01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

羽切松雄中尉の略歴

 

 1913年11月10日静岡県に生まれる。1932年横須賀海兵団に入団。1935年2月操練28期に採用された。8月に操練を卒業、館山空で戦闘機の延長教育を受けたのち、11月大湊空に配属、1937年10月には空母蒼龍に配属された。1938年5月には蒼龍飛行機体は中国大陸に進出、羽切三空曹は初めて実戦を経験する。1939年12月横空に異動、十二試艦戦の試験に参加。1940年8月には12空付となり、零戦隊初出撃に参加した。1941年7月筑波空教員として内地に帰還。1942年8月横空に再配属されるが、1943年7月には204空に配属、ソロモン方面に進出したが、9月24日のブイン上空の空戦で重傷を負い本土に帰還、横空に配属され、終戦まで試験と防空任務に活躍した。

 

新型機の実用試験と実戦に活躍した横空の主

 

 羽切松雄中尉は操練28期出身で同期の戦闘機専修者は14名であった。しかし戦闘機不要論の影響を受けて3名が陸攻に転科させられてしまったため11名が戦闘機に進んだ。太平洋戦争終戦を迎えれれたのは4名で、3名が事故死、3名がラバウル、不明が1名である。

 操練を卒業した羽切中尉は館山で戦闘機搭乗員としての延長教育を受けたのち、大湊空に配属された。この大湊空は耐雪、耐寒訓練を行う海軍唯一の航空隊で羽切中尉は各種試験に参加することとなった。1937年10月には空母蒼龍に配属、名指揮官で有名な横山保大尉の2番機となった。

 1938年5月には蒼龍戦闘機隊は南京に進出、羽切中尉は初めて実戦を経験する。約1年半の戦地勤務ののち1939年12月には内地に帰還、横空付となる。ここで羽切中尉は十二試艦戦の性能試験を担当することになる。この十二試艦戦とはのちの零戦である。1940年8月には12空に異動、再び戦地勤務となる。

 零戦と共に進出した羽切中尉は零戦と共に漢口に進出、8月19日の零戦初出撃に参加した。この羽切中尉の経歴の中で強烈なのが「敵飛行場強行着陸」である。これは10月4日に東山市郎空曹長、中瀬正幸一空曹、大石英男二空曹が行ったもので敵飛行場に強行着陸、直接放火しようというもので効果はほとんどなかったが、この敵中着陸は新聞で大きく報道されることとなった。

 その後も多くの空戦に参加した羽切中尉であったが、1941年7月、筑波空教員として内地に帰還した。1942年7月には飛曹長に昇進、准士官学生として准士官の基礎を学んだ後、8月には再び横空に配属された。ここで再び零戦や雷電等の各種実用実験に参加したが、零戦の荷重実験の際、8.6Gの重圧に耐えたのは脅威である。

 その羽切中尉1943年7月、204空付きを命じられラバウルに進出する。ここで羽切中尉は初めて太平洋戦争での実戦を経験する。この204空で2ヶ月間、中隊長として連日のように出撃、空戦に活躍したが、9月23日ブイン上空の空戦で右肩を被弾、重傷を負い内地に送還された。再起は不可能といわれたが、羽切中尉は驚異的な精神力でリハビリを実施、なんと半年で実戦部隊に復帰した。その後は横空で実用実験と防空任務にあたっていたが、1945年4月12日、B-29迎撃で右膝を負傷、療養中に終戦を迎えた。

 戦後は故郷の青年団長となり犯罪集団と化した青年団をまとめ上げた。これは戦場で死線を超えた羽切中尉にのみ出来た仕事であったといえる。それがきっかけとなり市議に当選、市議を4期務めた。1967年には自民党より立候補、静岡県議員となった。1983年には選挙で落選、以降は政治家を引退、1991年までトラック協会会長を務めた。前立腺がんにより1997年1月15日他界。総撃墜数は単独15機、協同撃墜10機といわれている。

 

羽切松雄中尉の関係書籍

 

大空の決戦―零戦搭乗員空戦録 (文春文庫)

羽切松雄 著
文藝春秋 (2000/12/1)

 零戦の実用実験から携わったベテラン搭乗員の羽切氏。零戦の初出撃にも参加、太平洋戦争では激戦地ラバウルで准士官でありながら中隊長として列機を率いて活躍した。本土防空戦でもB-29相手に激闘。敵飛行場強行着陸や8.6Gの重力に耐えた強心臓の持ち主。1997年に他界。

 

零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌

 海軍の戦闘機搭乗員へのインタビュー集。インタビュアーは神立尚紀氏。神立氏独自の人間関係から出来たといえる本でそれぞれの搭乗員の魅力をよく引き出している。登場する搭乗員は日本で初めて敵機撃墜を記録した生田乃木次、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男の各氏。

 

まとめ

 

 操練28期の戦闘機専修者11名の内、太平洋戦争開戦前に戦死した隊員は3名、1名は不明であるが、開戦後に戦死した隊員の内3名がソロモン方面での戦死であった。羽切中尉もソロモン方面で重傷を負っており、操練28期は太平洋戦争での戦死者がソロモン方面の3名のみであることからもソロモン方面の戦闘がどれほど過酷であったのかが分かるであろう。

 

 

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