01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

柴垣博飛長の略歴

 

 1924年12月9日新潟県に生まれる。1942年5月海兵団に入団。8月丙飛12期生として岩国空に入り、飛練28期を経て1943年7月卒業、同年秋201空に配属され、ラバウルに進出した。1944年1月204空に異動、1月22日に戦死する。

 

十分な訓練を受けられずに戦線に投入される搭乗員

 

 柴垣博飛長は、丙飛12期で同期には川戸正治郎上飛曹、市岡又男上飛曹等がいる。太平洋戦争開戦後に採用されたクラスで本当の「戦中派搭乗員」といえる。搭乗員育成はすでに大量育成となっており、戦前のように一人の教員が少数の訓練生を教える方式ではなくなっている。このため十分な訓練を受けられずに戦地に送られることとなり、多くの戦死者を出すこととなる。

 丙飛12期が訓練を修了した1943年秋の航空戦の主戦場はラバウルであったが、すでに日本軍は迎撃戦が主体となっており、勝敗ははっきりしていた。海軍の搭乗員から「搭乗員の墓場」といわれたソロモン・ラバウル航空戦の中でも特に激しい空戦が行われたのがこの時期のラバウル航空戦であった。柴垣飛長を含む丙飛12期の新人搭乗員はこの後期のラバウル航空戦に十分な訓練を受けることなく投入されたのであった。

 このような状況の中でも丙飛12期の若年搭乗員達は奮闘、市岡又男上飛曹や川戸正治郎上飛曹等は二桁に及ぶ撃墜戦果を報告するものもあった。むろん撃墜戦果はほとんどが誤認であり、実際の数は不明であるが、周りを納得させるだけの技量は身に付けていたのであろう。柴垣飛長も11月7日の空戦で初戦果を報告、1944年1月22日の空戦で戦死してしまうが、それまでに13機の撃墜を報告している。

 

柴垣博飛長の関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日米の戦闘報告書や当時の軍人の日記を丹念に読み込んで実際の空戦を再現する。読み物としては単調ではあるが、資料としては詳細で正確である。戦死、負傷、被弾した搭乗員の一覧表が巻末にまとめられているのも資料として使用するには非常に便利。値は張るが内容を考えれば格安といっていい。全3巻中3巻では1943年12月から1944年2月までのラバウル航空戦を描く。

 

まとめ

 

 後期のラバウル航空戦は特に凄惨であった。休暇は十分に与えられず搭乗員が一人また一人と戦死していく地獄の戦場であった。丙飛12期の隊員達はこのような中でも技量を磨いていった。しかし戦死した者も多く、海軍航空隊の主要部隊がラバウルを後退するまでの数ヶ月間に20名以上の隊員が戦死している。さらに丙飛12期の隊員達の試練は続き、むしろ主戦場がラバウルから中部太平洋に移ったのちに丙飛12期の隊員のほとんどは戦死していく。

 

 

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