01_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

要約

 

 占守型海防艦とは日本海軍が主に北方での漁船の警備、救難のために建造した排水量860トンの小型艦艇である。北方での活動を想定していたため、船体は耐氷構造で、解氷装置、暖房等が充実していた。速度は19ノットと遅いもののディーゼル機関の採用により航続距離は長く燃費の良い艦であった。高性能であったが、武装は旧式駆逐艦から転用した12センチ平射砲、爆雷数も少なく、何よりも造船工数が多く、量産には不向きな艦であった。4隻中3隻が終戦を迎え、1隻が賠償艦としてソビエトに引き渡された。

 

占守型海防艦

 

02_国後
(画像は国後 wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。

 この流れが変わったのが1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結であった。この条約は列強各国の補助艦艇の建造を制限するためのもので、この条約の結果、それまでのワシントン海軍軍縮条約では対象外であった空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦に至るまで軍縮の対象となった。しかしこの条約では排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦は対象外とされた。つまりは無限に建造することが可能なのだ。

 

 

北方警備用艦艇

 では、この無制限の枠をどう使うのか。日本海軍が考えたのは、北方警備用艦艇の建造であった。当時の日本の国土は北は南樺太、占守島を北端とする千島列島が含まれており、この海域の豊富な漁業資源を求めて多くの日本漁船が操業していた。この日本漁船の警備や事故時の救助等をするために速度は遅くとも航続距離が長く耐氷性に優れた艦艇が必要とされていたが、日本海軍には適当な艦が存在しなかった。このため海軍は駆逐艦を派遣して代用としていたのだ。

 しかし駆逐艦とは本来艦隊戦闘を行うための艦種であり、速度は速く小回りが利くように設計されている。武装も魚雷を装備する等重武装であるが、こと漁船の警備、救助等にはオーバースペックであり、むしろ高速、重武装故の燃費の悪さや北方の極寒海域で活動するための専用装備を持っていない点がマイナスポイントであった。

 北方警備用の専用艦艇を開発することは上記の点からメリットがあったのは言うまでもないが、ロンドン海軍軍縮条約によって保有数が制限された駆逐艦を北方警備から本来の任務に戻すということも重要な目的であった。このため海軍はロンドン海軍軍縮条約が締結された翌年の1931年から北方警備用艦の建造を計画するが、予算不足のため実現するには至らなかった。

 

新型海防艦完成

03_八丈
(画像は八丈 wikipediaより転載)

 

 初めて建造計画が承認されたのが、1937年の第三次補充計画でこれにより警備用小型艦艇の建造が決定した。この小型艦艇は海防艦に類別され翌年の1938年に建造開始、のちに占守型海防艦と命名された。排水量は860トンであるが、計画の排水量は1200トンとされた。これは同計画で計画されていた戦艦大和を秘匿するためのもので大和の排水量65000トンを同計画で建造される様々な艦艇に割り振ったためである。

 前述のように北方警備を主目的に設計された艦であるため舷側は高く、船体は耐氷構造となっている。暖房設備は充実しており、艦内は露天甲板に出ることなく移動することが可能であった。当時の日本の艦艇の建造方針である個艦優越主義の下に設計された艦であるため艦自体のスペックは高かったが、大量生産向きではなく、造船工数は9万と後の丙型海防艦の4倍近い工数を必要とした。

 機関は燃費の良い22号10型ディーゼル機関を採用、2基2軸で出力4,050馬力、速力19.7ノットと駆逐艦の70%程度の速力しかないものの、航続距離は16ノットで8,000海里と同じ7弉茲之造された陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里よりも遥かに長大なものであった。搭載している燃料が占守型220トンに対して陽炎型622トンであることからも占守型の燃費の良さが良く分かる。因みにこの22号10型ディーゼル機関は飛行艇母艦秋津洲、潜水空母伊号13型等に採用されている。

 武装は主砲に三年式45口径12センチ単装平射砲3基を装備したが、これは予算の都合上、旧式駆逐艦の「おさがり」であった。大正3年に開発されたこの砲は手動式で射程距離15,000mであるが、仰角が+33°であり、航空機に対しては無力であった。占守型はのちにソナーやレーダーも追加で装備されていくが、この主砲が換装されることはなかった。北方警備が主目的ではあったが、掃海や艦船の護衛等も任務としているため、25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機1基、爆雷18個、掃海具を装備している。

 そしてこの占守型海防艦に対しては軍艦籍が与えられた。この「軍艦」とは日本海軍の軍制上の用語であり、一般に言う軍艦とは異なる。簡単に説明すると、日本海軍の艦艇には軍艦とそれ以外の艦艇があり、軍艦の方がランクは上であった。このため軍艦の艦首には菊の御紋と呼ばれる金色の菊のエンブレムが取り付けられた。軍艦籍を与えられている艦種は、主に戦艦、空母、巡洋艦等の大型艦艇であり、駆逐艦、潜水艦等には与えられていなかった。

 900トンに満たない占守型海防艦に対して軍艦籍を与えられた理由は、海防艦の主目的が北方海域で活動する日本漁船の警護や救難が任務であったからだ。これらの任務の遂行上、ソビエト連邦の艦船等とやり取りする必要性があることが想定されたため、通常の艦艇よりも上のランクの軍艦籍が与えられたのだった。

 

占守型海防艦の活躍

04_石垣
(画像は石垣 wikipediaより転載)

 

 同型艦は占守、国後、八丈、石垣の4隻で、1番艦占守が1938年11月に起工、続いて国後が1939年3月、八丈、石垣が同8月に起工している。2年弱の建造期間を経て1940年6月30日に占守が竣工、続いて国後が同年10月3日、4番艦石垣が1941年2月15日、遅れて3番艦八丈が同年3月31日に竣工している。

 1940年、6月30日、最初に竣工した1番艦占守は、舞鶴鎮守府に本籍を置き(つまり舞鶴が占守の母港)、第二遣支艦隊、南遣艦隊に配属され、主に南シナ海方面で作戦に当たった。1940年から1941年初頭に次々と竣工した占守型も全て本籍は舞鶴で、2番艦国後、4番艦石垣は竣工後すぐに大湊要港部部隊に編入、3番艦八丈は占守と共に第二遣支艦隊、南遣艦隊と異動したのち、1941年10月には国後、石垣と共に大湊要港部部隊に編入された。ここで占守以外の3艦は本来の目的である北方警備の任に就いた。

 太平洋戦争が始まると2番艦以降は引き続き北方警備の任に就き、1番艦占守のみは南方作戦に活躍した。1942年7月1日には、類別等級が改正、海防艦が軍艦籍から除籍され、ただの海防艦となった。1944年7月10日、4番艦石垣が米潜水艦により撃沈され北方警備の占守型は2隻のみとなったが、1945年1月には占守が大湊警備府に配属、再び姉妹艦3隻が北方の警備、救難等に活躍、終戦を迎えた。

 戦後は空襲で被弾した八丈はそのまま舞鶴で放置、1番艦占守、2番艦国後の2隻は復員船として復員業務に当たったが、国後は静岡県御前崎付近で座礁、そのまま放棄された。八丈は1948年に解体されたが、無事に生き残った占守は戦後に賠償艦としてソビエトに引き渡され、ソビエト太平洋艦隊に編入された。1953年には通報艦、1957年には工作艦に類別変更され運用されたのち1959年5月に退役、解体された。

 

まとめ

 

 戦前の個艦優越主義の下に設計された艦であったため大量生産には向かず、造船工数も丙型海防艦の24000に対して90000と圧倒的に多かった。そして主砲も平射砲で対空射撃は出来ず、爆雷も18個と貧弱であった。しかしこれらの装備は、平時の漁船警護、救難活動等を主な目的として想定していたためであり、個艦としては高性能な艦艇であった。幸運にも戦前に竣工した艦でありながら終戦時には4隻中3隻が残存していたという幸運な型でもあった。

 

 

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