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航空機

01_B17
(画像はwikipediaより転載)

 

B17フライングフォートレス

 

 

性能

全幅 31.64m
全長 22.8m
全高 5.82m
自重 16,317kg
最大速度 522km/h(高度8,138m)
上昇力 9.50m/秒
上昇限度 11,262m
エンジン出力 1,200馬力(ライトR-1820-97)4基
航続距離 2,832km
乗員 10名
武装 12.7mm機関砲12門
爆弾搭載量 5,806kg
初飛行 1935年7月28日
総生産数 12,731機
設計・開発 ボーイング社

 

概要

 B17フライングフォートレスとは米軍初の全金属製爆撃機B10の後継機として開発された機体であった。昔の映画で第二次世界大戦中に英国からドイツへ爆撃を行う搭乗員達の活躍を描いた『メンフィス・ベル』というものがあったが、この『メンフィス・ベル』で主人公達が乗っていた爆撃機が本機である。実際、本機はヨーロッパ戦線で重要な役割を果たし、ドイツに対して米軍が投下した爆弾の実に40%以上が本機によるものであった。1935年に初飛行した「旧式機」ではあったが、その重装甲、重武装で枢軸国軍から恐れられたフライングフォートレス(空の要塞)である。

 1934年、米陸軍航空隊はB10爆撃機に代わる新型爆撃機の要件を出しだ。この要件とは高度3,000mで10時間の飛行が可能なこと、320km/h以上の速度で尚且つ必要な量の爆弾を運ぶことができることで、航続距離に関しても可能であれば3,200km以上という条件であった。この新型爆撃機の運用法というのは、米国の長大な海岸線を防御することが目的だったようで、仮に米国の海岸に敵国が上陸した場合、この新型爆撃機が飛来、水際で撃退するというものであったようだ。このため長大な航続距離と高速が必要だったのだ。

 フライングフォートレスという名称自体が防御の拠点である「要塞」から来ているという説もあるが、B17が完成した時にその機体から多数の機銃が突き出ている姿みた新聞記者が名付けたという説もあり、どうやらこちらが正しそうである。それはともかくこの要件に合わせて製造されたボーイング社の新型爆撃機YB17は、米軍爆撃機初の4発重爆、つまりエンジンが4基装備されている大型爆撃機となり、爆弾の最大積載量は2,000kg、5挺の7.62mm機銃で武装されたものとなった。エンジンはP&W R-1690エンジン4基でそれぞれ750馬力を発揮する。

 初飛行は1935年7月28日で巡航速度は406km/hを記録、これは競合他社の性能を圧倒していた。米陸軍は早速65機のYB17を購入する予定であった。しかし不幸にも飛行試験中に墜落事故が発生、このため本機の採用は見送られ、ダグラス社のB18爆撃機が採用されることとなった。しかしやはりこのYB17の性能は陸軍航空隊にとっては魅力的であり、1936年1月、陸軍航空隊は13機のYB17を発注した。

 さらに試験用に製造された14機目にはターボ過給機が装備、最高速度はYB17の385km/hに対して501km/hと圧倒的な高速を発揮した。上昇限度もそれまでの8,500mから一挙に12,000mと成層圏にまで達した。但し、機内は与圧されていないので搭乗員はそれまで同様、完全な防寒装備をする必要があった。1937年にはB17と命名され、各航空隊に配備されたものの、その総数は太平洋戦争開戦時典でわずか200機以下であった。

 しかし太平洋戦争が開戦すると大量生産を開始、B17自体にも様々な改良が加えられ、戦前までにB型からE形までが初飛行を終了、開戦後もF型、G型と改良が続けられた。この間に試作機では7.62mm機銃5挺であった武装も12.7mm機銃13挺と強力になり、生産数もF型が3,405機、G型が8,680機、B17全シリーズ合計で12,731機が製造された。これは米軍の爆撃機ではB24に次いで2番目、世界でも3番目に多く生産された爆撃機となった。

 重装甲であるのと同時に武装は極めて強力であり、機種に12.7mm2連装機銃1基、上部に1基、下部に1基、尾部に1基、胴体左右、機種にも機銃が設置されていた。死角はなく対戦した戦闘機搭乗員を恐れさせた。

 

実戦での運用

 このB17を最も早く運用したのは英国であった。当時、独自の重爆撃機を持たなかった英国は1941年までにB17を取得することで米国と合意、1941年7月には実戦に投入されている。太平洋方面では対栄養戦争開戦後にフィリピンに配備されていたB17の多くは運悪く地上で多くを失ったものの、少数のB17が日本空軍相手に健闘している。当時、日本海軍の主力戦闘機零戦は20mm機関砲という世界でも珍しい強力な機関砲を装備していたが、これすらもB17の重装甲には効果が薄く、さらなる大口径砲の開発を促進させることとなった。

 ヨーロッパ戦線でも1943年頃からB17によるドイツ本土への爆撃が本格化、当初は掩護戦闘機もない状態でドイツの強力な防空システムに突入したために大きな損害を出したものの、戦争後半になるとP47サンダーボルトやP51マスタングという航続距離の長い戦闘機の護衛が付くようになり損害は激減した。太平洋戦線では日本空軍はB17の撃墜に苦慮していたものの、米国は1942年9月時点で168機が配備されていたB17を順次、より強力なB24に変更していった。

 第二次世界大戦後半になるとB17は徐々に最前線から退き、B24や超重爆撃機B29にその役割を代わっていった。しかしこの時点においても捜索、救助にはB17が活躍し続けており、B17の生産自体は1945年まで続いている。

 戦後もB17は運用され続け、米国でも偵察用RB17として使用された。さらに米国沿岸警備隊にもB17が引き渡され1959年まで運用され続けた。このため現存数も多く、大型機でありながら45機前後が現存、内9機前後が飛行可能であるという。

 

 

 

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01_U-2
(画像はwikipediaより転載)

 

ロッキードU-2偵察機

 

 

性能

全幅 31.39m
全長 19.13m
全高 4.88m
自重 7,250kg
巡航速度 760km/h(高度22,000m)
上昇力 46m/秒
上昇限度 27,000m
エンジン出力 7,711kg(GE F118-101ターボファンエンジン)1基
航続距離 7,400km
滞空時間 12時間
乗員 1名
武装 - 
初飛行 1955年8月1日
総生産数 104機
設計・開発 クラレンス・ケリー・ジョンソン / ロッキード社

 

概要

 U-2偵察機という特殊な航空機がある。この機体は何もかもが特殊といってよく、そもそも発注元は米国空軍や海軍航空隊ではなく、アメリカ中央情報局つまりはCIAが発注した機体なのである。形式名の「U-2」についても偵察機であれば「偵察=reconnaissance」を意味する「R」が割り振られるのが普通であるが、このU-2に関しては汎用機を表す「U」となっている。そして機体は黒一色と外観も通常の航空機とは一線を画している。

 第二次世界大戦が終結すると米ソ間では新たな戦いが開始された。いわゆる冷戦である。双方資本主義と共産主義という相容れない主義を持つ国であるが、双方が核兵器を保有することから直接戦火を交えることはできない状態である。このような状態のなかでCIAは相手方の意図を知るために高高度偵察を行う必要に迫られていた。

 当時米国では、ソビエト軍の戦闘機が迎撃に上がれる最高高度はせいぜい13,700mでレーダーも19,800m以上の高度では捕捉することは不可能だと考えらえていた。このため高度20,000m以上の高高度を飛行する偵察機を開発することができれば安全に領空侵犯を行って航空写真を撮影できるという訳だ。

 その意図を知ったロッキード社はF-104をベースに設計された偵察機の案を空軍(資金を出しているのはCIA)に提出、出来レースのようなコンペがあり、ロッキード社の案が採用されることとなった。外観からは想像もできないが、このU-2のベースのなったのは航空自衛隊でも採用されたジェット戦闘機F-104でU-2を設計した設計者は大戦中の傑作機P-38ライトニングを設計したクラレンス・ケリー・ジョンソンである。

 

設計と各種試験

 恐らく極秘に試験するためだろう。この航空機のテスト飛行は宇宙人が匿われていることで有名なエリア51で行われ、形式名も「Utility=汎用」を意味する「U」が選ばれた。そしてU-1、U-3という航空機はすでに存在していたことから形式名はU-2となった。

 高度21,212mという超高高度、成層圏を飛行するため徹底した軽量化が図られ地対空ミサイルの爆風の衝撃波によって墜落した機体もあるほど外面は薄く、燃料も通常のジェット燃料ではなく、JPTSという特殊燃料を使用する。これは高高度という超低温状態でも凝固しないタイプの燃料でコストは通常のジェット燃料の3倍にもなる。

 ギリギリの設計のため操縦は極めて難しく、高高度を飛行中の最高速度と失速速度の差がわずか18km/hしかない。つまりは高高度において最高速度から19km/h速度が落ちた時点で「失速」してしまうのだ。さらに横風にも弱く、降着装置も独自であり離着陸は特に難しい。さらにパイロットは与圧服を着用するが、高度20,000mでの与圧服というのはいわゆる「宇宙服」に似ているというか、完全に宇宙服そのものだ。違うのは生命維持装置、宇宙での推進装置の有無、そして色だけだ。これを装備した状態でこの大変操縦が難しいU-2を操るパイロットの腕というのはもう神業のレベルであろう。

 だが、このU-2、空母の狭い甲板にも着艦した実績がある。これは米国の空母を母艦とすることで第三国に基地を設けなくて済むという発想だったようだが、1964年に米空母レンジャー、1969年に空母アメリカに着艦を成功させている。ただ、実際に使用されたのはフランスが太平洋で核実験をやった時の偵察のみだったようだ。

 初飛行が1955年8月1日という70年近く前の機体であるU-2であるが、現在も運用され続けている。もちろん初期型がそのまま運用されている訳ではなく、エンジンもアビオニクスも改良されている。

 

 

 

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(画像はwikipediaより転載)

 

予科練で飛行訓練を受ける

 

 「トッカン兵曹」とあだ名される戦中派エース小高登貫は、1923年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれた。1941年6月に横須賀海兵団に入団。海兵団終了後は、自著によると小高は搭乗員になる前には整備兵として中国大陸に展開する第12航空隊にも所属していたようだ。元々飛行機好きだったという小高は、1942年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、霞ヶ浦航空隊に配属される。自著によると、そこで3ヶ月、さらに土浦航空隊3ヶ月、百里ヶ原航空隊で4ヶ月の訓練を受けたとなっている。

 この小高が採用された丙種予科練習生とは、複雑になり過ぎた海軍の航空要員育成過程を予科練に一本化したもので以前の予科練習生は乙種予科練、操縦練習生は丙種予科練、さらに高学歴者が採用される甲種予科練というのがある。名称こそ変わったが、丙種予科練と操縦練習生はほぼ同じであり、練習生も操練と同様に兵から採用された。丙種といっても採用基準は厳しく、採用後も不適格として原隊に帰らされる隊員が多く出るという難関であった。

 しかし丙種予科練通称「丙飛」10期生は太平洋戦争開戦後の採用であり、航空要員の需要拡大により大量採用がなされたクラスだ。丙飛10期は戦闘機搭乗員だけでも修了者は88名に上る。だが、以前ほどの質の高い教育を行うことが出来ずに実戦に投入せざる得ない状況であり、日本海軍の防弾性能の低い航空機と相まって多くの戦死者を出すことになる。

 丙飛10期88名中、戦死が72名、終戦時に生き残った隊員はわずか16名であった。1943年1月、小高氏は大村航空隊での第25期飛練過程を卒業、晴れて戦闘機搭乗員となる。この時の教員にはのちに実戦部隊でも一緒に戦うこととなる山中忠男上飛曹(操練44期)、赤松貞明(操練17期)や敵飛行場に強行着陸したことで有名な大石英男(操練26期)がいたとある。当時の大村航空隊にはこの他にも大村空飛行隊長である横山保を始め「ゼロファイターゴッド」の異名を持つ亀井勉、操練9期の古豪、望月勇、操練19期の磯崎千利等の戦地帰りの熟練搭乗員が多くいたようだ

 

チモール島クーパン基地に配属

 

 小高は優秀者が選抜されるという母艦搭乗員に選抜されたようで、宮崎県冨高空で零戦による実戦訓練、母艦着艦訓練を受ける。配属先は当時、南太平洋海戦で搭乗員の多くを失い再建中であった空母翔鶴戦闘機隊であった。しかし急遽南方に展開している第202航空隊に変更される。この202空は開戦当初、台南航空隊と共に航空撃滅戦を展開した第3航空隊が名称を変更したものでポートダーウィン攻撃で圧倒的な強さを誇った無敵部隊だった。小高は母艦搭乗員になれずに落胆したようだが、結果的にはこれが小高氏の命を繋いだのかもしれない。

 202空は海軍航空隊でも随一ではないかと言われる程の熟練搭乗員で編成されていた。そのため若年搭乗員はなかなか搭乗員割に入ることが出来なかったと言われるが、同時にチモール島には近くに油田があったため燃料が豊富で十分な訓練をすることができたようだ。1943年2月、小高は202空に合流するため山中忠男上飛曹と共にケンダリー基地へ向かう。

 この時、零戦21型と新鋭機である零戦32型で進出したようだが、どうも新型機には小高氏が乗り熟練搭乗員の山中上飛曹は21型に乗ったようだ。若年者に最新鋭機を与えて腕を補わせたのか、熟練者が得体のしれない新型機を嫌ったのかは不明だが、丙飛16期を卒業して254空に着任した今泉利光氏も江馬友一(操練22期)や田原功(操練45期)の熟練者がいながらも最新鋭の零戦52型丙を与えられた

 それはともかく小高は着任早々空襲を受けるが、独断専行で出撃をしてしまう。着陸後、意外にも司令に褒められる。この行動力や判断力の正確さはさすがといえる。その小高も初空戦では増槽を落とすのを忘れてしまった上に深追いをしてしまったようだ。増槽は新米搭乗員は良く忘れるようで零戦隊の名指揮官として知られる進藤三郎や撃墜王として有名な大原亮治、山田良市も初空戦では増槽を落とすのを忘れたという

 その後も数次のポートダーウィン攻撃や「空中爆雷」3号爆弾での大型機攻撃等、着実に実戦の経験を積んでいった。この間に小高は9機を撃墜したという。戦闘とは関係ないが慰問団として来た森光子にあったりもしていて面白い。その小高に204空への異動命令が下る。204空とは第6航空隊として編成された部隊で南方の激戦地ラバウルに展開している部隊であった。このラバウルでは連日激戦が繰り広げられ「搭乗員の墓場」とまで言われる場所であった。

 

「搭乗員の墓場」ラバウルに異動

 

 実際、小高の出身期である丙飛10期戦闘機専修の戦死者72名の内、戦死場所が分かっている57名中20名がラバウル周辺で戦死している。まさに搭乗員の墓場である。小高は飛行時間わずか150時間程度でラバウルに送りこまれたという。このラバウル進出は小高の自著では1943年8月となっているが、多くの書籍では1943年12月となっている。当時、同じ202空の分隊士として1943年10月に着任した梅村武士も森光子の慰問団が来た時居合わせているので、恐らく1943年12月の誤りであろう。

 204空に転属した小高は1943年12月10日の船団護衛を皮切りに数多くの戦闘に参加する。特に翌、1944年1月17日の戦果は部隊最高個人撃墜者として司令賞を受けた。この時の戦果は、一般には敵機撃墜69機と言われているが、梅本弘の調査だと戦闘行動調書に記録されている数は88機だそうだ。小高の個人撃墜もP-38 3機ではなく1機撃墜、1機不確実という。

 実際のところは戦闘行動調書を見ないと何とも言えないが、資料上はこれがラバウルでの唯一の小高の撃墜戦果だそうだ。因みにこの1月17日の空戦の連合軍側の損害は10〜11機であり、かなり過大な戦果報告であったことが分かる。その後も多くの迎撃戦や爆装零戦でのマーカス岬攻撃等に参加した小高であるが、1944年2月、204空と共にトラック島に移動することになる。

 

トラック島から内地に帰還

 

 トラック島に移動した小高はそこに内地から送られた150機の零戦を見る。この零戦は最新の52型丙であったというが、零戦52型丙はマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れ改良された型で、改良が指示されたのが1944年7月23日、試作機完成が同年9月10日、制式採用が同年10月1日なので、制式採用前に量産されていたのか、或いは小高氏の記憶違いなのかは不明である。このトラック島で小高は米海軍機動部隊の艦載機群を迎撃、劣勢の状態の中、数度にわたる出撃を行い奮闘した。この戦闘は熾烈であり、同じ204空のベテラン前田英夫も帰還せず、地上で見ていた加藤氏によると帰ってきたのは小高のみであったという

 その後、小高は内地に帰還、第201空戦闘306飛行隊に配属される。この時に戦闘機受領のために中島飛行機に向かうがそこで行われていた性能試験に満足せずに戦地で鍛えた実戦的な試験を行い中島飛行機側を驚かせた。ここで小高達が三菱製の零戦を中島飛行機に受領に行っているのを不思議に思われる方もいるかもしれない。実は、戦時中、零戦は中島飛行機でも生産されていたのだ。それどころか52型に至っては三菱製の総数が747機であるのに対して中島製は3573機製造されており、むしろ中島飛行機の方が圧倒的に零戦を生産していたのである

 しかし両社の製作した零戦を比較してみるとやはり開発した三菱製の零戦の方が性能が良かったらしい。逆に中島製零戦は搭乗員からは評判が悪く、性能の劣悪さから「殺人機」とまで呼ばれていたという。その中島製零戦を戦地帰りの小高がテストすればどうなるか想像に難くない。

 

内地からフィリピン進出

 

 この時期に小高は日本海軍戦闘機の「必殺技」ひねり込みを教わったという。このひねり込みとは宙返りの頂点で左に機体を捻り一時的に失速状態になることで旋回の半径を小さくする特殊な技術だ。これは搭乗員それぞれやり方が違っており、職人気質の搭乗員の多い戦闘機の世界ではなかなか教えてくれなかったようだ。このひねり込みを教えたのは門田上飛曹とあるが、恐らく乙10期の門田岸男であろう。乙10期は1942年3月に飛練21期を修了したクラスで丙飛では4期にあたる。戦前に訓練を受けたほぼ最後のクラスといってよい。この後、小高氏の所属する201空戦闘306飛行隊はフィリピンに進出するが門田上飛曹は同飛行隊付で1944年9月12日戦死している。

 上記のように第201空戦闘306飛行隊は木更津基地で錬成訓練の後、1944年4〜5月に逐次セブ島に進出した。進出後の5月25日、小高は爆撃を命じられ、言われるままに爆撃するが、それが海軍乙事件の交渉のための爆撃だったことがのちに分かる。海軍乙事件とは当時の連合艦隊司令長官古賀峰一大将搭乗の二式大艇2機が低気圧のため墜落した事件である。古賀大将は殉職するがもう1機に登場していた福留繁参謀長はフィリピンゲリラの捕虜となり暗号書を始めとする機密書類を奪われるという大失態をやらかした。小高が行った爆撃は、この福留参謀長解放のための威嚇だったようだ。

 この後、201空は「あ」号作戦、レイテ作戦に参加するが、ここで小高らは特攻隊に編入される。特攻に関しては同時期にフィリピンにいた熟練搭乗員の岩本徹三は「一回の攻撃で死んでたまるか」と特攻を明確に拒否した。同じく操練31期の田中國義も後年、インタビューで一回の攻撃で死ぬのは嫌だったと語っている。どちらも日中戦争以来の熟練搭乗員であり、腕に自信があるだけに一度の攻撃で死ぬのは嫌だったのだろう。同様に激戦のラバウルから生還した小高だが、意外にも特攻に賛成した。

 

私たち四十人の搭乗員は、みんな心からこれに賛成し、敵艦に体当たりする戦法をとることになり、全員がこの特別攻撃隊への願書を提出した。
小高登貫『あゝ青春零戦隊』P204

 

 さすがに全員が心から賛成したかどうかは分からないが少なくとも小高は賛成したようだ。特攻隊には、ほとんどの隊員は心の中では反対だったというが、こういう意見もあることが分かるのは貴重だ。小高は特攻隊には編入されるが爆装隊ではなく戦果確認機としてであった。ラバウル帰りの熟練搭乗員であったためだろうか。

 

343空に転属

 

 1944年12月、小高は谷田部航空隊教員として内地に戻る。すでに前線はフィリピンから日本本土になりつつあった。自著には乙18期、飛行学生17期を教えたとなっているが、飛行学生17期は誤りである。飛行学生であればこの時期に教育されていたのは42期である。それはともかく戦地帰りの小高の教育は訓練生には評判が良かった。そして教育に当たる一方迎撃戦にも出動した。1945年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では数機の撃墜を報告しているようだ。

 この時期、真珠湾攻撃の航空参謀源田實は、新たな戦闘機隊、第343航空隊を編成していた。この部隊は最新鋭機紫電改を集中配備し、基幹搭乗員には当時、宝石よりも貴重と言われた熟練搭乗員を配していた。小高はこの343空に指名転勤により異動となる。343空は戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊、戦闘301飛行隊と偵察隊からなっていた。小高は戦闘407飛行隊に配属された。小高の配属された戦闘407飛行隊は最も遅く訓練を始めた部隊であった。そして小高はこの部隊の「一番のやかまし屋」本田稔少尉の2番機となる。

 この本田少尉は甲飛5期出身でラバウルで激戦をくぐり抜けてきた強者だった。あまりの「やかまし屋」振りに2番機が務まる者がいなかったという。厳しく教育された者は厳しく教育する。本田少尉の練習生時代の教員は厳しくて有名だったオール先任搭乗員とあだ名された海軍航空隊の名物男、菊池哲生上飛曹であった。因みにこの343空に菅原少尉という撃墜120機の記録を持つ分隊士がいたというが、該当する人物は見つけられなかった。

 

トッカン兵曹の撃墜数

 

 小高はこの343空で終戦を迎える。戦後は自動車販売店を経営していたが、平成4年(1992年)3月歿する。自著の前書きによると協同撃墜含め撃墜105機、潜水艦撃沈2隻というすさまじい戦果を挙げたことになっている。その105機の内訳は単独77機、協同38機ともいわれる。その小高の撃墜数について書いてみよう。1970年代に戦史研究家の秦郁彦氏は海軍戦闘機隊の公文書に記載されている撃墜数をカウントしエースリストを作成した。そのリストは8機以上の撃墜記録が確認された搭乗員を記載したものだが、その中に小高氏の名前はない。恐らく公式記録上は小高の撃墜数は7機以下であったのだろう。

 2000年には出版された、米国の戦史研究家ヘンリーサカイダの著書『日本海軍航空隊のエース』には、小高の撃墜数は12機となっているが、その出典は不明である。小高の撃墜数全体についてではないが、近年、ラバウルでの海軍航空隊の活動の精緻な調査をした梅本弘氏によるとラバウル時代に小高の戦果で公文書上に確認される撃墜戦果は2機だけだという。これらから考えると撃墜105機というのはちょっと過大である。小町定が指摘するように部隊の戦果も含めた数字であるのかもしれないが、高木・境田両氏が指摘するように誇大気味な感は否めない

 では小高は口だけの無能な搭乗員であったのかというとそれは違う。坂井三郎によると戦闘機の搭乗員は総じて威勢がよく元気者で負けず嫌い、そして彼らは有言実行であった。中には有言実行に留まらず、大言壮語する者もあったという。そして、むしろ大言壮語型から多くのエースが生まれたと語っている。実際、日本海軍のトップエースで自称216機を撃墜した岩本徹三は、空戦の腕も達者だったが口も達者でいつも大風呂敷を広げていたそうだ。さらに大ベテラン赤松貞明は自称撃墜350機であるが、空戦の腕の良さは海軍戦闘機隊では有名であった。

 恐らく小高もこの部類に入るのだろう。撃墜数は誇大であるかもしれないが、343空で小高の編隊長を務めた本田稔が小高の空戦の腕の良さを評価していることからも、空戦の腕が良かったことは間違いなさそうだ。母艦搭乗員に指名され、激烈なラバウル航空戦を数ヶ月間生き抜き、新鋭機紫電改で編成された343空に指名されて転勤した事実がそれを証明している。

 

まとめ

 

 太平洋戦争は徐々に過去から歴史になりつつある。そして人間は歴史に理想を投影する。海軍航空隊搭乗員は理想を投影する対象としては十分な価値がある。実際の人物とは違った自分の中の英雄像を過去の搭乗員に投影するようになる。これは人間が主観的な生き物である以上仕方のないことだ。そして日本人は得てして自己アピールの上手い人間を嫌う。逆に寡黙に自分の功績を語らない人や謙遜する人を好む。いつしか「好む」は「でなければならない」に代わり、過去の人物に自分の理想的な英雄像を投影するようになる。

 しかし過去の英雄とはその時代を生きた生身の人間だ。零戦搭乗員は自分の心の中にいる「理想的なサムライ」ではない。アピールが上手かったり饒舌だったり大風呂敷を敷いたりもする。撃墜数がどうあれ小高氏は激戦地で命がけで戦い続けた。岩本徹三、赤松貞明、坂井三郎も同様だ。その事実は凄まじいものがある。それはみんなが考える理想的なサムライではないかもしれないが、生死の狭間を生き抜いた戦士であったことは間違いない。

 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。

 

 

 

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ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

福本繁夫の経歴

 

 撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。

生年月日不明である。大正9年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、昭和11年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、昭和10年とする資料もあり)。昭和14年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。

 台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西沢広義と一緒に転属していたようだ。昭和18年11月、乙飛7期出身者は飛曹長に昇進しているので恐らく福本もこの時期に飛曹長に昇進したと思われる。

 昭和18年12月に253空には転属する。岩本徹三、小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。昭和19年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留している。

 この253空後退後のラバウル253空についてであるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』253空の項には「ラバウルには福本繁夫飛曹長の指揮する零戦9機のみが残留した。」とあり、福本飛曹長と共に零戦9機も残留したことになっているが、碇義朗『最後のゼロファイター』にはラバウルには958空の零式三座水上偵察機8〜9機のみとある。どちらが正しいのかは不明であるが、その後の経緯から考えても零式三座水偵が残った可能性が高そうだ。

 ともかくも福本飛曹長は何らかの事情でラバウルに残留している。どうして福本ほどの熟練者が本隊から離れたのかは不明だが、同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)、福本飛曹長も重症又は負傷していた可能性が高い。

 残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。現地制作の零戦は、253空撤収後、まず2機修復され、さらに昭和19年2月末までにさらに5機完成した。昭和19年3月3日、福本飛曹長を指揮官とする現地製作された零戦隊7機はアメリカ海兵隊第223戦闘中隊と空戦に入る。米軍側記録によると米軍機に損害無し、零戦を1機撃墜、1機不確実とあるが、日本側記録では米軍機5機を撃墜したとある。

 3日後の3月6日にも空戦が行われているがこの戦闘に福本が参加していたのかは不明。3月13日には列機3機を率いて、グリーン島の攻撃に参加しているが列機は集合できず、福本のみが攻撃し帰投している。3月23〜24日の深夜に第17軍突撃掩護のため零戦3機が出撃したが、滑走中の事故で3機とも損傷。掩護を行うことが出来なかった。福本は自身が出撃しなかったことを理由に苛立った司令から暴行を受けた。

 そして昭和19年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。日本に戻った日は不明だが、昭和20年2〜3月頃のようだ。昭和20年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。

 昭和20年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。

 

福本繁夫関連書籍

 

ヘンリーサカイダ・碇義朗『最後のゼロファイター』

ヘンリーサカイダ・碇義朗 著
光人社 (1995/7/1)

 幾多の撃墜王を生んだラバウル航空隊は昭和19年2月にトラック島に後退する。ここで太平洋戦争の中心は中部太平洋から比島、本土へと移っていくのだが、忘れ去れたラバウル航空隊では、廃棄された零戦や隼、九七式艦攻などの部品を組み合わせて「ラバウル製航空機」を生産し始めた。海軍は105基地航空隊として偵察、輸送、攻撃の任務に就いた。ほとんど知られることが無かった「その後のラバウル」の出来事を克明に記している。パイロットの多くは他の戦場に移動するが、ラバウルに残留したパイロットに乙7期予科練出身というベテラン搭乗員福本繁夫飛曹長がいた。

 

川戸正治郎『体当たり空戦記』

 丙種予科練12期という戦中派中の戦中派、川戸正治郎上飛曹の戦い。満足な訓練も受けられず、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに派遣される。ラバウル航空戦では5回も撃墜されながらも19機を撃墜する。航空隊が撤退した後もラバウルに残留して空戦を行った。福本飛曹長についての記載もある。因みに本書は大手出版社による本ではないので購入できるうちに買っておいた方がいい。この手の本が再販される可能性は低い。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。

 

ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース1937‐1945』

 これも定番。ヘンリーサカイダは米国の戦史研究者。初版が1999年なので『日本海軍戦闘機隊』よりは新しい。同様にエース一覧表があるが、『日本海軍戦闘機隊』のものより精緻で、今まで知られていなかったエースの名前も見える。当時の搭乗員に直接インタビューもしてたり、独自取材もしている。大原亮治飛曹長のことを「ラバウルの殺し屋」と書いて抗議されたのも本書だったはず。航空機のカラー絵も多い。

 

 

 

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01_一式戦闘機隼
(画像はwikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦中最も生産された陸軍の戦闘機「隼」として有名な機体である。合計5751機の生産数は零戦に次いで日本軍用機史上2番目の多さ。太平洋戦争開戦から終戦まで使用され、戦後もアジア地域で使用されていた。

 

一式戦闘機隼〜概要〜

 

 

 

性能(一式一型)

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

背景から開発まで

 傑作機として有名な九七式戦闘機の後継機として計画された本機の基本方針は、「九七式戦闘機と同程度の旋回性能を保持しつつ他の性能を向上させる」というものであった。高速重戦闘機に移行しつつあった世界の趨勢とは異なり、格闘戦性能に重きを置いた要求であった。

 しかしだからといって速度では妥協はしたくない。航続力も欲しいということで性能要求は、速度は九七式戦闘機と比較して40km/h以上、航続力は1.6倍とする無茶な性能要求であった。

 

開発

 1937年12月、陸軍は、九七式戦闘機の後継機であるキ-43の開発を中島飛行機に指示した。試作機キ-43の設計は、設計主務者小山悌を中心に進められ、1938年12月末、試作1号機が完成した。初飛行は同年12月12日で、1939年2月に2号機、3月に3号機が立て続けに完成した。単翼で陸軍戦闘機初の引込脚を採用、風防も密閉式が採用された。照準器は旧来の筒状の望遠鏡式が採用され、プロペラは2翅、スロットルレバーはフランス式の手前に引くと増速するタイプのものであった。

 試作機の武装はドイツラインメタル社製MG17、またはこれを国産化した九八式7.9mm固定機関銃2丁であった。装弾数は各400発である。これら3機の試作機は各部に微妙な違いがあったが、1940年から1941年にかけて試作4号機以降と統一された。完成した試作機の性能はというと機体が大型化し重量も増加したため空戦性能では九七式戦闘機に及ばず、速度も期待していたほどではなかった。

 試作機3機についで増加試作機も10機が1939年11月から1940年9月にかけて製造された。試作機の不評を受けてこの増加試作機では、尾翼、風防等多くの部分で性能改善が行われた。この時にスロットルレバーも前方に押すと増速する方式に変更された。さらに機銃も八九式7.7mm固定機銃2挺に変更されたが、中島飛行機側は採用を半ば諦めていたようだ。

 変化が訪れたのは1940年の夏、シンガポール攻略を念頭に置いた遠距離戦闘機の必要性から航続距離の長いキ-43の採用が決定した。この結果、中島飛行機では1941年4月までに陸軍が要求したキ-43戦闘機40機を完成、1941年5月に一式戦闘機として制式採用された。

 制式採用された一式戦闘機は1942年3月に報道関係者に発表されたが、この時に報道係将校である西原勝少佐の発案で「隼」という愛称が考案され、以降、戦闘機隼として国民に親しまれた。因みにこれは愛称であり正式名称ではない。

 

一式一型

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

 最も初期に生産された一式戦闘機。発動機はハ‐25(海軍名「栄」)で950馬力、全幅11.44m、全長8.83m、重量1580kg、武装は八九式7.7mm固定銃または一式12.7mm固定機関砲2挺を機首内に装備できる。海軍の零戦と異なり、当初から防弾装備が装備されていた。7.7mm2挺を装備した機体は一型甲、右7.7mm、左12.7mmの機体は一型乙、12.7mm2挺の機体は一型丙と呼ばれる。

 武装に関しては威力からすると12.7mm機関砲2挺が好ましかったが、当時の12.7mm機関砲は信頼性が低かったため、実績のある7.7mm機銃2挺とした。後に12.7mm機関砲の信頼性が向上したため12.7mm機関砲2挺の丙型が誕生した。無線機は九六式飛三号無線機。

 

一式二型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 1975kg(資料により異なる)
出力 1130馬力
最大速度 515km/h(米軍テスト結果では558km/h)
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 キ-43が制式採用される前の1940年1月、速度及び上昇力向上を目的とした第二案の研究が始まった。これはエンジンをハ-25の改良型ハ‐105に変更し、機体を空気抵抗の少ない形に改良することであった。1940年5月にキ-43増加試作機1機に改修を実施、発動機はハ-105をさらに改良したハ-115(海軍名「栄21型」)を搭載した試作1号機が1942年2月に完成した。

 その後、5機の試作機と3機の増加試作機が製作され、1942年6月一式二型戦闘機として制式採用された。上記以外の改良点としてはプロペラが2翅から3翅に変更、主翼の両翼端を30cm切り詰め、主翼付け根部分の縦通材が強化された。さらに照準器は望遠鏡式から光学照準器である一式照準器に変更された。燃料タンクにも13mmのゴムで防弾化された。防弾タンクを装備した関係で搭載燃料は36L減少した。無線機は九九式飛三号無線機。

 生産は中島飛行機と立川飛行機で行われた。1942年11月に量産一号機が完成、1944年9月まで生産が続けられた。二型は大きく甲乙丙の3タイプに分けられるがこれは一般的に用いられている区分であり、陸軍の公式の呼称ではない。

 

二型甲

 甲型は最初の生産型。二型は一型に比べエンジンのパワーが向上したため潤滑油冷却器を装備しているが、初期生産型と後期生産型では冷却器の位置が異なる。排気管は集合排気管を使用。

 

二型乙

 排気管が推進力式排気管に変更された。初期生産機は集合排気管であったが、後期生産機は単排気管となった。それ以外にも冷却器の追加、増槽振れ止め、増槽取付位置の変更、頭部保護支柱の改修等の改良が行われた。二型乙型以降はタ弾、ト弾、ロ弾の搭載が可能となっている。1943年1月頃から実戦配備が開始されている。

 

一式三型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 - kg
出力 1130馬力
最大速度 568km/h
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 エンジンを水メタノール噴射式のハ-115供淵-35・32型)に換装した型。最大速度は試作機で568km/hに達し、量産機でも550km/hを維持していた。1943年末に試作が内示、1944年3月に試作指示が出され、1944年12月に制式採用された。

 水メタノール噴射式のエンジンを採用したことにより、胴体内に70Ⅼのメタノールタンクが新設された。さらに座席後方の3ヵ所に厚さ13mmの防弾鋼板が追加され、照準器も三式照準器に変更されている。これらの改良により三型は一式戦の使いやすさ、運動性能を維持しつつ、速度、上昇力、実用上昇限度、航続距離等が向上している。但し、エタノール噴射装置の不具合や整備員の不慣れにより稼働率は低下している。無線機は九九式飛三号無線機であるが、一部に性能向上型であるム4四式飛三号無線機を装備している。

 この三型の武装強化型として三型乙というのも計画された。これは武装を20mm機関砲に変更したもので、1944年末から製作を開始、1945年初頭に試作機が完成した。当初は翼下に20mm機関砲ポッドを装着する案も検討されたが、結局、機首12.7mm機関砲を20mm機関砲に変更することになった。このため三型乙は風防前面の胴体が大きく膨らんだものとなった。

 この改良により重心位置が変わったためエンジン架を200mm程延長しているが、この三型乙は重量過大のため不採用となった。

 

一式四型

 計画のみに終わったが、一式戦闘機にハ-45(海軍名「誉」)、ハ-33(海軍名「金星」)エンジンを装着するという案があった。しかし計画中に終戦となった。または航空本部の指示により中止されたとも言われている。因みに零戦は金星エンジンを装着した五四型が2機試作されている。

 

その他の改修機

ロケット弾搭載型

 試作のみで終わったが、二型の両翼下面にロ三ロケット弾各2発を搭載できるようにしたロケット弾搭載機が53機試作された。1943年11月に設計に着手、1944年3月に試作機が完成したが実用に適せずとして不採用となった。

 

対潜爆弾搭載型

 二型に対潜爆弾を搭載できるようにした型。1943年11月に設計に着手、1944年1月に試作機が完成した。懸吊架は木製で両翼に60kgまたは30塲弾を搭載することができる。合計3機が試作されたが試作のみに終わった。

 

着陸制動フック装着型

 陸軍が開発中であった陸上移動式着陸制動装置と射出装置に対応するように改造された型。1944年3月に設計に着手、9月までに50機が改修されている。

 

 マルサ装置搭載型

 マルサとは資料上は○の中にカタカナのサが入る。「サ」とは酸素を指すと思われる。高高度性能を強化するためにエンジンに液体酸素を供給することにより高性能を発揮することを企図したもの。試作機のみ製作された。

 

寒冷地用装備型

 エンジンの過冷却防止のためカウリング前面の開口部に脱着可能なシャッター付き空気制限板が用意されていた。主翼とプロペラの防氷装置も試作されたが試作のみ。

 

生産数

 一型は試作機が13機あり、量産機は1941年4月から1943年2月までの間に中島飛行機で703機、陸軍航空工廠で51機の合計767機、二型が試作機8機、量産機は1942年11月から1944年9月までの間に中島飛行機で2481機、立川飛行機で1342機の合計3831機、三型が試作機3機、量産機が立川飛行機のみで1143機の合計5751機である。

 

配属部隊

 この一式戦闘機を最初に装備した部隊は59戦隊で1941年6月に立川にて一式戦一型甲を約30機受領した。しかし強度的な不具合が続出、空中分解事故が起こるに至って再度立川に帰還、一型乙に改修した後、仏印に進駐している。同年8月には64戦隊が一式戦に改変、太平洋戦争開戦時には、59戦隊が21機、64戦隊が32機、合計53機の一式戦を装備していたのみであった。

 太平洋戦争開戦後は一式戦の配備も進み、33戦隊、50戦隊、教導飛行隊の204戦隊にも一式戦が装備されていった。1942年10月になるとビルマに展開していた64戦隊は一式戦2型に改変するために内地に帰還、1943年2月3日には同じくビルマに展開していた50戦隊もスラバヤに移動、陸軍輸送船あきつ丸で運ばれてきた一式戦2型を受領、同時に2型への改編が完了した64戦隊が再びビルマに進出した。遅れて11月頃には204戦隊も2型に改変された。

 南東方面では1942年12月18日、一式戦を装備した11戦隊がラバウルに到着、1943年1月9日には1戦隊もラバウルに進出した。5月には2型を装備した24戦隊がニューギニアに進出、8月には11戦隊の後退と共に59戦隊が進出、二式複戦装備の13戦隊や三式戦装備の68戦隊も11戦隊や24戦隊、59戦隊が残していった一式戦を装備していた他、63戦隊、77戦隊が一式戦を装備していた。

 以降、20戦隊、26戦隊、30戦隊、31戦隊等多くの部隊が一式戦闘機を装備、終戦まで活躍した。

 

 

 

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01_B36
(画像はコンベアB36 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 富嶽とは、太平洋戦争後期に中島飛行機創業者中島知久平の独創によって計画された超大型戦略爆撃機である。当時、大型機の開発経験の無い日本には実現困難な計画であった。特にエンジンには5,000馬力が必要であり、このようなエンジンは当時はどこも実用化していなかった。中島飛行機の社内計画として開始、一時は陸海軍の正式の計画にまでなるが、結局実現困難として開発中止となる。

 

超重爆撃機 富嶽 〜概要〜

 

性能(試製富嶽最終案)

全幅 63.00m
全長 42.00m
全高 8.80m
自重 338,000kg
最大速度 780km/h(高度15,000m)
上昇力  -
上昇限度 15,000m
エンジン出力 5,000馬力(ハ54)6基
航続距離 19,400km(爆弾5,000kg搭載時)
乗員 6名
武装 20mm機関砲4門
爆装 最大20,000kgまたは魚雷20本
設計・開発  - / 中島飛行機

 

開発

02_B29
(画像は戦略爆撃機B29 wikipediaより転載)

 

 1942年11月、中島飛行機「大社長」中島知久平は、群馬県太田市に中島飛行機首脳部と幹部技術者を集めて超大型戦略爆撃機を製作するという決意を表した。これに呼応した幹部、技術者は一式戦闘機隼や四式戦闘機疾風の設計で有名な小山悌技師をまとめ役として「必勝防空研究会」を設置、超重爆の研究を開始した。この計画は「Z計画」と名付けられ、1943年1月末には基本方針が出来上がった。この「Z計画」の「Z」とは海軍の「Z旗」が由来であり、そのZ旗とは「皇国の荒廃この一戦に在り」を意味する。

 Z飛行機の基本コンセプトは、米軍機に対して、々丗概離が優越していること、爆弾搭載量が優越していること、B度が優越していることであった。要するに「無敵爆撃機」を製作しようとした訳であるが、このコンセプトからして当時の日本の技術力を超越したものであるのは言うまでもない。このため軍部からは批判の声が強かった。こんなものにリソースを割くのであれば戦闘機を製作せよという訳である。

 しかし「変人」中島知久平はこんなことではめげない。めげるような男であるならばそもそも中島飛行機などという会社は存在しなかったであろう。中島は小山悌技師を同道、陸軍に対して米本土爆撃が可能であることを力説した。この結果、軍部に理解者が現れ始め、ついには「富嶽」という名称で軍の正式な計画となった。

 

Z飛行機計画

03_B29とB36
(画像は戦略爆撃機B29とB36 wikipediaより転載)

 

 以上のように中島飛行機が独自に研究した飛行機は「Z飛行機」と呼ばれ、軍部によって正式に認められた計画によって完成が企図された飛行機が「富嶽」と呼ばれている。つまりZ飛行機計画が正式に採用されて富嶽計画となった訳である。では、このZ飛行機とはどんな飛行機であったのだろうか。

 Z飛行機には複数の案があったが、最終案として残ったものは全幅65m、全長45m、全高12m、重量が自重67.3トン、最大爆弾搭載量50,000kg、最大速度は高度7,000mで680km/h、実用上昇限度12,480m、航続距離は16,000kmというとんでもない化け物飛行機であった。エンジンは6発で搭載が予定されていたのはハ44(2,450馬力)2基をタンデムに連結したハ54エンジン(5,000馬力)であった。

 このようにZ飛行機は空前の超大型機であったが、中島知久平が考案した使用法もまた壮大なものであった。まずZ飛行機には1,000kg爆弾20発を搭載するZ爆撃機、20mm機関砲96門を装備したZ掃討機、7.7mm機関銃400挺を装備したZ掃討機、1,000kg魚雷20本を装備するZ雷撃機、武装落下傘兵200名を搭乗させるZ輸送機があり、これらを駆使して戦っていく。

 第一段階は防衛線で、数百機の爆撃機型Z飛行機で日本本土空襲が可能な位置にある飛行場を爆砕、来襲する敵爆撃機は掃討機型が高度差を利用して上空から機関砲の雨を降らせて全て撃墜する。機動部隊に対してはまず掃討機型で対空砲火を沈黙させる。次いで爆撃機型で絨毯爆撃を行い、撃ち漏らした艦船を雷撃機型で撃沈する。この雷撃機型は1機で1隻が割り当てられており、1隻に対して搭載魚雷20本を撃ち込む。これらにより日本に来襲する敵航空機、艦隊を壊滅させる。

 第二段階では、ドイツ占領下のフランスに前進基地を設けて米本土を猛爆撃する。これでも降伏しなかった場合は、4,000機のZ爆撃機、2,000機のZ掃討機、2,000機のZ輸送機で米本土を占領するというものだ。第三段階はドイツ国内に拠点を設け、ソ連やイギリスを猛爆撃するという壮大な計画であった。もちろん実現する可能性は全くない。

 余談であるが、これを架空戦記としてシミュレーションしたのが、檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』シリーズで、元零戦搭乗員坂井三郎氏も舌を巻く程の専門知識を持つ著者が合理的に「仮に富嶽が量産された場合」をシミュレートする。

 

「試製富嶽」委員会の設置

04_B52
(画像は現代の戦略爆撃機B-52 wikipediaより転載)

 

 中島知久平の熱意により、1944年1月下旬に中島知久平を委員長として「試製富嶽委員会」が背設置されることが決定、陸軍航空技術研究所、海軍航空技術廠を始め、大学、民間企業の専門家をメンバーとした委員会は、1944年3月(4月とも)正式に発足した。

 ここで一番の問題となったのはやはりエンジンであった。Z飛行機で搭載予定であった5,000馬力級エンジンであるハ54は、その元となるハ44エンジンすら試作の段階であったため、開発は難航した。このため様々な代替案が用意されたがどれを採用しても能力が低下することは必須であった。エンジンの開発は難航していたものの、委員会員が協議の上完成させた試製富嶽最終案は以下の通りとなった。

 全幅63m、全長42m、自重338トン、最高速度15,000mで780km/h、航続距離が爆弾15,000kg搭載で16,500km、エンジンはハ54が6基、プロペラは6翅または8翅プロペラで20mm機関砲4門、与圧室装備で乗員6名であった。しかしこの遠大過ぎる計画は明らかに実現困難であったため、1944年4月には開発中止が決定、1945年4月に委員会は正式に解散した。

 

生産数

 計画のみ。

 

超重爆撃機 富嶽の関係書籍

 

檜山良昭『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」』

 仮に富嶽が完成していたら。。。というシミュレーションである。著者は架空戦記物の草分け的な存在の檜山良昭氏。戦史や当時の技術に対する造詣の深さは元零戦搭乗員の坂井三郎氏を唸らせるほどであった。本書では、富嶽のエンジンが苦難の末に開発に成功、富嶽の量産が始まる。

 中島知久平の計画では富嶽は数百機を生産することになっているが、本書では月産10機程度しか生産できない。当時の日本の工業力を考えれば妥当な数である。日本軍は、この富嶽を以って陸海合同で戦略空軍を発足、米本土爆撃を始め、様々な作戦に活躍するが所詮20〜30機程度の富嶽では戦局を覆すことは出来ず、富嶽も1機、また1機と消耗していく。

 架空戦記というと当時の日本の技術力、工業力や時代背景を完全に無視した荒唐無稽な作品が多いが、本書は「ハ54エンジンの開発に成功した」という設定の下、日米の国力差、空襲の激化による生産数の減少等、可能な限りリアルに「富嶽」をシミュレートする。

 

まとめ

 

 富嶽は航空機好きなら誰でも知っている中島飛行機が計画した幻の超重爆撃機である。確かに中島知久平の計画通りにこの富嶽が生産されていれば戦局は大逆転したであろう。しかし、もしこの富嶽を日本が製造できる技術力と工業力があれば、日本の軍用機はもっと高性能であり戦場を席巻していたであろうから、そもそも大逆転させなければならない状況にはならなかった。

 技術的にも工業力的にも完全に不可能であった本計画であったが、陸海軍共にこの計画を取り上げて正式な委員会まで設置してしまったことに当時の日本の末期的状態が見て取れる。富嶽は富士であり、富士は日本の象徴であるが、この富嶽計画もまた当時の日本の状態を表す象徴的な計画であった。

 しかし、無理な計画、遠大な計画を目指してそれを実現させていくのが技術であり、この富嶽計画に関わった技術者達の挑戦は決して無駄ではなかった。戦後、中島飛行機はその技術力と会社規模を恐れたGHQの命令により解体されるが、数年後には分割された会社のほぼ全社が再集結して「富士重工業」を成立させる。無論、社名の「富士」は「富嶽」に由来している。富嶽は確かに当時の日本の国力を完全に無視した実現不可能な計画であった。しかし当時の中島飛行機の人々の心に夢として刻み込まれ、それは戦後も生き続けたのである。

 

 

 

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01_Tu-16
(画像はwikipediaより転載)

 

Tu-16バジャー爆撃機

 

 

性能

全幅 33.0m
全長 34.8m
全高 10.36m
自重 37,200kg
最大速度 1,050km/h
上昇力  -
上昇限度 11,200m
エンジン出力 8,200kg×2基(ミクーリンAM-3 M-500ターボジェットエンジン)
航続距離 7,200km
乗員 7名
武装 23mm機関砲7門
爆装 9,000kgまたは
   KS-1コメット巡航ミサイル2発または
   K-10S対艦ミサイル1発または
   KSR-2、KSR-5対艦ミサイル2発
初飛行 1952年4月27日
総生産数 1509機
設計・開発 ツポレフ設計局

 

概要

 Tu-16とはソビエト連邦ツポレフ設計局が開発した双発ジェット戦略爆撃機である。開発を行ったツポレフ設計局とは戦前から航空機の設計を行っていた設計局でボーイングB-29爆撃機を「リスペクト」したTu-4爆撃機などの開発を行った設計局である。このTu-4爆撃機、よく言えば「リスペクト」であるが、要するにソビエト領内に不時着した米国のB-29爆撃機の完コピである。ソビエトと米国の基礎技術力の差から重量が増加、最高速度も低下したものの、ソビエト初の核弾頭搭載可能な戦略爆撃機となった。

 このTu-4爆撃機は800機以上が生産されたものの、1950年前後になるとソビエトでもジェットエンジンであるミクーリンAM-3エンジンが開発成功。これによってソビエトでもジェット戦略爆撃機の開発の可能性が見え出した。これを受けてツポレフ設計局はジェット戦略爆撃機の開発を開始、1950年に試作機Tu-88を開発、1952年4月27日に初飛行、1954年にはTu-16としてソビエト空軍に制式採用された。

 全長34.8m、全幅33.0m、高さ10.36m、重量37,200kg、エンジンはミクーリンAM-3エンジンを使用、最高速度は1,050km/h、航続距離7,200kmであった。同時期に米国で開発されたB-52爆撃機と比べると最高速度はほぼ同等であるが、航続距離は半分以下、B-29爆撃機と同程度であった。それでも核搭載可能なジェット戦略爆撃機の開発は西側を驚かせるには十分であった。

 エンジンは2発で主翼胴体部近くに埋め込まれる方式で流線形の美しいシルエットを持つ機体である。胴体内には9,000kgの爆弾、または巡航ミサイルを搭載可能である。拡張性が高い設計であったために様々なバリエーションが開発され、偵察、哨戒、電子戦用機なども存在する。1954年から1962年にかけて1,509機が生産された。

 中国でライセンス生産された他、エジプト、ベラルーシ、インドネシア、イラクでも運用された。ロシアでは1993年に全機退役しているが、ソビエト連邦から本機を継承した旧ソ連邦国や上記の国では運用が続けられたものの2000年までにはほぼ退役が完了している。本家のTu-16は全機が引退したものの、中国でライセンス生産されたH-6轟炸六型は現在でも運用されている。このH-6轟炸六型は、中ソ友好同盟相互援助条約の一環として導入、ソビエトから部品を購入、中国で組み立てるというノックダウン生産が開始された。さらに1959年にはライセンス生産が開始、西安飛機工業公司で生産された機体は1968年12月24日に初飛行、1969年より運用を開始している。総生産数は231機。

 

 

 

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01_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 特殊攻撃機橘花とは、太平洋戦争末期に日本海軍が計画、中島飛行機が開発したジェット攻撃機である。試作機1機が11分飛行したのが唯一の飛行記録である。2回目の飛行は失敗、そのまま終戦となった。海軍の期待は大きく戦闘機型等多くの派生型が計画されたが画餅となった。

 

特殊攻撃機 橘花 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.00m
全長 9.25m
全高 3.50m
自重 2,300kg
最大速度 679.7km/h(高度6,000m)(計算値)
上昇力 10,000mまで29分18秒(計算値)
上昇限度 10,600m(計算値)
エンジン出力 推力475kg(ネ20)2基
航続距離 680km(計算値)
乗員 1名
武装  -
爆装 500kg爆弾1発または
   800kg爆弾1発
設計・開発 松村健一 / 海軍航空技術廠

 

背景から開発まで

02_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

03_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 ジェットエンジン研究の先進国はドイツであったが、日本でも研究は進んでいた。1944年、無事に帰国した巌谷技術中佐がもたらした資料を参考に陸海軍官民合同研究会が開催され、ジェットエンジンは海軍、ロケットエンジンは陸軍の主導で行うことが決定された。因みに、この際に決定したジェットエンジンの陸海軍共通名称であるが、ジェットエンジンは「ネ●●●」とカタカナと三ケタの数字で呼ばれることが決定した。この「ネ」は「燃料ロケット」三ケタの数字の上一桁はメーカー番号、下二桁はエンジンの馬力相当出力である。これは1,000馬力級であれば「10」、2,000馬力級であれば「20」と表記される。あと空技廠が製作した場合にはメーカー番号は付与されない。例えば「ネ20」であれば、空技廠製の2,000馬力級ジェットエンジン、「ネ230」であれば中島製3,000馬力級ジェットエンジンという具合である。

 空技廠で開発されていた国産ジェットエンジン「ネ10」は1944年9月には全力運転に成功したが、性能は不安定であり未だ実用レベルには達しておらず、ネ10は、ネ10改、ネ12と改良されていったもののエンジンの耐久性は低いままであった。この頃から空技廠ではドイツ型ジェットエンジン「ネ20」の開発が開始されていたが、このネ20はネ10に比べて小型高性能であり、耐久性も及第点に達したため開発はネ20を中心に進められることとなりネ10の開発は打ち切られることとなった。

 

橘花開発開始

04_橘花
(画像はwikipediaより転載)

 

 1944年8月、中島飛行機に対してジェット機「皇国二号兵器」の開発を指示(当時は「橘花」という名称ではなかった)、中島飛行機側は設計主務者に艦上攻撃機天山や百式重爆呑龍の設計主務者である松村健一技師を充てて開発を開始した。機体はドイツ製Me262を模倣した無難な形状に決定、とにかく「飛ばす」ことを目的に開発が進められたのに合わせて海軍では生産計画が立案された。おれは10月には木型審査完了、12月には月産30機、翌1945年1月には月産60機、2月100機、3月150機という遠大な計画で、機体設計すら完了していない状態では無謀という他の無い計画であった。

 1944年12月末、正式に試製橘花計画要求書案が交付される。この要求書で双発単座の陸上攻撃機と明記された。名称に特攻機を示す「花」が使用されていることからも分かるように当初は特攻機として計画されたようであるが、計画が進むにつれて機体の安定性や操縦性等が求められるようになり、落下傘の装備も要求されていたことから、橘花は、特攻機から徐々に通常の攻撃機と性格を変化させていったものと考えられる。

 設計中、空襲の被害を避けるため設計室は栃木県佐野市に疎開、橘花の生産は何と群馬県世良田村の養蚕小屋で行われた。1945年6月25日、この養蚕小屋で試作1号機が完成した。機体は全幅10.00mと零戦よりも2mも小さいコンパクトな双発機で主翼はエンジンから先の外翼が上方に折り畳めるようになっていた。素材はジェラルミンであるが、胴体中央部の一部外板には鋼板、翼端には木を使用しており、主車輪は零戦、前輪は銀河の尾輪の流用であった。

 7月27日に地上滑走、8月7日に初飛行した。8月11日には第二回飛行が行われたが離陸に失敗、そのまま終戦となった。

 

生産数

 完成したのは試作機1機のみである。他に完成直前の2号機、ほぼ完成状態の24機があった。

 

まとめ

 

 海軍の期待が集まっていた橘花には多くの計画があった。しかし完成が1945年6月という終戦直前であったことからも分かるようにこれが当時の日本の航空技術の限界であった。ドイツではMe262が1941年に初飛行、1,430機が生産され実戦部隊も編成されていた。英国でも同時期にグロスターミーティアが実戦配備、米国も1942年にはP59が初飛行、1944年にはP80シューティングスターが初飛行している。太平洋戦争開戦前、九七式戦闘機や零戦、二式大艇等の世界水準の航空機を開発していた日本であったが、技術競争が激しくなる中で基礎技術力の低さが如実に現れた結果であったといえる。

 

 

 

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01_一式貨物輸送機
(画像は一式貨物輸送機 wikipediaより転載)

 

 ロ式B型高高度研究機とは、陸軍が開発した高高度研究機である。名称がキ番号ではなく「ロ式B型」という妙な名称であるのは本機が「極秘」よりもさらに上の「特秘」扱いであったことによる。具体的に研究していた内容は成層圏を飛行する際に必要になる与圧室の研究であった。この分野の研究において日本は各国に比べて後れを取っており開発が急がれていた。

 

ロ式B型高高度研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 19.96m
全長 11.76m
全高 3.46m
自重 5,157kg
最大速度 475km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで13分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,055馬力(ハ102)2基
航続距離 2,200km
乗員 6名(操縦員2名、実験員3〜4名)
武装  -
爆装  -
設計・開発 小川太一郎 / 東京帝国大学航空研究所

 

与圧室とは。。。

 地球を取り巻く大気層は、およそ高度11,000mまでを対流圏、50,000mまでを成層圏と呼ぶ。軍事上、成層圏飛行が有利なのは航空機の発見が困難であること、地上からの攻撃が困難であること等がある。このため各国では成層圏を飛行することが可能な高高度航空機の開発が研究されていた。

 高高度飛行を行う上での問題は、高度が高くなるにつれて酸素の量が減少することである。このため高高度を航空機が飛行するためには、機内を気密化して酸素を送り込み気圧を人間が生存できる気圧にする必要がある。さらに与圧することで機内と機外とでは圧力に差が生じる。与圧室を製造するためには機内の気密化して酸素を送り込むことと同時に圧力差に耐えうる強度が必要になる。

 

開発

 1938年、東京帝国大学航空研究所内に「航二研究会」と呼ばれる航空機による成層圏飛行に関する研究を行う研究会が発足した。リーダーは小川太一郎博士で陸軍からの資金協力も得ていた。この計画は「研二」とも呼ばれている。1940年になると航二研究会は実際に高高度研究機製作に動き出す。当時の日本の技術力ではいきなり成層圏を目指すのは難しかったため、中間機として高度8,000mから10,000mを常用高度とする中間機の開発を指向することとなった。

 基礎設計は東大航研で設計主務者はリーダーの小川太一郎博士で基礎設計は主に木村秀政所員が行った。細部の設計と機体の製作は立川飛行機が担当することとなった。しかしゼロから機体を製作していたのでは時間がかかり過ぎるため機体は現用機から流用することとした。その候補として挙がったのが、ロッキード14Yと三菱製九七式重爆であった。

 検討の結果、重量軽減が可能である点や立川飛行機でライセンス生産されている点が試験には有利である等という点からロッキードY14がベースとして選ばれた。設計は1940年8月から開始された。主な改造点としては、胴体は新規設計、発動機、プロペラの交換であった。同年秋には基礎設計が完了、立川飛行機によって細部の設計が行われた。1941年末に設計完了、試作機2機の製作が開始、1942年7月試作機の機体は2機ともほぼ完成する。

 機体は完成したものの日本初であった与圧室の開発が難航したため完全に試作機が完成したのは翌年1943年5月であった。6月には与圧装置は使用せずに高度3,000mまでの初飛行が行われ、9月1日には与圧装置を使用した飛行も行われた。1944年8月には2号機も完成、1944年10月9日には試験飛行において高度11,200mに到達、成層圏飛行に成功した。

 今回、全く新規に設計された胴体は円形断面で機首は段無しの流線形となった。窓は二重ガラスになっており、その間に温めた空気を送り込んで曇りなどを防いでいた。このためもあって操縦席からの視界の悪さは酷い物であったという。エンジンは1号機が二速過給器を搭載したハ102特(海軍名「瑞星21型」)で2号機はさらに高高度に対応したハ102超過給型が装備された。プロペラは直径3.2mでブレードは高高度で馬力を吸収するために幅広に設計された。

 

生産数

 2機が製作された。終戦まで残存していたが米軍によってスクラップにされた。

 

まとめ

 

 日本でロ式B型が試験されたいた頃、米国ではB29が実戦に投入されていた。このB29は完全な与圧室を持ち、搭乗員は機内では通常の飛行服での勤務が可能であった。実用上昇限度は13,000mを超え、総生産数は3,970機に達する。これに対して日本側は最高の頭脳を投入しても不完全な与圧室を備えた実験機が2機、それもベースは米国機というのが現実であった。技術が進歩するためにはそれを下支えする工業力が必要である。それは天才、秀才が設計したものを実際に生産することができる基礎技術力であり、一分野に秀でることではなく全分野の技術力の高さである。

 当時の日本は、飛行機を製造することはできても飛行機を作る機械は米国製であったり、ドイツから高性能の機銃を輸入してもプレス加工ができないために製造することができない、ライセンスを得ても同じ品質のものが造れない等の悲しい現実があった。日本には世界レベルの航空機設計者達が多くいた。しかし設計は一流であってもその設計を実物に変える力が不足していた。この「国力の差」を如実に表しているのがこのロ式B型研究機であろう。

 

 

 

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01_P47
(画像はwikipediaより転載)

 

P47サンダーボルト

 

 

性能P47N

全幅 12.95m
全長 11m
全高 4.48m
自重 4,997kg
最大速度 735km/h(高度10,668m)
上昇力  -
上昇限度 12,939m
エンジン出力 2,100馬力(P&W R-2800ダブルワスプ)
航続距離 3,158km
乗員 1名
武装 12.7mm機銃8挺
爆装 1,000ポンド爆弾3発
   ロケット弾10発
初飛行 1941年5月6日
総生産数 15,660機
設計・開発 アレキサンダー・カルトベリ / リパブリック社

 

概要

  P47サンダーボルトとは米陸軍航空隊が第二次世界大戦中盤から運用を開始した高高度戦闘機である。全幅13m、全長11mという巨大な戦闘機であった。当時の日本陸軍の主力戦闘機である一式戦闘機が全幅11m、全長9mと比べればその巨大さが分かるだろう。一式戦闘機とは全幅、全長共に2mも違っているのだ。この巨大戦闘機、さすがに米軍パイロットもその巨大さに驚いたようだが、P&W R-2800エンジンを搭載した上にターボ過給機を装備している本機は鈍重とは程遠い高速戦闘機であった。

 今回はこの高高度戦闘機の生まれた経緯について書いてみたいと思う。このP47サンダーボルトのベースとなったのはAP-4という機体で、1939年の米陸軍戦闘機トライアルでカーチス社製P40と競合した機体であった。最終的にトライアルではP40に軍配が上がり制式採用されたものの、この機体に米軍はを惜しみ評価試験用としてXP43の名称を与え発注した機体であった。

 ターボチャージャーを装備したXP43は最高速度565km/hを発揮、米陸軍はP43として54機の発注を行った。しかし、当時の航空機の進歩は目覚ましく、すでにこの性能ではドイツ空軍の戦闘機には太刀打ち出来ないことが判明、P43の後継機として大量注文されていたP44も全てキャンセルされてしまった。これによりリパブリック社は深刻な経営難に陥ってしまうが、実力主義の米国でもさすがに見捨てることは出来なかったようで、結局P43戦闘機の生産をさせることになった。このP43戦闘機は第二次世界大戦ではほとんど活躍することはなかったが272機が製造され、中華民国空軍に108機が引き渡され日本軍とも交戦しているものの多くは偵察機として運用された。

 この間、P43の改良も進んでいた。凄まじい勢いで進歩し続ける航空機の流れに追いつき、そして追い越すために設計者アレキサンダー・カルトベリはP43の機体を大型化、エンジンをP&W R-2800ダブルワスプエンジンに変更、ターボチャージャーを装備した。このR-2800エンジンはF6Fヘルキャット、F4Uコルセアなどに採用された傑作エンジンで出力は2,000馬力にも達するものだ。これに4m4翅のプロペラ、胴体内にターボチャージャーを装備したため胴体は太くなり主翼には12.7mm機関銃8門、自動防漏燃料タンクも装備するという強力な戦闘機になった。

 1941年5月6日、この巨大戦闘機XP47Bは初飛行を行った。しかし後の事故により不具合が発覚、1942年9月、それらの問題点を改良したP47Cが米軍に引き渡された。そしてさらに改良が進み、ついに決定版となるP47Dが登場する。このタイプは総生産数12,602機で、P47の総生産数15,660機のほとんどを占めている。

 

実戦での運用

 1942年末、P47サンダーボルトはまず危機に瀕している英国に送られた。この時のタイプはP47Cである。この時、やはり連合軍のパイロット達もその巨大な戦闘機に度肝を抜かれたという。当時の英国空軍は日本空軍と同じくドッグファイトを重視しており、戦闘機もスピットファイアやハリケーンといったドッグファイト向きの機体であった。そこに翼面荷重246kgの重戦闘機が登場したのだ。因みに翼面荷重とは航空機の重量を翼面積で割った値でその数値が低ければ低いほど、機体が軽く翼が大きいということになり旋回性能が高くなる。零戦や一式戦闘機の翼面荷重は100kg前後、スピットファイアの初期型は117kgである。

 当然、ドッグファイトではこれらの戦闘機に太刀打ちできず、最大離陸重量8トンにも達するその機体は離陸するまでも距離を必要とした。しかし高高度になると運動性能は高く、頑丈で防弾性能に優れた本機は多くのパイロットの命を救うこととなる。P47も改良が進むにつれ燃料タンクが大型化、これにより航続距離が増大、重爆撃機の援護も出来るようになった。

 初の戦闘は1943年3月のヨーロッパ戦線で、8月には太平洋戦線でも初陣を飾った。戦争も後半となり、P51マスタングが登場すると護衛任務はP51に譲り、P47はその8門の12.7mm機銃と重装甲、爆弾搭載量の大きさから戦闘爆撃機として運用されるようになった。第二次世界大戦終結後もP47は1947年までは陸軍航空隊で運用され、1947年米空軍が誕生するとF47として1949年まで現役で運用され続けた。その後は州軍で1953年まで運用された後に退役している。

 第二次世界大戦中、それ以降もこの傑作戦闘機は米国、英国以外にも多くの国で運用されている。最も多く運用したのが自由フランス空軍で米国より446機を受領、1950年代まで運用を続けた。ソビエト連邦に対してもレンドリース法に基づいて203機が送られたものの目立った活躍はしていない。戦後は中華民国に102機のP47Dが送られ、国共内戦に使用されている他、トルコ空軍、イタリア空軍、イラン空軍や南米の国々等多くの国で運用された。最後まで運用したのはペルー空軍で1966年に最後のP47が退役している。

 

 

 

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01_キ77
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ77長距離研究機とは、朝日新聞社が東大航研に製作を依頼、のちに陸軍も加わって開発された長距離飛行を目的とした実験機であった。戦時中であったため国際機関からの公認はされていないが、総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分という世界記録を達成している。これは1962年にB52爆撃機に抜かれるまでは世界最長飛行記録であった。2機が製作され、1機は日独連絡のためにシンガポールを離陸後行方不明となっている。

 

キ77長距離研究機 〜概要〜

 

性能

全幅 29.43m
全長 15.30m
全高 3.85m
自重 7,237kg
最大速度 440km/h(高度4,600m)
上昇力 6,000mまで24分00秒
上昇限度 8,700m
エンジン出力 1,090馬力(ハ115特)2基
航続距離 18,000km(300km/hで滞空55時間)
乗員 6名
武装  -
爆装  -
設計・開発 木村秀政 / 東京帝国大学航空研究所

 

背景から開発まで

 キ77は、1939年に朝日新聞社が皇紀2600年記念に太平洋無着陸訪米親善飛行を行うために東京帝国大学航空研究所に専用の長距離航空機の設計を依頼したのが始まりである。皇紀とは明治時代に発案された日本独自の紀年法で神武天皇即位を元年とする。そこから計算して1940年は皇紀2600年ということになり、多くのイベントが企画された。キ77はその企画の一つとして発案されたものである。

 

開発

02_キ77
(画像はwikipediaより転載)

 

 1939年に東大航研に開発を依頼した機体は当初朝日新聞社の頭文字「A」をとって「A-26」と呼ばれていたが、やがて陸軍がこのA-26に目を付けて陸軍の試作機に加えた。これによって以降はキ77と呼ばれることとなる。このキ77の開発は基礎設計は東大航研、機体製作は立川飛行機、エンジンの製作は中島飛行機が行うこととなっていた。

 機体設計の幹事は木村秀政で、長距離飛行を可能にするために巡航速度を高くする必要があった。このため高翼面荷重の機体を製作するが、燃料が減るにつれて翼面荷重は低くなっていく。これを解決するために徐々に高度を上げていくという方法を採用している。これは現在の長距離飛行機の採用している方法と近いものであった。1940年3月に基礎設計開始、同年秋には基礎設計が完了した。以後の細部の設計は立川飛行機で行われたが、太平洋戦争開戦後に陸軍の命令により一時製作が中断するが、1942年4月に突如製作再開が命じられた。それどころか年末までに1号機を製作させよという急展開であった。この陸軍の変節は同月に米軍によって行われたドーリットル隊の空襲に対して一矢報いるためであったと言われている。

 この要求に対して製作陣は1942年9月に1号機を完成させたものの、あまりにも作業工程を切り詰めた突貫作業であったために各部の工作は粗悪になってしまっていた。それでも同年10月には地上運転、11月18日には初飛行に成功している。1943年4月には2号機も完成するが、こちらは時間的な余裕があったため丁寧な仕上げになっていた。試験飛行は1942年11月から1943年3月まで行われ、結果は良好であった。1943年4月には総合試験として東京からシンガポールまでの往復1万キロ以上の距離を53時間で無事に飛行した(無着陸ではない)。

 機体はセミモノコック構造で主翼は薄い層流翼を採用した。長距離飛行のために主翼はインテグラルタンク(翼がそのまま燃料タンクとなっている構造)を採用、さらに胴体にもいたるところに燃料タンクを設けた結果、燃料搭載量は12,202Lに達している(一式陸攻34型4,400L、二式大艇17,080L)。機内は、当初は与圧キャビン、次いで気密室が計画されたが当時の日本の技術力では製作することが難しかったため結局、酸素吸入マスクを使用することとなった。

 エンジンは中島製ハ115(1,170馬力。海軍名「栄21型」)2基でプロペラは直径3.8m3翅のハミルトン定速プロペラであった。

 

生産数

 1号機、2号機の合計2機。1号機は、戦後米軍の手によって米本土に運ばれたが途中、嵐により大破1949年頃にスクラップとなった。2号機はドイツとの戦時連絡飛行に使用されたが行方不明となった。

 

まとめ

 

 キ77は1944年7月2日午前9時47分満洲の新京を離陸、新京、白城、ハルビンを結ぶ一周865kmのコースを19回飛行、4日19時に新京に着陸した。総飛行距離16,435km、滞空時間57時間11分であった。これは戦時中であったため国際航空連盟未公認の記録であったが、当時の世界最長記録であった。2号機は、この長距離飛行能力でドイツに連絡に行かせるという暴挙のため失われている。

 

 

 

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01_キ102
(画像はキ102 wikipediaより転載)

 

 襲撃機キ93とは、第一陸軍航空技術研究所で開発された襲撃機で全幅19mという巨大な機体であった。1945年4月に試作機1機が初飛行を行ったのちに空襲によって大破、そのまま終戦となった。75mm砲を装備する計画もあった機体で完成していればタンクバスターとして活躍した可能性がある。

 

襲撃機 キ93 〜概要〜

 

性能

全幅 19.00m
全長 14.22m
全高 4.85m
自重 7,826kg
最大速度 624km/h(高度8,300m)
上昇力 4,000mまで4分18秒
上昇限度 12,050m
エンジン出力 2,400馬力(ハ214)2基
航続距離 2,350km
乗員 2名
武装 57mm機関砲(ホ402)1門、20mm機関砲(ホ3)2門、12.7mm機関砲(ホ103)1門
爆装 250kg爆弾2発
設計・開発 安藤成雄 / 第一陸軍航空技術研究所

 

開発

 1943年2月、陸軍航空本部は、第一陸軍航空技術研究所(一技研)、陸軍航空工廠に対してキ93の名称で正式に開発の指示を出した。これに対して一技研では安藤成雄中佐を設計主務者として開発を開始した。陸軍自身が設計開発を行うのは1927年に完成した試製三座軽爆撃機以来、実に16年振りであった。

 1943年5月から設計開始、1945年3月に試作1号機が完成した。初飛行は4月8日に20分間飛行したが、その際事故が発生、ほぼ修理が完了した4月30日に空襲によって完全に破壊されてしまった。試作2号機も製作されていたが、完成直前に終戦となった。

 全幅19mという巨大な機体で、セミモノコック構造で乗員2名で前方に操縦員、後方に同乗者席という配置になっていた。エンジンはハ214M(2,400馬力)でプロペラは直径3.80mの定速6翅プロペラであった。武装は前方固定砲に57mm砲1門(ホ402。弾数20発)、20mm砲2門(ホ5。弾数各600発)、後上方旋回砲として12.7mm旋回機関砲1門(ホ103。弾数400発)で、爆弾搭載量は250〜800kgである。

 防弾性能を非常に重視しており、操縦席前方には厚さ70mmの防弾ガラスと12mmの鋼板の防弾装置、搭乗員席の背部には厚さ15mmの防弾鋼板、燃料タンクはゴムで被覆されており、後方には厚さ10mmの防弾鋼板が設置されていた。

 

生産数

 試作機1機のみ。

 

まとめ

 

 キ93は戦争末期に試作機が完成、1回飛行したのみの機体であった。当時の最先端の技術を投入した機体で計画通りの性能を発揮することが出来れば全幅19mの大型機でありながら双発戦闘機並みの運動性能を発揮して活躍するはずであったが、当時の日本の航空機のエンジンの性能低下は目を覆うばかりであったため仮に量産されていたとしても計画通りの性能を発揮することはなかったであろう。

 

 

 

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01_研三
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ78高速研究機(研三)とは、陸軍が東大航研に依頼した高速実験機で製作は川崎航空機が行った。1939年に計画がスタートし、1943年12月には日本機最速の699.9km/hを記録した。この記録を超える機体は終戦まで登場しなかった。実験機は1機のみ製作され戦後進駐してきた米軍によってスクラップにされた。

 

キ78高速研究機(研三) 〜概要〜

 

 

性能

全幅 8.00m
全長 8.10m
全高 3.20m
自重 1,930kg
最大速度 699.9km/h(高度3,527m)
上昇力  -
上昇限度 8,000m(計画値)
エンジン出力 1,550馬力(DB601A改)1基
航続距離 600km(計画値)
乗員 1名
武装  -
爆装  -
設計・開発 山本峰雄 / 東京帝国大学航空研究所

 

開発

 1939年10月、陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将は、速度世界記録樹立を目標とした速度研究機の開発を東京帝国大学航空研究所所長和田小六に依頼した。当時、世界では航空機の速度世界記録が頻繁に更新されており、日本もその競争に参加しようということであるのだが、いきなり世界記録を目指すことは様々な問題があり難しかった。このため第一段階で700km/h級の中間機を製作、第二弾で800〜850km/h級の記録機を製作するという方針が立てられた。

 当時、東大航研では「研二」と呼ばれる高高度研究機の開発を行っており、高速機の研究は「研三」として進められた。1940年1月には研三委員会が組織され、設計は山本峰雄所員が中心となり、製作は川崎航空機で行われることが決定、1942年12月に1号機が完成、12月26日に初飛行に成功した。

 機体は空気力学的に理想的と考えられる数値を探し出した結果、三式戦闘機飛燕に似たシルエットの風防と排気管、冷却器以外には突起物のない美しい流線形の胴体となった。主翼は桁に新たに開発されたSSDと呼ばれる超超ジュラルミンが採用、高速実験機であることから離着陸に支障のない程度に翼面荷重は高く設定された。このため翼面荷重は220kg/屬販軅錣簇擦2倍に達する高翼面荷重の機体となった。それにしても降着速度はあまりにも高速で脚を損傷する可能性があるため着陸はエンジンを徐々に絞って着陸する推力着陸という手法が採用された。

 風防は重量軽減のため脱着式を採用、搭乗員が乗り込んだ後、機体にネジで固定された。エンジンはメッサーシュミットBf109に採用されたDB601エンジンの改良型で、エンジンの回転数増加、メタノール噴射等の改良を施すことで馬力が1,175馬力から1,550馬力に強化されていた。プロペラは直径2.85m3翅のラチエ電気可変ピッチ式プロペラである。

 研三は小改良を加えながら飛行試験を続け、1943年12月27日の第31回飛行試験では最高速度699.9km/hを記録した。これは当時の日本航空機の最速記録であり、終戦までこの記録を上回る機体は登場しなかった。当初の計画にあった2号機は戦局の悪化のため中止となっている。

 

生産数

 実験機が1機のみ。戦後米軍の手によってブルドーザーでスクラップにされた。

 

まとめ

 

 研三とは日本の航空機の限界に挑戦した実験機であった。もしかするとオクタン価の高い燃料を使用すればさらに高記録を発揮したのかもしれないが、戦後は飛行することなく米軍の手によって破壊されてしまう。日本航空機技術者が世界に挑戦しようとした記念碑的な航空機である。

 

 

 

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01_カ号観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 カ号観測機とは、日本陸軍が制式採用した唯一のオートジャイロで終戦までに98機が生産された。当初の目的は砲兵隊用の着弾観測機としてであったが、太平洋戦争開戦後は一部が対潜哨戒として使用されたがほとんど目立った戦果を挙げることはなかった。

 

カ号観測機 〜概要〜

 

 

性能(一型)

全幅 3.02m
全幅 10.60m
全高 3.10m
自重 750kg
最大速度 165km/h
上昇力  - m
上昇限度  - m
エンジン出力 240馬力(アルグスAs10C)
航続距離 360km
乗員 2名
爆装 60kg爆弾1発
設計・開発 小原五郎 / 萱場製作所

 

開発

02_カ号観測機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年11月、陸軍は砲兵隊の着弾観測の必要性から萱場製作所に観測用オートジャイロの開発を命じた。小原五郎技師を設計主務者として開発を開始、1941年4月にケレットKD-1を修理改造した1号機が完成、5月26日に多摩川飛行場で初飛行に成功、1942年11月までにさらに2機を完成した。これらは、カ号一型観測機として制式採用された。名称の「カ」とは回転翼の頭文字である(1944年に陸軍の作戦名「カ号作戦」と名称が重複したためオ号と改称)。因みに通常、陸軍の航空機には計画番号「キ」が付されるが、このカ号にキ番号が付されていないのは陸軍技術本部の要求により開発されたためである。

 機体は、鋼管製の骨組みに布張り、ローターは鋼管製の桁にベニヤ板を張った3翅ローターで機首の周辺にだけ軽金属の外板を使用した。エンジンは、1号機はジャコブスL-4MA-7、2号機3号機はアルグスAs10を機首に搭載しており、正面のプロペラは2翅固定ピッチである。しかしアルグスエンジンはトラブルが多発したため生産は20機で打ち切られ、以降は1号機と同じジャコブスエンジンを装備している。アルグスエンジン搭載型は一型、ジャコブスエンジン搭載型は二型と呼ばれている。

 ローターで揚力を発生させ、前方のプロペラで前進する方法で約30〜60mで離陸することが可能であり、エンジンが停止した状態でローターの揚力のみで着陸する「オートローテーション」も可能であった。1945年4月にはローターの先に火薬ロケットを取り付けた新型ローターの実験が行われたが実用化はされなかった。カ号は発動機、伝動装置等の製作が捗らず、終戦までに98機が生産されたのみであった。この内、10数機は空襲により被爆、30機はエンジンが付いていなかったため実際に運用されたのは50機前後である。

 

生産数

 98機が生産されたが、エンジンが未装着のものが約30機あったため実際に完成したといえるのは70機程度である。

 

まとめ

 

 オートジャイロとはヘリコプターのようにローターによって推進するのではなく、上方にローター、前方にプロペラという2種類の推進器によって飛行するという過渡期の航空機であった。同時期に米軍はヘリコプターを実用化させており、終戦と同時に軍用オートジャイロは日本から姿を消した。現在でもオートジャイロは主にスポーツ用として活躍している。

 

 

 

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01_p40warhawk
(画像はwikipediaより転載)

 

カーチスP40ウォーホーク

 

性能(P40)

全幅 11.37m
全長 10.15m
全高 3.77m
自重 2,812kg
最大速度 563km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで7分42秒
上昇限度 9.450m
エンジン出力 1,150馬力(V-1710-39)
航続距離 1,207km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 12.7mm機関砲6門(弾数各280発)
爆装 227kg(500ポンド)爆弾1発
総生産数 13.738機(全型)
設計・開発 ドノバン・R・ベルリン / カーチス社

 

 

概要

 P40ウォーホークとは、航空機の名門、カーチス社が製造した戦闘機で1939年に米軍に制式採用されて以降、世界各国で使用されていた。第二次世界大戦中は連合国軍のほぼ全ての国で運用されていた傑作戦闘機である。名称の「ウォーホーク」とは、米陸軍が採用した名称で英軍、ソ連軍ではP40のバリエーションの内、P40からP40C型までトマホーク、P40D型以降をキティホークという名称で呼んでいた。トマホークとはアメリカ先住民が使用していた斧の意味でキティホークとは米国ノースカロライナ州の街の名前である。のちに米国の航空母艦の名称として採用されたことでも有名である。のにち米国にも逆輸入され「トマホーク」「キティホーク」等と呼ばれるようになった。

 1930年代に米軍に採用されたP36は、日本ではあまり知名度は高くないが、世界中で地味に活躍した戦闘機であった。このP36に液冷エンジンを搭載したのがP40である。初飛行は1938年10月4日で液冷エンジンに変更した結果、最高速度が40km/h以上アップ、さらなる試験の結果、最高速度が589km/hにも達することが証明された。このため気を良くした米陸軍は直ちに量産命令を出し、P40として制式採用した。

全戦線を支えた「タカ派」戦闘機

 P40は、第二次世界大戦終了まで様々な部隊で運用され、特に第二次世界大戦中盤まではP39と共に戦力の中核として活躍した。しかし戦争後半になるとP51マスタングやP47サンダーボルトに取って代わられるようになる。P40は、米軍以外でも英軍、ソ連軍を始めとする同盟国で運用されており、日中戦争では早い段階から米軍義勇兵部隊フライングタイガースによって運用されていた。

 このフライングタイガースによって運用されたP40は当初こそ日本空軍のドッグファイトに巻き込まれ苦戦するが、日本機に対して高速で頑丈、重武装であることからその特性を生かし有利に戦いを進めていった。日本が降伏するまでの6年間でフライングタイガースは297機の日本機を撃破、損害は4機のみであったという。実際の戦果や損害は分からないので何とも言えないが互角以上に戦っていたのは間違いないであろう。

 日本機との空戦は主に低高度、中高度の戦いであったため、有利に戦うことができたのだが、本機はそもそも中高度、低高度性能を重視して開発された機体であったため、日本機との戦いを有利に戦うことができたのだが、高高度性能では二速過給器を装備していなかったためドイツ空軍のBf109、Fw190に対しては苦戦することになった。しかし頑丈で信頼性が高かった本機は、戦場の多くの局面で多くの戦果を挙げている。本機で誕生したエースは200人にも達し、内20人は10機以上を撃墜した「ダブルエース」である。特にオーストラリア空軍のトップエースであるコールドウェル大佐は撃墜戦果27.5機の内22機をP40で撃墜している。

 対戦相手の日本軍でも10機程度が鹵獲され運用されていたようであるが、当時の整備兵は「野ざらしにしていても一発でエンジンがかかる」とその技術力の高さに舌を巻いている。同様にフィンランド空軍も一時期、鹵獲した機体を運用していたようである。頑丈さや信頼性の高さから戦後も運用され続け、戦闘機としての役目が終わった後も攻撃機として運用された。最後まで運用していたのはブラジル空軍で1954年に退役している。総生産数は13,738機である。

 

 

 

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01_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ115剣とは、太平洋戦争末期に中島飛行機が開発した特攻専用のレシプロ機である。大量に余ったエンジンを有効活用するために木材や鋼鉄などの入手が容易な材料で簡単に製造できるように設計されていた。完成した試作機は長所が一つもないと言ってもいいくらい性能は劣悪であったため制式採用されることはなかった。

 

キ115剣 〜概要〜

 

性能

全幅 8.60m
全長 8.55m
全高 3.30m
自重 1,690kg
最大速度 550km/h(高度 - m)
上昇力  -
上昇限度  -
エンジン出力 1,150馬力(ハ115海軍名「栄21型」)1基
航続距離 1,200km(増槽装備時)
乗員 1名
爆装 800kg爆弾(または500kg)
設計・開発 青木邦弘 / 中島飛行機

 

開発

02_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島飛行機は工場に大量に残されたハ25(栄12型)やハ115(栄21型)エンジンの活用を考えた結果、簡易的な攻撃機を大量に生産することを思い付いた。これは500〜800kgの爆弾を搭載した600km/h程度の速度の突撃機で脚は離陸後投棄して着陸は胴体着陸とする。さらに機体の材料は木材や鉄板を活用するという「廃材利用機」ともいえるものであった。

 この計画は、暗に特攻を示唆するものであったため、当初は陸軍によって拒否されたが、戦局がひっ迫した1945年1月20日、中島飛行機に開発指示がでた。これに対して中島は青木邦弘技師を設計主務者として開発を開始、わずか1ヶ月半後の3月5日に試作1号機が完成した。

 機体は徹底的に簡素化され、入手しやすい材料によって簡単に大量生産ができるようになっていた。このため主脚にはショックアブソーバーもなく、風防は半解放式で前面はガラスだが、後方のガラスは一部のみであった。離陸には離陸促進用ロケットを使用、爆弾は胴体下面の切り欠きに半分胴体に内蔵した形で搭載するという設計であった。エンジンはハ115(1,130馬力)でプロペラは2.9mハミルトン定速3翅プロペラであった。翼面積が小さく機体重量はそれなりにあるため翼面荷重は212kg/屬販軅錣簇擦2倍という非常に高いものであった。

 審査は3月から開始されたが、視界不良、ショックアブソーバーが無いため離着陸が難しい上に50kg以上の爆弾を搭載するとバウンドして転覆する可能性が高かった。他にも安定性、操縦性、運動性全てが悪い上に強度不足で最高速度も計画値に達していなかった。ため、6月下旬に審査主任の高島亮一少佐は不採用と判定した。この際、キ115を使用した作戦での推定攻撃効果という数値が算出されているが、これによるとキ115の内、30%は離陸に失敗、離陸した70%の内50%は敵機に撃墜される。残りの20%の内対空砲火により15%は撃墜され、5%が命中もしくは命中に近いものとなるが、実際に効果があるのは3%で、さらにこの3%も大きい艦艇に対しては効果は薄いというものであった。つまりは100機出撃して、その内3機が小艦艇に損害を与えることが可能ということである。

 

生産数

03_キ115剣
(画像はwikipediaより転載)

 

 終戦までに105機が生産されている。

 

まとめ

 

 キ115剣は特攻専用に開発されたレシプロ機であった。海軍の桜花と異なり完全な特攻機としてではなく帰還することも想定はされていたが、それは建て前上であり実際には完全な特攻機であったと考えてよいだろう。全ての性能は劣悪であり、爆弾を装備すると離陸時に転覆するという酷い機体であった。それでも実戦配備を要求し続けた上層部に対して審査主任の高島亮一少佐は要求を撥ね付け続けた結果、実戦に使用されることなく終戦を迎えた。

 

 

 

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P-39_Airacobra
(画像はwikipediaより転載)

 

P-39エアラコブラ

 

 

性能(P-39D)

全幅 10.36m
全長 9.21m
全高 3.6m
自重 2,853kg
最大速度 579km/h(高度4,600m)
上昇力 5,000mまで6分24秒
上昇限度  - m
エンジン出力 1,150馬力(アリソンV-1710-35)
航続距離 1,770km(増槽装備時)
乗員 1名
武装 37mm機関砲1門(弾数15発)、12.7mm機銃2挺(弾数各200発)、7.62mm機銃4挺(弾数各500発)
爆装 225kg爆弾1発
初飛行 1938年4月6日
総生産数 9,558機
設計・開発 ベル社

 

概要

 P-39の最大の特徴はエンジンが胴体中央にあることである。このような特殊な設計になった理由としては37mm機関砲という大口径砲を搭載することにあった。この37mmという軽戦車並の大口径砲を搭載するためにはそれまでのようにプロペラとの同期で発射するには37mm砲の発射速度や搭載弾薬量の関係で難しかった。このため37mm砲を前方に配置、エンジンを胴体中央に配置した分けである。同時にこの設計をすることによってP-39はスマートな流線形の胴体を構成することができた。

 技術的な問題として、胴体中央にエンジンを搭載するということは機体先端にあるプロペラへの動力供給を延長したプロペラシャフトによって行うことになるが、P-39の場合は故障や不具合の問題はなかったようである。これはのちに日本の局地戦闘機雷電がプロペラシャフトを延長したことによる振動問題に悩まされたのと対照的である。

 1938年4月6日、試作機XP-39は初飛行を行った。本来、迎撃戦闘機として計画されていた本機は、排気タービンを装着しており、高度6,100mまで5分、さらに同高度で最高速度630km/hという高性能を発揮した。しかし陸軍は排気タービンを外し中高度戦闘機として設計すること指示、エンジンを一段一速過給器のV-1710-35エンジンに変更したためにメンテナンス性は良好となったものの性能は大幅に低下した。

 

 

問題山積

 武装は37mm砲1門と他に機首に12.7mm機銃を装備していたが、これらの武装により重量が増加した上にエンジンを胴体中央に配置するという独特の設計により、P-39は胴体内に燃料タンクを配置するスペースがなく、翼内とさらに投下式燃料タンクとなった。このため航続距離は低下している。

 その他、エンジンを胴体中央に配置したことにより、特に機銃弾を撃ち尽くした後、機体の重量バランスの変化によりスピンが起こりやすくなったことや、後方、上方からの攻撃に対しては脆弱であるという問題があった。逆に地上からの攻撃に対しては耐久性が向上している。

 P-39は1944年8月まで生産が続けられ、総生産数は9,558機である。しかし米陸軍での運用は少なく、半分近くである4,773機がレンドリース法に基いてソビエト連邦に供与された。その他英国も同機を取得しているが、これは37mm砲の代わりに20mm機銃、6基の7.7mm機銃を装備したモデルで675機を発注したものの、性能が不十分と判断し、英国では80機を運用したのみでその他200機はソビエト連邦に送られ、さらに200機はP-400として米軍で採用、一部はオーストラリア空軍で運用された。

 

 

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01_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式戦闘機とは、日本陸軍が1937年に制式採用した主力戦闘機で分類としては軽戦闘機になる。この軽戦闘機としての本機の性能は世界最高で世界の軽戦闘機の頂点を極めたといっていい。最高速度でも前年に制式採用された海軍の九六式艦上戦闘機を上回る究極の戦闘機であった。

 

九七式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 11.31m
全長 7.53m
全高 3.28m
自重 1,110kg
最大速度 470km/h(高度3,500m)
上昇力 5,000mまで5分22秒
上昇限度 12,250m
エンジン出力 610馬力(ハ1乙)1基
航続距離 627km
乗員 1名
武装 7.7mm機銃2挺(八九式固定機関銃弾数各500発)
爆装 25kg爆弾4発
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_九七式戦闘機甲型
(画像はwikipediaより転載)

 

 1935年12月、陸軍は中島、川崎、三菱の3社に九五式戦闘機に次ぐ、次期主力戦闘機の設計研究を命じ、4月には正式に指示が出された。当時、格闘戦を重視した軽戦闘機至上主義であった陸軍の性能要求は、九五式戦闘機と同等の運動性能を持つ上、最高速度が50km/h上回る戦闘機という困難な要求であった。1936年10月、試作1号機が完成、同月15日には初飛行を行った。1937年3月には各社の試作機を破って中島製キ27の採用が内定、12月(9月とも)には九七式戦闘機として制式採用された。

 機体はセミモノコック構造で空気力学的に優れており、徹底した軽量化も行われた。このため脚も構造が複雑で重量がかさむ引込脚ではなく固定脚としている。燃料タンクは翼内のみで通常の航空機のように胴体内には装備されなかった。これは被弾した際に搭乗員を守るための配慮で燃料タンクは主翼内胴体付近に装備され、操縦席床板は厚くして火のまわりを遅くしていた。

 このため航続距離は357〜850kmと短いためこれを補うために増加燃料タンクが翼下に各1個装備することができた。尚、陸軍の強い要望により胴体内燃料タンクを装備した試作機(キ27改)も製作されたが安全性に問題があるため不採用となっている。風防は密閉式涙滴型風防で、エンジンはハ1乙(海軍名「寿」。610馬力)1基でプロペラは直径2.9m金属製2翅固定ピッチ、武装は八九式固定機銃二型2挺(弾数各500発)のみである。

 この九七式戦闘機の構造で革新的であったのは、主翼を一体で製作してその上に胴体を乗せるという方法に変更したことであった。それまでの航空機は、胴体と中翼を一体で製作し、そこに外翼を取り付けるという方法であったが、これだと構造上重量がかさんでしまうという問題があった。それを上記の方法に変更することにより、重量軽減にもなり、さらには機体の強度を上げることも出来るという一石二鳥であった。しかし輸送には不便であったため、胴体は操縦席後方で分割できるようにしていた。この方法はのちに中島製戦闘機、三菱の零戦等でも使用され、現代のジェット機では定番となっている。

 

 

生産数

03_九七式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 生産は中島飛行機で1937年12月から1942年(1940年とも)12月まで2,007機、立川飛行機で1938年から1939年8月まで60機、満洲飛行機で1939年から1942年まで1,315機が生産された。総生産数は3,382機(3,386機)である。

 

まとめ

 

 九七式戦闘機は当時最高性能を誇った戦闘機であった。軽快な運動性能はノモンハンで遺憾なく発揮された。このため世界の戦闘機開発で主流となりつつあった重戦闘機への開発が遅れるという弊害も生みだしてしまった。次期主力戦闘機でも同じく運動性能を重視したため速度も運動性能も今ひとつな一式戦闘機を生み出してしまう。成功体験が次の失敗を生み出してしまうという良い例である。

 

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01_TBD_devastator
(画像はwikipediaより転載)

 

TBDデバステーター

 

 

性能

全幅 15.24m
全長 10.67m
全高 4.60m
自重 2,540kg
最大速度 322km/h(高度2,400m)
上昇力 3.7m / 分
上昇限度 5,900m
エンジン出力 900馬力(P&WR-1830-64ツインワスプ)
航続距離 1,152km(454kg爆弾搭載時)
乗員 3名
武装 7.62mm機銃または12.7mm機銃1挺(前方)、7.62mm機銃1挺
爆装 1000ポンド(454kg)爆弾(または878kgマーク13航空魚雷)1発または
   230kg爆弾3発または
   45kg爆弾12発または
初飛行 1935年4月15日
総生産数 130機
設計・開発 ダグラス社

 

概要

 1934年6月30日に米海軍より発注された雷撃機で1935年4月15日に初飛行をした。このデバステーターは米海軍初の全金属製航空機であり、密閉式風防、折りたたみ翼等ののちの航空機に装備された機能を始めて備えた機体であった。搭乗員は3名で手前から操縦員、爆撃員、無線オペレーター兼後部銃座の射手の順番で搭乗している。中央の爆撃手は爆撃の際には操縦員の下にもぐりこみ、うつ伏せの状態で下部窓からノルデン射爆照準器を使用して爆撃を行うというユニークな形状であった。

 武装は胴体内に魚雷と爆弾が搭載できるが完全な内蔵式ではなく半内蔵式で、さらに翼下に45kg爆弾12発を搭載可能である。後部銃座には7.62mm機銃が装備されていた。エンジンは900馬力P&W R-1830-60エンジンで最高速度は高度2,400mで322km/h、上昇限度は5,900mである。

 

 

実戦での運用

 1937年から米海軍に配備が始まり各空母に配備された。米海軍はこの雷撃機で太平洋戦争開戦を迎えた。初の実戦参加は1942年2月で空母エンタープライズ、ヨークタウンから発進したTBDデバステーターがマーシャル諸島、ウェーク島、マーカス島等の空襲を行った。その後、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦等にも参加する。

 しかしこれらの海戦によりこのTBDデバステーターの性能が現代戦には時代遅れであることがはっきりと証明されることとなった。特に酷いのはミッドウェー海戦で41機のTBDデバステーターが出撃したが、最高速度322km/h、雷撃に際しては185km/hまで減速しなければならないデバステーターは日本機動部隊の直掩を行う零戦隊の格好のターゲットとなり、帰還できたのはわずか7機のみであった。

 これ以降、米海軍はその時点で保有していたTBDデバステーター39機を全て現役から引退させ、一部は大西洋や訓練で試用したものの1944年後半までには完全に使用されなくなった。総生産数は試作機1機を含めて130機で現存している機体はない。

 このTBDデバステーターの米軍での評価は散々であるが、同時期に仮想敵国の日本海軍が制式採用していた九六式艦攻が複葉布張りの固定脚機であったことを考えると開発段階ではかなり先進的な雷撃機であった。因みにこの九六式艦攻が新鋭機として制式採用されたのはTBDデバステーターが初飛行した翌年である。開発当時としては充分な性能を持った機体であったが、長く運用され過ぎてしまったようだ。

 

 

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02_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 高高度戦闘機キ94とは、立川飛行機が開発した高高度戦闘機で独特の形状をした儀燭肇ーソドックスな尾輪式単発単座の況燭ある。これは儀燭陸軍の意向により開発中止になり、オーソドックスな形状で再度試作指示が出たためであった。況燭禄戦直前に1号機が完成、初飛行前に終戦となったが、かなりの高性能が見込まれたことから登場の遅さが非常に悔やまれる機体である。

 

高高度戦闘機 キ94 〜概要〜

 

 

性能(キ94儀弉菽諭

全幅 15.00m
全長 13.05m
全高  - m
全備重量 8,800〜9,400kg
最大速度 780km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで9分56秒
上昇限度 14,000m
エンジン出力 2,200馬力(ハ211ル)2基
航続距離 4,520km
乗員 1名
武装 37mm機関砲2門、30mm機関砲2門
爆装 50kg爆弾2発または
設計・開発 長谷川龍雄 / 立川飛行場

 

性能(キ94況弉菽諭、┰説あり)

全幅 14.00m
全長 12.00m
全高 4.65m
自重 4,690kg
最大速度 712km/h(高度12,000m)
上昇力 10,000mまで17分38秒
上昇限度 14,100m
エンジン出力 2,500馬力(ハ44/12ル)1基
航続距離 1,538km
乗員 1名
武装 20mm機関砲2門(ホ5弾数各200発)、30mm機関砲2門(ホ155驚匿各100発)
設計・開発 長谷川龍雄 / 立川飛行機

 

開発

 

03_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 1943年6月、陸軍は立川飛行機に対して高高度戦闘機の試作を指示した。これに対して立川飛行機は長谷川龍雄技師を設計主務者として開発を開始、同年12月には実物大模型を完成させた。機体は串型双発双胴型で中央胴体の前後にエンジンとプロペラを装備、左右の胴体の後方にはそれぞれ垂直尾翼が付いていた。左右の胴体の後方にある水平尾翼はつながっており、一見、米軍のP38に似た形状に見える。

 高高度での運用に対応するために操縦席は与圧室となっており、エンジンはハ211ル(2,200馬力)を装備していた。これは三菱で開発された金星エンジンの改良型で高高度用に排気タービン過給器を装備していた。武装は37mm機関砲(ホ204)2門と30mm機関砲(ホ155)2門でホ204は側胴前端部にホ155は主翼内に搭載される予定であった。さらに最大500kgの爆弾を搭載することが可能であった。

 1944年8月に試作1号機を完成させる予定ではあったが、実物大模型審査の結果、発動機の装備方法が現実的ではないことや搭乗員の脱出が困難であること等から開発が中止された。

 

01_キ94
(画像はwikipediaより転載)

 

 あまりにも独特な形状のため開発が中止となったキ94であるが、1944年3月、オーソドックスな尾輪式単発単座機として改めて開発が指示された。これもキ94であるが、通常は串型双胴双発型をキ94機改めて開発指示が出された型をキ94兇噺討个譴討い襦

 陸軍は、開発の遅れを取り戻すために当時中島飛行機で開発中であったキ87の設計を極力利用することを要求したが検討の結果、独自の設計を行うこととなり、1944年5月にはキ94気汎瑛佑膨甲川龍雄技師を設計主務者として開発を開始した。

 

 

 

 キ94兇皚儀親瑛諭▲┘鵐献鵑魯211ルでプロペラは直径4.00m4翅プロペラを装備、与圧室、排気タービン過給器を装備、胴体はセミモノコック構造を採用した。速度を重視した翼面荷重236.8kg/屬箸い高翼面荷重の機体でこれは当時の日本の単発戦闘機中最大のものであった。武装は30mm機関砲(ホ155)2門(弾数各100発)、20mm(ホ5)2門(弾数各200発)で主翼に装備された。

 予定では1945年2月には試作1号機が完成することになっていたが、作業の遅れにより7月20日、試作1号機が完成した。8月6日には地上運転が開始され、8月18日には初飛行の予定であったが終戦のため中止となった。

 

生産数

 キ94兇了邵邉,1機のみ完成した他、完成直前の2号機があった。

 

まとめ

 

 キ94は立川飛行機が16年振りに開発した戦闘機であった。立川飛行機は以前から与圧室の研究には一日の長があり、高高度戦闘機の製作には適していたといえる。高高度戦闘機はB29による空襲の可能性が高まるにつれて重要性が増し、陸海軍共に様々な機体が開発されたが、同じような機体があまりに多いことは大きな問題である。陸海軍が協力して機種を絞って開発を行っていれば高性能な機体が大量に実戦配備されたであろう。そうならなかったのが残念である。

 

 キ94と同じハ211ルを装備したキ83

 海軍の双胴高高度戦闘機

 

 

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01_tigercat
(画像はwikipediaより転載)

 

F7Fタイガーキャット

 

 

性能(F7F-3)

全幅 15.70m
全長 13.83m
全高 5.05m
自重 7,380kg(空虚重量)
最大速度 700km/h(高度6,767m)
上昇力 6,096mまで5分24秒
上昇限度 12,405m
エンジン出力 2,100馬力2基(P&W R-2800-34W)
航続距離 2,945km(300gal(1,136L)増槽装備時)
乗員 2名
武装 20mm機関砲4門(各200発)、12.7mm機銃4門(各300発)
爆装 胴体下907kg(2,000ポンド)爆弾1発または
   翼下450kg(1,000ポンド)爆弾2発
設計・開発 ロバート・L・ホール / グラマン社

 

概要

 世界史上類を見ないレシプロ双発艦上戦闘機である。双発戦闘機というのは米国でもP-38ライトニング等多くの成功作があるが、レシプロ艦上戦闘機というのはほとんど例がない。このF7Fを開発したのはグラマン社で、これは同社が以前に試作していたXF5Fの開発経験が生み出した機体といえる。

 機体は双発単胴で主翼は高翼に近い中翼で艦上戦闘機ならではで、上方に折りたたみが可能である。大型の機体であるが、当時計画されていた大型空母(のちのミッドウェイ級空母)に搭載されることが前提であったことも機体が大型化した理由の一つかもしれない。

 開発契約は1941年6月30日に結ばれ開発がスタート、1943年11月2日初飛行したが、現用のF4F、F6Fの生産を優先させたために第二次世界大戦には極少数機を除いて実戦参加はしていない。全幅15.70m、全長13.83m、総重量7トンの巨大な機体であり、武装も20mm機関砲4門、12.7mm機関砲4門という強力なものだった。このため着陸速度が速くなり空母への着艦には不利であった。

 その他、テールフック等にも問題があり、制式採用はされたものの夜間戦闘機として陸上基地から使用されたものがほとんどであった。第二次世界大戦中に初飛行したものの上記のように生産が後回しにされたために初の実戦参加は朝鮮戦争であった。生産は1946年11月まで行われ、運用は主に陸上基地から夜間戦闘機、偵察機としてのものだった。同盟国等に販売、供与されることなく米海軍、海兵隊のみの運用である。1954年に退役。

 

 

F7Fトムキャット?

 当初はタイガーキャットではなく、トムキャットと呼ばれていたがトムキャットとは英語のスラングで「女をあさる男」というような意味があり、さすがに駄目だということでタイガーキャットに変更された。但し、この名称はグラマン社がのちに開発する艦上戦闘機F-14では米海軍が公式に使用している。これは単純に時代が変わったのだろう。

 総生産数は364機でバリエーションは主にF7F-1〜4までの4タイプがある。F7F-1はプラット&ホイットニーR-2800 -22W星型ピストンエンジンを装備、40機弱が製造された。F7F-2は複座夜間戦闘機タイプで65機製造、F7F-3はP&WR-2800-34W星型エンジンと高高度での安定性確保のために大型化された垂直尾翼が特徴である。189機、複座夜間戦闘機タイプのF7F-3Nが60機製造されている。最終型のF7F-4は強度と安定性を高めた機体で空母での運用が認められたものの12機のみの製造で終了している。

 

 

 

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01_P38_Lightning
(画像はwikipediaより転載)

 

P-38ライトニング

 

性能

全幅 15.85m
全長 11.53m
全高 3.00m
自重 5,800kg
最大速度 667km/h(高度7,620m)
上昇力 1,448m / 分
上昇限度 13,400m
エンジン出力 1,475馬力(アリソンV-1710-111/113液冷エンジン)
航続距離 1,770km
翼面荷重 261kg / 立方メートル
乗員 1名
武装 20mm機関砲1門(弾数150発)、12.7mm機銃4挺(弾数各500発)
爆装 2,000ポンド(908kg)爆弾2発または
   500ポンド(227kg)爆弾4発または
   ロケットランチャー4基、5連装HVAR2基
設計・開発 クラレンス・レオナルド・ジョンソン / ロッキード社

 

開発

  1937年2月、米陸軍はドイツや日本の戦闘機に対抗できるような高速戦闘機の開発を各航空メーカーに命じた。これに対してベル・エアクラフト社はB-4(のちのP-39)、当時、旅客機専門メーカーであったロッキード社はモデル22を設計した。これがのちのXP-38である。

 この機体は高速を発揮するために双発、さらには双胴で双胴の中央に胴体がまた一つ入る三胴という特殊な形態をしていた。パイロットは中央の胴体前部に搭乗、左右の胴体は後方で昇降舵で繋がっていた。垂直尾翼は2枚である。エンジンは1,150馬力液冷式V型12気筒アリソンV-1710-29/17エンジンでトルクを打ち消すために左右反転するように設計されており、さらに高高度での戦闘用に排気タービン過給器を装備していた。

 形態上、プロペラに邪魔されることなく、コックピット前方に武装を集中できるため武装は強力で、25mm(23mm)機関砲1門、12.7mm機関銃4挺が搭載予定であった。設計はわずか1年半で完成、1939年1月27日に初飛行に成功した。細部に問題はあったものの性能は素晴らしく、米陸軍が要求した最高速度640km/hを35km/h上回る675km/hを達成した。これに満足した陸軍は同年9月にP-38として制式採用した。この際に武装は37mm機関砲1門、12.7mm機関銃4挺に変更されている。

 

 

類稀なる高性能機

 対ドイツ戦では爆撃機の護衛や戦闘爆撃機として使用され、双胴の悪魔と呼ばれていた。対日本戦でも初期の段階から投入され、外観的な特徴から「メザシ」または「ペロ八」等というあだ名が付けられていた。「ペロ八」というのは「ペロ(ペロ)っと食べられる(撃墜できる)P38(八)」という意味である。

 P-38は翼面荷重が261kg/立方メートルと重く、零戦の108kg/立方メートルの2.5倍であった。このため格闘戦に持ち込まれると弱く、日本のパイロットに簡単に撃墜されてしまった。このためペロ八と呼ばれていたのだが、これはP-38が太平洋戦域に投入された初期の話で中期以降は格闘戦を避け、一撃離脱戦法に変えたため日本軍にとって脅威となった。

 このP38はもっとも多くの日本機を撃墜したと言われており、事実、米軍のトップエースであるリチャード・ボング少佐(40機撃墜)、二位のマクガイア少佐(38機撃墜)等はどちらもP-38を使用している。航続距離も長大であり、この航続距離を生かして山本五十六連合艦隊司令長官の乗機を撃墜したこともあった。

 このように高性能機であったため、英空軍からも購入希望があったが、軍事機密である排気タービン過給器を取り外し、プロペラも左右同方向に回転するというかなり性能を落としたモンキーモデルを渡したため、結局、受取りを拒否されている。

 

実戦での運用

 1942年5月29日のアリューシャン列島で初めて運用が開始。初戦果は同年8月9日の九七式大艇の撃墜である。しかし以降P-38は太平洋戦域よりもヨーロッパ戦線に優先的に配備されており、1942年8月からヨーロッパ戦線に配備されたのに対して、本機が太平洋戦域に配備されたのは同年末であった。

 戦闘機としても高性能であったが、偵察機、夜間戦闘機としても優秀であり、ヨーロッパでの航空写真の90%がP-38写真偵察機型によるものである。

 実戦でのP-38は当初はエンジントラブルや急降下での振動等の問題が起こったが、エンジンの改良、プロペラの回転方向を外向きに変更することで徐々に信頼性の高い機体となっていった。第二次世界大戦のほぼ全期間で活躍、総生産数は10,037機である。

 米国参戦前の1941年9月から生産が始まり、終戦の年である1945年まで生産され続けた稀有な機体である。米陸軍では1949年で全機退役、イタリア空軍、ホンジュラス、ドミニカ共和国、中国等で運用された。最後まで運用していたのはホンジュラス空軍で1965年に最後のP-38が退役している。

 

 

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01_P-36C_Hawk
(画像はwikipediaより転載)

 

P36 ホーク

 

性能

全幅 11.38m
全長 8.69m
全高 2.57m
自重 2,072kg
最大速度 504km/h(高度3,050m)
上昇力 1,036m / 分
上昇限度 10,363m
エンジン出力 1,050馬力(P&W R1830-13 ツインワスプエンジン)
航続距離 1,706km
乗員 1名
武装 12,7mm機銃1挺、7.62mm機銃1挺
初飛行 1935年5月6日
総生産数 1,115機
設計・開発 ドノヴァン・リース・バーリン / カーチス・ライト社

 

概要

 P36は、全金属製で単葉、密閉式コックピット、引込脚を備えるという米陸軍初の近代的戦闘機であった。しかし、1935年5月の米陸軍次期主力戦闘機のトライアルでライバル機のP-35に敗れてしまう。しかしヨーロッパ情勢が悪化していることを考慮して米陸軍は、エンジンをP&W R1830に換装した上でP36を採用することに決定、1938年に制式採用。7月7日に210機の生産契約が結ばれた。これは平時における当時最大の発注であった。

 初飛行は1935年5月6日で、当時の常識として操縦席、燃料タンクの防弾は考慮されていない。主脚と共に尾輪も引込式であるが、主脚の引込脚の構造はボーイング社が開発したものである。主翼が大きく軽量であったため翼面荷重が低く、旋回性能、上昇性能で優れていた。総生産数はP36が215機、輸出用のホーク75が900機である。

 太平洋戦争開戦時にはすでに時代遅れと看做されていたが、1941年12月7日(米国時間)、日本軍の真珠湾攻撃の際にハワイに配備されていた5機のP36が出撃、1機を撃墜されたものの、零戦2機、九九式艦爆1機を撃墜したとしている。これが米軍での唯一の使用である。

 

 

諸外国での運用

 このP36は米軍ではほとんど使用されなかったが、諸外国に売却された。特に大量に購入したのはドイツの脅威を感じていたフランスでドイツに降伏するまでに316機のP36を受領、カーチスH75と命名、開戦後はドイツ軍相手に敢闘した。フランスの降伏後はこれらの内、229機は英国に逃亡、残存機はドイツ軍に接収された。

 英国では当初P36に関心を示したものの購入はしなかった。しかしドイツに降伏したフランスから脱出したP36、229機を保有することになった。これらの機体はモホークと命名され、インド、ビルマ、南アフリカの防衛で使用された。

 ノルウェーは19機を購入。ドイツの侵攻により13機が鹵獲されフィンランドに売却されている。フィンランドでは直接米国から購入したものでなないが、ドイツがフランス、ノルウェーで鹵獲した機体を44機ドイツから購入。対ソ戦において運用している。本機で12機以上を撃墜したエースも存在する。

 その他、中国、タイ、アルゼンチン等が購入しているがこれらは固定脚の廉価版である。アルゼンチンではこの固定脚のホーク750をライセンス生産、カーチス社の30機とライセンス生産の20機が存在する。武装は11.35mmマドセン機関銃1挺と7.65mmマドセン機関銃3挺でパイロンに14kg爆弾10発を搭載することが可能であった。もっとも最後まで運用され、1954年11月に退役している。

 さらにブラジルでは米軍より10機のP36Aを受領、イランには10機が納入されたが英国に鹵獲された他、ペルーは28機のP36が米国より受領、オランダでは24機を購入、本土がドイツに降伏したため蘭領インドネシアに送られ日本機と交戦している。ポルトガルも英国より12機を移管され運用している。

 

バリエーション

 初期生産型のP36A、ターボ過給機型の試作機P36B、エンジンをP&WR-1830-17(1,200馬力)に変更した機体、その他武装の違いにより数種類のバリエーションがある。

 

 

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01_XF5F_skyroket
(画像はwikipediaより転載)

 

グラマンXF5F

 

性能

全幅 12.8m
全長 9.80m
全高 3.45m
自重 3,630kg
最大速度 616km/h(高度6,096m)
上昇力 1,220m/分
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,200馬力(ライトXR-1820-40/-42空冷星型9気筒レシプロエンジン)
航続距離 1,800km
翼面荷重163kg/立方メートル 乗員 1名
武装 23mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門、または12.7mm機銃4門
爆装 75kg爆弾(165ポンド)2発または
   2.4kg空対空爆弾20発または
設計・開発 ロバート・L・ホール / グラマン社

 

概要

 グラマンの技師、ロバート・L・ホールによって設計された試作艦上戦闘機。エンジンは1,200馬力ライトXR-1820-40/-42空冷星型9気筒レシプロエンジンを2基装備、プロペラは三翅で、それぞれ逆回転する二基のエンジンによってトルクを打消し機体安定性を高めている。さらにエンジン間の距離を縮めることによりロール率を高める効果も期待された。

 1940年4月1日初飛行、双発エンジンで航続距離の長い上に最高速度は616km/hを発揮、独特の形状から注目を集めたが、構造の複雑さ、母艦での運用を考慮すると保守的な単座戦闘機に軍配が上がった。この時点ですでにF4Uコルセア戦闘機が最高速度650km/hを記録していたこともあり、制式採用されることはなく試作1機のみで終わった。

 

 

制式採用はされず

 グラマン社ではデータを採取するためのテスト機として運用されたが、1944年12月11日、主脚の故障で胴体着陸、機体は大破したため破棄された。改良型としては陸軍向けに艦上機の装備を取り外し排気タービン過給器付きライトR-1820-67/-69を装備、機種を流線形に成形したXP-50があったが、飛行中に過給器が爆発して墜落してしまった。

 XF5Fは制式採用されることはなかったが、この試作機から得られた経験は当時、グラマンが開発していた双発戦闘機XF7F-1タイガーキャットの設計に生かされた。海軍の宣伝に利用されたため知名度は高い。総飛行回数211回、総飛行時間155.7時間。米国ではコミック『ブラックホーク』の主人公の愛機として有名である。

 

 

 

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01_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 零式水上偵察機(零式三座水偵)とは、愛知時計電機(のちの愛知航空機)が開発した三座水上偵察機で、当時としては快速で安定性が良い傑作機で、日中戦争から太平洋戦争全般にわたって偵察任務だけでなく、船団護衛、哨戒、魚雷艇攻撃等に活躍した。

 

零式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.49m
全高 4.70m
自重 2,524kg
最大速度 367km/h
上昇力 3,000mまで5分27秒
上昇限度 7,950m
エンジン出力 1,080馬力(金星43型)1基
航続距離 3,326km(14.9時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺(弾数582発。97発弾倉6個)
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発または
設計・開発 松尾喜四郎 / 愛知航空機

 

開発

02_零式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年初頭、海軍は中島飛行機に対しては十二試二座水偵、愛知時計電機(のちの愛知航空機)と川西航空機に対しては十二試二座水偵と十二試三座水偵の2機種の開発を命じた。この指示を受けた愛知は当時、十一試艦爆(のちの九九式艦爆)、十一試特種偵察機(のちの九八式水上偵察機)を開発中であり、さらに2機種の水上機の開発に力を割く余裕はなかった。

 このため二座水偵の開発を先行、その成果を三座水偵に反映させるという方法で対応した。設計主務者は松尾喜四郎技師で開発を開始した。設計は順調に進んだものの開発中の航空機が多数あったため艤装関係の設計や試作機の製作が遅々として進まなかったため期日に間に合わず失格となってしまった。

 しかし愛知の上層部は研究資料とするために開発の継続を指示、1939年1月1日に試作1号機が完成、4月には初飛行に成功した。飛行試験では小さな問題は発見されたものの大きな問題はなく、最高速度も要求値に達しており安定した素直な機体であった。

 競合していた川西航空機の試作機は期日には間に合ったものの全体的に性能要求には達しておらず、さらにはテスト中に事故が続いたため審査は中止となっていた。このため海軍は愛知の試作機に注目、1939年7月、空技廠から担当者を派遣してテストを行った。その結果、愛知の試作機は直ちに海軍に領収された。

 海軍での試験でも好成績を発揮、12月には制式採用が内定、1940年12月17日、零式水上偵察機として制式採用された。生産は制式採用前から始まっており、1940年9月30日には量産一号機が完成している。因みに生産は愛知では上記の理由で生産能力が限界を超えていたため、広海軍工廠、九州飛行機で主に生産が行われた。

 機体は全金属製セミモノコック構造で主翼は金属製で一部が木製・羽布張り、格納時は主翼の中程から折り畳めるようになっていた。乗員は操縦員、偵察員、電信員の3名で偵察員は爆撃手も兼ねている。風防は完全密閉式である。

 エンジンは三菱製金星43型(1,080馬力)でプロペラは直径3.1m3翅定速プロペラであった。武装は九二式7.7mm旋回機関銃で97発入りドラムマガジンを6個搭載していた。爆撃兵装は60kg爆弾4発、または250kg爆弾1発で60kg爆弾の内2発は翼下、2発は胴体内に搭載することが可能であった。

 

 

二号

 初期の生産型と大きな変更点はないが、フロートの支持方式が張線から支柱に変更された他、初期生産型ではスピナ無しの機体が多かったが、スピナが標準装備となった。後期生産型からは排気管が推力式単排気管に変更された。

 

その他バリエーション

 11甲型は、1944年11月に制式採用された三式空六号無線電信機4型(レーダー)を装備した機体で、同じく1944年11月に制式採用された11乙型は、磁気探知機装備型である。他には、1944年3月に制式採用された複操縦式の零式練習用水上偵察機、魚雷艇攻撃用に偵察席に20mm機銃1挺を搭載した魚雷艇攻撃機型、戦争末期に魚雷を搭載できるように改造された雷撃機型があった。

 

生産数

 愛知時計電機で1938年から1942年までに133機、1942年から1945年までに九州飛行機で1,200機、広海軍工廠で90機が生産された。合計1,423機である。終戦時には約200機が残存していた。

 

まとめ

 

 零式水上偵察機は、戦艦や巡洋艦にも搭載された他、水上機母艦や基地航空隊にも配属された。有名なR方面部隊にも零式三座水偵は配備されていた。四方を海に囲まれた日本にとって水上機の必要性は高く、日本海軍は他の海軍とは比較にならない程水上機の開発に熱心であった。このため多くの名機が生まれた。特に初期のソロモン方面での戦闘では、滑走路が不要な水上機は重宝されたが、艦上機、陸上機には性能面では太刀打ちできず多くの損害を出した。

 

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01_helldiver
(画像はwikipediaより転載)

 

SB2Cヘルダイバー

 

 

性能(SB2C-4)

全幅 15.16m
全長 11.18m
全高 4.01m
自重 4,784kg
最大速度 475km/h(高度5,100m)
上昇力 9.1m / 秒
上昇限度 8,900m
エンジン出力 1,900馬力(R-2600-20ツインサイクロンエンジン)
航続距離 1,875km
乗員 2名
武装 20mm機関砲2門、後席7.62mm機銃2挺
爆装 胴体内最大910kg
   翼下230kg爆弾2発または
   127mmロケット8発
設計・開発 ドノヴァン・リーズ・バーリン / カーチス・ライト社

 

概要

 SBDドーントレスの後継機として開発された機体で、胴体内に1,000ポンド(約450kg)爆弾を搭載することができる。初期型はライトR-2600ツインサイクロンエンジンに三翅プロペラが装備されていた。試作機は1940年12月18日に初飛行を成功させるが、1941年2月に墜落事故を起こし、さらに同年末にも事故と複数回の事故を経験している。

 これはSB2Cの機体設計の問題で、SB2CはSBDドーントレスに比べ機体が大型化、重量も増加しているが、空母のエレベーターの寸法に合わせて胴体を短くしたためにバランスの悪い機体となってしまった。「寸詰まり」の胴体のため、不安定で失速しやすい上に補助翼の反応も悪かったために非常に扱いにくい機体であった。さらに尾輪とフックの故障も発生、その他電装及び油圧システムにも故障が多かったため、操縦員、整備員ともに敬遠された機体であった。機首は長かったため視界不良により空母への着艦も難しかった。このためSB2Cの運用を拒否、旧来のSBDドーントレスに戻した部隊もあった。

 

 

実戦での運用

 初陣は1943年11月11日で、空母バンカーヒルの部隊がラバウル軍港を攻撃したものだった。以降、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦等、終戦まで活躍した。SBDドーントレスほど目立った活躍はしていないが、1944年11月13日には軽巡木曽を大破した他、戦艦武蔵、大和の撃沈にも貢献している。陸軍でもA-25Aとして制式採用、900機が購入されたが目立った活躍はしていない。

 これは本機の性能以外にも、当時、空対地ロケットの性能が向上し、F6FヘルキャットやF4Uコルセア、P-47サンダーボルト等が爆撃機の任務を行えるようになっていたため急降下爆撃機という存在が不要になったという側面もある。このため本機は米軍最後の急降下爆撃機となった。それでも戦後の1947年まで米海軍で現役、さらに1950年まで米海軍予備役で運用と意外に長寿を保っている。

 因みに、本機の問題としてはもう一つ航続距離の短さという問題があった。これはレイテ沖海戦の際に出撃した51機のSB2Cの内、帰還したのは5機のみで46機は航続距離の不足により不時着したことにもに如実に現れている。

 

米軍以外での運用

 米軍以外では、オーストラリア空軍にも10機が配備されたが、性能試験用に1機が使用されたのみで、後にその1機も含めて全て米国に返却している。またイギリスにもカナダ製SB2CであるSBWが26機が納入されたが、実戦では使用されていない。その他、フランスが110機、ギリシャが48機、イタリアが42機運用した他、ポルトガル、イタリア、ポルトガル、タイの海軍航空隊で使用された。第二次世界大戦後では、インドシナ戦争、ギリシャ内戦でも使用されている。最も最後まで運用したのはイタリアで1959年まで使用している。

 

バリエーション

 バリエーションは主にSB2C-1から-5まで5種類あり、SB2C-1が初期型で12.7mm機関銃4挺(C型では20mm機関砲2門)、7.62mm後部機銃1門を装備しており978機製造された。SB2C-2はフロートを装備した水上機試作機であるが、SB2C-1を改造した1機が試作されたのみである。SB2C-3は1,900馬力R-2600-20エンジンと4翅プロペラを装備された機体で1,112機製造。SB2C-4は翼下に5インチロケット砲または1,000ポンド(454kg)爆弾ラックを装備した型で2,045機製造。SB2C-5は最終型でSB2C-4の燃料タンクを増量、風防の形状が変更されている。970機が製造された。総生産数は7,140機である。

 

 

 

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01_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機秋水とは、太平洋戦争末期に日本陸海軍によって計画されたロケット戦闘機である。開発は三菱重工でドイツのMe163の設計を元としているが、設計図の一部しか日本には届かなかったため独自開発の部分が多い。1号機は1945年7月に初飛行をしたが上昇中にエンジン停止、滑空の後に大破した。2回目の飛行を準備中に終戦となる。

 

局地戦闘機 秋水 〜概要〜

 

性能

全幅 9.5m
全長 5.95m
全高 2.7m
自重 1,445kg
最大速度 800km/h(高度10,000m)※(900km/h説もあり)
上昇力 10,000mまで3分30秒
上昇限度  - m
エンジン出力 推力1,500kg(特呂二号)
航続距離 高度10,000mまで全力上昇後、800km/hで1分15秒
乗員 1名
武装 30mm機銃2挺
設計・開発 高橋己治郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 1944年3月10日、日本海軍はドイツ航空省に対してロケット機、ジェット機の技術譲渡交渉を正式に申し入れた。ドイツでもジェット機、ロケット機は試作段階であり、完成した図面を日本側に提供することは不可能であったが、現時点で揃えられる限りの資料がドイツ側から日本側に提供された。これらは主にエンジンの製造図面、ジェット機、ロケット機の設計図面等で、ドイツ側から日本に送られたUボート(呂501潜)と日本から来航したイ号29潜に分けて日本へ送られた。

 ドイツを出発した呂501潜は大西洋上でイギリス海軍駆逐艦の攻撃により撃沈されてしまうが、イ号29潜は無事にシンガポールに到着したが、シンガポールから日本へ向かう途中に米潜水艦の攻撃により撃沈されてしまった。しかし、シンガポールで同乗していた巌谷技術中佐が一部資料を所持した上で空路日本に帰国したため日本は貴重な図面を得ることが出来た。

 以降、潜水艦による交流は成功しなかったが、一部のデータは、ドイツ駐在の海軍技術者の手によって暗号で送られた。

 

開発

02_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 ドイツで実用化されたロケット戦闘機Me163コメートの資料を遣独潜水艦によって入手した日本軍は、陸海軍共同で開発を開始することを決定した。設計方針の違いから意見が対立したものの結局、海軍名秋水、陸軍試作機番号キ200として三菱重工によって開発することとなった。

 1944年8月7日、陸海軍は三菱重工に対して試作機の開発を正式に指示した。これに対して三菱重工は高橋己治郎技師を設計主務者として開発を開始した。資料がドイツから届いたといっても届いた資料は簡単な図面と設計説明書等、ごくわずかであったが、1944年11月には設計完了、12月には試作1号機が完成した。

 形状はMe163とほとんど変わらなかったが、Me163が20mm機銃を搭載したのに対して秋水は30mm機銃を搭載したためもあって全体的に秋水よりも少しだけ大型化していた。主翼の桁、垂直尾翼は木製で胴体はジェラルミン製でセミモノコック構造、外板もジェラルミンを使用していた。

 降着装置は主車輪と尾輪、橇によって構成されており、離陸時には主車輪を使用、離陸完了と同時に投下、着陸時は橇を使用する構造になっていた。武装は30mm機銃であるが、同じ機銃であっても海軍は五式30mm機銃、陸軍は口径30mmホ155機関砲を搭載する計画であった。

 エンジンは特呂二号(海軍名「KR10」)で秋水の開発以前から研究されていたもので水素に水化ヒドラジンとメタノールの混合液を反応させ高温高速ガスを発生させるというものであった。開発の中心になったのは三菱の持田勇吉技師であったが、開発を主導していたのは陸軍で海軍空技廠の技術も必要という複雑な中での開発であった。試作機の完成と同時にエンジンも完成するはずであったが、未知の分野であり資料も乏しかったため開発が難航、完成は1945年6月になった。

 

 

練習用グライダー秋草

03_秋水
(画像はwikipediaより転載)

 

 この秋水の搭乗員訓練用に実物と同じ大きさ、形状のグライダーも製作された。これは無尾翼滑空機秋草(MXY8。陸軍名「ク13」)で1944年12月26日に初飛行に成功している。この初飛行は高度3,000mまで航空機により曳航されたのち切り離されるというものでテストパイロットは秋水のテストパイロットでもある犬塚豊彦大尉で、犬塚大尉の操縦により無事に着陸に成功した。

 さらには重滑空機と呼ばれる実機から動力装置、タンク類、兵装等を取り除いた機体で2機が製作され陸海軍に各1機引き渡された。初飛行は、1945年1月8日に犬塚大尉の手によって行われた。高度1,700mまで曳航された後、滑空しながら無事に着陸した。陸軍でもク13(海軍名「秋草」)や重滑空機の試験を行っていたが、1945年8月10日、訓練中の事故により機体は大破、搭乗員は重傷を負った。

 秋水の初飛行は1945年7月7日で滑空機と同じく犬塚大尉の手によって行われたが、上昇中にエンジンが停止、飛行場に滑り込むことには成功したものの機体は大破、犬塚大尉は重傷、翌日に死亡した。原因は燃料を1/3に減らした状態で試験を行ったため、上昇中に機体の姿勢と加速の関係で燃料取り出し口に燃料が入らなくなってしまったことであった。この燃料を1/3に減らしたのは秋水部隊である312空司令柴田武雄大佐が傾倒していた新興宗教による「お告げ」が原因であったとも言われている。

 

キ202 秋水改(計画のみ)

 秋水(キ200)の航続時間延長型である。全体的に秋水よりも一回り大きく、エンジンは特呂三号液体燃料ロケットで最大飛行時間が秋水の6分36秒から10分28秒に増大していたが、実現さえることなく計画のみで終わった。他にも武装を30mm1挺、車輪を廃してカタパルト発射式としたJ8M2等も計画されていた。

 

生産数

 試作機が2機、量産機が5機完成していた。他にも10機がほぼ完成という状態であった。終戦時には5機が残存していた。内3機を米軍が接収、米国で1機のみが現存している。

 

まとめ

 

 秋水はそれまで別々に同じような性能の航空機を開発していた日本陸海軍が共同で開発した画期的な機体であった。しかし遅きに失した感はある。秋水は実用化されなかったものの、仮にされたとしても燃料の調達や整備、生産、秋水自体の安全性から見ても戦果は挙げられなかった可能性が高い。

 

 

 

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01_九八式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式水上偵察機とは、日本海軍のお家芸である夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の水上機であった。水雷戦隊旗艦に搭載されて運用されたが、夜襲水雷戦の重要度が下がったことやレーダーの登場等により後継機は製作されなかった。日中戦争から太平洋戦争初期まで活躍した。

 

九八式水上偵察機 〜概要〜

 

性能

全幅 14.49m
全長 10.71m
全高 4.52m
全備重量 3,300kg
最大速度 217km/h
上昇力 3,000mまで18分35秒
上昇限度 4,425m
エンジン出力 620馬力(九一式22型水冷)
航続距離 2,065km(15時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺
設計・開発 森盛重 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 夜間偵察機(夜偵)とは水雷戦隊の夜襲を重視した日本海軍独自の機種で、水雷戦隊の夜襲時に敵艦隊に夜間接触するための専用の偵察機である。この夜間接触専用の機体を開発したのは日本海軍だけである。最初の夜偵は1932年に初飛行した愛知時計電機製六試夜間水上偵察機で飛行艇の形式を採用していた。これは6機製作されたが制式採用とはならず民間航空会社に払い下げられた。そして1936年7月13日、初めて夜間偵察機として愛知製九六式水上偵察機が制式採用された。

 

開発

 九六式水偵が制式採用された1936年10月1日、海軍は愛知と川西に十一試特種偵察機(E11A1)の開発を指示した。これに対して愛知は森盛重技師を設計主務者として開発を開始、翌年の1937年6月に試作1号機を完成させた。十一試特偵の形状も今までの夜偵と同様の飛行艇型で複葉単発、金属製の骨組みに羽布張りであった。機体をフロート付きの水上機ではなく飛行艇の形状にしたのは夜間の離着水を容易にするためで、風防は密閉式の涙滴型風防でエンジンは、愛知製水冷九一式22型(500馬力)で上翼中央に取り付けられた。プロペラは木製4翅、カタパルトによる射出が可能で主翼は上下共に後退角が付いており、後方に折り畳むことができた。

 性能は、最高速度が216.7km/h、高度3,000mまでの上昇時間が18分35秒、実用上昇限度が4,425m、航続距離が2,065kmであった。競合していた川西も試作機を提出したが、最高速度こそ231km/hと愛知製試作機よりも上だったものの全体的には愛知製が優れており、1938年6月27日、九八式水上偵察機として制式採用された。

 

 

生産数

 1937年から1940年までに試作機と増加試作機合わせて17機が生産された。終戦時には5機が残存している。

 

戦歴

 制式採用された九八式水偵は、水雷戦隊旗艦に配備された。1939年には軽巡川内、那珂の2隻に搭載、太平洋戦争開戦時には第一水雷戦隊旗艦軽巡阿武隈、第二水雷戦隊旗艦神通、第三水雷戦隊旗艦川内、第四水雷戦隊旗艦那珂の4隻にのみ搭載されている。水雷戦隊は他に第五、第六があるが、第五水雷戦隊は九四式水偵装備、第六水雷戦隊旗艦の夕張は航空機搭載能力を持っていなかったために九八式水偵は搭載されていない。

 九八式水偵の搭載艦はわずか4隻であるが、これらの艦艇にも任務に応じて九四式水偵が搭載されており、実際に搭載されていた機体は極少数である。太平洋戦争では、当時第五水雷戦隊旗艦であった神通に搭載されていた九八式水偵がスラバヤ沖海戦で11時間にわたり敵艦隊の夜間接触を行っている。但し、これも九四式水偵であったとする資料もある。

 実際の運用では夜間水偵という使用目的が限定された機種というのは使い勝手が悪かったのだろう。編成表には搭載する予定になっていても実際には零式水偵が搭載されている場合が多い。さらに開発時に想定されていた艦隊決戦も航空機が主力となったために実現することはなく、九八式水偵は姿を消していった。

 

まとめ

 

 夜間偵察機は艦隊決戦、夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の機種であった。夜間であるため戦闘機からの攻撃は考慮する必要はなかったが、代わりに長時間滞空出来る必要があった。このため九八式水偵は15時間に及ぶ滞空能力を持ち、演習時などには黒単色に塗装された本機が一晩中艦隊の上空に貼り付いている姿は非常に不気味であったという。夜間偵察の重要性が低くなったのと零式水上偵察機で代用可能であったため、本機以降、夜間偵察機という機種は制式採用されていない。

 

 

 

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01_景雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 陸上偵察機景雲とは、日本海軍の陸上偵察機である。陸偵の重要性は訴えられていたが、それまでは九八陸偵、二式陸偵、百式司偵と転用してきた海軍が初めて専用の陸偵として開発した唯一の機体で、エンジンは液冷ハ70を胴体中央に配置する等意欲的な機体であった。1942年に開発が開始、1945年5月に初飛行するが生産されることなく終戦となった。景雲改としてジェット機化の計画もあった。

 

陸上偵察機 景雲 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 13.05m
全高 4.24m
自重 6,015kg
最大速度 741km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで21分00秒
上昇限度 11,700m
エンジン出力 3,400馬力(ハ70)1基
航続距離 3,611km
乗員 3名
武装 なし
爆装 なし
設計・開発 大築志夫 油井一 / 空技廠

 

海軍陸上偵察機の流れ

 海軍は洋上での活動が主であるため陸上偵察機に関してはほとんど関心を持たなかったが、1938年になると陸上偵察機の必要性が主張されるようになる。早速同年には十三試高速陸上偵察機の開発が計画されるが、陸軍の九七式司令部偵察機を海軍用に改造して使用することが決定したために開発中止となる。この陸偵が1939年11月に制式採用となった九八式陸上偵察機で、これは陸軍の九七式司偵のエンジンを瑞星12型(780馬力)に換装した機体であった。

 この九八陸偵は戦闘機隊を中心に配備され、日中戦争から太平洋戦争開戦後まで縦横無尽に活躍する。この九八陸偵の後継機として十五試陸上偵察機の開発が計画されるが、結局発注されずに終わっている。代わりに後継機として制式採用されたのが十三試双発戦闘機を転用した二式陸上偵察機である。同時に一部部隊では陸軍の百式司偵を譲り受けて使用している。

 1942年、次期陸上偵察機として十七試陸偵が海軍航空技術廠(空技廠)に発注された。空技廠では大築志夫技術少佐を設計主務者として開発を開始したが、性能面で用兵側との折り合いがつかず、長距離偵察機的な性格を持つ十七試陸偵の必要性が薄れてきたこともあり計画は中止された。長距離偵察任務の必要性は薄れてはいたが、局地偵察機の必要性は高く、1943年、改めて空技廠に十八試陸上偵察機景雲として開発が指示された。

 

開発

 十八試陸上偵察機景雲(R2Y)の開発を指示された空技廠は十七試陸偵の設計主務者であった大築少佐を設計主務者として開発を開始したが、戦局の悪化に伴って試作機の整理の対象とされてしまった。数ヶ月後の1945年春、この景雲をジェット機化した景雲改の計画が持ち上がったため景雲の開発が再開される。開始時の設計主務者大築少佐は転出してしまったため、油井一技術少佐を設計主務者として開発を再開した。計画が中断された時点では設計はほぼ完了しており、試作機も6号機までが製作中の状態のままで放置されていたため、1945年4月末には試作1号機が完成した。

 形状は独特で、葉巻型の胴体の先端に操縦席、その後方両側に偵察席、通信士席が並び、さらに後方胴体中央部にエンジンが配置されるというものであった。エンジンは液冷熱田30型を2基並列に並べたハ70/01型(3,400馬力)エンジンで3.9mの延長軸によって先端のプロペラを回転させるという機構であった。プロペラは当初は二重反転プロペラが予定されていたが、実用化できる見込みが薄かったため直径3.8mの定速6翅プロペラに変更された。この構造から外観的には、主翼は操縦席の後方に位置する現在のジェット機に近い形状となり操縦席の視界は非常に良好であった。

 初飛行は1945年5月27日で、さらに29日には第2回目の飛行が行われ、低空を10分ほど飛行したが、エンジン室で火災が発生したため緊急着陸をした。第3回目の飛行も予定されていたが改修・修理中に終戦となった。終戦直後に爆破してしまったため本機は現存していない。

 

景雲改(R2Y2)

 エンジンを三菱重工で開発中のネ330を2基並列に搭載した型でのちのF86セイバーのように機首に空気取入口を設ける予定であった。計画値は最高速度741km/h(高度10,000m)、783km/h(高度6,000m)で、上昇時間は6,000mまで7分、実用上昇限度は10,500m、航続距離1,269kmであった。ネ330が実用化しなかったため計画のみで終わった。

 

生産数

 試作1機のみ。

 

まとめ

 

 陸上偵察機景雲は、太平洋戦争開戦後に計画され終戦間際に初飛行をした試作機であった。例によって海軍の性能要求は過大であり、十七試陸偵の性能要求では与圧気密室装備、最高速度667km/h、巡航速度463km/h、航続距離7,408kmであった。この要求の無謀さは一式陸攻22型の最高速度が437km/h、航続距離6,060kmであることを考えると、一式陸攻の最高速度以上の巡航速度で一式陸攻以上の航続距離を得ようという常軌を逸したものであることが分かると思う。このためか景雲の設計は難航してついに飛行2回で終戦を迎えることとなった。

 

 

 

 

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01_九五式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式水上偵察機とは、1935年に制式採用された二座水上偵察機で目新しいアイデア等は無かったが、安定性、操縦性に優れた傑作機であった。九六式艦戦並みと言われた運動性能によって戦闘機代わりに使用された他、爆撃や哨戒とあらゆる任務をこなした。太平洋戦争開戦後も使用され続けインド洋海戦では英空母ハーミスを発見する等殊勲を挙げた。零式水上観測機にその役割を譲った後も哨戒や練習機として終戦まで活躍した。

 

九五式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 10.98m
全長 8.81m
全高 3.84m
自重 1,370kg
最大速度 299km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで6分31秒
上昇限度 7,270m
エンジン出力 630馬力(寿2型改2)1基
航続距離 898km(増槽装備時)
乗員 2名
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 30kg爆弾2発
設計・開発 三竹忍 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれた日本では他国以上に水上機が発達した。これは偶然ではなく、日本海軍は確かに水上機の開発に力を入れていたのだ。世界を探してもここまで水上機に力を入れた海軍は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

 1933年、現用機である九〇式二号水偵の後継機にあたる八試水上偵察機の開発が愛知時計電機、川西飛行機、中島飛行機の3社に指示された。これを受けて中島飛行機は三竹忍技師を設計主務者として開発を開始、1934年3月に試作1号機が完成した。これは同社製九〇式2号水偵をベースとして全体を再設計したもので全幅、全長もほとんど変わらないが空気力学的にはより洗練された機体となった。武装は機首に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺を装備、爆弾は30kg爆弾2発が装備可能であった。

 胴体は木金混製で前半部分が金属張り、後半部分が羽布張りで、エンジンは九〇式水偵と同じ寿2型改1(580馬力)を装備していたが、最高速度は九〇式水偵の最高速度232km/hを67km/hも上回っている他、上昇性能、操縦性、安定性とあらゆる面で性能が向上していた。八試水偵の比較審査では、愛知、川西製も性能では伯仲していたが、総合的に優れていた中島製が他2社を破り1935年9月17日、九五式水上偵察機として制式採用された。1938年10月には、エンジンが寿2型改2(630馬力)に変更されたため、改1の機体を九五式1号水偵、改2を九五式2号水偵と呼称された。

 実戦部隊でも九五式水偵の評価は高く、運動性能に関しては九六式艦戦にも匹敵するとまで言われた。このため戦闘機の代用として使用されたり、哨戒、爆撃とマルチに活躍した水上機であった。この九五式水偵の活躍が水上戦闘機開発のきっかけになったとも言われている。太平洋戦争開戦後も使用され続け、戦艦榛名搭載の九五式水偵は、インド洋海戦で空母ハーミスを発見するという殊勲も挙げている。1942年頃からは後継機にあたる零式水上観測機と交代して第一線からは姿を消したが、哨戒、連絡、訓練等で終戦まで活躍した。

 

生産数

 生産は1942年まで続けられ、中島飛行機で試作機2機、増加試作機7機、生産機700機の合計709機、川西航空機で48機の合計757機生産された。太平洋戦争終戦時には50機が残存していた。

 

まとめ

 

 九五式水偵は、戦艦や巡洋艦の艦載機、水上機母艦、基地航空隊に配備されたが、戦闘機との空中戦、爆撃等あらゆる任務に活躍した。操縦性、安定性も良いためドイツ海軍でも1機が使用された他、タイ王国海軍でも制式採用された。この成功体験が海軍に水上機に対する過剰な期待を持たせることとなり、太平洋戦争開戦後、水上機部隊は、低性能の水上機で米軍の新鋭機と空戦を行わなければならなくなってしまった。九五式水偵は傑作機であると同時に罪深い機体でもある。

 

 

 

 

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