当たり寸前で爆弾を投下して離脱するというアクロバティックな技であった(杉野P474)。この訓練は内地から始まり、トラック島でも標的艦矢風を使って行われた。トラック島では接近しすぎた1機が標的艦矢風に衝突、搭乗員が死亡してしまうという悲劇も起こった(杉野P474、谷水P48)。それほど危険な攻撃だったのである。しかしこのA攻撃隊を含む瑞鶴戦闘機隊は「ろ」号作戦によりラバウルに進出。実戦で緩降下爆撃を行う機会はなかったようである。

 

そもそも強度がたりないのでね

 大々的に実戦で使用されたのは「あ」号作戦で、第一航空艦隊の戦闘機234機中、零戦21型83機を爆装出撃した(零戦P136)。これは当時の艦上爆撃機彗星が大型高速化していたために軽空母からの発着艦が出来ないことに対する対策という意味もあったようだが、そもそも徹底した軽量化で強度が弱く、何度も空中分解事故を起こしている零戦21型でこの爆撃を行うのは無謀であった。現にベテラン艦攻搭乗員である肥田真幸大尉や梅林上飛曹も零戦に搭乗した際の急降下で翼面に皺が寄っていることやフラッター等を問題としている(肥田P208、梅林P267)。さらに爆弾搭載用の金具の空気抵抗も大きかった。このため、速度や航続距離が低下した他、爆弾投下装置の不具合でそもそも爆弾が投下できないという致命的な問題も発生した。

 

 

機体とエンジンのバージョンを表しているのだ!

02_零戦62型
(零戦62型 画像はwikipediaより転載)

 

 こうした経験を基にして開発されたのが戦闘爆撃機型零戦の62型又は63型である。「いや、62型と63型ってどっちなのさ?」と思われるかもしれない。ここでこの「62型又は63型」という妙な呼び方について説明しよう。

 零戦62型又は63型、略符号A6M7。海軍航空機の型名の規則については何度も書いているが、簡単に説明したい。○○型というのは一桁目がエンジンのバージョン、二桁目が機体のバージョンである。零戦は11→21→32→22→52→53型と来ているが、21型ではエンジンは変わらないが機体の構造が変更されたため二桁目のみが「2」となり、32型では機体もエンジンも変更されたため「21」から「32」に変更されている。このような法則で52型、53型まで来て、今回の62又は63型となったのだ。

 

エンジン替えてみた(*´∀`*)エヘ!

03_栄31型甲
(栄31型甲 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦62又は63型という変な呼び方を書いているのは、要するにエンジンで「すったもんだ」があったのだ。零戦のエンジンは有名な栄エンジンである。初代が栄12型で、これは11型、21型に搭載されていたエンジンである。そこに二速過給器を装備した栄21型エンジンが完成、32型以降の零戦は全てこのエンジンを搭載した。

 そこに水メタノール噴射式の栄31型エンジンが完成、これは試験的に52型に取り付けられ、53型として試作された。そして海軍はこの新型栄31型エンジンを次期零戦に装備しようと決めた。つまり52型の機体もエンジンも変更するので63型だ。しかし悲しいかな、当時の日本の基礎工業力は貧弱であった。やっと水メタノール噴射式のエンジンを製作したもののうまく作動しない。作動も不完全で馬力も栄21型と大して変わらず、整備だけは煩雑になったという良い所が一つもない状態であった。

 「いやいやさすがにこのエンジンは使えないでしょ」ということで、栄21型に戻すのかと思ったらそうではない。栄31型エンジンから水メタノール噴射装置を廃した栄31型甲エンジンを新たに製作。これを次期零戦に装着した。「いやいやちょっと待てよ。栄31型エンジンの最大の特徴である水メタノール噴射装置を廃してしまったら、ただの栄21型なのでは???」。考えてみれば当然の論理展開である。「だったらもう62型でいいんじゃね?」という感じで栄31型甲を搭載した次期零戦は62型と呼ばれるようになったのではないかと推測されている(秋本P68)。但し、水メタノール噴射装置を装備した栄31型エンジンを搭載した63型も極少数が生産されたようだが、ほとんどが62型であったようだ。

 

 

機体も替えてみた (・ω<)エヘ!

04_零戦63型
(画像はwikipediaより転載)

 

 まあ、エンジンはともかく機体はどこがどう変わったのだろうか。もっとも変わったのは強度だ。零戦は代々機体の強度が低いのが個性といえる。しかしこれは急降下爆撃機仕様としては当然致命傷になるため、何よりも強度を高める改良が行われた。外観上はそんなに変わらないが、外板や隔壁が分厚くなった。そして胴体下に埋め込み式の爆弾投下装置が設けられた。

 この改良によって増槽が装着できなくなってしまったために、増槽を翼下に装着できるように変更された。この増槽は150Lを左右に1個ずつ搭載できる。合計で300L。それまでの零戦の胴体下の増槽が300〜330Lだったのでほぼ同量の燃料を搭載することが可能となった。他にもエンジンを変更したことでエンジンカバーであるカウリングの設計変更も行われている。

 この改良により62型の最高速度は、543km/h(52型は565km/h)となり、高度6,000mまでの上昇時間は7分58秒(52型は7分01秒)、実用上昇限度は10,180m(52型は11,740m)と全ての点で52型を下回っていた。ただ一つだけ52型を上回っていたのは重量で、52型の2,733kgに対して、3,150kgと大幅に上回っていた。武装は翼内に九九式2号20mm機銃2挺(携行弾数各125発)、翼内と機種に13mm機銃3挺(携行弾数各240発)を装備、爆弾は500kg爆弾までが搭載可能であった。

 

もう無理っス!(´;ω;`)ウゥゥ

 この零戦62型、実戦でもスペック通りの性能を発揮したようで、極めて鈍重で戦闘には不向きな機体であったという(土方P225)。さらには新型の栄31型エンジンも信頼性が低くエンジントラブルも多かったようである(土方P246)。同じ部隊にいた安倍正治一飛曹は63型で飛行中、エンジンが止まりそうになっているし(安倍P225)、零戦63型を空輸した草間大尉も同様にエンジンが止まりそうになっている(草間P396)。

 62型の生産は、1945年5月から始まり終戦まで行われ、総生産数は約490機と推定される(秋本P66)。結局、この零戦62型、63型が量産された零戦の最後となった。日中戦争当時の新鋭機も太平洋戦争末期になるとさすがに限界が見えてきた。原因はエンジンの馬力不足で、傑作エンジン栄にが零戦の高性能の源となり、栄の限界が零戦の限界となった。そしてこれが日本の基礎技術力、工業力の限界であったのかもしれない。

 

参考文献

  1. 秋本実『大いなる零戦の栄光と苦闘 日本軍用機航空戦全史5巻』 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 杉野計雄「奇計”零戦爆撃隊”八人のサムライ」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  3. 谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』 光人社 2000年
  4. 零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』 原書房 1987年
  5. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  6. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年
  7. 土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』 光人社 2004年
  8. 安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』 光人社 1995年
  9. 草間薫「幻の零戦・六三型丙」『零戦、かく戦えり!』 文芸春秋 2004年

 

http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52189130.html

 

 


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01_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

横須賀航空隊最後の空戦

 

あまり有名ではない重爆B32

02_B32
(B32 画像はwikipediaより転載)

 

 1945年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送があり戦争は終了した。と思いきや、実は15日以降に飛来した米軍爆撃機B32に対する邀撃戦が行われている。このB32とはコンソリデーテッド社が製造した大型爆撃機で最高速度は575km/h、航続距離6115km、武装は12.7mm連装銃5基、約9,072kgの爆弾を搭載することが可能であった。しかしB29のような与圧室がなかったため、高高度爆撃が不可能であった。B32の製造はあくまでもB29爆撃機が失敗した場合の「保険」であったため僅か115機が製造されたのみで生産は終了した。大量生産こそはされなかったものの、15機が極東空軍に実戦配備されており、6月15日以降、しばしば実戦に参加していたようである(秦P252)。

 

 

実は終戦後毎日飛んでいたんだよ

 8月18日、このB32が写真撮影のために飛来した際、横須賀航空隊の戦闘機隊が迎撃している。日時がハッキリしないのだが、今回の執筆にあたって参照した資料の内、坂井三郎著『零戦の最期』と神立尚紀『零戦の20世紀』では、17日(坂井P36、神立P107、サカイダP29、34、53)、同じく神立尚紀『ゼロファイター列伝』と秦郁彦『八月十五日の空』では18日となっている(神立P205、秦P249)。

 このように日にちが異なってしまっている理由としては、恐らくB32が終戦の日である15日の翌日以降、16、17、18日と毎日写真偵察を行っていたことが考えられる。詳しく書くと、8月16日5時30分、第312爆撃群第386爆撃中隊のB32、ライマン・Pコムズ中尉乗機のシリアルナンバー42-108543号機、フランク・R・クック大佐操縦の42-108532号機の2機が出撃、特に迎撃を受けることなく帰還している。そして翌17日、今度はフランク・W・ウェルズ中尉が操縦する42-108532号機、42-108539号機の2機が5時43分に読谷飛行場を離陸、東京上空で写真撮影を行った(Pacific)。この際には日本機の迎撃を受けているが、秦氏によるとこの迎撃を行ったのは厚木航空隊の森本宗明中尉率いる零戦隊12機であったとしている(秦P253)。

 

8月18日の空戦

03_紫電改
(紫電改 画像はwikipediaより転載)

 

 そして18日、ジェームズ・F・クライン大尉乗機のシリアルナンバー42-108532、、ジョン・R・アンダーソン中尉(秦氏によると大尉。秦P252、サカイダ氏によると少尉。サカイダP34)の乗機42-108578の2機が6時55分、読谷飛行場を離陸、写真撮影のために東京に向かった(Pacific)。横空で空戦があったのが、17日か18日か、どちらが正しいのかは分からないが、恐らくこの数回の内の17、18日の2回の出来事がごちゃ混ぜになってしまったのだろう。とりあえず秦氏の説に従って18日ということで話を進めよう。

 8月18日13時頃、「敵大型機、千葉上空を南下中」との情報が入った。因みにこの空戦に参加した坂井三郎中尉の記憶によると「敵大型爆撃機一機、千葉上空を北上中」という情報だったようである(坂井P36)。それはともかく、一応終戦の詔は出ていたのだが、横須賀航空隊では何故か戦闘機は燃料も弾薬も完全に装備された状態で駐機、さらには搭乗員までも待機しているというやる気満々の状態であった。

 坂井中尉の記憶によると、この情報に対して隊長の指宿正信少佐は飛行長に電話で連絡、隊長の指示の下で出撃したとなっているが(坂井P37)、同じく空戦に参加した小町定飛曹長によると誰からも命令されておらず、お伺いもたてている暇もなかったという(神立P107)。まあ、どちらが正解なのかは分からないが、ともかく横空戦闘機隊は出撃する。搭乗員が機体へ走っていくとすでにヤル気満々の整備員達がエンジンを起動させていたという。坂井中尉の記憶によるとその時、零戦が10機ほどと紫電改が5〜6機あったという(坂井P37)。

 

 

最後の横空戦闘機隊発進!

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 横空所属の国分道明中尉以下、坂井中尉、小町飛曹長、大原飛曹長、平林上飛曹等が出撃したようだ。この内、坂井中尉は零戦52型、小町飛曹長は紫電改に乗って出撃した。坂井中尉は離陸後、高度6,000mとの指示を受け、6,000mに上昇。僚機が攻撃を開始したことを確認、坂井中尉も後上方攻撃をかけるもミス。B32は、館山上空から大島方面に逃走していった。ここらへんになると味方機も攻撃を中止して帰り始める。しかし坂井中尉は第二撃をかけ、それがB32右翼に命中、そこに別の味方機が攻撃をかけた。B32は高度を下げ、三宅島あたりでは超低空飛行になっていたが、坂井中尉は敵空母の存在を恐れてこれ以上追撃せずに帰還している。

 一方、小町飛曹長は発進後、全力で前方へ出て背面ダイブを実施した。この戦法は直上方攻撃と呼ばれる海軍戦闘機搭乗員が実戦から編み出した戦法で、米軍爆撃機の機銃の死角である前上方から背面急降下で一撃してすり抜けるという有効ではあるが危険な戦法であった。これによりB32に20mm弾が命中したものの、紫電改初搭乗であった小町飛曹長は零戦のつもりで引き起こしをするも重量級の戦闘機である紫電改では引き起こし時のマイナスGによりブラックアウトしてしまった(川崎P293)。そしてさらに伊豆半島上空でもう一撃、合計二撃している(神立P205)。

 最後まで追撃したのは坂井中尉と小町飛曹長だったようであったが(坂井P40、秦P250)、撃墜することは出来なかった。この空戦で一番最後に帰還したのは坂井中尉で、帰還後に敵爆撃機がB29ではなかったことを指摘している(秦P251)。

 

いろいろと食い違いが。。。

05_横須賀航空隊本部庁舎
(横須賀航空隊本部庁舎 画像はwikipediaより転載)

 

 と、ここまではそれぞれの本に書いてあることを時系列に基づいて書いていったのであるが、実はちょっと問題があるのだ。坂井中尉は零戦、小町飛曹長は紫電改に搭乗しいてる。坂井中尉は二撃した後、最後まで追尾して最後に帰還。小町氏も二撃をかけ帰還しているが、この2機の性能は歴然とした差があり、小町飛曹長はインタビューで「零戦で大型爆撃機を迎撃するのはむりでした」(川崎P292)、「零戦だったらとてもあそこまでは追えなかったんじゃないかな」(神立P107)と語っている。

 ここまで読んで頂いた読者には分かると思うが、坂井氏は零戦52型で追撃している。つまりは小町飛曹長の言っていることが正しいとすれば、坂井中尉の言っていることは嘘ということになる。さらに前述のように坂井氏の主張では出撃前に指宿隊長からの出撃命令を受けて出撃したと主張しているが、小町氏によるとそれも無かったという。坂井中尉はたまに著書の中で思い違いがあることが指摘されているが(高木・境田P60)、同じく8月17日(18日の誤りか)に零戦52型でB32を迎撃している大原亮治飛曹長はB32に対して三撃したと語っている(神立P120)。

 坂井中尉は二撃、大原飛曹長は三撃ともに零戦52型で行っていると語っているが、では、小町飛曹長が嘘をついているのか、その可能性はあるものの様々なインタビューの内容を読むと、そのぶっきらぼうで飾り気が無く、自身の撃墜数すらも主張しない小町飛曹長が嘘をつくとも思えない。ということで、戦争が終わってすでに70年以上経過し、当事者も全て故人となってしまった現在、残念ながら真実は、誰にも分からないのだ。「分からない」でいいではないか。

 

その後のB32と横空への処罰

06_日本側全権代表団
(画像はwikipediaより転載)

 

 この横須賀空のベテラン搭乗員達に酷い目にあったB32であるが、前述のようにクライン大尉の#532号機、アンダーソン中尉の#578号機の2機であったが、この2機のB32は横空戦闘機隊の攻撃を25分にわたって受け続け、アンダーソン中尉機#578号機が機上戦死1名を出したものの無事帰還している。その間、2機合計で12.7mm機銃弾4,000発を消費し、日本機14機中3機を撃墜したと申告しているが、もちろん横空戦闘機隊には損害はなかったが、まぁ、航空戦での撃墜判定なんてそんなものである。因みにこれら2機のB32であるが、#532号機は1946年5月、#578号機は1945年後半から1946年のどこかでスクラップにされている。

 帝国海軍航空隊は横須賀で始まった。このため終戦まで横須賀航空隊に配属される搭乗員は特に技量に秀でた者が充てられるというのが伝統だったようだ。横須賀から始まった海軍航空の最後の戦いがまた横須賀航空隊であったというのは何か感慨深いものがある。ところで「そもそも終戦後に戦闘して大丈夫なの?」という疑問を持つ読者も少なくないと思う。意外に知られていないのだが、日本が正式に降伏を行ったのは1945年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏調印なのだ。8月15日は天皇の終戦の詔が放送されて日本国内では武器を置くように命令されたものの国際法上は9月2日が停戦なので問題なかったようである。

 

参考文献

  1. 秦郁彦「夏空に燃えつきた抗戦」『八月十五日の空』文藝春秋1995年
  2. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  3. 神立尚紀『零戦の20世紀』スコラ1997年
  4. ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画2000年
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  6. 川崎浹『ある零戦パイロットの航跡』トランスビュー2003年
  7. 高木晃治・ヘンリー境田『源田の剣改訂増補版』
  8. Pacific Wrecks

 

 

 


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赤松貞明
(画像はwikipediaより転載)

 

 赤松貞明中尉は、太平洋戦争全期間で活躍した主要な搭乗員達が10代後半から20代前半で開戦を迎えていたのに対して、戦闘機搭乗員としては薹(とう)が立った31歳であり、彼らの教官クラスの教官クラスと言っていいほどの搭乗員である。それだけに腕は確かであり、豪放磊落で多彩なエピソードを持っている海軍航空隊の中でも有名な男だった。総撃墜数は27機前後と推定され、内11機が日中戦争での戦果である(秦P183)。総飛行時間6000時間。武道の達人でもあった。

 

赤松貞明の経歴

 

そこそこ詳しい経歴

 1910年7月高知県生まれ。1928年6月佐世保海兵団入団。1931年3月第17期操縦練習生(操練)を卒業した後、赤城、龍驤、加賀乗組を経て横須賀、大村各航空隊に配属される。1937年12月には、13空に配属され、中支戦線に出動。1938年9月に蒼竜乗組。太平洋戦争開戦時は、台湾の第3航空隊に所属していた。開戦後は、3空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、1942年5月本土に帰還する。内地で教員勤務の後、1943年7月331空に異動した。カルカッタ攻撃等で活躍したのち本土に帰還。1944年3月に開隊した302空に異動、終戦まで302空隊員として本土防空戦に活躍した(秦P183、サカイダP86)。

 ものの本には、赤松貞明中尉は「戦闘機隊の古豪」とあるが、まさに古豪という言葉ばぴったりの人物だ。明治生まれで操練17期出身。太平洋戦争で名を馳せた著名なパイロットでは、岩本徹三中尉が操練34期、坂井三郎中尉が38期、原田要中尉が35期と出身期が桁違いに若い。これらの搭乗員の年齢と比べても6歳も年長である。

 赤松中尉が卒業した操練とは基本的に水兵から選抜された隊員が航空機搭乗員として訓練を受けるコースで、赤松貞明が操練を修了したのは1931年、岩本徹三などが操練を終了したのは1936年から1937年なので5年以上の経験の差がある。5年というと大したことが無いように感じるかもしれないが、異常に体力と精神力を使うパイロットの4年というのは通常の人とは異なる。

 

 

日本ニュース254号 5:01熱弁をふるっているおじさんが赤松中尉

 

撃墜350機の超超超エース!

 赤松中尉は日中戦争で11機を撃墜。日中戦争ではトップクラスの撃墜数だ。一番は岩本徹三の14機であるが、赤松自身は自身の手記では日中戦争時の撃墜数を242〜243機と主張している。これは記録に残っていると書いてあるが無論記録には残っていない。そして太平洋戦争まで含めると赤松自身の主張する撃墜数は何と350機である。これもまたタイトルには「撃墜350機の世界記録」と書いてあるが(赤松P105)、後半になると撃墜340機に変わってしまっている(赤松P131)。

 まぁ、人間細かい事に拘ってはいけない。海軍航空隊にその人ありと言われた赤松中尉である。撃墜数が10機程度違うことなどはどうでもよいのだ。この350機撃墜も恐らく、世界最高記録であるドイツ空軍のエース、エーリッヒハルトマンの352機撃墜を意識したものだろう。事実かどうかなどもこの際小さな問題だ。しかし残念ながら、赤松中尉は、太平洋戦争では撃墜スコアを伸ばすのが困難だったようだ。理由は初戦は味方が多すぎ、後半は味方があまりにも少なすぎたからだという。結果、赤松中尉の太平洋戦争での撃墜数はわずか百数十機程度であったという(赤松P106)。

 

大言壮語実行型

02_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 この話だけをみると赤松貞明中尉とはただのインチキ野郎じゃねーのか?という話になるがそうではない。そもそも坂井三郎中尉によると、撃墜王になるタイプの多くは、有言実行型であり、時として大言壮語実行型ですらあるという(∈箘P162)。実際、トップエースの一人で、撃墜216機を主張する搭乗員、岩本徹三中尉も「腕も立ったが口も達者だった」と小町定飛曹長に言われるほど大言壮語だった(川崎P272)。撃墜王の全てが大言壮語型だった訳ではないが、彼らは多くの戦場に立ったベテラン搭乗員であることには違いない。大言壮語している人が必ず実力が無いとは限らないのだ。そもそも、洋の東西問わず、豪傑なんて嘘と過剰な自己アピールだらけだ。

 赤松中尉もその例に漏れず、大袈裟に自己アピールするのだが、その空戦の腕となると尋常ではない。太平洋戦争開戦時にすでに31歳となっており、激しく体力を使う搭乗員としてはすでに旬が過ぎているはずなのだが、開戦当初から第一線で活躍、1945年5月29日には、あの万能戦闘機P51マスタングの75機編隊にこれまた格闘戦に不向きと言われる迎撃機雷電を駆りたった一人で突入、第45戦闘飛行隊のルーファス・ムーア少尉機を撃墜(サカイダP88)、さらに同年7月には同じく雷電を駆ってF6Fヘルキャットを撃墜している等(〆箘P252)、数々の武勲を挙げている実力の人なのだ。この尋常ならざる飛行機の操縦技術に関しては、戦後、赤松中尉が操縦する飛行機に同乗した横山正男上飛曹はその操縦技術の高さに舌を巻いている(横山P211)。

 

 

ベテランの空中戦

03_P51D
(画像はwikipediaより転載)

 

 ベテランの空戦とはドッグファイトをやって敵機を撃墜するのではなく、それらを高空から見守り、傷付いたり、不調を来した敵機を攻撃すると言われているが(久山P124)、赤松中尉の空戦がまさにそれで後輩の零戦搭乗員坂井中尉に「空中戦で生き残り、勝ち抜くためには敵編隊の端の一番弱い奴から叩いていくのが理想と語っている(〆箘P252)。同様のことを横山上飛曹にも語っているので(横山P210)、これが赤松中尉の戦い方であると考えて良い。

 因みに上記の空戦法はトップエースの一人と言われる岩本徹三中尉も行っており、岩本中尉もこの戦法でトップエースと呼ばれるようになったようだ。しかし、この空戦法、みんなが上空に待機していたらダメな訳で、誰かドッグファイトを行う「損な役」が必要となってくるような気がする。と思っていたら、同じくトップエースの一人である西澤廣義飛曹長はまともにドッグファイトをやるタイプのようで、やはり岩本中尉の戦法が気に入らなかったらしく、岩本徹三中尉に食ってかかったこともあったようだ(神立P199、角田P358)。

 

 

雷電大好き!

04_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、赤松中尉は変人であっただけに航空機の好みもまた変わっていたようだ。赤松中尉がこよなく愛した航空機は、零戦でも紫電改でもなく、「殺人機」とまで呼ばれた局地戦闘機雷電であった。この雷電は、1944年1月頃から実戦に配備された航空機で、大型機の迎撃を主任務とするインターセプター(迎撃機)であった(伊藤P244)。二式大艇や一式陸攻等の大型機が使用する大型の火星エンジンを機首に搭載しているため高速で馬力はあるものの旋回性能は悪く、「雷電国を滅ぼす」とまで毛嫌いされており(‐福田P218)、上記の岩本中尉も雷電に対しては厳しい評価を下している(岩本P251)。

 ベテラン搭乗員に嫌われた理由は、上記の特性以外に大型のエンジンを搭載したために視界が悪く、特に着陸時に非常な注意が必要であったこともある。しかし赤松中尉はこの雷電がお気に入りだったようで、赤松中尉は、世の中にこんな傑作機はないとほれ込んでいたようだ(⊂福田P194)、さらに坂井中尉に対しても「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と語っており(〆箘P252)、雷電に相当ほれ込んでいたようだ。この雷電でP51の75機編隊に突入してP51を撃墜したり、格闘戦能力が優れたF6Fヘルキャットとドッグファイトをやり撃墜したというのだから驚きである。坂井中尉に言わせれば、雷電でヘルキャットと互角に渡り合える戦闘機パイロットは赤松中尉の他にいないだろうとのことだ(〆箘P252)。

 

 

こんなエピソードも。。。

05_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 但し、操縦、空戦以外では部下の結婚式に泥酔して全裸で乱入、踊り狂ったりとかなりの傑物だったようだ(亀井P85)。武道等にも卓越しており、柔道、相撲、水泳、剣道等合わせて11段の猛者であった(亀井P86。坂井中尉の記憶では15段。〆箘P251)。いわゆる豪傑型の人物で、後年、坂井三郎中尉がヘンリーサカイダ氏の取材に対して「とんでもない気分屋で、変人で、すぐに暴力を振るった」と語っていたようだが(サカイダP86)、その後、歳を重ねるごとに人格を増し、部下からも尊敬畏敬される存在となったという(∈箘P124)。

 そしてこれは全くの余談であるが、赤松中尉はけっこうな「おデブさん」であったようだ(肥田P42)。「太っている」というのは明確な基準がある訳ではないので何とも言えないが、部下であった亀井中尉も赤松中尉は太っていたと書いているので当時の感覚としては「おデブさん」であったのだろう(亀井P85)。「おデブさん」戦闘機搭乗員は他にも10機以上を撃墜した艦隊戦闘機隊のエース菊池哲生上飛曹等がいるので空戦に体形はあまり関係ないのだろう。

 

 

終戦時は徹底抗戦

 赤松中尉が所属した302空は、首都防空をに担う部隊として活躍したが、この部隊は、終戦後に戦争継続を主張、降伏を拒否したことでも有名である。302空司令の小園安名大佐は熱血漢で有名であり、開戦時は台南空副長、251空司令等を歴任している実戦派である。指揮官として以外にも斜め銃と呼ばれる機体の上方に30度程度の角度で付きだした機銃を考案したりと大きな業績のある人物であるが、熱血が災いして終戦時はちょっとした騒ぎとなった。

 結局、終戦後の抗戦は未遂に終わったが、赤松中尉も同様に徹底抗戦を主張していたようだ。302空は終戦後各地に戦争継続のビラを撒いたりしていたが、赤松中尉もまた愛機雷電に乗り、横須賀航空隊に戦争継続を訴えに来たという(坂井P35)。8月22日にはトラックに武器弾薬、食糧を満載して木曽山中に立てこもるというようなことも計画していたらしい(横山P245)。冷静に考えればトラック数台分の武器弾薬で抗戦したところで無駄なのであるが、こういった行動に出る心理というのは当時の人でなければ分からないのだろう。

 

 

プロフェッショナルの戦後

 これらの計画は実行されなかったようであるが、軍隊やパイロットが性に合っていた赤松中尉の戦後は不遇だったようだ。飛行機を奪われた赤松中尉は、アルコール依存症となり、戦友たちが資金を出し合って贈った軽飛行機も酒代捻出のため手放した。戦友たちにも見放され、高知県の小さな喫茶店の店主となったのち、1980年肺炎で死去した(秦P183)。70歳という死ぬには少し若すぎる年齢であったが、専門家、プロフェッショナルとは人生を全てその道に賭けた人であり、全て賭けたのだからその道から外れれば何もない。真のプロフェッショナルであったともいえる。

 

参考文献

  1. 秦郁彦『日本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社1975年
  2. ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年
  3. 赤松貞明「日本撃墜王」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー1巻今日の話題社1967年
  4. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓拗崔娘1996年
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭找軸講談社2002年
  6. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 横山正男『あこがれの予科練』旺史社2002年
  9. 伊藤進「雷電”空中殺法”厚木空の不屈の闘魂」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  10. ‐福田晧文「私の運命をかえた「愛児」雷電と共に」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  11. ⊂福田晧文『指揮官空戦記』光人社1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  14. 角田和男『零戦特攻』1994年
  15. 亀井勉『空母零戦隊』今日の話題社1979年
  16. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』光人社1999年

 

 


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01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 


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01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


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01_彩雲
(画像は彩雲 wikipediaより転載)

 

「じゃない」人達の戦い

 

偵察員とは

 偵察員とは、斥候として敵地奥深くに潜入して敵情を掴んで帰ってくるという斥候兵。。。ではなく、海軍航空機搭乗員の区分の一つである。海軍の航空機搭乗員には操縦と偵察という二種類があって操縦とは当然、機体の操縦を担当する人、要するに操縦員。そして偵察とは搭乗員でありながら、誰もが憧れる航空機操縦員「じゃない」搭乗員のことをさすのだ。

 

やはりみんな操縦員になりたい?

02_零観
(画像は零観 wikipediaより転載)

 

 日本海軍の航空機には、大きく、戦闘機、艦上攻撃機、艦上爆撃機、艦上・陸上偵察機、陸上攻撃機、水上偵察機等々、多彩な航空機があるが、この中で戦闘機以外の航空機はほとんどの場合2人以上が登場している。2人の内、1人はもちろん操縦員だ。では、操縦員「じゃない」人達は一体何をしているのだろうか。この記事では、これら花形でない裏方搭乗員についてチャラっと書いてみたいと思う。

 上記の機種の内、まずは二人乗りの艦上爆撃機と艦上偵察機・陸上偵察機について考えてみよう。二人乗りの場合、基本どちらかが操縦員だ。どちらも操縦員でない場合何らかのトラブルが発生していると思っていい。そこで、二人乗りの場合、一人が操縦員だとするともう一人は海軍では偵察員と呼ばれている。この偵察員の仕事は基本的に「航法」である。

 「航法」とは何かというと、これはGPSなどという便利なものが無かった当時、船乗りがコンパス片手に大海原を進んだように航空機も目的地に着くには自分の機位を測定して目的地までの方向を示さなければならない。これが航法だ。偵察員の主な任務はこの航法を行うことであったのだ。まあ、普通に考えれば分かるだろうが、この偵察員という仕事、相当に地味な仕事である。大空を飛翔することを夢見て難関の搭乗員養成コースを突破した挙句、「はい、お前偵察員ね」ではたまらない。乙種予科練9期で偵察員に振り分けられた藤代氏はトイレの中でガチで泣いたそうだ(藤代P60)。

 

泣く理由も分かるさ。。。

03_予科練
(画像は予科練生 wikipediaより転載)

 

 「いやいや、その程度で泣くなよ〜」と思うあなたに当時の海軍で航空機搭乗員になる方法を説明しよう。まず、海軍兵学校を出て士官として航空機搭乗員になること、そして予科練、さらには操縦・偵察練習生というものがある。まず海軍兵学校、予科練であるが、これは全国のトップクラスの中学生が受験した挙句の競争率が数十倍の超難関。そして現役の海軍兵が志願する操縦・偵察練習生にしても競争率は同程度の凄まじいものであった。つまり、どのコースを選ぶにしても航空兵になるのは相当な狭き門であったのだ。

 その狭き門を自由自在に大空を飛び回ることを夢見て猛勉強して突破。その挙句に誰かに操縦してもらって後ろで機体の位置を何だか分かんない機材で測定してる偵察員に振り分けられては、前述の藤代氏の気持ちも分からないではない。そもそも機体の位置の測定なんて要するに座学なのだ。「何なら俺にも出来んじゃねぇ?ふふん!」と思ったあなた。そんなに簡単なものではないのだ。

 

三種類の航法

04_六分儀
(画像は六分儀 wikipediaより転載)

 

 航法には基本的に地文航法、天測航法、推測航法という3種類の航法がある。地文航法とは名前の通り、地上の地形を目印に飛ぶ航法で陸地上空を飛ぶ陸軍機は主にこの航法を使用した。そして天測航法。これは六分儀という特殊な機器を使用して天体と水平線の角度を計算、現在位置を割り出すというものだ。しかしこれは星が出ていないと使えないので主に大型機の偵察員が行っていたという。そして最も難解なのは推測航法である。

 この推測航法とは要するにデータのみで現在地を測定するという方法である。地上からは分からないかもしれないが、航空機というのは絶えず風に流されている。その風に逆らって目的の方向に進んでいくのだ。風は正面からも吹くし、横からも斜めからも吹く。そのたびに機体は少しずつ位置がずれていく。偵察員はその風の方向と風速を計算しながら機体を目的地に誘導するのだ。仮にこの計算を間違えると目標物の無い洋上、そのまま海中にドッボーン!である。

 

偵察員とはスペシャリストなのだ!

05_零式水偵
(画像は零式水偵 wikipediaより転載)

 

 これらからも分かるように偵察員というのは、相当高度な知識と経験が必要であり、一朝一夕に出来上がるものではない。前述のトイレで号泣した藤代氏は300海里で誤差1海里程度であったという。これはkmに直すと555.6kmを飛行してその誤差が僅か2km弱であったということだ。555.6kmとは東京、青森間に匹敵する距離だ。これを何の目標物のない洋上を方位と風向、風速のみで飛行するというのはどれだけ困難なのか分かるというものだ。さらに偵察員はモールス信号等にも精通していなければならない。

 さらに急降下爆撃機の偵察員ともなると、敵艦めがけて急降下している最中にもその角度と速度を冷静に計算して操縦員に伝える。この情報に誤差があると当然爆弾は命中しない。45°や60°位の角度で急降下している機内で角度と風向、風速等を計算するというのは頭脳と共に相当な冷静さも必要だろう(山川P46)。敵機に追尾されながらも敵機の銃口の方向を操縦員に伝え射撃の瞬間に操縦員に機体を「滑らせる」方向を指示、低速の水偵でありながらF6Fヘルキャットの追撃を振り切った凄腕偵察員もいる(本間P187)さらに艦上・陸上攻撃機ともなると偵察員が爆撃手でもあるのでこれらの爆撃手兼偵察員は爆撃技術も必要であった。

 

 

プロ偵察員

06_二式艦偵
(画像は二式艦偵 wikipediaより転載)

 

 この偵察員の中でも「ザ・偵察員」とも呼べるのが田中三也氏である。著者は生粋の偵察員と言って良いだろう。高度な航法技術と共に特修科偵察術練習生を修了、偵察員としてのエリート教育を受けた隊員である。この特修科偵察術練習生とは海軍の技術教育の三段階、普通科、高等科、特修科の最上位に位置する課程で、本来は偵察術課程というのは存在しなかったが、ミッドウェー海戦での偵察の重要性から新たに設置された課程であった。この課程は二期のみで終了となったため田中氏は数少ない卒業者といえる。

 この課程に選ばれたのは実戦経験豊富なベテランばかりで、これら優秀な実戦経験者をさらに鍛えて戦力を向上させようという海軍の方針であった。田中氏も南太平洋海戦で米機動部隊を最初に発見したという殊勲者であった。この課程でさらに技術を学んだ田中氏は、偵察においても敵戦闘機の網を突破するために高高度で侵入して目標上空で急降下、写真撮影をしてそのまま飛び去ってしまうという荒業をやってのけたり、同士討ちを避ける敵の心理を利用して敵艦隊の真ん中を低空で飛行して切り抜ける等、強烈である。戦争後半には傑作偵察機彩雲を駆って偵察任務に活躍している。とにかくスゲーのだ。

 

 

参考文献

  1. 藤代護『海軍下駄ばき空戦記』光人社NF文庫2001年
  2. 山川新作『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録』光人社NF文庫1994年
  3. 本間猛『予科練の空』光人社NF文庫2002年
  4. 田中三也『彩雲のかなたへ』光人社NF文庫2016年

 

 


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01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 


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岩本徹三01
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 岩本徹三とは、日本海軍航空隊の搭乗員であり、日中戦争から太平洋戦争までほぼ第一線で戦い抜いた搭乗員である。1916年に樺太で生まれ、1934年17歳で呉海兵団に入団。その後航空機搭乗員として日中戦争、太平洋戦争で活躍する。大言壮語型の人間で腕は超一流、下級士官でありながら特攻反対を公言するなど勇気のある発言をしている。日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流の搭乗員であることは間違いない。

 

岩本徹三の経歴

 

 

日中戦争

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 1916年6月14日、岩本徹三は樺太に生まれる。警察官であった父の転勤で、岩本一家は北海道札幌に転居、しばらくして島根県益田と転居する。1934年6月1日、岩本は親に無断で海軍の入団試験を受験、見事合格して呉海兵団に四等航空兵として入団する。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊。空母龍驤の艦上整備員を経て、1936年4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。同年12月26日、第34期操縦練習生終了後、一等航空兵として佐伯空に配属。1937年7月大村空に配属され、1938年2月2日、中国に展開する第13航空隊(第12航空隊とも)に配属された。

 岩本の回顧録は、ここからスタートしている。同時期に同じ部隊に所属していた同年兵の田中國義少尉は後年、インタビューでその当時の搭乗員のレベルの高さを「あのころはすごいパイロットがそろってました 〜中略〜 あとから来た岩本徹三なんて食卓番ですよ。」と語っている。(神立P86)。実際、回顧録でも一番下っ端の岩本は、食卓番として奮闘して、主計科に「ギンバイ」をしに行ったこと等が書いてある。当時岩本は、一等兵であったが、他の部隊の下っ端は三等兵であったので岩本は優先的に「獲物」をもらうことが出来たようだ(岩本P36)。

 因みに「ギンバイ」とは海軍の言葉で、食糧を主計科から貰ってくることをいう。もちろん違反であるが、そこはある程度大目に見られていたようだ。岩本は食卓番も「商売繁盛の料理屋のコック」等と前向きに楽しんでいたようである。後に零戦虎徹を自称する岩本はこの日に4機撃墜、1機不確実の初戦果を申告している。

 1938年3月31日、第12航空隊に異動、そこでも戦果を重ねた後、1938年9月14日、佐伯航空隊付を命じられ内地に帰還するまでに14機の撃墜を申告した。これは日中戦争における海軍航空隊での最多撃墜で、後に岩本はこの武勲によって功五級金鵄勲章を受けている。しかし、これには異論も多いようだ(神立P88)。因みにその他、日中戦争での海軍多撃墜搭乗員としては黒岩利雄、古賀清澄の13機撃墜、田中國義の12機撃墜等がいる。

 

 

母艦戦闘機隊へ

03_南太平洋海戦
(画像は翔鶴から発進する零戦 wikipediaより転載)

 

 内地に帰還した岩本は、1940年4月母艦搭乗員になるために空母龍驤で母艦訓練に参加、そして1941年4月には第1航空艦隊(一航艦)第3航空戦隊(三航戦)空母瑞鳳戦闘機隊に配属、さらに1941年9月1日、第5航空戦隊(五航戦)が編成されると、岩本達瑞鳳戦闘機隊員は五航戦に編入、10月4日、空母瑞鶴乗組となった。11月26日、空母瑞鶴を含む南雲機動部隊は択捉島単冠湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を敢行した。岩本は真珠湾攻撃の攻撃隊には参加できず、母艦の直掩隊に回される。岩本は攻撃隊に参加できないことを残念がるものの、「艦隊上空での空戦も悪くない」と気持ちを切り替えている(岩本P59)。あくまでも前向きな性格だ。この時に直掩隊に回された搭乗員は後に活躍する原田要中尉、小町定飛曹長、岡部健二少尉等がいる。

 1942年に入ると五航艦は内南洋からラバウル攻略に参加、2月には内地に帰還した後、4月にはインド洋作戦、5月には珊瑚海海戦に艦隊直掩隊として参加している。8月には瑞鶴を降りて内地の大村空で教員配置となる。第一線に未練のあった岩本は、この教員配置を拒否したものの上官の岡嶋清熊大尉に説得され受諾。ここで3ヶ月教員配置に就いた後、11月2日、横須賀航空隊に異動、翌年2月上旬には追浜航空隊に異動している。

 

激戦のラバウルへ

04_ブイン基地
(画像はブイン基地 wikipediaより転載)

 

 1943年3月2日、新編の第281航空隊に配属、同年5月には幌筵島武蔵基地に進出、キスカ島に進出予定であったが、7月には日本軍はキスカ島から撤収。さらに冬季に入ったため10月25日には館山に移動したものの同月、281空派遣隊のラバウルに進出が決定する。11月10日、春田虎二郎中尉以下16名の281空搭乗員は、当時旧式化していた零戦21型に搭乗、一式陸攻の誘導により発進、14日には全員がラバウルに進出した。

 岩本達281空派遣隊は、11月14日付で201空に編入、12月15日には204空に異動している。この頃(回顧録では12日)から岩本はマラリアとデング熱の症状が発生、12月下旬から1944年1月13日までほぼ空戦に参加していないことから病気療養をしていたと推定されている(梅本P13,35)。1月に入ると204空がトラック島に後退したため253空へ異動、253空がトラックに後退する2月20日までラバウル航空戦に活躍した。実は、岩本がラバウル航空戦に参加したのはわずか3ヶ月強であったが、その間、連日のように出撃しており、世間の3ヶ月とは重さが違う。実際、回顧録には

 

「私たち搭乗員も一種の変人になってしまった。 〜中略〜 私たちの生活は無我無心、敵の来るたびに機械的に飛び上がり、去れば降りて来る。ただそれを繰り返すだけである。も早娯楽を求める気持ちもない。同僚の死もさして気にならない。ただ頭にあるのは自分はいつ死ぬかということだけである。腹の底から笑うことなどはない。
(岩本P160)

 

 とあるように精神的にも相当過酷な状態であった。

 1944年2月、253空はトラック島に後退する。岩本も「搭乗員の墓場」と言われたラバウルから奇跡的に生還することが出来た。1943年11月中旬から僅か3ヶ月であったが、前述の岩本の手記にもあるように「一種の変人」になってしまうほどの命がけの3ヶ月であった。岩本はこの間の自身の撃墜数を142機としている。

 

 

中部太平洋から比島へ

05_神風特別攻撃隊
(画像は出撃する特攻隊 wikipediaより転載)

 

 1944年2月にトラック島に後退した後もトラック島防空戦に活躍、6月14日には機材受領のために内地に帰還する。機材受領後にトラック島に戻る予定であったが、サイパン島の戦いが始まり、空路が遮断されてしまったためトラック島復帰は中止となった。その後、8月には呉防空を担う332空に異動、若年搭乗員、特に少尉クラスの指導を任された。ここで岩本は初めて局地戦闘機雷電に搭乗しているが、スピードは出るが重い飛行機で運動性は悪く、大型機相手なら良いが戦闘機相手では零戦以下、大したものではないと評している(岩本P251)。

 9月には252空戦闘316飛行隊に異動するが、戦闘316飛行隊の分隊長はラバウルで共に戦った春田大尉であった。ここでも岩本は若年搭乗員の錬成を担当するが、10月には台湾沖航空戦に参加するため台湾に移動する。移動先の台湾高雄基地では、突然現れた参謀に高雄基地の指揮下に入れと命令されるが「初めての爆撃で少し頭がおかしくなっているのだろう」と一刀両断したものの(岩本P259)、その後進出したフィリピンでも岩本に対して指揮権の無い現地の参謀に特攻機の空輸を命令される。岩本は断っているが、この時期は現地も相当混乱していたのであろう。

 

本土防空戦

06_零戦52型丙
(画像は零戦52型丙 wikipediaより転載)

 

 岩本は輸送機によりフィリピンから内地に帰還、11月には戦闘311飛行隊に異動する。1945年2月には米第58任務部隊によるジャンボリー作戦の迎撃戦に活躍した後、九州の国分基地に進出した。そして3月中旬に戦闘303飛行隊に異動、空母瑞鶴時代の隊長であった岡嶋清熊少佐の下で再び戦うこととなった。この戦闘303飛行隊とはかつてトップエースの一人と言われる西澤廣義も所属していた飛行隊でこの時点で海軍航空隊中、最も練度の高い搭乗員を集めた部隊であった。戦闘303飛行隊は数少ない練度の高い制空部隊として終戦まで特攻機の援護や撃激戦に活躍した。

 岩本も戦闘303飛行隊の一員として沖縄航空戦に参加、4月には沖縄特攻作戦に出撃した戦艦大和の救援に向かったが、到着した時にはすでに大和の姿はなかったという。4月下旬になると菊水四号作戦が発令、岩本も特攻機の援護に出撃したが、岩本小隊はF4Uコルセア戦闘機8機と不利な体勢から空戦に入り、岩本機は胴体、翼に数十発被弾した。幸い致命部をそれていたため墜落することはなかったが、機体の性能の違いと敵に有利な状態から空戦を仕掛けられてしまったことから岩本もついに体当たりを決意するもやぶれかぶれの戦法で危機を脱することができた。

 この時の被弾は相当なもので風防は飛び散り、計器盤はメチャメチャに壊れていた。幸いエンジンは回っていたため何とか基地に帰還することができた。帰還後、調べてみると被弾30数発、落下傘バントの金具に弾丸が一発命中しており、それがなかったら岩本自身に弾丸が命中していたかもしれない。この空戦の様子を見ていた味方機は岩本機が撃墜されて戦死したと判断、二階級特進の手続きをしていたという。この岩本の被弾は相当な衝撃だったようで、同じ部隊に所属していた土方敏夫、安倍正治も手記にこのことを書いている(土方P248、安倍P213)。

 そして6月には岩国基地で編成された天雷特別攻撃隊の教員配置、終戦を迎える。終戦から数日後は茫然としていたという。終戦から数日後、軍用自転車にウイスキーを一本を積んで故郷に帰った。終戦後は公職追放となり日本開拓公社に入社、北海道に行くが、体調を崩して島根に戻った。その後も畑仕事や養鶏、菓子問屋勤め等、職を転々とした後、1952年増田大和紡績工場に就職する。

 しかし一年後の1953年には盲腸炎を発症、誤診の結果、腹部手術を3回、さらに背中も4〜5回手術した上に、最後は脇の下を麻酔なしで手術、あばら骨を二本とるという大手術を受けた。そして病名もはっきりしないまま1955年5月20日、38歳の若さで他界した。

 

 

岩本徹三という男

 

07_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

【撃墜数】ホントに216機も落としたの?

 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で単独撃墜202機、協同撃墜、地上撃破まで含めると合計254機、さらに日中戦争で14機と凄まじい数字となっている。さすがにこれが実際の撃墜数である可能性は低く、戦史研究家の秦郁彦は岩本の撃墜数を80機前後と推定されている(秦P174)。そして前述のように日中戦争の14機撃墜という数字についても異論がある。

 空中戦での敵機の撃墜は非常に困難である。丙飛16期出身の今泉利光は「アメリカの戦闘機を50機も60機も墜としたかのような話が伝わっているのであれば、それは誰かがつくった「戦後の嘘」である。なぜなら、速度と機銃そして機数の関係からして物理的に不可能だからである」と断言している(久山P132)。さらに戦史研究家の梅本弘の研究でも明らかなように、空戦での撃墜判定はかなり誤認が多く、何十機も撃墜戦果を報告していたが実際には1機も撃墜出来てなかったというようなこともある。著名な搭乗員である坂井三郎もまた「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語っているように(梅本P4)、ラバウル航空戦に関しても日米共に撃墜の誤認は多い。特に彼我の損害を比較すると日本側の誤認戦果が多い上に岩本の253空時代の戦闘行動調書に記載されている撃墜数が21機であるということから考えると、岩本主張するほど実際には撃墜してはいないのではないだろうか。

 無論、岩本はラバウル時代には201空、204空、253空と転々としているので、他の部隊では大量撃墜している可能性もあるが、ラバウルの熾烈な航空戦を岩本と一緒に戦った小町定も岩本については「空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていた」と語っており(川崎P272)、撃墜数についても、暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を指摘しているが(川崎P244)、そこらへんが事実なのであろう。

 

 

「ズルくても落とせばいい!?」岩本の空戦法

 

 岩本は緻密な計算の上で自身の戦法を編み出し、他人が非難を気にせずに実績を作り周囲を納得させるというタイプだったようで、ドッグファイトに参加せずに高度を取って上空を遊弋し、敵機を発見するや急降下、50m程度まで接近して後方より一撃した後、下方に抜け、上昇する際にまた別の敵機に下方より一撃した後、上空に戻るというような方法を多用していた。さらに他の搭乗員の攻撃によって傷付いた敵機を撃墜したり、空戦が終わって帰る敵機を付け狙い油断しているところを撃墜する「送り狼」戦法など、「卑怯」な戦法を好んだ。

 これについては、ラバウルの253空時代に同じ部隊にいた小町定飛曹長や日本のトップエースである西澤廣義が直接、岩本本人に「ズルい」と文句を言っているが、岩本は「そんなこと言っても、生きて帰せばまた空襲に来るんだぜ」と全く意に介さなかったという(神立P199、角田P358)。しかし口だけでなく、空戦の腕は相当であったらしく、前述の土方も岩本を「田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評しており(土方P226)、当時若手搭乗員であった阿部三郎もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述しているように(阿部P224)、口だけではなく空戦技術も相当なものであり、その名は海軍航空隊では有名だったようだ(久山P65)。

 

 

「意外と几帳面!?」岩本徹三の性格

 

08_零戦コックピット
(画像は零戦コックピット wikipediaより転載)

 

 このように書くと岩本は相当な暴れん坊であったと思われるかもしれないが、実はそうでもなかったようだ。元航空自衛隊のパイロットである服部省吾は岩本の著書を読んで「岩本徹三は人一倍素直に、そして真面目に訓練に取り組んでいたのではないか」と印象を語っている(服部P53)。実際、大雑把であったり、暴れん坊であったというような感じではなく、同年兵で主に母艦搭乗員として活躍した原田要によると、「岩本は性格は繊細で非常に緻密であり、そして要領がよく戦況把握が上手であった。」と言っている(原田P58,59)。さらに同じ部隊に所属していた安倍正治も岩本の印象を物静かであったと語っている(安倍P212)。

 しかし性格は強かったようで、夫人の岩本幸子による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである(岩本P316)。岩本の性格は、真面目で几帳面、繊細で緻密、そして自分の信じたことを押し通す気の強さがあったようである。実際、253空時代に航空機受領で内地に帰った際、他部隊士官になぜ早く前線に行かぬのかと罵倒された際にも今までの実績と現状を説明した後に「トラック基地司令の命令以外に他所轄の者よりとやかく言われることはないと思います。」とはっきり言っている(岩本P247)。この性格の強さは特攻を求められた時も同様で周りの搭乗員が特攻に反対できずにいる中、上官に対してハッキリと「否」と言ったという(角田P340)。

 岩本は気が強い上に「ズルい」戦法を使うため周りからは煙たがれていたと思われがちであるが、空戦ではチームワークを大切にしており、岩本と一緒に編隊を組んだ瀧澤は後年、岩本は、やさしくてよく気を使ってくれるため、若手搭乗員には人気があったと語っている(瀧澤P203)。

 これは余談であるが、岩本は飛行場に迷い込んでいた皮膚病の犬を可愛がり、この犬を膝の上に乗せたまま邀撃に上がったこともあったという(阿部P224)。戦闘303飛行隊時代にも「ウルフ」と名付けたシェパードを買っていたと言われており(安倍P213)、動物が好きであったようだ。

 

 

おわりに

 

 岩本徹三は日中戦争から太平洋戦争終戦まで多くを第一線で戦い続けた稀有な搭乗員である。1944年、253空がトラック島に後退した時点での飛行時間も8,000時間と事実だとすれば相当なレベルである。撃墜数に関しては疑わしいものの、その空戦技術は非常に合理的であり、一対一の空戦でもかなりの技量を持っていたことは確かだ。周りの空気に流されず、特攻には明確に反対意見を述べ、自分の正しいと思った戦い方は誰に批判されようともこれを貫いた岩本徹三という人間はやはり立派であったといえる。

 

参考文献

  1. 岩本徹三『零戦撃墜王』今日の話題社1972年
  2. /昔尚紀『零戦最後の証言』1999年
  3. 秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社1975年
  4. ’瀚楾亜愕し確軅鐶盞眥得鏥3』大日本絵画2013年
  5. 土方敏夫『海軍予備学生空戦記』光人社2004年
  6. 安倍正治「我が胸中にのこる零戦撃墜王の素顔」『空戦に青春を賭けた男たち』2013年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 服部省吾「「一撃離脱」に徹した零戦撃墜王の合理的な戦い方」『歴史街道 岩本徹三と零戦』2009年8月号
  9. 原田要『零戦 老兵の回想』2011年
  10. ⊃昔尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  11. 角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版1990年
  14. 瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻1996年
  15. 梅本弘『ビルマ航空戦』上2002年

 


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01_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 艦上攻撃機 天山とは、太平洋戦争中に完成した日本海軍の攻撃機でその性能は防弾性能と機銃の能力以外は、同時代の米海軍雷撃機TBFアベンジャーの性能を遥かに凌いだものであった。1943年に前線に配備された後、終戦まで活躍した。

 

艦上攻撃機 天山 〜概要〜

 

 

性能(12型)

全幅 14.894m
全長 10.865m
全高 3.820m
自重 3,083kg
最大速度 481.5km/h(高度4,000m)
上昇力 5,000mまで10分24秒
上昇限度 9,040m
エンジン出力 1,850馬力
航続距離 1,746km(正規状態)
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃2挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

02_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年12月、海軍は、九七式艦攻に代わる次期艦上攻撃機の開発を計画、十四試艦上攻撃機という名称で中島飛行機に開発を指示した。これを受けて中島飛行機では、松村健一技師を設計主務者として開発を開始、1941年春には試作1号機が完成した。同年3月14日には初飛行した。

 十四試艦攻は、エンジンを当時、未だ開発中であった国産エンジンの中で最大のパワーを持つ護11型(1,870馬力)を採用、プロペラは3.5m4翅プロペラが装備された。機体は大型化し全長は空母のエレベーターに乗る11mギリギリになり、重量も九七式艦攻の2,200kgに対して3,800kgと1,5倍以上増加したが主翼は切り詰められた。このため翼面荷重は139.78kg/屬塙發た字となった。尾輪は引込式で、武装は左翼内に7.7mm機銃1挺、後上方、後下方に7.7mm旋回機銃各1挺が装備された。この新たに装備された後下方機銃は、防御用と共に魚雷投下後に艦上を掃討することを想定して装備された。

 

トラブルが多発

 初飛行には成功したものの、最新の護11型エンジンはトラブルが多く、機体自体にもトラブルが多発した。これらのため海軍に領収されたのは初飛行から4ヶ月後の7月19日になってからであった。海軍による性能試験の結果、最高速度は465km/hと性能要求を上回り、その他の項目もおおむね性能要求を上回っていたが問題が多く、改修、改造などが続けられた。

 1942年末には性能試験が完了し離着艦試験に入ったが、十四試艦攻はこれまでにない重量であったため着艦フックの破損や母艦の着艦ワイヤーの切断といった事故が多かった上、母艦からの離艦距離が長いことも問題となった。離艦距離の問題は胴体両側に離艦促進用ロケット(RATO)を装備することで解決、その他の問題も強度や形状を変更することで解決した。

 

制式採用

 1943年2月、戦局の悪化から審査完了を待たずに生産を開始、生産しつつ改良が加えられた。合計で133機生産されたが、7月には十四試艦攻の性能向上型の開発が始まったため生産が打ち切られた。8月には護12型エンジンの制式採用が決定、8月30日には護12型エンジンを搭載した十四試艦攻が制式採用された。制式採用の名称であるが、1943年7月27日付けで改定された『航空機名称付与様式』によってそれまでの年式から山名に命名規則が変更されたため十四試艦攻の制式名称は天山11型となった。

 11型の性能は、最高速度が464.9km/h(高度4,800m)、上昇力が高度5,000mまで11分、実用上昇限度が8,650m、航続距離が正規状態で1,463km、過過重で3,447kmであった。

 

12型

03_天山艦攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に換装した型で1943年6月に生産開始、1944年3月17日に天山12型として制式採用された。エンジン換装と同時に排気管を推力式単排気管に変更された。尾輪は固定式となっている。性能は、最高速度が16km/h向上して481.5km/h、高度5,000mまでの上昇時間が36秒短縮され10分24秒、実用上昇限度も8,650mから9,040mに向上、航続距離も1,463kmから1,746kmに増加した。

 1944年11月には後上方機銃を13mm旋回機銃、後下方銃を7.9mm機銃に換装、さらに三式空6号無線電信機四型(レーダー)を搭載した12甲型が制式採用された。この12型の内2機は、エンジンを火星25型丙に換装、尾輪を引込式に戻し、カウリング、風防などを再設計した仮称天山13型が試作されている。

 

生産数

 11型が133機、12型、12甲型が1,133機、合計1,266機生産された。

 

戦歴

 

新鋭艦攻第一線へ

 天山を最初に受領した部隊は1943年7月1日に開隊した第531空である。制式採用前であったが18機を保有していた。次に配備されたのは1943年9月1日に開隊した第551空で当時スマトラ島に展開していた同部隊に24機の天山が空母千代田で輸送された。最初に天山を受領した第531空が南東方面カビエン(ラバウルの北にある島)に進出。当時同地域に展開していた第582空に編入された。初出撃は、12月3日の第六次ブーゲンビル沖航空戦で6機の天山が出撃、戦果を記録したものの米側には損害の記録はない。

 実戦部隊に配備された天山は時速250ノットに達すると尾部に振動が発生、そのまま操縦不能となり海中に突入するという事故が複数発生した。このため551空天山隊はシンガポールで尾部の補強工事を受けた後、1944年2月11日には内南洋トラック諸島に到着した。しかし2月17日にはトラック島大空襲に遭遇、所属機のほとんどを消失、残った天山も4月30日の敵機動部隊攻撃により全機を失った。その後6月3日には551空に天山11機が補充され「あ」号作戦に参加した。同時期、攻撃256飛行隊天山14機が八幡空襲部隊として硫黄島に進出、数回にわたって敵艦船に雷撃を行っている。

 

マリアナ沖海戦

 6月19日には日本海軍史上最大規模の機動部隊である第一機動部隊と米海軍機動部隊がマリアナ沖で激突した。第一機動部隊は空母大鳳、翔鶴、瑞鶴で編成された第一航空戦隊、隼鷹、飛鷹、龍鳳で編成された第二航空戦隊、千歳、千代田、瑞鳳で編成された第三航空戦隊の空母部隊を基幹としていた。この内、一航戦には天山が44機、二航戦には18機、三航戦には9機(旗艦千歳のみ。他は九七式艦攻)が配備されている。海戦の結果はVT信管とレーダーを駆使した米艦隊の一方的な勝利で海戦が終わった時、残存していた天山は一航戦が1機、三航戦が5機の僅か6機のみであった。

 

終戦まで

 1944年4月29日、天山13機装備の553空が千島列島最北端の占守島に進出。北海道から千島列島の哨戒任務についたが553空は天山1機と九七艦攻4機を残して比島に進出した。この1機の天山は1945年春に事故により失われている。

 1944年夏には新たにT攻撃部隊が発足。天山装備の攻撃262飛行隊が同部隊に編入された。同年10月には台湾沖航空戦が勃発、T攻撃部隊他、攻撃256飛行隊23機、攻撃252飛行隊24機、攻撃263飛行隊29機、634空10機の合計86機の天山が参加しているものの実際には目立った戦果はない。

 その他、エンガノ沖海戦を始め比島航空戦にもしばしば10機程度の少数機による索敵、攻撃が行われている。1945年になると特攻隊である第二御楯隊に天山が編入、いよいよ天山も特攻に使用されるようになってくる。この攻撃で雷装の天山艦攻が護衛空母ビスマルク・シーに止めを刺した可能性が高い。

 1945年3月になると沖縄戦の前哨戦である航空戦が展開されるがこの攻撃にも攻撃251飛行隊の天山22機が参加している。沖縄に集結している米軍に対して海軍も各航空隊を九州に集結、天山も攻撃251飛行隊に加え、254飛行隊、256飛行隊の計34機、210空13機、601空の合計103機の天山が動員、さらに台湾には攻撃252飛行隊の14機、253飛行隊の14機が終結、沖縄航空戦に参加している。これらの天山隊は一部特攻隊として編成されたものの多くは少数機による地味な攻撃を行った。

 これら以外には艦攻という機種が海上護衛に適していたため多数機が海上護衛部隊で使用されている。

 

艦上攻撃機 天山の関係書籍

 

肥田真幸『青春天山雷撃隊』

肥田真幸『青春天山雷撃隊』
肥田真幸 著
光人社 2011年

 海軍兵学校67期という戦前に飛行学生を終えた最後の期出身の著者。太平洋戦争中盤まで内地で教官任務に就いたのち、天山を2番目に配備された部隊の隊長として実戦に参加。多くの修羅場をくぐり抜け終戦まで戦い続けた。天山の後部機銃を20mm機銃に変更して実戦で使用する等、興味深い。

 

まとめ

 

 天山は試作機完成後に故障が相次ぎ、制式作用、前線に登場するのが遅れた攻撃機であったが、基本性能は非常に高く、防弾装備と機銃以外は同時期の連合軍雷撃機の性能を遥かに上回っていた。高性能であったが前線に登場するのがあまりにも遅かったため戦局に決定的な影響を与えることが出来なかった悲運の航空機である。

 

 

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01_九七式軽爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式軽爆撃機とは、連合軍のコードネーム「アン」。三菱重工製の軽爆撃機であった。日本陸軍では数少ない単発軽爆撃機で1938年に制式採用され、日中戦争、太平洋戦争の初期まで使用された。固定脚で信頼性も高かったが、旧式化に伴い前線から消えていった。

 

九七式軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.55m
全長 10.34m
全高 3.66m
自重 2,230kg
最大速度 423km/h(高度4,000m)
上昇力 5,000mまで10分36秒
上昇限度 8,600m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,700km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆弾搭載量 300kg(正規)
      400kg(最大)
設計・開発 河野文彦 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 日本陸軍は、戦闘機、偵察機に比べて爆撃機に注目するのが遅かったと言われる。その陸軍爆撃隊には軽爆撃機という区分があった。軽爆撃機というのは陸軍を支援する小型爆撃機のことでそれ以外の爆撃機を重爆撃機、超重爆撃機といった。

 1932年頃、日本陸軍では、軽爆撃機は双発、単発のいずれが良いかという論争が行われていた。単発派は軽量であることを重視、さらには双発機は単発機の1.5倍のコストがかかることから数が維持できないという理由であった。これに対して双発派は、爆弾搭載量、視界や防御力の点から双発が適当としていた。結局、この論争は双単併用という日本的な解決方法で解決した。この結果、日本では単発の軽爆撃機と双発の軽爆撃機という2種類が存在することとなった。

 

開発

 1935年、陸軍は中島飛行機、三菱重工に新重爆の開発を内示、1936年2月に試作を指示した。同時に石川島、三菱、中島、川崎航空機の4社に当時制式採用されていた九三式単軽爆の後継機の開発が内示された。1936年5月5日、三菱キ30、川崎キ32として新軽爆の試作が指示された。

 三菱にはキ30という名称で試作が指示されたが、これに対して三菱は河野文彦技師を設計主務者として開発を開始、1937年2月には試作1号機が完成した。初飛行は2月28日で5月から審査が開始された。そして16機の増加試作機の製作が決定、1938年6月に九七式単軽爆撃機として制式採用された。

 生産は制式採用に先立つ1938年3月から開始されており、1940年まで生産が続けられた。エンジンはハ5(850馬力)で、プロペラは3,175m3翅プロペラが装着された。脚は固定式で、主翼は低翼に近い中翼式、胴体内に爆弾倉が設けられた。性能は最大速度423km/h(高度4,000m)、上昇時間は高度5,000mまで10分36秒、実用上昇限度は8,570m、航続距離1,700km、武装は、翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺、爆弾搭載量は正規で300kg、最大400kgであった。

 本機は、やや鈍重ではあったが、急降下爆撃も可能であったものの胴体内爆弾倉の影響で操縦員と後席乗員の連絡が難しいという欠点があった。

 

生産数

 三菱重工で636機、陸軍航空工廠で180機以上、合計816機(686機とも)が生産された。

 

戦歴

 1938年1月には、飛行第9大隊(のちの飛行第90戦隊)が九七式軽爆への改変を開始、改変は4月頃で終わる予定であったが実際には8月頃までかかったと言われている。4月の徐州会戦に参加したのが初の実戦投入であったと思われる。続いて5月には飛行第5大隊(のちの飛行第31戦隊)が改変を開始している。1939年5月に勃発したノモンハン事件では九七式軽爆を装備した飛行第10戦隊が参加、その後、飛行第16戦隊、飛行第31戦隊も参加している他、中国戦線では飛行第34戦隊が九七式軽爆を装備していた。

 1941年12月の太平洋戦争開戦時には16戦隊、31戦隊、第21独立飛行隊の独立飛行第82中隊が九七式軽爆を装備している。開戦後は16戦隊が比島攻略に参加、31戦隊はマレー作戦に参加している他、独立82中隊が中国戦線で活躍したものの、1942年春頃には第一線を退いた。

 

まとめ

 

 九七式軽爆はM103ナゴヤという名称でタイ空軍に24機が供与された機体ではあったが、太平洋戦争初期には旧式化に伴い傑作機九九式双軽にその地位を譲ることとなる。特徴が無いことが特徴ともいわれる目新しさの無い機体ではあったが、扱いやすく搭乗員には評判の良い機体であった。川崎航空機の九八式軽爆と並んで日本陸軍が採用した数少ない単軽爆の一つである。

 

 

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01_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特別攻撃機 桜花とは、太平洋戦争後期に開発された特別攻撃機である。搭乗員1名が乗機、火薬ロケットにより最高速度648km/hを発揮、機首に搭載された1,200kg爆弾により機体もろとも敵艦を撃沈することを目的としている攻撃機である。無論搭乗員が生還する可能性は全くない。

 

特別攻撃機 桜花 〜概要〜

 

性能

全幅 5m
全長 6m
全高 1m
自重 2,140kg
最大速度 648.2km/h(高度4,000m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 800kg3基
航続距離 37km
弾頭重量 1,200kg
設計・開発 三木忠直 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

 1944年、405空に在籍した太田正一特務少尉は、ロケット推進式の小型有人滑空爆弾を一式陸攻の胴体に懸架して、それを空中から発射、敵艦を撃沈するという意見を海軍航空技術廠(空技廠)に提出したのが始まりである。搭乗員必死である上、母機が投下点に到着する以前に撃墜されてしまう危険性が高いため反対意見も多かったが、太田少尉の並々ならぬ熱意により計画が開始される。発案者の名前をとりマルダイ部品という名目で秘密裏に50機が空技廠に発注された。

 

開発

02_桜花
(画像はwikipediaより転載)

 

 空技廠では、実質的には三木忠直少佐が主務者として開発を開始。設計は1944年8月16日から開始。最大でマッハ0.85に達する高速に耐えらえれる機体の設計。火薬ロケットの使用。高翼面荷重機であることや胴体下面懸架式親子飛行機という初めての形式であるなど、新しいことが多かった。このため入念な設計と実験が行われており、決して粗雑に製作された機体ではなかった。

 1944年9月初旬、試作1号機が完成する。エンジンは推力800kgの四式1号20型火薬ロケットで胴体後部に3基搭載された。計算上の最高速度は648.2km/h、航続距離は高度3,500mで発射した場合、約37kmであった。機首には、1,200kg徹甲爆弾が装備された。ロケットエンジンのため高温となる尾部を除き、胴体や主翼、尾翼は全木製であった。全木製としたのは、材料不足という理由はあったものの、レーダーや電波信管に対するステルス化という目的もあった。

 同年10月23日、初飛行はダミー機の投下実験という形で行われた。このダミー機は、ロケットエンジン、操縦者、爆弾、装備品の代わりに固定バラストを搭載して実機と同じ重量配分とした機体であった。実験は成功であり、これにより懸架式親子飛行機という一つのハードルは超えることができた。

 最も大切なのは機体そのものの操縦性や安定性の確認であったが、これはどうしても搭乗員が登場して飛行することが必要であった。最大の問題は高速の本機をどうやって着陸させるかということであったが、機体にバラストとして水を搭載、実験を終えた段階で水を放出して軽量化、揚力を大きくした状態で着陸するという方法に落ち着いた。それでも着陸速度は殺人機と呼ばれた雷電並みであった。この実験機は、軽量化のために主翼は鋼製、尾翼は軽合金とされた。

 搭乗員の操縦による飛行実験は、10月31日に行われた。結果は予想以上に安定性は良く、軽快さは戦闘機並みで着陸も容易であった。11月6日、火薬ロケットを使用した飛行実験が行われたが、この実験でも安定性も操縦性も良好であった。11月20日には爆弾の起爆実験が行われた。この実験以後、「マルダイ」は桜花11型と呼ばれるようになる。さらに1945年2月には機体の強度実験が行われた。この実験の結果、実用には十分であることが確認されたため生産が開始された。

 

仮称桜花練習用滑空機(桜花K-1)

 桜花搭乗員訓練用に作られた滑空機で外形は11型とほとんど変わらないが、ロケットエンジン部分が流線形に整形されており、機内には水バラストタンクが設置されていた。

 

22型

03_桜花22型
(画像は桜花22型 wikipediaより転載)

 

 エンジンをツ11エンジンジェット、さらに緊急加速用として11型で使用されている四式1号20型ロケットをさらに1基、胴体下に搭載、爆弾は600kgで機体は小型化された。兵装はレーダー波を探知する逆探や防弾鋼板も装備される予定であった。最高速度は426km/hに低下する代わりに129.65kmの自力飛行が可能であった。

 1945年2月15日前後に設計が開始され、1ヶ月程度で設計が完了した。4月頃には試作1号機が完成、6月には実験が開始されたが、7月には母機が地上滑走中に試作1号機が母機から転落するという事故を始めとしてトラブルが多発した。空中投下実験は8月12日で母機から離脱しようとした瞬間、突然緊急加速用ロケットが噴射し墜落した。テストパイロットの長野一敏飛曹長は殉職。その後、終戦となった。

 

33型

 33型は、橘花にも搭載されたターボジェットエンジン、ネ20を装備した型で22型のツ11エンジンの2.35倍のパワーが予定されていた。33型は当時開発が進んでいた十八試陸攻連山を母機とする機体で、主翼は木製であるが、それ以外は全軽金属製であった。設計が開始されたが、43型を優先的に開発するという海軍の方針のため設計は中止、そのまま終戦となった。

 

43型

04_桜花43型
(画像は桜花K-2 wikipediaより転載)

 

 43型は、カタパルト射出用の桜花で甲乙2種類が存在する。甲型が潜水艦からのカタパルト射出用、乙型は陸上基地からのカタパルト射出用であった。エンジンにネ20を採用、全軽合金製であった。乙型には訓練用の桜花K-2と呼ばれる複座桜花があり、1945年8月上旬に2機が完成している。風防は涙滴型で前後それぞれが涙滴形となっている。

 

その他バリエーション

 21型は陸爆銀河に搭載できるように軽量化された機体で、爆弾を600kgに変更した型であった。他にも飛行機曳航型の53型等が計画されていた。

 

生産数

 11型が155機、桜花K-1が45機生産されている。アメリカ、イギリス、日本、インドに合計14機が現存している。

 

戦歴

 初めての桜花部隊は1944年10月1日に神ノ池基地で開隊した721空である。当時の海軍の航空隊の編成は、航空機で編成された飛行隊が整備を始めとした後方支援機能を持った航空隊の下に組み込まれ航空隊司令の指揮下で作戦行動するというものであった。つまり飛行隊というユニットが航空隊という器に入ると考えると分かりやすい。

 飛行隊は作戦や状況によって別の航空隊に組み込まれたりすることもある。これは空地分離方式と呼ばれ、1944年7月10日から採用されている。721空は戦闘機と攻撃機の混成部隊で戦闘機隊は戦闘306飛行隊(定数24機のち48機)、攻撃機は攻撃711飛行隊(定数48機)が配属されており、桜花隊はどの飛行隊にも所属しない721空直属部隊である。

 訓練が開始されたのは11月中旬で当初はフィリピン戦に投入される予定であったが、投入予定の桜花50機は空母信濃で輸送中に母艦が雷撃により沈没、桜花も海底に沈んでしまったために投入は見送られた。1945年2月15日、721空は第5航空艦隊に編成替えとなると同時に戦闘305飛行隊、戦闘307飛行隊、攻撃708飛行隊が編入された。これにより定数は戦闘機192機、攻撃機96機に増強された。因みに定数とは保有することができる最大数であるので実際に配備されている機数は定数を下回る場合がほとんどである。

 桜花の初陣は1945年3月21日で、午前11時35分、15機の桜花を搭載した18機の一式陸攻が攻撃708飛行隊長野中五郎少佐直率の下出撃、零戦隊約30機の直掩を受けたものの、米機動部隊の戦闘機約50機の攻撃を受け目標に到達する前に一式陸攻は全滅、護衛の零戦隊も分隊長二人を含む7機を失うという損害を出した。4月1日には陸攻6機に桜花3機を搭載して出撃、桜花3機、陸攻2機を失った。

 4月12日には陸攻8機に桜花8機を搭載して出撃、桜花8機、陸攻5機を失っている。この攻撃で土肥三郎中尉機が米駆逐艦マナート・L・エーブルに命中、轟沈した他、駆逐艦スタンリーにも2機が命中し同艦は大破した他、桜花の至近弾を受けた掃海駆逐艦ジェファーズも大破している。

 4月14日には桜花7機、陸攻7機が出撃、全機未帰還となった。2日後の16日にも桜花6機、陸攻 6機が出撃、桜花5機、陸攻4機が未帰還となった。28日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花1機が未帰還となった。5月4日には桜花7機、陸攻7機が出撃、駆逐艦シェーに命中、シェーが大破した他、「至近弾」2機により掃海艇、上陸支援艇が大破している。この攻撃での未帰還は桜花6機、陸攻5機である。さらに11日には桜花4機、陸攻4機が出撃、桜花3機、陸攻3機が未帰還となった。25日には桜花12機、陸攻12機が出撃、各3機が未帰還となっている。

 以降、一ヶ月近く出撃はなかったが、6月22日には桜花6機、陸攻6機が出撃、各4機が未帰還となった。これが最後の出撃で桜花の出撃は合計10回、未帰還となった桜花は55機、陸攻51機で搭乗員の戦死者は桜花隊55名、陸攻隊365名であった。桜花を搭載し重鈍となった一式陸攻の多くは射点到着前に撃墜されたが、一旦発射した桜花はレーダーで追尾することは困難であり、一撃で駆逐艦を大破させる威力があった。

 

まとめ

 

 日本陸海軍の航空機は戦争後半になると機体のバリエーションが多くなる傾向がある。桜花も例外ではなく数多くのバリエーションが計画された。搭乗員が必ず死亡する攻撃機のバリエーションがこれほど計画されているというのは、軍首脳部がこの特攻機にどれだけ期待していたのかが良く分かる。戦争の狂気以外の何物でもない。

 

 


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01_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 四式重爆飛龍は三菱重工が開発した航続重爆で、最高速度537km/h、航続距離3,800kmであった。軽量コンパクトにまとめられた機体は、のちに雷撃機にも改造され1944年の実戦配備以来、終戦まで戦い続けた。日本が生んだ最高傑作機の一つである。

 

四式重爆撃機 飛龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 22.5m
全長 18.7m
全高 5.6m
自重 8,649kg
最大速度 537km/h(高度6,090m)
上昇力 6,000mまで14分30秒
上昇限度 9,470m
エンジン出力 2,000馬力(2基)
航続距離 3,800km
武装 20mm機関砲1門、12.7mm機関砲4門
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾3発または
   50kg爆弾15発
設計・開発 小沢久之丞 / 三菱重工

 

開発

02_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ49(九七式重爆)の後継機の開発を指向する陸軍は、1939年12月、三菱重工に対してキ67の開発を内示した。これに対して三菱は小沢久之丞技師を設計主務者として研究を開始、1940年9月に試作が内示、1941年2月に正式に試作が指示された。

 試作を命じられた三菱側は、完成した航空機が得てして当初の指示にはない使い方をされることを念頭に性能要求では500kgとなっている爆弾搭載量も最大で800kg搭載できるようにする等、余裕を持った設計が行われた。さらには目玉としては急降下爆撃、超低空飛行が可能なことなどがあった。

 

試作機完成

 1942年12月に試作1号機が完成する。初飛行は12月27日で翌年には試作2号機、3号機も完成、初飛行を行った。完成したキ67は海軍の一式陸攻に比べると小型コンパクトにまとめられていた。エンジンは信頼性の高いハ104(1,900馬力)でプロペラは直径3.6mの4翅プロペラを採用した。

 燃料タンクは、胴体内燃料タンクは装甲板や厚いゴム被膜で防弾しており、翼内タンクは下面がセミ・インレグラルタンク(燃料タンクがそのまま外板になっている構造。)となっており、被弾した際には燃料が自動的に下方に流れ出て火災を防ぐように設計されていた。機銃は5ヶ所で、前方、後上方、尾部、両側面が12.7mm機関砲(ホ103)が装備、死角が無くなるように視界が広く取られた。

 最高速度は537km/hで安定性不良、プロペラの不調、タイヤのパンク等が問題点として指摘されていたが、一つ一つ解消していった。ただ、プロペラの不調に関しては電気系統のトラブルが原因で、電気系統に弱い当時の日本では最後まで手を焼いた。1943年2月には17機の増加試作機が発注され、1944年2月までの間に完成した。この増加試作機で後上方機銃が20mm機関砲(ホ5)に変更され、以後、量産機の標準となった。制式採用は1944年8月であったが、生産は同年初頭には開始されており、3月には量産1号機が完成している。

 生産451号機以降は尾部銃座が連装銃架となり1型乙と呼ばれた。これに伴い20号機(試作機が20機存在するため生産1号機)から100号機までが1型、101〜450号機までが1型甲と呼ばれた。

 

雷撃機化

 1943年12月、陸軍は、三菱に対してキ67を雷撃機改修を内示、1944年1月5日に正式に改修が指示された。差し当たり17、18号機の2機が改修されたが、結果は極めて良好であり、陸軍は17号機以降全機に雷撃装備を施すことが決定した。さらに追加装備として電波警戒器タキ1供超低空用電波高度計タキ1靴鯀備していた。

 

2型、1型改

03_四式重爆飛龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月よりキ67のエンジンをハ214(2,350馬力)に換装するという研究が開始された。そして1943年9月に1型にハ214を搭載、試験を行った。1945年1月12日、キ67、2型の試作が指示されたが設計中に終戦となった。さらに1型に排気タービン付きハ104ルに換装した1型改も2機製作されたが、最大速度は545〜551km/hと大して向上しなかったため試作のみで終わった。

 

キ109特殊防空戦闘機

 キ109はキ67の防空戦闘機型で、1943年11月20日に試作が指示されている。これは75mm高射砲を装備した特殊防空戦闘機で、小沢久之丞技師を設計主務者として開発を開始、1944年8月末に試作1号機が完成している。テストの結果、操縦性、運動性は良好であり、75mm砲の命中率も高いため早速44機の緊急生産が命令された。

 しかし、1944年11月、実際に2機の試作機で来襲したB29を迎撃したところ、高空性能不足で有効射程に入れなかった。このため軽量化と空気抵抗の低減が行われたが、結局、期待した性能には達しなかった。試作機2機、量産機20機が生産されている。

 

その他試作機

 1944年2月には滑空機曳航装置を装備した型、5月には四式自動爆撃照準器と自動操縦装置を連携させる実験機が製作された。8月には機上サーチライトを装備した実験機が完成している。同月、イ号1型甲空対艦無線誘導ミサイル母機型と体当たり攻撃用ト号機の試作が指示されている。イ号母機は1944年10月に1号機が完成、12月までに全10機が納入されている。

 ト号機は銃座を全て廃し、800kg爆弾2発を搭載した型で15機が製作された。1945年2月にはキ167櫻弾装備特攻機の試作が指示されている。ト号同様、銃座は全て廃されている。試作2機の他、小数機が改修され実戦で使用されている。尚、キ167という計画番号は非公式。

 1945年7月には長距離襲撃機型、特殊航続延長機型が計画されている。特殊航続延長機型は両翼端を75cm延長し、燃料タンクを増設、さらに翼下に落下タンクを各1個装備、武装は尾部の機関砲のみとした機体で、長距離襲撃機型は20mm機関砲を胴体下面に4門、尾部に1門、機首に1門装備することを予定したものであったが、どちらも完成することなく終戦を迎えた。他にも、キ67を輸送機化したキ97輸送機は、1943年2月に試作指示が出たが、1944年9月に開発中止となった。全木製重爆キ112、重爆掩護機キ69が計画されたがいずれも計画のみで終わっている。他にも重爆指揮官機型も計画されていた。

 

生産数

 生産は、三菱名古屋製作所が564機(試作機含む)、熊本製作所が42機、川崎航空機が91機の合計697機が完成している(635機説あり)。

 

戦歴

 1944年5月、四式重爆は豊橋で訓練中の飛行第98戦隊に配備された。この戦隊は陸軍初の雷撃隊で、1944年2月より海軍761空の指揮下に入り、3ヶ月にわたって雷撃の訓練を行っていた部隊であり、四式重爆を配備された98戦隊は同機での訓練を開始、8月に海軍でT攻撃部隊が編成されると98戦隊も同部隊に加えられた。この時点で98戦隊の隊員は暗夜行動可能27組、月明時夜間行動可能5組とかなりの練度にまで達してた。

 四式重爆の初出撃は、1944年10月12日夜で、台湾より98戦隊の四式重爆20機が出撃したものの、1機は離陸に失敗、19機が索敵攻撃に出撃したものの敵機動部隊を発見することができずにバラバラに帰還、台湾にたどり着けたのは8機、中国大陸への不時着3機、行方不明8機という大損害を出してしまった。続く13日の攻撃では16機が出撃、1機以外は全て不時着・未帰還となり98戦隊の可動機はわずか2機となってしまった。同月、浜松では四式重爆を装備した飛行第110戦隊が編成、同月下旬には特攻機であるト号機装備の富嶽隊が編成(翌月全機が突入戦死)、11月には新たに特殊防空戦闘機型のキ109を装備する107戦隊が編成された他、60戦隊も四式重爆に改変されており、1945年1月には61戦隊、2月には62戦隊が四式重爆への改変を行っている。

 7戦隊も四式重爆を装備した部隊で98戦隊同様、雷撃訓練を受けた部隊であったが、この戦隊も98戦隊と同じくT攻撃部隊に編入されたものの台湾沖航空戦には参加せず、11月には比島に進出、数度の攻撃に参加した後内地へ帰還したのち、12月には新編の110戦隊と共にサイパン攻撃を行っている。1945年2月には米軍の硫黄島攻略作戦に際して60戦隊、110戦隊が米艦船攻撃を行っており、3月の沖縄侵攻では7戦隊、60戦隊、62戦隊、98戦隊、110戦隊が沖縄決戦に参加している他、1月に四式重爆に改変した61戦隊が蘭印方面で活躍している。

 

まとめ

 

 四式重爆は性能が高く、操縦性、運動性能も良かったため多くのバリエーションが考案された。しかし登場したのが太平洋戦争後半であり、生産数も少なかったため戦局を覆すほどの活躍は出来なかったが、1944年秋の実戦投入以来、多くの戦場で活躍した傑作機であった。

 

 

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01_キ102
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ102とは、キ45(二式複戦屠龍)をベースとして開発された高性能双発機で複座型の襲撃機タイプ、単座の高高度戦闘機タイプが存在した。制式採用はされていなかったが実戦部隊にも配属された。高高度戦闘機タイプは実戦でB29撃墜も記録されている。

 

戦闘・襲撃機 キ102 〜概要〜

 

性能(乙型)

全幅 15.57m
全長 11.45m
全高 3.70m
自重 4,950kg
最大速度 580km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで6分54秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,500馬力
航続距離 2,000km
武装 57mm機関砲1門、20mm機関砲2門、12.7mm旋回機関砲1門
爆装 500kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   50kg爆弾4発または
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 

キ96として設計開始

 キ96は、1942年8月、キ45(二式複戦屠龍)の性能向上型としてキ45兇箸靴椴Ψ海ら川崎航空機に開発が指示された。これに対して川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。4ヶ月後の12月に計画番号がキ96に変更されている。

 このキ96は防空を目的とした双発戦闘機であり、操縦席はキ45兇醗曚覆蠱浦族修気譴拭1943年6月に設計完了。9月には試作1号機が完成.主翼はキ66試作急降下爆撃機のものを翼面積を増大させた上でそのまま流用、翼面荷重は176.4km/屬箸覆辰拭H動機はハ33/62(1,500馬力)で、プロペラは直径3mハミルトン定速式3翅が採用された。武装は前方固定方として機首に37mm機関砲(ホ203)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門を装備している。

 性能は、試作1号機は最高速度600km/h(高度6,000m)。上昇時間が5,000mまで6分。実用上昇限度11,500m。高度10,000mまで17分という新記録を樹立したが、双発戦闘機であっため単発戦闘機のような軽快さがなかったため不採用となった。

 

キ102に変更

 1943年4月、キ96を複座襲撃機に改修することが命ぜられた。さらに6月には、B29迎撃用の高高度戦闘機に改修が命じられる。これらは、高高度戦闘機型をキ102甲、襲撃機型はキ102乙と命名され、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始。1944年1月には設計完了。同年3月試作1号機が完成した。同月キ102丙夜間戦闘機型の試作命令も発令されている。キ102丙は1945年5月に設計完了したが6月28日の空襲で製作中の試作機は破損、そのまま終戦となった。

 

乙型(基本型)

 キ102乙(襲撃機型)は、エンジンにハ112供1,500馬力)を採用。機首に57mm機関砲(ホ401。携行弾数16発)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5。携行弾数各200発。)2門、後席には12.7mm旋回機関砲(ホ103)爆弾架には500kg爆弾1発、または250kg爆弾2発、50kg爆弾4発を搭載することが出来る。最大速度は580km/h(高度6,000m)、上昇時間は5,000mまで6分4秒、実用上昇限度は10,000m、航続距離2,000kmであった。215機が製作され25機が甲型に改造されている。

 

甲型

 甲型はエンジンを排気タービン付きハ112競襪亡港、機首の前方固定砲を37mm機関砲(ホ204。携行弾数35発)1門に変更された以外は乙型と同じであった。1944年11月、B29の空襲激化のため緊急生産指令が出て乙型の内25機が甲型に改修され、15機が陸軍に納入された。性能は上昇限度が10,000m、高度10,000mで最大速度580km/hを出すことが可能であり、高度10,000mまでの上昇時間は18分であった。しかし排気タービン過給器の故障は続出した。

 

丙型(未完成)

 丙型はキ102の夜間戦闘機型であり、夜間における離着陸、高空性能を向上させるため翼面積が増大され、それに伴い機体を安定させるため胴体後部を延長した。風防は操縦席と同乗者の風防を分離、中間に45度の角度で30mm機関砲(ホ155)2門を搭載。胴体下面の20mm機関砲(ホ5)は残されたが、機首砲、後席の旋回砲は廃止された。エンジンはハ112競襪如▲譟璽澄爾療觝椶睛縦蠅気譴討い拭性能は高度10,000mで600km/h、上昇時間は10,000mまで18分、実用上昇限度は13,500m、航続距離は2,200kmになる計画であった。

 

キ108

 1943年4月、陸軍は川崎航空機に対して与圧気密室付き高高度戦闘機キ108の開発を指示、同年8月、川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発に着手した。土井技師はキ102の機体をベースに与圧化することを計画。1944年5月には設計が完了した。7月にはキ102の機体を改修した試作1号機が完成する。胴体を大改修した結果、胴体の全長と全幅は増大した。エンジンはハ112兇鮖藩僉I霑は機首に37mm機関砲(ホ203)、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門搭載予定であったが試作機は、実験機的な性格であったため、実際には搭載されなかった。

 性能は最大速度が高度6,000mで580km/h、高度10,000mで610km/h、上昇時間が高度5,000mまで9分、8,000mまで12分20秒、10,000mまで16〜17分、実用上昇限度は13,500m、航続距離が1,800kmであった。

 

キ108改

 1944年8月、高高度性能を向上させるため翼面積を増大させたキ108改が計画、1945年1月に設計完了。1945年3月には試作1号機が完成する。試作機は2機製造された。エンジンはハ112兇派霑は搭載されていなかった。1945年6月22日と26日の空襲で破壊、試作1号機のみ終戦時残存。

 

生産数

 試作機3機、増加試作機20機。総生産数は215機である。内25機が甲型に改造されている。

 

戦歴

 試作機であるものの215機が生産されたキ102は、一部「五式複戦」とも呼ばれた。襲撃機型である乙型は計爆撃機部隊である飛行第3戦隊、45戦隊、75戦隊に配備された他、1945年6月頃からは戦闘機隊である飛行第28戦隊へも配属、夜間戦闘機として活躍している。高高度戦闘機型である甲型も1942年10月に新設された航空審査部の黒江保彦少佐の手により複数回出撃、1945年3月25日の迎撃戦ではB29の撃墜に成功している。

 

まとめ

 

 キ102はキ45の改良型キ96として計画がスタート、キ96は双発戦闘機として十分な性能を発揮したものの当時の陸軍では高高度迎撃という必要性は認識されていなかったため制式採用はされなかった。仮に制式採用されていたとすれば効率的に量産化が行われ本土防空戦ではB29相手に健闘していたことが予想される。キ102は、悲運といえば悲運な航空機であった。

 

 

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01_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍は、戦闘機の援護を不要とすることを目的に設計された陸軍の重爆撃機である。このため設計者も一式戦闘機隼、二式単戦鐘馗を手掛けた小山悌技師を充て開発に乗り出した。結果、九七式重爆と大差ない重爆撃機となってしまったため歴史の中に埋もれてしまった。

 

百式重爆撃機 呑龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 20.42m
全長 16.81m
全高 4.25m
自重 6,540kg
最大速度 492km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで13分39秒
上昇限度 9,300m
エンジン出力 1,520馬力2基
航続距離 2,000km(正規)
武装 20mm機関砲1門、7.92mm機銃5挺
爆装 最大750kg
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は中島飛行機に対してキ49の名称で九七式重爆の後継爆撃機の開発を指示した。性能要求は最高速度が九七式重爆の400km/h以上であったのに対して、500km/h以上、航続距離も九七式重爆の1,500〜2,100km以上に対して3,000km以上、爆弾搭載量は九七式重爆の750kgに対して1,000kgと増加していた。これに対して中島飛行機は、これまで重爆を手掛けていた松村健一技師に代わり(海軍機部門に転属)隼や鐘馗を設計した小山悌技師を設計主務者として開発を開始した。

 この設計主務者に小山技師を据えた判断は陸軍の要求が最高速度500km以上を要求する高速重爆であったため、戦闘機の設計を主に行っていた小山技師に白羽の矢が立ったものであるのだろう。その結果完成した重爆は、太い胴体に平面形の主翼というまさに戦闘機の性格を持った重爆であったと言える。

 1939年8月中旬、試作1号機が完成、本来、エンジンはハ41(1,260馬力)が搭載される予定であったが、生産が間に合わずハ5改(1,080馬力)が搭載されたが、ハ41を搭載した2号機、3号機が完成すると1号機もハ41に換装された。

 上昇力は5,000mまで14分、上昇限度は9,000m、航続距離3,400kmでほぼ要求を満たしたものであったが、最高速度は490km/h、爆弾搭載量は750kgと要求を下回っていた。武装は後上方に20mm機関砲1門、その他前面、尾部、両側面に7.7mm機銃各1挺を装備、合計6挺もの機銃を装備していた。

 1939年9月から年末にかけて基本審査が行われ、1940年1月に実用実験開始、同年8月に制式採用となるはずであったが、この時期、同時進行で開発されていた九七式重爆2型と性能がほぼ拮抗してたため問題となったが、将来の拡張性を考慮した結果、1941年3月、キ49は百式重爆として制式採用された。愛称は中島飛行機太田工場のある太田市にある大光院新田寺の通称「呑龍様」から呑龍と命名された。

 

2型

03_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍の制式採用の条件が性能向上型の開発であったこともあり、1941年3月、制式採用と同時に2型の研究が開始された。2型はエンジンをハ41の発展型ハ109(1,500馬力)に換装、最高速度は492km/h、上昇力が高度5,000mまで13分39秒、実用上昇限度が9,300m、航続距離が2,000〜3,000kmと1型に比べて僅かに性能が向上していた。1943年8月、基本審査完了、1943年6月には百式重爆2型として制式採用された。

 2型甲は、武装が後上方20mm機関砲(ホ1)、前部、側面両側の機銃を7.92mm機銃に変更、さらに尾部機銃を7.92mm連装機銃とした型であった。2型乙は甲の尾部銃座を12.7mm機関砲(ホ103)に変更した型であった。この乙の一部には推力式単排気管が装備されていた。丙型は電波警戒器タキ1(レーダー)を搭載した哨戒機型で推力式単排気管を装備した型で2型の内35機が改造された。

 

3型

 エンジンをハ107(2,000馬力)またはハ107を2段2速過給器に変更したハ117(2,470馬力)に換装した型である。1941年12月に試作1号機が完成したが、エンジンの開発に手間取ったため、完成したのは1942年4月末であった。1、2号機はハ107仕様であったが、1942年8月上旬に完成した3号機はハ117仕様であった。1943年12月百式重爆3型として制式採用された。

 機体自体にも大幅な改良が加えられ、ナセル間隔の増加、脚の高さの延長、水平尾翼の面積が増加された。武装も尾部機銃が20mm機関砲に変更、後上方、後下方が12.7mm機関砲に変更、爆弾搭載量も当初の要求通りに1,000kgに増加した。同時に燃料タンクの容量も1,000L増加されている。

 性能はハ107装備機が最高速度569km/h(高度4,800m)、ハ117装備機が540km/h(高度5,500m)で、上昇力も5,000mまで10分30秒と向上したが、実用上昇限度は8,500mに低下した。この3型は制式採用は決定したもののキ67(四式重爆飛龍)の開発に重点を置くため6機が製作されたのいで終わった。

 

キ50・キ58・キ80

 キ50は空中給油機型で試作のみ行われた。キ58はキ49の機体をベースとした爆撃機直接掩護用の多座戦闘機である。胴体上面に20mm機関砲を追加、20mm機関砲5門、12.7mm機関砲3門を装備していた。3機が試作されたのみで終わった。キ80は同じくキ49の機体をベースとした空中式用の機体で2機が試作された。

 

生産数

 百式重爆は合計819機(または832機、796機)が生産された。

 

戦歴

 最初に百式重爆が実戦配備されたのは1942年7月から8月にかけてで、配備された部隊は満洲に展開する飛行第7戦隊と第61戦隊であった。両部隊ともに九七式重爆からの改変で、改変が完了した9月には南方進出が決定、10月には7戦隊がジャワ島、61戦隊がスマトラ島に到着、海上を哨戒しつつ洋上航法や艦船攻撃の訓練を行った。

 1943年3月になると7戦隊はビルマに帰還する12戦隊に代わりスラバヤに進出するが、4月には装備機を百式重爆2型に改変するために浜松に帰還、スラバヤにはジャワ島の61戦隊が進出した。6月になると61戦隊にポートダーウィン攻撃命令が下り、一式戦闘機隼を装備する59戦隊などと共にチモール島ラウンテン飛行場に進出、数度の攻撃に参加したのち61戦隊も百式重爆2型に改変するために内地に帰還している。1943年7月になると百式重爆に改変した7戦隊が再びジャワ島に進出、さらに同月ニューギニアのブーツ東飛行場に進出、8月には7戦隊同様百式重爆2型に改変した61戦隊もニューギニアに進出したものの11月までには両戦隊ともに戦力のほとんどを失ってしまったため、1944年2月には7戦隊は人員の一部を61戦隊に転属させ内地に帰還、その後61戦隊は少数機による作戦を実施している。

 その他百式重爆を装備した戦隊であるが、1943年5月になると満洲に展開する74戦隊、95戦隊にも百式重爆が配備、1944年1月には62戦隊にも1型が配備されている。1944年2月になると満洲に展開していた74、95戦隊は内地に展開して哨戒、訓練を行ったのち9月には比島に進出、62戦隊もマレー半島に進出したのち10月には比島に進出して多くの作戦に参加、1944年12月には62戦隊、1945年1月には74戦隊、95戦隊も内地に帰還した。

 

まとめ

 

 百式重爆呑龍は傑作爆撃機九七式重爆と四式重爆撃機の間に挟まれた目立たない爆撃機で、同時期に製作された九七式重爆2型と性能はほぼ拮抗していたが、将来性を見込んで採用した機体であった。3型まで改良された時点で性能は大幅に向上したが、四式重爆の開発が始まってしまったため開発は打ち切られてしまった悲運の爆撃機であった。

 

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01_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式重爆は陸軍初の近代的重爆撃機であった。中島、三菱の競作であり、その採用には政治的思惑も噂されているが、性能は素晴らしく、同時期の海軍の爆撃機九六式陸攻の最高速度を100km/h以上上回った傑作爆撃機である。

 

九七式重爆撃機 〜概要〜

 

 

性能(1型)

全幅 22.00m
全長 16.00m
全高 4.35m
自重 4,691kg
最大速度 432km/h(高度 -000m)
上昇力  -
上昇限度 8,600m
エンジン出力 1,080馬力
航続距離 2,500km
武装 7.7mm連装機銃1挺、7.7mm機銃3挺
爆装 最大 1,000kg
設計・開発 三菱

 

背景から開発まで

 それまでの九三式重爆の旧式化に伴い、陸軍は、新重爆の開発を計画。1935年9月、陸軍航空本部は中島飛行機、三菱、川崎に次期爆撃機の研究に着手させた。その結果、1936年2月15日、中島飛行機と三菱に試作命令が出た。この新重爆は、最大速度がそれまでの九三式重爆の200km/hに対して、一挙に400km/hの速度を要求されたことが特徴的であった。そしてこの重爆が目標としていたことはそれまでの重爆が単に地上支援が任務であったのに対して、新重爆は航空撃滅戦(敵航空機の殲滅)であった。

 

開発

02_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島、三菱に命じられた試作機の完成期限は1936年10月であったが、両社共に遅れた。1936年12月、三菱が一足早く試作機を完成させた。性能はほぼ要求値を満たしており、1937年4月末の基本審査でも大きな問題は指摘されなかった。一方の中島飛行機は1937年3月に試作1号機が完成、6月より基本審査が行われた。両社の試作機を比較すると、まずエンジンは三菱がハ6(700馬力)、中島がハ5(950馬力)であり、寸法は三菱がやや大きく、中島はスマートな流線形であった。性能はどちらも甲乙付け難く、陸軍内部においても意見が二分されてしまった。

 この結果、陸軍は三菱の機体に中島製のエンジンを装着するということで解決、1937年6月11日、三菱に対して増加試作機(キ21)の製作が指示された。この決定は、両社の優れているところだけを抽出するというものであったが、問題はここからである。三菱にはエンジンの変更と共に陸軍の指示により機体の改修が命じられた。この内容は中島製の試作機の長所を全て三菱製に反映させるというもので、案の定、完成した機体はスマートな流線形を持つ中島製試作機にそっくりな形状となった。

 これを知った中島側は、自社の設計を三菱に「横取り」されたと不満を抱き、三菱側は自社の自慢のエンジンを不採用にされたことや設計の変更をさせられたことに不満を感じた。結局、この決定は両社に不満を持たせる結果となってしまった。しかし、この陸軍の決定により九七式重爆という傑作機が生まれたというのは皮肉な話である。

 試作機1、2号機は試験のため中国戦線に投入、さらに1937年末(1938年説あり)までに製造された増加試作機6機の内、5機も戦線に投入され、これらのフィードバックを残りの1機の増加試作機に反映させる方針であった。同時にエンジンをハ5改(850馬力)に換装された量産機(1型)が三菱、中島で製作されていった。

 

1型

 1型甲は、1型よりも燃料搭載量を増大させたタイプで武装は後上方に7.7mm連装機銃、機首と後下方に7.7mm機銃各1挺の合計4挺であった。

 1938年7月20日に試作1号機が完成した1型乙は、尾部銃と側方銃(左右兼用)が各1挺追加された。以前から安定性が不十分であった上に武装強化により重心位置が後退したため水平尾翼が大型化された。燃料タンクも防弾ゴムが装備されている。最大速度は432km/h、上昇限度8,600m。

 丙型は2型へのつなぎとして製造された機体で、外翼の形状の変更、車輪の大型化、燃料搭載量の増大等が行われている。

 

2型

 エンジンをハ101(1,450馬力)に換装した機体である。1939年11月14日、試作が指示された。1型丙のエンジンをハ101に改修して各種テストを実施、1940年12月に完成した。エンジンの換装に伴いエンジンナセルの形状を変更、車輪も完全な引込脚に変更された。武装もそれまで左右兼用であった側方銃も左右に各1挺設置された。エンジンの換装により最大速度は1型の432km/hに対して478km/hと大幅に向上した。2型乙の登場により2型甲と呼ばれた。

 2型乙は後上方機銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、機銃座の風防を球形に改良された型である。2型丙は、機上電波警戒器タキ1(レーダー)を装備した機体で1944年2月中旬に試作機が完成、その後数機が生産された。2型は生産中に単排気管の装着、防弾装備の充実等が行われている。

 

輸送機型

 1型をベースに100式輸送機(キ57)として制式採用された。MC-20として民間にも転用されている。さらには貨物輸送機とされた機もあり、これはMC-21と呼ばれた。

 

生産数

 1型は、試作機2機、増加試作機6機、量産機350機が生産され、1型甲型は143機、乙型が120機、丙型が160機生産されている。1型は合計2型は1944年9月まで生産が続けられ2型甲が1,025機、2型乙が257機の合計1,282機が生産された。総生産数は試作機も含めると2,063機である。

 

戦歴

 1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により日中戦争が始まる。当時の日本陸軍が採用していた重爆は九三式重爆であったが、能力的には十分といえるものではなかった。このため1937年10月末、独立第3中隊に実用実験を兼ねて九七式重爆の試作1号機、2号機が配備、約2ヶ月の実用実験が終了した後、この2機は飛行第6大隊に引き渡された。さらに1938年6月までには大隊の全12機が九七式重爆に改変された。

 1938年8月には第6大隊は飛行第60戦隊に改編、以降、要地攻撃や地上部隊支援、さらには重慶等の奥地攻撃に活躍する。この頃になると九七式重爆は満洲の58、61戦隊、台湾の14戦隊にも配備されるようになっており、61戦隊は1939年に勃発したノモンハン事件にも参加している。このノモンハン戦の最中、九七式重爆を装備した62戦隊が誕生、さらに内地の7戦隊、1940年春には98戦隊、6月から8月の間に12戦隊が九七式重爆に改変された(1941年5月には12戦隊、98戦隊が2型へ改変されている)。

 太平洋戦争開戦時には1型丙を装備した62戦隊、12戦隊、60戦隊、98戦隊が仏印に進出、進出時に悪天候により14機を失ったものの145機が仏印に集結した。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦するとこれらの戦隊はマレー攻撃、シンガポール攻撃に参加、その後ビルマのラングーン航空撃滅戦に参加、1942年2月には98戦隊に搭乗した第一挺身団によるパレンバン油田への空挺降下が実施、3月には九七式重爆によるビルマへの航空撃滅戦が行われている。

 一方、太平洋戦争開戦時に比島攻撃に参加した14戦隊は、1943年3月2日にシンガポールから島伝いにラバウルに進出、ソロモン、ニューギニア航空戦に参加したのち、1944年3月には比島に移動した。比島には12戦隊の九七式重爆と共に第7飛行師団の指揮下に入り比島決戦に活躍した。他にも比島にはタキー1機上電波警戒機を搭載した九七式重爆二型を装備した独立飛行31中隊が哨戒部隊として参加している。

 その他の戦線では、1943年3月には58戦隊、60戦隊がインド洋の哨戒任務や中国大陸での作戦を行っており、12戦隊や14戦隊、62戦隊等も中国大陸で活躍している。1945年になると九七式重爆はすでに旧式化していたが、同年3月に始まった沖縄戦では九七式重爆が義烈空挺隊を乗せて沖縄の飛行場へ強行着陸を敢行している。

 

まとめ

 

 九七式重爆は、日中戦争のさ中に開発された重爆撃機で太平洋戦争終戦まで使用され続けた。生産中に防弾性能の強化も行われたが、連合軍爆撃機に比べれば防弾装備は無きに等しい。沖縄への特攻攻撃である義烈空挺隊の搭乗機としても有名である。戦後も少数がタイで運用されている。

 

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01_飛燕甲
(画像は飛燕甲 wikipediaより転載)

 

 キ88は機首に37mm機関砲を装備した単発戦闘機であった。これはハ140エンジンを2基串型に配置したキ64のエンジンの前方エンジンを取り除き、そのスペースに37mm機関砲1門、20mm機関砲2門を装備する予定の機体であった。陸軍の機種統合整理の対象となり1943年に計画終了となった。

 

局地戦闘機 キ88 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.40m
全長 10.20m
全高 4.00m
自重 2,950kg
最大速度 600km/h(高度6000m)
上昇力 5000mまで6分30秒
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,250馬力
航続距離 1,200km
武装 37mm機関砲1門、20mm機関砲(ホ5)2門
設計・開発 土井武夫 川崎飛行機

 

背景から開発まで

 三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師が高速戦闘機キ64の設計中にキ64の2基のエンジンの前方を廃止し、そこに37mm機関砲を装備すれば、対爆撃機用の重武装の単座戦闘機を造ることができるのではないかというアイデアを思い付いたのが計画の始まりであった。

 

開発

 キ64大口径砲搭載のアイデアに目を付けた陸軍は1942年8月にこの研究を採用、キ88局地防空戦闘機の名称で試作を指示した。予定では、試作機2機と増加試作機10機を製作するつもりであったという。これに対して川崎航空機は1943年6月に設計を完了した。同年9月には主翼と胴体が完成、10月より組み立てに入る予定であったが、陸軍の航空機開発の機種統合整理によって計画は中止された。この中止の背景には、当時完成間近であった四式戦闘機の性能が良かったこと、キ88と同様のレイアウトを持った米国製戦闘機P39の性能が芳しくなかったことがあったと言われている。

 現在はモックアップ審査用の写真のみが残されているが、シルエットは三式戦闘機飛燕に似ており、エンジンはハ140特(1500馬力)の使用を予定、武装は機首に37mm砲1門、20mm機関砲2門を機首部分に集中配置する予定であった。

 

バリエーション

 キ88のエンジンを排気タービン過給器付きのハ140甲に換装したキ88改が計画されており、キ88の増加試作機完成後、3機の試作機の製造が予定されていた。

 

生産数

 未完成、計画のみ。

 

まとめ

 

 キ88は陸軍の機種統合整理の対象となり試作機完成直前に計画が中止された機体であった。計画が中止された背景には使用予定であったハ140エンジンの生産は滞っており、完成したエンジンも不調が続いていたことも挙げれられている。このため仮に計画が実現していたとしても活躍できたかどうかは疑わしい。

 

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01_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 連山は太平洋戦争中期に計画、末期に完成した大型陸上攻撃機である。目的は遠距離の米軍基地を破壊するためのものであったが、試作機が完成した時点ではもはや戦局はひっ迫しており、試作機のみで生産は打ち切られた。戦後、米国でテストされたがエンジン不調のためその飛行性能は分からず仕舞いである。

 

大型陸上攻撃機 連山 〜概要〜

 

 

性能(一部計画値)

全幅 32.54m
全長 22.93m
全高 7.20m
自重 17,400kg
最大速度 593km/h(高度8,000m)
上昇力  -
上昇限度 10,200m
エンジン出力 2,000馬力4基
航続距離 3,700〜7,470km
武装 20mm機銃6挺、13mm機銃4挺
爆装 2,000kg爆弾(または魚雷)2発または
   1,500kg爆弾2発または
   800kg爆弾3発または
   250kg爆弾8発または
   60kg爆弾18発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

 

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

完成まで

 太平洋戦争開戦後、遠距離にある敵基地を攻撃する必要性に迫られた日本海軍は、長距離爆撃機の開発を計画するようになった。このため海軍は4発エンジンの大型陸上攻撃機の開発を志向、1942年12月末、大型機深山開発に実績のある中島飛行機に計画番号N-40の試作計画を内示した。内示からおよそ半年後の1943年5月、この計画は陸海空共同試作機に指定される。

 この内示を受けた中島飛行機は、試製深山と同じ松村健一技師を設計主務者に計画に着手した。そして1943年9月14日、十八試陸上攻撃機試製連山(G8N1)の試作が中島飛行機に発注された。正式な発注に前後して、8〜9月には基礎設計が完了、12月には木型審査も完了した。そして1944年9月末、試作1号機が完成、10月23日初飛行に成功した。試作内示を受けてからわずか1年10ヶ月であった。

 1944年12月29日には試作2号機が完成、1号機とともに試験が行われた。この試製連山は日本では経験の少ない4発重爆である上、戦時下という悪条件の下であったが、作業は順調に進み、失敗が非常に少なかった。これには理由がある。設計主務者の松村健一技師は、作業に失敗を減らすために発動機、プロペラ等の選定には確実性のある資料に基づいて行うことや事前の研究、実験を綿密に行うこと、計画重量を超えない等以外にも以前の航空機設計の失敗からのフィードバックや目前の計画に集中し、それ以外の「欲をかかない」ことを求めた(例えば「将来の性能向上を見越す」等)。これらの対策が試製連山を成功に導いたといえる。

 

連山の特性

 エンジンは排気タービン付の誉24型ル(2,000馬力)でプロペラは6翅にすることも考えられたが結局無難な4翅とした。翼面荷重は速度を重視した高翼面荷重(239kg/屐砲箸掘△海里燭疥ッ緡ν僂某道劵侫薀奪廚噺討个譴襯侫薀奪廚硫縞にもう一枚フラップが付くフラップを採用した。胴体は厚い外板と少数の縦通材を使用する厚板構造の真円断面で、膠着装置は当時では珍しい前車輪式膠着装置(尾輪がなく前輪と主翼下部の車輪のみで機体を支える)が採用された。

 兵装は機首の前方に13mm連装機銃、胴体上方、下方、尾部に20mm連装機銃、側方左右に13mm機銃各1挺であり、側方機銃以外は全て動力式銃架であった。爆撃兵装は爆弾の搭載量は4tで、魚雷も搭載することが可能であったが、この時期にはもう大型機による魚雷攻撃というのは非現実的なものとなっていた。

 結局、連山は4機が完成したが、1945年6月には戦局の関係から開発中止が決定する。この4機の内、3号機は空襲で大破、4号機も破損したが、1、2号機の部品を使用して4号機は修復され戦後、米国に運ばれテストされた。1946年6月に飛行テストが行われたがエンジンの不調のためテストは2回で打ち切られた。連山が全力を発揮することはついになかった。

 

バリエーション

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 試作機4機のみの連山であったが、バリエーションは計画されていた。まず、特攻機桜花の母機として使用するために改修を加えたG8N1A、エンジンをハ43/11型ルに換装したG8N2、このG8N2を鋼製化したG8N3があった。

 

生産数

 連山は試作機6機、増加試作機10機、量産機32機が発注されていたが、1945年6月に連山の開発中止が決定してしまったため試作4号機が完成するにとどまった。連山の総生産数は試作機4機のみである。

 

まとめ

 

 連山は、深山とことなり大きな問題もなく完成した。大型陸上機の経験の少ない日本において非常に珍しいことであったが、そこには作業に関わった人々の知恵と努力があった。連山は、結局、実戦には参加せず、その能力を知られることもなく米国で廃棄されてしまったが、その技術は中島飛行機に継承されていった。

 

 

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01_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 一式陸攻は1941年に制式採用された双発爆撃機でその性能は当時としては随一のものであった。そのため多くの改良型が開発されたが、防弾装備を軽視したため戦場では「ワンショットライター」と呼ばれるほど脆く、多くの機体が撃墜されていったが、機体性能は素晴らしく傑作機といっていい。

 

一式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(22型)

全幅 24.88m
全長 19.63m
全高 6.00m
自重 8,050kg
最大速度 437.1km/h(高度4,600m 250kg爆弾4発搭載時)
上昇限度 8,950m
エンジン出力 1,850馬力(2基)
航続距離 6,060km(偵察時)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃3挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または500kg爆弾1発または
   250kg爆弾4発または
   60kg爆弾12発
設計・開発 本庄季郎 / 三菱

 

開発

02_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年9月末、海軍は、三菱に対して仮称一二試陸上攻撃機(G4M)の開発を命じた。要求された性能は最高速度398.1km/h(高度4,000m)、航続距離4,815km、800kg爆弾または魚雷搭載可能であること、乗員7〜9名、発動機は金星(1,000馬力)を使用することというものであった。これは当時、制式採用されていた九六式陸攻と爆弾搭載量は同じにして速度は50km/h以上、航続距離は800km以上を増大させるという苛烈なものであった。

 これに対して三菱は九六式陸攻の設計主務者であった本庄季郎技師を設計主務者として検討を開始した。本庄技師は当初は発動機4発の重爆を想定していた。これは双発でも要求性能は発揮することはできたが、防御面が不十分になるためエンジン2発のパワーで本来の性能、もう2発で防御関係の重量を支えるという構想であった。しかし、この構想は海軍側の猛反発に遭い、結果双発高速陸攻が完成するが、同時に防御装備が貧弱であり連合軍からは「ワンショットライター」と呼ばれることとなる。

 爆弾倉を胴体内に持つため胴体はいわゆる「葉巻型」となった。これは空力的には非常に優れた設計であった。翼内には燃料タンクが設けられ、さらに偵察任務の場合には爆弾倉内に増設タンクを搭載することが可能、脚は電動式で機体内に完全収納されるものであった。エンジンは当初は金星エンジンを採用する予定であったがより高性能な火星11型(1,530馬力)が完成したため火星エンジンを採用している。機銃は7.7mm機銃が前方に1挺、胴体上方に1挺、左右側面に各1挺、後方に20mm機銃が1挺の合計5挺が装備された。

 1939年9月、試作1号機が完成、翌10月23日初飛行が行われ、最高速度が444.5km/h(性能要求398.1km/h)、航続距離は5,556km(同4,815km)と性能要求を大幅に超えたもので関係者を驚かせたという。そして一連の審査が終わった1940年1月24日海軍に領収、順調に進んでいたが、掩護機型生産のため(下記参照)作業は大幅に遅れ、1年以上経た1941年4月2日一式陸上攻撃機として制式採用された。

 

海軍の型番の命名規則

 以下、一式陸攻のバリエーションについて解説するが、海軍の型番の命名規則は一の位がエンジンの変更、十の位が機体の変更を表している。つまり最初期型は11型で、機体設計に変更を加えると21型、エンジンに変更を加えると22型となる。さらにエンジンに変更を加えると23型という風に変わっていく。

 

G4M1シリーズ 型番10番台

 

03_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

一式大型陸上練習機11型・一式陸上輸送機11型

 一式陸攻が制式採用される以前、十二試陸上攻撃機の高性能に注目した海軍は掩護機型を思い付く(G6M1)。三菱側は性能が低下すると反対したが、海軍は方針を変えず生産を命じた。改良点は爆弾倉を廃し、代わりに胴体下面に砲塔を設置、前後に20mm旋回銃2挺を搭載、上方銃座を20mm機銃に変更、燃料タンクの防弾化などである。1940年8月に試作機が完成したが予想通り重量超過となり失敗した。この試作機は練習機や輸送機に変更され、一式大型練習機11型(G6M1-L)、一式陸上輸送機11型(G6M1-L2)として制式採用された。

 

11型(12型とも)

 高高度性能を強化する目的でエンジンを火星15型に変更したもの。これにより最高速度が11型に比べ18.5km/h速くなった他、上昇時間、上昇限度も向上した。最高速度463km/h、航続距離6,030kmとなった。途中の生産機から燃料タンクに厚さ30mmの防弾ゴムを装備、防弾性能が強化された。11型、12型併せ略符号はG4M1である。

 

G4M2シリーズ 型番20番台

 

04_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

22型(G4M2)

 22型は1942年11月24日に試作1号機が完成する。12型との変更点は、主翼、水平尾翼の形状を変更、プロペラを4翅に変更、燃料タンクの容量の増加、尾輪を引込脚に変更、上部機銃を20mm機銃に換装した他脚の補強も行われた。重量が増加したためエンジンを火星21型(1,850馬力)に変更している。22型甲は電探装備機で、22型乙は胴体上方の機銃が変更されている。最高速度437.1km/h、上昇限度8,950m、航続距離は2,500km。

 

24型(G4M2A)

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に変更した機体。1944年に1号機が完成する。24型甲は側方銃を20mm1号銃に変更したタイプで、24型乙は24型甲の上方銃を変更したもの。24型丙は24型乙の前方銃を12.7mm機銃に変更したタイプである。24型丁は特別攻撃機桜花の母体とするために設計されたタイプで桜花用の懸吊装置を設置した他、防弾鋼板の設置などがされている。一部の24型丁には離陸補助用の四式噴進器2本が装備されている。

 

25型、26型、27型

 25型は、エンジンを火星27型(馬力不明)にしたものであったが、発動機工場が被爆してしまったため1機のみ製造された。26型はエンジンを火星25型乙に変更したもので2機が試作された。内1機は26型丁として桜花の母機となっている。

 27型はエンジンを火星25型ル付に変更したもので1機が改造された。

 

G4M3シリーズ 型番30番台

 

34型

 34型は、連合艦隊側から航続距離を犠牲にしても防弾性能を強化して欲しいという要望の下にエンジンは火星25型のままで機体の防弾性能を強化したタイプである。燃料タンクを防弾ゴムで覆ったものであったが、設計の途中で設計主務者である高橋巳治郎技師が病に倒れたため完成は遅れた。1944年1月試作1号機が完成、初飛行を行った。最高速度は481km/hと24型よりも向上していたが、重量が増大したため強度不足が生じその対策に手間取った。

 さらに海軍側から航続距離を延長せよという要求が出されたため作業は再び遅れた。そして再び海軍から武装を強化せよという要求が出された結果、完成は遅れに遅れ1944年10月に34型生産1号機が完成した。こうして生産が開始された34型であったが、そのころには攻撃機の主力は陸爆銀河や四式重爆飛龍(陸軍)に代わっており、一式陸攻は輸送や対潜哨戒に使用されていた。このため34型も輸送用や対潜哨戒用に改造された34型甲、上方機銃を長銃身の99式2号銃に変更した34型乙、機首前方機銃を13mm機銃に変更した34型丙もある。

 36型(G4M3D)はエンジンを火星25型乙に換装したもので、桜花の母機として36型丁も製作される予定であった。37型はエンジンを火星25型ル付に換装したもので2機が改造されテスト中に終戦となった。

 

生産数

 G4M1シリーズは、試作機が2機、11型が403機、12型が797機の合計1,202機、G4M2シリーズが、22型から27型までは三菱名古屋製作所で640機、水島製作所で512機(513機とも)の合計1,152機(1,153機とも)、G4M3シリーズが、約516〜530機ほど生産された。総生産数は2,420機、または2,435機である。

 

戦歴

 最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空で、1941年5月、九六式陸攻から一式陸攻に改変されている。初めての実戦参加は同年7月27日の成都空襲で、以降、高雄空の一式陸攻は中国戦線での攻撃に度々参加している。そして9月には新たに鹿屋空が一式陸攻に改変を開始、両部隊ともにその後仏印進駐に参加している。

 太平洋戦争開戦時に一式陸攻を装備していたのも両部隊で、開戦劈頭フィリピンの各基地の攻撃に参加、12月10日には鹿屋空の一式陸攻隊がマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに雷撃を行っている。その後、零戦隊と共に比島・蘭印の各作戦に参加、この中で2月28日には高雄空の一式陸攻隊が水上機母艦ラングレーを撃沈している。

 

南東方面(ソロモン・ラバウル)の一式陸攻

 当初2航空隊のみであった一式陸攻隊であったが、1942年2月には新たに三沢空、4空にそれぞれ一式陸攻が配備、4空は2月14日にはラバウルに進出、20日には戦闘機の援護を受けずに米機動部隊攻撃を実施、参加17機中12機が被撃墜、2機が不時着という大損害を受け(ニューギニア沖海戦)、戦力回復後に行われた珊瑚海海戦においても出撃12機中隊長機以下4機を失うという損害を受けていた。このため内地で哨戒任務に就いていた三沢空にもラバウル進出が命ぜられ、8月には三沢空もラバウルに進出した。この頃になると九六式陸攻から一式陸攻への改変は進み、1空、千歳空が新たに一式陸攻を装備するようになっている。

 1942年8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸、第一次ソロモン海戦が開始、4空、三沢空の一式陸攻隊は出撃87機中24機と実に30%の戦力を失うという大損害を受けており、これ以降でも8月中にさらに11機が撃墜されている。このため同月中に木更津空、9月には千歳空と高雄空の一部がラバウルに鹿屋空(751空)の一部(27機)がカビエンに進出、同時に戦力を消耗し尽くした4空(702空)が内地に帰還したもののラバウルには三沢空(705空)、木更津空(707空)、千歳空(703空)、高雄空(753空)の4個飛行隊79機が集結した。その後、12月には707空は戦力を消耗して解隊、代わりに九六式陸攻装備の701空(旧美幌空)が進出している。その後これらの航空隊と再度進出した702空によりラバウル航空戦が展開されるが、1944年2月には751空がトラック島に後退、おびただしい犠牲を出した一式陸攻隊によるソロモン航空戦は終止符を打った。

 

千島列島、中部太平洋の一式陸攻

 一方、北東方面(千島列島)では752空(旧1空)の一式陸攻隊45機が幌筵島に進出、アッツ島に来襲した米艦隊への攻撃を行ったものの戦果はなく、アッツ島の玉砕ののちの1943年11月にはマーシャル諸島に移動している。中部太平洋では開戦当初は千歳空(703空)と1空(752空)が展開していたが、ラバウル方面の戦局が逼迫したため千歳空はラバウルに進出、中部太平洋は1空のみとなったが1942年11月には755空(旧元山空)がウェーク島に進出した。1944年に入ると平和であったマーシャル諸島も米機動部隊の攻撃を受けるようになり、2月に入ると米軍が上陸、さらにトラック島も米機動部隊の空襲を受けるようになった。

 

終戦まで

 この後、米軍の攻撃はマリアナ諸島、台湾、比島にも及ぶことになるが、戦力の差が決定的になってしまった状態では一式陸攻も戦果は少なく消耗する一方であった。この戦争後期に特筆すべきなのは721空で、通称神雷部隊と呼ばれるこの航空隊は「人間爆弾」桜花を搭載する部隊であった。飛行隊長は野中五郎少佐で一式陸攻24丁型で各1機特攻機桜花が搭載可能であった。初出撃は3月21日で一式陸攻18機が出撃、全機撃墜されている。以降、6月22日までに計10回出撃が行われているが損害に対して目立った戦果は挙げられていない。

 

まとめ

 

05_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)
雷撃中の一式陸攻。一式陸攻の胴体の高さが2.5mであることを考えると海面ギリギリで雷撃する一式陸攻の搭乗員の練度の凄さが良く分かる。

 

 一式陸攻は完成当時世界トップクラスの飛行性能を持った双発爆撃機であったが、実戦では防弾装備を軽視した結果、機銃弾が命中すると即座に発火、連合軍パイロットから「ワンショットライター」と呼ばれる機体となった。これは海軍が防弾能力を軽視した結果であった。このため海軍は太平洋戦争初戦期で多くの優秀な搭乗員を失ってしまった。

 

 

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01_深山
(画像はwikipediaより転載)

 

 深山は中島飛行機が開発した大型陸上攻撃機である。4発エンジンで全幅はB-29に匹敵する42mに達したが、性能が海軍の要求値に達せず試作機含め6機のみで生産が中止された。この6機の内4機は輸送機に改造されたが、予備部品の不足と油圧系統の不良に最後まで悩まされた。

 

大型陸上攻撃機 深山 〜概要〜

 

性能(試製深山)

全幅 42.14m
全長 31.02m
全高 6.13m
自重 20,100kg
最大速度 420km/h(高度3,000m)
上昇力 2,000mまで5分17秒
上昇限度 9,050m
エンジン出力 1,570馬力
航続距離 5,161km(偵察過荷重)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃4挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)4発または
   250kg爆弾12発または
   60kg爆弾24発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 

大型攻撃機(大攻)と中型攻撃機(中攻)の違い

 1938年、それまで陸上攻撃機としていたものを大型攻撃機(大攻)、中型攻撃機(中攻)という二種類に分類した。主要任務、特性は同じであるが、爆弾搭載量が大攻1,500kg、中攻が800kg、航続距離が大攻が3,000海里(5,556km)、中攻が2,000海里(3,704km)と異なる。その他、乗員数、搭載機銃数等も異なるが、大攻と中攻の大きな違いは爆弾搭載量と航続距離であるといえる。

 

ダグラス社よりDC-4Eを購入

02_DC-4E
(画像はDC-4E wikipediaより転載)

 

 1937年12月、日本の航空産業は四発重爆の開発経験のないため、海軍は米国ダグラス社からDC-4を製造権付きで購入することを決定する。このDC-4はのちに活躍するDC-4Aではなく、DC-4Eと呼ばれる別型である。しかし日本海軍が四発重爆の開発を計画していることは極秘であったため名目上は大日本航空株式会社が購入、中島飛行機が製造するという形式が採られた。

 大日本航空は当時、1938年11月に戦時体制の一環として数社の民間航空会社が合併して誕生した半民半官の会社で日本国内の航空輸送事業を独占していた。1938年、DC-4Eはこの大日本航空の旅客機という名目で95万ドル(当時の金額で190万円)で購入された。このDC-4E、実は失敗作であり、それを承知の上でダグラス社は大日本航空に売り渡したとも言われている。それはともかく、こうして購入されたDC-4Eは1939年10月日本に到着、早速組み立てられ11月13日に初飛行を行った後、密かに霞ヶ浦に運ばれ分解調査が実施された(※筆者注、このへんの時系列は今ひとつはっきりしない)。

 

開発

02_深山
(画像は右が深山、左は連山 wikipediaより転載)

 

 1938年、十三試大攻(G5N1)の計画要求が出された。この中での性能要求はDC-4Eをベースとする四発大型陸上攻撃機で、最大速度444.5km/h以上、航続力は爆装時4,482km以上、偵察時8,334km以上というもので中島飛行機に開発を命じた。中島飛行機は松村健一技師を中心に作業を開始、ベースが旅客機であるので主翼はそのままで胴体を再設計するという方針で開発が進められた。

 開発が開始されたもののベースとなるDC-4Eの製造図面の入手が必要であったため1938年2月、中島飛行機は技師数名をダグラス社に派遣する。製造図面は同年5月に引き渡しが完了する。中島飛行機では同月、全木製グライダーが製作され実験が行われている。1939年6月22日には実物の1/2サイズによる強度試験が実施。1941年2月末には試作1号機が完成する。

 当初は主翼の構造はそのまま生かす方針であったが、DC-4Eの低翼から十三試大攻では中翼に変更、胴体、尾翼は完全な新規設計であった。武装は、前方、胴体中央部上面、胴体下面、後方に1挺、胴体側面に各2挺の合計6挺であった。この内、上面には動力銃架に設置された20mm機銃、後方には20mm機銃が配置されている。

 エンジンは中島製護11型(1870馬力)が予定されていたが、開発が間に合わなかったため火星12型(1,530馬力)4基となった。1941年4月8日初飛行、ついで完成した2号機も海軍に領収された。海軍において試験が開始されたが、重量超過な上、エンジンの馬力が不足しており、最大速度は391.7km/hで要求値よりも約53km/h遅く、航続距離も要求値の50〜60%程度と期待外れのものであった。さらには油圧系統の不調が続出する。

 増加試作機4機は、護エンジンが完成したため、それまでの火星12型に代わり護11型が装備されたが、信頼性が低い上に振動が大きかったため開発は難航したが、1942年中頃には3号機、さらに4〜6号機が海軍に領収された。プロペラは1〜2号機の3翅から4翅に変更されている。これらは深山改(G5N2)と呼ばれている。最高速度は420.4km/hと約30km/h向上、航続距離も増大したが要求値には達しなかった上、相変わらず油圧系統のトラブルに悩まされていた。

 

輸送機型

 4機製造された深山改は性能が要求値に達しなかったため攻撃機としての使用は断念、輸送機に改造された(G5N2-L)。武装は撤去され、後下方銃座の位置には観音開きのハッチが設けられた。貨物搭載量は4tで油圧による操縦系統は人力に切り替えられたが、非常に重くなるため油圧で補助するという方式に変更された。

 

生産数

 試作機深山が2機、増加試作機の深山改が4機の合計6機である。火星エンジン装備の深山2機は空襲で破壊され、深山改の4機の内1号機はテニアン島で破壊され、2号機は事故で消失。終戦時は厚木基地に2機が残存していた。

 

戦歴

 輸送機に改造された深山は、1944年2月半ばに輸送部隊である1021空(通称「鳩部隊」)に配属された。配属された深山は2機で尾翼には当初は「鳩-1(2)」と記入されたがのちに鳩という呼称が廃止されたため尾翼には「21-1(2)」と記載されるようになった。3月にはさらに2機が配属、1021空は、1号機から5号機までの合計4機を保有するようになった(4号機は「死に番」であるため欠番)。これら4機の深山は、3月上旬より輸送飛行が開始されたものの故障が続出した上に部品が不足しており運用は難しかった。このような状況の中、4月19日には台湾から鹿屋に向かった深山2号機が墜落してしまった。

 6月には1号機がテニアンに進出したものの、その後、米軍がテニアン島に上陸したことにより1号機は失われている。1021空は残った2機(3号機、5号機)でマニラ方面への輸送任務を行っていたが1944年8月24日に輸送任務中止が命ぜられたため2機の深山は相模空に整備用の教材として引き渡され、そのまま終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 深山は十三試大艇(二式大艇)と同時に計画された4発大攻である。どちらも4発であったが、飛行艇に対して陸上機の設計実績がなかったため二式大艇のような成功はしなかった。しかしたとえ開発されていたとしても防弾性能の不備により目立った活躍は出来なかったであろう。因みに深山は、キ68またはキ85として陸軍での採用が計画され、1942年4月には実物大模型審査が行われたが深山の性能不足が明らかになったため1943年5月に計画が中止されている。

 

 

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01_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式陸攻は全金属製双発攻撃機でそれまでの攻撃機を超越する高性能を示した。最高速度は当時の艦上戦闘機を上回り、航続距離、運動性能全てが優秀であったが、防弾性能は皆無である。九六式陸攻は日中戦争から太平洋戦争終戦まで活躍する。

 

九六式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(11型)

全幅 25.0m
全長 16.45m
全高 3.685m
自重 4,770kg
最大速度 348km/h(高度2,000m)
上昇力  -
上昇限度 7,480m
エンジン出力 910馬力
航続距離 4,550km(過荷重状態)
武装 7.7mm旋回銃3挺
設計・開発 本庄季郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 ワシントン、ロンドン軍縮条約で対米6割とされた日本海軍は、航空機によってその劣勢を補おうとした。そこで目を付けたのが雷撃可能な陸上攻撃機であった。最初に七試大型攻撃機(のちの九五式大攻)の開発を指示、さらに中距離陸上機の開発を三菱重工に命じた。これが八試特殊偵察機(八試特偵)と呼ばれる機体でこれが改良され九六式中攻となる。

 

開発

 

八試特偵

 1933年、三菱は海軍より八試特偵の開発を指示された。九六式艦戦の時と同じように当時の航空本部長山本五十六少将の判断により細部にわたる指示はせずに性能要求は大枠のみを示し、技師に自由に腕を振るわせるという方針であった。このため三菱に提示された性能要求は「乗員3名、巡航速度222km/h以上、航続距離3,330km、自動操縦装置が装備されていること程度の簡単なものであった。

 これに対し三菱は本庄季郎技師を設計主務者として開発を開始、1934年4月18日、試作1号機が完成する。この八試特偵は、全金属製中翼単葉双発機で日本初の引込脚を装備、沈頭鋲の使用、自動操縦装置の装備等斬新なものであった。なお、試作中に計画が変更され、乗員が5名、7.7mm機銃2挺が設置されることとなった。

 1934年5月7日初飛行が行われた。当初は重量超過や重心位置や剛性不足等の問題が発生したが、テスト飛行の結果は非常に優秀であった。馬力不足から上昇力に問題があり、実用上昇限度は4,600mと今ひとつであり、巡航速度は203km/hと性能要求を下回ったものの、全体的な性能は素晴らしく、特に航続距離は4,380kmと性能要求を1,000kmも上回るものであった。操縦性能も抜群で安定性も良好、その軽快さは戦闘機並みであり、テストパイロット達から絶賛された。

 

九試中攻(九六式陸攻)

02_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年2月、八試特偵の実用機型ともいえる九試中攻の開発が指示された。設計主務者は八試特偵と同じく本庄季郎技師で1935年6月に試作1号機が完成する。機体は最新の超ジュラルミンが使用され、主翼と尾翼は八試特偵のものをほぼそのまま流用したが、胴体は完全に再設計され操縦席は正副並列式となった。

 機銃は前上方、後上方、後下方の3ヵ所に7.7mm機銃が設置され、爆弾・魚雷の懸吊、投下装置が設置された(爆弾等は機外に懸吊される)。エンジンは九一式600馬力エンジン2基が装備された。初飛行は1935年7月で最高速度は315km/hを記録、3,000mまでの上昇時間も八試特偵の16分54秒に対して9分43秒と航続距離以外の全てにおいて八試特偵を凌駕していた。一時期、座席の配置が問題となり時間を浪費したが、1936年6月には、九六式陸上攻撃機として制式採用された。

 

11型

 最初期の量産型で34機が製造された。エンジンは金星3型(790馬力)で最高速度は348km/hであった。続いて21型が生産された。これは金星41型または42型(どちらも1,075馬力)エンジンに換装された型で最大速度は376km/hに達した。乗員5名。

 

22型

 1939年4月、それまで後上方の機銃が7.7mmであったのを20mm機銃に変更、胴体側面に7.7mm機銃を各1挺新設、機銃を合計4挺とした武装強化型の22型が制式採用された。後上方銃座は涙滴形風防が採用されている。乗員は7名となった。エンジンは途中の生産機から金星45型(1,000馬力)に変更されている。

 

23型

 1941年2月、一式陸攻の生産に集中するために三菱での九六式陸攻の生産は打ち切られ、中島飛行機に生産が移行された。この中島飛行機で最終生産型の23型が生産されている。23型はエンジンを金星51型(1,300馬力)に変更、最大速度は415km/hとなった。

 

その他バリエーション

 九六式陸上輸送機は11型、21型がある。11型は乗員5名、乗客10名を乗せることができ、12型は乗員以外に落下傘兵12名を乗せることができた。その他民間型もあり、これは乗員4名と乗客8名を乗せることができる。ニッポン号と呼ばれた。

 

生産数

 試作機が21機、11型で34機、21型が343機、22型が238機、23型が412機生産されている。

 

戦歴

 最初に九六式陸攻が配備されたのは館山空で1936年早春のことであった。さらに4月1日には海軍初の陸攻専門部隊である木更津空が誕生、6月には九六式陸攻が配備された。1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると木更津空は長崎県大村基地に鹿屋空は台北に進出、8月14日には18機の九六式陸攻が中華民国軍の飛行場等を爆撃に成功している。この際、九六式陸攻の被撃墜2機、不時着1機、大破1機の損害が発生、以降、3日間に渡って中国本土の基地を攻撃したものの陸攻隊も9機を失うという損害を出している。これが有名な渡洋爆撃の最初であったが、中華民国軍の反撃は激しく、17日には木更津空、鹿屋空ともに兵力が半減してしまっている。

 これ以降、木更津空、鹿屋空で編成された第一連合航空隊(一連空)は陸戦協力や敵飛行場、交通施設等への爆撃、1938年2月には重慶への無差別爆撃も行ったものの、陸攻隊の損害も30機に達したため、3月には内地に帰還した。これと入れ替わりに同月、台湾の高雄で新しく高雄空が編成、さらに1939年10月には千歳基地で千歳空、1940年10月には美幌空、11月には元山空が開隊するなど、徐々に陸攻隊が充実していく。

 1941年になると新鋭の一式陸攻が部隊に配備されるようになり、鹿屋空、高雄空が一式陸攻に改変されていった。しかし未だ一式陸攻は全部隊に配備されるまでには至っておらず、太平洋戦争開戦時には一空、元山空、千歳空が九六式陸攻を装備していた。太平洋戦争開戦後は美幌空、元山空の陸攻隊がマレー沖海戦に参加、航行中の戦艦を撃沈するという快挙を成し遂げた。同時に比島では一空の九六式陸攻がクラーク基地に対して爆撃を行い、中部太平洋では千歳空の九六式陸攻がウェーク島攻撃を実施している。

 1942年1月には一空、元山空がラバウルへ進出、珊瑚海海戦等にも参加したものの7月には一空が内地へ帰還、兵力の補充のため、11月には701空(旧美幌空)がラバウルに進出しているが、この頃には主力は一式陸攻に代わっており、九六式陸攻は徐々に第一線から後退していったものの、終戦まで哨戒、索敵、船団護衛等に活躍した。

 

まとめ

 

 九六式陸攻は当時の戦闘機を凌ぐ高速であったため海軍内部に戦闘機不要論を引き起こす結果となった。しかしこれは防弾性能を全て犠牲にした結果であり、実際に戦闘に参加した九六式陸攻は防弾装備の欠落のため多大な損害を受けることとなる。そして防弾装備を強化されることなく終戦まで使用され続けた。

 

 

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01_流星
(画像はwikipediaより転載)

 

 流星は戦闘機、爆撃機、攻撃機の3機種の機能を全て兼ね備える万能機として設計された。戦争後期に生産され実戦にも参加したが、ほとんど活躍することなく終戦を迎えた。基本性能だけを見れば世界最高級の航空機であるが、エンジンの不調や各種不調に悩まされた航空機であった。

 

艦上爆撃機 流星 〜概要〜

 

性能

全幅 14.4m
全長 11.490m
重量 自重 全高 4.07m
自重 4,030kg
最大速度 567km/h(高度6,000m)
上昇力 6,000mまで10分20秒
上昇限度 11,250m
エンジン出力 2,200馬力
航続距離 1,852km(増槽装備時)
武装 20mm機銃2挺、13mm機銃1挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

背景から開発まで

 それまで艦上攻撃機、艦上爆撃機と機種を分けていた海軍航空であったが、機体の性能の進化、また同時に艦艇の性能の向上により艦上攻撃機には高機動性、艦上爆撃機には積載能力の向上というように艦攻と艦爆の設計上の差が少なくなっていった。

 この結果、艦攻と艦爆、そして艦偵の機種統合という動きが現れるようになってきたが、これはまた実施部隊からしても好都合であった。このような事情を踏まえ1941年、海軍は愛知航空機に対して十六試艦上攻撃機という名称で、艦上攻撃機と艦上爆撃機の両方機能を備えた高性能艦上機の開発を命じた。

 

開発

02_流星
(画像はwikipediaより転載)

 

 1941年10月、海軍は愛知航空機に対して十六試艦上攻撃機の開発を命じた。海軍からの性能要求は、当時の新鋭機零戦を上回る速度と武装を持ち、優れた空戦能力を持った艦上攻撃機の能力と艦上爆撃機の能力を持った艦上機の開発という毎度ながらの過酷な要求であった。

 これに対して海軍からの要求を受けた愛知航空機は尾崎紀男技師を設計主務者として計画を策定、1942年1月から本格的な設計が開始された。機体は日本では珍しい逆ガル翼の主翼に胴体内爆弾倉を設け魚雷以外の爆弾はこの爆弾倉内に搭載することとし、これによって空気抵抗の減少を図った。尚、扉は油圧による開閉式である。

 武装は当初は翼内に7.7mm機銃各1挺、後部座席に旋回式7.7mm機銃1挺であったが、増加試作中に武装強化が要求され、翼内に20mm機銃各1挺とされた。さらに1944年には旋回銃も13mm機銃に変更が要求され、結局、20mm機銃2挺と13mm機銃1挺という強力な武装となった。エンジンは誉11型(1,800馬力)でプロペラは4翅VDM定速プロペラが採用されていた。

 1942年12月試作1号機が完成、初飛行が行われた。完成した流星は予想以上に重量があり、さらには誉エンジンのトラブルやその他故障が頻発し、量産に入ったのは1944年4月であった。同年10月には実施部隊で使用できるレベルにまで達したが、その後も実験が続き、制式採用されたのは1945年3月であった。

 生産は開始されたものの東海地震や空襲などにより捗らず、終戦までに合計111機が生産されたのみである。試作機は増加試作機も含め9機(8機の可能性あり)が製造され、これらは試製流星(B7A1)と呼ばれ、その後の量産型はエンジンを誉12型(1,825馬力)または誉21型(2,000馬力)に換装、流星改、または流星11型と呼ばれた(B7A2)。さらに試製流星改一(B7A3)と呼ばれるエンジンをハ42/11型に換装した性能向上型も計画されたが計画のみで終わった。

 

評価

 スペックとしてはエンジン出力、爆弾搭載量では米国艦上攻撃機には劣っていたものの、速度、航続力は上回っており、世界最高性能と言って良い機体であったが、誉エンジンの不調や油圧系統のトラブル泣かされ、稼働率は低かった。流星は実戦にも参加したが戦果は不明である。流星の実戦部隊が編成されたのが昭和20年3月であり、初の実戦が7月24日で、英国機動部隊に対するものであった。戦果は不明であるが、111機製造され、終戦時の残存機が58機と大きく消耗していた。戦闘で撃墜されたものは15機で、その他の消耗の理由は不明である。

 

生産数

 愛知飛行機で試作機1機、増加試作機8機、量産機82機、大村の第21航空廠で約20機の合計111機が製造された。終戦時には58機が残存している。

 

戦歴

 1945年3月に流星が制式採用されると同月流星を運用するための部隊第5飛行隊が編成、第一航空艦隊75空(のちの752空)に麾下に配属されることとなった。これが唯一の流星部隊で初の実戦は前述の通り7月24日、25日で英機動部隊である第37機動部隊に対し薄暮攻撃を実施するため流星12期が1733から1818の間に千葉県木更津基地を出撃するが、戦果は無く、夜戦型ヘルキャットの攻撃を受け4機が撃墜されている。8月9日にも12機が出撃、6機が未帰還、13日にも4機が出撃したが全機未帰還、最後の出撃は終戦の日である8月15日の午前中である。

 

まとめ

 

 流星は戦闘機、爆撃機、攻撃機の全てを合わせた万能機となる予定であったが、あまりにも計画が理想的に過ぎた。海軍の性能要求は、当時の日本の技術力を大幅に超えたものであり、その上登場時期も遅すぎた。機体設計は素晴らしかったが、他の戦争後期の日本機同様にエンジンの不調に泣かされた機体でもあった。しかし、工場の工作精度の低下や空襲が頻発したこの時期に至ってはどのような航空機であっても高性能を発揮することは出来なかっただろう。

 

 

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01_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機九七式司令部偵察機の後継機で三型で最高速度630km/h、四型では10,000mでも同速度を発揮した。これは日本陸海軍実用機中最高速度である。太平洋戦争開戦から終戦まであらゆる戦場に現れ情報収集に活躍した。

 

百式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.70m
全長 11.00m
全高 3.88m
自重 3,263kg
最大速度 604km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで20分15秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 1,050馬力×2基
航続距離 4,000km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

背景から開発まで

 九七式司令部偵察機の活躍は陸軍に戦略偵察機の重要性を認めさせるには十分であった。しかし九七式司令部偵察機は司令部偵察機としては暫定的なもので固定脚であること等、性能に不満な点も残るものであった。このため陸軍は本格的な司令部偵察機の開発を計画することになる。この時の性能要求は引込脚で最大速度が高度4,000mで600km/h以上、航続距離が巡航速度400km/hで6時間という厳しいものであった。特に写真撮影のために水平直線飛行性能が良好であることが強く求められた。

 

開発

02_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月27日、陸軍は三菱重工に次期司令部偵察機をキ46として試作を命じた。これに対して三菱重工は、設計主務者を九七式司令部偵察機と同じ久保富夫技師として設計にかかった。まずエンジンは、敵地深くに侵入した際にも安全性を確保できるようにハ26(850馬力)の双発とし、構造上、空気抵抗が大きくなってしまう空冷エンジンの不利を極小化するためにエンジンナセルを始め流線形のデザインを取り入れた。本機はその後、日本陸海軍を代表する傑作機と言われるが、本機の要求に関して陸軍は細部にまで注文を付けず、メーカーに自由に設計を行わせたことにあるとも言われている。

 1939年11月(8月とも)、試作1号機が完成、同月に初飛行に成功する。その後、基本審査、実用実験、寒冷地試験等の各種試験が行われ1940年8月(6月とも)10日試験が完了した。試験の結果、安定性、操縦性などに関しては非常に優秀であったものの、最高速度が540km/hと性能要求の600km/h以上に遥かに及ばなかったが、1940年9月下旬に百式司令部偵察機として制式採用された。この間に試作機、増加試作機含め7機が製造されている。

 

二型

 1941年3月、キ46のエンジンをハ102(1050馬力)に換装したキ46兇了邵遒行われた。このハ102に換装した況燭蝋眦5,800mで最高速度604km/hを記録、改良により自重は増加したが燃料搭載量も増大したため航続力も374km長くなった。但し、自重が増えたため着陸速度が増大し、着陸距離が儀燭606mから706mと100mほど長くなった。同時に翼面荷重も若干増大している。二型の試験は1年以上に及び、1942年5月に試験が完了、翌月に百式二型司令部偵察機として制式採用された。この二型は、初期こそ脚破損等の問題点が発生したが種々の対策により解消されている。

 この二型は大戦時に最も活躍した型であったためいくつかのバリエーションが存在する。B17迎撃用として37mm戦車砲を搭載した型がある。これは1942年12月末に設計開始、1943年1月に1号機が完成した。この機体は17機(15機とも)製造され、同年2月にラバウルの飛行第10戦隊に送られた。1944年11月には6機に斜め銃が取り付けられた。さらには現地部隊で翼端を25cm切断した機体もあったようだ。この機体は速度こそ10km/hほど向上したものの離着陸が非常に困難であったという。

 

三型甲

 二型が初飛行を行った1942年5月、三型の開発が命じられている。これはエンジンを水メタノール噴射式のハ112供1,500馬力)に変更したもので、エンジンが大型化したため新たに抵抗の少ないエンジンナセルを製作、同時に航続距離を延長するために燃料タンクを増設した。さらに後部の7.7mm機銃は効果が無いため撤去、胴体燃料タンクには防弾ゴム被覆が施された。

 1943年3月に試作1号機が完成、1944年3月に基本審査が完了したのち1944年8月に百式三型司令部偵察機として制式採用された。

 最高速度は高度6,000mで630km/hと日本陸海軍の実用機中最速を記録した。大きな欠点はなかったものの酸素装置の性能不良、自動操縦装置の不良、脚の強度不足等の問題が実戦部隊から指摘された。後期生産機からは推力式単排気管が採用されている。

 

三型乙(百式司令部偵察機三型防空戦闘機)

 1943年6月、審査中の二型の防空戦闘機型の開発を開始。1944年8月、試作1号機が完成した。これは機首に20mm機関砲2門搭載、それまで胴体と一体化して流線形を構成していた風防を段付きに変更、推力式単排気管を採用した。乙型は90機(75機とも)が改造され、内、15機が37mm上向砲1門を搭載した三型乙+丙であった。

 

四型

 三型に排気タービン過給器を装着した型で、1943年12月に試作1号機が完成、1944年1月12日初飛行をした。排気タービン過給器を装着したため細部に改造が行われた。このため自重は179kgしたものの高高度性能はずば抜けており、高度10,000mで630km/hを記録した(三型は580km/h)。基本審査は1945年8月に完了、同年9月より量産に入る予定であった。

 

生産数

03_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 儀燭試作機3機、増加試作機5機、生産機26機の合計34機が生産されている。二型は試作機4機、生産機1,093機の合計1097機、三型は試作機を含め611機が生産された(内4機が四型に改造されている)。合計の生産数は1,742機である。現在はイギリスに三型甲が1機が完全な姿で残されている(上掲画像)。

 

戦歴

 1940年11月に制式採用された百式司偵は、1941年8月に北支に展開していた独立飛行第16中隊に配備、これが初めての実戦部隊への配備であった。その後、この独飛16中隊は飛行第81戦隊に改変、11月には仏印サイゴンに進出、マレー方面の隠密偵察を行っている。太平洋戦争の開戦を迎えると81戦隊と同じく百式司偵を装備した第15独立飛行隊によってシンガポールの偵察が行われた。

 その他にも初戦期の蘭印航空戦、パレンバン空挺降下の事前偵察を行う一方、ビルマ方面でも81戦隊が百式司偵による偵察を実施、81戦隊は終戦まで同地で偵察活動に活躍している。南方では1942年7月に独飛70戦隊がニューギニアに進出、10月には独飛76中隊がラバウルに進出しており、それぞれニューギニア、オーストラリアやソロモン方面の偵察に活躍した。1943年6月には独飛74中隊、81中隊がニューギニアに進出、さらに1944年1月には満洲から進出した独飛82中隊も進出した。

 1944年5月には満洲から15戦隊がニューギニアに進出、海軍指揮下に入り洋上航法を習得したのちニューギニア北岸の偵察、さらには「あ」号作戦開始に伴いパラオ、ペリリュー島に進出して洋上での索敵を行ったのち、9月には比島に移動している。一方、同時期に満洲から比島に進出した2戦隊もダバオに進出、同じく海軍指揮下で洋上航法の訓練を受け6月にはパラオ島、ペリリュー島に進出、7月には同隊も比島に移動した。

 1944年10月には台湾沖航空戦が行われるが、この航空戦でも百式司偵を装備した10戦隊が米機動部隊索敵に出撃し、接触に成功、写真撮影を行い帰還している。この頃には百式司偵三型に改変した15戦隊、38戦隊が比島に進出、1945年2月には全ての戦隊が内地に帰還した。蘭印方面ではニューギニアで消耗した独飛74中隊が百式司偵三型に改変して同方面に進出、哨戒活動に従事している。1945年3月には台湾に展開していた第10戦隊が沖縄方面の偵察活動に参加、満洲では独飛81中隊と第42教育飛行隊が終戦まで活動している他、中国大陸では18中隊が同じく終戦まで活動している。

 そのほか、北東方面(現在の北方領土)でのアッツ島偵察やマリアナ強行偵察、本土防空戦での武装司偵によるB29迎撃等、百式司偵は多くの方面で活躍した。

 

まとめ

 

 百式司令部偵察機の成功は、陸軍が設計の細部に至るまで首を突っ込まなかったことになると言われている。その結果、実用機中最高速度を発揮、その高速は海軍にも注目される程であった。四型に至っては高度10,000mで630km/hを記録している。この高空性能に注目した陸軍は防空戦闘機型も開発したものの偵察機用に設計された機体は強度的に急機動には耐えられず目立った活躍はしなかった。

 

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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

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01_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ60は太平洋戦争開戦前に開発された液冷重戦闘機で、三式戦闘機飛燕とは「姉妹機」に当たる。最高速度は560km/hを記録、運動性能も比較的良好であったが同時に開発されていた三式戦闘機飛燕が高性能を発揮したため試作機のみの製作となった。試作機は実戦部隊に配備されている。

 

重戦闘機 キ60 〜概要〜

 

性能

全幅 9.78m
全長 8.40m
全高 2.75m
自重 2,150kg
最大速度 560km/h(高度4,500m)
上昇力 5,000mまで6分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,100馬力
航続距離 - km
武装 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門(3号機のみは12.7mm機関砲4門)
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1939年1月、液冷エンジン搭載航空機の製造にかけては日本では一日の長のある川崎航空機はドイツのダイムラー社との間で液冷エンジンDB601のライセンスを取得、このエンジンを使用する航空機の開発を計画した。

 

開発

02_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月、川崎航空機は陸軍に液冷エンジンを使用する重戦闘機と軽戦闘機の開発計画を提出、翌2月には、川崎は陸軍より重戦闘機キ60、軽戦闘機キ61(のちの三式戦闘機飛燕)の開発が指示された。川崎は、土井武夫技師を設計主務者として以前に不採用となったキ28試作戦闘機を元に開発を開始した。設計は12月に完了、1941年3月には1号機が完成、続いて2〜3号機も完成した。

 キ60は、極力空気抵抗を減らすように設計され、スライド式風防、短縮式内側引込脚、引込式尾輪等の新技術が取り込まれた。翼面荷重(機体重量を翼面積で割った数値)は172kg/屬氾時としてはかなり大きな数値であった。これは零戦、一式戦闘機隼が100kg/崛宛紂二式単戦鐘馗でも157kg/屬任△襪海箸鮃佑┐襪箸修旅發気判るであろう。つまりは「速度は速いが運動性能は低い」機体であった。

 飛行性能は、最大速度560km/h、5,000mまでの上昇時間が6分、実用上昇限度が10,000mであった。重戦闘機キ44(のちの二式単戦鐘馗)やドイツのBf109E(1941年に日本陸軍に3機輸入されている)と模擬空戦を行った比較した場合、性能は対等若しくは優位にあったが、同時に製作していたキ61(のちの三式戦闘機飛燕)が高性能を発揮したため試作機のみで生産は中止された。武装は1、2号機が胴体内に12.7mm機関砲2門、翼内に20mm機関砲2門を装備、3号機は胴体12.7mm機関砲2門、翼内に12.7mm機関砲2門である。

 

生産数

 3機のみ。2機は実戦部隊に配備された後に大破。1機は終戦時まで残存した。

 

戦歴

 試作のみで終わったキ60であるが、1号機と12.7mm機関砲4門を装備した3号機は独立飛行47戦隊に配備された。独立飛行47戦隊は開戦直前の1941年11月に編成された部隊で南方作戦で出現が予想されたスピットファイア戦闘機に対抗するために急遽、制式採用前のキ44(二式単戦鐘馗)増加試作機9機で編成された部隊である。愛称は「かわせみ部隊」または「新撰組」と呼ばれ、戦隊名の「47」は赤穂四十七士に因むと言われている。配備されたキ60はどちらも事故により破損、実戦には投入されていない。

 

まとめ

 

 キ60は川崎航空機が開発した重戦闘機であったが、当初の計画ではキ60を中間機と位置付け、キ60の性能をみた上で改めて本格的な重戦闘機の開発をするというものであった。このため当初から試験機的な性格が強かった戦闘機であった。

 

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01_九七式司令部偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式司令部偵察機は三菱重工が開発した世界初の戦略偵察機で最高速度は陸軍の性能要求を上回る480km/hを発揮、当時最新鋭の陸軍の主力戦闘機九七式戦闘機の最高速度444km/hを40km/h近く上回っていた高速偵察機であった。この高性能は海軍にも注目され、九八式陸上偵察機として制式採用された。

 

九七式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.00m
全長 8.70m
全高3.34m
自重 1,592kg
最大速度 510km/h(高度4,330m)
上昇力 5,000mまで6分49秒
上昇限度 11,900m
エンジン出力 900馬力
航続距離 2,400km
武装 7.7mm旋回機関銃(テ4)
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

偵察機の違い

 日本陸軍には軍偵察機、直協偵察機、司令部偵察機という3種類の偵察機があった。当初は単に偵察機と称していたが、1935年末に初めて遠距離偵察をする航空機、部隊に直接協同する偵察機の2種類に分けられた。そして1937年になるとこれらに司令部偵察機が加わり、3種類の偵察機が存在するようになった。

 具体的には遠距離偵察・爆撃を専門とする偵察機は「軍偵察機(軍偵)」、地上部隊(特に砲兵)への協力・指揮連絡を行う偵察機を直協偵察機(直協)、そして航空情報の蒐集、戦略上の要地の偵察を行うのが司令部偵察機である。

 この司令部偵察機が要求されている性能とは、当時の最優秀戦闘機よりも高速であること、高高度で隠密偵察が出来ること、そして複座であることが求められている。最後の複座であることは、当時、電子機器が未発達のため偵察員の搭乗を意味する。これらを満たすことを条件として九七式司令部偵察機は計画されることとなった。

 

開発

 1935年7月23日(11日説もあり)、陸軍は三菱重工に対してキ15という名称で司令部偵察機の試作指示を出した。三菱では久保富夫技師を設計主務者として設計を開始、1936年5月には1号機を完成させた。発動機はハ8(750馬力)を採用、固定脚ではあったが、沈頭鋲を採用した全金属製の低翼単葉機でカウリング等も空気抵抗の少ない形状を採用していた。

 試作機は2機製作され、早速、審査が行われた。試作指示の段階で陸軍が要求していた性能要求は最高速度450km/h以上であったが、この試作機は最高速度480km/hを記録、性能要求よりも30km/hも高速を発揮した。前方の視界不良等のいくつかの点で問題はあったもののおおむね問題は無かったが、当時、未だ戦略偵察機の価値を理解しない一部の論者は採用に難色を示した。

 1937年2月になると前述の偵察機3種類の分類が決定、これを受け同年5月には増加試作機が完成、各部に微修正が施された後、1937年5月九七式司令部偵察機として制式採用された。この試作機の内、2号機は朝日新聞社に払い下げられ神風号と命名、1937年4月6日、立川飛行場を離陸、台湾、中東、イタリア、フランスを経由し、4月9日ロンドンへ着陸する。これは世界初の偉業であった。

 

2型

 エンジンを空冷14気筒ハ26機900馬力)に換装した型。1938年1月に先行試作機が完成、6月には試作が指示された。この2型は最高速度が30km/h向上、510km/hとなり、同時に上昇性能も向上した。1939年9月に制式採用され生産が開始された。

 

九八式陸上偵察機(海軍)

 当時、長距離偵察機の必要性を痛感していた海軍は、この九七式司令部偵察機2型の高性能に注目、陸軍の了承の下に発動機を瑞星12型に換装し各種艤装を海軍式に変更したものを九八式陸上偵察機11型として制式採用した。さらに1941年、エンジンを零戦と同じ栄12型(940馬力)エンジンにしたものを12型として制式採用した。

 

3型

 1939年発動機をハ102(1,080馬力)に換装した3型が試作された。これにより最高速度が530km/hに達したが、すでに後継機としてキ46(のちの百式司令部偵察機)がさらに高性能を記録していたため2機が試作されたのみで製作は中止された。

 

生産数

 合計で437機が製造された。九八式陸上偵察機は11型が20機、12型が30機である。

 

戦歴

 九七式司偵の活躍の場はすぐに訪れた。制式採用の2ヶ月後の1937年7月7日、盧溝橋事件が発生、同月26日には九七式司偵による偵察が行われている。その後1機が北支に進出、さらに2機が増強された。そして1938年3月14日には臨時独立飛行第1中隊が編成、1939年秋頃からは2型も配備されるようになり、仏印進駐、ノモンハン事件でも重要な役割を果たした。

 太平洋戦争が始まると九七式司偵は飛行第2戦隊、8戦隊、81戦隊、独飛50、51、63、70、76、81、101中隊に配備され各地の偵察に活躍、多くの犠牲を出しながらも任務を遂行していたものの、1941年8月頃から百式司偵の配備が進み九七式司偵は前線から徐々に消えていった。

 

まとめ

 

 九七式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機として日中戦争から太平洋戦争中期まで活躍、その座を百式司令部偵察機に譲った。特に試作2号機が東京からロンドンまで51時間で飛行、世界新記録を樹立したことが有名である。三菱が生んだ傑作機である。

 

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01_雷電
(画像は雷電 wikipediaより転載)

 

  閃電は単発双胴推進式という珍しい形の局地戦闘機として計画された。計算上の最高速度は759km/hとされており、仮に完成していたとすれば日本ではトップクラスの高速機であっただろう。設計は三菱によって行われていたが、戦局の悪化に伴って計画は中止された。

 

局地戦闘機 閃電 〜概要〜

 

<性能(計算値)>

全幅 12.5m
全長 12.5m
重量 正規状態4886kg、過荷重5255kg
最高速度 759km/h
上昇時間 8000mまで10分
実用上昇限度 12000m
航続距離 -
武装 30mm機関砲1挺、20mm機関砲2挺

 

概要

 閃電は1942年度の試作局地戦闘機として計画されたもので、その計画は1939年に開発が計画された十四試局地戦闘機、後の雷電の後継機としてであった。海軍の性能要求は最大速度が高度8000mで703km/h、巡航速度高度3000mで463km/h、着陸速度148km/h、上昇力高度8000mまで15分、実用上昇限度11000m、航続力2時間プラス全力30分、武装は30mm機関砲1門、20mm機関砲2門というものであった。

 機体は特殊な単発双胴推進式という形式のもので、米国陸軍の戦闘機P38の形状に酷似しているものの推進器はコックピット後方に推進式(後ろにプロペラが付いている形状)となっているためエンジン、プロペラは1基のみである。この形式の機体のメリットとしては機首にプロペラを設置する必要がないため搭乗員の視界を広く確保できること、機種に機銃の集中装備が可能であること等が挙げられる。反面、空冷式発動機の場合、エンジンの冷却に問題が生じること、機体の強度や振動に配慮が必要なこと等が問題として挙げられる。

 三菱はこの計画に大変な熱意を示し、零式観測機の設計で有名な佐野栄太郎技師を設計主務者として開発を開始したものの、計画されていたスケジュールとしては1942年末に発注、1943年末に1号機完成、1944年秋に審査完了というものであった。このように全体的な計画自体が無謀であったことや、単発双胴推進式という前例のない形式であったため開発は難航、当初心配されていた空冷エンジンの冷却問題こそ起こらなかったが、プロペラ後流による振動問題やその他の問題が多発、戦局の急速な悪化に伴って実用化の可能性の低い本機は1944年10月に開発の中止が決定した。

 

性能

 エンジンは当時、三菱が開発し、烈風にも搭載されたハ-43エンジン(2200馬力)を搭載する計画で、三菱が試算した計算値では、最高速度759.3km/h、巡航速度500km/h、上昇時間は高度8000mまで10分、実用上昇限度12000mとなっていた。

 

生産数

 0機

 

まとめ

 

 レシプロ機の速度は800km/h前後が限界と言われている。高速になればなるほど空気の流入が少なくなりエンジンの性能低下を起こすのが理由で、その限界値が800km/h前後であるという。閃電は完成こそしなかったものの、航空技術に関して欧米に後れを取っていた日本航空界の挑戦であった。

 機体も古い形に拘らず、三菱技術陣は、日本全体の基礎技術力の低さや戦争の悪化による物資不足、軍部の無理な要求等、不利な条件が重なる中、与えられた環境で最大限の努力をしたといえる。これら当時の航空機業界の挑戦には目をみはるものがある。

 

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