01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

松村百人少尉の略歴

 

 1915年9月21日山口県に生まれる。1934年海軍に入隊。整備兵を経て航空兵となる。1935年11月29期操練卒業。日中戦争勃発と共に12空隊員として上海に進出。12月13空付。1938年3月12空付。1939年1月赤城乗組、ついで岩国空、大分空の教員を経て1942年7月6空に配属された。8月にラバウルに進出、1943年4月飛曹長進級、内地に帰還、岩国空、鈴鹿空、神ノ池空で教員配置。1944年8月、601空戦闘161飛行隊に異動。10月24、25日にはエンガノ沖海戦に参加、母艦が撃沈されたため不時着、駆逐艦初月に救助されるも初月が撃沈されてしまったため行方不明、戦死と認定された。

 

2度の母艦戦闘機隊勤務

 

 松村百人少尉は操練29期出身で太平洋戦争時にはベテラン中のベテランであった。操練は大雑把に書くと、太平洋戦争開戦時には30期が中堅、40期以降は若手と考えると分かりやすい。10期、20期台は超ベテランクラスで30期台の搭乗員の教員クラスである。松村少尉は20期の最後のクラスで太平洋戦争開戦時には中堅クラスと考えて良い。

 操練29期は11名で1935年5月から訓練が始まり、同年11月に修了している。日中戦争勃発時には技量、経験共に完全な状態であったといえる。一般には日中戦争の空戦は日本軍の一方的勝利と思われがちであるが、中華民国空軍の搭乗員の技量も決して低い訳ではなかった。現に操練29期は日中戦争において約半数の5名が戦死している。

 松村上飛曹は日中戦争勃発時から参加、日中戦争で不確実含め10機の撃墜を報告している。日中戦争の撃墜数のトップが岩本徹三上飛曹の14機なので撃墜数でいえばかなり上位であるが、撃墜数自体、誤認が非常に多いためあまり当てにはならない。ともかく手練れの搭乗員であったことは間違いないであろう。松村上飛曹は中国大陸に展開する12空、13空と渡り歩き、1939年1月には空母赤城戦闘機隊に配属された。

 太平洋戦争開戦は内地での教員勤務で迎えるが、1942年7月には6空に配属された。6空はミッドウェー島進出予定の航空隊であったが、ミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため内地での再編成の後、8月にはラバウルに進出した。以降、6空は後に204空と改称されてからもラバウル航空戦の中核となって戦い続けた部隊で1944年初頭までラバウルに展開、空戦に活躍した部隊である。

 松村上飛曹は米軍がガダルカナル島に上陸した8月にラバウルに進出して以降、ガダルカナル島進攻やブイン基地での迎撃戦等に活躍する。1943年4月には飛曹長昇進、内地での教員配置を命じられた。「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで7ヶ月以上戦い生き残ったというのは奇跡的である。内地に帰還した松村上飛曹は岩国空、鈴鹿空、神ノ池空と1年以上教員配置についていたが、1944年8月再び実戦部隊に配属された。配属された部隊は601空戦闘161飛行隊で隊長は海兵67期のベテラン士官小林保平大尉であった。601空には他にも後輩にあたる岩井勉中尉や中仮屋国盛少尉等のベテランも在籍していた。

 因みに母艦航空隊は一回母艦に乗った後、陸上航空隊に勤務した後に母艦に戻るという「出戻り」は基本的にほとんどないため非常に珍しい事例である。この時点での601空はマリアナ沖海戦で部隊がほぼ壊滅、再建中であったが、10月には捷号作戦の発動により出撃、24、25日のエンガノ岬沖海戦では、松村飛曹長は母艦の上空直掩に活躍するが、母艦瑞鶴が撃沈されてしまったため海面に不時着、駆逐艦初月に救助された。

 しかしこの初月も米艦隊に包囲され撃沈、同様に救助された小林保平大尉と共に行方不明、戦死と認定された。総撃墜数は13機といわれており、その内約半数は日中戦争での戦果である。歴戦の搭乗員であった松村飛曹長は航空戦ではなく救助された駆逐艦の撃沈で戦死するというその最期は、日本海軍のトップエースといわれた西澤廣義飛曹長の最期と被らなくもない。

 

まとめ

 

 操練29期は11名、日中戦争で5名が戦死、太平洋戦争でさらに4名が戦死した。終戦を迎えられたのは2名のみで日中戦争、太平洋戦争での搭乗員の犠牲がどれだけ激しかったのかが分かる。特徴的なのは半数が日中戦争で戦死していることである。日中戦争も決して楽な戦いではなかったのである。

 

 

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