ミニマム情報戦記

ブログタイトルは思い付きでちょいちょい変わります。 でもここら辺でタイトル固定かなぁ。。。 銃&ミリタリーがメイン。 最近は軍事書籍の書評が多いみたい・・・。よいと思ったら拍手してね!それだけが心の支え・・・。

海軍航空隊

岩本徹三を知るための書籍

230px-Tetsuzo_Iwamoto 私が最も憧れていた、そして今でも一番好きな零戦搭乗員は岩本徹三である。きっかけは近くのスーパーでやっていた古本市だった。そこで零戦撃墜王を発見した。以前、学校にあった飛行機図鑑に載っていた撃墜マークがいっぱいついた零戦のパイロットの名前は確かこの人だったのでは?と思い、中学生にとっては手痛い出費であったが、500円程を支払い購入したのだった。


 内容はとにかく面白かった。そこから憧れて他の搭乗員達についても調べるようになった結果、零戦搭乗員に妙に詳しくなってしまったのだ。もちろん、昔から現在に至るまで同じ趣味を持った人間に出会ったことはない。しかしインターネットとは便利なもので日本中の誰かが同じ趣味を持っている人がいるに違いないのだ。(画像はwikipediaより転載)


 ということで、今回は、私が尊敬して止まない岩本徹三を知るための書籍を紹介したいと思う。まず、初心者への入門という意味で、岩本徹三の特集が組まれている貴重な雑誌『歴史街道 2009年 08月号』を上げておく。岩本徹三のことを知るには良い本だ。この巻はすでに絶版になっているので貴重な本だ。





 そして当然のことながら『零戦撃墜王』を上げない訳にはいかない。これは岩本徹三自身が執筆した貴重な書籍だ。内容には間違いも多く、実際には撃墜していないものも撃墜と書いているが本人の筆ということは非常に貴重である。





 実際の空戦の模様を日本と米国の戦闘行動報告書を元に再現したのが、『海軍零戦隊撃墜戦記3』だ。この3巻に岩本徹三のいたラバウルの空戦模様が克明に記されている。これは値段は少々するが、かなり貴重な資料だ。





 さらに他者から見た岩本徹三ということで、岩本徹三のことが書いてあるものとしては、角田和男著『零戦特攻』がある。太平洋戦争後期、フィリピンで著者を含む熟練搭乗員達が集まって会話をしたくだりに岩本徹三と西沢広義が議論する場面が描かれていることや、岩本徹三が特攻希望者募集に対して「否」を突きつけたことなど興味深い内容である。





 この『零戦特攻』の中で岩本は西沢に「空中戦にまともに入らないで逃げた敵や傷ついた敵ばかりを狙うのは卑怯だ」というような内容を言ったという場面があるが、これは別の搭乗員小町定氏も『ある零戦パイロットの軌跡』や『ゼロファイター列伝』でも語っている。







 太平洋戦争当時、岩本と同じ部隊にいた搭乗員の記録としては、土方敏夫著『海軍予備学生零戦空戦記』、阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』がある。これは岩本が太平洋戦争末期に所属した部隊に同時期に在籍していた搭乗員の手記である。






 さらに戦闘303飛行隊に在籍していた安部正治氏から見た撃墜王岩本徹三としては、「『私はラバウルの撃墜王だった』、『空戦に青春を賭けた男たち』がある。







 今回は、岩本徹三について目新しいことが書いていない書籍、特集等は省略した。どれも同じようなことしか書いていないので読んでもあまり面白くないと思う。さらに雑誌へ寄稿した手記等に岩本徹三のことが書いてあるものもあるが、現在入手困難である。今回は手に入るものをチョイスした。



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零戦搭乗員と撃墜王オタク

 最近、神立尚紀氏の著書を読むことが多い。氏は零戦搭乗員達と親交が深く、そして長い。当初はただのインタビュアーだったのが、最近になればなるほど内容が重厚になり、搭乗員達の内面に肉薄した内容のものが多く、読み応えがある。これは他の航空戦史研究家とは一線を画した独特のものである。


 一番の違いは他の研究家が、「飛行機」を中心に描こうとするのに対し、神立氏は「搭乗員」を中心に描こうとしていることだと思う。つまりは他の研究家は特定の飛行機の物語を描き、そのわき役として搭乗員がいる。


 しかし神立氏の著書は、中心に搭乗員がおり、飛行機は脇役どころか内容の必要上、単語として登場するに過ぎない。・・・と私は考えている。その神立氏が何度も怒りを込めて書いているのは、撃墜王オタクが「撃墜王」「エース」等と搭乗員達を英雄視すること。「何機撃墜のエース」等ともてはやすこと等だ。


 私も神立氏の著書は結構読んだのでその怒りの気持ちは理解しているつもりだ。撃墜するということは相手を殺すということとニアリーイコールであり、数をカウントして楽しむものではないし、そもそもスコアと言っても航空戦はチームプレイだという主張も理解できるしもっともだと思う。


 まさにその通りだが、私にはもう一つの気持ちがある。簡単にいうと撃墜王オタクという気持ちだ。子供の頃、私にとってヒーローは撃墜王だった。岩本徹三であり、坂井三郎であったのだ。単純に強く、周りからも評価され信頼されているのがカッコよかった。


 そしてそのまま撃墜王を探すことが趣味となった。私の子供の頃はネットは普及していない。というより実質無かった。20歳くらいになってやっと普及してきたが、今では考えられないことだが、「岩本徹三」というキーワードで検索しても3件程しかヒットしない時代だった。そして内容もお粗末なものだった。


 ということで私は当然のように書籍に走ったのだ。搭乗員の自伝、記録を読むことから始まり、研究家の著書をむさぼり読んだ。当時は1995年前後。零戦搭乗員も高齢ながらまだ多くの方が健在だった。そして太平洋戦争終戦50周年という節目の年の前後であり、多くの書籍が出版されたのだ。


 そうこうしていくうちに撃墜王の名前と撃墜数の情報も少しずつ集まってきた。そしてそれらの元になっているのが、『日本海軍戦闘機隊』という本であることを知ったのだ。当時はネットは無いので探すのは「足」だ。もちろん普通の書店では扱っていないので古本屋をくまなく探した。


 初版が1975年のマイナーなジャンルの本なのでどこの古本屋を探しても売っていないのだ。それでも欲しくて欲しくて探しまくった結果、神保町に「文華堂」という軍事物専門の古書店があることを知った。「文華堂」に入り、探してみたが見つからない。


 そこで店の人に訊いてみた。「これだね」と言って出された本には『日本海軍戦闘機隊』と赤い字で書いてあった。とうとう見つけた。やや全体が痛んでおり、表紙には零戦が空を飛んでいる絵が描いてある。これが私が探し続けた『日本海軍戦闘機隊』だった。


 この感激は今でも忘れられない。家に帰るまで待ちきれなかった。電車の中で袋から取り出し中身を見る。席に座れなかったのでドアの横の三角コーナーに寄りかかりながら本を開いたのを覚えている。


 その本の中には、私が欲しかった情報の全てがあった。その後、全てを読み、何度も何度も読み返した。本の中には憧れのヒーロー達がいた。名前も撃墜数、出身期。覚えようとしなくてもどんどん頭の中に入る。本当にうれしかった。


 これが私の撃墜王オタクの青春譜だ。そして今でもヒーローとして撃墜王に憧れる気持ち、撃墜数が気になってしまう気持ちがある。そして大人になった私は前述のように撃墜するということは「人を殺すこと」、それをしたことによって苦しみ続ける人達の存在、共同戦果である撃墜を個人のものとして祭り上げられる不快さを感じる人。そういう人達の存在を知ることとなった。


 理性と感情の相克。理性で考えるならば撃墜王オタクはダメだ。しかし未だに憧れる気持ちは持ち続けている。どちらも持ち続けているのが現在の私だ。もしも私が撃墜王オタクでなかったら、零戦搭乗員の内面についての本を読むこともなかっただろう。


 私のように矛盾した状態で戦記関係の本を読んでいる人は案外多いのではないかと思う。きっかけは「かっこいいから」しかし実情を知るに従って理性で物を考えるようになる。しかし「かっこいいから」という気持ちを消すことはできない。人間の頭というのはやっかいだ。どうしようもないものであり、多面的であり相対的であり、矛盾であり、面白くもあり、魅力的だ。



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最強戦闘機隊 戦闘303飛行隊




 旧日本海軍の最強戦闘機隊といえば何だろうか?最新鋭機紫電改と生き残りのエースを集結させた「剣」部隊343空?いやいや、あれは都市伝説だ。最新鋭機紫電改を集中配備したのは本当だが、343空は生き残りのエースを集結させて作ったエース部隊ではない。基幹搭乗員に熟練者を配置しただけだ。搭乗員の多くは当時の感覚では熟練者といえるものではなかった。


 他にも隠れた精鋭部隊に芙蓉部隊というのがある。これは美濃部正少佐率いる夜間攻撃専門部隊である。当時比較的熟練者の多かった水上機からの転科者が多く、さらに工夫した訓練法で練度を増した。特攻には断固反対で結果、部隊の練度を上げるのに成功したのだ。


 しかし、その芙蓉部隊も海軍最強ではない。当時、海軍には部隊の練度を評価する基準があった。搭乗員の練度を測定するものだった。搭乗員はAランクから順に区分されていた。その基準で当時、最もAランクの搭乗員を擁していたのは今日紹介する戦闘303飛行隊なのだ。


 この戦闘303飛行隊というのは、私の感覚では戦史ファンや戦闘機ファンにはあまり知られていない部隊ではないかと思う。使用機は普通の零戦で基本的には九州地区での作戦行動を専らにした。日本海軍のトップエースといわれる岩本徹三、西沢広義、谷水竹雄等、歴戦の搭乗員が在籍していたのだ。




 私がチャラく調べたところによると戦闘303飛行隊は、1944年3月1日、特設飛行隊制度発足によって203空隷下部隊として厚木に誕生した。当時の飛行隊長は海兵63期の岡嶋清熊少佐。搭乗員には日本のトップエースの一人である西沢広義、操練35期のベテラン長田延義、同54期の倉田信高、丙飛4期の本多慎吾、丙飛3期の加藤好一郎等がいた。


 1944年3月30日、千歳基地に展開する。3月30日と書いたが、これは4月末であったという説もある(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』)。それはそうと、4月末にさらに幌筵島武蔵基地に移動する(安倍氏前著では5月中旬)。これは武蔵基地に展開していた281空が転出したためだ。


 その後1944年8月11日に美幌基地へ移動。9月2日に一時的に百里原基地に展開するが9月14日にはまた美幌基地に戻る。9月18日にT部隊編入が下令され茂原に移動、さらに鹿児島の鴨池基地へ移動待機する。その後、台湾沖航空戦に参加したのち、10月24日フィリピンに到着する。





 10月27日、特攻隊援護任務を完了した西沢広義飛曹長が帰還時に戦死する。翌11月15日に本隊は鹿児島へ撤収したようだ。所属航空隊も201空やら221空やらに変わったようであるが、ここら辺はよく分からない。結構、本によってあやふやなんだよね。ただ、本隊がここら辺で内地に帰還したのは間違いないようだ。


 台湾沖航空戦、フィリピンの戦闘でかなりの消耗をした戦闘303飛行隊であったが、1945年から隊員を増強し始める。まず、3月15日に零戦虎徹こと岩本徹三少尉がヘッドハンティングされる。この時点での部隊規模は機材が32機、搭乗員57名であった。3月26日にラバウル帰りのベテラン谷水上飛曹、操練27期の大ベテラン近藤政市少尉が着任したようだ。


 これだけ見ると何か数人のベテラン搭乗員だけしかいないような印象があるが、この戦闘303飛行隊の練度は全海軍中トップクラスであった。エースが好きな人だったら知っているような名だたるエースが在籍しているのをみても分かると思う。谷水上飛曹が有名な撃墜マークを書いたのも戦闘303飛行隊にいた時だ。


 今日は何かダラダラと戦闘303飛行隊について調べたことを書いてしまったのであまり面白くなかったかもしれない。特に戦史に興味の無い人にはなんじゃこりゃーな話なのだが、私は昔から妙に興味があるのでついつい書いてしまった。



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日本海軍航空隊 戦闘機搭乗員 福本繁夫

 撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。私が現段階で調べた結果が以下のものだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 生年月日不明である。大正9年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、昭和11年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、昭和10年とする資料もあり)。昭和14年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。


 台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西沢広義と一緒に転属していたようだ。昭和18年12月に253空に転属する。岩本徹三、小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。


 昭和19年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留。この辺の事情は不明だが、これほどのベテランが残留するというのは、病気か負傷のどちらかだろう。同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり、この中に福本飛曹長も入っていたのだろう(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)。


 残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。そして昭和19年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。


 日本に戻った日は不明だが、昭和20年2〜3月頃のようだ。昭和20年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。昭和20年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。




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日本海軍航空隊 戦闘機搭乗員 市岡又男

 末期のラバウル航空戦を戦った搭乗員である。あまり知られていないが、ラバウル航空戦においてトップエース岩本徹三小町定等と共に連日の戦闘をこなした。この市岡一飛曹、実はすごい記録を持っていることが近年の調査により判明した。もちろん私が調査した訳ではない。今日はこの市岡又男一飛曹についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正14年岐阜県に生まれ、丙12期予科練を経て、昭和18年7月28期飛練課程を卒業、9月末204空に配属され、ラバウルに進出した。
12月25日の迎撃戦で撃墜第1号を記録していらい、若年ながら連日の空戦で奮闘、19年1月末までの1ヶ月間に13期(うち不確実及び協同5)を葬った。1月末204空本隊のトラック転進により、トベラ基地の253空に転属、引き続き奮戦したが、4月19日戦死した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 市岡一飛曹は大正14年生まれ。もし戦争を生き抜いていたとしたら現在(2015年)は90歳である。戦争中の若手パイロットである。予科練丙種12期を修了した。同期には18機撃墜の川戸正治郎がいる。市岡一飛曹は訓練終了後いきなりラバウルに展開する204空に配属される。恐らく飛行時間300時間程度であっただろう。しかし連日の空戦を戦い抜いた。


 さて、前述のすごい記録とは、実はこの市岡一飛曹、戦闘行動報告書によると撃墜21機、岩本徹三の撃墜20機を抜いて253空のトップエースなのだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。無論実際に撃墜していたかは誰にも分らないが戦闘行動報告書に記載される戦果であるので空戦技術に関しては部隊内で一定の評価があったと思っていい。


 その後253空本隊はトラック島に撤退するが、市岡一飛曹はラバウルに残ったようだ。昭和19年4月19日不帰の人となる。エース列伝によると撃墜11機、戦闘行動報告書には撃墜21機とある。



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日本海軍航空隊 戦闘機搭乗員 小八重幸太郎

 今日、紹介するのは小八重幸太郎上飛曹。ほとんどの人は全く知らないパイロットだと思う。しかし小八重上飛曹、15機撃墜という多撃墜エースなのだ。今日はあまり知られていない小八重幸太郎上飛曹について書いてみたい。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 小八重上飛曹は大正12年3月15日、宮崎県に生まれる。昭和16年10月丙種予科練7期生に採用される。昭和17年11月第24期飛練課程を卒業、大村航空隊で延長教育を受け戦闘機操縦者となった。


 その後、戦闘機搭乗員の多くが憧れる母艦戦闘機隊隊員として空母鳳翔で着艦訓練を受けた後、空母瑞鳳に配属された。瑞鳳戦闘機隊は鹿児島県鴨池基地で訓練を続け、7月に母艦に収容され南方に出撃した。昭和18年3月にトラック島に進出、『い』号作戦、『ろ』号作戦に参加している。


 当時、瑞鳳戦闘機隊は飛行甲板の広さのせいか岩井勉、山本旭等のベテラン搭乗員が多数おり小八重上飛曹は中々搭乗員割に入れてもらえなかったようだ。11月2日のラバウル迎撃戦にてF4F2機を撃墜して初戦果をあげた。その後中川健二大尉と共に253空に編入され、激烈なラバウル航空戦を戦った。


 激しい空戦のさ中、米軍戦闘機と単機空戦となりお互いに秘術を尽くして戦ったが勝敗が決せず、どちらからともなく寄り添い顔を見合わせて飛び去って行ったという一コマもあったようだ(小八重幸太郎「零戦に生き紫電改に死す」『零戦搭乗員空戦記』)。


 その後、本土に帰還する。昭和19年7月、新鋭戦闘機紫電を装備する戦闘701飛行隊に配属され、台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加した後、極度の過労により入院する。その後2代目戦闘701飛行隊に転属した。


 2代目戦闘701飛行隊は言わずと知れた343空所属の飛行隊であり、ほぼ全機が紫電改で編成された鴛淵孝大尉が隊長を務める部隊である。小八重上飛曹は終戦まで343空で西日本防空戦を戦い抜いた(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。


 総撃墜数は15機といわれる。丙飛7期という開戦直前に採用され、日本が徐々に劣勢に陥っていくさ中に母艦戦闘機隊として実戦に参加した。その中で生き抜いただけでなく15機もの撃墜を果たしたというのは驚異だ。



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日本海軍航空隊 戦闘機搭乗員 倉本十三

 今日紹介するのは夜間戦闘機隊のエースである倉本十三上飛曹である。総撃墜数は6機。その全てが撃墜困難とされたB29である。それも6機の内5機は一夜で撃墜した戦果である。今日はこの倉本上飛曹について書いてみたい。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 倉本上飛曹は大正13年10月1日東京府生まれ。昭和15年12月乙種予科練15期生として土浦航空隊に入隊。その後第29期飛練課程に進み昭和18年9月中攻操縦員となった。新竹航空隊に配属された後、12月本土に帰還、厚木航空隊で夜間戦闘機の転換訓練を受ける。


 この記事で基本的に参照している『日本陸海軍航空英雄列伝』では、初撃墜は昭和20年4月15日偵察員黒鳥四朗少尉と共に出撃、B29一機を撃墜したとなっており、倉本十三上飛曹が戦後雑誌『丸』に寄せた手記には初撃墜は5月23日となっている(倉本十三「私は天皇の空を死守した」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』)。


 どちらが真実なのかは不明であるが、倉本上飛曹の別の手記(「愛機「月光」で記録した”一夜五機撃墜”の快挙」『丸エキストラ』3月別冊)にも5月23日となっており、こちらが正しいと思われる。因みに同乗していたのも黒鳥少尉ではなく、市川通太郎中尉だとなっている。


 それはさておき、5月25日、倉本上飛曹は、立て続けにB29を5機撃墜する。倉本上飛曹の上記手記によると東京の街が火の海になっていることによりB29の発見が容易になっていることに気が付く。そこで倉本上飛曹はB29との高度差を1000〜1500mにとり、急降下することで高速のB29に接近することを思いつく。これにより一夜にして5機を続けざまに撃墜したようだ(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。


 倉本上飛曹はこの戦果により全軍布告の上、軍刀一振、さらに特別昇進し飛曹長となった。因みに上記手記によると横空夜戦隊は頻繁に暗視ホルモン注射(牛の脳下垂体よりとったものというが恐らくヤバい薬)、ビタミン注射(多分、現在では禁止されている元気になる注射)を頻繁に受けていたようだ。私はちょっとビビったのだった。



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日本海軍航空隊 戦闘機搭乗員 山崎市郎平

 今日紹介するのは、山崎市郎平一飛曹。操練50期台のパイロットだ。台南空のエースとして知られている。ちょうど坂井三郎一飛曹、笹井醇一中尉、西沢広義一飛曹等がいた頃の台南空に所属していた。この頃の台南空については坂井三郎『大空のサムライ』に詳しい。この山崎一飛曹、西多摩郡檜原村出身という、多摩育ちの私には親近感を覚える搭乗員なのだ。檜原村はだいぶ遠いが・・・。今日はこの山崎市郎平一飛曹について書いてみたい。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年東京府西多摩郡檜原村の山間に生まれた。昭和12年横須賀海兵団に入団後、16年5月54期操練を卒業し、大分空を経て17年2月4空に配属されてラバウルに進出したが、4月台南空に転じ、8月までラバウル、ラエを根拠に、東部ニューギニア、ソロモンの戦場を転戦した。この間3月にはロッキード爆撃機を単機で追って被弾、山奥に不時着し、土人に助けられ丸木舟で河を下って生還したことがあった。5月モレスビー空戦で負傷、8月26日のブナ進攻でも被弾不時着、負傷し本土へ送還された。翌年5月251空に属し、再びラバウルに進出したが、7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死した。総撃墜機数14機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 山崎一飛曹は大正9年西多摩郡檜原村に生まれる。檜原村といえば現在においてもかなりの田舎。移動手段は車、バスのみであり、さらにバスは一日に数本という東京都とは思えない場所だ。現在でもこの有様であるということは当時は・・・。そう、大自然の中でのびのび育ったのだ。


 山崎一飛曹の卒業した操練54期とは、戦争後半になると超ベテランクラスであるが、この時点では終了したての新米パイロットであった。まあ、最初からベテランはいないので当たり前だ。操練同期には岡野博飛曹長、さらに一期前には戦後『サムライ零戦隊』を上梓した島川正明飛曹長等がいる。


 山崎一飛曹は台南空に所属し、熾烈な前期ラバウル航空戦を経験する。しかし負傷してしまい本土に送還される。昭和17年11月、台南空改め251空は、戦力の再編成のため本土に帰還する。再編成が終了した昭和18年5月、台南空は再度ラバウル進出を命ぜられる。その時に山崎一飛曹は251空に所属していたようだ。


 この山崎一飛曹は部隊では「不時着の神様」と呼ばれていたという。昭和17年3月、連合軍に奇襲を受け、邀撃に上がった山崎一飛曹はそのまま未帰還となった。しかし数日すると現地人に助けられ基地に戻ってきたという。そして相当疲れているはずの山崎一飛曹は司令に報告を終えると「わたしが彼らに約束したことをかなえてやってください」と言ったという誠実さを持った人だったようだ(石川清治「不時着の神様」『零戦よもやま物語』)。しかし山崎一飛曹は7月4日の空戦で帰らぬ人となってしまった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 岩井勉

 ゼロファイターゴッドと呼ばれた熟練搭乗員である。日中戦争から太平洋戦争終戦まで戦い抜いた。日中戦争では零戦初戦果の空戦に参加するという貴重な経験をしている。数々の空戦に参加するも被弾ゼロという記録を持ち終戦を迎えた。母艦戦闘機隊に所属していることが多く、母艦戦闘機隊のエースであるといっていい。今日はこの岩井勉氏についてみてみよう。


概要
大正8年京都府に生まれ、昭和13年8月乙6期予科練の飛練課程を卒業して、15年1月12空に配属され、漢口基地に進出した。9月13日進藤三郎大尉の指揮する13機の零戦ガ、重刑上空で慶27機撃墜の大戦果をあげた空戦に、白根中尉の3番機として参加、2機を撃墜した。ついで10月26日の成都攻撃では、山下小四郎空曹長の列機で飛行場銃撃後、飛行中の非武装練習機を攻撃して1機を撃墜した。

 15年11月本土へ帰還し、筑波、佐伯、大村空を経て、17年11月空母瑞鳳乗組に転じ18年1月ラバウルに進出、ガダルカナル島撤退援護、ラエ船団輸送、ブナ攻撃に、さらに4月の「い」号作戦では、ガダルカナル島、オロ湾、モレスビー、ミルン湾攻撃に参加した。

 19年8月ふたたび601空付を命じられ、松山基地で練成に当たったが、10月捷号作戦の発動により、瑞鶴に搭乗して比島東方海面に出撃した。10月24日昼すぎ米機動部隊に対し、戦爆56機の攻撃隊を送った時、岩井飛曹長は、小林保平大尉の指揮する直衛戦闘隊の一員として出撃したが、目標到達前、敵戦闘機群の迎撃を受け、空戦ののち主隊と分離して単機でルソン島アパリに着陸、他の母艦機と共に中川大尉の指揮下に入り、マニラに前進、翌日は後退途上の栗田艦隊の上空直衛に出動して、来襲した敵雷撃機2機を撃墜してバタンガスに帰着した。

 その後数日クラークからレイテ攻撃に参加した後、陸軍の重爆に便乗して、松山へ帰還した。11月少尉に進級し、20年春、南九州に進出して沖縄航空戦に参加、4月末百里原に移動し、終戦を鈴鹿基地で迎えた。撃墜機数11機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 岩井氏は大正8年生まれというから零戦初空戦の時は21歳くらいだったのだろうか。随分若い・・・と思ってしまうのは私がもういい年をしているからだろう。当時は20歳前後のパイロットも多くいた。昭和15年に本土に帰還してからは教員配置が続く。太平洋戦争での初めての実戦は昭和18年初頭であるから2年も前線から遠のいていたことになる。


 昭和17年、空母瑞鳳所属となり出撃するが、飛行長より「今度の戦いは日華事変当時とは全然様相が変わっているから、功をあせらず、一回目は見学せよ。」という訓示を受けたという。この言葉によって今日まで生き残って来られたという。その後、ラバウル航空戦に参加、昭和19年、台湾の二代目台南空で教員配置に付く。先任下士官は撃墜マークで有名な谷水竹雄上飛曹であった。


 その後、601空付、特攻隊にも編入されたりしたが無事終戦を迎えた。総撃墜数はエース列伝では11機、『零戦の20世紀』では22機となっている。



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日本海軍航空隊 撃墜王 仲道 渉

 丙飛4期出身のエースである。実戦に参加したのが昭和17年というから戦中派エースといっても割と遅い。同期には2015年現在、御健在のエース中最多撃墜記録を持つ大原亮治氏がいる。仲道渉飛曹長の撃墜数は15機と言われているが実はこれが関して近年の研究で注目されているのだ。今回はこの仲道渉飛曹長を見てみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正11年大阪市に生まれ、製缶工から昭和15年呉海兵団に入団、翌年5月操縦者を志望して土浦空に入り、7月丙4期予科練を卒業してひきつづき霞ケ浦、大分空で操縦教育を受け、7月21期飛練課程を終了した。17年12月隼鷹乗組を命じられたが、18年夏204空に転じ、ブイン基地に進出、翌年3月帰国するまで約9ヶ月にわたり、南東方面の激烈な航空戦に健闘、この間19機(うち共同・不確実9)撃墜の個人戦果をあげた。
 その後、終戦まで本土で勤務、とくに19年11月以降は721空(神雷部隊)戦闘機隊に属し、神雷特攻隊の直援に当った。撃墜数15機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 近年、彼我の文献から客観的な戦果を割り出そうという研究が梅本弘氏等によって行われている。それらの研究の結果、この仲道渉氏の報告している撃墜戦果(20機)が客観的なデータで裏付けられるラバウル航空戦の最多撃墜者の可能性が高いのだ。


 梅本氏によると仲道飛曹長が撃墜を報告している日に間違いなく米軍が該当の機種を失っているケースが12件あったそうだ。むろん他の搭乗員も撃墜を報告しているが仲道飛曹長は客観的に見極めて戦果を報告しているという(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。


 日米双方には多撃墜エースと呼ばれているパイロットが多数いるが意図的ではないにしろ戦果が過大に報告されているケースが多い。5倍から多い時は10倍以上に実数と戦果が異なる場合がある。当然、エースの撃墜数も実際の数でない可能性が高いのだ。これは世界のエースに対して同様のことがいえる。


 この状況の中で、この仲道飛曹長の客観データに裏付けられた撃墜数は貴重なものであるといえる。ラバウルから生還した後には、有名な人間爆弾桜花を擁する721空戦闘機隊に配属され終戦を迎える。御健在であれば2015年で93歳であろうか。御健在であって欲しい。



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日本海軍航空隊 撃墜王 小高登貫

 なぜかあまり有名ではないエースであるが、撃墜記録はすさまじい。エース列伝によると撃墜12機、自著によると共同撃墜含め105機、潜水艦2隻撃沈という記録の持ち主である。日本海軍で唯一不敗であった戦闘機隊といわれる202空に配属され、その後ラバウル、フィリピンと転戦する。最後は当時の新鋭機紫電改を装備した精鋭部隊343空隊員として終戦を迎える。今日はこの小高登貫上飛曹について書いてみたい。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 「トッカン」兵曹の愛称で知られたラバウル戦闘機隊の勇士である。
 大正12年2月26日、長野県東筑摩郡島内村に生まれ、昭和16年6月横須賀海兵団に入団、整備兵を経て、昭和17年2月丙飛第10期予科練習生に採用され、土浦航空隊に入隊した。昭和18年1月第25期飛練課程を卒業、大分航空隊で延長教育を受けた後、戦闘機操縦員となった。

 そして第202航空隊付を命ぜられ、セレベス島ケンダリー基地に赴任、南西方面航空戦に身を投じ、要地防空、船団直衛、対戦哨戒任務などに当たった。6月にはチモール島のクーパン基地に前進し、数次のポートダーウィン攻撃に参加した。12月、第204航空隊に転じ、翌年2月トラック島に引揚げるまで、激烈なラバウル迎撃戦に健闘した。

 特に昭和19年1月17日の迎撃戦では、P−38 3機を撃墜、部隊最高個人撃墜者として、第26航空戦隊司令官酒巻宗孝中将から、司令賞として清酒3本が授与され、この模様はラバウル戦闘機隊の活躍゛撃墜69機、全機帰着゛としてニュース映画で全国に放映された。

 また2月17日のトラック島大空襲では、優勢な米海軍艦載機群を迎撃、第1回ではF6F 2機を撃墜、第2回は指揮官皆無の状況下、小隊長として5機を率い出撃、被弾27発を受けた。しかし、これに屈せず再度乗機を乗り換え都合4回出撃、奮闘した。

 本土帰還後は第201航空隊戦闘第306飛行隊に転じ、木更津基地で練成訓練に当たった後、大村、上海、高雄、マニラ経由でセブ基地に進出した。6月「あ」号作戦参加のためペリリュー島に前進したが、まもなくミンダナオ島のダバオ基地に移動し、レイテ作戦に参加した後本土に帰還した。

 そして、谷田部航空隊教員に転じ、練成教育に当たる一方迎撃戦にも出動、昭和20年2月16日の米海軍艦載機関東地区来襲では、F6F 2機を撃墜した。同月末、異例の指名転勤により第343航空隊戦闘第407飛行隊に転じ、紫電改を駆って防空戦闘、特攻機直掩任務などに活躍、終戦を大村基地で迎えた。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 詳しい経歴は上記の通りである。丙飛10期というから戦中派エースといってもかなり遅い。当初は母艦戦闘機隊に配属されるはずであったが、結局配属されたのは202空であった。その後ラバウルに展開する204空に転属するがそれまでに9機を撃墜していたという。さらに小高上飛曹著『あゝ青春零戦隊』ではラバウルで自分の機体に12個の撃墜マークを書いたとしているが、戦闘行動報告書で確認できるのは3機のみのようだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。


 本書ではさらに戦争末期に本土で2機の撃墜を主張しているので撃墜数は少なくとも23機以上であろう。ただ小高氏は多くの零戦搭乗員の例に漏れず自身が英雄になることを嫌って自分からはほとんど戦争のことは語らなかったようである。


 著書によると空戦以外でもかなりの暴れん坊だったようだが、いつ自分が死ぬか分らないという状態では致し方ないのかもしれない。空戦の腕は相当良かったようで、201空時代に全隊員の前で模範飛行を展示したりしたようだ。この小高上飛曹の空戦技術に関しては当時小高上飛曹の上官であったベテラン搭乗員本田稔少尉もその技量を認めている(井上和彦『最後のゼロファイター』)。


 ラバウルでは岩本徹三、小町定等と同じ部隊で戦っている。昭和19年1月17日の空戦では3機を撃墜し司令賞を受賞している。この空戦の戦果は全部隊で撃墜69機(88機とも)にもなる大戦果であったが、実際撃墜された米軍機は10〜11機であったようだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。


 それでも海軍戦闘機隊に未帰還機は無く、ラバウル航空隊の完全勝利であった。この日はニュース映画の撮影があり、みんなテンションが上がっちゃったようである。因みにこのニュース映画はNHK戦争証言アーカイブスで観ることができる。


 戦後はオートバイの販売会社を経営、セールスマン時代には売上日本一になったことからも分るように努力、技術の研鑚に貪欲な人であったようだ。これはラバウルから帰還後、決して天狗にならず、内地において先輩パイロットに師事して腕を磨いていることからも分る。優秀なパイロットであった。1992年3月歿。



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日本海軍航空隊 撃墜王 河村一郎

 河村飛曹長の総撃墜数は5機。世界のエースの基準からするとギリギリであるが河村飛曹長は世界的にも珍しい水上偵察機のエースである。そう水上戦闘機ではない。水上偵察機の撃墜王なのだ。そんなことは普通できないはずなのだが出来てしまったのだ。今日はこの世界でも珍しい水上偵察機のエース河村飛曹長について書いてみたい。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 河村一郎飛曹長は大正9年8月27日、山口県で生まれる。昭和13年6月海兵団に入団。戦艦伊勢乗組を経て昭和14年3月第41期操縦練習生として鹿島航空隊に入隊する。昭和15年10月水上機母艦瑞穂乗組みとなり、南支那方面航空作戦に参加した。開戦と共にフィリピン、蘭印攻略作戦に参加する。


 昭和17年1月、英空軍の爆撃機を撃墜する。その2か月後、さらに爆撃機を撃墜する。5月館山航空隊教員として本土に帰還するが7月水上機母艦国川丸乗組みとなりラバウル、ショートランド基地に進出する。昭和18年1月27日、船団上空哨戒中に戦爆連合38機編隊を発見、僚機と共に突入する。


 6月船団上空哨戒中に戦爆連合に遭遇、単独でB17、艦爆各1機を撃墜するが自身も負傷してしまう。昭和18年9月百里原航空隊へ転属する。そこで陸上機転換訓練を受けて戦闘機搭乗員となる。5機撃墜のエースが戦闘機搭乗訓練を受けた訳である。


 昭和19年2月三亜航空隊付、6月には高雄航空隊で教員配置に就く。10月に台湾沖航空戦に参加した後、12月戦闘901飛行隊配置となる。さらに戦闘901飛行隊が131航空隊に編入された。4月から沖縄航空戦に参加し、数次の夜間攻撃を行う。8月岩川基地で終戦を迎える(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。


 河村一郎飛曹長が撃墜した航空機の中に空の要塞B17が入っているのがすごい。河村飛曹長の機体は零式観測機、複葉機である。一応機銃は付いているが運動性能のみで速度はお話しにならない。その機体で5機撃墜したというのは難易度からすれば戦闘機パイロットが50機も60機も撃墜するのに等しいと言っても過言ではないだろう。河村飛曹長は大戦を生き抜き無事終戦を迎える。技術と強運を共に備えた人物だったのだろう。



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日本海軍航空隊 撃墜王 菊池哲生

 艦隊戦闘機隊の名物男、「オール先任搭乗員」こと菊池哲生である。総撃墜数は20機以上であったといわれる操練39期のベテランパイロットであった。岩本徹三、坂井三郎と同じ大正5年生まれでかなり広い「車幅」の体型であったようだ。今回はこの「オール先任搭乗員」について書いてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正5年岩手県に生まれ、昭和9年海軍に入団、当初整備兵になったが、13年1月39期操練を卒業、戦闘機操縦者に転じた。翌年5月14空に配属され、南支戦線に出動したが、空戦の機会はなく、14年4月霞ケ浦空の教員に帰り、谷田部空を経て、16年9月1飛曹に進級して赤城乗組を命じられ、ハワイ作戦に参加したが、母艦上空の哨戒にとどまった。ついで17年4月インド洋作戦に参加5日のコロンボ攻撃では、指揮官板谷少佐の2番機として迎撃してきた英空軍の戦闘機と激烈な空戦を交え、初空戦ながら単機で敵5機(うち不確実2)を撃墜した。

 さらに6月のミッドウェー作戦に出動、白根大尉の2番機として第1次攻撃隊制空隊に加わり、ミ島上空の空戦で4機(うち不確実2)を撃墜して帰投後、母艦上空の直営任務に当たり、来襲してきた米攻撃隊と交戦、協同で敵3機を葬った。母艦赤城が沈没したため飛龍に収容されたが、飛龍も午後の空襲で炎上、艦内に閉じ込められたが、結局脱出して救助され本土へ帰還後、翔鶴乗組に転じた。

 8月ガ島攻防戦の開始により、南東方面へ出動、第2次ソロモン海戦参加後、8月末から1週間ブカ島に派遣され、数次のガ島進攻に出撃した。
11月上飛曹に進級、築城空の教員に移ったが18年9月再び母艦勤務に復帰、龍鳳、飛鷹、隼鷹を転々し、この間12月末から1週間カビエン基地へ派遣されたが、19年1月25日にはラバウルへ進出、2月19日引きあげるまで連日の迎撃戦に健闘した。

 3月652空付(龍鳳)に転じ、6月「あ」号作戦に出撃、19日第2次攻撃隊制空隊の小隊長として敵空母群攻撃に向かったが、敵を発見しえず、グアム島に着陸直前、敵戦闘機に攻撃され、身をもって艦爆隊をかばった零戦隊は不利な態勢から反撃しつつ次々と撃墜され、悲壮な最期を遂げた。

 菊池上飛曹も敵2機を撃墜後、力つきて自爆した。菊池は体重20数貫、機体に乗り込む時は整備兵の手助けが必要な肥満体の持ち主であったが、空中の操作はきわめて軽快で、その巧妙な空戦技術には定評があった。性格は豪快、母艦戦闘機隊下士官の「ぬし」を自認し、熱心にその教育に当たり、准士官(飛曹長)昇進の内示があっても辞退し続けた名物男であった。公認記録は赤城時代の12機(うち協同及び不確実7)しか残っていないが、総計では20機前後に達するものと推定される。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 経歴は上記の通りである。経歴のほとんどを母艦戦闘機隊員として過ごした搭乗員であった。残念ながらマリアナ沖海戦で戦死してしまったが、相当有名だったようだ。本人には当然自著は無いが、本田稔氏が練習生時代にこの菊池上飛曹の指導を受けており、本田氏の経験を書いた井上和彦『最後のゼロファイター』にその時の印象が詳しく書いてある。


 菊池上飛曹は有名な鬼教官であり、その名は霞ヶ浦にまで轟いていたという。教育方針は基本は教えるがあとは自分流の操縦を編み出せというものであった。この教育を受けた本田稔練習生は、後に17機を撃墜するエースとなる。


 因みに冒頭に書いた「オール先任搭乗員」とは何かというと、この菊池上飛曹、士官への昇進を拒み続けたという変わり物だったのだ。理由は白浜芳次郎『最後の零戦』にこうある。日本海軍は下士官が強い。強い下士官を育てるためには下士官でいる方がいい。士官となってしまっては距離が遠くなり兵達の指導をすることができない。そして「俺は准太郎になるほどの馬鹿じゃない」という。


 この「准太郎」とは准士官の事で海軍航空隊では飛曹長の階級が相当する。因みに下士官から士官になった者は「○○特務少尉」などのように階級の前に「特務」という呼称が付く。海軍では准士官、特務士官を通称「特准」と呼ぶ。この特准に関して、海軍のトップエース岩本徹三は「士官にもできない、下士官にもできないことをするのが我々特准なんだ。頑張ろうぜ」と特准に誇りを持っており(角田和男『修羅の翼』)、様々な考え方があって面白い。


 菊池上飛曹の最後は白浜飛曹長が伝え聞いたところによると、菊池上飛曹は空戦の末、敵機2機を撃墜したものの燃料切れとなり降下中に敵機に撃墜されたという(白浜芳次郎『最後の零戦』)。壮烈な最後であった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 川戸正治郎

 恐らく海軍のエースの中では最も訓練不足の状態で戦闘に参加した搭乗員であろう。川戸氏は多分、御健在。大正15年生まれで2015年現在89歳となられているはずである。丙飛12期といえば太平洋戦争中のパイロット大量育成の真っ最中のクラスだ。恐らく訓練は相当なやっつけだったと推定される。今日は、不満足な訓練を受けた上でいきなり実戦に投入されたにも関わらずエースとなった川戸上飛曹について書いてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 体当たり3回、被撃墜2回、落下傘降下4回という希な記録を持つ勇者として著名である。
 大正15年京都府の農家に生まれ、昭和17年5月舞鶴海兵団に入り、丙12期予科練、28期飛練を経て、18年7月卒業、9月末輸送機で40数名の補充員とともにトラックへ送られ、零戦を受領して、10月10日ラバウルで激戦中の253空に赴任した。

 時に若干18歳になったばかりの1等飛行兵で、飛行時間も300時間を少し超えた程度にすぎず、幹部から「お前のような子供に戦争ができるだろうか」と笑われたが、たちまち向こうみずの敢闘精神を発揮してラバウル戦闘機隊に勇名を馳せた。最初の体当たりは、11月2日のラバウル迎撃戦で、B−25編隊と正面から撃ち合って発火した1機の下方に離脱をはかって衝突、落下傘降下着水して救助されたが、微傷も負わなかった。

 第2回目は11日の迎撃戦で、湾内の味方艦艇を攻撃中の敵艦爆を撃墜した直後に、後方から敵戦闘機に奇襲され、被弾炎上、高度150mから落下傘降下着水した救助されたが、火傷と左脚負傷で約1か月空戦を休んだ。ついで12月17日P−39と正面反航で撃ち合ってかわしきれず衝突、相手機の操縦士とともに落下傘降下着水して高速艇に救助されたが、負傷を介せず、翌日の空戦には出撃している。

 その後B−24の尾翼体当たりを計画、機会をねらっていたが、19年2月6日ラバウル上空で決行、落下傘降下に成功し6ヵ所に負傷したが、着水救助された。2月20日在ラバウルの戦闘機隊はほとんど全機トラックへ後退したが、川戸上等飛行兵は少数の僚機とともに残留、廃材を組み立てた零戦により、ゲリラ的な迎撃戦、グリーン島、アドミラルティの偵察、攻撃等に活躍、この間253空の解隊により、7月以降105航空基地隊付となった。

 20年3月9日夕方、川戸2飛曹は複座零戦(清水2飛曹同乗)に搭乗してB−25追撃に出たまま行方不明となり、戦死と認定されたが、実際は敵駆逐艦を発見、攻撃中に対空砲火で被弾、海中に突入、重傷を負って海岸にたどりつき、ジャングルで一人生活中、豪州軍捕虜となり、12月レイテ収容所から帰還した。総撃墜数18機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 上記の体当たりの内、昭和19年2月6日のB-24への体当たりに関しては、岩本徹三の記録に「何中隊の何番機か、味方の一機は、あまり急角度で攻撃をかけたので、そのまま敵機の主翼にぶつかり、瞬時に空中分解してジャングルの中に散っていった。」(岩本徹三『零戦撃墜王』)との記載があり、日付が異なっているが梅本氏はこの「味方の一機」を川戸機と推測している(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。



 それはそれとして、今回は何と、川戸上飛曹のインタビューがyoutubeに上がっているのを発見したのだ。早速、その超貴重な映像、観てみよう。





 略歴はエース列伝にある通りである。川戸上飛曹はいわゆる「川戸問題」で戦史ファンには有名だと思う。この「川戸問題」とは何かというと、アメリカ海兵隊の撃墜28機のエース、ボイントンを撃墜したのは川戸上飛曹か否かということで日米双方の関係者、研究者の間で大騒ぎとなった論争であった。


 細かいことは秦郁彦『第二次大戦航空史話』〈下〉に詳しいがここでは触れない。この川戸上飛曹、秦氏の本によるとアメリカではかなりネガティブな印象を持たれているようだ。因みに神立氏のブログでもこの問題と思われる問題に触れているが、どうも予科練の後輩の一人がネガティブな情報を広めたもののようだ(写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ)。


 因みに秦氏の本にある元零戦搭乗員が川戸上飛曹の悪口(?)を言っていたというのもその後輩の一人の仕業だという。この川戸上飛曹、誤解を受けやすい性格であるが、元ベテランパイロット曰く、腕は良く、男の中の男だそうだ。


 余談になるが、この川戸上飛曹が撃墜したとされるボイントンも『海兵隊コルセア空戦記』という自伝を上梓している。零戦隊と戦った側の記録として価値がある。ボイントン大佐は撃墜され日本軍の捕虜となるが、その時の日本人を「戦場から遠くなるほど攻撃的」というように観察している。


 川戸上飛曹は上記の通り捕虜となり戦後は無事に帰国することができた。戦後は太平洋無着陸横断を成し遂げる等、面白い人生である。川戸氏の自著としては『体当たり空戦記』(異常なプレミアが付いているから買っちゃダメ)、「零戦ラバウルに在り」『太平洋戦争ドキュメンタリー』〈第3巻〉炎の翼 (1968年)「私が経験した”真昼の決闘”」『伝承 零戦』〈第2巻〉等がある。総撃墜数は18機とエース列伝にはあるが、本人によると19機のようだ。



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日本海軍エース一覧表

日本海軍戦闘機隊のエースとは

氏名撃墜数出身期命日著書等
岩本徹三216機操練34期1955年05月20日『零戦撃墜王』
西沢広義87機乙7期1944年10月26日『最強撃墜王』
福本繁夫72機乙7期1945年12月**日
杉田庄一70機丙3期1945年04月15日
坂井三郎64機操練38期2000年09月22日『大空のサムライ』
奥村武雄54機操練42期1943年09月22日
大原亮治48機丙4期
太田敏夫34機操練46期1942年10月21日
杉野計雄32機丙3期1999年08月**日
石井静夫29機操練50期1943年10月24日
武藤金義28機操練32期1945年07月24日
赤松貞明27機操練17期1980年02月22日
笹井醇一27機海兵67期1942年08月26日
菅野 直25機海兵70期1945年08月01日
荻谷信男24機操練48期1944年02月13日
伊藤 清23機丙2期2012年07月04日
岩井 勉22機乙6期2004年04月17日
日高義巳20機操練48期1943年06月07日
菊池哲生20機操練39期1944年06月19日
宮運 一20機甲4期1942年07月20日
杉尾茂雄20機乙5期
丹 幸久20機甲4期1942年04月07日
長野喜一19機操練56期1944年11月06日
岡野 博19機操練54期
羽藤一志19機乙9期1942年09月13日
川戸正治郎18機丙12期
谷水竹雄18機丙3期2008年03月12日
小町 定18機操練49期2012年07月15日
斎藤三朗18機操練44期
松場秋夫18機操練26期
中瀬正幸18機乙5期1942年02月09日
増山正男17機操練49期
大木芳男17機操練37期1943年06月16日
田中国義17機操練31期2011年05月25日
本田 稔17機甲5期
上平啓州17機甲1期
加藤邦逵16機丙10期
中谷芳市16機丙2期
渡辺秀夫16機丙2期2002年06月03日
甲木清美16機操練56期
松永英徳16機
志賀正美16機操練50期
中島文吉16機操練33期1943年10月06日
高塚寅一16機操練22期1942年09月13日
石原 進16機甲3期
宮野善次郎16機海兵65期1943年06月16日
中仮屋国盛16機乙8期
渋川 茂15機丙6期
仲道 渉15機丙4期
岡部健二15機操練38期
南 義美15機操練30期1944年11月25日
羽切松雄15機操練28期1997年01月15日
周防元成15機海兵62期
田中民穂15機乙11期
吉野 俐15機乙5期1942年06月09日
小八重幸太郎15機丙7期
尾関行治14機操練32期1944年10月15日
山崎市郎平14機操練54期1943年07月04日
谷口正夫14機操練51期
吉田綱素14機操練44期1942年08月07日
高橋健一14機乙13期
遠藤桝秋14機乙9期1943年06月07日
柴垣 博13機丙12期1944年01月22日
宮崎 勇13機丙2期2012年04月10日
大森茂高13機操練33期1942年10月26日
松村百人13機操練29期1944年10月25日
近藤政市13機操練27期2007年05月12日
山本 旭13機操練24期1944年11月24日
半田亘理13機操練19期
古賀清登13機操練16期1938年09月16日
黒岩利男13機操練13期1944年08月26日
酒井 等13機甲9期
前田英夫13機甲1期1944年02月17日
山下佐平13機乙5期1943年02月09日
角田和男13機乙5期2013年02月14日
宮崎儀太郎13機乙4期1942年06月01日
小泉藤一13機乙2期1944年01月27日
清水 清12機丙7期1944年01月26日
吉村啓作12機操練56期1942年10月25日
金丸健男12機操練44期
樫村寛一12機操練24期1943年03月06日
磯崎千利12機操練19期
佐々木原正夫12機甲4期2005年**月**日
山口定夫12機海兵67期1944年07月04日
小高登貫12機丙10期
市岡又夫11機丙12期1944年04月19日
関谷喜芳11機丙2期1944年06月24日
山本留蔵11機丙2期1944年06月24日
河西春男11機操練56期1942年05月02日
白浜芳次郎11機操練56期
山本一郎11機操練50期1944年06月19日
国分武一11機操練49期1942年09月02日
小平好直11機操練43期
安井孝三郎11機操練40期1944年06月19日
日高初男11機操練24期
輪島由雄11機操練18期1944年02月23日
山下小四郎11機操練17期1944年03月30日
福田澄夫11機海兵69期1944年10月24日
藤田怡与蔵11機海兵66期2006年12月01日
堀 光雄11機乙10期
大石芳男11機乙9期1945年05月04日
橋口嘉郎10機操練42期1944年10月25日
原田敏堯10機操練41期
北畑三郎10機操練21期1943年01月23日
吉田勝義10機甲6期
小林保平10機海兵67期1944年10月25日
重松康弘10機海兵66期1944年07月08日
上原定夫10機乙9期
石井 勇10機丙10期1945年05月11日
服部一夫10機丙10期1944年03月30日
黒沢清一10機丙3期1943年08月06日
阪野高雄10機操練53期1943年10月07日
阿武富太10機操練47期
田中二郎10機操練39期1942年12月10日
笠井智一10機甲10期
高橋 茂10機甲5期
長浜芳和10機甲2期1943年09月06日
相生高秀10機海兵59期
柴山積善10機乙13期
田中信策10機乙12期1944年09月12日
阿部健市10機乙9期
杉山輝雄10機乙7期1944年02月04日
坂野隆雄10機丙3期1944年06月24日
森 貢9機操練14期
吉沢徳重9機丙7期1945年01月09日
石田貞吾9機丙6期1945年04月16日
中村佳雄9機丙3期2012年**月**日
神田佐治9機丙2期1943年06月16日
本多敏秋9機操練49期1942年05月13日
山中忠男9機操練44期
森鳰英雄9機操練41期
原田 要9機操練35期
末田利行9機操練32期1943年10月06日
岡本重造9機操練31期1942年10月11日
鈴木清延9機操練28期1942年10月26日
福井義男9機操練26期
小田喜一9機操練18期1944年12月10日
望月 勇9機操練9期1944年02月06日
白川俊久9機甲6期1943年09月22日
松木 進9機甲4期1942年09月13日
和泉秀雄9機甲3期1942年04月30日
松田二郎9機甲1期
白根斐夫9機海兵64期1944年11月24日
東山市郎9機乙2期1944年07月08日
中沢政一8機丙4期1943年07月16日
工藤重敏8機操練53期
矢野 茂8機操練44期1942年04月17日
真柄侾一8機操練28期1942年09月13日
佐藤仁志8機操練26期1943年11月11日
小野 了8機操練23期
江馬友一8機操練22期1944年10月29日
重見勝馬8機操練20期1943年02月04日
後藤庫一8機甲6期1943年09月09日
鈴木 博8機甲5期1944年10月13日
岩城芳雄8機甲2期1942年08月24日
大野竹好8機海兵68期1943年06月30日
飯塚雅夫8機海兵66期1944年10月15日
兼子 正8機海兵60期1942年11月14日
南郷茂章8機海兵55期1938年07月18日
高岩 薫8機乙13期1944年02月10日
森浦東洋男8機乙9期1942年10月25日
村中一夫8機乙6期
徳地良尚8機乙6期1944年06月19日
遠藤幸男8機乙1期1945年01月14日
中川健二8機海兵67期1944年11月03日
柳谷謙治8機丙3期
虎熊 正7機操練20期1943年04月16日
蝶野仁郎7機操練15期1941年02月21日
菅原正夫7機乙15期
工藤 修7機乙2期1942年03月03日
中納勝次郎7機操練37期1945年05月04日
鴛淵 孝6機海兵68期1945年07月24日
横山 保6機海兵59期
倉本十三6機乙15期
宮部員規6機乙2期1943年11月03日
米川正吉6機操練56期
佐々木芳包6機甲1期1942年09月26日
志賀淑雄(四元)6機海兵62期2005年02月25日
黒鳥四郎6機
林 作次6機
中 芳光5機丙4期
島川正明5機操練53期
徳重宣男5機操練42期1942年08月17日
河村一郎5機操練41期
加藤勝衛5機甲9期1945年04月16日
香取頴男5機海兵70期
石川清治5機操練48期
柿本円次5機操練47期1942年08月27日
満田昌弘5機甲11期
辻野上豊光5機甲5期1943年07月01日
有田義助5機甲3期1942年05月01日
竹中義彦5機甲1期1944年06月19日
森岡 寛5機海兵70期
林 喜重5機海兵69期1945年04月21日



 以上は日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝日本海軍航空隊のエース1937‐1945 (オスプレイ・ミリタリー・シリーズ―世界の戦闘機エース)を元に加筆。



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日本海軍航空隊 撃墜王 渡辺秀夫

 自著は無いが有名な撃墜王であり、戦中派エースの代表的な存在である。総撃墜数はエース列伝によると16機、本人によると共同撃墜含め48機だそうだ(『零戦最後の証言 2』)。手記等の寄稿もあまり見られない。現在私が確認できるのは「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉『零戦最後の証言 2』のインタビューくらいであろうか。まずは渡辺秀夫飛曹長の経歴を簡単にみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年福島県の農家に生まれ、昭和12年海軍に入団、開戦直前の16年11月丙2期飛練を卒業、翌年3月千歳空に配属され内南洋の防空任務についたが、18年3月204空に転じ、ラバウル、ブインに進出、激烈なソロモンの空戦に参加した。

6月16日宮野飛行隊長が戦死したのちは、士官、准士官パイロットがほとんどいない状態になったので、弱冠23才の渡辺上飛曹が中隊長代理、ときには大隊長代理として204空戦闘隊を指揮した。

 8月26日午後、戦爆連合のブイン来襲を単機で迎撃して、B−24を1機撃墜した後グラマンF4F1機を撃墜した瞬間、後方より被弾右眼球貫通、前頭骨折の重傷を負ったが、海面直上で立て直し、やっと着陸したのち失神、そのまま入院した。

 この奮戦に対し、ラバウル海軍病院で草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後本土へ送還されたが、終戦まで再起できないままに終わった。撃墜数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 渡辺氏は丙種予科練2期。多くの撃墜王が排出したのと同時に多くが戦場で散って行ったクラスである。同期には宮崎勇等がいる。渡辺飛曹長は多くの撃墜王がそうであるようにラバウルに派遣された。そこで連日の空戦に参加することとなる。8月26日の空戦では負傷し、意識を失いながらも不屈の闘志をもって基地上空まで帰投した。この壮烈な戦闘と不屈の闘志に対し南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は”武功抜群”と墨書した軍刀一振を授与し、その栄誉をたたえられた。ここら辺の経過は「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉に詳しい。負傷後はさすがに戦闘機での出撃はなかったようだ。空輸部隊に配属されるがそこでも操縦桿を握ることはなく終戦を迎えた。戦後は村役場、市役所で定年まで勤め上げた。


 『零戦最後の証言 2』のインタビューにおいて戦争中のことをこのように語っている。

「海軍は自分が好きで行ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。昔の上官の恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人間にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。」
(『零戦最後の証言 2』より一部転載)

 と語っている。私の推測であるが、この「ああいう人間」とは坂井三郎氏のことを指しているのだろう。この記事を読んだ読者の多くは恐らくこの渡辺氏の意見を支持し坂井氏に対しては批判的になると思う。しかし悪口を言わない人、恨みを持たない人は見ていて気持ちがいいが同時に本来修正されなければならない問題点を見えなくしてしまうことがある。


 渡辺氏のような見方をする人がいるのと同時に坂井氏のように当時の軍隊内部の問題点を指摘するというのも重要なことだ。因みに渡辺氏に関しては『日本陸海軍航空英雄列伝』にも記事があるので詳しく知りたい方はこちらを見てみるのもいいと思う。

 

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日本海軍航空隊 撃墜王 加藤邦逵

 今日紹介するのは加藤邦逵。大正12年生まれというから太平洋戦争開戦時には18歳と相当若いのだ。この加藤邦逵で面白いのは撃墜スコア16機という多撃墜者でありながらラバウル航空戦を経験していないことだろう。同期で撃墜王となったのは撃墜12機、または共同撃墜105機と言われる小高登貫、石井勇、服部一夫等がいるが多くはラバウル航空戦で撃墜数を伸ばした。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
川戸正治郎に次いで海軍戦闘隊最年少のエースである。大正12年愛知県に生まれ、18年1月丙10期飛練を卒業し、大村空を経て5月海南島の254空へ配属された。未経験ではあったが射撃の名手で大村空時代に佐鎮管内で優勝したことがあった。初陣は同年夏で、飛行服なしに飛び上がって、来襲したP−38を撃墜した。

 18年末から西南支那を根拠とする米空軍の B−24、B−25、P−38、P−40混成編隊が、広東、香港、海南島へ頻繁に来襲するようになり、加藤飛行兵長は果敢な迎撃戦闘で254空のトップエースの座を占め、19年秋210空に転じ内地へ帰還するまでに、計9機を撃墜した。

 その後、明治基地にあって本土防空にあたり、とくに20年2月16日米機動部隊の本土初空襲では、浜松上空において単機で敵艦爆の10機編隊に突入し、3機を撃墜した。ついで国分基地に進出、数次の沖縄特攻作戦援護に参加した。飛行時間882時間、撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 加藤邦逵は丙種予科練を修了すると大村空、そして254空へ配属された。ここで254空について簡単にみてみよう。

第254航空隊
 昭和18年10月1日に新偏され、同時に海南警備府に所属、海南島三亜に進出して、海南島およびホンコン地区の防空および南支方面の海上交通路保護に当たることとなった。定数は艦戦24、艦攻4、輸送機1機で、司令には堀九郎大佐、飛行隊長には予備学生(早大卒)の水上機出身者松原勇大尉、先任分隊長には海兵69期の前田博中尉がそれぞれ任命されたが、練成を兼ねた部隊でもあり、熟練者は少なく、20歳前後で飛練課程終了直後の若年搭乗員が主力を占めた
(日本海軍戦闘機隊―戦歴と航空隊史話より一部転載)

 254空とは零戦好きでもあまり知られていない航空隊であるが三亜、香港というから現在でいうシーレーン防衛のための部隊だったようだ。これは航空隊の航空機定数を見ても艦攻4となっていることからも分る。防空だけでなく対潜防衛も重視された部隊なのだろう。


 新米であり当時でいう「若(ジャク)」であった加藤邦逵は一年程で9機を撃墜するというビックリ戦果を挙げてしまった。その後、本土防空戦でまた7機を撃墜して総撃墜数16機という記録を残し終戦を迎える。2015年現在、御存命であるかどうかは不明であるが、御健在であれば92歳である。



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日本海軍航空隊 撃墜王 中島文吉

 あまり有名なパイロットではないが16機撃墜したエースである。日本海軍ではパイロットになるための最短コースを歩んだ場合、最も若くて17歳でパイロットとなることができるようだ(誕生日の関係でもっと早い人もいるかも)。今日紹介する中島上飛曹もそんな最若年で搭乗員となったものの一人だ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正7年富山県に生まれ、警察官給仕から海軍に入団し、昭和11年9月33期操練を卒業して、17才で3等航空兵の最若年戦闘機操縦者となった。直ちに鹿屋空へ配属され、支那事変勃発とともに台湾へ進出し、防空任務にあたった。

 13年3月13空に、7月15空に転じたが、空戦の好機はえられなかった。16年9月3空に配属され、開戦とともに比島、蘭印を転戦、17年11月252空に転じてラバウルに進出し、翌年2月マーシャル群島に転進するまで3ヶ月にわたり、東部ニューギニア、ガダルカナル島航空戦に参加した。

 18年10月6日、米機動部隊が大挙ウェーク島に来襲したので、増援のため陸攻7機を同数の零戦(指揮官 塚本裕造大尉)が直衛してマロエラップから発進したが、ウェーク島付近まで飛んだ時、敵戦闘機群に奇襲された。乱戦の末5機は着陸したが、中島上飛曹をふくむ2機は行方不明となり、戦死と認定された。撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 中島上飛曹は操縦練習生33期の出身である。33期と言われてもピンと来ないかもしれないが、太平洋戦争前に十分な訓練を受け、太平洋戦争開戦時にはベテランだったクラスである。同じ操練出身の撃墜王岩本徹三が操練34期、坂井三郎が38期というからこの中島上飛曹は出身期でいえば両氏の先輩にあたる。


 しかし岩本、坂井が大正5年生まれなのに対してこの中島上飛曹は大正7年生まれ。2歳若いのだ。上記のように戦闘機搭乗員になったのは若干17歳というからすごい。開戦時に配属された部隊はあの赤松貞明などのエースを輩出した3空であった。この部隊は若手でも飛行時間が1000時間を超えていたという強烈な部隊であった。


 その後、252空に転じ、ラバウル航空戦に参加した。昭和18年10月ウェーク島上空で行方不明となる。252空の隊長、菅波政治大尉の戦死時には2番機を務め、単機、戦果の確認をしようとする菅波隊長に随伴しようとしたが菅波隊長に強く制止され断念したという。その中島上飛曹も10月6日、児島飛曹長の二番機としてウェーク島上空でF6Fと空戦、行方不明となり戦死と認定された。この空戦については宮崎勇『還って来た紫電改』に詳しい。



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日本海軍航空隊 撃墜王 宮野善治郎

 有名といえば有名。無名といえば無名とったところか。零戦のパイロットに多少でも興味がある人にとっては超有名だけど世間ではあまり知られていない搭乗員だろう。今回紹介する撃墜王は宮野善治郎大尉。撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官だ。今日は宮野善治郎大尉についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正6年大阪府に生まれ、昭和13年65期生として海兵を卒業、15年4月32期飛行学生教程を終わって、翌年12空に配属され、支那戦線に出動したが、空戦の機会はなく、16年10月大尉に進級して3空分隊長となり、12月8日開戦当日のルソン島進攻で初撃墜を記録した。

 ついで比島、蘭印を転戦したが、17年4月ミッドウェー進駐予定の6空分隊長に転じ、6月空母隼鷹に便乗して、ダッチハーバー攻撃に参加、帰還すると間もなくラバウルに進出、204空分隊長ついで飛行隊長として常に陣頭に立ち、1年近く奮戦した。

 人柄、技術ともに卓越した戦闘機隊指揮官として上下の信望を集める一方、日本海軍で初めての4機編隊採用、戦闘爆撃機用法の開発などの新機軸を開いた。18年6月16日ガダルカナル島ルンガ沖の船団攻撃にあたり、重鈍な艦爆隊を攻撃離脱後、収容する危険な任務を提案してみずからその任にあたり、敵戦闘機との乱戦中、行方不明となった。

 戦死後、全軍布告、2階級進級の栄誉を受け、海軍中佐に進級した。単独撃墜16機、部隊撃墜228機といわれている。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 度々書いているように零戦のエースには下士官が圧倒的に多い。80〜90%は下士官搭乗員ではないだろうか。これに対して欧米ではエースのほとんどは士官であるのだ。この違いは何かというとそもそもパイロットは士官という国もあれば、実戦で武勲を挙げることによって昇進するという場合もある。これに対して日本は士官でも下士官でもパイロットの道が開けており、日本の場合は多くが下士官パイロットであった。

 
 実戦では士官は指揮官として戦闘全般を指揮し、下士官兵はその指示に従って戦うというのが基本スタイルだった。そのため実際に敵機を撃墜するのは下士官兵パイロットが圧倒的に多くなるのだ。だからといって士官パイロットの腕が悪い訳ではない。要するに役割が違うのだ。


 この海軍航空隊の中で多撃墜スコアを持つこの宮野大尉というのは珍しい存在である。士官パイロットではあるが、海兵65期で日中戦争にも参加している。太平洋戦争開戦時にはベテラン士官であった。この海兵○○期というのは海軍兵学校卒業年次である。海軍の搭乗員をみる場合は基本的に67期が開戦直前(昭和16年10月とか)に実戦部隊に配属されたクラスということを覚えておくと戦記物を読む際は参考になると思う。


 当然、海軍兵学校の一期は一年なので、単純計算だと65期というのは67期の2年前に実戦部隊に配属されたことになる。宮野大尉の場合は昭和15年に初めて実戦部隊に配属されたようだ。日中戦争では空戦の機会はなかったものの、戦闘の空気には十分慣れたであろう。太平洋戦争開戦時には押しも押されぬ指揮官となっていたのだろう。


 この宮野大尉もまたラバウル航空戦に参加してその若い命を散らすことになる。私が読んだ戦記物には宮野大尉は度々登場するが本当に部下から愛されていたのが分る。本当に人望のある人物だったのだろう。


2015年2月22日追加

 エース列伝に記載されている宮野善治郎大尉の誕生日は大正6年生まれとなっているが、大正4年12月29日の誤り(写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ)。



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日本海軍航空隊 撃墜王 甲木清実

 今日、紹介するのは海軍航空隊のエースの中でも異色のエース、甲木清実飛曹長である。何が異色かというと、通常、海軍の撃墜王が登場する機体というのは大体、九六戦、零戦、紫電改等の陸上機なのであるが、この甲木飛曹長、何と水上機でエースになったのだ。

 そして甲木飛曹長は水上機でも零式観測機から二式水戦、強風から陸上機転換訓練を受け陸上戦闘機搭乗員として終戦を迎えた。さらに零式観測機でB17を単独撃墜、強風での初戦果等、異色の戦果を挙げた搭乗員でもある。今日はこの甲木飛曹長についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 甲木飛曹長は大正8年4月10日、福岡県生まれ昭和13年6月佐世保海兵団入団。昭和16年5月第54期操縦練習生を卒業、二座水上機の操縦員として鹿島、館山、博多航空隊勤務の後、水上機母艦千歳乗組となり開戦を迎えた。



1/700 ウォーターライン スーパーディテールシリーズ 日本海軍水上機母艦 千歳 SD



 昭和17年1月にオランダ軍第17観測飛行隊の飛行艇を撃墜して初戦果を挙げた。9月R方面部隊に編入されショートランド島に進出した。10月4日、輸送船団上空哨戒中来襲した第17爆撃隊所属B17Eの主翼を自身の零観の主翼で切断、ついで尾翼を切断して撃墜した。内地帰還後、横須賀航空隊にて水上戦闘機転換訓練を受ける。452空付となり北千島占守島に進出、防空任務にあたる。


 基地凍結により潜水艦で脱出、横須賀航空隊で水上戦闘機強風の錬成訓練の後、934空に着任する。昭和19年1月、B24を撃墜して強風での初戦果を挙げる。その後、零戦への転換教育を受け、381空に転じた。バリクパパン油田防空戦を始め迎撃戦を戦った。



1/72 二式水上戦闘機&強風 第934航空隊 コンボ(2機セット)



 昭和20年、本土に帰還、大村航空隊、332空、352空に所属、終戦まで防空任務についた。航空功科表には実戦適と記され、果敢な闘志と卓越した空戦技術を併せ持つ名手だった。総撃墜数16機、その内7機が水上機によるものだった。(以上『日本陸海軍航空英雄列伝』『日本海軍航空隊のエース』参照)



1/32 三菱 J2M5 局地戦闘機 雷電 33型



 以上が甲木飛曹長の経歴である。搭乗した航空機は零式観測機、二式水戦、強風、零戦、雷電と多彩だ。甲木飛曹長の経歴で特徴的なのはほとんどの撃墜スコアが大型機であるということだろう。ジェロニモの愛称で呼ばれた闘志あふれる搭乗員であった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 高塚寅一

 今日紹介するのは高塚寅一、操縦練習生出身の搭乗員で太平洋戦争開戦時には既に熟練搭乗員であった。生まれたのは大正3年と意外に若い。著名なエースである坂井三郎氏、岩本徹三氏、原田要氏などが大正5年生まれであることから考えると、太平洋戦争での著名なエースより若干若いだけだが操練22期ということから大先輩の古株搭乗員という印象が強い。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正3年静岡県に生まれ、昭和8年11月22期操練を卒業した老練操縦者で、支那事変では15年9月13日12空零戦隊の重慶攻撃に参加して3機を撃墜した。
16年10月飛曹長に進級して除隊したが、直ちに招集され、台南空に配属されて16年6月ラバウルに進出、地味ながら老練な空戦技術をもって戦果を重ねた。しかし9月13日ガダルカナル島上空の空戦で行方不明となり、戦死と認定された。総撃墜機数16機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 太平洋戦争で活躍したクラスは操縦練習生では30期台40期台がベテランとして君臨していた。高塚氏はそのベテランクラスよりもはるかに上の22期だったので年齢が高かったような印象を受けるのだろうか。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい話ではあるが。


 太平洋戦争では台南空に所属し、ラバウルに進出したが昭和18年の正月を迎えることは無かった。その間に記録されている撃墜数は16機とかなり多い。



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日本海軍航空隊 撃墜王 中谷芳市

 今日はあまり著名ではないエース、中谷芳市を紹介したい。生まれたのは大正10年というから太平洋戦争ではかなりの若手搭乗員と言っていい。出身は予科練丙飛2期である。丙飛とは操縦練習生の名称が変更されたもの。苛烈なラバウル航空戦を生き抜いた強者であり、終戦まで戦い抜いた数少ないパイロットだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年長崎県の農家に生まれ、自転車屋の店員から海軍に入団、整備兵から転じて昭和16年11月丙2期飛練を卒業、直ちに千歳空へ配属されて、開戦時は内南洋防空にあたっていた。17年2月1日、米機動部隊の来襲時、ルオットから離陸して艦爆1機を撃墜したのが初陣であった。8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に加入した。
12月201空に復帰してマーシャル群島防空にあたったが、翌年は春内地へ引きあげ、7月再びブインに進出、連日の激戦に活躍して生き残った。この間P−38の2機編隊を追いつめて空中衝突させたエピソードを残している。12月331空に転じてサバンに転進し、19年3月202空、ついで221空に転じて本土へ帰り、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。目立たないが着実、周到な性格で、撃墜機数は16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 太平洋戦争開戦時には千歳空に在隊していた。この千歳空には後のトップエース西沢広義も在籍しているなどのちのエースが何故か異常に多い部隊であった。中谷は西沢が台南空に異動した後も千歳空に残ったようでちょうど負傷した坂井三郎と入れ違いになる形で台南空に配属された。


 その後は局地戦闘機部隊331空、202空などを経て教員配置で終戦を迎えたようだ。総撃墜数は16機。



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日本海軍航空隊 撃墜王 岩本徹三

230px-Tetsuzo_Iwamoto 岩本徹三少尉は、私が撃墜王おたくになったきっかけの記念すべき人である。大言壮語型の人間で腕は超一流、日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。

 総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流のエースであることは間違いない。今日はこの岩本徹三少尉についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 大正5年島根県の農家に生まれ、益田農林学校卒業後、昭和9年6月呉海兵団に水兵と して入り、翌年整備兵に転じたが、11年12月第34期操縦練習生課程を卒業して、戦闘機パイロットとなった。13年2月、第12航空隊に配属され、2月25日の南昌攻撃の初陣で5機を葬ったのを手始めに、9月に本土へ帰還するまでに82回出撃して14機を撃墜し、支那事変における海軍戦闘機隊のトップエースとなった。

 太平洋戦争では空母瑞鶴に乗り組み、ハワイ、インド洋、サンゴ海各海戦に参加し、17年8月練習航空隊の教員に転じたが、18年3月新設の281空に移り、半年近くホロムシロ島で北辺の防備についた。11月派遣隊に加えられて15機の僚機と共にラバウルに進出、所属は204空、253空と移ったが、3ヵ月余の間ほとんど連日の迎撃戦に従事したが、6月本土へ帰還した。

 9月、253空の戦闘316飛行隊付となり、海軍少尉に進級、10月台湾沖航空戦に出撃して比島に進出したが、10月末本土に帰還し、20年春203空に転じて九州に前進、沖縄航空戦に参加して、終戦の日を迎えた。
第1線戦闘機操縦者としての戦歴は8年に近く、その空戦経歴の長さ、豊富さという点で他に比べうるエースは見当たらない。

 しかし太平洋戦争中の所属航空隊が、204空(1ヵ月間に不確実を含み計20機)をのぞき、個人撃墜記録を記載していないので、総撃墜数の算定は困難である。戦後病死した岩本は、未公刊の詳細な回想録で202機(うち142機はラバウルでの戦果)という驚異的数字を主張しているが、やや内輪に見て80機前後と判定するのが、妥当であろう。「虎徹」と自称し、侠客的肌合いを持った名手で、垂直降下一撃撃墜を特技とした。そのスコアは、あるいは西沢を上まわる日本のトップエースであったかも知れない。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で202機、日中戦争で14機となっている。しかしこの撃墜数は、編隊の戦果とする見解もあり、実際は、80機前後と推定されている(秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社 1975年)。

 しかしこの80機という数字もヘンリー境田氏が指摘するように根拠のある数字ではなく、研究者の想像に過ぎない(ヘンリー境田『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年)。さらに日中戦争の14機撃墜という数字についても異論が多いようだ(神立尚紀『零戦最後の証言』光人社 1999年)。

 このような議論が出る背景には、岩本氏の性格が関係しているようである。『零戦撃墜王』巻末にある岩本幸子氏による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本氏は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである。この性格の強さは、軍隊時代にも発揮されたようで、著書中でも、ラバウルトベラ基地に着任した際に、当時の岩本にしてみれば、三階級上の大尉を殴っており、さらに戦争末期に上官から特攻隊への志願の有無を問われた時もハッキリと「否」と言ったという(角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ)。

 当時としては相当な勇気が言ったであろう。ただ、その分大風呂敷だったようで、太平洋戦争エースで18機の撃墜スコアを持つ小町定氏も暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を言っている(川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー 2003年)。しかし言うだけのことはあり、空戦の腕は相当であったらしく、持論は、「空戦は追尾攻撃ではなく、一撃航過で撃墜する」(安部正治「私が見た二人の撃墜王」『丸12月号別冊 撃墜王と空戦』1993年)というものでドッグファイトはしないで、一撃して離脱する戦法であった。

 戦争末期に岩本徹三と同じ部隊に所属した当時予備学生だった土方敏夫氏は、岩本を「自身のライフジャケットに「天下の浪人虎徹」と書き、田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評している(土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』光人社 2004年)。当時若手搭乗員であった阿部三郎氏(海兵73期)もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述している(阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版 1990年)。

 岩本氏は、気が強い反面、部下達にはやさしかったようで、若手搭乗員には人気があったようだ(瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻 1996年 ※初出は、月刊『丸』1984年12月号)。
 このように撃墜数の真為はともかく、日中戦争から終戦まで8年間をほぼ第一線で過ごし生き残った稀有な搭乗員である。

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日本海軍航空隊 撃墜王 田中国義

 大正6年生まれで中国戦線以来の撃墜王である。中国戦線で13機を撃墜した。これは岩本徹三の14機に次いで多い。戦後は多くの雑誌等に寄稿しているため田中氏の名前を目にすることは多い。今日はこのエース田中国義についてみてみよう。まずはエース列伝から。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
支那事変有数の撃墜王として知られている。
大正6年佐賀県に生まれ、昭和9年海軍に入団、11年3月31期操練を卒業して大村空に配属されたが、支那事変の勃発により12年10月13空に転じ、上海に進出した。初空戦は樫村機の生還した12月9日の南昌攻撃時で、全弾を消費してカーチス・ホークとコルセア各1機を撃墜した。

 当時、戦闘機隊では、飛行機よりも搭乗員の数がはるかに多く、なかなか空戦の機会を得られなかったが、最若年の田中1空兵は戦運に恵まれ、最も多い6回の空戦に出撃して計12機を撃墜し、7月大村空に帰還した。その後、龍驤、鈴鹿空、鹿屋空を経て、16年10月1飛曹に進級して台南空に配属され、太平洋戦争に入った。

 12月8日のルソン島第1撃では、新郷飛行隊長の2番機として参加、P−40を1機共同で撃墜した。ついで蘭印に転戦んしたが、B−17攻撃に特技を示した。すなわち、17年1月24日午前バリクパパン上陸の船団上空を哨戒中、来襲したB−17の7機編隊を攻撃、被弾負傷したが、ひるまず数撃を加え、撃墜したB−17が列機と衝突して折り重なって墜落するのを確認した。

 また2月8日にはジャワ海上空で新郷大尉の指揮する零戦9機に加わって、東行するB−17(隊長ダフレーン少佐)の9機編隊を発見、左右に分かれて挟撃しつつ、3機ずつ順次に正面攻撃を加え、隊長機を含む2機を撃墜した。17年4月大分空教員に転じ、帰国したが、心臓弁膜症で戦場に出られず、筑波空、霞ヶ浦空の教官を経て終戦を迎えた。撃墜機数は17機(公認)
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 1937年10月、田中国義は13空付を命ぜられ初めての戦地へ行く。そこには黒岩利夫(13機撃墜)、赤松貞明(27機撃墜)等の古強者が多く、一緒に赴任した武藤金義、岩本徹三等は食卓番であったそうだ。岩本徹三の『零戦撃墜王』にも、

 「私たち三名、松村(百人?)、田中(国義)、それに私はおかん番である」(注はブログ著者)
 「商売繁盛の料理屋のコックよろしくいそがしい。酒も豊富だが、出ていくスピードも早い。」

 と食卓番時代のことを記している。それはそうと、田中は日中戦争で撃墜王となったのち、台南航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に活躍した。白眉なのはこの戦いにおいて難攻不落と言われるB17を2機同時撃墜したことであろう。その後も共同でB17を撃墜している。B17を大量に撃墜した田中は戦後、「B17撃墜に特技を発揮した」等、B17の撃墜が得意だったようなことを戦記物に書かれたことについて、


「あんなもの、得意なはずないですよ」


 と語っている。1942年教員配置についたが、心臓が悪かったためその後戦場へは出られなかった。撃墜数は17機とされているが、『零戦最後の証言』では個人撃墜14機、共同含め20数機としている。戦後は坂井三郎氏の紹介で会社経営を営む。2011年5月25日死去。雑誌『丸』等の寄稿に応じていたようで私が調べた限り、寄稿文には以下のものがある。


「特三物語」『零戦、かく戦えり!』文春ネスコ 2004年
『零戦最後の証言』光人社 1999年
「台南空のサムライ比島に突入せよ!」『伝承 零戦』第一巻 光人社 1996年
「私はこうして”空の要塞”を撃墜した」『伝承 零戦』第三巻 光人社 1996年
「初空戦など」『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会編 原書房 1987年 
「空の要塞を叩き落とした零戦の闘魂」『丸』エキストラ版29巻 潮書房 1973年



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日本海軍航空隊 撃墜王 伊藤 清

 伊藤清は大正10年生まれ、3空で活躍した多撃墜のエースである。撃墜数は23機に及ぶ。しかし私にとっては未知のエースであった。台南空の搭乗員達は坂井氏の著書で有名であったが、同時期に航空撃滅戦を行った3空には戦中の記録を公表した人が少なかったというのが理由なのかもしれない。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年新潟県に生まれ、開戦直前の昭和16年11月12期飛練を卒業し、直ちに3空へ配備され太平洋戦争を迎えたが、当時の3空は大多数が飛行時間1000時間以上のベテランぞろいで、緒戦期には空戦出場の機会がなく、17年4月4日ポート・ダーウィン攻撃の初陣で1機を撃墜し、その後8月まで数次のダーウィン攻撃に参加して目ざましく成長した。

 9月、相生大尉の指揮する3空主力が南東方面へ一時転用されたのに伴ってラバウルへ進出し、11月上旬南西方面に復帰するまで、ガ島、ニューギニアの激烈な航空戦に参加した。

 南西方面に復帰すると、18年早春から11月まで、アラフラ海の防空とダーウィン進攻作戦に当たり、満2年の連続した戦場生活で、参加した空戦30回、撃墜破30機(撃墜17、撃破13)に達し、特別表彰を受けた。内地帰還後は、大分空筑波空の教官をつとめ、終戦を迎えた。戦後、加藤を改姓した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)
 

 しかし1999年、神立尚紀のインタビューによって伊藤氏の活躍が世間に知られることとなった。その他搭乗員達へのインタビューをまとめたのが『零戦最後の証言』である。それはそうと神立氏の功績により伊藤清の詳細を知ることができた。その内容も踏まえつつエース伊藤についてみてみたい。まずはエース列伝の記事から。


 伊藤清は1939年6月1日機関兵として横須賀海兵団に入団。約1年半勤務したのち、1940年11月、丙飛二期として土浦海軍航空隊に入隊する。ここで航空兵としての道を歩み始める。その後、大分空で戦闘機専修教育を受け、1941年11月3空に配属される。エース列伝にもあるように3空は当時、ベテラン搭乗員がキラ星のようにおり、中々出撃させてもらえなかった。


 初撃墜は1941年4月4日ということになっているが、伊藤によるとそれ以前に輸送機を撃墜したのが初撃墜だという。ポートダーウィン攻撃には6回参加したという。1942年9月〜11月までラバウルに派遣される。その後、再び南西方面に戻った。数次のポートダーウィン攻撃で、北アフリカ戦線でドイツ空軍に恐れられたイギリス空軍の有名なエース、コールドウェル少佐(28.5機撃墜)率いるスピッツファイア隊と激突する。伊藤はこのスピッツファイア隊の印象をこう語っている。


 「ま、弱かったですね。」


 1943年11月、伊藤は本土に戻り教員配置に付く。その時、約二年間の戦地勤務での戦果を表彰されている。そこには撃墜破32機となっており、内訳は撃墜23機、地上撃破9機である。エース列伝に撃墜17機とあるのは誤りであるそうだ。


 その後は本土で教員配置に付き終戦を迎える。総撃墜数23機であった。戦後は婿養子となり姓が加藤と代わった。2012年7月4日死去。因みに『全機爆装して即時待機せよ』を上梓している加藤清氏は、全くの別人である。



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日本海軍航空隊 撃墜王 上平啓州

 大正9年生まれ、甲種予科練1期を修了、中国戦線を経験した搭乗員である。同期には前田英夫(13機撃墜)、松田二郎(9機撃墜)がいる。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年横浜市に生まれ、横浜2中を卒業して、昭和12年9月創設された甲飛1期予科練に応募して合格、14年6月卒業して大分空、大村空、横空を経て、15年8月12空に配属され、漢口基地に進出した。16年3月14日の成都攻撃で羽切1空曹の2番機として勇躍出撃し、一挙に4機(うち不確実1)を撃墜した。

 16年10月台南空に転じ、開戦当日のルソン島攻撃で1機を撃墜したのを始めとして、比島、蘭印航空戦を転戦したが、17年4月新設の6空に移り、ミッドウェー進駐予定部隊に加わり空母隼鷹に搭乗してアリューシャン作戦に参加した。

 7月大分空に移ったが、翌年4月飛曹長に進級、10月381空に転属してボルネオ、セレベス地区の防空に当り、B−24迎撃戦では3号爆弾を活用して戦果を上げ、とくに19年9月5日のメナド迎撃戦では、単機でP−38を2機、B−24を5機(うち不確実2)撃墜する偉功をあげた。のちに負傷して本土へ帰還し、特攻隊の教官で終戦を迎えた。

 5尺7寸、18貫の大男で、甲飛を代表する名手であった。昭和35年海上保安庁のヘリコプターを操縦中、函館で墜死した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


身長5尺7寸というからメートル法でいうと170僉8什澆任麓禊廓悗高いくらいだが当時としてはかなり大柄だっただろう。上平は中国戦線で初陣を経験した後、台南空に配属され、太平洋戦争開戦を迎える。その後、新設の6空に配属される。

 教員配置の後に局地戦闘機部隊の381空に配属、防空戦に活躍する。珍しくラバウル航空戦を経験していないエースだ。台南空に配属はされていたが、ラバウル進出前に6空(のちの204空)に引き抜かれる。6空がラバウルに進出する直前に教員配置となり、その後381空に転属するという見方によっては面白い経歴である。

 ただ、ラバウル航空戦に参加しなかったから楽だったという訳ではない。381空は油田地帯の防衛が任務であったため戦闘は激烈であっただろうと想像できる。特攻隊の教員として終戦を迎えた。



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日本海軍航空隊 撃墜王 増山正男

 大正10年生まれ、操練49期を修了したエースである。太平洋戦争を生き抜いたが、あまり雑誌等に寄稿していないためか謎の多い搭乗員である。同期には小町 定(18機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、本多敏秋(9機撃墜)等がいる。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年長崎県に生まれ、昭和15年6月49期操練を卒業、佐世保空、14空を経て開戦当初から3空に属し、12月8日のルソン島攻撃を手始めに、比島、蘭印を転戦後、チモール島に前進して、18年4月、航空技術廠実験部のテスト・パイロットで帰国するまで、ポートダーウィン進攻作戦に従事した。

この間、17年9月から11月まで榊原喜代二少佐、相生高秀大尉の指揮下にラバウルへ分遣され、数次のガダルカナル島航空戦にも加入した。総飛行時間1540時間、撃墜機数17機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 増山正男の経歴については入手できる資料はエース列伝位である。そこから増山正男の経歴を推測してみた。あくまでも推測なので間違いはあるかもしれない。

 1939年11月49期操縦練習生修了。1940年6月大分空で延長教育を受ける。1940年1月、佐世保空に配属。ここでも訓練に明け暮れたものと推測される。訓練は大村空と佐世保空で行われたようだ。小町定は大村空で訓練を受け、増山正男は国分武一と共に佐世保空で戦闘機専修教育を受けたと推測される。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 但し、佐世保空も大村基地を使用しているので、どちらも訓練場所は大村基地である。1940年10月14空に配属された。この時点で14空は北部仏印ハノイに拠点を置き援蒋ルート遮断を目的とした昆明攻撃を行っていた。

 1941年9月14空解隊と共に3空配属され、太平洋戦争開戦時は比島・蘭印航空撃滅戦に参加。チモール島に展開してポートダーウィン攻撃に参加した。1942年9月〜11月までラバウル派遣。1943年4月本土帰還。航空技術廠実験部のテストパイロットとなる。



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日本海軍航空隊 撃墜王 本田稔

 本田稔は、2015年現在、御存命の数少ないエースの一人だ。本田稔は大正12年生まれ、甲飛5期出身である。同期のエースとしては高橋茂(10機撃墜)、鈴木博(8機撃墜)がいる。1942年1月飛練卒業というから太平洋戦争開戦後の戦中派エースということになる。まずはエース列伝をみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正12年熊本県に生まれ、開戦後の17年1月甲5期飛練を卒業して22航戦司令部付戦闘機隊に配属されたが、南方作戦はすでに終わり、空戦の機会はなかった。

4月、鹿屋空戦闘機隊(のち253空と改称)に転じ、南西方面の各基地を転々したのち9月ラバウル(のちカビエン)に進出し、翌年5月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。19年4月戦闘407飛行隊に転じ、10月比島へ進出、帰国後343空戦闘407飛行隊付に移り、本土防空戦闘で活躍し、終戦を迎えた。現在はMU−2のテスト・パイロットである。撃墜機数17機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 本田稔少尉は1939年9月甲種5期生として予科練に入隊。1941年4月谷田部空で操縦訓練を受ける。この時本田を担当した教官はオール先任搭乗員と言われた菊池哲生上飛曹(20機以上撃墜)であった。その後、大分空で戦闘機専修の教育を受ける。そして22航戦司令部付戦闘機隊に配属される。


 エース列伝にはこの間空戦の機会は無かったとしているが、本田稔著『飛行機野郎』によるとこの時に初撃墜を果たしている。その後、1942年4月、253空に配属され、9月にはラバウル航空戦に参加する。その後1943年5月までラバウル航空戦を戦い抜いた。その間、13機を撃墜したという。


 本土に帰還し、横空でテストパイロット。1943年春、大分空の教員配となる。1944年4月361空戦闘407飛行隊付となり隊長林喜重大尉の下、鹿児島基地で部隊の錬成を行った。その後、戦闘407飛行隊は221空に所属することとなり、捷号作戦の後、343空に編入される。


 その後343空として本土防空戦に活躍するのだが、本田少尉はかなり厳く二番機が務まる者がいなかったようだ。その本田少尉の二番機を務めたのがトッカン兵曹こと小高登貫(12機撃墜、共同撃墜105機とも)であった。小高はラバウルで数多くの実戦を経験しており、本田少尉の二番機を見事にこなしたようだ(小高登貫『あゝ青春零戦隊』)。



1/32 川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改“後期型" (08236)


 本田少尉も小高のことは評価しており、後年インタビューで小高に触れ、

「彼とはラバウルで一緒でした。大変元気のある男で、操縦の腕前も素晴らしかったですね。とにかく私の列機を務めるのは難しかったはずですが、彼はよくやってくれました。とにかく私は正面攻撃をやるからついてくるのが難しかったんですよ・・・」(井上和彦『最後のゼロファイター 本田稔海軍少尉』

 と語っている。本田少尉自身も自分の列機につくことは難しいと理解していたようだ。その後、本田、小高共に343空で終戦を迎える。本田は戦後も飛行機に乗り続け総飛行時間は9800時間に達したという。最後に本田少尉のインタビューがNHKで無料公開されいるので是非観て欲しい。

NHK戦争証言アーカイブス



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日本海軍航空隊 撃墜王 斎藤三朗

 母艦戦闘機隊のエースとして著名である。大正6年生まれ。操練44期を修了した。初陣は中国戦線であった。その後1940年1月赤城乗組、1942年11月瑞鶴乗組、い号作戦、ろ号作戦共に参加する。さらに瑞鶴戦闘機隊としてラバウル航空戦に参加する。その後、各航空隊を転々としたのち252空に配属され、比島に進出。撃墜され不時着、救助されたのち本土に帰還した。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正6年山形県に生まれ、昭和9年海軍に入団、艦隊勤務についたが、14年1月44期操練を卒業して大分空、大村空で錬成教育を受けたのち、10月12空に配属され、漢口に進出したが、まもなく南支の圍州島基地に移り、相生大尉の分隊に属して12月30日および翌年1月10日の桂林攻撃に参加したのが初空戦であった。

 15年1月赤城乗組に転じ、ついで大分空、徳島空、築城空を経て、17年11月上飛曹進級と同時に瑞鶴乗組となり、18年1月末ガダルカナル島撤収作戦のためラバウルに進出した。2月1日瑞鶴戦闘機隊は、基地戦闘機隊と共に艦爆隊を直衛してツラギ沖の敵艦船を攻撃したが、この時の空戦でF4Fを共同撃墜して初戦果を飾った。

2月4日、7日も撤退船団の直衛に出撃して、それぞれ2機を撃墜した。ついで4月の「い」号作戦にも出動し、ガ島沖、オロ湾、モレスビー、ミルン湾攻撃に参加した。その後瑞鶴は本土へ一時帰投したが、7月トラック島に前進し、「ロ」号作戦のため11月1日飛行機隊をラバウルに派遣した。

 斎藤飛曹長は小隊長として2日、4日、8日、11日の迎撃戦および2日、3日のトロキナ岬攻撃に加わり、この間にP−38、F4U、B−25など8機(うち共同1)を撃墜した。こうして1週間の激戦で瑞鶴艦戦隊は7割以上の搭乗員を失い、13日トラックへ帰還したが、26日7機でルオット島に転進、12月3日タロア島に移動して防空任務につき、5日ルオットに帰投時、来襲した米艦載機と空戦、4機を撃墜したが、指揮官大山少尉以下4機を喪失した。

 翌日、中攻でトラックに引きあげ、徳島空に転任したが、7月戦闘317飛行隊付に転じ、茂原の252空に編入されたが、10月13日捷号作戦参加のため、笠ノ原、沖縄、台湾経由で比島に進出、24日の総攻撃に出撃したが、ルソン東方洋上で、米戦闘機と空戦、1機撃墜後被弾してラモン湾岸に不時着負傷した。

 そして陸軍警備隊に救助され、本土へ帰還したが、再起できないままに終戦を迎えた。飛行時間2118時間、撃墜機数は航空記録に確実18、共同および不確実6が記録されている。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)



 斎藤三朗が修了した操練44期には吉田綱素(14機撃墜)、金丸健男(12機撃墜)、山中忠男(9機撃墜)、矢野 茂(8機撃墜)等がいる。戦闘機専修者は17名でその内13名が戦死した。


 戦後は自身の経験を雑誌に度々寄稿している。「零戦白刃録」『太平洋戦争ドキュメンタリー 零戦虎徹』4巻がもっとも有名である。その他では「瑞鶴戦闘機隊」「台湾・比島沖」『艦隊航空隊』況稙編、「南溟の空に消えた瑞鶴零戦隊」『伝承零戦』第1巻等がある。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 総撃墜数は単独18機、共同6機である。艦隊戦闘機隊での経験が長いベテラン搭乗員であった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 大木芳男

 大正5年生まれ、岩本、坂井等と同年兵である。海兵団入団後はすぐに搭乗員とはならなかったようで操練37期を修了した後、戦闘機搭乗員となった。日中戦争にも参加し、1940年9月13日の零戦初空戦にも参加した。そこで4機を撃墜したのが初陣である。その後、台南空に配属されラバウル航空戦を戦った。台南空は再編成のため本土に帰還し、再進出の際も台南空隊員として参加している。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正5年茨城県に生まれ、昭和8年機関兵として海軍に入団したが、のち整備へ異に転じ、12年7月37期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。

15年7月横空から12空に転じ、9月13日の零戦隊の重慶空襲で、4機を撃墜したのが初陣であった。17年7月台南空に配属され、11月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加したが、11月に本土へ引きあげ、翌年5月、251空のラバウル再進出でソロモンの戦場に復帰したが、6月16日ルッセル島上空の空戦で戦死した。総撃墜機数は17機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 大木芳男の出身期である操練37期は5名の戦闘機専修者がおり、その内大木を含め4名が戦死している。大木と共に零戦初空戦に参加し、唯一太平洋戦争を戦い抜いた三上一禧も37期の出身である。余談ではあるが、この三上氏、戦後は岩手県陸前高田で教材販売会社を経営されていたようだ。


 2011年3月11日の東日本大震災で被災したが何と、2015年1月現在、御健在である。強運の持ち主である。それはそうと大木芳男、台南空時代には8機撃墜のエース、大野竹好中尉(海兵68期)と親しかったようで二人でウイスキーを飲みながら星座について語り合った様子が大野竹好の遺稿にある。1943年6月16日に大木芳男がルッセル島上空で戦死した際、大野はかなりのショックを受けたようだ。




1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 その大野もまた2週間後、レンドバ攻撃で戦死する。大野から見た大木芳男は「勇敢なること鬼神のごとく、温和なること菩薩のごとく、機敏なること隼のごとく、私のもっともよき話し相手であった」(大野竹好「碑銘よ白き積乱雲の峰をかざれ」『私はラバウルの撃墜王だった』)という。


 撃墜数はエース列伝では17機となっているが、ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』では18機となっている。



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