01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

黒岩利雄空曹長の略歴

 

 1908年12月25日福岡県に生まれる。1926年海兵団に入団。1928年12月操練13期を卒業。1932年1月第1次上海事変の際、生田大尉の2番機として日本陸海軍初の敵機撃墜を達成した。1938年春12空に配属、中国戦線で13機の撃墜を報告した。1939年除隊して予備役入。その後、大日本航空に入社して航空輸送任務に就いたが、1944年8月26日マレー半島沖で行方不明となり、戦死と認定された。

 

黒岩空曹長と日本初の敵機撃墜

 

 黒岩空曹長は操練13期。同期の戦闘機専修者は5名(秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』では8名)である。本ブログで戦闘機専修者の同期の数を参考にしているのは主に『海軍戦闘機隊史』であるが、ここまで差が出るのは珍しい。『海軍戦闘機隊史』は名簿を製作する際、『日本海軍戦闘機隊』を参考にしているが、何等かの理由で3名を除いたようだ。理由は不明であるが、この時期は未だ専修機種がはっきりと分かれておらず、そこらへんに原因があるのかもしれない。

 この操練13期というクラスは1928年3月から飛行訓練を開始して12月に終了している。盧溝橋事件の9年前、太平洋戦争開戦の13年前というかなり古いクラスである。そのため多くの同期は太平洋戦争時には搭乗員としての「旬」を過ぎており、太平洋戦争で戦死したのは黒岩他1名のみである(ラバウル航空戦で戦死)。

 黒岩空曹長は操練13期を1928年12月に卒業、1932年1月に第一次上海事変が勃発した時には空母加賀戦闘機隊員として上海事変に出撃、2月22日には生田乃木次大尉の2番機として戦闘に参加(三番機も同期の武雄一夫一空兵)、三機の連携により、3番機が後上方から攻撃、2番機の黒岩一空兵は後下方から攻撃した。これらは有効弾とはならなかったが、これらの機動により動きを封じられた敵機は生田大尉の攻撃により撃墜された。これが日本陸海軍で初めての「敵機撃墜」であった。搭乗員は米国人の義勇飛行家ロバート・ショートで、彼が6機の日本機の中に単機で突入したのは避難民を満載した列車を日本軍の攻撃から守るためであったとも言われている。

 それはともかく日本初の敵機撃墜に協力した黒岩一空兵は、1938年春には12空に配属、わずか3ヶ月で13機の撃墜を報告した。これは日中戦争での日本海軍の撃墜数第2位であった(一位は岩本徹三三空曹の14機)。1939年、31歳の時に空曹長で除隊、予備役に入った後に大日本航空に入社した。この大日本航空とは1938年に設立された国営航空会社で1945年の終戦まで日本の航空業務を独占していた。

 黒岩操縦士は大日本航空でも航空輸送業務に就いていたが、1944年8月26日マレー半島方面で行方不明、戦死と認定された。総撃墜数は13機といわれており、そのすべてが日中戦争での戦果である。

 

黒岩利雄空曹長の関係書籍

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 操練9期の超ベテラン青木與氏、日本初の敵機撃墜の本人である生田乃木次氏へのインタビュー等の貴重な生の声を収録している。他にも鈴木實中佐、進藤三郎中佐、羽切松雄中尉、原田要中尉、角田和男少尉、岩井勉中尉、小町定飛曹長、大原亮治飛曹長等の海軍戦闘機搭乗員へのインタby-がある。本書でインタビューに答えている方々は現在では全て他界されているため証言は非常に貴重である。

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 神立尚紀氏による零戦搭乗員へのインタビュー集。志賀少佐を始め、中島三教、田中国義、黒澤丈夫、佐々木原正夫、宮崎勇、加藤清(旧姓伊藤)、中村佳雄、山田良市、松平精のインタビューを収録している。戦中の海軍戦闘機搭乗員の中でもベテランの部類に入る搭乗員の記録として非常に貴重である。

 

まとめ

 

 黒岩空曹長は豪放磊落な人柄だったようで、日中戦争当時、若手士官として赴任してきた志賀少佐に「童貞ですか」等と訊いて性教育までしてくれたようである。同期では岩城万蔵氏(最終階級不明)が唯一実戦部隊である飛鷹戦闘機隊隊員として1944年1月に末期のラバウル航空戦で戦死している。

 

 

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