01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

谷口正夫少尉の略歴

 

 1919年1月7日福岡県に生まれ、1936年海軍に入団。1940年7月51期操練を卒業、1941年4月赤城乗組で太平洋戦争開戦を迎えた。ハワイ、ダーウィン、コロンボ攻撃、ミッドウェー海戦後、翔鶴乗組に転じ、第2次ソロモン、南太平洋両海戦に参加した。11月大村空に異動、1943年7月新編の331空に異動、12月5日のカルカッタ攻撃に参加。12月201空に配属されてラバウルに進出。1944年1月末、トラック島に後退する。2月17日米艦載機のトラック空襲撃激戦、3月戦闘305飛行隊に異動、3月30日のペリリュー迎撃戦に参加、比島に転進、10月23日マニラ上空の空戦で重傷を負って本土へ送還されて終戦を迎えた。

 

1航艦を渡り歩いた男

 

 谷口正夫少尉は、操練51期出身で、同期の戦闘機専修者はわずか6名、翌期の52期に至っては戦闘機専修者ゼロと戦闘機無用論の影響なのかそれとも教育を50期と同時に開始したことが関係しているのか、戦闘機専修者が極端に少なくなっている。操練51期は訓練開始早々に1名を事故死で失い5名が卒業している。内2名が終戦まで生き残った。

 谷口少尉は実用機課程修了し、1941年4月には空母赤城乗組となった。この母艦搭乗員とは優秀者を中心に選抜されるものなので谷口少尉の操縦は一定以上に評価されていたのだろう。1941年12月空母赤城戦闘機隊員として太平洋戦争開戦を迎えた谷口少尉は、真珠湾攻撃、ポートダーウィン攻撃、コロンボ攻撃に参加、1942年4月9日のトリンコマリ攻撃では初撃墜を報告している。1942年6月のミッドウェー海戦では機動部隊の上空直掩に従事したが母艦赤城が撃沈されたため駆逐艦に救助されて本土に帰還している。

 1942年7月には空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳により新しく編成された第1航空戦隊に翔鶴戦闘機隊員として配属、8月の第二次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に参加した。11月には大村空教員として内地に帰還、しばらく教員配置に就くが、1943年7月には新たに編成された331空に配属された。この331空は艦戦と艦攻の混成部隊で戦闘機隊の隊長は台南空で有名を馳せた新郷英城少佐で、隊員には操練17期のベテラン赤松貞明中尉、岡野博飛曹長、中谷芳市飛曹長等が在籍している。

 この331空隊員として谷口少尉は8月にはスマトラ島北部のサバン島に進出、12月には海軍中攻隊、陸軍航空隊と共同でインドのカルカッタを空襲した。その後、谷口少尉はラバウルに展開する201空に異動、「搭乗員の墓場」といわれたラバウルに進出する。この時のラバウル航空戦はすでに末期の様相を呈しており、劣勢であった中、谷口少尉は連日の航空戦に健闘した。

 1944年1月、1ヶ月あまりの空戦の後、201空はサイパン島に後退、機材は全てラバウルに残してきたため内地で零戦23機を受領して2月11日には零戦がサイパンに到着した。谷口飛曹長は内8機を指揮、ラバウルへ先発するためにトラック島に進出したが、2月17日のトラック島空襲に遭遇、谷口飛曹長も果敢に迎撃戦を戦ったものの零戦全機を失った。

 3月4日の改編により201空戦闘305飛行隊に編成替えとなった谷口飛曹長を含む戦闘305飛行隊は、その後、グアム島を経てペリリュー島に移動したものの3月30日に米機動部隊の攻撃を受ける。谷口飛曹長も激撃したものの衆寡敵せず未帰還機9機、大破9機不時着2機と201空20機の全機が使用不能となってしまった。このため201空は再建のためダバオに後退した。

 5月中旬、内地から新たに春田虎二郎大尉率いる戦闘306飛行隊を迎え2個飛行隊編成となった201空はセブ島を拠点に迎撃戦を展開するが、谷口飛曹長は10月23日マニラ上空の空戦で被弾不時着し、重傷を負ったため本土へ送還されたのち療養中に終戦を迎えた。総撃墜機数は14機といわれているが実数は不明である。

 

まとめ

 

 谷口少尉は延長教育修了後、数ヶ月で第1航空戦隊所属の赤城の母艦搭乗員として選抜されている。当時の1航戦は各航戦の中でもトップクラスに熟練者の多い部隊であった。ここに選抜されていることからも谷口少尉の技量の評価が高かったことが窺える。母艦搭乗員を歴任、インド、南方と戦い抜いた谷口少尉は、負傷をしつつも終戦まで戦い抜いた。同期で終戦まで生き残った隊員は他に河野茂少尉のみで2005年に他界している。

 

 

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