01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

渋川茂飛曹長の略歴

 

 1923年8月12日大阪府生まれ。1940年海軍に入団。丙飛6期に採用され航空兵となる。1942年9月23期飛練を卒業。同年12月253空に配属。1943年はじめカビエンに進出。1943年5月サイパンに後退。9月上旬再度ラバウルに進出した。11月1日トロキナ岬艦船攻撃にて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。回復後、筑波空に配属され終戦を迎えた。

 

死亡率91%。壮絶な丙飛6期

 

 渋川飛曹長は丙飛6期出身、丙飛6期は1941年8月から訓練を開始、太平洋戦争開戦後の1942年9月に飛練を終えたクラスであった。大量育成であり、十分な訓練を受けたとは言い難いクラスではあったが、多くが「搭乗員の墓場」といわれた南東方面(ソロモン・ラバウル等)に送られた。丙飛6期の戦闘機専修者は66名で内、多くの隊員が1943年初頭頃から前線に出ていったが、1943年の1年間だけで38名が戦死しており、その内、判明しているだけで23名が南東方面である。

 1943年を生き抜いた28名も1944年の内に15名が戦死、1945年8月までに残った13名の内7名が戦死している。結局、終戦を無事に迎えることができたのは66名中わずか6名であった。戦死率91%、生存率はわずか9%という壮絶なクラスであった。

 渋川飛曹長も飛練修了数ヶ月後には南東方面に展開する253空に配属、1943年初頭にはニューアイルランド島北端のカビエンに進出、ソロモン・ニューギニア方面の航空戦に参加した。1943年5月には一時サイパンに後退、休養したのち、9月上旬には再度ラバウルに進出した。進出後も連日のように航空戦に参加したが、11月1日の第二次トロキナ岬艦船攻撃に艦爆7機の直掩として高沢謙吉中尉式の零戦42機(253空は13機)の一員として出動、後方から射たれて左手を負傷、病院船で本土へ帰還した。内地帰還後は筑波空で教員配置ののち終戦を迎えた。総撃墜数は15機といわれている。

 

まとめ

 

 丙飛6期の死亡率の高さは驚愕であるが、この時期の前後のクラスも同様の高い死亡率である。日本機、特に海軍機は防弾性能を軽視しており、さらには救助体制も連合軍程積極的ではないため、空戦で撃墜されると戦死してしまうことが多かった。さらに人材の不足から一度前線に出ると出ずっぱりとなることが多く、空戦経験が豊富になると今度は重宝されてしまい、結局「死ななきゃ内地には帰れない」状態となってしまった。このため育成に10年はかかると言われている貴重な搭乗員を多く失っていった。この中を渋川飛曹長は生き残り終戦を迎えることとなる。

 

 

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